ファチマ・クルーセイダー

司祭がすることができること

The Fatima Crusader Issue 84, Winter 2006

パトリック・ペレス神父

私は、ファチマのメッセージとマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を促進するために、司祭たちはそれが彼らを連れて行くところでは何処でも、彼らの司牧と彼らの小教区においてすることが出来ることについて特に話すように頼まれました。それで私はあなたたちと分かち持つべきある事柄を持っています。これはグルーナー神父が最後の数日間の彼の話の中で提案されたことに基づくことになるでしょう。もちろん、あなたはファチマの聖母に対する信心を広め、世界に聖母のメッセージを知らせ、愛させ、従わせる運動を促進するために司祭たちや司教たちがすることができることについてあなた自身の考えを多く持っておられるでしょう。

われわれ一人ひとりは一つの特別の計画を必要としている

ここにおられる人は皆その教会における地位、そしてその影響力の範囲に従って、まず第一に、現実的かつ実現可能である諸目的をもったある種の行動計画を明確に組織化すべきです。私はそのことがおそらく、われわれがしなければならないまさに第一の事柄の一つであると考えています。多くの人々にとって「そうですね、私たちはファチマを促進しなければなりません」と言うことはまったく善いことです。しかし計画なしにはファチマの促進ということは起こりません。計画はわれわれの状況に従って変わります。しかしあなたは一つの計画を持たなければなりません。そしてあなたはその計画をあくまでも続け、完成させなければなりません。さもないとこのことは決して起こらないでしょう。地獄への道はよい意図で舗装されていると言われます。そのことはすべて真です。というのは、われわれは様々の事柄をする善い意図を持っているからです。しかし計画なしにはそれらの事柄は決して実現されません。ですから第一のことは、あなたの状況が何であれ、あなたの影響力の範囲あるいは教会における役職がどんなものであれ、することができるものである一つの計画を作ることです。

あなたの計画の基本的な枠組み

グルーナー神父は先の二日間の話の中で、このことのための一つの枠組みを提案されました。ファチマ・メッセージとその主張の普及を促進するための聖職者並びに平信徒の一つの運動[という枠組み]です。人はこれよりもよいことをすることはほとんどできないでしょう。[グルーナー]神父がこの特定の枠組みについて長い間そして一生懸命に考えられたことは明らかです。そして私はただそれのいくつかの点を更新したいと思います。というのは、私はグルーナー神父によって提案されたこの枠組みにいくつかの事柄を付け加える積もりですから。神父が提案なさっている事柄のいくつかは以下のようなことでしょう:

枠組みのもう少し詳しい説明

これはグルーナー神父によって提案された枠組みです。そして私がしたいと望んでいることはただこの運動の諸要求のうちのいくつかに少しばかりの回転を与えることです。神父は非常に注意してそれを厳格な要求と会員の地位そしてそのような事柄をもった一つの団体にしないようにしています。というのは、これらのことをする人は誰でも定義によってこの運動の部分であり、そしてそのやり方ははるかによいものだからです。

もっと詳しく検討するならば、あなたはこれらの条件のあるものは、それら自身、より大きな義務 - 贖宥を得るための諸条件のように、いわば細則 - を含んでいるということを見出すでしょう。われわれは皆知っています。なぜならわれわれはそれらについて話しているからです。私は、ここにかなりの数の平信徒の方々がおられますけれども、私の主人である司教様方と私の同僚である司祭たちに、これらの事柄を主として実行してくださるであろう方々としてより現実的に話しかけています。贖宥についてそうであるようにここには細則があります。われわれは贖宥について説教を行い、そしてこう言います:「おお、その通りです。そして通常の条件は...」そうですよね? ですから、あなたは通常の条件における鮮明な印刷物を読み、そしてあなたはそれを始めます。「小罪を含むすべての罪への愛着からの自由」。ところで、これは諸条件のための非常に実質的な細則です。なぜなら、あなたはそれをしようと務めているからです!これが、贖宥が教会において、守られなければならない諸条件のゆえに、教会においてただ左に飛んだり右に飛んだりしない理由です。

ところで、それと同じように、[グルーナー]神父の提案された運動もまた彼の運動が効果的であるため、それがわれわれの聖務において実を結ぶためそしてわれわれが達成しようと努めていることを達成するためには、守られなければならないいくつかの条件を持っているのです。最初の二つの条件は毎日ロザリオ5連を祈り、そしていつも茶色のスカプラリオを身に着けることです。私はわれわれ皆がそのことをすでにやっていると確信しています。私はスカプラリオなしに外出することなど考えることができないでしょう。[もし身に着けていなかった場合には]それを着けるために家に戻らなければならなかったでしょう。私は最初にわれわれが通常している事柄について話しています。

第三の条件の一部はこうです:「神に対して、その聖なる人性におけるイエズスに対して、神の御母に対して、教会に対して、痛悔と犠牲の精神においてわれわれの義務を果たすこと」。これらは超自然的なものの領域における霊魂の神の生命を含んでいます。ここでわれわれは1926年2月16日にシスター・ルチアに[告げられた]われらの主の言葉を思い起こさなければなりません。このことが、シスター・ルチアが生ゴミを捨てに外に出て、一人の少年に出会う小さな中庭で起こったということを思い起こしてください。その少年は自分がイエズスであると身を明かしました。そして次に彼女はイエズスを認めてこう言いました:「わがイエズス様、あなたは私の聴罪司祭が、私があなたに読んで差し上げた手紙の中で私に、幻視は繰り返されなければならない、そして私たちにそれを信じることを許す諸々の事実がなければならないと言われたこと、そして私の院長様だけではこの信心を広めることができないということををご存じです。」そしてイエズスはこう答えられました:「院長一人だけでは何もすることができないことはその通りである。しかし私の恩寵をもってすれば、彼女は何でもすることができるのです。」

神の恩寵をもってすればわれわれはどんなことでもすることができる

われわれがファチマ司祭運動において提案していることについて記憶すべき第一の事柄は、われわれのうちの誰一人われわれ自身によっては何もすることができないが、しかし神の恩寵をもってすればすべての事柄をすることができるということです。ですから、われわれがまず第一にわれわれの前に据えなければならないそして説教しなければならないのは神の恩寵なのです。

それゆえに、私は、[グルーナー]神父が述べられた諸条件の背後にある、われわれのファチマ使徒職の基礎の一つ - 神父が提案していることにつけ加えられた一つの条件としてではなく、われわれがわれわれの使徒職のために実を結ぶようにしなければならない何かあるものとして - 超自然的生命と成聖の恩寵の一つの優れた理解、それらへの熱心な奉献、それらへの愛、そしてそれらの高い評価を持たなければならないということである、と提案するでしょう。これはそれ自体、カトリック教義のこのそして他の本質的な点に関して平信徒と聖職者の両者の側での大きな無知のゆえにわれわれの側で何らかの努力を要求するでしょう。

要するに、われわれは何について話をしているのでしょうか? このことを見失ったならば、われわれは天国の生活が人間にとっては自然的ではないのだということを思い起こさなければなりません。それは神が人間の本性へと一つの附加としてお与えになるある事柄です。それは超自然的なものです。すなわち、それはわれわれの本性を超えているのです。顔と顔とを合わせて神を見ることができるという、人間に対する約束は神の一つの純粋な贈り物です。すなわち、それはわれわれの通常の状態に固有のものではありません。特にわれわれは原罪のうちに生まれ、神から分離されているのですから、そうです。実際、われわれは神の敵として生まれたのです。洗礼はそのことを変えます。ですから、第一の事柄は、われわれに固有ではない何かあるものとしての超自然的生命の概念あるいは神御自身、三位一体の第二のペルソナがわれわれに対する純粋な愛からわれわれに可能となさり、われわれの本性に加えるために死なれたというわれわれの条件です。われわれは、神がなさったことが神にとってどれほどのことを意味しているかを見ることによって以外には、われわれのためにそれを可能とするために神がなさったことをほとんど理解することはできないでしょう。

他のものは成聖の恩寵の概念です。成聖の恩寵はただ洗礼によってのみ可能とされる一つの条件です。旧約聖書においては人々は他の手段によって義化されていました。われらの主が教会を設立するために死なれて以来成聖の恩寵は洗礼によって起こります。われわれが洗礼を授けられるとき、聖三位一体は霊魂の生命としてわれわれの霊魂のうちに住まわれます。それなしには、超自然的生命は不可能です。たといあなたが誰かある人を成聖の恩寵なしに取り上げて彼らを天国へと移そうと努めたとしても、彼らはそこに住むことが出来ないがゆえに、それは不可能です。彼らは天国において生活するために必要とされるものを持ってはいないでしょう。

値のつけられないほど貴重な真珠:成聖の恩寵

洗礼と共に生じ、そして後に告解の秘蹟によって再び新たにされ、そしてわれらの主の御体と御血、霊魂そして神性を受ける恵みによって強められる成聖の恩寵だけがわれわれが天国において生きることを可能ならしめます。成聖の恩寵はわれわれの霊魂に超自然的な生命を与えるものであり、霊魂は次に大罪によって切り離され得ますし、あるいは小罪によって少なくされます。しかし成聖の恩寵は天国の生活のために存在しなければなりません。それなしには霊魂は死んだものであり、神の現存のうちに生きることはできません。ですから、そのことはわれわれが絶対に説教しなければならない一つの事柄です。われわれは人々が成聖の恩寵を愛するように、成聖の恩寵であるものを評価するように、両手と両足でそれにしがみつき、決してそれを去らせないようにさせなければなりません。そしてそれは基礎的なことです。

諸々の事柄はあらゆる国において異なっています。私はしばらく合衆国に帰国している間にある教会にいたときのことを思い起こします。一人の司祭が告解室にいました。今は実際に告解室に坐っている司祭を見つけることは困難です。多くの小教区においては告解はただ予約によってのみ行われます。しかしながらこの一人の司祭は告解室にいました。そして誰一人[その告解室の前に]列を作っていませんでした。告解に行く人は誰もいませんでした。しかし以後どの日曜日にも誰もが聖体拝領に行きました。彼は十分に持っていました。そして彼は彼らを、彼らが汚れなき御宿りである振りをしているということで、非難しました。人はそのような印象を得たでしょう。なぜでしょうか?

それは彼らが大部分成聖の恩寵について、それが何という驚くべきものであるか、どんな宝であるかについてのいかなる概念をも持っていないからなのです。それは聖書において言われているように、真珠であり、そして他のすべてのものはその一つの真珠のために放棄されなければならないのです。このことはわれわれの側で何らかの努力を必要とするでしょう。

真理に対するわれわれの義務

第三の条件はこう言っています:「痛悔と犠牲の精神においてわれわれの義務を果たすこと」。そして同様にまた最後の部分で「真理に対してわれわれの義務を果たすこと」と言っています。われわれはこの運動において単にファチマ・メッセージに対してだけわれわれの義務を果たすことを求められているだけではなくて、大文字の T で始まる真理に対して義務を果たすことを求められています。ところで、ポンティオ・ピラトがずっと前に尋ねたのと同じように、現代多くの人々が尋ねます:「真理? それは何ですか?」と。そして彼が見ることができなかった大文字の真理が彼の真ん前に立っておられました。真理に対してわれわれの義務を果たすことは明らかに真理が何であるかを知ることを含んでいます。一般的に言って、真理とはあるところのもの、実際にあるところのものです。真理は実在です。それはわれわれ自身の外側に存在します。真理はそのように存在する一つの実在であって、われわれがそれを信じることを選ぼうが選ぶまいが、われわれがそれを好もうが好むまいがにかかわらず存在する実在です。われわれは真理を変えることはできません。なぜならわれわれの知覚はわれわれの頭脳の中にあるからです。しかしわれわれの義務は現実に存在するものを見出すことです。というのは、ある状況の中で生きること、われわれがただわれわれの知覚にのみ所属しているところで一つの条件と共に生きることそして実際に存在するものを見ないことは一種の狂気だからです。それは一つの精神錯乱です。それゆえ、真理への責任、われわれ自身の外にあるもの、存在するもの[が重要です]。

そこで、一般的に言えば、神は真理です。ローマ・カトリック教会の教義的な陳述や教えは神の真理、神的本性と意志の表現です。もしあなたができる限り多く知りたいと望むならば、あなたは教会の教えを勉強します。それはあなたの前にあります。教皇たち、そして教皇たちと一致して司教たちはそれを聖ペトロ以来公式に宣言してきました。そしてそれは知るすべての人々、見るすべての人々、そして信じるすべての人々のためにそこにあります。

われわれは教義を研究しなければならない

それゆえもしわれわれが真理に対してわれわれの義務を果たさなければならないのならば、われわれはそれのできる限り多くのものを学ぶことに多少の時間を費やさなければなりません。もしわれわれがあるところのものを発見することにわれわれの目覚めている時間のいくらかを取ることに関心を示さないとすれば、われわれはどのように真理に身を捧げようとしていると言うことができるでしょう。そして親愛なる司教閣下および司祭のみなさん、あなたたちは教会を通じての真理の教えが無尽蔵であるということを知っておられます。われわれはテレビやその種のものを見る権利はありません。私は、不幸にしてあなたたちのうちのある方々が自分たちの銃に対して合法的でない国々に住んでおられることを知っています。しかしもしあなたが銃を自由に使うことができる国に住んでおられるならば、あなたのテレビを野原へ持ち出してそれを処刑してください。神の恐れは知恵の始まりです。そしてあなたのテレビを撃ち殺すことは霊的生活の始まりです。それゆえ、すでにわれわれに時代において人気のないこの措置の一つの本質的な部分は単に真理を見出すことにだけではなく、われわれの心と精神をあの真理に服従させる一つの義務なのです。

理性と救い

親愛なるみなさん、われわれは合理性と理性の感覚を、そしてすべての人の救いにおいて理性が果たす役割の感覚を失ってしまいました。神は主として御自分を見出させるためにわれわれに理性をお与えになりました。ところでわれわれは理性をそうするために使用することができます。あるいはわれわれは理性を投げ捨てることもできます。しかし、われわれは真理を求めているときにひとたびそれを見出すならば、それに服従しなければなりません。われわれは「もしそれが真理であるならば、もしそれが存在するところのものの一つの表現であるならば、私は私の意志、私の知性、私の霊魂、私の心を理性の理解力に服従させる」と言わなければなりません。われわれの社会を、そしてわれわれの教会をさえすでに破壊しつつある女性解放論者の精神と感情的傾向とを避けなさい。教会の中には彼女たちがいるところにいる権利のない女性たちがいます。彼女たちは男たちが教会や小教区を支配し方向づけるべきであるところでその場所への道を獲得しようと努力しています。彼女たちはそこでは何の権利をもっていません。彼女たちは感情的傾向と非合理性を用い、彼女たちの無意味な考えをもって聖職者や位階に影響を与えています。われわれはそのことを持つことはできません。われわれは物事を固有の秩序に保たなければなりません。

あなたたちは、このことから来ている感情的傾向と非合理性の勝利が、われわれが人々の前に本質的な事柄を提出しそして彼らが「なるほど、私はそれに同意します」と言うことができる点に至るまで、存在するということを知っています。そして「はい、私はあなたの議論に従います。しかし私はただそのようには感じないのです。」よろしい、もし彼らがそのようには感じないものが教会の教えの結論であり、神を見出すことの結論であるならば、そのときそのように感じない点において彼らは救いに関して破滅を選んだのです。彼らは神が彼らに主としてそのことをするためにお与えになった救いに到達するための彼らの神によって与えられた知性を用いることを拒絶したのです。それゆえ、2足す2はそれでもなお4であり、もしあなたが物事がうまく行かない日にあたっても、関係ありません。それはそれでもなお4なのです。そしてそれについてあなたがどのように感じようとも関係のないことです。

絶対的な真理のこの探求、真理を見出し、それに服従することは多分カトリック者であることが何を意味するか、教会が何を教えているか、そして教会が常に教えて来たものは何かを完全に研究することを含んでいます。

真理は変わらない!

あなたたちはある人々に話します。そして彼らは教会の教えがどういうわけか一つの民主的な手続きであるという次のような考え方を持っています。すなわち、「なるほどわれわれは当時はこのことを教えた。しかし今われわれの多くはこのことを違った風に - それはたまたま正反対なのだが - 感じている。だからわれわれはこれがわれわれが信じる仕方であると考えていたのである。なぜなら、それはより民主的だからである」と。あなたは教会が教えていることが何であるかを徹底的に研究し始めるとき、教会がそのことを常に教えてきたということを見出すでしょう。そこには新しいものは何もありません。もしあなたがピオ十二世が聖母の被昇天の教義を決定されたことを見るならば[そうです]。しかしあなたは何を知っていますか? 私は、被昇天の祝日が載っているトレント[公会議]以前の十六世紀に作られたミサ典書を持っています。諸教皇はただこう言われたのではありません:「さて私はこの偉大な考えを今朝思いついた。このことを[教義として]決定しよう」と。そうではありません。これらの事柄が[教義として]決定されたのはわれわれがそのことを常に教えてきたからなのです。

もし誰かある人がそのことに問題を感じるならば、あなたがひとたび真理に対するあなたの義務として始めるならば、ひとたび教会が常に教えてきたことを読み始めるならば、教会史における最大の公会議であるトレント公会議[諸文書]を読みなさい。それを読みなさい。そしてもしあなたが諸決定の教えや言語に少しばかり熱心であるならば、そのときあなたはファチマの第三の秘密を理解するでしょう。それこそそれが語っていることなのです。

しかしもしあなたが「カトリック教会の外にはいかなる救いもない」というような教えにいらだつ自分を見出すならば、そのときあなたはファチマの第三の秘密を理解するでしょう。なぜなら、われわれは第三の秘密がそれについて語っている一つの総体的な背教の中に現在いるからです。しかしあなたがこれらの事柄を読むとき、それが教会が常に教えてきたことを理解してください。そして少なくともあなたにとって新しいものであるかもしれないこの事柄にあなたの意志を服従させようと努める謙遜さを持ってください。

「キリストの愛がわれわれを強いる」

次に、ファチマ使徒職のための諸々の動機 - グルーナー神父がなぜこのことのために彼が持っているすべてのものを犠牲にしてきたか、そしてなぜわれわれがここにいるのか - が存在するということを思い起こしてください。親愛なる司教閣下、同僚である司祭たち、そして親愛なる平信徒の皆さん、私はすべての人がここにいるのは聖母マリアを愛しているからだということを疑いません。今日は聖母の祝日、マリアの御母たること、マリアの母性の祝日です。私はそのことについて今朝祈っていました。私は、われわれの背景、あるいはわれわれの特定の場所が何であれ、あなたたちすべてがここにおられるのは聖母に対する愛のためであることに何の疑いも持ちません。[グルーナー]神父がしたことをした理由、そしてわれわれがしていることをしている理由は諸々の徳のうちの最大のものに要約されます。そしてそれは愛です。思い起こしてください、三つのものがあります:すなわち、信仰、希望そして愛です。そしてこれらのうちで最大のもの、それは愛です。

ところで、愛[charity]とは何でしょうか? われわれは英語という言語においてこれらのものについてたいへん良くない翻訳を持っています。英語では信仰、希望、愛を faith, hope and love と言っています。それは faith, hope and love ではなくて、faith, hope and charity です。ラテン語には両方があります。amor は love であり、そして caritas が charity です。そしてそれらは、caritas が amor のある特別な種類ではありますけれども、異なっています。Charity は信仰、希望、愛という三つのもののうちの一つである神学上の徳です。それは神を神御自身のために、精神を尽くし、魂を尽くし、心を尽くして、すべてのものに越えて、愛することをわれわれに可能にする神学上の徳です。そして神の愛のためにわれわれ自身と同じようにわれわれの隣人を愛することです。

charity には常に神の次元が存在します。あなたはチョコレートに対する charity を持つことはできません。あなたはチョコレートに対する love を持つことができます。あなたはチョコレートを愛する[love]ことができます。私はある仕方で、英語がそうする仕方で、そのことを認めるでしょう。それが、あなたが love と charity を混同することができない理由です。なぜなら、charity は神の次元を持っているからです。あなたはあなたの全存在をかけて神がそうであられるもののゆえに神を愛します。そしてあなたは、それがあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいという神の命令であるがゆえに、そしてその命令に対する従順のために、あなたの隣人を愛します。それがわれわれのしていることです。

すべての人に対する愛

それゆえ、グルーナー神父はこの愛のために、地上にある人々のために、彼がしていることをしています。それがわれわれがしていることをしている理由です。このことを考えてください。もし聖母とわれらの主の望みが従われないならば、もしロシアが教皇と司教たちによって聖母の汚れなき御心に奉献されないならば、このことはわれわれの拡大された人類家族における多くの人々にとって大きな災難、苦痛そして霊魂の喪失を意味するでしょう。われわれは、実際にその charity の次元をそれに与えるために人類における家族のこの意味を持たなければなりません。あなたは、私は人々に会うとき、私がいつも意識しているということをご存じです。彼らは遠い従兄弟です。私は最も近い関係にある家族を愛しています。そして私は家族を愛することが何であるかを知っています。

それゆえ私にとって、私があなたたちが遠い従兄弟たちである - なぜならわれわれはアダムとエヴァの子どもであり、われわれすべてが同じ両親から生まれたからです - ということ、私があなたたちに対するこの神の愛に基づいた愛を - あなたたちに対する自然的な愛さえ - 持っているということ - なぜならあなたたちは私の家族の一員ですから - は非常に自然的なことです。ある人が困難であるとき、彼らはわれわれの一風変わった従兄弟たちです。あなたたちは、われわれが皆家族のうちにそのような人を持っているということを知っています。しかしわれわれは決して彼らに対して愛のない者ではありません。なぜなら、ある人は困難であるからです。

緊急性

そしてそれゆえわれわれ自身に対する愛と同じようにわれわれの隣人に対する愛はあるのです。なぜなら、神の愛はわれわれが、シスター・ルチアや他の人々に対して表明されたような聖母とわれらの主の望みが満たされないならば起こるであろう差し迫った災難を避けるためにわれわれがすることができることをしなければならないということを意味するからです。このことには愛において一つの緊急性があります。そしてそれがわれわれがそれをしている理由です。われわれは、われわれがなすべき何かある事柄を必要としているがゆえにそれをしているのではありません。グルーナー神父はなすべきことを持っていないのではありません。グルーナー神父について言えば、「さて、私は針編みや鈎編みをしようか、それともファチマのことをしようか?」ということではありませんでした。そうではありません。彼は聖母が、彼であるところのもの、そしてこの使徒職のため、そして地上におけるすべての人、聖母そしてとりわけわれらの主の愛のために彼があるところのものによって彼を形成なさったということを理解しました。彼はそれに自らを与えました。

他者のためにあなたが持つことができる愛の最大の行為は同様にまた、もしそれらが信仰のうちにあるならば、彼らに成聖の恩寵を正しく評価させることであるということを心に留めてください。もし彼らが信仰の外にあるならば、彼らに対する愛の最大の行為は彼らを教会へ、カトリック信仰へと回心させることです。

キリストは御自分の一つの真の教会を設立するために死なれた

われわれは皆「ロシアは回心するでしょう」という言葉をよく知っています。しかし私は実際はある人はこれが何を意味すると考えているか、疑問を持っています。ある人々はロシアが何に回心すると考えているのでしょうか? 厳格な菜食主義と平和愛好のエコロジカルな意識への回心ですか? そうではないでしょう? 聖母がお話しになった回心は一つの真の教会への回心です。ただ一つの真の教会だけが存在します。それはわれわれの教会です。われわれが属している教会です。聖母は、そしてわれらの主はカトリック信仰へのロシアの回心を望んでおられます。なぜなら聖母はそれが彼女の御子がそれを設立するために死なれた教会であるということを知っておられるからです。聖母の神である御子はその教会のために、聖母が見守っておられたときに、その最後の血の一滴をお捧げになりました。教会を廻って回避策を採るというこのプロテスタントの考え方に従わないでください。

キリストは教会を設立なさいました。そして教会に霊魂たちを救う仕事をお与えになりました。人々は直接的に行って「ここに私は聖書を持っている。私は自分自身を救うつもりである」と言うことを許されていません。それはキリストが決定なさった仕方ではありません。霊魂たちを救うことを委ねられているのは教会です。そしてあなたはそれを廻って回避策を採ることはできないのです。

そしてそれゆえ聖母がそしてわれらの主がロシアについて話しておられる回心は他ならずカトリック信仰への回心です。カトリック信仰の外ではユダヤ教徒もヒンドゥー教徒もイスラム教徒も正教徒もプロテスタントも救われることはできませんし、あるいは救われないでしょう。再び、感傷的な行為や偽りのエキュメニズムに注意してください。それらは最近われわれの教会のあらゆる段階で至る所に広がりました。真のエキュメニズムが存在します。

感傷的な行為に注意しなさい

ここに真のエキュメニズムの精神があります。われわれの大陸に猛威を振るっている一つの伝染病があると想像してください。それは100%致命的なものです。今われわれはそれを世俗的なあり方そして大罪と呼ぶことができます。しかしそれは細菌によって引き起こされた一つの伝染病であると言いましょう。そして一人の科学者はその治療法を見つけています。彼はその伝染病のための治療法を持っているただ一人の人物です。そして彼は世界にこう告げます:「私はあなたにこの治療法を与えます。しかしあなたはそれを得るために私のところへ来なければなりません。それは一つの単純な事実です。私は横柄な者ではありません。」もし彼がその伝染病のための唯一の治療法を持っているならば、人々にそれがその通りであると告げることはその医師が横柄であるということでしょうか? いいえ、それは真理であり、そしてそれは愛です。それが真のエキュメニズムです。キリストによって設立された教会は治療法、解決、他の誰も所有していない永遠の生命の手段を持っています。そして教会はそれを自由に与えます。実際、ある意味において自由に与えます。しかしその宣教師たちや殉教者たちの代価を払って与えるのです。

それゆえ、感傷的な行為に注意してください。私の生涯の中で私がかつて経験した最悪の事柄の一つはニュースで教皇ヨハネ・パウロ二世を見たことでした。私はそれの一つの切り抜きをインタネット・サービスの上で見ました。彼はエルサレムで飛行機から降りられそしてこう言われます:「私はあなたたちを回心させるためにここにいるのではありません。」ところで、私はこう言ったでしょう。「教皇聖下、それではあなたはなぜ帰国なさらないのですか? なぜなら、これらの人々を回心させることはあなたの任務であるからです。これらの人々を回心させることは愛[charity]です。」そしてもし教皇御自身が「私はあなたたちを回心させるためにここにいるのではありません」というようなつまらないことを言われるとするならば、その他のわれわれについてはどうなのでしょうか? もしそれが単純に、私はよろしい、あなたはよろしい、地獄に行く人々が実際にはいないという振りをしましょう、ということであるわれわれの位階はどうなるのかということであるならば、それは愛でしょうか? いいえ、それは愛ではありません。聖母は教会が長い間教えてきたこと、すなわち唯一の真の平和はカトリック社会秩序におけるキリストの平和であるということを主張しておられます。

カトリック的社会秩序

カトリックの社会的な教えはどうなったでしょうか? 先の世紀じゅうずっとわれわれは Quas Primas のような諸々の偉大な回勅を持っていました。そしてこれらの回勅は一つのカトリック的社会秩序における世界のための一つの計画を決定しました。ところでなぜ社会秩序は今言及されるべきものとして重要なのでしょうか? それはあなたがカトリック的な社会的教えを知るべきであるからです。それはロシアが回心したときにそれが世界のためのモデルとなるはずだからです。聖にして母なるロシアが世界中に広めるであろうのは一つのカトリック的な社会秩序であり、カトリック的な社会的教えであるでしょう。そしてそれがどのように働くと考えられているかを知ることはよいことであるでしょう。

一つの単純な提案

ところでまさに可能なところで私が提案したい最後の一つの事柄は小さな事柄ですが、しかしそれは有益であろうと私は考えています。そしてもう一度言えばそれはあらゆる状況において可能であるものではありません。それはあなたの状況においてもしそれが可能であればそのための一つの提案です。そしてそれは、われわれが一つの復活に影響を及ぼす必要があるということです。私はミサの後のレオ教皇の祈りの復活を提案します。それらの祈りについて聞いたことがない人々のために、教皇レオ十三世は1884年1月6日にローマ問題に対する一つの解決に向かって読誦ミサの後にどこでも唱えられるべきいくつかの祈りを布告されました。ローマ問題とは何だったのでしょうか? そうですね、フリー・メーソンたちは教皇国家の奪取とヴァチカンへの教皇の監禁を画策していました。そしてこれは幾分緊急の状況のものでした。あなたたちはヴァチカンの囚人であった諸教皇について聴いたことがありますか?

それゆえ当時のイタリアのフリー・メーソンの政府とのある種の解決を見出すために教皇はこれらの特別の祈りを提案されたのです。1929年2月11日にヴァチカンと政府との間でうまく一つの合意が達成されました。それで、そのとき教皇 - 教皇ピオ十一世でしたが - は1930年6月30日に祈りの意向をロシアの回心のための祈りへと変えられました。

さてこれはとりわけファチマ・メッセージとは何の関係もありません。それは、われわれが昨日、ロシアにおいて進行していた大きな迫害についての話の一つにおいて聴いたように、そこで彼らが司祭たちや司教たち、カトリック教徒たちを集めそして彼らを撃ち殺していたからです。そしてこの大きな迫害のゆえにピオ十一世はこの意向のためにレオ教皇の祈りを提案されました。というのはローマ問題が解決され、この問題に引き継がれたからです。

ところで1964年9月26日に、第二ヴァチカン公会議が終わる以前にさえ、レオ教皇の祈りはパウロ六世によって抑圧されていました。それゆえそれらの祈りは強制的にもはや存在しませんでした。しかしわれわれはこれらの祈りを復活させることができます。そしてそれらの祈りをミサの後に唱えることができます。あなたがすることは次のことです:ミサを捧げ終わったら祭壇の前に跪き、次の祈りを唱えます。あなたは望む言語でその祈りを唱えることができます:天使祝詞3回、Hail Holy Queen、そして次の祈りです:

おお、われらの避難所、われらの力にまします神よ、御身に向かって叫び奉る御身の民の上に好意もて御目を注ぎ給え。また栄光の、汚れなきおとめマリア、神の御母、彼女の配偶者祝せられた聖ヨゼフ、祝せられた使徒ペトロとパウロ、そしてすべての聖人の執り成しによりて、同じわれらの主キリストを通じて、罪人たちの回心のため、聖にして母なるわれらの教会の自由と賞賛のために献げるこの祈りを憐れみと慈悲とをもて聴き入れ給え。アーメン。

そしてそれから聖ミカエルに対する祈りを唱えます。

もしわれわれがこれらの祈りを聖母の汚れなき御心にロシアを奉献なさる教皇の意向のために献げるならば、それは、単にその祈りの復活であるばかりでなく、1964年以来それらが持っていなかった一つの更新された目的の復活であるでしょう。

ところで、このことには一つの先例があります。合衆国において私がよく知っている司教区の一つ、アラバマ州モーバイルでそこの司教様はすべてのミサの後に神の賞賛の祈りを唱えるよう要求なさっていました。神の賞賛の祈りは「神は祝せられますように、神の聖なる御名は祝せられますように、そしてハリケーンからの保護を求める祈りのようなことを含んでいました。さて第二ヴァチカン公会議の新しい司教様がそこへ来られました。そして自分はその先任者たちがときどきそうすることを好まれたように、その先任者たちよりももっとよく知っていると考えられました。それでその司教様はそれらの祈りを撤回されました。彼がそれらの祈りを撤回された一年後に都市はハリケーンによって壊滅させられました。生ける記憶における最初としてハリケーンによって荒廃させられました。完全に倒壊させられたのではないが、荒廃させられました。それで彼はすぐにかつてそうであったようにそれらの祈りを回復しました。そしてそれ以来その都市はハリケーンの打撃を蒙っていません。しかしこの種の事柄をすることには先例があります。司祭たちはそれをすることを許されています。司教たちは彼らの司祭たちにある特別の意向のためにミサの後にこの種の事柄をするように告げることを許されています。

親愛なる友人の皆さん、これらの事柄を行ってください。そうすればわれわれは解決の部分となるでしょう。これらの事柄を拒否なさい、そうすればわれわれは問題の部分となるでしょう。それはそのように簡単なことです。

ファチマの聖母われらのために祈り給え。神の御母われらのために祈り給え。父と子と聖霊との御名によりて。アーメン

2007/02/22 三上 茂 試訳

ファチマ・クルーセイダー、2006年冬号目次 へ

What Priests Can Do へ

トップページ

作成日:2007/02/22

最終更新日:2007/02/22

inserted by FC2 system