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クリストファー・フェララの『EWTN:道を誤ったあるネットワーク』の書評

The Fatima Crusader Issue 82 Spring 2006 11

マイケル・J. マット

オプラ・ウィンフリーやジェリー・スプリンガーのような不幸な魂が東海岸から西海岸までわれわれの至るところにある電子的な幕屋において王座につけられているとき、テレビが一つの神なき荒廃した地となったということを見るために神学者を必要としないであろう。霊的なものを「かっこいいもの」と混ぜ合わせる技術に精通した一つのカトリック・テレビ・ネットワークが、慎み深く生きているカトリックの視聴者たちに関する限り、不履行によってテレビの糞の山の頂点に登り詰めるであろう。

フルトン・シーン司教がかつて最高の統治者であった場所で、エターナル・テレビジョン・ネット・ワーク(EWTN)は今や世界的にカトリック・テレビジョンの存在を主張することができるのである。EWTNに関するクリストファー・フェララの新著において、読者は最も真面目なカトリック教徒たちが腹の中で長い間感じてきたがしかし多かれ少なかれ認めることに気が進まなかったある事柄 - カトリック・ネットワークで何かが恐ろしく道を誤ってしまった - に直面するようになる。EWTNはまさにそれがかつてあったものではない。

しかしながら、このことを指摘しようと試みるときに生じる困難は、われわれが今やそのビジネスにおける最善の番組作成や生産の専門家たちのうちのある人々 - 彼らの商売と彼らの視聴者を知っているテレビ・メディアの真の主人公たち - を誇りにする数千万ドルを稼ぐ企業について話しているということである。

それゆえに、それが"Life on the Rock"あるいは NFP(自然家族計画)や身体の神学についての幾分卑猥な雑談、あるいは映画、あるいは十字架の道行きや老人のための夜のロザリオの祈りのような諸々の番組のうちに見出されるむしろ痛ましい神学的な難解でもったいぶった言葉遣いであろうと、EWTN はすべの人のためのある何か小さなものを持っているのである。そしてカトリック信者たちにそのより大きな画面を見るように確信させること - それはまさにフェララの新著が衝撃的な有効性をもって達成し始めたことである - は決して小さな仕事ではない。それでもなお、ほとんどの人々は EWTN が問題の一部であるということを聞くことを望まない。それゆえフェララが直面している説得の仕事は実際重要なことである。

そのように、ここに一つの小さな異端があり、あそこにはある不適切な性に関する話がある - それについてはどうか? それはスプリンガーよりはよい、そうなのか? 人が四十年の間飢えていたとき、公園のベンチの下のカビの生えたチーズのひとかけらでさえ食欲をそそるものに見える。EWTN は The Love Boat のエピソードを再上映しそしてそれらをカトリックの道徳劇と呼ぶ。そして彼らの真理に飢えた視聴者たちの多くはそれを買う!

EWTN の雰囲気を産み出すために旧世界のカトリシズムの装飾を用いることにおいて几帳面 - グレゴリア聖歌の生かじりの知識、われらの主や諸聖人の美しい映像、あちこちにおそらくいくつかの伝統的な信心の慣行 - である一方で、EWTN は人間の性に関する事柄そして結婚関係についての議論が問題であるときには、どのカトリックの番組もそれ以前には決して行かなかった所へ大胆に進んでいる。それは少なくとも上品さについての古い世界の基準によればポルノすれすれのものである。そしてこの道を誤ったネットワークの手持ち商品となっているロックを踊りおしゃべりをするフランシスコ会士たちの風変わりなショーのことは言うまでもない。

アメリカのカトリック教会において教義の正統性と権威を見出すことは非常に困難なので、EWTN はしようと望むことは何でもまったく十分にすることができる。多くの点でそのネットワークはアメリカ司教会議よりももっと強力である。確かに、彼らが「カトリック的なもの」として通用させようと試みることの多くは聖マキシミリアノ・コルベに不安の攻撃を与えたであろう。しかし合衆国においてカトリシズム「主流」と見なされていることに比較するとき、EWTN は正統性の一つの砦である。そしてこれは少なくとも彼らの成功の秘密の一部であると思われる - 彼らは「更新された」公会議後のカトリシズムの腐敗している死骸で成長しているのである。

ポップ神学、性の話、ロックミュージック、ある程度健全な正統性、そしてますますとらえどころのない「青少年の」視聴者たちと一緒に人気を得るために大胆に振る舞う司祭たちというその危険な混ぜ物とともに、EWTN はその真理に飢えたカトリック視聴者たちの大部分からフリーパスを手にいれている。確かに、このネットワークの老人や寝たきりの人々を伝統に友好的な番組編成で元気づけようとする努力は称賛に値する。しかし、フェララの新著が明らかにしているように、考察すべき物語の残りの部分があるのである。

EWTN:道を誤ったネットワークは真理に奉仕する一つの有望な事業として出発したそのネットワークがどのようにネオ・カトリック者たちによってかなり素早く吸収され、そして今や「プロテスタントティズムに何かを加えたもの」という一つの恐ろしい状態に見える何かあるものにされたかを記録にとどめている。ラス・ヴェガスにおけるそのペンキでべたべたしたようなクリスマス・イヴから、フットボールをトスしてまわり、イエズスについておしゃべりしている不快な司祭たちまで、身体の神学で人を憂鬱にさせるクリス・ウェストまで、EWTN の「クールなカトリシズム」と新奇な神学との寄せ集めはマザー・アンジェリカの夢を「カトリック・キリスト教徒たち」のための一種のやっかいな MTV ファンへと変えつつあるように思われる。

ところで、フェララは EWTN の創設者マザー・アンジェリカに対して惜しみのない讃辞を呈することをためらっていない。実際、この書物の第一部は彼女の強いカトリックの声を最終的に沈黙させたネオ・カトリック教徒たちの高圧的な脅迫を暴露することにほとんどもっぱら捧げられている。多くの点でこの書物は EWTN のセットでマザー・アンジェリカと話しているヴィンセント・ミセリ神父のような人物を見ることが稀ではなかった当時のことに立ち帰ってわれわれすべてが知っていた EWTN の擁護論のように読める。当時はそうであった。今日ではむしろ人は、スタン・フォートゥーナ神父が彼のお気に入りのエレキ・ギターでロックン・ロールを演奏するときには恐怖心をもって見なければならない。

この書物が念入りに証拠を提出しているように EWTN がネオ・カトリシズムのイメージと似姿において自らを作り直して以来多くのことが変わってしまった。多くの例と厖大な脚注を用いながら、この書物はなぜ少なくともピオ十二世と彼のすべての後継者たちの基準によって、EWTN がもはや完全にカトリックとは考えられることができないのかを有無を言わせない有効性をもって論証している。そしすべてのカトリック者が「ペニー」カテキズムから思い起こすように、ただ部分的にのみカトリックであるものはカトリックであることをやめるのであり、そして特に子どもたちによって避けられるべきである。実際、フェララはどのように EWTN の内容が両親の警告を産み出したかを詳しく述べている。これはカトリック的であるか?

当然、慎み深いものそして神的なものを奪われた産業において善のための一つの力であるべきであったものの消滅に対するフェララの失望の感覚はあらゆるページにおいて実際明白である。読者は、著者が EWTN の逆のコースを見ることそしてマザー・アンジェリカが心に描いていたカトリック反革命勢力となること以外のことを望まなかったであろうという感じを持つ。しかし、悲しいかな、これはずっとますますありそうにないものとなりつつある。EWTN が、フェララが指摘しているように、「平信徒の管理者たちの手に落ちて」以来そうである。「彼らの多くはネットワークを真正のローマ・カトリシズムをそのすべての完全さにおいて回復するために用いる意図を持っていない。」

この書物の題名が示唆しているように、EWTN は道を誤った。それは答えるべき告発の増加するリストをもった「ローマ・カトリシズムの近代主義的偽物」の促進者となった。議論の余地のない証拠をページ毎に用いながら、フェララはどのように EWTN が以下のことを行ったかを論証している。

EWTN:道を誤ったネットワークはその事例を証明するために豊富な証拠を提出している。問題はこうである:われわれは真理を操ることができるか? そのことは、この書物の表題においてなされた主張の正しさを十分に証明するために十分によく実証された諸々の議論をもって、そのすべてがまさにここにある。しかしながら、人は、この書物の批評家たちが - そして疑いもなく二、三人以上の人がいるだろう - 誰かがEWTN の聖なる牛のことを敢えて悪く言うべきであるという非礼の予告可能な表現に訴えるよりはむしろ、実際にフェララの事例を反駁しようと試みる誠実さを持つかしら、と思う。われわれは待って、それから見なければならない。

話変わって、フェララが述べているように、単純な誠実さはピオ十二世と彼の先行者たちのすべての人が、「EWTN が『伝統的なカトリシズムとして全世界に放送している破壊的な教説および典礼の諸々の新奇さの集積」を嫌悪をもって眺め、そして絶対的に非難するであろうという結論を強いるのである。

EWTN において今日のカトリック教会における革命が、カトリック教徒たちが性からエキュメニズムまで、恥ずべき典礼上の神聖冒涜までのあらゆる事柄について考える仕方を変えようとしてテレビ・チャンネルで24/7稼働している一つの強力な「情報の手段」を持っていると見えるであろう。EWTN が主流のケーブル・テレビ産業において唯一の永続的な「カトリックの」家を賞として与えられてきたこは何らかの驚きであろうか?

私はこの書物をどんなに高く推薦しても推薦しきれない!もしあなたが、EWTN が新しい教会の諸々の新奇さを - リベラルな高位聖職者たちがただ夢想することができるにすぎないほどのスケールにおいて - 促進するためにテレビの力をどのように用いているかを学びたいならば、クリストファー・フェララのわくわくさせるすっぱ抜きを読み、あなたの眼からうろこを落としなさい!

Michael J. Matt はカトリックの隔週刊行の雑誌 The Remnant の編集者である。

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作成日:2006/06/25

最終更新日:2006/06/25

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