ファチマ・クルーセイダー

ある聖体奉仕者の告白

ある元聖体奉仕者が神の恩寵によって彼が手に御聖体を授けるという冒涜的な行為に参加していたことについて後悔している。彼はわれわれにここで手に御聖体を授けるという行為が冒涜的であり、御子なる神に対するまったくの失礼であるという彼の論点かつファチマ・センターの論点を証明するために一つの直接の報告を与えている。著者は彼の罪の赦しと破門の解除を懇願している。われわれはここに彼の研究と発見の抜粋を印刷する。

The Fatima Crusader Issue 83, Summer 2006

チャールズ・セント・ジョージ

教皇ヨハネ・パウロ二世聖下への手紙

私チャールズ・アンドレ・セント・ジョージはおよそ1980年から1991年までいとも祝せられた秘蹟[御聖体]に対する嘆かわしいそして数多くの侮辱を犯しまたそのことに参加したことについて私自身を責めます。どうか私の嘆願を聴き、そして私の懇願を聞き入れてください。

第一に、私は、ローマ・カテキズム233ページによれば、「この秘蹟に含まれているのは単にキリストの御体と骨や筋肉のような真の身体のすべての構成要素ばかりでなくて、また全体としてのキリストである」ということ、そしてさらに239ページで「われらの主の御体はパンの最小のかけらの下にその全体が含まれている」ということを最近になって初めて学びました。

第二に、私は、カトリック簡約百科事典153ページによれば、「破門は以下のような条件に従って課される」ということを最近になって初めて学びました:

「(a)一つの非常に特別な仕方で聖座に留保された[破門の]諸行為は:聖別されたパンとぶどう酒を投げ捨てること、悪しき諸目的のために受けるあるいは保持することである。」

私は、私が1980年から1991年までおよそ6萬枚の聖別されたホスチアを投げ捨てた、あるいは投げ捨てられる原因となったということ、また私がこれらのホスチアの多くが繰り返し足下に踏みつけられ、あるいは他の仕方で神聖を汚されることを引き起こしたということを告白します。これらの大罪は神に対する公式的な憎しみによって動機づけられたのではありませんが、しかしもっとありふれた一つの動機からでした - 私は注意をしなかったのです。これが私のしたことです:私は臨時聖体奉仕者でした。そして私はときどきわれらの主を舌の上に受ける代わりに手の中に受けました。大部分の聖体拝領者たちは手の中に受けることを望んでいましたので、私はホスチアを彼らの掌の中にそっと置くのでした。私の十代の息子ジョンの助けによって行った私の付属の科学的な分析において証明されたように...

人が手の中に御聖体を受けるとき、平均してその同じホスチアから離れた目に見えるおよそ四つのかけらがあります。

この試験のために私は以下の広告を出していたミズーリ州の Catholic Supply of St. Louis から[ホスチアを]買いました:「われわれはずば抜けた最善の祭壇のパンを提供することを喜びとしています。われわれのパンはすべてくずが出ないように注意深く流し型に入れて割れを塞いだへりを持っています。」われわれは「最善の」ものを用いました。そして試験結果は聖体拝領ごとに平均 3.68 個のくずでした。

私は、多分拝領者たちに15,000のホスチアを配ったであろうと思います。このことがごく小さなかけらであったでしょうが、およそ60,000の目に見えるかけらを産み出したと想定することは理に叶っています。私は、御聖体を手の中に受けていたとき、私の掌を調べてみたものですが、時には御聖体の一つあるいは二つあるいはそれ以上の断片を見つけたものです。私が右手の人差し指の先でそれらを引き寄せることによって直ちに戴こうと努力した一方で、すべてのかけらが常に安全に拝領されなかったということに確信があります。掌の中に数千という多くのホスチアを授けた聖体奉仕者として私は、いくつかのかけらが残っているかどうかを見るために彼らの掌あるいは指の先を調べている誰かを見たことは一度もありませんでした。

それゆえ、私がそれに対して責任を負っているわれらの主と神を含んでいるこれらの60,000のかけらに何が起こったのでしょうか? まったく単純に、それらが組まれた両手へとその場を変えたときにそれらは結局はこれらの聖体拝領者たちの掌や指先から引き離され、そしてそれらのかけらは床に落ちるか、あるいは彼らの衣服にこすりつけられるか、あるいは知られない行先への道を見つけるのでしょう。大部分はまだ教会の中にいる間に床の上に落ちると想定されるべきです。上述の教えはこれらの[御聖体の]かけらが、司祭が彼自身拝領するために聖別する大きなホスチアと確実に同じであるわれらの神なるイエズス全体であったと述べています!

私自身と同じように、手による聖体拝領が行われてきた教会のミサに行ったどのカトリック教徒たちもそこで彼らがイエズス・キリスト御自身の聖なる御顔を彼らの踵で不注意に繰り返し踏んだ一つの紛れもない地雷敷設域に出会うのです!

この考えは今は私にショックを与えます。私自身を含めてある人々は実際単純に、彼らがしていることを知ろうと配慮しませんでした。それでもなお、われらの主はこれらのことをなしそして配慮しないそのような人々から悲しみのうちに身を引かれるのではないでしょうか? 聖なるおとめは彼女の十字架につけられた御子に対するこの取り扱いについてきっとどう考えておられることでしょうか?

私のためではなくて、あなたが神の御母なるおとめに対して持っておられる愛のために、私は教皇聖下から二つの事柄を懇願します:どうかこの非常に特別な仕方で留保された破門を解除し、そしてわれらの主のまさにペルソナに対して配慮することさえなしに犯された最も重大な罪を赦してください。

2002年4月17日聖アニセトゥスの祝日に行われたかけらの研究

私の十代の息子ヨゼフは、私が聖体奉仕者の役割を演じた間聖体拝領者の役割を演じながら、この研究における私の補佐役でした。この試験の目的のために私はミズーリ州の Catholic Supply of St. Louis から商品番号#57212の直径1 1/8" の白い祭壇用パン[ホスチア]を購入しました。それは彼らのウェッブサイトhttp://www.catholicsupply.com/churchs/wine.html において次のように広告されていました:「われわれはずば抜けた最善の祭壇のパンを提供することを喜びとしています。われわれのパンはすべてくずが出ないように注意深く流し型に入れて割れを塞いだへりを持っています。」- 多くの人々によって素朴に信じられたその決定的な結論の疑義のある真実さがこの試験が決定された一つの理由です。

この試験のために、ヨゼフと私はわれわれの両手と指を入念に洗い、糸くずのないタオルで乾かすことによって準備しました。われわれはそれからわれわれの指先とヨゼフの左手の掌 - パンのかけらと間違われ得るいかなる外来の物質をもそれらが含んでいないと確証され得るべきホスチアに接触する - を調べました。私はわれわれが各々のそしてあらゆる個別的な「聖体拝領」の後に三つの領域 - 私の指先、ヨゼフの掌そしてヨゼフの指先 - においてかけらを探すことに決めました。私はさらにわれわれが25の「聖体拝領」からの結果を数え、そしていくつのかけらが見出されるかそしてどこで見出されるかを数えることに決めました。われわれはただわれわれ二人が見ることができる「裸眼で見得るもの」だけを数えることにしました。

祭壇のパンの一つの包みの内容は一つの小さなプラスチックのカップの中へ入念に空けられました。聖体奉仕者としての私の訓練を思い起こしながら(神が私をお赦しになりますように)私は右手の人差し指と親指の間に一つのホスチアをそっと取り上げ、このホスチアをそれがただ渡されるということが確証されるに十分な強度をもってのみ、ヨゼフの左手の掌の中に置きました。ヨゼフは彼が与っていたミサでの聖体奉仕者たちは彼の掌にホスチアを授ける際にはより穏やかではなかったとコメントしました。彼はそれからホスチアを彼の右手の人差し指と親指の間に取り上げ、そして彼の指が舌には触れることなく[ホスチアを]舌の上に置きました。ヨゼフはそれから彼の右手の人差し指を彼の親指とは離し、また彼の左手の掌を、われわれ二人が検査する間、上向きに保っていました。最初に私の右の人差し指、次に私の親指、それから彼の左の掌、それから彼の右手の人差し指、そして最後に彼の右手の親指を、ホスチアからパンのかけらが砕けて、多様な仕方で手で扱ったり触れたりした結果としてわれわれに付着したかどうかを綿密に調べました。われわれはどのかけらをも二度数えることがないように確実にするために次の「聖体拝領」の前に鋭利なナイフの刃で、見つけられたどのかけらをも入念にこそぎ落とすことにしました。

われわれの試験の結果はどうだったでしょうか? 一度に一枚ずつその都度一つのカップから取り出され、そしてヨゼフの掌の中に置かれ、彼の掌から彼の口の中へ入れられたこれら25枚のホスチアから砕けたパンのかけらはあったでしょうか? われわれは二人ともいかに多くのかけらが[見出されたかに]困惑しました:

25回の「聖体拝領」からわれわれは総計92個の個別の、裸眼で見得るかけらを見出しました。それは[一回の]「聖体拝領」について平均3.68個のかけらということになります。

かけらの研究

この日、もしあるとすれば、概してどれくらいの数の御聖体の聖別されたかけらがホスチアから欠け落ちるか、そしてその後で、はっきり言って今日のカトリック教会における手による聖体拝領の実践の結果として、投げ捨てられ、神聖を汚され、傷つけられているかを確認できる仕方で確証するために一つの簡潔な試験が企てられた。

統計的な情報(上掲)において詳細に述べられているように、われわれは私の指先から27のかけら、ヨゼフの掌から47のかけら、ヨゼフの指先から別の18のかけらを数えた。この試験がわれらの主の光栄のために役立ち、そして今なお主のことを配慮している人々の助けとなることを希望しています。

この手紙の読者であるあなたはこのことによって最も品位を下げるような仕方で神御自身を取り扱うことを前提としているこのより大きな悪を終わらせるためにあなたの力の及ぶあらゆることをするように呼ばれているのです。神は御自分のまさにペルソナそのものを投げ捨て踏みつける人々を天国の門で抱擁なさらないでしょう。この警告はあなたが審判のときにいかなる言い訳もしないように送られます。日本の将軍は数世紀前に真のカトリック教徒たちを死刑にするときに、彼らに信仰を放棄して死を逃れる機会を提供しました。彼らの信仰を断念しキリストを否定するために彼らがしなければならなかったすべては地面に置かれた木製の十字架を踏むことでした。そうすれば彼らは自由になることができたのです。この将軍でさえこれらの殉教者たちに聖別されたホスチア - 全能の神御自身 - を踏みつける気にさせるほどにそのように悪魔的で邪悪ではありませんでした。しかし大部分のカトリック司教たちは今や事実的にまさにこのことをするように、そしてこのことが、人々がこれらのいまわしい教会の一つに入るときにはいつでも繰り返されるように、われわれに命令しています。

手による聖体拝領が、神のこれらのかけらをうやうやしく清められることなしに、なされてきた教会に入る人はだれでも、彼らがそこで道徳的な確信をもって、彼らの踵をイエズスの聖なる御顔の中へとこすりつけている床の至る所に撒き散らされているこれらの「最小の諸々のかけら」の紛れもない地雷敷設域に入るのです。あなたが今これらの教会の床の上にイエズスを見ていないということは完全に理解できます - もしあなたの心が、聖ルイ・ドゥ・モンフォールによるマリアに対する真の信心のすべてを焼き尽くす愛で満たされていないならば - 。イエズスは、イエズスがあなたを見ておられないと信じるためにあなたが望むたびに犯しているあなたの罪を見ておられるのと確実に同じように千回以上もこれらの床の上に御自身を見ておられるのです!もしあなたがイエズスをそこに見ないならば、それはあなたがイエズスを見ることを望まないからです。そしてイエズスを見ることを望まない人々は取り返しのつかない仕方でそして全永遠にわたって聞き入れられるその望みを持たされることになるでしょう。アーメン。アーメン。

神のおとめにして母が彼女の十字架につけられた御子のこの侮辱に対して戦う人々にいつも慈悲深くあられますように。しかし彼女の神の御子が最も邪悪な軽蔑をもって傷つけられておられるときにサタンと一緒に笑うような、神に見離された人々の頭を彼女の踵が踏みつぶしますように。

2006/10/05 三上 茂試訳

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作成日:2006/10/05

最終更新日:2006/10/14

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