ファチマの聖母マリア

預言と罰

The Fatima Crusader Issue 78, Autumn 2004

ゲリー・マタティックスによる講演の編集された書写

私の10分間[の話]の中で、私の前に話されたすべての話者によってすでに取り上げられた主題、特に預言と罰の主題の間の小さな諸点を、聖書的に言って、つなげたいと思います。

クリス・フェララが言及したように、彼の腕が次の週に折られ、彼の脚が2週間後に折られる一人の男を想像してください。

自然的な問題

私はある病院について聞いたのですが、そこの集中治療室には一台の特別ベッドありました。そしてそのベッドに割り当てられたどの患者も彼らの医学的条件にもかかわらず、彼らがガンであろうとあるいは心臓の状態であろうとあるいは何に罹っていようと関係なしに、常に日曜日の午前11時に亡くなったのです。

このことはすべての医者を非常に手こずらせました。そして彼らのうちのある者は何か超自然的なことが関係しているのではないかとさえ考えました。そして誰一人、この特別のベッドで日曜日の11時頃になぜ人が死ぬのかについてその謎を解くことができませんでした。

それで、世界中の専門家チームがその出来事の原因を探求するために集められました。そして次の日曜日の朝、11時少し前にすべての医師、科学者そして超常現象研究者たちが彼ら自身で、この一連の災厄の根源にあった、この恐るべき現象が何であるかを見るためにその病室の外でいらいらして待っていました。

彼らのうちのある者は十字架を、ある者は聖水を、ある者は聖遺物、祈祷書や他の聖なる物を、関係している何らかの悪霊を近づかせないために、手に持っていました。そしてちょうど時計が11時が打ったとき、毎週日曜日に働くために病院保管業務によってパート・タイムで雇われた雑役夫、グーパー・クルツマンが手中治療室に入り、自分の真空掃除機をコンセントに差し込むために生命維持装置のコンセントを引き抜きました。

われわれの問題は超自然的な問題である

われわれは、今日正確にその反対の状況を持っています。なぜなら、われわれが持っているもの、われわれがここでこの会議において焦点を当てなければならないのは、それに対して人々が自然的な解決を探している一つの超自然的な問題だからです。それは正反対のものです。

超自然的な問題は、聖母がかなえられていない -- 頑強に、罪深く、かなえられていない -- 命令をなさったからです。 -- そして人々は世界の諸々の災難を癒すための何らかの自然的な解決を見つけるために駆けまわり、あちこち掻きまわしています。

これは自然主義の誤謬です。それは、明らかに実際われわれの指導者たちのすべてを含むカトリック教徒が -- すべての人々の中でカトリック教徒が -- 現在陥ってしまった誤謬です。ところで、自然主義の誤謬について、そして自然主義(すべての事柄は自然的なレベルで解決され得るという考え)を促進している組織化された勢力について、私は、ここにおられる話者たちが皆推薦されるであろうと知っている書物、そして私以前の人々の話の中で推薦された書物、を強く推薦します。それらはデニス・ファヘイ神父の著作です。

聖ペトロの座の最近の占有者たち[諸教皇のこと]が国連について平和のための世界の最後の希望として語ることができるとき、われわれは自然主義が教会の諸々の構造に対して勝利を収めたということを知るのです -- 教会に対して勝利を収めたのではなく、神の 恩寵によってわれわれの父祖の信仰、そして古典的なカトリックの諸信念をしっかりと護っている戦闘隊形を固めた残りの者たちに対してではなくて、教会の諸々の構造に対して、われわれがこれを自然的な手段によって、見かけ上自然的な手段によって解決できるというこの誤謬の勝利があったのです。

そして、自然主義のこの誤謬に関して、旧約聖書のイスラエルの民は一つの古典的な例です。だからこそ、私は -- ファヘイ神父が引き出しているように、彼らの最近の時代の諸々の災難との間に一つの関係があると考えるのです。

旧約聖書はこの語調で終えています。私はあなたたちの前にこのことを提出したいと思います。そしてこの節についてあなたたちに考えていただきたいと思います -- 旧約聖書において預言した最後の預言者は預言者マラキあるいはマラキアスです。そして彼の書の最後の節において、最後の三つの句は次の通りです。これは聖霊に満たされて語り、神から預言するマラキです。そして彼はこう言っています:「私のしもべ(これはマラキを通して神が語っておられる)、モーゼの律法を思い出せ。私は、ホレブの上で、全イスラエルのために、法と定めを下した。見よ、主の日、その偉大な恐ろしい日がくる前に、私は、預言者エリアを送る。彼は、父の心を子のほうに向け、子の心を父のほうに向け直す、それは私がくるとき、地(あるいは地球)がのろいで打たれないようにするためである。」 ヘブライ語の言葉は地域的に、あるいは世界的に、いずれの仕方でも、「地」あるいは「地球をのろいで」でと、訳すことができます。

それらは、新らしい契約である聖書が開始し、福音が始まるときに、古い契約の民の耳に響いている言葉です。そしてこれはわれわれにとっても重要な句です。われわれはわれらの主の第二の来臨の境界に立っていると私は考えているからです。

律法と預言者たち

なぜそうなのかを説明させてください。聖書においては律法と預言者たちとの間には一つの密接な結合があります。だからこそ、「律法と預言者たち」という句は神の古い契約の啓示の全体的範囲を要約しているのです。神はわれわれに律法をお与えになります。そしてその律法の中に神はいくつかの結果を組み入れられます:すなわち、律法の順守に対してはわれわれが祝福と呼ぶ肯定的な諸結果を、もしわれわれが神の律法に従わないならば、もしわれわれが神の契約を侵害するならば、そのときには否定的な諸結果を組み入れられるのです。

あなたたち自身の[持っておられる]レビ記第26章と申命記第28章とを読んでください。それらはこれらの祝福と呪いの二つの古典的なカタログです。そしてそれゆえに、神がわれわれに律法をお与えになるとき、神はわれわれがその律法から迷い出始めるとき、われわれが契約を破り始めるときに預言者たちを送られるのです。

神は、われわれに律法について思い起こさせるため、御自分の律法を再度強化するためにその預言者たちを送られます。実際は御自分の契約を強化なさるためです。聖書における預言者たちは、まず第一番に、未来の予告者ではありません。彼らはそれなのですが、しかし彼らは暴動の行為を読み、われわれに神の契約の諸々の箇条を思い起こさせるための神の訴追の法定代理人なのです。そして神はあらゆる種類の預言者たちをお送りになります。旧約聖書におけるモーゼ以後の典型的な預言者はエリアス(エリヤ)です。そしてソロモンが死んだ後、彼らが離れて行ったとき、神は彼をイスラエルの最も僻遠の地域、北部十部族へ遣わされました。ロボアムは南部王国において非常に愚かなあることをしました。そしてイェロボアムは北部諸部族を不貞行為へと導きました。

約束され送られた懲罰

それゆえ、神は彼らにエリアスを送られます。そしてエリアスは彼らに、彼らが破っているモーゼの律法を思い起こさせます。そして彼らは彼に耳を傾けません。そして遂に彼らは、西暦前722年にアッシリア人たちによって滅ぼされ、分散させられました。

神は彼らに嵐を送られました。神は彼らに地震を送られました。神は彼らに飢饉を送られました。神は彼らに侵略軍を送られました。神は、モーゼの律法の中で、諸法令の中で、モーゼ五書の中で、それよりも数世紀も前に予告された呪いのこれらのカタログの中で、彼らに送ると約束なさったあらゆる事柄を送られました。-- しかし彼らは耳を傾けなかったのです。神はそれらの事柄を彼らの頭上にたくさんお与えになります。今ここで、この節において、神はユダヤ人たちに、彼らがバビロニア追放から帰って来たときに、ここマラキアの書において、神は彼らの曲がった心を再び彼らの父祖へと立ち戻らせるためにエリアスのような一人の預言者を彼らに送る、あるいは神は彼らの土地を呪いで打つであろうと言われるのです。そして主の第一の来臨の前に神の命令を果たす人物は洗者聖ヨハネ、あるいは洗礼者聖ヨハネでした。

エリアスの霊と力において

洗礼者聖ヨハネはエリアスの霊と力とにおいて来るように送られました。大天使ガブリエルは彼の父、ザカリアスに、彼がそのような仕方で来るであろうと告げました。われらの主はマテオ第11章において、洗者聖ヨハネは預言の実現であると指摘されました。そして再び、われらの主の時代のユダヤ人たちは「悔い改めよ、なぜなら、天の国は近づいたからである」というこの警告に耳を傾けませんでした。そしてそれゆえ、神は西暦70年に一つの呪いをもってその地を打たれました。-- 神の懲戒の行動の下に、神殿は破壊され、司祭たちは絶滅させられ、人々は地の果てまで散らされました。

神は聖書の中で、常に、私がパラダイム:すなわち繰り返し繰り返しなされる神の行動の明白に確立された型、ある種の確立された模範、と呼ぶものにおいて働かれます。私は「天国のパラダイム」と呼ばれるテープの全巻を持っています。それはあらゆることが創世記第1章から第3章までにおいて繰り返され、何度も再現されているということを示しています。

神はこのように働かれますから、われわれはキリストの第二の来臨の前に、同じ現象の一つの繰り返しを期待することができます。その方はエリアスの霊と力において来られる方です。それはファチマの聖母です

ファチマの聖母のようなエリアス

私はこの考えを日曜日の私の話のなかで展開するつもりです。私はあなたたちに、聖母に対するわれわれの信心、聖母に対するわれわれの従順はわれわれを聖書を信じるキリスト教徒とするということ、そして聖母のメッセージを拒否する人々は聖書を信じないキリスト教徒であるということを示すことができるように、あなたたちがすべてのあなたたちの非カトリックの友人たちと共有することができる聖書の証明を、われわれが信じている聖母についてのあらゆる事柄のために、与えようと思います。なぜなら、エリアスと聖母との間には一つの平行関係があるからです。だからこそ、聖母はその被昇天において、彼女の生涯の終りに、ちょうどエリアスが彼の生涯の終りに火の二輪馬車で引き上げられたように、劇的な仕方で天に引き上げられたのです。

私はこの考えの解決をあなたたちに委ねたいと思います。すなわち、聖母は1917年にファチマに御出現になりましたが、それは明確にエリアスと同じように、すでに真の道から(聖ピオ十世が指摘されたように)迷い出ていた、すでに近代主義、異端、われわれの国がカトリック世界と世界中至る所に輸出していたアメリカニズムの道へと落ち込んでいたカトリック教徒たちに呼びかけるためであったのです。聖母はわれわれをわれわれの父祖の信仰へと呼び戻すために来られたのです。それが聖母のメッセージです:すなわち、われわれは、われわれの父祖が信仰において信じたように信じなければならず、彼らが祈ったように祈らなければならないということです。

われわれの父祖の信仰への立ち戻り

われわれは今やロザリオを祈ることさえできません。現在の大部分のカトリック教徒は新しい五つの玄義の挿入によって変えられてしまったロザリオに祈りをしており -- 聖母によって聖ドミニコに与えられたロザリオの祈り、ロザリオの伝統の部分であるものを祈っていません。そのことはわれわれの調子を狂わせます。ところで、あなたがその古典的な様式においてロザリオの祈りをするとき、あなたは正確に153の天使祝詞、3つを信仰、希望、愛のために祈ります。そして150は15連の各連のために10の天使祝詞があるからです。

その153という数は聖書的に非常に重要です。聖ヨハネ福音書においては、それは使徒たちがガリレアの湖で捕まえた魚の数です。その数はまた1917年5月13日の聖母の最初の御出現と10月13日の聖母の最後の御出現の間の正確な日数です。それは153日なのです!カレンダーを取り出してあなた自身で数えてご覧なさい。そしてその象徴的な聖なる数が勝手に書き換えられたのです。われわれはわれわれの父祖の信仰へと立ち帰らなければなりません。さもなければ、神は一つの呪いをもって、われわれを脅かしているこの偉大な神の審判をもって、地を打たれるでしょう。

われわれは出来る限り多くの人々をカトリック信仰へと回心させなければなりません。われわれは彼らにわれわれのカトリック信仰の聖書的な基礎を示さなければなりません。われわれは皆この種のことをする必要があります。

われわれは超自然的な智慧を回復しなければならない

それは聖母がわれわれに呼びかけておられることです。聖母はわれわれの父祖に与えられてきた智慧、われわれが過去100年かそこらで失ってしまった知恵を回復するようにわれわれに呼びかけておられます。世間の智慧ですらわれわれの時代には価値を下げられています。世間の智慧でさえ良好な状態ではありません。政治的な智慧、月並みな科学的智慧、それはまさにみなばらばらになっています。

究極的には、ジム・コンディットが言ったように、われわれが誰を選ぶかはどうでもよいことです。われわれがどのような法律を通過させるかは重要なことではありません。いかなる教育改革をもたらすか、どのような経済改革をもたらすかは、究極的には重要なことではありません。これらすべてのことは必要であり、よいことでしょう。しかしこれらすべてのことが究極的な解決を知らずに、それを無視してなされるならば、そのときわれわれがしているすべては、神の怒りと呪いの下に来るであろう自然主義的なカトリック教徒であることです。

われわれは、政治、経済および教育の領域においてわれわれの自然的に有徳的な事柄をする前に、超自然的な解決がしっかりとその場にあることを確実なものとしなければなりません。そしてそれはわれわれの指導者たちがしていないことです。彼らは聖母に耳を傾けていません。

梟よりも賢明で、聖母は智慧の座、sede sapientiae です。そして聖母は格言の書第8章でこう叫んでおられます:「私に聞きなさい、あなたたち王よ、世界の君主たちよ、私に聞きなさい、私は人々と人々の子らに呼びかけます。」

ファチマを憎む者は死を愛する

あなたたち自身で格言の書第8章を読んでください。それは第36節のこの句で終わっています。「私を愛するすべての人々は私を見出すでしょう。しかし私を憎む人々は死を愛する者です。」

ファチマ・メッセージを憎む人々、聖母のための時間を持たない人々は死を愛する人々です。そして、もしわれわれが、主の道を準備するために聖母の御子の第二の来臨の来る前に新しいエリアスとしての聖母の呼びかけに注意を払わないならば、彼らは(彼らがすでにそのように多くの仕方でそうして来たように)教会の諸々の構造の上に、われわれの民族の上に、われわれの子どもたちの上に、そしてわれわれの子どもたちの子どもたちの上に死をもたらすでしょう。

2005/03/22 三上 茂 試訳

作成日:2005/03/22

最終更新日:2005/03/27

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