ファチマ・クルーセイダー

教皇制の擁護

教皇空位論者の企てに反対する

第I 部 -- 序論

The Fatima Crusader Issue 80, Summer 2005 より

クリストファー・A. フェララ

この小論は少数のカトリック教徒たちによって第二バチカン公会議以来のカトリック教会における信仰と規律の深い危機のための一つの説明として進められてきた一つの主張:すなわち、教皇空位論 sedevacantism --「空の座」に当たるラテン語の句から出た用語 -- の主張を論駁する。

教皇空位論者の意見の主張者たちは一般に1958年以降のすべての教皇 -- ヨハネ二十三世、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世 注1)、ヨハネ・パウロ二世、そして現在のベネディクト十六世 -- は彼らが「明白な異端者たち」であるがゆえに、あるいは彼らが、いかなる真の教皇も為さなかったであろう、教会における有害な諸変化を承認したがゆえに、真の教皇ではあり得ないということに同意する。ある指導的な教皇空位論者のスポークスマンを引用すれは:

伝統的なカトリック教徒はさまざまな仕方で、公式に是認された第二バチカン公会議の諸変化の誤謬と悪がどのようにして不可謬的な教会の権威であると見える者から生じることができたかを説明しようと努めてきた。教皇空位論の立場はこの事態の唯一筋の通った説明は、誤謬と悪は欠点のない、不可謬的な教会の権威からは出てくることはあり得ないからして、これらの変化を普及させた教会人たち -- 教皇から下位の者に至るまで -- はある点で個人的な異端を通じて彼らの役職と権威とを失ったと結論することであると主張する。注2)

われわれが見ることができるように、もし人が以下の二つの前提を真なるものとして受け入れるならば、基本的な命題は本来的に妥当である:その前提とはすなわち、(a)「第二バチカン公会議の諸変化」の「諸々の誤謬と悪」は実際に、教会の不可謬性の範囲内での諸領域において行動した教皇と彼の教会法上の従属者たちによって教会に de jure 正当に課された、そして(b)「第二バチカン公会議の諸変化」に係り合いになった教皇たちや他の教会関係者たちは異端の個人的罪について明白に責任があった、ということである。なぜなら、もし彼らが異端者であるならば、不可謬的な教会はどのように可謬的であり得ようか、あるいは教皇を含むカトリックの教会関係者たちはどのようにしてカトリックであり得ようか?

明白な不合理

それらの前提、そしてこのようにしてそれらの結論が明白に間違ったものであるということは後に示されるであろう。しかしそのような論証なしにさえ、最初に、教皇空位論者の主張が明らかに擁護できないものであるということは強調されなければならない。なぜなら、結局のところ、その見解は次のような主張に帰着するからである:1958年以降、カトリック教会の全成員は、これらの教会関係者たちについて「明白で」あること -- すなわち、彼らがすべて正式の異端者たちであるということ -- にひとり気がついていた少数の教皇空位論者たちを除いて、一連の教皇詐称者たちそして司教詐称者たちの位階に忠実であった、と。教会の全成員にとって、ほとんど半世紀にわたって五代の連続した異端的、ペテン師の教皇たちに、そしてペテン師の司教職に忠実であることは、「地獄の門これに勝たざるべし」(マテオ16:18)、また「世の終わりに至るまで日々」(マテオ 28:20)ご自分の教会と共にいる、という御自分の教会に対するキリストの約束を嘲笑の的にするであろう。その頭にいる教皇、そして彼に一致する司教たちなしには、可視的な教会は存在することを止めるであろう、そしてキリストは嘘つきとされるであろう。反キリストが現れ、自己を主張する時には教会は最終的に一つの非常に小さな残りの者へと縮小されるということはあるだろう。しかし、残りの者たちはそれでもなおその頭に一人の教皇、そして彼に一致する何人かの司教たちを持っているであろう。そうでなければ、残りの者たちは教会ではないであろう。それは、ちょうどプロテスタントたちがそれを教会であると想像しているのと同じように、一つの頭のない、そして拡散した「信じる者たちの団体」であろう。まったく単純に、もしペトロが存在しないならば、教会は存在しないのである。教皇レオ十三世が教会に関する彼の記念碑的な回勅、Satis Cognitum において教えられたように:「ちょうど建物がその土台に支えられているのと同じように、神の意志と命令によって教会は聖ペトロに支えられている。ところで、土台の固有の本性は建物のさまざまの部分のための結合の原理であることである。それは安定と力の必要条件でなければならない。それを取り除いてみよ、そうすれば建物全体は崩壊する。」注3

ところでもちろんのこと、ある教皇の死と彼の後継者の選出との間には空位期間があり、その間は教会は一時的に教皇なしである。しかし教皇空位論者の見解は、最後の五人の選出された教皇たちは教皇ではなかったと主張しており、そして教皇の身分詐称およびペトロの空いた座というその主張には見える範囲に限界がない。この考えは第一バチカン公会議の不可謬的な決定と破門条項に矛盾する。それは教皇の継承の永続性可視性とを強調している:

しかし、司教職それ自体が一であり分割されないものであるということ、そして信徒の全大衆が司祭たちを通じて相互に密接に結びつけられているということは信仰と交流の一致において保たれるであろう。聖ペトロを他の使徒たちの上に立てながら、彼[キリスト]はペトロにおいて、彼の力の上に永遠の神殿が建てられる、両方の一致の永遠のそして可視的な基礎を確立なさった....

さらに、牧者たちの頭、そして羊の偉大な牧者、主イエズスが祝せられた使徒ペトロにおいて教会の永遠の継続永遠の善のために建てられたもの、これはその同じ作者によって、一つの岩の上に建てられ、諸々の時代の終わりまで堅固に持ちこたえるであろう教会において常に持ちこたえなければならない....

そこで、もし誰かが、祝せられたペトロが普遍的教会に対する首位性において永遠の継続者たちを持っているのは主キリスト御自身の制定からではない、あるいは神の権利によってではない、と言うならば....その者は破門せられるべし

それゆえに、教皇空位論者たちは、全教会の可視的な基礎としての教皇制の永続的な継続を疑問視する者を非難し、教会から排除する第一バチカン公会議の破門条項を軽く扱っているのである。現在の教会の危機に対する「唯一の首尾一貫した説明」であるどころか、教皇空位論者の主張は -- 異端ではないとしても -- 、考えられないものである。

教会はその歴史において、一瞬間でさえ、正当に選出された前任者が亡くなったときに正当に選出されたペトロの後継者を持たなかったことはない。実際、教会史における二人の教皇の間の最長の空位期間は教皇ニコラス四世(1292年)の死と教皇セレスティヌス五世(1294年)の選出の間のわずか2年だけである。およそ38年間続いた(1397-1417年)西欧大分裂の間でさえ、全体的な分裂が反教皇ヨハネ二十二世の辞任と1417年のマルティヌス五世の選出で解決されるまで、一連の反教皇たちと同時に支配した常に真の教皇たちがいた。にもかかわらず、教皇空位論者たちは、1958年以降、支配している真の教皇を持たずに、 -- ペトロのいかなる後継者もなしに47年の間、実際全教会が何らかの仕方で正当だと認めた一連の五人の反教皇によって、教会が苦しめられてきたということをわれわれに信じさせようとしているのであろう。ペトロの後継の永遠性に関する第一バチカン公会議の不可謬的な教えのこれ以上の露骨な反対を考えることは困難である。

それゆえに、神の約束と教会の不可謬的な教えを前にして、教皇空位論者の立場は、たといそれがその信奉者たちにどれほど「論理的」と思われようとも、明白に不合理なものとして退けられ得るだけである。

明白に不合理なものを擁護することは、例えば、何人かの有名な弁護士が、ことをうまく成し遂げるために気前よく支払われる仕事である。なぜなら、明白な不合理(あるS氏の無罪のような)が道理にかなったものであるということを裁判官あるいは陪審員に説得することはかなりの技巧を要するからである。しかし、たといその努力が成功するとしても、不合理であることはそれでもなお不合理である。そのようなものが教皇空位論者の主張の場合である。故マイケル・デイヴィスが称賛すべき簡潔さで言ったように:「誰か真のカトリック教徒が、カトリック教徒であるということが何を意味するかについての感覚を持っている者は誰でも、そのような狂気に、重大な考慮はさておいて、何らかの考慮を与えることができるであろうか?」注4)

G. K. チェスタートンはその傑作正統信仰においてこう述べた:「狂人とは彼の理性を失った人ではない。狂人とは彼の理性以外のすべてのものを失った人である。」そのような人間は、とチェスタートンは書いた:「牢獄の中、一つの思想の牢獄の中にいる。」その一つの思想を支持する論理的な議論のすべてを展開したならば、「ある事柄についてのその狂人の説明は常に完全である。そしてしばしば一つの純粋に合理的な意味において満足できるものである。」それゆえに、チェスタートンはこう結論する。「もしあなたが狂人と議論するならば、あなたがそれの最悪のものを得るであろうということは大いにあり得ることである。なぜなら、多くの仕方で、彼の精神はよい判断に同伴する事柄によって遅らせられないようにますます早く動くからである。」

教皇空位論者のますます多様化されたそしてますます洗練された議論もまたそうである。それは教皇空位論者たちが彼らの信念を保持することにおいて文字通り狂気であるということはでない。それは私が示唆しようとしていることではまったくないし、また唯物論的体系の「論理」によって捕らえられた近代精神の持ち主の働きに関してチェスタートンが示唆しようとしたことでもない。むしろ、教皇空位論者たちが、たとい彼ら自身がまったく正気であり、そして多くの場合非常に知性的であるとしても、狂人の見通せない自己完結した推論を提示しているということである。教皇空位論は教皇空位論者たちにとっては完全に論理的である。しかし、外部から彼らの本来はもっともらしい体系を眺めて、その主張を評価することにおいて情報に基づいたよい判断を行使するどのカトリック教徒にとっても完全に狂気のものである。

「小さな」始まりから

私が「教皇空位論者の企て」(これ以後は単純に企て)と呼ぶであろうものの最初の出版は、教皇ヨハネ二十三世によって召集された公会議の名において教皇パウロ六世によって権威づけられ、あるいは許容された教会の第二バチカン公会議以後の「改革」の否定すべくもない破滅的な過程に対する一つの反応として1976年頃に現れた。企ては神学者たちによって一般に受け入れられている一つの神学的仮説:すなわち、教皇はもし彼が真のそして固有の正式の異端者となったならば、すなわち、もし彼が周知のこととして、そして断固として(公然とまた頑固に)、聖三位一体における三つのペルソナの存在のような、神的、カトリック的な信仰箇条を否定あるいは疑うならば、彼の[教皇としての]座を失うであろうという、聖ロベルト・ベラルミンの神学的仮説を取り上げることによって始めた。(より神学的でないある誤謬の告白は正式の異端ではない、なぜなら、すべてのカトリックの教えが信仰箇条であるわけではないからである。)

パウロ六世は正式の異端のために彼の教皇座を失ったのか? あるいは以前に存在している異端のために教皇座に達することに失敗してさえいるのか? ヨハネ二十三世は同じように、異端のために[教皇座から]落ちたあるいはそれへ登ることに失敗しているのか? このことは、これら二人のペトロの座の占有者がどのように、教会に対するそのような損害を認め、あるいは許容することができたか -- すなわち、彼らが二人とも教皇座に対する詐称者であった -- を説明しているのであろうか? これらは、われわれが見るであろうように、企てが理論的なレベルにおいてほとんど統合されていないけれども、企てが間もなく肯定的に答えるであろう問いであった。これらの「小さな」始まりから、企ては、それが今日あるものへとキノコのように急成長してきた:すなわち、1958年のピオ十二世の死去以来われわれは単にいかなる教皇も持たなかったばかりでなく、またそれ以来いかなる枢機卿も正当に産み出されず、またいかなる司祭も正当に叙階されず、あるいは司教たちは「反教皇たち」パウロ六世、ヨハネ二十三世、ヨハネ・パウロ二世、そしてベネディクト十六世によって承認されたそして/あるいは用いられた「不当な」儀式の下で奉献されてきた、ということになる。

換言すれば、企ては、単に47年間教会はいかなる頭も持たなかっただけではなく、また教会法上の諸々の司教区の教会の公式の構造の内に生き残っているほとんどいかなる司祭、司教あるいは枢機卿も存在しない、そして公会議以前の儀式の下で「正当に」叙階された少数の「公式の」聖職者さえ、おそらく「第二バチカン公会議の諸変化」と「詐称諸教皇」への彼らの支持のために彼らの役職を失ったということを提案しているのである。企ての周辺にいるある人々は聖ピオ十世会の聖職者の司祭叙階と司教奉献の正当性さえ(その創設者マルセル・ルフェーブル大司教の司教奉献のそうだと主張されている障害のために)疑問視している。注6)企てはこのようにして事実上、企てによって正当だと見られた一握りの教皇空位論者の司祭たちと司教たちだけが痕跡を残したカトリック位階の真に忠実なメンバーであると主張するのである。

その結果、企ては、神による「奇跡的な」介入なしには再び正当な教皇を選出することは不可能であろうとわれわれに知らせる。事実上、教会はもはや一人の頭あるいは支配する位階を持っていないので、もはや可視的な制度としては存在しない。キリストの約束は、たぶん教会を真の消滅から取り戻すであろう一つの仮説的な deus ex machina 機械仕掛けの神のために無視されている。

企ての最善の出版物の中ではこれらの命題が見かけ上はもっともらしい議論そしてある印象的な学問性さえによって支持されている。しかしもしこれらの命題が「明らかに不合理なもの」のカテゴリーに属さないならば、そのとき何物も属さない。それでも、教皇空位論者の主張の功績を議論することは必要である。なぜなら、教会の混乱のこの時においては、多くのカトリック教徒は彼らがその一つを見るとき神学的不合理性を認めないからである。彼らは器用な議論と見かけ上圧倒的な証拠書類によって騙され得る。それゆえ、騙され易い人々に助けを提供することを希望して企ての諸々の主張の反駁へと進むことにしよう。

教皇の「異端」を判断すること

もし教皇が異端者となったならば、彼はそのことによって教皇であることを止めるであろうということは確かに本質的にはもっともらしい。なぜなら、異端者はカトリック教徒ではなく、そしてカトリック教徒でない者は教皇であることはできないからである。すでに述べたように、神学者たちはこの理論的な可能性を一般に受け入れている。聖ロベルト・ベラルミンはその神学的な一致した意見を次のように要約した:「明白な異端者である教皇は ipso facto まさにその事実によって、ちょうど彼が自動的にキリスト教徒であることそして教会のメンバーであることを止めるのと同じように、教皇であり頭であることを止める...」注7)

しかしながら、問題は二つある:第一に、教皇は真に明白な異端を言い表したのでなければならない。そのことは、単に教会の教えに反する何らかの誤りではなくて、三位一体のような神的およびカトリック的な信仰箇条の否定を要求する。第二に、教皇はその異端を言い表す際に、彼が一つの信仰箇条を知りつつそして強情に(頑固に)否定することにおいて実際に異端の個人的な罪の犯意があるのでなければならない。彼の誤った信念がカトリック信仰と矛盾しないと考える人は形相的異端の罪の犯意があるとされることはできない。彼は教会のメンバーとしてとどまる質料的異端者であるにすぎない。

Prima Sedes a nemine iudicatur -- 「誰も第一の座を判断しないであろう」という格言があるとすれば、教会のいかなる孤立したメンバーがどのように形相的異端のための条件が満たされたと決定するべきであろうか? 誰も教皇を判断することを許されていないということ -- すなわち、彼の言葉の異端的な意味に対立するものとしての異端についての彼の個人的な罪 -- はわれわれの宗教の基本的な真理であり、同様にまた理性の命令である。このことは、教会の神的な創設者の意志によって、地上には教皇の役職にまさるいかなる役職も存在しないがゆえに、そうなのである。

事情がそのようであるとすれば、教会の孤立したメンバーたちはどのようにして、一つの異端を言い現した教皇が彼の正気を失わなかった、彼の言葉の選択において何らかの恐るべき間違いをした、彼の生命に対する脅迫のような何らかの強制の支配下に置かれた、あるいはどういうわけか彼の誤った見解が信仰に反するものではないと自らを納得させたということが確実だと知るであろうか? 撤回する機会を伴った教皇自身の直接の尋問を含む、教皇の陳述や周囲の状況を詳細に調査する手続きを欠いているので、その事柄を完全にそして公平に判断することは不可能であろう。実際、マルティン・ルターでさえ、彼らの諸々の見解を擁護するために召喚され、そして次に、最終的に破門の宣告を受ける以前に彼の41の異なった異端を撤回するために60日を与えられた。注8)正確に言って誰が教皇にこのしかるべき過程を与えるであろうか? それとも、われわれは教皇職の保持者がマルティン・ルターのような人物よりも正義に対する資格を与えられることにおいてより劣っていると信じるべきであろうか?

一つの救済策

このことは、教会が一つあるいはそれ以上の信仰の教義を公式に否定するある明白に異端的な教皇の場合に救済策を持たないということを意味しない。この救済策は生存している教皇に対して用いられたことはまだないけれども、注9)フィレンツェの聖アントニオおよび教会博士聖アルフォンソ・リグオリによって教えられた一つの受け入れられた神学的見解は、ある教皇が実際に一つの「明白な」異端を宣言あるいは教えるならば、一般公会議はその教皇によって言い表されたと主張されている陳述あるいは諸陳述を立証するために集まることができると規定している。もしそのような公会議が召集されたならば、教皇は彼の言葉を説明する、あるいはそれらを撤回する一つの機会を与えられるであろう。そして公会議に出頭することを彼が拒否するならば、それは強情の証拠と考えられ得るであろう。公会議はそのとき、その教皇は彼自身の行為によって、自らを教会から排除した、そのことによって教皇であることを止めたと宣言することができるであろう。その結果、新しい教皇の選出が安全に進行することができるであろう。この手続きは教皇の人格に対する判断を含まないのであって、単に異端を信奉し、そうする機会を与えられたときにそれを説明あるいは撤回することを拒否することによって、教皇が彼自身に対して為したことを立証する一つの宣言文にしかすぎない。ひとたびそれが、ある教皇が信仰の決定された教義を知りながらそして頑固に否定し、彼の個人的な神学的見解が信仰に矛盾するということを知っているという事実として立証されたならば、、教義的決定それ自体(第一バチカン公会議の用語を用いるならば、ex sese)は教皇に反対する一つの宣告を構成する。これは、教会の教義的な諸決定が改革され得ないものあるいは「変えられ得ないもの」だからである。それは第一バチカン公会議がローマ教皇の不可謬的な教導権を定義した際に宣言した通りである(それはまたある教皇によって承認されたエキュメニカルな公会議の不可謬的な諸決定にも適用される)。それゆえ、教義的な諸決定は一般に、決定された教義を否定する誰についても宣言する破門に附加される:「彼は破門されよ」-- すなわち、彼は呪われ、教会から排除されよ。

しかし議論のためにピオ十二世以降の教皇たちの一人あるいはそれ以上の者が明白な異端を言い表したと仮定してさえ、いかなる一般公会議もそのような何らかの陳述を詳しく調査するため、あるいは非難された教皇の側での強情さを決定するために召集されなかった。しかし企ては第一歩を踏み出しさえしていない。というのは、われわれが見るであろうように、その疲れを知らない諸々の努力にもかかわらず、企てはヨハネ・パウロ二世あるいはパウロ六世の多くの曖昧な宣言や不安な(恥ずべきでさえある)行動のうちにいかなる「明白な」異端をも同定することに失敗してきたからである。そしてヨハネ二十三世あるいはヨハネ・パウロ一世の場合にはそれ以上にもっと失敗してきた。例えば、企ての文献の中で典型的なものである「反教皇ヨハネ・パウロ二世の101の異端」と題された小冊子は単に、何らの単純に異端的な諸命題をも引用することなしに曖昧な教皇の諸陳述の偏向した解釈の目録を作っているにすぎない。あるいはそうでなければ、それはヨハネ・パウロ二世がコーランに接吻しているというようなスキャンダルを引き起こす教皇の行動を「明白な異端」として列挙している。注11)(後者は形相的な異端にはならなかった。コーランの接吻は神的カトリック的な信仰箇条の強情な否定ではなく、むしろその書物を教皇に贈呈したイスラム教の代表団に対する尊敬のおそらく衝動的なそして確かに不埒な身振りである。)注12)

ヨハネ・パウロ二世だけが、トレント公会議で不可謬的な教導職が教会史におけるおそらく最悪の異端者マルティン・ルターのうちに見出すことができたよりももっと多くの少なくとも60の「明白な異端」について企てによって非難されて立っているということは、企てのアマチュアの異端探偵たちに反省のための最小の中断をも与えない。躊躇することなく「明白な」というラベルを彼らが貼りつける教皇の「異端」を次から次へと見つけながら、彼らは先へ先へと進む。

われわれが明白な異端を次のようなものとして定義しているということを思い起こしてほしい:第一に、三位一体のような神的およびカトリック的な信仰箇条の否定であって、単に、教会の教えに反する何らかの誤りではないということ。第二に、教皇は、その異端を言い現す際に、彼がある信仰箇条を知りつつそして強情に(頑固に)否定することにおいて異端の個人的な罪について実際に犯意を持っているということ。さらに、彼の誤った信念がカトリック信仰と矛盾しないと考える人は形相的異端の罪について犯意を持っているとされることはできない。彼はただ教会のメンバーであり続ける質料的異端者であるにすぎない。

公会議諸教皇の宣言のうちに「明白な」異端を見出すことにおける企ての成功の欠如を教皇ヨハネ二十二世の歴史的な例と比較してみよ。1331年に何人かのフランス人神学者たちとオルシニ枢機卿とはヨハネ二十二世が、一連の説教の中で、亡くなった福者の霊魂は、煉獄での彼らの定められた時を終えた後、最後の審判の後までは神を見ないと教えたとき、彼を異端者として公然と非難した。オルシニ枢機卿は、すでに指摘したように、真に明白な異端を処理するそのような公会議を提案している聖アルフォンソ・リグオリとフィレンツェの聖アントニオの教えにまさに一致して、教皇を異端者として宣告するために一般的公会議を要求した。このやり方に直面して、ヨハネ二十二世は、彼が全教会を彼の説教に縛りつけることを意図していなかったと答え、そして問題を考察するために神学者たちの一つの委員会を指名した。委員会は教皇に、彼は誤っていたと知らせた。そして彼は数年後、彼の死の前日にその誤りを撤回した。注13)異端者として公然と非難され、そして彼の異端を宣言するために一般公会議をもって脅迫されたにもかかわらず、ヨハネ二十二世は教会によって教皇と見なされることを決して止めることはなかった。そして教会史は彼をそのようなものとして正当に記録している。

もう一つのためになる歴史的例は教皇ホノリウス一世(625-638年)の例である。ホノリウスはコンスタンティノープルの総主教セルギウスによって提議された曖昧な定式文を承認した。その定式文は単意説の異端、すなわち、キリストは異なった人間的意志と神的意志を持っておられたというよりはただ一つの神的意志のみを持っておられたという誤り、に賛成した。セルギウスの定式文の意味の誤解の下に働いているけれども、ホノリウスは「異端の非難に身を曝した。」注14)それゆえ、第三コンスタンティノープル公会議(680-81年)は、異端を主張したという理由で、セルギウスと共にホノリウスを死後に非難した。教皇レオ二世は公会議の非難を確証した。しかし、それは、「ホノリウスは....使徒の権威となったので、その最初の始まりにおいて異端的な教えの炎を消さず、それを彼の不注意によって助長した」という意味において理解されるべきことを望んだ。彼は曖昧な定式に同意したのであり、その結果「全問題はもみ消されるべきだった。」注15)にもかかわらず、ホノリウスは一般公会議によって異端のゆえに死後に非難されたけれども、教会は彼が、たとい彼のまさに在位期間の間異端を非難され続けたとしても、教皇であることをやめたとは考えていない。

教皇たちは抵抗されてもよい

ヨハネ二十二世とホノリウスの例はわれわれに、誤りに陥っている、あるいは教会の共通善に害を及ぼす恐れのある何らかの行動を取る教皇に向けて言うカトリック的なやり方を示している:すなわち、人はあるわがままな教皇に抵抗することが許されるが、しかし(一つの純粋に宣言的な宣告を発する一般公会議の尺度が欠けている場合には)人は教皇を私的に裁き、あるいは彼の座が空位であると宣言することは許されない。

聖トマス・アクィナスは、信仰に対する危険が存在するとき、教皇をさえ非難し、正す積極的な義務を教えているが、しかし彼の権威が剥奪されたと宣言する義務を教えていない。神学大全において、「人は自分の上長を正す義務があるか」という問題の下に、聖トマスは次のように結論している:「しかしながら、もし信仰が危険に曝されたならば、臣下は彼の高位聖職者を公然とさえ非難すべきである。それゆえ、ペトロの臣下であったパウロは、信仰に関するスキャンダルの差し迫った危険のために、彼を公に非難した....」(ペトロは将来可能性のある改宗者たちに衝撃を与え、モイゼの律法に従う外見を与え、異邦人たちと食事をすることを拒否することによって教会の使命を脅かした。)聖トマスはここで、ある高位聖職者の公的な非難が「無遠慮な高慢の気味があるように見えるであろうが、しかしある点において自らをよりよいと考えることには何ら無遠慮は存在しない。なぜなら、この世においては、誰も欠点がないわけではないからである。われわれはまた、ある人が彼の高位聖職者を愛をもって非難するとき、彼が自分自身を何かよりよいものと考えているということは帰結しない。それは、アウグスティヌスが、上に引用した彼の規則の中で述べているように、単に彼が『あなたたちの間でより高い地位にいて、それゆえにより大きな危険のうちにいる』人に彼の助けを提供するにすぎない、ということを思い起こさなければならない」と述べている。注16)

しかしながら、聖トマスの教えのうちには、「信仰に関するスキャンダル」を犯した教皇は、ヨハネ二十二世がそうであったように、非難され正されてもよかったとしても、教皇であり続けるということが含意されている。この同じカトリックの原理はその著 De Romano Pontifice 「ローマ教皇論」を書いた教会の偉大な博士、聖ロベルト・ベラルミンによってこう要約されている:

身体を攻撃する教皇に抵抗することが正当であるのとまったく同じように、霊魂を攻撃する者、あるいは市民的秩序を乱す者、あるいはなかんずく教会を破壊しようとする者に抵抗することは正当である。私は、彼が命令することをしないことによって、また彼の意志が実行されることを妨げることによって彼に抵抗することは正当であると言う。しかしながら、彼を裁き、罰しあるいは退位させることは正当ではない。というのは、これらの行為は上長に固有のことであるからである。注17)

一人の教皇空位論者は、このしばしば引かれる引用に先行する節を引用しながら、その文脈において聖ベラルミンが論じているのは、ただ「政治的秩序を転覆させる、あるいは『彼の悪しき例によって霊魂を殺す』教皇に対する『王たちあるいは公会議』」による抵抗だけである、そしてベラルミンの教えは異端の場合には適用されないと論じている。しかし、ベラルミンはどこででも、「王たちあるいは公会議」が異端の犯意ありと教皇を裁くことができるとは教えていないし、まして教会の孤立したメンバーたちがそうできるとは教えていない。実際、この教皇空位論者自身が認めるように、もしベラルミンが、王たちあるいは公会議は政治的秩序の明白な侵害あるいは明白な不道徳のためでさえ教皇を裁きあるいは退位させることを許されなくて、ただ抵抗することだけを許されていると教えているのであるならば、いかなる権利によって彼らは、それより遙かに重大な異端の問題 -- さらに、王たちや公会議の専門的意見を超える問題 -- において教皇を裁き、あるいは彼が退位させられると考えるのであろうか? 注18)そして、さらに、もしいかなる教皇も、一般の教会メンバーたちによって私的に異端者と判定され、忌避されそして事実上退位させられ得るとしたならば、非難された教皇はどのようにして、マルティン・ルターのような異端者たちでさえ与えられているしかるべき手続きを受けるであろうか?

教皇パウロ五世によって敬虔で傑出した神学者(eximius et pius)と呼ばれた有名な十六世紀の神学者フランシスコ・スアレスはわがままな教皇に対する抵抗の原理を次のように説明した。

そしてこの第二の仕方において、教皇は、もし彼が全教会を破門しようとするならば、あるいはカエタヌスとトルケマダが述べているように、もし彼が使徒的伝統に基づいた教会の諸儀式を転覆しようと望むならば起こるであろうように、もし彼が教会の全体との通常の一致のうちにいることを望まないならば、分派的であり得よう....もし[教皇が]正しい慣習に反する命令を与えるならば、彼は従われるべきではない;もし彼が正義と共通善に明らかに反する何かあることをしようとするならば、彼に抵抗することは正当なことであろう...注19)

十六世紀に一人の尊敬された神学者が、教皇は彼自身の臣下たちが抵抗するように強いられれるであろう分派的な行為の罪を犯し得るという可能性を文字通りに議論したということは注目に値することである。しかし、スアレスはどこにも、信徒のいかなるメンバーも、司祭あるいは司教でさえ、教皇が実際に分派に陥っている、そしてローマ教皇であることを止めたと宣言することを許されているとは、教えていない。その反対に、スアレスはもっぱら、彼の分派的な行為にもかかわらず教皇であり続ける者に抵抗するという見地から話している。注20)

明らかに、そのとき、これまで一般公会議の使ったことのない仕掛けが欠如しているので、抵抗 -- 裁きあるいは退位ではなく -- が明白に異端的な教皇を扱う際の唯一の選択肢である。この点に関する教会の精神は教皇パウロ四世によって彼の大勅書 Cum Ex Apostolatus Officio(1559)において教皇の教導職のレベルで表明された。プロテスタントの反逆の真っ只中で一人の未来の教皇がプロテスタントの異端に屈するかもしれないということに重大な仕方で関心を示して、パウロ四世は「われらの神および主イエズス・キリストの地上における代理であり、人民と諸王国に対して権力の十全さを保持し、すべての者を裁くことを許されているが、この世では誰によっても裁かれないローマ教皇は、にもかかわらず、もし彼が信仰から逸脱したと見られるならば、反対されてよい。」

これは二つの理由で注目すべき陳述である:第一に、それは、誰も、そうだと主張される教皇の信仰からの逸脱に直面したときでさえ、第一の座[教皇]を裁くことを許されないという教会の不変の教えを確証している。第二に、それはにもかかわらず、教皇は教皇であり続けている一方で信仰から逸脱するかもしれない可能性を認めている。そのような場合に、誤っている教皇はただ反対されることが許されるだけであって、裁かれることは許されない。われわれは後に、コンクラーベが彼を教皇に選ぶ以前に明白な異端者と知られている誰かある者に関するパウロ四世の既定を論じるために立ち戻るであろう。しかし今のところは、ここでは、教導職が、信徒はわがままな教皇に抵抗することは許されるが、異端の個人的な罪の犯意があると判断し、彼の座が空位であると宣言するいかなる権利も持っていないということを確証していると言うことで十分である。

基本的な問題

そこで、このことは企ての基本的な問題である:すなわち、その立場全体は、教皇制のまさに本性そのものがそのような判断を排除しているときに、公会議諸教皇がすべて異端的なペテン師たちである、という真にプロテスタントたちに相応しい一つの私的な判断に基づいているのである。ある教皇が異端のゆえに彼自身を破門したと宣言する一般公会議の可能性は存在するけれども、企ての立場は、そうだと主張された教皇の「異端」あるいは他の教皇の諸々の失敗の存在と諸結果に関する立証できないそして純粋に議論の余地ある私的な見解(教皇の個人的な動機に関する推測、伝聞、あるいはせっかちな判断にしばしば基づいた)の寄せ集めに他ならない。

企ては、そのとき信仰あるいは教会の善に反するものと思われる教皇の言葉や行為の異常な出来事に直面したときにカトリック教徒がすることを許されていることについての諸々の制約を認めることを単純に拒否しているのである。これらの制約は教会における現在の危機を良心において取り扱うためにまったく十分な行動の自由を提供する。それゆえ、企ては危機を取り扱うためには無益である。もっと悪いことには、それは危機に対する反対の真に建設的な運動に捧げられ得るであろう時間と知的エネルギーの大きな浪費である。さらに、企ては、教会の回復のために働こうと努めているカトリック教徒たちの間に無意味な分裂を引き起こしながら、スキャンダルと異端に対する教会の真の擁護のために用いられ得るであろう財政的および他の諸々の資源を搾り取っているのである。

企てが反対されなければならない理由

しかし、私がすでに示唆したように、企てを役に立たないとして退け、そこにそのままにしておくことは十分ではない。なぜなら、それが流布している諸々の見解は単なる学問的な練習題ではないからである。表面的にもっともらしい論理と山のような文書をもって、企ては信徒のある者たちを真の固有の分派へと導き入れた。この分派は消滅している教皇と位階という企ての教説に基づいて彼らの推定上の役職を正当化する司教たちや司祭たちの違法なそして疑わしい叙階と共に起こった。

1976年以来、企ては世界中に散らばった100人以上の司教を違法に叙階してきた。これらの司教の「系譜」はユエ(ベトナム)の名目上の大司教、故ンゴ−ディン−テュク司教(1897-1984)によってスペイン、パルマル・デ・トロヤにおいて1976年に行われた5人の司教たちの違法な叙階で始まった。テュク大司教は1977年にバチカンと和解したが、より多くの違法な司教叙階がその後間もなく続いて、教皇空位論へと逆戻りしただけであった。1982年にテュク大司教は、「ローマにおけるカトリック教会の聖座は空位であり、カトリック教会が霊魂たちの救いのために継続することができるように、私が一司教として私のできるすべてのことをすることは適切なことである」と宣言する、いわゆるミュンヘン声明を出した。ここにわれわれは企てがカトリック教会の存在を継続しているというその信念を見る。

テュクによって叙階された司教たちは「後継者たち」を叙階した。彼らのうちの数人はさらに「後継者たち」を今度は叙階した。他のラインは、プエルトリコ、アレシーボの引退したローマ・カトリック司教アルフレド・ホセ・イサク・セシリオ・フランセスコ・メンデス-ゴンザレスC.S.C.による1995年のクラレンス・ケリー神父の違法な司教叙階によって始まった。このことは不可避であると思われるけれども、ケリーはこれまでのところ彼の「後継者」を叙階しなかった。

企ての司教たちはほとんど一つの団体として一致していない。彼らはむしろ、たとい彼らが教会における権威の地位について同じ基本的な結論を共有しているとしても、お互いに他の教説と正当性を疑問視している。例えば、ケリー司教は「テュク路線」の叙階の妥当性を無効だと主張している。そして何人かのテュク路線の司教たちはケリーの叙階の妥当性を無効だと主張している。理論的なレベルでは、ドナルド・サンボーン司教(「テュク路線」のロバート・マッケナ司教によって2002年6月に叙階されたテュク路線の司教)と彼に従う人々は厳格な教皇空位論の線 -- ペトロの座は1958年以来文字通り空位であるという -- から離れ、ピオ十二世以来の教皇たちは正当な手続きを経て選出された「質料的な」教皇たちであるが、彼らの異端のために「形相的な」教皇ではないと主張している。教皇空位論の主張の不合理な諸結果を避けるための一つの努力において考えだされたこの議論は以下でさらに論じられるであろう。

聖ピオ十世会は教皇空位論者ではない

企ての司教たちから根本的に区別されなければならないのは、1988年に故マルセル・ルフェーブル大司教によって聖ピオ十世会(SSPX)のために叙階された教皇空位論者ではない四人の司教たちである。(聖ピオ十世会は教皇空位論の主張に対して精力的に反論してきた。)バチカンは四人すべての司教叙階を、SSPXの司教によってなされた司祭叙階と同様に、正当な手続きを経たもの valid として認めている(しかし、彼らが合法 licit であるということを受け入れていない)。さらに、SSPXの司教たちは、教皇の命令なしの司教たちの叙階を禁じている教会法1382の違反のゆえにルフェーブル大司教と四人の司教たち(しかしSSPXの司祭たちおよび平信徒の支持者たちは違う)の latae sententiae (自動的)破門を宣言したヨハネ・パウロ二世の1988年 motu proprio , Ecclesia Dei Adflicta にもかかわらず、聖ピオ十世会の地位の可能的な「正常化」に関してバチカンとの議論を行った。

ここで、教皇の命令なしの司教の叙階に対する自動的な破門の罰を課している教会法の同じカノンがまた破門のような latae sententiae (自動的な)罰則から、たとい緊急の必要の状態における彼のよき信仰の信念が誤っているとしても彼が緊急の必要性があると信じていることから行為する者を除外しているということは注目されなければならない。カノン1323, 4, 7. である。ルフェーブル大司教は、教会におけるこの並ぶもののない危機の間に四人の伝統的なカトリック司教の叙階が一つの緊急の必要性であったというよき信仰の信念において行動したと明言した -- そして誰もその問題に関する彼の精神の状態を判断する立場にはない -- のであるから、たとい彼の信念が誤っていたとしても、この信念が罰の自動的な実施から彼を除外したと彼を擁護して言われ得る。注21)十分皮肉なことであるが、企ての司教たちは上に引用したカノンに訴えることができない。というのは、企ては1983年教会法典が「偽りの公会議」第二バチカン公会議の「異端的な」産物であり、そしてこのようにして無効であると宣言しているからである。注22)さらに、ルフェーブル大司教のカノン1382の違反は、バチカンが大司教に、SSPX の集団内部からの一人の伝統的な司教の叙階に対して原則においては何の反対もなかったということ、そして教皇の命令が与えられるであろうということを確証したように、ほぼ間違いなく単に技術的なものであった。企てによって叙階された司教たちについてはそうではなかった。

バチカンは、SSPX についてのその見解とは正反対に、企ての司教たちの叙階のいずれをも、あるいは彼らが挙行した司祭叙階をも、法的に有効なもとの認めることを拒否している -- その叙階の多くは、儀式が公的な祭式なしに、あるいはその参加が法的有効性を保証する伝統的な共同叙階者たちなしに、ある私的な家で挙行されているというような、疑わしい状況の下で行われた。その結果、SSPX の司祭が SSPX を離れることによって彼の状況を「合法化する」ことを決断するとき、バチカンは単純に彼にどこかの担当任務を提供するが、それに対して(伝えられるところによると)企ての司祭たちはただ平信徒としてのみ「合法化」されることが許される。

究極的な逸脱

企ての拡大している同様な位階は「コンクラーベ主義」の究極的な逸脱へと導いた。教皇空位論の「コンクラーベ主義的」ブランドに従えば、教会の正式の構造が実質的には存在することを止めたので、一人の教皇を選出することが教皇空位論者の残りの者に課せられる。「コンクラーベ主義者たち」のおかげで、世界中におよそ20名の知られた反教皇たちが存在する、アメリカにおいてだけでもペトロの座を要求する少なくとも5人の者(アメリカの企業家精神へのなおもう一つの証明)がいる。[(テュク大司教によって聖職に任じられた)「教皇」クレメンテ・ドミンゲス・イ・ゴメスがコンクラーベによって選出されなかったことは注目されるべきであろう。彼がそう告げているように、神は個人的に彼が教皇であると彼にお知らせになった。自らに「教皇」ベネディクト十七世という称号を与えたクレメンテはまた「諸々の公会議」を開催し、そして「枢機卿たち」を作った。]

コンクラーベ主義的教皇空位論が企てをすら「公式に」否認する企ての一つの変種の副産物であるけれども、それは企て自身の論理の不可避的な自然の成り行きである。なぜなら、企てが主張するように、もし教皇空位論者たちが、最後の四人あるいは五人の教皇たちの「明白な異端」を認める教会の一部分にすぎないならば、なぜ真の信者たちのこの残りの者は一人の教皇を与える一つの「奇跡」を無期限に待つ代わりに、一人の教皇を選出しないのか?

要するに、分派は企ての毒のある結実である。企ては単に教会における権威の状態についての学問的な諸概念をばらまいているのではなくて、むしろ重大な教会の諸結果を伴った重大な誤謬を促進しているのである。企てのメンバーたちは彼ら自身信じる教会の最後の痕跡を作り上げた。さらに、彼らは、企てに参加しようとしないカトリック教徒は信仰を失ったのであり、そしてヨハネ・パウロ二世あるいはベネディクト十六世を教皇として受け入れる人々は「地獄へ行って」いると考える傾向があるか、あるいは公然とそう宣言している。これらすべての理由で、そしてその諸結論の明白な不合理性にもかかわらず、企ては教会の善のために反対されなければならない。

教皇空位論者の議論の三つの線

企てはペトロの座がピオ十二世の死以来厳密に空位であったということを主張する際に三つの基本的な線に従っている。注24)

  1. われわれがすでに概略を述べた議論の第一の線は、問題になっている表向きの教皇は、いかなる異端者も教皇であることができないから、彼が選出される前にそうであったか -- その場合にはその選出は無効であった --あるいは彼の選出の後のある時点でそうであったか -- その場合には彼は異端のために役職から落ちた -- の何れかで、異端者であったということである。あるいは

  2. 第一の議論に密接に関連しているのは、問題になっている表向きの教皇は、彼が、いかなる真の教皇もそうすることができなかったある事柄、教会のために有害な普遍的法律を公布したからして、真の教皇ではあり得なかったという主張である。あるいは

  3. 教皇の選出それ自体が表向きの教皇の人格におけるある障害のために、あるいは選出手続きのある欠陥のために、法的に無効であった。

あたかも彼らの立場により大きな強さを与えるためであるかのように、企てのためのスポークスマンたちは、「たよりとなるもの」を用いる弁護士のように、これらの議論を一つのプレゼンテーションへと結合する:すなわち、表向きの教皇は異端者であり、そしてこのようにして教皇ではなかった、と。あるいは、たといわれわれが議論のために、彼は厳密には異端者ではなかったと仮定するとしても、彼は、いかなる真の教皇も制定することができなかった、教会に対する彼の有害な法律のゆえに教皇ではあり得なかった、と。あるいは、たといわれわれがいかなる厳密な異端あるいは有害な法律も問題になっていなかったと仮定するとしても、それでもなお選出それ自体は障害あるいは手続き的な欠陥のために法的に無効であった、と。

このようにして、企ては、ヨハネ二十三世、パウロ六世、ヨハネ・パウロ一世、ヨハネ・パウロ二世、そして現在のベネディクト十六世は真の教皇ではないというその中心的な議論の周りに議論の同心円的ないくつもの輪を作り上げるのである。これらの議論の輪は実際、「教皇空位論者の要塞」を、その擁護者たちの精神において難攻不落のものとしている。というのは、いかなる反対論者もその中心的な議論の擁護のすべて三つの輪を破ることにおいて彼らの満足のいくように成功することができないからである。彼らにとってその中心的な議論は実際上、反駁に動じることがない、誤りであることを示すことができない、一つの真の公理となった。

しかしながら、企てに係り合いになっていない、そして信仰についてかなりよく知っている人々にとっては、反駁は一つの単純な事柄である。このエッセイの次の部分において、企ての三つの基本的な議論の第一のものについてより詳細な検討をするつもりである:すなわち、ペトロの座は「明白な」教皇の「異端」のゆえに1958年以来空位であるという議論である。

脚注:

  1. ヨハネ・パウロ一世の33日の統治期間は一般に、たといこの可哀相な教皇が、教皇住居へと移るために十分なほど長くなかったとしても、教皇空位論者の主張の中に含まれている。

  2. 教皇空位論者のスポークスマンたちによるすべての引用は、私のファイルの中にある彼ら自身の資料から文字通りに取られている。引用は一般にその帰属を示されていない。というのは、スポークスマンたちの身許はこのエッセイの目的にとって重要ではないからである。

  3. Satis Cognitum(1896), n. 12.

  4. Michael Davies, "The Sedevacantists," The Angelus, February 1983, Vol. VI, No. 2.

  5. 「質料的な」異端者は形相的な異端者と違って、自分が信仰箇条に矛盾していることを意識しておらず、彼の異端的な信念がカトリック的であると考えている。以下の議論を見よ。

  6. ある教皇空位論の理論家たちは、彼らの終わりのない発明の才を表明しながら、1988年のルフェーブル大司教の四人の司教たちの叙階が、彼自身が司教でなかったがゆえに、法的に無効であると論じている!彼らは、ルフェーブル大司教を司教として叙階したリエナール枢機卿はフリーメーソンであった、そしてこのようにして破門されたのであり、司教の叙階をすることができなかったのだと主張している。これらの理論家たちは、リエナールと共に二人の共同叙階者がいたという事実を見過ごしており、その結果リエナールのいかなる不適任[の主張]も的はずれなのである。実際、これが、伝統が、たといただ一人の叙階を授ける者だけが厳密に必要であるとしても、新しい司教たちについて複数の叙階を授ける者を要求する理由なのである。さらに、たといリエナールが唯一の叙階を授ける者であったとしても、フリーメーソンへの加入のゆえの破門は他の司教たちを叙階する能力を彼から奪わなかったであろう。それは分派的な正教会の司教たちがこの能力を奪われないのと同じである。ある教皇空位論者たちは、ルフェーブル大司教が司教を叙階することは、彼が司祭ではなかったがゆえに、できなかったと論じている!彼らは、彼[ルフェーブル]がフリーメーソンだと言われている同じリエナール枢機卿によって叙階されたがゆえに、司祭ではなかった、と結論している。リエナールがフリーメーソンであったということは司祭を叙階する力を彼から奪わなかった。これに対して教皇空位論者たちはなおもっと根拠のない思弁でもって答える:すなわち、リエナールは、たとい彼がそうする力を持っていたとしても、ルフェーブルを司祭にする意図を持っていなかったに違いない、と論じる。なぜなら、フリーメーソンは法的に有効な司祭を叙階することを決して望まないであろうから、と。もちろん、人は隠された動機について推測に他ならないものによって支持された議論を無限に発明する人々と共に決して議論をすることはできない。いずれにせよ、これらの教皇空位論者たちは、マルセル・ルフェーブルがリエナールと二人の共同叙階授与者とによって(このようにしていかなる可能的な無効性をも排除して)叙階されたとき、たといかれがそれを以前に受けていなかったとしても、司祭職への叙階を受けたということに気づいていないと思われる。というのは、司教の叙階は司教の職務の諸能力と共に司祭職の十全性を与えるからである。(教会法の下では、助祭および司祭への叙階はそれぞれ別々に与えられなければならない。しかしもし人が直ちにそして直接的に司教に叙階されるならば、その手続きは正規のものではないけれども、彼はまた司祭でもある。)ここで教皇空位論者たちは秘蹟神学についての無知を明らかにしている。

  7. De Romano Pontifice. II-30.

  8. 「破門に関する大勅書、Exsurge Domine はそれゆえに、7月15日に起草された。それは[ルターの]著作から取られた41の命題を公式に断罪し、諸々の誤謬を含んでいる書物の破壊を命じ、そして60日以内に撤回し、あるいは教会法の罰の完全な処罰をするようにルター自身を召喚した。」Catholic Encyclopedia, "Martin Luther"(1917)から。企ては明らかに、それが、撤回する機会さえなしに、公会議諸教皇を異端者として断罪することができると信じている!

  9. しかし、以下に論じられる一般公会議による教皇ホノリウス一世の事後の断罪の歴史的な例を見よ。

  10. 第一バチカン・エキュメニカル公会議、セッションIV、キリストの教会に関する教義憲章 I 、第4章;Denzinger, 1839.

  11. 正教会のすべての明白な欠陥が形相的な異端となるとは限らない。カトリック教会は教会の教えに反する誤謬の異なった程度に依存する異なった「非難」を採用している。Ludwig Ott 神父の Fundamentals of Catholic Dogma において説明されているように、:「通常の非難は次の通りである:異端的な命題(propositio haeretica )。これはその命題が正式の教義に反するものであるということを意味する。異端に一番近い命題(propositio heresi proxima )。これはその命題が信仰に一番近いものである真理(Sent. fidei proxima )に反するものであるということを意味する。異端の味のする、あるいは異端の嫌疑のある命題(propositio haeresim sapiens sive de haeresi suspecta );間違った命題(prop. erronea )、すなわち、啓示された真理と本質的に関連づけられた真理として教会によって提示されている真理に反するもの(fide ecclesiastica における誤謬)あるいは神学者たちの共通の教えに反するもの(error theologicus);偽りの命題(prop. falsa)、すなわち、ある教義的な事実に矛盾するもの;無分別な命題(prop. temeraria)、すなわち、理由なしに一般的な教えから逸脱しているもの;敬虔な耳に不快な命題(prop. piarum aurium offensiva)、悪しく表現された命題(prop. male sonans)、すなわち、その表現方法のために誤解され易いもの;人をひっかけるような命題(prop. captiosa)、すなわち、その意図的な曖昧さのゆえに非難に値する;スキャンダルを起こさせる命題(prop. scandalosa)。」Fundamentals of Catholic Dogma,(Tan)p. 10を見よ。

  12. イラクのカトリックのビダヴィド総主教があるバチカンの報道機関に語ったように:「5月14日に私は、カドゥム・モスクのシーア派のイスラム聖職者およびイラク・イスラム銀行の管理委員会のスンニ派の議長と共に、教皇によって迎えられた。謁見の終わりに教皇は、代表団によって彼に贈呈された聖なる書物コーランに頭を下げ、尊敬のしるしとしてそれに接吻した。その身振りの写真が繰り返しイラクのテレビで示された。そしてそれは、教皇が単にイラクの人々の苦しみを意識しているだけではなく、彼がまたイスラム教に対して大きな尊敬を持っているということを証明している。」(Fides News Agency, Rome, 4 June 1999)あるカトリック教徒たちはその出来事が起こったということを頑強に否定している。一方で他の人々はそれをうまく言い逃れている。その出来事の写真はたくさんある。例えば、www.garykah.org/html./Popekoran.htm を見よ。

  13. Eric John, The Popes: A Concise Biographical History(1964; repr., Harrison, NY: Roman Catholic Books, 1994), p. 253.

  14. Ibid., p. 115.

  15. Hubert Jedin, Ecumenical Councils of the Catholic Church: An Historical Survey, trans. Ernest Graf, O.S.B.(New York: Herder and Herder, 1960), pp. 47-48; Warren H. Carroll, A History of Christendom, vol. 2: Building of Christendom(Front Royal, VA: Christendom College Press, 1987), pp. 252-54; "Honorius I, Pope," Catholic Encyclopedia, 1913.

  16. Summa Theologica, Q. 33, Art. V, Pt. II-II.

  17. St. Robert Bellarmine, De Romano Pontifice, Book II, Chapter 29.

  18. 企ては、それが五人のそうだと主張されているペテン師の教皇たちの廃位を宣言しているということを決して認めず、それは単に、「明白な」異端による彼らの想定される自己廃位を「述べている」にすぎないと主張している。このように、企ては、一つの明白な事実を単に「述べている」というよりはむしろ、廃位についての明確に述べられた私的な判断を実際には出している。この巧みな工夫はエッセイの次の部分においてもっと十分に論じられるであろう。

  19. De Fide, Disp. X, Sec. VI, N. 16.

  20. パウロ六世もまた実際に、「使徒的伝統に基づいた教会の諸々の儀式を法的に転覆」されたことはなかったということは注目されなければならない。新しいミサを公布するために公にされる際に教皇パウロ六世は決して法的に伝統的なミサを廃止されなかった。Latin Mass 雑誌、Catholic Family News そして The Fatima Crusader において報じられたように、ヨハネ・パウロ二世は1986年に伝統的なミサの法的地位を考察するために彼が召集なさった枢機卿たちの委員会によってこの事実について勧告を受けられた。委員会は8対1の投票によって、パウロ六世が決して法的に伝統的なミサを禁止されなかったということを決定した。9対0の投票によって、委員会はすべての司祭は伝統的なミサ典礼書を用いる自由があると決定した。委任事項の存在と投票はその委員会の9人の枢機卿たちのうちの一人、アルフォンス・スティックラー枢機卿によって公的に明らかにされた。

  21. 実際、1983年の教会法はこれよりももっと寛大でさえある。カノン1324はさらに次のことを規定している:#1違反を犯した者は処罰を免除されない。しかし法律あるいは命令書において指示された処罰は、もしその違反が:5。たといただ相対的にしかすぎないとしても、あるいは必要性あるいは重大な不都合の理由によって、もしその行為が本質的に悪である、あるいは霊魂に有害である傾向があるならば、重大な恐怖によって強制された者、8。カノン1323,nn. 4 あるいは 5 において言及されている諸状況の何かあるものが存在すると、誤って、しかし不埒にも考えた者によって犯されたならば、少なくされなければならないか、あるいは罪の贖いがその場所に取って代わられなければならない。#3#1において言及された諸状況においては、違反者は自動的な処罰によって縛られない。このように、教皇ヨハネ・パウロ二世自身の教会法典は、たといやむを得ない状況におけるある人の信念が誤ったものかつ責められるべきものであったとしても、そしてたといその違反が本質的に悪しきものあるいは霊魂たちにとって有害なものになるけいこうがあるとしても、人は違反のために自動的な処罰によって縛られないと規定している。教会法のこの規定は寛大であると思われるけれども、それは教会法上の審理無しの自動的な処罰の一つの合法的な忌み嫌いを反映している。そのような場合には、処罰を宣言するために裁判あるいは法的な手続きが行われるまでは処罰はないのである。ルフェーブル大司教はいずれの手続きの利益をも決して受けなかった。このように、教会法それ自体は彼、あるいは彼が叙階した司教たちに対する自動的な処罰を排除しているのである。そしていかなる処罰も法的な手続きなしには課されることはできないのである。

  22. 企ての一人の司教が述べたように:「第二バチカン公会議は間違った公会議であることが明らかとなった....この公会議の異端的な性格は....1983年教会法によって確証される....それは教会の一致に関する諸々の異端を証明している....」

  23. Sedevacantism: A False Solution to a Real Problem,(Angelus Press: Kansas City, MO, 2003), pp. 8 - 9 を参照せよ。

  24. すでに述べたように、われわれは「質料的」教皇対「形相的」教皇の理論についての議論をこのエッセイの別の部分に譲ることにする。

2005/08/21 三上 茂試訳

ファチマ・クルーセイダー、2005年夏(第80)号目次 へ

Defending the Papacy - Opposing the Sedevacantist Enterprise: Part I - Introduction へ

 マリア様のページ

 トップページ

作成日:2005/08/21

最終更新日:2007/09/27

inserted by FC2 system