ファチマ・クルーセイダー

講演者の抜粋:

なぜこれが

世界平和のための最後のチャンスなのか?

The Fatima Crusader Issue 84, Winter 2006

ニコラス・グルーナー神父、S.T.L., S.T.D.(Cand.)

人々は私にこう尋ねました。「なぜこれが世界平和のための最後のチャンスなのか?」と。ポール・クレイマー神父は二日前の彼の講演の中で、彼があなたにわれわれはこれから先の時間の境界線を知らないということを保証する最初の者であろうという諸々の預言について話しました。しかしながら、現代の世界の諸々の出来事と一緒に聖人たちの預言を繋ぎ合わせながら、彼はわれわれが2008年の初めには第三次世界大戦の方へ向かい得るであろうと推測しています。

彼が理解しているシナリオは現在の教皇、ベネディクト十六世が亡くなられる前に奉献はなされていないということを認められるであろう、そして諸々の預言に従えば、教皇は完全な第三の秘密の公開を許可する一人となられるであろうというものである。

ファチマに関する三部作『ファチマについての全真実』の著者、フレール・ミッシェルは教皇がロシアの奉献をすることがお出来になる前に、ヴァチカンが1960年に完全な第三の秘密を公開しなかったことから結果した損害を償わなければならないと指摘しました。彼は1985年にその結論に達しました。また2000年にそれの一部を公開することもヴァチカンの役には立たないでしょう。いいえ、ヴァチカンは第三の秘密についての聖母御自身の言葉を伴ったテキストを公開しなければなりません。単に一部ではなく、第三の秘密のすべてを公開しなければなりません。

完全な第三の秘密を公衆が知れば、教皇はそのときロシアの奉献をしたいと思われるでしょう。しかし教皇は時間を持たれないでしょう。教皇は聖ピオ十世が預言なさったように、身を隠さなければならないでしょう。

悪いことが起こる恐れは、教皇が苦しまれるであろうということ、そしてイエズスがリアンジョで次のように言われたとき警告なさったようにフランス王のような一般の犯罪者として処刑されるだろうということです:「私の命令の遂行を遅らせることにおいて彼らがフランス王の例に従うならば、彼らは彼のように、彼に従って不幸に陥るだろうということを私のしもべたちに知らせなさい。イエズスとマリアに依り頼むことは決して遅すぎるということはないであろう。」

われわれは教皇と司教たちの安全を気遣う十分な理由を持っています。2000年6月26日にヴァチカンが公開した幻視の中で教皇は多くの司教たち、司祭たちそして修道者たちと一緒に銃や矢によって撃たれ殺されるのが見られているのです。

それゆえ - 私は預言の賜物を持ってはいませんけれども、私はわれわれが聖人たちのすべての預言、聖書そして現代の世界の諸々の出来事によって言うことができると思います - われわれがこれは「世界平和のための最後のチャンス」であると言うとき、この幻視は教皇、司教たち、聖職者、修道者そして全人類にとって危険なほどに近い、と。

最終的に、祝せられたおとめマリアが勝利なさるであろうということは確かです。聖母御自身こう言っておられます:「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。最後に教皇は私にロシアを奉献するでしょう。最後にロシアは回心するでしょう。最後に平和の一時期が世界に与えられるでしょう」と。

それゆえ、われわれは勝利が間近にあることを知っています。だからこそわれわれは多くの時間働いているのです。スタッフと私自身はほとんどわれわれの限界を超えて努力しています。時間がある間にわれわれはわれわれのできるすべてのことをしなければなりません。

われわれには残された時間は非常に僅かしかありません。諸々のしるしはすべてそこにあります - 単に預言の諸々の声からばかりでなく、また世俗世界の中に軍事的、外交的そして法律的に、存在しています。

それにもかかわらず、このすべてにおいて、ファチマのメッセージは希望のメッセージです。それは絶望のメッセージではありません。それゆえ、問題は実際にこうです...

われわれは何をすることができるか?

われわれ一人ひとりは何かあることをすることができます。余りにも多くの人が何もできないと考えそしてそれゆえに何もません。それはわれわれが直面していることに対する間違った答です。われわれは皆何かあることをすることができます。それはわれわれにかかっているのであって、他の誰かある人にかかっているのではありません。

ファチマのメッセージを拒絶し次のように言う人々がいます:「私は従いたくない、私は信じない、私はそれを理解しないしまた理解したいと思わない」と。確かにこの部屋におられる人々のうち大部分の方はファチマのメッセージが祝せられたおとめマリアからのメッセージであり、神によって支持され、1922年以来のすべての教皇によって承認されているということを認めています。

ファチマのメッセージは世界の諸問題に対する解決を - それがレバノンにおいてであれ、それがアフリカ、アフガニスタン、イラク、イラン、パキスタン、インドあるいは世界の他の場所における軍拡競争においてであれ - そして確かにごく最近の北朝鮮の事例においても - 与えます。

答は人々がわれわれを殺す前により多くの人々を殺すためにより大きな軍事力、より多くの武器を持つことではありません。

答は、むしろ、何よりもまずわれわれの心の中に、われわれの家庭の中に、われわれの都市の中に、われわれの国の中に、そして諸国と諸人民の間にキリストの支配、キリストの平和への心の回心を求めそしてそれに向かって働くことです。

回心を持つための唯一の道は神の恩寵によってです。すべての諸国民の回心をもたらす唯一の道はファチマのメッセージによってです。それは一つの非常に単純な計画であり、そして一つの非常に深遠な計画です。そしてわれわれはファチマ・メッセージの省察から他の何物もうまくいかないということを確信しています。

われわれがここで促進しなければならないのは、ファチマ・センター、あるいはグルーナー神父、あるいはあれこれの雑誌あるいは書物ではなく、むしろファチマの聖母のメッセージであるということを理解することは重要なことです。

ファチマはわれわれの生活にとって中心的なものでなければならない

われわれ一人ひとりはその力において多くのことをしなければなりません。もしわれわれがファチマをわれわれの生活にとって中心的なものにしたならば、われわれはもっと多くのことができます。神と聖母はこのことをするため、ロシアの奉献と回心そして世界平和をもたらすため、われわれの手に手段を与えることがお出来になります。

悪魔は人々を混乱させ彼らの精神の中に障害物を置く彼のやり方を持っています。「私は誰であるか、私は自分自身で実際何をすることができるか?」ポンテヴェドラで上長のマザーが言ったように「私は何もすることができない」と。

われわれ一人ひとりは同じことを言うことができるでしょう:「われわれは何もすることができない...!」と。

神の恩寵によって...われわれは何かあることをすることができる

イエズスの助けでもってわれわれはあらゆることをすることができます(われらの主がシスター・ルチアに、彼女の上長に関して告げられたように)。

われわれの役割を果たすことはわれわれにかかっています。少なくともわれわれの心の中で、そして望むらくは今日ここで公にさえ、祝せられたおとめにこう言いましょう:「私は、何もしないことによって、あなたがそのように大きな愛をもって、われわれ自身の福祉へのそのように大きな関心をもって、われわれにお与えになったあなたのメッセージを考慮しないことによって、もはやあなたを悲しませることはないでしょう」と。

われらの祝せられた御母は実際御自分のためには - 御子が聖母が尊敬されることを望んでおられ、御子が聖母が人々に従われることを望んでおられるけれども - 一度も何かを求められることはありません。聖母が求めておられるのは霊魂たちの救い、世界における平和です。

聖母に次の個人的な約束をすることはわれわれにかかっています:

「実際、あなたはご存じです。私は役に立たない者です。私はそうです。私は実際非常に多くのことをすることができません。私は大きな影響力を持っていません。しかし私はあなたが私にお与えになるどんな役割をも果たすつもりです。私はこのメッセージを伝え、そしてこのメッセージを私自身生きる際にどんな困難があろうとも、どんな問題があろうとも、少なくともそれらを受け入れます。」

それが聖母がわれわれに求めておられることです。聖母はただ、われわれがわれわれの心を与えること、聖母が望んでおられることが何であるかをわれわれが理解しそして次にわれわれのできる最善を尽くすように努めるためにわれわれの知性を聖母に委ねることだけを求めておられます。

聖母はわれわれがそのことが上手ではないだろうということを知っておられます。しかしわれわれは聖母のメッセージを知らせ正しく評価させることにおいて辛抱強くまた耐え続けなければなりません。

私は聖母のメッセージについて数百の、おそらく数千の拒絶を聞きました。しかし実際、あなたが根拠のない反対をご覧になるとき、それらは無の中へ消え去ります。蝋が火の前で溶けるように、同様に悪魔の反対は神の御顔の前で消失します。

おとめマリアが実際にわれわれから望んでおられるすべては次のように言うことです:

「私はあなたを信じます。
あなたはわれわれにメッセージをお与えになりました。
あなたは太陽の奇跡を働かれました。
あなたは多くの人々の回心を働かれました。
あなたは多くの人々を癒されました。
あなたはこのメッセージが神から来るものであること、このメッセージが真であるということをわれわれに告げるためにしるしをお与えになりました。
私は信じます、そして私はそれが僅かであろうと、それが多かろうと、私の役割を果たします。それはあなたの選択です。
私はあなたが私にすることを期待しておられることをします。

私は、司祭として、あるいは、私は、司教として、私の役割を果たします。私は私の兄弟なる司祭たちに話します。
私は私の兄弟なる司教たちに話します。私はそれを彼らに説明します。
もし私が答えることのできない質問あるいは反対に出会うならば、私は彼らの研究された解答を聞くためにファチマ・センターと接触します。
私はあなたのメッセージを促進するために必要とされることは何であれします。
いくつかの困難を克服することが不可能であるならば、私は少なくとも私ができるすべてのことをしたということを知るようにします。
私ができることを何であれしようと努力するまでは私は私がすることができるあらゆることを決して知ることはないでしょう。
私はあらゆることをします。そしてそれが神の聖なる御母であるあなたへの私の個人的なコミットメントです。」

聖母はあなたの奉献を待っておられる

そのことは実際聖母がわれわれ一人ひとりから、そして特に司祭たちそして司教たちから、求めておられることです。聖母が望んでおられること、それはあなたが聖母の愛すべき、甘美な、汚れなき御心にあなた自身を奉献し捧げることです。それが祝せられたおとめがあなたから、あなたの心から望んでおられることです。

われわれはあなたのコミットメント、あなたの約束を必要としています。あなたができるすべてのことを私にではなく、祝せられたおとめに、あなたはなさるでしょう。

われわれ一人ひとりは、一人だけではそれをすることができません。しかし少なくともわれわれは他の人々に告げることができます。その人たちはさらにもっと多くの他の人々に告げるでしょう。この運動は実際祝せられたおとめの御心からの恵みの運動です。聖母はわれわれを用いることを望んでおられます。聖母はそれをすべて御自身でお出来になるでしょう。しかし神は彼らの役割を果たすように他の人間、他の人々を用いることを望んでおられます。

そしてそれゆえ、あなたが世界のある部分あるいは角に捨てられた、余りにも小さなもの、あるいはあまりにも取るに足りないものであると考えないでください。私がマダガスカル、あるいは南アフリカ、あるいはインド、あるいはカナダ、あるいは合衆国、あるいは他のどこかから来ているとしても、それがどうしたというのですか? われわれは皆実際事柄の全世界的なスケールにおいては非常に小さな者です。しかしわれわれは皆一緒になって一緒に話すことができます。影響を与えることができます。ファチマのメッセージに注意を払うよう一つの大きな運動を起こすことファチマを教会の協議事項、世界の協議事項にすることができます。

それを知り、それを愛し、それを伝えなさい

結局のところ、それを他の人々に伝えることはメッセージを聞いた人々にかかっています。それを心にまでもたらすことはメッセージを聞いた人々にかかっています。それについてもっと多くのことを知るためにメッセージを聞いた人々です。

私が最初に聖母の次の言葉を聞いたのは1965年のことでした:

「もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

私は自分自身に言いました。よかろう、われわれはこれらの要求が何であるか、聖母が求めておられることは何であるかを見出さなければならない。それは明らかに非常に重要なことである、と。

われわれは諸民族の絶滅か、それとも世界平和か、のいずれかを持っています。われわれは教会の迫害について、そして教皇の迫害についての警告を持っています - われわれは何をすることができるでしょうか? よろしい、私の第一の仕事は聖母が要求なさっていることが何であるかを理解することでした。

私がファチマのメッセージについてもっと多くのことを知り始めるにつれて、私はまた諸々の反対を聞きました。私は人々がこう言っているのを聞きました:「いいですか、それはどうでもよいことです」と。私は自分が生まれたモントリールで聖母のこの陳述をバスのあるスペースに掲げたいとその頃考えたことを思い起こします。私はモントリオールの高校教師をしていました。私はこのことをバスのあるスペースを賃貸ししている広告代理店に言いました。私が知った次のことは一人のユダヤ人の男が学校に私を訪ねて来てこう言ったことです:「あなたは本当はそのことをそこに掲げることを望んでいない。あなたはモーセの十戒をそこに掲げ、そしてこれが神の望んでおられることだと言うことができます。それはよいことでしょう」と。

私はその頃少しばかり単純でした。そして彼の反対を受け入れ、何も決してしませんでした。それは私が今なお聖母に借りがある聖母に対する約束の一つ - 私はモントリオールのバスに聖母のファチマの言葉を掲げますという - です。

ファチマは解決策です。そしてファチマ・メッセージは十戒を含んでいます。しかしそれは十戒以上のものです。それは神が世界の中にマリアの汚れなき御心に対する信心を確立することを望んでおられるということです。

神は一つの計画を持っておられる

神は一つの特別の計画を持っておられます。神は第二の計画、代替の計画を持っておられません。神は一つの計画、ただ一つの計画を持っておられます。神はそのお考えを変えられることは決してないでしょう。神は一つの計画を持っておられます。もしわれわれがその計画に従うならば、われわれは世界平和を持つでしょう。もしわれわれがその計画に従わないならば、他の何物も働かないでしょう。ところで、もし私がその計画を書いている者であったならば、私が持っているであろうどんな経験をもってしてさえ、人はもっとよい計画があると言うことができるでしょう。しかしながら、われわれが神の計画に改良を加えることができるなどと考えることは愚かなことでしょう。

われわれがこのことを認めるや否や、われわれがこのことを承認するや否や、われわれがこのことに向かって働くや否や、それだけ早くわれわれは平和を手にするでしょう、それだけ早くわれわれは多くの霊魂の救いを手にするでしょう。

われわれはわれわれ自身のやり方でそれをしようとすることによって神の計画を遅らせています。疑いもなくいくつかの非常に聡明な、そして非常によく考え抜かれた諸計画があります。しかしそれらは十分ではありません。悪魔はわれわれよりも遙かに聡明です。悪魔の敗北は神によって祝せられたおとめに取っておかれました。

神はあなたとの個人的な関係を望んでおられる

聖母は単純に神の計画が何であるかをわれわれに告げられました。神は非常に個人的な神です。父なる神、子なる神、聖霊なる神 - そしてにもかかわらず神はあなたとの個人的な関係、あなた、あなた自身と神との個人的な関係を望んでおられます。

神はまたあなたがあなた自身と祝せられたおとめ、あなたの御母そして神の御母との個人的な関係を持つことを望んでおられます。

メッセージ全体は、あなたがそれを眺めるとき、一つの非常に個人的な訴えです。それは人類に向けられていません。それは世界に向けられていません。それは個人的にあなたに向けられています。そして神があなたに望んでおられることはグルーナー神父にではなく、他の誰かにではなく、教皇にでさえなく、最終的に祝せられたおとめに、そして神御自身、イエズス、そしてもちろん御父と聖霊に個人的に答えることです。

その個人的な関係は神があなたにコミットすることを望んでおられることです。神はそれからあなたが、神が何かあることを言われたということ、神が明確にあることを言われたということ、そしてあなたが神が言われたことを聞いたということを認めることを望んでおられます。

神はあなたが神が言われたことを認めること、そして神の御計画が正しい計画であるとあなたが知っているということ、そしてあなたが神の御計画を実行するためにできることを何であれしようとすることを望んでおられます。

この単純なコミットメントはあなたをあなた自身の生活において、あなたの小教区の生活において、あなたの司教区において、あなたの国において、そして全世界において、一つの大きな機会へと導くでしょう。その機会、諸々の可能性の新しい世界全体への開始を聖母はあなたにお与えになるでしょう。それはおそらくあなたが今想像しあるいは期待することができる何かとはまったく異なったものであり得るでしょう。しかしもしあなたが約束されるならば、あなたがコミットされるならば、そしてあなたがファチマの聖母の完全なファチマ・メッセージを促進することをやり遂げられるならば、もしあなたが聖母に常に忠実であるために必要とされることを何であれなそうとされるならば - そのとき、あなたは神の前に、そして人々の前に、多くの霊魂たち - おそらく数千万の霊魂たちさえを救うのを助けた者として功績を認められるでしょう。世界平和はあなたの後に来るあなたの愛する人々にあなたが残す遺産となるでしょう。

救われる霊魂の数は恩寵との協働にかかっている

ピオ十二世はある回勅の中で救われる霊魂の数はカトリック教徒たちの恩寵との協働にかかっていると言われました。それは一つの大きな神秘です。しかしそれにもかかわらず真です。もしカトリック教徒たちが、われらの主から直接に彼らに個人的に来るものである恩寵の刺激に従うならば、もし司教たちが特に応答するならば、もし司祭たちが応答するならば、多くの霊魂が救われるでしょう。もしすべてのカトリック教徒たちが恩寵のこれらの刺激に従うならば、そのとき全世界は救われるでしょう。

それにもかかわらず、もしわれわれが従わないならば、これらの霊魂は失われるでしょう。ところでこれらの霊魂は彼ら自身の罪のために失われています。しかしもしわれわれが恩寵に忠実であるならば、そのときわれわれに委ねられているこれらの霊魂は、われわれの祈りと犠牲を通じて神が彼らに回心の恩寵をお与えになるがゆえに救われるでしょう。

もしわれわれがその恩寵に応答しないならば、そのときわれわれに委ねられているそれらの霊魂たちは失われるでしょう。われわれはこのことの例をリジューの聖テレジアの生活のうちに持っています。神と人間に対する憎しみのうちに心をかたくなにしていた一人の犯罪者がいました。そして彼は、殺人の廉で有罪の判決を受けまさに処刑されようとしていたにもかかわらず、彼の告解を聴こうとする司祭を受け入れようとはしませんでした。

14歳の少女である聖テレジアは彼の回心のために祈りそして犠牲をしました。神は彼女の祈りと犠牲を聴き入れられました。そしてその犯罪者は処刑される直前に彼の痛悔を示すために司祭と十字架とを求めました。

それゆえ、トレント公会議自身がわれわれに告げているように、悔い改めを最後までしないこと、すなわち、とりわけ聖霊に反する罪を除いては、赦され得ない罪はないのです。

それで、ファチマのジャシンタがしたように、罪人たちの回心のために祈り、犠牲を捧げましょう。

おそらくあなたはジャシンタの偉大な聖性について語られているのをお聴きになったでしょう。ジャシンタの聖性の最もよい証言の一つは彼女の医師リスボア博士からのものでした。彼は彼女に手術を行い彼女の胸郭から二本の骨を摘出しました。彼は彼女に全身麻酔を施すことができませんでした。そしてそれゆえ手術中に彼女を眠らせることができませんでした。彼は局所麻酔を試みました。しかし何らかの理由でそれもきかず、その結果ジャシンタは医師が彼女の胸郭から骨を切断する間ずっと痛みを感じました。彼女は決して不満を言いませんでした。リスボア博士は彼女が話すのを聴いたと言いました。彼女は医師に話していたのではなく、イエズスに話していたのです。彼女はこう言いました:

「さあ、イエズス様、私がたくさん苦しんでいますので、あなたは多くの霊魂を救うことがお出来になります。」

(あなたはジャシンタとフランシスコの聖性についてもっと多くのことをこのファチマ・クルーセイダー22頁で読むことができます。)

ジャシンタはこの苦しみを罪人たちの回心のために聖母が彼女にお求めになったように、受け入れました。そしてそのようにわれわれ一人ひとりは、生活のいかなる歩みにおいてであれ、われわれが子どもであれ、大人であれ、司祭であれあるいは司教であれ、罪人たちの回心のため、最終的には全世界の回心のために、恩寵の革命(もし私がそれをそう呼ぶことができるとすれば)をもたらすことができることをする機会と可能性を持っているのです。

ある点において恩寵のその努力、犠牲と祈りのその努力は聖母の汚れなき御心にロシアを奉献しなさいという教皇と世界のカトリック司教たちに対するファチマの聖母の御要求の実現をもたらすでしょう。聖母が神の定めによってその力をお示しになり、そしてロシアの回心をもたらされるのはただ、その行為の後、教皇と司教たちの公的で荘厳な行為の後でだけです。

神は、ロシアが聖母の汚れなき御心に奉献されるまで、聖母が行動なさることを取っておかれ、そしてある意味において、制限されました。

世界の回心の三段階

世界の回心のための三段階があります:

(1)教皇がマリアの汚れなき御心にロシアを奉献されます。

(2)教皇が奉献をされるとき、聖母はその力をお示しになり、ロシアを回心させられるでしょう。

(3)カトリック信仰の熱心な実践へと世界が回心するでしょう。

第三の段階はすべての段階のうちで最も大きな段階です。われわれの問題は、われわれがしばしば、今日そして昨日何が起こっているかということにそのように没頭してその結果われわれの思索的なあり方に十分に落ち着いていないということ、そしてより大きな可能性やより大きな現実を見ないということです。そのような活動は絵それ自体にあなたの鼻をくっつけて一枚の大きな絵を見ようとするようなものです。あなたは展望を得ないでしょう。聖母のメッセージを熟考するならば、あなたはより大きな絵を得るでしょう。

聖母がわれわれにくださる絵は回心させられる全世界の絵、平和のうちにある全世界の絵、剣を鋤に変える全世界の絵、戦争の仕方をもはや学ぶことのない全世界の絵です。

これは単に私の空想ではありません。それは聖書自身の中にあります。これは聖母がわれわれに提供しておられるものです。ところで、実践的で無分別な(とわれわれは言いましょう)人々はわれわれに、人類の未来のそのような絵は達成不可能であると告げます。信仰なしには、聖母なしには、われわれの協働なしには、それは確かに不可能です。しかし、実際、われわれが従うときにのみそれは可能であるばかりでなく、確実に起こります。

私は、私が言っていることに非常に関心を示された一人の司教様を知っています。しかし彼は私にこう言われました:「神父様、もちろんあなたは今日の世界のカトリック司教たちがあなたの考えを受け容れないだろうということを理解なさいますね」と。私はこう言いました:「閣下、私はそのことを知っています。しかし私は聖母のメッセージを信じます。そして聖母はわれわれにこう仰いました。『最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は(世界のすべてのカトリック司教たちと一緒に)ロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心し、そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう』と。」

それはわれわれにとって考え続けることではありません。たしかにそれは私の姉妹たちや兄弟たちが言っていることです。それは私の同僚たちが言っていることです。それは他の誰かれが言っていることです。それゆえに、私は別の何かあることを考えることができない、と。そうではありません。たといそれが不可能であると思われるとしても、神はわれわれに、自分自身に対して責任ある者であること、われわれ自身で考えること、そして聖母に耳を傾けること、われわれ自身に耳を傾けることを求めておられるのです。

神を通して、そして祝せられたおとめを通して、すべては可能である

私は、神と祝せられたおとめの介入なしにはそれは不可能であるということに同意します。しかし神と祝せられたおとめの介入があるならば、すべては可能です。そしてわれわれは聖母の約束を持っています。

われわれは聖母がわれわれに提供なさっている幻視を受け入れそして次のように言わなければなりません:

「私は自分の役割を果たします。私だけでは何もすることはできません。しかし私は自分の役割を果たします。そして私は他の人々が私と並んで、次の都市を越えて、次の国を越えて、あるいは世界中で、彼らの役割を果たすように彼らを立ち上がらせるために聖母に頼ります。私はするように私が期待されていることをします。そうすれば聖母が後のことをしてくださるでしょう」と。

われわれ一人ひとりは自分たちの責任を引き受けなければなりません。われわれ一人ひとりは聖母の言葉を深く心にかけなければなりません。われわれ一人ひとりは次のように言わなければなりません:

「祝せられたおとめ、私はあなたが悲しんでおられることを知っています。なぜなら、善人は注意を払わないからです。しかし私自身は、不完全であるとしても、多くの欠点を持っているとしても、私にできる程度まで、あなたの要求を聴かないことによって、それらを真剣に受け取らないことによって、それらを熟考しないことによって、それらを説明しないことによって、あなたを悲しませることがもはやないようにします。」

「たとい私が誤解されるという何らかの損失、私がそれに値するであろうある昇進あるいは感謝を得ないという何らかの損失を支払わなければならないとしても、私は自分の役割を果たします。そしてその他のことをあなたに委ねます。」

われわれすべて、そしてここにいるわれわれすべてばかりでなく、あなたが話しかける人々すべて、そして彼らが話しかける人々すべては聖母が約束なさった勝利をもたらすでしょう。

聖母はそのことを御独りですることがお出来になります。しかし、明らかに、過去77年間聖母はこのことをなさいませんでした。聖母はわれわれが自分たちの責任を果たすこと、われわれの役割を果たすことを待っておられます。最終的に、もしわれわれができることをするならば、たといわれわれの生きている間にではないとしても、他の人々は最後に理解を得るでしょう。最後に必要とされることをするでしょう。なぜなら、聖母は「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう」と仰っているからです。

われわれが生きている間に勝利しようと、あるいはそうでなかろうと、少なくともわれわれはできることをしたことに対して神によって認められそして報いを受けるでしょう。シェイクスピアが言っているように「全世界は一つの舞台です」。もちろん、われわれが立っている舞台は世界です。神の前でわれわれの役割を演ずるためにわれわれは神がわれわれに生きることを期待しておられる役割を生きなければなりません。日々、毎分毎分神はわれわれがこの役割においてわれわれの役を演じることを期待しておられます。

それは個人的にあなたにかかっている

それはあなたにかかっています。あなたの隣の人に、あるいはあなたの反対側にいる人にかかっているのではありません。それはあなた御自身にかかっているのです。あなたはこう言わなければなりません:

「たとい私の友人が、たとい私の司教が、たとい私の枢機卿が、たとい私の洗濯女が私に同意しないとしても、私は自分の役割を果たします。私は祝せられたおとめが望んでおられることをします。」

それはあなたに対するマリアの汚れなき御心からの個人的な訴えです。それはあなたに対するイエズスの聖心からの個人的な訴えです。そしてそれはあなたの役割を果たすようにあなたに向けられたものです。それが単純に静けさのうちに犠牲を捧げることであれ - それはすべて神があなたにお与えになったものであるがゆえに - あるいはそれがラジオで、あるいはテレビで、あるいは公共の論攷において話すことであれ、あるいはそれが新聞人であるあなたの友人に話すことであれ、あるいは枢機卿であるあなたの友人に話すことであれ、あるいは司教、あるいは教皇であるあなたの友人に話すことであれ、次のように言う決心をすることはあなたにかかっています:

「私は自分の役割を果たします。あなたは、おお、聖なるおとめよ、私をこの地位に置かれました。そして私はその地位をあなたの目標、あなたの勝利を進展させるために使用します。」

それは今日われわれ一人ひとりの前にある一つの選択です。そしてとりわけあなたの心の中で次のように言われることは私があなたにお願いすることです:

「祝せられた御母よ、私は、私のすべての可能性の限度まで、あなたのメッセージに注意を払わないことによってあなたを悲しませないようにします。私は自分の役割を果たします。そして私はそれを今日だけでなく、明日だけでなく、私の生涯の残りをあなたのメッセージを知らせ、正当に評価させ、従わせるために私の役割を果たします。まず第一に、私自身の生活において、しかしまた彼らが誰であろうと、私の周りのすべての人々に対して私ができる限度まで、そうします。」

司祭たちのファチマ運動

われわれのうちのある人々は疑いもなく教皇に影響を及ぼすことができるでしょう。われわれのうちのある人々は他の枢機卿たちに、そして司教たちに影響を及ぼすことができます。われわれのうちのある人々は大きな影響力を持っています。神は諸々の可能性を知っておられます。しかしそのコミットメントを行うのはわれわれの仕事です。そしてそのことは聖母がわれわれにすることを求めておられることです。またそのことは私があなたたちにすることを求めていることでもあります。すなわち、あなたが個人的にそのコミットメントをなさること、そしてあなたが司祭たちのファチマ運動に参加するためのコミットメントをなさることです。

おとめマリアはわれわれに「ただロザリオの聖母だけがあなたを助けることができます」と告げておられます。聖母はまさに文字通りそうなのです。聖母は諸民族全体が絶滅させられると言っておられます。ルチアがわれわれに、多くの民族が地の面から消失するだろうと告げるとき、彼女が意味しているのは一つの政治的変化あるいは一つの新しい名称ではありません。彼女は殺される人々、諸民族全体について話しています。諸民族全体が地の面から消し去られるでしょう。

私が何もしないことは私の罪であろう

もし私が、人々は地の面から消し去られ得るということを知っているならば、そしてその問題を解決する仕方を知っており、そして私の役割を果たさないならば、そのとき私は責任があります。われわれは皆 - われわれの祈りによって、われわれの犠牲によって、われわれの断食によって、そしてまたメッセージを伝えることによって - 絶滅させられるようになることから諸民族を救うために何かあることをすることができます。

メッセージを伝えることは大したことであるようには見えません。それでも聖母の敵どもが今に至るまで聖母の勝利を妨げることに成功することができたのはファチマのメッセージを沈黙させることを通じてなのです。

ポーランドにおいて1949年に共産主義者たちはポーランドを乗っ取るためにただ二つの条件だけを求めました。一つの条件は共産主義を公然と非難しないこと、そしてもう一つの条件は連合政府の内閣において軍と警察の地位を引き継ぐことでした。これら二つの条件でもって彼らはポーランドを乗っ取ることができました。

同じことが1962年にヴァチカンに求められました。すなわち、ヴァチカンが共産主義を公然と非難しないということです。一つの条件、そしてただ一つの条件:沈黙でした!

われわれはそれを理解しないかも知れません。しかし社会の異なったレベルがあります。私は経済的あるいは社会的なレベルについて話しているのではありません。しかし神は、ちょうど天使たちの位階があり、そしてより位の高い天使たちがより位の低い天使たちに事柄を説明するように神はお定めになりました。それと同じように人間社会においてもより多く知っている人々がそれほど知らない人々に事柄を説明するように神はお定めになったのです。

それは、われわれがより多く知っているがゆえにわれわれをより重要なもの、あるいはよりよいもの、あるいはよいものにするのではありません。それはただ神がそのように定め給うた秩序なのです。しかしもしわれわれがよく知らない人々に事柄を説明することにおいてわれわれの役割を果たさないならば、彼らはメッセージを手にすることはありません。それゆえわれわれがファチマ・メッセージに関して沈黙を守るとき、メッセージは人々のところに届かないのです。

われわれの義務を果たさないことは一つのオプションではない

それゆえメッセージを伝えるためにわれわれの義務を果たさないことはわれわれのオプションではありません。これはこれまで、そしてあなたが1917年にポルトガルにおいて5月13日に聖母を見たのはただ3人の子どもたちだけであったということを考えるときに起こってきたことです。ジャシンタは彼女の母親に話しました。彼女の母親は彼女の父親に話しました。そして言葉はそのような仕方で広められました。その結果6月13日には50人の人々がいました。

50人の人々というのはそれほど多い人数ではありません。しかしこれら50人の人々は彼らの友人たちや隣人たちに話しました。そして7月には5千人の人々がいました。そしてこれらの5千人の人々は彼らの友人たちや隣人たちに話し、8月には1万5千人の人々がいました。そしてこれら1万5千人の人々は彼らの友人たちや隣人たちに話し、そして9月には3万人の人々がいました。そしてこれら3万人の人々は彼らの友人たちや隣人たちに話し、そして 10月には7万人の人々がいました。すべては言葉が一人の子どもによって彼女の母親に伝えられたためでした。

あの当時、リスボンの枢機卿総大司教はフリーメーソンの政府の手によって追放されていました。カトリックの司祭たちや修道者たちは監獄にいました。ですから私はファチマを伝えなかったと言って司祭たちを非難しません。実際は彼らの多くはファチマに行くことを信徒に思いとどまらせました。

他方において、諸新聞はあるレベルにまで達したときにファチマを信じる人々を公に馬鹿者等々と呼びながら嘲笑し始めました。彼らは巡礼者たちがファチマに来ることを妨害するためにある時点で軍隊を出動させることさえしました。

このすべてのことにもかかわらず、信徒たちは、いかなる地位の信徒であれ、彼らの友人たちや隣人たちにファチマのメッセージに耳を傾けるように告げました。そして彼らはやって来ました。そして彼らはメッセージを聞き、そしてそれを広めました。私はファチマに関する事実 - それはほとんど熟考されていません - もまたわれわれの時代のための一つの教訓であると思います。

あなたの声は沈黙を破ることができる

諸新聞の内部には、教会の内部には、ファチマについて沈黙を守るようにあなたに望む多くの勢力があります。しかしあなたは少なくともあなたの友人たちやあなたの隣人たちに告げることができます。あなたは少なくとも、あなたがどこにいようとファチマのメッセージを広めるためにあなたが持っている小さな役割を果たしそしてそれについての真実を徐々に教え込むことができます。そしてそれが口頭ですべてのうち最もよく他の人々にメッセージを伝えることによって聖母が勝利なさるであろう仕方です。

われわれの役割を果たしましょう。それが聖母がわれわれにすることを望んでおられることです。われわれは皆そのコミットメントをしなければなりません。われわれの責任を避けようとしないようにしましょう。あなたはこう考えるかも知れません:「確かに私は祝せられたおとめを見なかった。聖母は私にはメッセージをお与えにならなかった。だから私は責任がない」と。いいえ、あなたはメッセージを聞きました。あなたはそれが説明されるのを聞きました。ここに書物があります。あなたは知る機会を持っています。神はあなたにその賜物、その機会をお与えになりました。あなたは審判の日にあなたが確かに福音を促進するために何をしたかを神に答えなければなりません。しかしまたあなたはファチマ - われわれの時代のための福音の預言的説明 - を促進するために何をしたかを尋ねられるでしょう。

それが、私がすべての人々、特に司祭たちと司教たちにするように、司祭たちのファチマ運動に参加するように、ファチマのメッセージを2000年間教会によって定義されたものとしてのカトリック信仰の光に照らして常に説明するように説得していることです。それを実践において促進すること、ならびにそれを教義と教説において促進することです。

あなたの役割を果たすことはあなたにかかっています。私は神の恩寵によって私のできることをし続けます。しかし一人の司祭だけではそれをすることはできません。時は切れようとしています。このメッセージを知らせ、正当に評価させ、愛させ、従わせるためにあなたの役割を果たすことはあなたにかかっています。そしてとりわけ聖母へのあなたの個人的なコミットメントを果たすことはあなたにかかっています。

"Totus Tuus" 私はすべてあなたのものです

教皇ヨハネ・パウロ二世が言われたように"Totus Tuus"(私はすべてあなたのものです)。

われわれ一人ひとりに祝せられた聖母に対してこう言わせましょう:「私はすべてあなたのものです」。私はあなたのメッセージを知らせるために私の役割を果たします。私はあなたのメッセージのために生きるために私の役割を果たします。私はあなたのメッセージを生きるように他の人々を励ますために私の役割を果たします。私は教皇とすべての司教たちによって荘厳かつ公的な償いの行為としてロシアの奉献を行わせるために私の祈りと私の犠牲と私の働きとをもって私の役割を果たします。

2007/03/20 三上 茂 試訳

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作成日:2007/03/20

最終更新日:2007/03/20

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