異端に対する憎しみのないところには聖性はない

The Fatima Crusader Issue 82 Spring 2006 03

フレデリック・ファーバー神父

フレデリック・ファーバー神父は19世紀の最も傑出したそして愛されたカトリック作家たちの一人であった。

われわれは、罪を憎むべきであるようにもしそれを純粋に鋭く憎むならば、もっと多く告解をし、もっと多く自己を罰し、われわれの罪のためにもっと永続的に悲しむべきである。次に再び神に対する最高の背信行為は異端である。それは諸々の罪の中のまさに罪であり、神がこの極めて危険な世界において軽蔑なさる諸々の事柄の中で最も忌まわしいものである。それなのにわれわれはその極端な憎らしさについてどのようにわずかしか理解していないことであろうか!それは神の真理を汚すことであり、すべての不純な事柄の中で最悪のものである。

それにもかかわらず、われわれはそれを何と軽んじていることであろうか!われわれはそれを眺め、そして冷静である。われわれはそれに触れ、そして身震いをしない。われわれはそれと交わり、そして恐れを持たない。われわれはそれが聖なる事柄に触れるのを見、そして神聖冒涜の感覚を持たない。われわれはそれの香を呼吸し、そして嫌悪あるいは反感の身振りを示さない。われわれのうちのある者はそれの親交を好み、そしてある者はそれの罪を情状酌量しさえする。われわれは神の栄光のために怒るほど十分に神を愛していない。われわれは人々の霊魂に対して慈悲深く真実を語る者であるほどに彼らを愛していない。

天国に対する熱心さの触覚、味覚、視覚そしてそのすべての感覚を失ってしまえば、われわれはこの憎むべき疫病のまっただ中で、おそらく寛大な共感をしきりに示そうとさえしながら、自由の賞賛についての自慢げな告白を伴うことなく、それ(異端)の邪悪さと和解して動揺しない静謐さのうちに住むことができるのである。

なぜ、われわれはわれわれの有り余る会話の中で、古い諸聖人、そしてこの終わりの時代の現代の使徒たちの遙か下位にいるのであろうか? それはわれわれが古風な厳格さを持たないからなのか? われわれは古い教会精神、古い教会の特質を欲している。われわれの愛徳は不正直である。なぜならそれは厳格でないからである。そしてそれは説得力がない、なぜならそれは不正直だからである。

われわれは真理としての、神の真理としての真理への献身を欠いている。諸々の霊魂に対するわれわれの熱意は弱々しい。それはわれわれが神の名誉に対する熱意を持っていないからである。われわれは憐れみを差し伸べられることによって救済された諸々の霊魂を震えさせる代わりに、あたかも神が諸々の回心によってお世辞を言われておられるかのように行動している。

われわれは人々に半分の真理、われわれ自身の無気力と彼らの自惚れに最もよく適合する半分を告げる。そして次にわれわれはそのようにわずかの人しか回心しないということ、そしてそれらの少数の人々のうち多くの人々が信仰を捨てるということを不思議に思うのである。

われわれはそのように弱いので、われわれの半真理が神の全体的真理のようにうまく成功しなかったことに驚かされるのである。

異端に対する憎しみのないところには聖性はない。

一人の使徒であるかも知れない一人の人間はこの正しい怒りの欠如のために教会における一つの潰瘍となる。

The Precious Blood からの引用

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作成日:2006/06/15

最終更新日:2006/06/15

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