ファチマの聖母マリア

預言と奇跡

The Fatima Crusader Issue 78, Autumn 2004

ジョン・ヴェナリによる講演の編集された書写

「ファチマのメッセージを信じ、それに従い、それを促進する義務」という主題について私はあなたたち皆が聴いたと私が考えている一つの欺瞞をお話ししたいと思います。それは、ファチマがおそらく単なる私的啓示に過ぎないという考えです。そしてそれが私的啓示であるがゆえに、それはそのとき信仰の遺産ではなく、それゆえあなたは受け入れてもよいし、あるいはうっちゃっておいてもよいという考えです。

しかし、ファチマは実際単なる私的啓示のカテゴリーとは異なったカテゴリーに入るものです。それは教会に対して一つの義務を課す公的預言的啓示のカテゴリーに入ります。数分のうちに、私は神学者ジョゼフ・ド・サント・マリー神父とルドルフ・グレイバー司教がこのことについて言わなければならなかったことを引用します。

ファチマを信じる理由 -- われわれが信頼性の動機と呼ぶことができるであろうもの -- は四つです。ファチマと共に、われわれは以下のものを持っています:

1)実現された真正の預言;
2)奇跡、すなわち、ただ神のみがなすことがお出来になる事柄をなすこと;
3)100% カトリック的な、そして私は付け加えたいと思いますが、エキュメニカルでない、教義;
4)教会による公式の承認。

奇跡と預言とは、あなたたちが知っておられるように、ただ神だけがすることがお出来になる事柄です。われわれはこのことを福音書においてわれらの主と共に見ます。われらの主御自身預言されました。われらの主が地の面に来られたとき、主は誰をも不意打ちにしませんでした。当時のユダヤ人たちは「彼はあの人なのか?」-- 換言すれば、彼は預言に適合している者か? -- と問うていました。

われらの主がどこにお生まれになるかは、預言されていました;彼がおとめから生まれるであろうという事実は預言されていました;彼が持つことになるであろう敵どもの種類は預言されていました;彼の死において、彼の骨のどれ一つ砕かれないであろうという事実でさえ預言されていました。

実際、シーン司教は、われらの主の死に関する諸々の預言は旧約聖書イザヤ書において非常に正確なので、人はそれらが十字架刑の後に書かれたと考えたであろう、と言われました。

われらの主はまた諸々の奇跡を働かれました。彼は、彼が自分であると言った者であることを証明するために、そして彼が言ったことの真理を証明するために、ただ神だけがすることがお出来になることをされました。

われわれは、聖書の中の生まれつきの麻痺した身体を持った人の話を知っています。彼はわれらの主のもとに連れて来られました。われらの主が最初になさったことは彼に「あなたの罪は赦された」と言うことでした。

その時ユダヤ人たちはこのことに憤慨しました。そしてただ神だけが罪を赦すことができると言いました。それゆえ何が起こるのでしょうか? そしてわれらの主は彼らに向き直り、こう尋ねられました:「どちらが容易いであろうか、この人に向かって『あなたは罪は赦された』と言うことか、それとも生まれつき麻痺した身体を持つこの人に『起き上がって家に歩いて帰りなさい』と言うことか?」

それからわれらの主は関連づけをなさいました。「人の子が罪を赦す権能を持っているということをあなたが知るように、私はあなたに言う。起き上がって、家に帰りなさい。」そしてその人は立ち上がり、家に帰りました。それはあたかも主がこう言っておられるかのようです。「あなたたちはこの男の罪が赦されるのを目で見ることができない。それゆえ、私はあなたが見ることができないある事柄を具体的に示すためにあなたが見ることができるある事柄を行うであろう。」

ところで、われわれは似た事柄をファチマの聖母の場合にも見ます。われわれは聖母が子どもたちに御出現になっていることをませんでした。その時ファチマにいた人々は聖母をませんでした。しかし聖母は、彼らが見ることができなかったことを具体的に示すためにあることを行われました。聖母は太陽の奇跡を働かれました。それは1917年10月13日に行われ、7万人の人々によって目撃されました。

ところで、10月13日にそこに7万人の人々がいた理由は -- 人々が他の人々にその出来事について告げたと、グルーナー神父が説明している理由と並んで -- 太陽の奇跡がそれ自体預言の一部であったからです。これはわれわれがファチマと共に見ていることです:すなわち、真正の預言と真正の奇跡です。

7月13日に、聖母は「10月に私はすべての人が信じるように、一つの奇跡を行います」と言われました。8月に、聖母は同じことを言われました:「私は一つの奇跡を行います。」9月に聖母は再び言われました。これは3度目です。「来月、10月にすべての人々が信じるように、私は一つの奇跡を行います。」

そして10月13日に、太陽の奇跡が7万人の人々の前で起こりました。もともとはその出来事を笑い、嘲るために出かけて行った反カトリック的な新聞記者たちはその奇跡を見ました。そして彼らが見たことを報道しなければなりませんでした。

ところで、実現されたファチマの多くの預言がありました。第一は、私がすでに論じた太陽の奇跡です。

聖母はまた7月13日にこう予言されました。「私は間もなくヤシンタとフランシスコを天国へ連れて行きます。」この二人は完全に健康な年少の子どもたちでした。しかし聖母は彼らが間もなく死ぬでしょうと言われたのです。1919年4月4日に幼いフランシスコが死に、1920年2月20日にヤシンタが死んだとき、その預言は成就したのです。

実際、ヤシンタの死の細かな点さえ預言されていました。すなわち、彼女は独りで病院で秘蹟を受けずに死ぬであろう、と。それはすべて預言されていました。これらの未来の出来事が工作され得るいかなる方法もありません。特にヤシンタ自身が、彼女が死ぬ前の晩に、司祭が秘蹟を授けに来てくれるよう懇願していたのですから。その司祭は翌朝まで待つことができるだろうと考えていました。しかし司祭が到着する前に彼女は死んだのです。再び、一つの預言とその成就です。

聖母は1917年7月13日に、「戦争は間もなく終わります」と予言されました。これは1年4ヶ月後、1918年11月11日、に成就されました。

聖母は、「もし人々が神に背くことを止めないならば、もっと恐ろしい戦争がピオ十一世の在位期間の間に勃発するでしょう」と予言されました。それは、1930年代におけるヨーロッパにおけるヒットラーの侵略 -- それはピオ十一世の在位の下で起こりました -- によって成就しました。ベネディクト十五世はファチマでの出来事のあった間の教皇でした。子どもたちが次の教皇の名前を知ることができる方法はありませんでした。確かにわれわれは次期教皇の名前を知りません。

それゆえ、われわれはファチマに対する信頼性の動機を見るのです:すなわち、預言と奇跡です。

第三に、ファチマは100%カトリック的です。聖母はロザリオを強調されました。聖母は茶色のスカプラリオを強調されました。聖母は御聖体を強調されました。ファチマの天使はイエズス・キリストの身体、血、霊魂と神性としての御聖体を強調しました。聖母は告解を強調されました。聖母は今や攻撃に曝されている天国、地獄、煉獄を強調されました。聖母はそれらを1917年に強調されたのです。

そしてファチマはまた、現代のエキュメニカルな精神とは対照的にこの仕方で興味深いものです。現代のエキュメニカルな精神は、非カトリック者に対するわれわれの交際関係に関する限りでは、われわれはわれわれを結びつける事柄を強調すべきであって、われわれを分かつ事柄を強調すべきではないと言います。これは、「われわれを結びつけるものはわれわれを分かつものよりも偉大である」という通俗的な嘘に基づいています。

そうです、われわれはこれが、聖母がファチマで取られたアプローチではないということを見ることができます。なぜなら、ロザリオを強調することによって、御聖体を強調することによって、秘蹟としての告解を強調することによって、煉獄を強調することによって、聖母はまさにわれわれを非カトリック者から分かつ事柄、そして地の面におけるあらゆる他の宗教からわれわれを分かつ事柄を強調なさっていたのです。聖母はエキュメニカルな方ではありませんでした。聖母はカトリック的な方でした。

そしてここに、ファチマ・メッセージを信じるわれわれの義務に関するもう一つの点があります。そしてこれはわれわれにとって十分な理由でしょう。もしわれわれが聖母のメッセージを信じないならば、そしてもしわれわれがそれを心に留めないならば、そのとき聖母は悲しまれるでしょう。われわれはこのことを、1957年12月26日フエンテス神父がシスター・ルチアに対して行ったインタビューから知っています。

シスター・ルチアはこう言いました:「神父様、いとも聖なるおとめは非常に悲しんでおられます。なぜなら、善人も、悪人も、誰も聖母のメッセージに注意を払わなかったからです。善人は彼らの道を続けています。しかし聖母のメッセージには何らの重要性も与えないで、です。悪人は、彼らの上に実際に落ちかかっている神の懲罰を見ないで、メッセージについて配慮することなく彼らの罪の生活を続けています。しかし、私を信じてください、神父様、神は世界に懲罰を与えようとなさっています。そしてそれは恐ろしい仕方で起こるでしょう。天の懲罰は差し迫っています。」

そして次に、ここに私が公会議後の一種の預言として見ているものがあります:

第二バチカン公会議の5年前、1957年に、シスター・ルチアはこう言いました:「神父様、悪魔は、神に最も背くことが何であるか、そして短期間に最大多数の霊魂たちを彼のために獲得するものがどれであるかを知っていますので、祝せられたおとめマリアとの決定的な戦闘にまさに突入しようとしています。このようにして悪魔は神に奉献された霊魂たちを征服するためにあらゆることをします。なぜなら、このようにして悪魔は指導者たちによって見捨てられた信徒たちの霊魂を離れさせ、それによってより容易に彼らを捕らえることに成功するからです。」

ところで、1957年にこれを読んだわれわれは誰でも、おそらく「奉献された霊魂たちを神から引き離す」ことは奉献された霊魂たちが修道生活や司祭職を離れることだと考えたでしょう。その通り、第二バチカン公会議の「新しい春」の後、これはまさに起こったことです。しかしそこにはまた考察すべきもう一つの要素があります。第二バチカン公会議以来、われわれは単に、奉献された霊魂たちによる司祭職の実際の離脱、修道生活の実際の離脱を経験しているだけではありません。われわれはまた、現実には教会を離れなかったが、しかし彼らの精神において信仰を離れた、多くの司祭たち、多くの修道者たち、多くの高位聖職者たちをも持っているのです。しかも彼らはあたかも彼らがカトリシズムを教えているかのように今なお行動しています。このように、悪魔がもっと容易に信徒を捕らえるように、信徒が「彼らの指導者たちによって見捨てられる」という預言が成就されるのです。

そしてこのインタビューの10年後 -- 1960年代の終わりに -- シスター・ルチアは上層の位階の「悪魔的な方向感覚喪失」について警告しました。この悪魔的な方向感覚喪失はわれわれが今直面していることです。

では、私の短い話の終りに、カルメル会の神学者ジョゼフ・ド・サント・マリー神父を引用しましょう。彼は10年間ローマで神学を教えました。1982年に公表されたある論考の中でド・サント・マリー神父神父はこう言いました。「ひとたび教皇が、ある所与の預言が実際神からのものであると判断し、認めたならば、そのとき彼は、預言者に従うこととしてではなく、神に従うこととして、従わなければならない」と。

これは一つの重要な点です。なぜなら、シスター・ルチアはロシアを奉献するように教皇に命令することはできない、教皇はシスター・ルチアに従う必要はない、と言ってファチマを見くびる人々がいるからです。これは誤っています。なぜなら、ド・サント・マリー神父が指摘しているように、ひとたび教皇が、メッセージは神から来ていると決定したならば、そのとき教皇自身従う義務を負っているからです。

次に、『アタナシウスとわれわれの時代の教会』という書物の著者、ルドルフ・グレイバー司教がいます。彼はまた『ファチマ・ジャーナル』の共同編集者でした。そして1950年代の終わりにある講演をしましたが、その中でこう言いました。「個人的啓示とそこでメッセージが一般に人類のためのものであると宣言されている啓示との間に一つの慎重な区別がなされるべきです。前者は冷静に無視することができます。しかし後者は重大なものとして考えられなければなりません。そしてファチマはこの(後者の)カテゴリーに属します。」

それゆえ、ファチマはわれわれが受け入れることもあるいは退けることも自由である単なる私的な啓示ではないのです。それは、もし教皇と司教たちが間に合うように、マリアの汚れなき御心にロシアを奉献しないならば、「さまざまの民族が絶滅させられるでしょう」ということが今なお目立っている一つの預言を持った公的、預言的な啓示なのです。

2005/03/17 三上 茂 試訳

作成日:2005/03/17

最終更新日:2005/03/27

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