ファチマ・クルーセイダー

講演者の抜粋:

反キリスト起こる

The Fatima Crusader Issue 84, Winter 2006

ミカル・セミン

私は一つの引用をもって始めます:

「われわれは他のすべてのことにまさって今日人間社会の悲惨な状態によって脅かされている。なぜなら、社会が現在過去のいかなる時代よりも、日々進行しそしてその最も奥の存在へと喰い入りながらそれを破滅させている一つの恐るべきそして深く根ざした病にかかっているということを誰が見そこなうことができるのか? 尊敬すべき兄弟たち、あなたたちはこの病気が何であるかを理解している - すなわち、それは神からの背教である。預言者の次の言葉に従えばそれはそのとき実際破滅とそれ以上に結びついているものが何もないほどのものである。『なぜなら見よ、御身から遠く離れる彼らは滅びるであろう...』このすべてのことを考えるとき、この大きな邪悪があたかも最後の日のために取って置かれている諸悪の前味わい、そしておそらく始まりではないかと恐れるしかるべき理由がある。そして世界にはすでに使徒が語っている『滅びの子』が存在しているであろう。そのようなものは実際人間と神との間のすべての関係を根絶し破壊する恥知らずの努力において宗教を迫害し、信仰の教義に立ち向かう際に至るところで採用されている厚かましさと憤怒である!他方において - そしてこのことは同じ使徒に従えば反キリストの特徴的なしるしであるが - 人間は自らを神と呼ばれるすべてのものの上に上げながら無限の無鉄砲さをもって自らを神の位置に押し上げた。人間は自分自身のうちに神についてのすべての知識を完全に消し去ることはできないけれども、そのような仕方で神の尊厳に対する軽蔑を持ち、そして宇宙をいわばその中で人間自身が礼拝されるべき神殿としたのである。」

われわれは反キリストの時代にいるのか?

これらの言葉は2006年にグルーナー神父によって発せられたのではありません。これらの言葉は最後に列聖された教皇聖ピオ十世の、最初の回勅からの言葉です。その回勅は1903年に出されました。それゆえそれは100年以上も前にこの聖なる教皇が御自身の周りを眺められ、近代社会の諸々の状態について考えられて、変だと感づかれたということです。教皇は状況はそのように悲惨なので彼の最初の回勅において - そしてわれわれが諸教皇の最初の回勅は常に彼らの教皇在位期間全体ための土台を敷くものである、彼らの在位期間の彼らの計画であるということを知っているように - 彼は反キリストについて話しておられるのです。

そうですね、おそらく人は彼[聖ピオ十世教皇]は第二ヴァチカン公会議の開会の演説でわれわれがそれについて「警告された」陰鬱のこれら有名な預言者たちのうちの一人に過ぎないと言うかも知れません(そしてこう言っている人々がいます)。彼は近代世界の諸々の複雑さ、そして技術的進歩、そしてすべての社会的、政治的な変化を処理することができない人である、と。そのことが、結果として、教会を事柄に処する諸々の新しいやり方の探求へと - aggiornamento - 、近代世界、他の諸宗教に対する教会の新しいやり方の探求へと新しくし、変えること、そしてその新しいメンタリティをカトリック者の毎日の生活へと行動に移すことへと導いたのでした。

私はわれわれがさまざまの国から来ていること、そしてわれわれの国のそれぞれにおける状況が異なっていることを知っています。しかし私は、一般的に言って、この新しい心的態度はある程度までわれわれが結びつけられているすべての文化、すべての地方教会に浸透していると思います。それゆえ私は次の問を出すことは完全に道理に適ったことであると考えます:すなわち、誰が正しかったのでしょうか? それは聖ピオ十世だったのでしょうか? 彼は近代性の原理あるいは諸原理との休戦を求め、対話に参加し、橋を築いてすべての諸宗教やすべての文化と和解しようと努め、肩を並べて働き、よりよい一つの世界を建設し、等々のことを行い、すべての存在する諸宗教からなるであろうこの世界を建設している近代的なカトリック者よりも近代世界の諸条件についてより現実主義的であったのでしょうか?

どこに解答を見出すべきか?

これらの問いに対する答は近代思想の諸原理の適切な理解、そして次にそれらを健全な推論と信仰の光に照らして判断することにあると私は思います。

それでは教皇聖ピオ十世がここでそれについて話しておられる反キリストの精神とは何でしょうか? それは神に対する叛逆です。それは神の創造なさった秩序を諸事物の一つの異なった新しい秩序で置き換える試みです。そしてこのことはどのように現れて来たのでしょうか? 教皇ピオ十世は神の玉座に座ろうと試みる人間について何を話されたのでしょうか? そうですね、それについてこの教皇が他のいくつかの回勅を書かれた近代思想の基本的・根本的な諸原理を見ましょう。あなたたちは皆、特にここにおられる聖職者の方々は近代主義に反対する回勅(Pascendi)をきっと知っておられると思います。それがあなたたちの神学校で教えられているかどうか私は知りませんが、しかしそれは近代思想を論じている最も深遠な回勅の一つであると思います。

近代思想

近代思想は精神が現実世界を信頼することを切り落とします。近代思想は精神を実在から分離します。知識についての古典的な概念は知識というのは精神が客観的実在に一致することであるというものです。近代哲学は革命と結びついています。われわれの時代の知識人たちの間での現代的な混乱は中世の終わりの唯名論、そして次にルネ・デカルトの近代哲学そして次に特にドイツの哲学者インマヌエル・カントの近代哲学において絶頂に達するプロテスタンティズムにおける私的判断の勝利に始まる哲学的な堕落の長い過程の結果です。カントに従えば精神を作り上げるのは実在ではなくて、外的な世界を定義するのはその内的な諸範疇を通じて精神なのです。近代思想を決定しているのは存在からの、客観的実在からの精神のこの「解放」です。* ジョン・ロック、デイヴィッド・ヒューム、カントそして後の哲学者たちの高く称賛されている著作のうちにあるこの独立宣言 - とあなたは言ってもよいでしょう - は一種のドミノ効果を誘発しています。ひとたび精神が実在から切り離され、そして外的宇宙を創造する神的な力を「受け取る」と、そのときまた世界は理性からの独立、そして道徳性の客観的規則からの人間の良心の独立を主張するようになります。

そのとき勝利するものは客観的な真理を超える一人の人間の主観性です。そしてその次に人間は神となります。それから次に人間は神から、そして神が創造なさった世界から来る真理の受容を通じての理解の代わりに彼の精神の外側に実在を創造しようと努力します。

実際、真理、真理というまさに概念そのものはその意味を失い、近代哲学のために一つの単なる意見となります。そしてもし、それによってわれわれが、お互いに矛盾する意見を含むさまざまの意見を判断することができるいかなる客観的な基準もないとすれば、そのときこれは彼らの生活において方向を失うことによって人間の生活にとってひどい諸結果を生みます。なぜなら客観的な真理のないところでは人間生活のためのいかなる客観的な目的も存在しないからです。そしてそれが、われわれが今日生活の目的について完全に混乱させられたそのように多くの人々を見出す理由です。

単に精神の外部にある自然的世界の知識ばかりでなく、また神の知識と人間の神への依存についての知識をも堀崩したことに責任があるのは近代哲学です。われわれが近代哲学の基本的な諸結果を適用しそしてそれらを宗教を論じる際に用いるとき、このことは明らかに神学においてもまた重大な結果をもたらします。そしてそのことのゆえに、われわれは近代哲学に関しては何か悪魔的なあるものがあると正当に言ってもよい、と私は思います。そしてわれわれは、そのことを理解しそして近代哲学にはその諸原理において何か間違ったことがあると気づくために、専門的な意味における哲学者である必要はありません。

ところで、神と創造された世界そして世界の秩序に対して反逆した最初の知的存在は誰だったでしょうか? 神からの独立を宣言した最初の者は誰だったでしょうか? そうです、その通りです - 初期の世紀の最初の異端者たちではなく、十六世紀のマルチン・ルターではなく、それはルチフェルでした。彼が私は仕えたくない! non serviam)と叫んだとき、それは悪魔でした。光の担い手は[フリーメーソンの]啓蒙という近代の事業の創設者、創始者そして煽動者となりました。


* 編集者註:
もっと正確に言えば - このいわゆる精神の解放は実際は近代的人間が永遠の死とこの世的な諸々の災厄へと導く嘘と作り話へと鎖で繋がれることなのです。

2007/03/21 三上 茂 試訳

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作成日:2007/03/21

最終更新日:2007/03/21

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