ファチマ・クルーセイダー

シスター・ルチアを沈黙させること

1917 - 2005

The Fatima Crusader Issue 79, Spring 2005 Special Edition より

この論考は2005年2月のシスター・ルチアの死の前に書かれた。それは、ファチマの完全で真正のメッセージを沈黙させるためのフリーメーソンたち、共産党愛好者たちおよびメディアにおける、ポルトガルの世俗政府における、そしてバチカン内部の他の神に反対する諸勢力による一世紀の長きにわたるキャンペーンに関する四部シリーズの第一部である。ここに列挙されたすべての事実は文書として記録されている。この論考の中に含まれている陳述のどれかに重大な疑問を抱く人がもしいるならば、彼らは Fatima Crusader からさらなる文書を手に入れることができる。読者はこの論考を一語も変えることなく使用し、それをこの物語を知らせるために諸々の新聞、ジャーナリストたち、そしてメディア人たちに送ることを勧められる。この物語の印刷形式、あるいは電子的形式におけるコピーを手に入れるためには The Fatima Crusader にコンタクトを取ってください。あなたの地方ラジオ局、テレビ局、新聞 -- あるいはあなたのネットワークスあるいは大きな日刊新聞 -- にこの重要な報告を載せるよう求めてください。

A Fatima Center Report


幻視と秘密

当時わずかに10歳であったけれども、ルチア・ドス・サントスは1917年にファチマで幻視を見た三人の羊飼いの子どもたちのうちで最年長であった。彼女は三人のうちで、自分自身の質問を行い、そして聖母からの他の質問に答えながら、おとめに実際に話したただ一人の子どもであった。5月13日の幻視の後、ルチアと彼女の年下のいとこたち、フランシスコ・マルトとヤチンタ・マルトはそれを誰にも明かさないことに同意した。

しかしながら、七歳のヤチンタはこの最初の幻視についての彼女の興奮を抑制することができなかった。そしてそれを彼女の母に言った。言葉は間もなく彼らの小さな村落共同体中に広まる。ある人々は直ちにその幻視をおとめマリアの真正の御出現として受け入れたが、しかし他の人々 -- 教会当局者たちを含む -- は懐疑的であった。信じる人々と好奇心を求める人々の両方の群集は後の御出現でルチアと彼女のいとこたちを見守るために集まった(6月にはおよそ50人の人々が来た。7月には5,000人、8月には15,000人、そして9月には30,000人)。そして最後の月にはおよそ70,000人の人々が有名な太陽の奇跡を目撃した。

徹底的な取り調べ

7月までに地方の市長はこれらの出来事に対する民衆の反応を不安なものと見た。そして8月には三人の子どもたち全員を徹底的な審問に付した。一つの点で、二日間監獄に留置された後に、彼らはあの立腹した尋問者によって実際に死をもって脅迫された。脅迫でのあらゆる試みにもかかわらず、ルチアと彼女のいとこたちはメッセージの秘密を守るようにという聖母の教えに従って、7月13日の秘密について何一つ明らかにしなかった。バチカン当局者たちは最初は、彼らがこの種の事例においてはそうであるに違いなかったように、幻視の真正性については疑っていた。しかしながら、子どもたちの明白な表裏のなさ並びに彼らの深い敬虔と信心は最後には当局者たちを、その問題を真摯に受け取り、さらに取り調べるように説き伏せた。御出現が真正のものである証明としてルチアが聖母から要求したその真正性を証明する太陽の奇跡はその事柄を確証した。10年以上後、1930年に彼らの徹底的な取り調べは終わった。そして教会当局者たちはファチマの御出現が「信じるに値するもの」だと宣言した。

三人の幻視者たちのうちの二人が亡くなる

最初のファチマ御出現を見たわずか2年後にフランシスコ・マルトは1919年春にインフルエンザで亡くなった。翌年、彼の妹のヤチンタもまた1920年2月にこの病気に倒れた。ルチア・ドス・サントスはこのようにして唯一のファチマ幻視者となった。そして聖母のメッセージはただ彼女にのみその責任がかかった。1925年彼女が18歳で修道院に入った時、彼女はまだ聖母のメッセージについてさらに何も公に明らかにしていなかった。(2000年5月13日にマルト家の子どもたちは二人とも教皇ヨハネ・パウロ二世によって列福された。そして今はただ列聖からわずか一歩のところにいる。)

奉献が要求される

1929年の夏に、スペインのトゥイにある修道院に住んでいる間に、シスター・ルチアはもう一つの幻視を持った。今回は、聖母が、ファチマで約束なさっていたように、御自分の汚れなき御心へのロシアの奉献をお求めになるために戻って来られた。この御出現の後、2年後に一つの御訪問が続く。その御訪問の中でわれらの主はシスター・ルチアに、要求された奉献を遂行することに失敗しているために教会の位階に対して生じる致命的な諸結果について、話され、そして警告なさった。シスター・ルチアはこれらのメッセージを彼女の告解聴聞者、ベルナルド・ゴンサルヴェス神父に、[奉献の]儀式を行うように教皇に説得する何らかの方法を見出すよう彼に求めながら、報告した。彼女の以前の幻視が今やバチカンによって「信じるに値するもの」と宣言されていたという事実にもかかわらず、聖母の要求に応じるために何らの行動も取られなかった。1935年までに、シスター・ルチアは、ゴンサルヴェス神父に彼の質問に関連して手書きの手紙の中で、もし彼が彼の司教に奉献が為されるようにということを力説するならば、「そのことはわれらの主を非常に喜ばせることになるでしょう」と告げながら、彼女の要求を書き物において主張し始めた。

聖母の言葉

1941年までに、彼女の司教の主張で、シスター・ルチアはファチマの聖母によって聖母御自身の言葉において1917年7月13日に伝えられた秘密の内容の最初の二つの部分を明らかにする彼女の第三および第四の回想録を書いた。秘密の最後の部分、いわゆる「第三の秘密」だけは明らかにされないままであった。数年後に、再び彼女の司教の勧めで、シスター・ルチアは気が進まないままに、第三の秘密の内容を一枚の紙に書き、それを一つの封筒の中に封印し、それをファチマのホセ・ダ・シルヴァ司教の所へ持って行かせた。シスター・ルチアと司教との間の同意によって、その手紙は遅くとも1960年には公表されなければならなかった。その年の前、1957年になお封印されたままの封筒はバチカンに移された。バチカンではそれは教皇住居の金庫の中に預けられた。

不十分な奉献

その間に、シスター・ルチアは要求された奉献が詳細に示された通りに正確に為されなければならないと主張し続けた。1946年に彼女はあるインタビューの中で、1942年に教皇ピオ十二世によって遂行された世界の一般的奉献は十分なものではなかった、なぜなら、それはロシアの明示的な奉献ではなく、またすべてのカトリック司教たちが教皇に加わらなかったからである、と説明した。1952年に、教皇は別の奉献においてロシアに言及されたが、しかしその儀式を世界のすべての司教たちと一致して遂行することに失敗された。明らかに、ピオ十二世は、シスター・ルチアの回想録において明白に述べられていた、この要求について情報を与えられておられなかったのである。

シスター・ルチア、再び話す

1957年までに、シスター・ルチアは聖母の要求に応じることに教会が引き続いて失敗していることによって明らかに落胆していた。フランシスコおよびヤチンタ・マルトの列福のための訴訟請願者、アグスティン・フエンテス神父とのある会合において、彼女は諸民族全体が世界から消滅する危険に曝されていること、そして多くの霊魂が聖母の要求を無視する結果として地獄に行っていることを強調した。このインタビューは、ファチマの司教の認可を得て、1958年に英語とスペイン語で広く公表された。

ある匿名の非難

1959年夏教皇ピオ十二世の死の後に、一つの匿名の報告が、シスター・ルチアの修道院があるコインブラの司教事務室から出された。その報告は1957年のシスター・ルチアとのフエンテス神父のインタビューをいんちきのものであると非難した。今日に至るまで、この主張をしたことに対して誰も責任を引き受けなかった。フエンテス神父は後に完全に潔白であることを証明されるであろうけれども、1961年にはこの匿名のいんちきの「報告」はフランシスコおよびヤチンタ・マルトの列福のための訴訟の請願者としてのフエンテス神父を退けるための根拠として用いられた。

大きな失望

1960年に、第三の秘密が公表されるという約束の年になった。数千万人の人々が失望したことに、バチカンは、それはおそらく「永遠に絶対的な封印の下に留まる」であろうと言って、それを公表することを差し止めた。コインブラで出された不可思議な報告と同様に、この告知もまたバチカン当局が何ら責任を取らない匿名のものであった。

シスター・ルチア、沈黙させられる

カトリック・メディアの編集者たちや報道者たちは直ちにシスター・ルチアからの反応を求めた。しかしこれは無駄であることが分かった。彼らは、シスター・ルチアが誰にも第三の秘密について話すことを厳格に禁じられており、近い友人たちと親族以外のいかなる訪問者も許されていないということを見出した。1960年以後、彼女の長い間の告解聴聞者(1930年代以来の)ホセ・ダ・シルヴァ・アパリシオ神父でさえ、-- 1950年代初期には自由にそうすることができたにもかかわらず -- 彼がブラジルからポルトガルに戻った時、会うことを許されなかった。

許可は拒否される

第二バチカン公会議の閉幕の間もなく後、教皇パウロ六世は1966年11月15日に、1917年教会法のカノン1399 および 2318 を廃止された。それによって、公式の出版印刷許可を得ることなしにマリアの御出現の主題に関して公表することが教会における誰にでも許可されることになった。しかしながら、世界中の7億人のカトリック教徒の中から独り、シスター・ルチアだけはこの特免の利益を拒否された。一修道女としての彼女の従順の誓いによって縛られて、ファチマの聖母のメッセージを実際に受けた一人の人間はバチカンからの特別の許可なしにその主題に関して自由に話すことを禁じられたままであった。

教皇は嘆願を無視なさる

1年後、シスター・ルチアの回想録がロシアの奉献を求めておられる聖母の要求に広範な注目をもたらしながら、出版された。数千人のカトリック教徒たちはその儀式を挙行なさるよう教皇に求める請願に署名することによってそれに応えた。1967年5月に教皇パウロ六世がファチマを訪問されたとき、シスター・ルチアは教皇と話したいと懇願した。しかし拒絶され、「あなたの司教に話しなさい」と告げられた。彼女の司教は、その間に、ロシアの奉献もまた第三の秘密の開示もいずれも達成するための何らの効果的な努力もすることができなかったのだ。

ある怠慢な教皇使節の報告

次の15年間、シスター・ルチアは、聖母のメッセージに応えるために何もなされなかった間、修道院に閉じ込められた沈黙のうちに留まった。最後に、1982年3月に、シスター・ルチアとポルトガル駐在教皇使節との間で一つの会合が行われた。シスター・ルチアはこの機会を捉えて、教皇使節にマリアの汚れなき御心へのロシアの妥当な奉献のための諸々の必要条件を十分に知らせた。しかしながら、教皇に対する彼の報告の中で、教皇使節は世界の司教たちが儀式を挙行する際に教皇に加わらなければならないということを、わざと言及しないでおいた。

必要条件が再び述べられる

数ヶ月後、教皇ヨハネ・パウロ二世によるファチマ訪問の前の晩(1982年5月12日)、バチカンの新聞 L'Osservatore Romano は40年間以上もシスター・ルチアと文通をした司祭、ウンベルト・パスクアーレ神父による一つの論考を公表した。パスクアーレ神父は、シスター・ルチアが、ファチマの聖母は世界の奉献を求められたことは一度もなく、ただロシアの奉献だけを求められたと明瞭に彼に告げたと再び述べた。彼はまた、要求はただロシアにのみ言及していて、世界には言及していなかったと確証しているシスター・ルチアから彼に送られた手書きのノートの写真による再現をも公表した。

他の不適切な奉献

翌日、1982年5月13日に教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマで奉献を挙行なさった。その儀式は世界に言及したが、ロシアには言及しなかった。そして世界のカトリック司教たちは要求されたようには参加しなかった。 L'Osservatore Romano は後に、教皇が「具体的な諸状況の中で可能なあらゆることをしようと努めた」と言われることによってロシアに御自分が言及されなかったことを説明されたと報じた。

シスター・ルチア、手紙を書く

5月12日にシスター・ルチアは、2000年6月に第三の秘密のそうだとされている開示に関連してバチカンによって18年後に公表された一通の手紙を書いた。バチカンは1982年5月12日の日付のこの手紙は教皇宛てであったと言った。しかしこれはそうではあり得ない。なぜなら、それは第三の秘密に、「あなたがそのように知りたいと切望しておられる」ものとして言及しているからである。もし受取人が教皇であったならば、これはナンセンスであろう。というのは、そのときすでに教皇は第三の秘密の内容を知っておられたからである。意味深長なことに、他の諸言語へのオリジナルのポルトガル語のバチカン自身の翻訳はこの文言を落としているが、それはこれらの文書を公表した高官たちがその手紙は教皇に宛てられたものではないということを知っており、そしてその事実を隠そうとしていたということを示している。その隠しきれない文言は手書きのオリジナルの手紙から落とされることはできなかった。なぜなら、それは写真のコピーとして公表されたからである。

そうだと主張されている一つのインタビュー

1982年の盛夏に、アメリカのブルー・アーミーの Soul Magazine はそれがシスター・ルチアとのインタビューであると主張したものを公表した。その中で、彼女は5月12日の奉献は聖母の要求を満たしたと述べたとされている。その論考は、ロシアにも言及せず、また世界の司教たちの参加も含まなかった儀式によってどのように要求が満たされたかを説明しなかった。友人たちや親族たちとの私的な会話の中でシスター・ルチアはこの主張を繰り返し否定した。しかし彼女がこのことを公的に言うことはできなかったと説明した。なぜなら、バチカンからそうする許可を彼女は得ていなかったからである。

一つの真のインタビュー

まさに1982年の試みられた奉献がロシアの言及をしなかった(そして司教たちが参加しなかった)ゆえに、シスター・ルチアは1983年3月19日にポルトガル駐在教皇使節に、1982年の奉献の行為は不十分であったと告げた。なぜなら、ロシアは奉献の対象ではなかった、そして司教たちはロシアを奉献する荘厳で公的な儀式に参加しなかったからである。彼女はこう結論づけた:「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようにはなされませんでした。私は、聖座の許可を得ていませんでしたので、この陳述を前にすることはできませんでした。」

次に、1985年の9月に彼女とのインタビューの説明がスペインのブルー・アーミーの友人たちによって出版された Sol de Fatima という雑誌に現れた。それは、ローマで1984年3月25日に遂行されたなおもう一つの世界の奉献が聖母の要求をまだ満たさなかったということをもう一度主張するシスター・ルチアを引用した。奉献のテキストはロシアの言及をせず、そして世界の他の数千人の司教たちの誰も参加するように命令されなかった。

一人のいとこが語る

1年後、シスター・ルチアを訪問することを許された少数の家族のメンバーの一人が打ち明けた。一人のいとこ、マリア・ド・フェタルは訪問の後、シスター・ルチアが奉献はまだなされていないと言ったと公に述べた。彼女の陳述は今なお自分自身では話すことを許されていない彼女の修道院の壁の中にいるいとこへ直ちに知らされた。

素早い確証

1987年6月に、シスター・ルチアは総選挙において投票するために彼女の修道院の外に稀な外出をした。一人のジャーナリスト、エンリコ・ロメロとの短いやりとりの中で、シスター・ルチアはロシアの奉献はなされていないということをもう一度確証した。

否定するための諸々の指示

2年後1989年夏に、シスター・ルチアはバチカンの一人の匿名の高官から一つの驚くべき指示を受けた。その指示は、シスター・ルチアと修道院の彼女の同僚の修道女たちが今や1984年3月25日に遂行された奉献がファチマの聖母の要求を満たしたと言わなければならないと命令していた。彼女自身に真っ向から矛盾するこの異例の命令はシスター・ルチアの長年の友人であり時たまの訪問者であるメシアス・コエリョ神父によって明らかにされた。同じ指示への明白な従順において、シスター・ルチアのいとこマリア・ド・フェタルは突然立場を変えた。そして奉献はなされたとシスター・ルチアが言っているとその言葉を引用した。

誰からの手紙?

その直後から、シスター・ルチアによってサインされたとされているさまざまのタイプで打たれた覚え書きや手紙が現れ、ポルトガルの外部の宗教雑誌の中で私的に出回り始めた。それらすべてはシスター・ルチアがそれ以前の60年以上にわたって奉献について言ってきたことに真っ向から矛盾する陳述を含んでいた。それらの文書が手書きでなかった、そしていくつかの明白な事実上の誤りと奇妙な文言を含んでいたという事実はシスター・ルチアにそれらの真正の起源があることを大いに疑わせた。

陰謀が破綻をきたす

歴史を修正しようとするバチカンの試みは早くも破綻を来した。1990年にシスター・ルチアの妹カロリーナはニコラス・グルーナー神父に、シスター・ルチアはタイプの打ち方を知らないからして、彼女からのいかなるタイプで書かれた手紙にもほとんどあるいは何ら信を置くことはできない、と告げた。何らかのそのような手紙は、たとえそれがシスター・ルチアによって署名されていたとしても、他の誰かによって作成されなければならなかったであろう。

捏造された署名

これらの文書の一つになされたシスター・ルチアの署名は間もなく疑問視された。ある犯罪科学の専門家は1989年の日づけを持つ手紙の彼女のものだといわれる署名を検査した。そしてそれは捏造であると宣言した。それにもかかわらず、これらのインチキの手紙のあるものからの抜粋が、奉献は為されたという「証拠」として他の出版物において広く引用され出回った。

教皇の謁見 - そして雄弁な沈黙

1991年5月に教皇がファチマ訪問を予定されたとき、シスター・ルチアは最初出席することを断った。しかし出席するように命令された。教皇ヨハネ・パウロ二世は30分続いた私的謁見を彼女に賜った。その後、シスター・ルチアも教皇も奉献がなされたという公表された主張を支持するいかなるコメントも出さなかった。この主題に関する彼らの沈黙はロシアの奉献がまだなされていないという結論をさらに強めた。

にせのインタビュー

1992年の秋に、シスター・ルチアはフランチェスコ・パチェコ神父、アントニー・パディヤラ枢機卿そしてフランシス・ミカエラッパ司教によってインタビューを受けたとされた。聖職者たちの運転手カルロス・エヴァリストは後に、奉献が為されたといういつもの主張を含んだそのインタビューの報告を公表した。聖職者のうちの一人、パチェコ神父は後に、運転手そして自ら告白した「概念的翻訳者」エヴァリスト氏の信憑性そしてこのインタビューについての彼の報告を疑問視しながら、この報告の否認を公表した。

欠席した著者

10年間の残りの間バチカンは奉献への呼びかけ、第三の秘密の開示への呼びかけ、そしてシスター・ルチアの強制された沈黙を終わらせることへの呼びかけに対して耳を貸さなかった。最後に、2000年6月にバチカンは -- 世界中からジャーナリストたちが出席した記者会見で -- 長い注釈を含む他の文書と一緒に、第三の秘密であるとバチカンが主張するものを公表した。目立つ仕方でその記者会見に欠席したのは第三の秘密の著者、シスター・ルチアであった。彼女は単にその出来事から排除されただけではなく、またその主題に関して沈黙の命令の下に置かれたままであった。たとい公表された文書がそれ自体疑わしいものでなかったとしても -- そして疑わしいのである、「第三の秘密の抑圧」(http://www.fatima.org/essentials/opposed/cvrup2.aspを訪問してください)-- シスター・ルチアの欠席と沈黙はなおこの「開示」を極度に疑わしいものとしている。(さらなる情報のためには「悪魔の最後の戦い」特に第12,13,そして14章を見てください。)[悪魔の最後の戦い]を訪問してください。あるいはこの書物を The Fatima Crusader から購入してください。

基本的な諸事実が現れる

壁に囲まれた修道院で暮らす修道女としてのシスター・ルチアの宗教的使命は平信徒には可能ではない仕方での巧みな操作に対して彼女を弱点あるものとしている。 彼女は近づき難いものとされ得る。彼女は偽りの主張や根拠のない主張に対する応答の権利を否定され得る。そしてとりわけ彼女は絶対的に沈黙したままにされる。しかしながら、いくつかの事実が彼女の不法にそして道徳に反して強制された沈黙から否定し得ない仕方で現れてくる:

第一、彼女は1930年代初期以来ずっと、ファチマの聖母が要求なさったように、ロシアが世界のすべての司教たちと一致して教皇によってマリアの汚れなき御心に奉献されなければならないと主張してきた。

第二、彼女は繰り返し過去半世紀にわたるさまざまの奉献はすべて聖母の要求の明白な必要条件を満たすことに失敗してきたと説明してきた。彼女は決して公然とそして明快に違った風に言ったことはない。

第三、彼女は第三の秘密の1ページのテキストが1960年に公開されることを完全に期待していた、そして今なおそれが明らかにされることを望んでいる。これは、そこからシスター・ルチアが目立った仕方で除外された一つの出来事において、2000年にバチカンによって公表された4ページの文書ではない。2001年11月のベルトーネ大司教の主張にもかかわらず、シスター・ルチア自身は、彼女がバチカンによってその「第三の秘密」告知においてなされた主張に同意しているいかなる種類の直接的な印も与えなかった。

第四、そして最後に、彼女は今90歳を超えている、そしてもっと長くわれわれと共にいることはないであろう。それゆえ、もし彼女がすぐさま自由に話すことを許されないならば、彼女はファチマのメッセージについて彼女が知っているものの残りを墓の中へ持って行くであろう。天からのメッセージとの世界の最後の繋がりは、おそらく永遠に答えられないままに残されて、去ってしまうであろう。このことはバチカンにおけるファチマ修正主義者たちが意図しているものであると思われるであろう。

ファチマ物語に対する諸局面のための中心点はもちろんシスター・ルチアである。彼女は幻視を見た。彼女はメッセージを受けた。そして彼女は祝せられたおとめによって話された言葉を書き留めた。彼女はファチマのメッセージについての全真理を知っている。にもかかわらず、教会の当局者たちは、神の御母からのメッセージをもたらす誰かある人よりは異端を広める誰かある人に対してより適切であると思われるやり方で彼女を取り扱ったのである。

2005/07/27 三上 茂試訳

The Silencing of Sister Lucy 1917 - 2005 へ

 マリア様のページ

 トップページ

作成日:2005/07/27

最終更新日:2009/03/02

inserted by FC2 system