ファチマ・クルーセイダー

エキュメニズムの諸々の誤謬

以下はポール・クレイマー神父、B.Ph., S.T.B., M Div., S.T.L.(Cand.)
による講演の編集された写しである。
(説明題と脚注は編集者による)。

The Fatima Crusader Issue 79, Spring 2005 Special Edition より

イエズス近づきて彼らに語りてのたまいけるは、天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり、と。

(マテオ 28:18-20)

われらの主は婉曲にものを言われなかった。聖福音からの上述のテキスト、われらの神なる救い主の口から出た言葉はカトリック信仰に反する第二バチカン公会議の誤謬に有罪を宣告している。これは、結局のところ、チアッピ枢機卿が「(ファチマの)第三の秘密においては、他のこともいろいろあるが、教会における大背教がその頂点で始まるであろうということを予告している」と漏らされたように、ファチマの第三の秘密のうちにあるものである。

われわれは数世紀前に予告されたアッシジの聖フランシスコの諸々の預言から、一人の反教皇が現れるであろうということを知っている。彼は異端者であろう。彼はカトリック信仰を持たないであろう。そして彼は教会を、新しい改革で改革することによって、滅ぼすであろう。

具体的に言えば、神法に対する反逆は公会議がエキュメニズムの誤謬を宣言した時にその始まりを持っていた。

今や多くのいわゆる保守派がいる。彼らは叫び、反対する、そして彼らはこう言うであろう。「よろしい、あなたはどのようにそのことを言うことができるか? 結局のところ、エキュメニカルな公会議は不可謬的である。そしてそれゆえ公会議は間違いであることはできない。それは誤謬を教えることはできない」と。

私はこの問いでもってその問いに答える:「いかなる教会がそのことを教えたのか?」と。ローマ・カトリック教会は教えなかった。The Wanderer はそのことを教えた。しかし、どの教皇もそのことを教えられなかった。

もしあなたがボルティモア・カテキズムを見るならば、公会議は不可謬的であるということを読むであろう。しかしそれは、公会議は、それがなすあらゆる宣言において不可謬的であるとは言っていない。

ある公会議を不可謬的とするものは何であるか? それは不可謬性のカリスマである。そして教会は、そのカリスマが行使されるときあなたが検証することができると教えている。カリスマは、教会が決定する時、行使される。

教会が不可謬的に決定する三つのやり方がある

第一に、最も明白な宣言は、教皇がエキュメニカルな公会議に集まった司教たちと一緒に、ある教えが神によって啓示されたということを荘厳に、不可謬的に決定する時である。

第二に、教皇が、彼自身で、教皇座から ex cathedra 信仰あるいは道徳について決定を宣言するとき、彼は不可謬性のカリスマを行使する、そしてそれゆえに誤謬に陥ることはあり得ない。

公会議はそれが決定をしないとき、あらゆる種類の誤謬を犯し得る。しかし、公会議教父たちが教皇と一緒に信仰および道徳の諸問題において一つの決定を荘厳に宣言するとき、その公会議は誤ることはできない。そしてこの意味においてカテキズムは理解されなければならない。すなわち、エキュメニカルな公会議は不可謬的である、と。たといネオ保守派が注1)あるいは公会議後の人々注2)が違った風に理解するとしても、これが教会が不可謬性を理解する仕方である。

教会における不可謬性の第三の仕方は、教皇が世界のすべてのカトリック司教たちと一緒に、彼らの通常の教えにおいて、ある教説が守られるべきである、ある教説が神から啓示されていると決定的に教えるとき、教会の普遍的教導権、普遍的および通常の教導権である。

第二バチカン公会議におけるすべての誤謬に注意を向け、そして次のように言うのはネオ保守派である:「よろしい、これは誤謬ではあり得ない。なぜなら、それは公会議によって教えられているからである。」彼らは正道からそれている。なぜなら、ある公会議がするあらゆる宣言が不可謬的であるということは教会の教えではないからからである。しかし、公会議が教皇と一緒に不可謬的であるとして荘厳に決定するものは不可謬的なものである。

彼らはこう反対するであろう:「しかし、これらは教説上の -- 重要な、重大な教説上の -- 問題である。それを教えているのは世界の司教たちと一緒の教皇である。それゆえにそれは不可謬的でなければならない」と。

その答えはこうである:「いいえ!それは不可謬的ではない。これは普遍的および通常の教導権ではない。それは決定的ではない」と。

ある公会議はそれが決定するとき不可謬的である

公会議が決定しないとき、その公会議は不可謬的ではない。そしてそれゆえにそれは話している教会の普遍的および通常の教導権ではない。教会の普遍的および通常の教導権とは、信仰と道徳の問題において -- 決定的に -- 彼の司教区において彼の通常の教えにおける教皇と一緒に、信仰と道徳の問題において、-- 決定的に -- 彼らの司教区において、世界中に散らばっていて、教えるすべての司教たちである。それが、われわれが教会の不可謬的な普遍的な通常の教導権と呼ぶものである。

あるエキュメニカルな公会議において教説上の諸問題について話している司教たちと教皇は教会の普遍的および通常の教導権ではない、そしてそれゆえにそれは不可謬的ではない -- ただ彼らが決定するときにのみ、それは不可謬的である。われわれが、第二バチカン公会議が諸々の誤謬を宣言したと明白に述べることができるのはこの文脈においてである。第二バチカン公会議は決定しようと試みなかった。教義上の決定という技術的な意味においてそうしなかったし、教会の異例の、不可謬的教導権の荘厳な宣言という仕方においても明白にそうしなかった。「決定」という用語の通常の意味においてすら、彼らは彼らの用語を定義しなかった。

第二バチカン公会議はエキュメニズムを定義していない

エキュメニズムに関する文書において教会はエキュメニズムを宣言したと考えられている。ところで、エキュメニズムを宣言する際に、公会議はエキュメニズムが何であるかを明白に述べなかったということは非常に奇妙なことである。彼らはいくつかの記述的な文言を用いたが、しかしその事柄が何であるかを言わなかった。

確かに、公会議の専門家たち -- まさに公会議の専門家たちであると名づけられた人々、periti 注3)-- 諸々の文書を提出し、修正と編集を行うことに大きな責任を持っていた人々 -- 彼らはエキュメニズムという用語が定義されなかったということを非常に確実なものとした。なぜなら、もし彼らがその用語を定義していたならば、少なくとも第二バチカン公会議に出席した司教たちの90%はこう叫んだであろうから:「これは異端である!それは抹消されなければならない。われわれはこれを宣言することはできない。それは誤謬である。それはカトリック信仰に反する。それは異端である!」と。

近代主義的異端者たちの諸々の動機が説明される

それゆえ、近代主義的な periti 、彼らは、もし彼らの用語を敢えて定義したならば戦いが直ちに敗北するであろうということを知っていた。それで、彼らはその用語を敢えて定義しないままにした。そして事柄を定義しないことに対する彼らの言い訳はこうであった:「もちろん、これは一つの司牧的な公会議である。われわれはここで教説を決定するべきではない。われわれはここで諸々の事柄についてのわれわれの定義において哲学的であってはならない。これは一つの司牧的公会議である。そしてそれゆえ、われわれは定義をする仕事をやめるのだ」と。

もちろん、それは口実であった。しかし、より正確には近代主義者であるリベラル派の人々にとっての本当の理由は、彼らが敢えて彼らの用語を定義しなかったことである。なぜなら、彼らは彼らがそうであった異端者、そして彼らがそうである異端者だと暴露されないであろうからである。

エキュメニズムは完全にカトリック信仰に反する。そして、エキュメニズムを検討するときそのことは明白である。教皇ヨハネ・パウロ二世は、その回勅 Ut Unam Sint において、エキュメニズムに、その起源をいわゆる改革の諸教会のうちに持つものとして言及しておられる:すなわち、それは改革された諸教会、 -- 一言で言えば -- プロテスタントに由来する改革諸教会である。

エキュメニズムはプロテスタントの異端である

ヨハネ・パウロ二世はエキュメニズムが一つのプロテスタントの発明であるということを認めておられる。教会を侵略したのはこのプロテスタントのものである。プロテスタンティズムは一つの異端である。そしてエキュメニズムはプロテスタンティズムの諸々の異端の一つである。

プロテスタンティズムの教会論注4)はエキュメニズムの教会論である。エキュメニズムの教会論はラッツィンガー枢機卿の教会論である。それはハンス・キュングおよびすべての近代主義者たちの教会論である。今日教会においてエキュメニズムを管理している人間、ヴァルター・カスパー枢機卿はエキュメニストである。彼の教会論はプロテスタント的である。

私は、-- 通りをくだった所にある、人々に対面する宴会テーブルを持った聖パトリック司教座聖堂とは違って -- ニューヨーク・シティの美しく伝統的な聖トマス教会を訪問した時のことを思い起こす。聖トマス教会では祭壇は適切に飾られており、そしてそこではいわゆる司祭が神と出会うために祈り、そして人々は彼と共に祈る。信じようとそうでなかろうと、そのようにカトリック的に見えるのは英国監督教会である。

私はかつて、ニューヨークで夏の数ヶ月を過ごした一人の婦人の話を聞いた。そして彼女はその教会によく行っていた(聖トマス教会か、それとも聖バルトロメオ教会か、そのどちらであったか、この時はよく覚えていないが)。聖バルトロメオ教会では、あなたはそこに告解所そして聖トマス教会と同じ仕方でしつらえられた祭壇を見るであろう。それらは非常に伝統的に、非常にカトリック的に見える。そして7年後に彼女は自分がアングリカン教会に行っていたを発見した。彼女はそれはローマ・カトリック教会だと考えていた。何が彼女をこれらの教会に惹きつけていたのか? それらの教会は彼女のロマニストの小教区よりももっとカトリック的であったのだ。

私はカトリックの小教区とは言っていない。私はエキュメニカルなロマニストの小教区、ローマ・プロテスタント小教区、エキュメニカル小教区と言っている。そこでは彼らはもはや祭壇を持っておらず、そこでは彼らは一つの宴会テーブルを持っている。そして彼らは美しい木製の告解台を、聖バルトロメオ教会のように、持っていなくて、彼らは一つの和解の部屋を持っている。

プロテスタントたちが教会を定義する仕方

カトリック教会における一つの新しい改革があった。そしてそれはその教会論を非常にカトリック的と見えるが、しかしそうではない教会から取っている。私は、聖トマス教会にいる間に、一つのパンフレットを取り、アングリカニズムの教説の提示を検討した。そこには、われわれは異なった諸宗教ではない、われわれはみな、一つのキリスト教会を形成すると明瞭に述べられている。われわれは、そのことに関する限りでは自分たちをローマ・カトリック、正教会、福音派、アングリカン、あるいはホーリー・ローラーズと呼ぼうとも、一つのキリスト教会の中の異なった教派である。どれであろうと、これらはみな一つのキリスト教会のことなった教派である。それらはみなイエズス・キリストへの彼らの信仰を告白している。すべては一つの普遍的教会を形成している。

これはエキュメニズムである。これはエキュメニズムの教会論である。これはエキュメニズムの異端であり、聖アタナシウスが説明しているように、主が与え給い、使徒たちが宣言し、そして教父たちが守ったカトリック教会の実際の元々の教えと伝統にまったく反するものである。

キリストの教会のカトリック的教義であるもの

ローマ・カトリック教会についてのカトリックの教えは、真の神にして真の人であるイエズス・キリストが時の終わりまで続くであろう一つの聖なるカトリックのそして使徒的な教会を建てられたということである。他のすべての諸宗教は偽りであり、神に喜ばれない。そしてある人は、死ぬまでに偽りの教会から離れ、ローマ・カトリック教会(カトリック教会の東方典礼を含む)に加わり、カトリック教会に留まり続けない限り、自分の霊魂を救うことはできない。「教会の外にはいかなる救いもない」ということはカトリック諸教皇によって三度荘厳に決定されてきた。

それはわれらの主にして救世主であるイエズス・キリストによって発せられた明白で単純な次の文言のうちに要約されている。「イエズス近づきて彼らに語りてのたまいけるは、天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて万民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり、と。」(マテオ 28:18-20)イエズスが「すべての」という語を何度用いられているかに注意せよ。今日、それは一つの汚い語となっている。それは排他主義と呼ばれている。「あなたはどのように一つの真の教会であり、他のすべての宗教が偽りであると敢えて主張するのか?」唯一の神だけが存在する。そして神はただ一つの神的真理だけを啓示なさった。唯一の神の啓示だけが存在する。そしてそれは神が建てられた一つの教会のうちにのみ見出される。

ヒンドゥー教徒たちはそしてホーリー・ローラーズはどのようにカトリック信仰と一緒に一つの真の宗教を持つことができるか? そしてあらゆる異なった教会とあらゆる異なった宗教は対立する教えを持っている。それらは、黒が白に対立するように、対立し矛盾する異なった事柄を教えている。「よろしい、それらは本質においてすべて同じものである」と人はどのようにして言うことができようか?

対話ではなくて回心

われらの主イエズス・キリストは言われた:「いっさいの権能は、われに賜われり」と。単にカトリック教徒に話す権能ではなくて、いっさいの権能である。「いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて万民に教え、....わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。」イエズスは、われわれが他の諸宗教と対話することができ、例えば、われわれを滅ぼすことを望んでいる諸々の運動との永続的な調和と平和のうちに生きることができるように、単純にわれわれを送るためにこのいっさいの権能に訴えられたのではなかった。必ずしも彼らの中のすべての者がわれわれを滅ぼそうと望んでいるのではない。しかしイスラムの聖職者がミナレットに登り、聖戦、Jihad を宣言するとき、そのときには最も柔和なイスラム教徒でさえ、戦いに出かけるであろう。

イスラム教はカトリック信仰に反対している

不敬なコーランは mushriks -- 異教徒、冒涜者、偶像崇拝者たちを意味する -- は一なる神が三つのペルソナにおいてあるということを信じる者たちであると言っている。

聖チェチーリアが致命的な打撃を受けて殉教者の死を蒙ったとき、彼女は一方の手で一つの指を立て、他方の手で三つの指を立てた。彼女はその殉教において、一なる神における三つのペルソナ(位格)を告白した。彼女は異教主義を実践することを拒否したのである。

これが真のエキュメニカルな対話である。信仰箇条とすべての教義およびすべての神的真理の基礎を不可謬的に宣言することはいとも祝せられた三位一体の計り知れない神秘である。イスラム教は祝せられた三位一体への信仰を告白する者たちは偶像崇拝者たち、異教徒たちであると言う。彼らは mushriks である、と。

イスラム教は剣によって改宗させる

コーランは、偶像崇拝者、冒涜者、異教徒、mushrik に対して何をせよと言っているか? コーランにおけるモハメッドの教えは mushrik を殺せということである。

イスラム教はすべての人間がイスラム教徒であることを欲している

ファチマの聖母は「善人は殉教するでしょう」と言われた。エキュメニカルな対話の精神とは反対に、剣の脅威によってぐらつかせられることを拒否するのが殉教者である。イスラム教徒たちは「あなたたちはイスラム教を奉じなければならない」と言う。ニューイングランドの一つの小さな町にさえ、イスラム教インフォメーション・「センター」が存在するが、それ[センターという言葉]はその町に実際一つのモスクが存在するという事実を隠す言葉である。そしてカトリックの司祭がモスクを訪ねたとき、彼はイスラム教の聖職者によって告げられた、「あなたはイスラム教に改宗しなければならない」と。

その司祭は言った、「いや、いや、あなたは私にそう言うことはできない、私はカトリックの司祭です、私はイエズス・キリストを信じています」と。イスラム教徒は彼に言った。「北アメリカのすべてはイスラム教を奉じなければならない。それはイスラム国家となるであろう」と。「すべて」、それはわれらの主イエズス・キリストが用いられた語である。

エキュメニズムは不可能である

あなたは、人々が、たとい対立する信念を持っているとしても、理性的であり得るし、そして平和的に共に暮らすよう努力することができる一つの道が常に存在すると言うかもしれない。しかし、次のことはわれわれがエキュメニズムについて理解しなければならない事柄である:すなわち、諸々の信念それ自体は対立しているということである。それらは和解不可能である。そしてそれゆえに、われわれは、いかなる方向にエキュメニズムは進み、そしてそれは何を達成しようと試みているのか、と問わなければならない。もし人がフリーメーソンならば、もし人が共産主義者ならば、われわれは正確に、そのとき、エキュメニズムが何を達成しようとするかを理解する。そこでは何かあるものを達成すること、すなわち、フリーメーソンの目標、共産主義の目標を達成することである。それらの目標は一つの世界政府、一つの世界宗教、全人類を奴隷化するための一つの専制という反神、反キリストの理想を含んでいる。

しかしカトリック的な文脈においては、エキュメニズムは何を達成することができるのか? それは何かカトリック的なあるものを達成することができるのか? 絶対的にできない。それはカトリシズムにまったく対立する。それは、カトリック的な文脈においては、和解不可能なものを和解させようと試みている。モハメッドは言っている、「世界をイスラム教に改宗させよ。そして誰であれイスラム教を奉じない者はその頭をはねよ。mushrik を殺せ」と。

カトリック教徒は恩寵と宣教とによって改宗させる

イエズス・キリストは言われた:「天においても、地においても、いっさいの権能は、われに賜われり。ゆえに汝ら行きて民に教え、父と子と聖霊とのみ名によりて、これに洗礼をほどこし、わが汝らに命ぜしことを、ことごとく守るべく教えよ。さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり」

達成されるであろうのはこの仕事である。剣を用いるイスラム教徒は剣を振るうであろう。そして流血以外には何も達成しないであろう。しかし彼らはイスラム教のために世界を征服することはないであろう。

世界は異教徒たちと偶像崇拝者たちで満ちている。カトリック信仰を持つ人々はこの事実を認める。しかし、イスラム教とは違って、われわれはわれわれの機関銃とわれわれの剣を持ってきて、われわれの信仰に同意しない人々をすべて剣で突き刺したり、弾丸で撃ち抜いたりしないであろう。

天使たちがわれわれを護る

フン族のアッティラがローマを滅ぼそうとしていた時、教皇聖レオはアッティラと会った。彼は十二人の司祭たちを携えていた。一方アッティラは彼の大軍を携えていた。アッティラは教皇を嘲った「お前の軍隊はどこにいるか?」そして教皇レオは天を指さした。そしてそこにアッティラは天使たちの大軍を見た。彼は恐怖に陥って逃げた。そして彼の軍隊も彼と共に逃げた。彼らはまったく恐怖に襲われて逃げた。

イスラム教は一つの鞭である。それはキリスト教、カトリック信仰との死ぬまでの戦いのうちにある。それはイエズス・キリストへの信仰に反対する戦争をするという目的のために悪魔によって鼓舞されている。モハメッドは言った:「神はイスラム教に勝利を与えるために5千の天使たちを送られるであろう。それゆえ恐れるな、戦場へと前進せよ」と。

イスラムとの第三次世界大戦が預言されている

われわれはファチマの第三の秘密から知っている、われわれは聖母の多くの御出現から知っている、第三次世界大戦があるだろうということが啓示されている。それは突然東から西へ向かって勃発するであろう一つの戦争であろう。そしてイスラム教徒たちによるヨーロッパの大規模な侵略があるであろう。そしてヨーロッパにおいて、北アメリカにおいて、そしてアジアにおいて、イスラム教徒がいる所ではどこでも、イスラム教徒たちによるテロリズムの大規模な行為があるであろう。それは世界的な Jihad[ジハード:聖戦]に調整されるであろう。そして彼らはすべて、できるだけ多くの者を殺すために彼らが mushriks と呼ぶ者たちを大胆に攻撃するであろう。

もしキリスト教世界が十分に祈るならば
神はキリスト教世界を護られる

イスラム教徒たちはモハメッドの約束がいんちきのものであることを理解しなかった。ペニーはまだ彼らのために落ちなかった。彼らの精神においては関連はまだつけられなかった。

サラセン人たちはヨーロッパから蹴り出された。ムーア人たちはイベリア半島から蹴り出された。トルコ人たちはヨーロッパをイスラムの大陸にするための彼らの征服戦争の始めにマルタ島を攻撃した。トルコ人の戦士たちを満載した90隻の軍船は聖ヨハネの修道会の1500人の戦う修道士たちの軍隊によって、彼らのマルタ島の住民たちのある者たちの助けと共に、打ち破られた。

そして次に、トルコ人たちは再び攻撃しようとした。トルコ人の指導者、大スレイマンは彼の軍隊の圧倒的な軍事的優勢にもかかわらず不安を持っていた。彼は言った:「私はベネチアのすべての軍船よりも教皇ピオ五世の祈りをもっと恐れる」と。そして彼は、教皇ピオ五世の祈りを恐れる十分な理由を持っていた。なぜなら、教皇ピオ五世は十字軍を布告したからである。それはイスラム教徒たちにとって人間の言語の中でも最も汚い言葉であった:すなわち、十字軍である。

彼らは未だに彼らの教訓を学んでいなかった。そして彼らは大規模な軍隊でもってウィーンを占領した。彼らはそのように信じられないくらいにキリスト教軍よりも数が多かったので、人間的に言えば、彼らに敗北する可能性はまったくなかった。イスラム教徒たちは徹底的に打ち破られ、そして彼らは敗走した。彼らは彼らのコーヒーを取り上げ、それを持っていく時間さえ持たなかった。ヨーロッパ人たちはその戦争の分捕り品を楽しんだ。そしてそれが、コーヒーがヨーロッパにおいて一般的となった理由である。トルコ人たちは再び敗北したのであった。

どういうわけか、モハメッドによって約束された五千の天使たちは彼らの側に姿を現さなかった。天使たちは護るためにどちらの側に姿を現したか? 確かに、教皇聖レオは天を指さした。そしてあの天使たちの軍隊は見えるものとなった。ムーア人たちがコヴァドゥンガと呼ばれた場所で追い払われたスペインのレコンキスタの場合も同様であった。

一つの聖堂があの偉大な戦いを記念してそこに建てられた。それは、イスラム教徒たちを蹴り出し、彼らがそこから来たアラブの土地に送り返したあのレコンキスタを始めた戦いであった。一匹の馬に乗り、その手に大きな軍刀を持って天から降りて来る一人の天使が見られた。そしてこの天使はその剣を振るい、そしてムーア人たちの頭を切り落とした。

すべての異教徒たちに対するファチマの聖母の勝利

天使たちが天から下って来る、しかしキリスト教徒たちに勝利を与えるためであって、イスラム教徒たちに勝利を与えるためではない。その日は来るであろう。そしてそれは聖母御自身によってシスター・アイエロに予告されている。すなわち、アラブ人たちはカトリック信仰に改宗するであろう、と。われわれは、ロシアがカトリック信仰へと回心するであろうということを知っている。なぜなら、ファチマの聖母は太陽のとてつもない奇跡をもって彼女の約束を確証なさったからである。それは神によってのみ働かれ得る一つの奇跡である。それはわれらの神である救世主御自身によってなされた約束を確証し、指し示す一つの奇跡である。

そしてこれが、われわれが恐れる必要がない理由である。天の天使たちは再び来るであろう。そして彼らは神なき者たちを滅ぼすであろう。彼らは聖でないすべてのものを滅ぼすであろう。それはキリスト教徒にとって Jihad[聖戦]を行うことではなく、むしろ聖なる十字軍をもって聖でない Jihad に応えることである。そして天使たちの援助、天使たちの軍隊と軍団とはキリストの使徒たちと追随者たちと共にある。そしてそれはそうでなければならない。なぜなら、われらの主の約束は終了の日付を持っていないからである。「さて、われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり。」

脚注

  1. これは保守的な響きのする近代主義者たちである。

  2. それは第二バチカン公会議に従うと主張している司祭たちや司教たちを含む教会の役職者たちである。

  3. periti あるいはいわゆる専門家は神学的な著作家たちである。彼らの多くは1940年代および1950年代に教皇ピオ十二世によってカトリック信仰に反する諸々の誤謬のゆえに非難されてきた。彼らはしばしば司祭たちであった。

  4. 教会論はカトリック教会 -- すなわち、キリストがお建てになった一なる真の教会 -- の本性についての諸々の教説を一つの組織化された知識の体系へと集める神学の部門である。教会論の異端的な概念 -- もちろん、厳密に言えば -- は神学と呼ぶべきではなくて、むしろ異端と呼ぶべきである。


「私(神)はいつもあなたと共にいる」

あなたは健全なカトリックの教義、唯一の聖なるカトリック的、使徒的教会の教えについてよく知っているようにしなければならない。真理はこの試練の時代にあなたを照らし、あなたを強め、あなたを慰めるであろう。あなたのカトリック信仰を知り、それを生きなさい。そうすれはあなたは神が、この時代の諸々の試練を通じて実際、なおあなたと共にいてくださるということをよりよく理解し感じるであろう。

パードレ・ピオはこう言われた:「敬虔な読書でもってあなたの霊魂を養いなさい。」

2005/08/02 三上 茂試訳

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作成日:2005/08/02

最終更新日:2009/03/02

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