ファチマ・クルーセイダー

救われる人々の数の少なさ

The Fatima Crusader Issue 92, May 2009 より

ポート・モーリスの聖レオナード

聖レオナードの著作は、一度ではなく、二度あなたにあなたの良心を検討させ、告解の秘跡をもっと熱心にそしてもって頻繁に用いさせるであろう。
多くのキリスト教徒は彼らが天国においてそのような強力な友人と慈悲深い御母を持っていることにまったく気がついていない。マリアは、われわれが生まれる前からさえ、われわれをご覧になり、知っておられそして愛しておられた。そして聖母はそれ以来ずっとわれわれを愛し続けてこられた。
われらの主は御自分の御母が御自分にお求めになることを何一つ拒否なさらない。天主は御自分の御母の諸々の望みに従うことを愛しておられる。天主のすべての恩寵は御母の手の中にある。そして御母はそれらを、われわれが願うことができる以前にさえ、自由にわれわれの上に注がれる。天主はマリアに、マリアの助けを願うすべての罪人のために赦しを得る力をお与えになった。そしてマリアは天主の怒りから霊魂たちを守りながら、この力を十分にお使いになる。罪人たちはマリアの強力な愛の特別な対象である。すべての人は、どのような罪を彼らが犯したとしても、マリアのうちに安全を見出すことができる。この最も親切な御母の御心は、地獄への途上にある人々に対してさえ、憐れみに満ちている。悪魔どもはマリアに恐怖心を抱いている。そしてマリアは、自分の霊魂をあの最も悪辣な霊に売った一人の哀れな人間によって署名された契約を、御自分に取り戻させるために悪魔に強制なさる方として実際に知られてこられた。
あなたが天国において最も強力で最もあわれみに満ちた御母を持っているという知識のうちに安心しなさい。われわれはわれわれの救いをより安全にさえするために聖母への強力な信心を真心をこめて用いなければならない。茶色のスカプラリオに登録し、そしてそれを常に身につけなさい。毎日3回の「めでたし」の祈りをしよう。もっとよいことは、少なくともいとも聖なるロザリオの5連の祈りをしなさい。

ポート・モーリスの聖レオナードは教会の歴史の中で最も偉大な宣教修道会の一つであったフランシスコ会の最も聖なる修道士であった。祝せられたおとめの汚れなき御心に対する信心、祝せられた秘跡[御聖体]の礼拝そしてイエズスの聖心に対する尊敬は彼の擁護運動であった。彼は、彼の死後100年ほどしてなされた汚れなき御やどりの決定に対して少なからざる仕方で責任を負っていた。彼はまたわれわれに天主を讃える言葉と十字架の道行きの信心をも与えた。

彼が罪人たちの回心のために当てにしたこの説教は列聖訴訟手続きの間、教会法上の検討のために提出された。その中で彼はキリスト教徒のさまざまの生活状態を検討し、人間全体への関連において救われる人々の数の少なさをもって結論づけている。

この注目に値するテキストに関して熟考する読者はその議論の健全さを把握するであろう。それは教会の賞賛を勝ち得たものである。

さあ、人を感動させる聖レオナードの説教を読んでください。


今日私が取り扱おうとしている主題は非常に重要な主題です。それは教会の支柱をさえ震わせ、最も偉大な聖人たちを恐怖で満たし、砂漠を隠遁者たちでいっぱいにしました。この教えの要点は、救われるキリスト教徒の数が地獄に落とされるキリスト教徒の数よりも多いか少ないかを決定することです。それが、天主の裁きについての救いに役立つ恐れをあなたたちのうちに産み出すことを私は希望します。

私が明白に話さなければならない理由

兄弟のみなさん、私があなたたちに対して持っている愛のゆえに、私は自分があなたたち一人ひとりに次のように言うことによって永遠の幸福の見込みでもってあなたたちを安心させることができたならばと望みます:すなわち、あなたたちは確実に天国へ行きます、キリスト教徒の大部分は救われます、それゆえ、あなたたちもまた救われるでしょう、と。しかし、もしあなたたちが、あたかもあなたたち自身の最悪の敵であるかのように天主の掟に対して反抗するならば、どのようにして私はあなたたちにこの甘美な保証を与えることができるでしょうか? 私は天主のうちに、あなたたちを救おうとされる一つの真摯な御望みを見ます。しかし私はあなたたちのうちに地獄へ落とされる一つの決定された傾向を見出します。それゆえ、もし私がはっきりと話すならば、私は今日何をすることになるでしょうか? 私はあなたたちにとって不快な者となるでしょう。しかしもし私が話さなければ、私は天主にとって不快な者となるでしょう。

それゆえに、私はこの主題を二つの点に分けようと思います。第一の主題において、あなたたちを恐怖で満たすために、私は神学者たちや教父たちにその問題に関して決定してもらい、キリスト教徒の成人の大多数が地獄に落とされるということを宣言してもらおうと思います。そしてあの恐ろしい神秘の沈黙の礼拝において私は私自身の意見を秘密にしておくつもりです。第二の点において、私は、あなたたちに、地獄に落とされる人々は、彼らが地獄に落とされることを欲したがゆえに、彼ら自身の悪意によって地獄に落とされるのであるということを証明することによって天主なき者に対して天主の寛大さを擁護しようと試みるつもりです。それゆえ、そのとき、ここには二つの非常に重要な真理があります。もし第一の真理があなたたちを驚かすならば、あたかも私があなたたちのために天国の道をもっと狭くすることを望んでいるかのように、そのことを私に対して主張しないでください。なぜなら、私はこの問題において中立的であることを望んでいるからです。むしろ、そのことを、理性の力によってこの真理をあなたの心の中に刻み込もうとしている神学者たちや教父たちに対して、主張してください。もしあなたたちが第二の真理によって幻滅を感じるならば、そのことについて天主に感謝してください。なぜなら、天主はただ一つのことだけ:すなわち、あなたたちが天主にあなたたちの心を完全に差し上げること、を望んでおられるからです。最後に、もしあなたたちが、私が考えていることをあなたたちにはっきりと告げるよう私を義務づけるならば、私はあなたたちの慰めのためにそうするつもりです。

この論題は最も重要である

天主のあわれみについて、そして回心することがいかに容易であるかについて常に語り、あらゆる種類の罪の状態にあって地獄への道でぐっすりと眠っている自由思想家たちの怠惰を驚くほどに保つことに役立ついくつかの真理を説教壇の高みから宣言することは無益な好奇心ではなくて、有益な用心です。彼らに幻滅を感じさせ、そして彼らの休眠状態(精神的な無活動状態)から目覚めさせるために、今日はこの重要な問題を検討しましょう:すなわち、救われるキリスト教徒たちの数は地獄に落とされるキリスト教徒たちの数よりも多いか? という問題です。

敬虔な霊魂たち、あなたたちは去ってもよろしい。この説教はあなたたちのためではありません。この説教の唯一の目的は天主に対する聖なる畏れを彼らの心から投げ出し、エウゼビウスの意見に従えば、彼らを安心させることによって霊魂たちを地獄に落とす悪魔の軍勢に加わる自由思想家たちの高慢を封じ込めることです。この疑いを解明するために、教父たち - ギリシャとラテンの両方の教父たち - を一方の側に置きましょう。他方の側には最も学識のある神学者たちと博学な歴史家たちを置きましょう。そしてすべてを見るために聖書を中央に置きましょう。さて、私があなたたちに言おうとすることに耳を貸さないでください - なぜなら、私はすでにあなたたちに、、私が私自身のために話すことを望んでいない、あるいは問題を決定することを望んでいないということをお話したからです。これらの偉大な精神の持ち主たちがあなたたちに告げなければならないことに耳を傾けてください。彼らは、人々が天国への道を踏み外すことがないように他の人々に光を与える、天主の教会における灯台です。このようにして、信仰、権威そして理性という三つの光によって導かれながら、われわれはこの重大な問題を確実に解決することができるでしょう。

最も有名な神学者たちは言っている

愛と同情にあふれたイエズスはわれわれに天国への道をお示しになっている。しかし多くの霊魂は邪悪さと悪魔の罠に巻き込まれ、地獄の深部へと下って行く悪魔の、人を惑わす道を辿る。

ここには全体としての人類の問題も、また区別なしのすべてのカトリック教徒の問題もないのであって、自由意志を持っており、そしてこのようにして彼らの救いにおいて協力することができるカトリックの成人の問題だけがあるということに十分注意してください。第一に、事柄を最も注意深く検討し、彼らの教えにおいて大げさに言わない者として認められている神学者たちに意見を求めてみましょう:二人の学識ある枢機卿たち、カエターヌスと(聖ロベルト)ベラルミンに耳を傾けてみましょう。彼らは、キリスト教徒の成人たちの大多数が地獄へ落とされると教えています。そしてもし彼らが自らをそれに基づかせている理由を指摘する時間が私にあったならば、あなたたちはそのことについてあなたたち自身で確信を持ったでしょう。しかし私はここではスアレス(偉大な神学者)を引用するにとどめます。すべての神学者たちに意見を求め、その問題について勤勉な研究をした後に、彼はこう書きました:「主張されている最も一般的な意見は、キリスト教徒の間では[救いへと]予め定められている霊魂たちよりも多くの地獄に落とされる霊魂たちがいる、ということである。」

ギリシャおよびラテンの教父たちはわれわれに教えている

神学者たちの権威にギリシャおよびラテンの教父たちの権威を加えてごらんなさい。そうすればあなたたちは、彼らのうちのほとんどすべての人々が、同じことを言っているということを見出すでしょう。これは聖テオドーレ、聖バシリウス、聖エフレムそして聖ヨハネ・クリソストムスの意見です。さらに、バロニウスによれば、この真理が聖シメオン・スティリテスにはっきりと示されたということ、そしてこのことが示された後に、彼が風雨にさらされて40年の間柱の頂上に立ちながら生活することを決心したのは彼の救いを確実なものとするためだったということをはギリシャ教父たちの間で一つの共通の意見でした。これはすべての人にとって痛悔と聖性の一つの模範です。今度はラテン教父たちの意見を求めましょう。あなたたちは次のようにはっきりとものを言う聖グレゴリオを聞くでしょう:「多くの人々は信仰にまで達するが、しかし天国にまで達する人はほとんどいない。」聖アンセルムスはこう宣言しています:「救われる人はほとんどいない。」聖アウグスティヌスはもっと明瞭にこう述べています:「それゆえに、地獄に落とされる人に比べて救われる人はほとんどいない。」しかしながら、最もすごいのは聖ヒエロニムスです。彼の生涯の終わりに、弟子たちのいるところで、彼は次のような非常に恐ろしい言葉を語っています:「その生活が常に悪かった100万人の人々の中から、あなたは免償に値する人をかろうじて一人見出すであろう。」

聖書の言葉

しかし、聖書が問題をそのように明確に述べているときに、教父たちや神学者たちの意見をどうして探し求めるのですか? 旧約、新約聖書を見てごらんなさい、そうすればあなたたちはこの真理:すなわち、非常にわずかの人しか救われない、という真理を明確に指摘している多くの表象、象徴そして言葉を見出すでしょう。ノアの時代に全人類は大洪水によって沈められ、そしてただ8人の人々だけが箱船の中で救われました。聖ペトロはこう言っています:「この箱船は教会の象徴であった。」一方で聖アウグスティヌスはこうつけ加えています:「そして救われたこれら8人の人々は非常に少数のキリスト教徒たちが救われるということを象徴していた、なぜなら、世間を断念する人はごく少数しかいないからである、そして世間を言葉においてだけ断念する人々は箱船によって表された神秘には属していない」と。聖書はまたわれわれに、200万人の中からただ2人のヘブライ人だけがエジプトを出た後に約束の地に入った、そしてただ4人だけがソドムの火とそれと共に滅びた他の燃える諸都市から逃れた、と告げています。このすべてのことは、わらのように火の中へ投げ入れられるであろう地獄に落とされる人々の数は天の御父がいつか、貴重な小麦のように御自分の納屋の中へと集められるであろう、救われる人々の数よりもはるかに多い、ということを意味しています。

イエズスの言葉

それによって聖書がこの真理を確証するすべての比喩をもし私が指摘しなければならないとすれば、私の話は終わらないでしょう。受肉された知恵そのものの生きた神託を聞くことで満足することにしましょう。われらの主は、次のように尋ねた福音書の中の好奇心の強いある人に何とお答えになったでしょうか? 「主よ、救わるる人は少なきか?」主は沈黙を守られたでしょうか? 主は躊躇してお答になったでしょうか? 主は群衆をぞっとさせることを恐れて御自分の考えを隠されたでしょうか? いいえ。ただ一人の人によって質問されて、主はそこにいるすべての人々に言葉を向けられます。主は彼らにこう言われます:「汝われに救わるる人は少なきかと尋ぬ。これわが答なり:狭き門より入ることを努めよ、けだし、われ汝らに告ぐ、多くの人入ることを求むべけれども、しかもあたわざるべし。」ここで話しておられるのは誰でしょうか? それは天主の御子、永遠の真理であり、その方は他の機会にもっとはっきりとこう言っておられます:「多くの者呼ばる、されど選ばるる者少なし。」主はすべての者が呼ばれる、そしてすべての者の中から少数の者が選ばれるとは言っておられず、多くの者が呼ばれると言っておられます。そのことは、聖グレゴリウスが説明しているように、すべての人々の中から多くの人々が真の信仰へと呼ばれているが、しかし彼らのうちから少数の者が救われるということを意味しています。兄弟の皆さん、これらはわれらの主イエズス・キリストの言葉です。それらは明らかでしょうか? それらは真実です。ところで、あなたにとってあなたの心のうちに信仰を持ちそして震えないことが可能であるかどうか、私に言ってください。

さまざまの生活の状態における救い

しかし、おお、私は、すべてを一般的にこのような仕方で話すことによって、私が要点を見失っていることが分かります。それゆえ、この真理をさまざまの状態に適用することにしましょう。そうすれば、あなたたちは、あなたたちが信徒の理由、経験そして良識を投げ捨てなければならないか、それとも、大多数のカトリック教徒が地獄に落とされると告白しなければならないかのどちらかであるということを理解するでしょう。その中では救いがより容易に思われ、またそれについて人々が、神の代理者である司祭たちのそれよりもより高い理想を持っている純潔にとってもっと好ましい何らかの状態が世の中にあるでしょうか? 最初にちょっと見たところでは、誰が、彼らの大部分が単に善良であるばかりでなく、完全であるとさえ考えないでしょうか。にもかかわらず、聖ヒエロニムスが世界は司祭たちでいっぱいであるけれども、100人のうちかろうじて一人が彼の状態(召命)に一致した仕方で生きている、と宣言するのを私が聞くとき、自分は啓示によって、毎日地獄へと堕ちる司祭の数があまりにも多いので、彼には地上に残される誰かがいることは不可能と思われるということを学んだということを証言する天主の一人のしもべのことを私が聞くとき、目に涙を浮かべて「多くの司祭たちが救われるとは私は信じない。私はその反対のこと、すなわち、地獄へ落とされる者の数の方が多いと信じる」、と語気を強めて言う聖クリソストモスを聞くとき、私はショックを受けるのです。

なおもっと高いところをご覧なさい、そして聖なる教会の高位聖職者たち、霊魂を委ねられている司牧者たちを見てください。彼らのうちで救われる者の数は地獄に落とされる者の数よりも多いでしょうか? カンティンプレに聞いてください。彼はあなたたちに一つの出来事を話すでしょう。そうすればあなたたちは結論を引き出すでしょう。一つの教会会議がパリで開催されました。そして大勢の高位聖職者たち、霊魂を委ねられている司牧者たちが出席していました。王や王子たちもまた彼らの出席によってその会議に光彩を添えるために来ました。一人の有名な説教者が説教するために招かれていました。彼が説教を準備しているとき、恐ろしい悪魔が彼に出現し、こう言いました:「あなたの諸々の書物を脇へやりなさい。もしあなたがこれらの王子たちや高位聖職者たちに有益であろう説教をしようと欲するならば、彼らにわれわれの側に立って次のように告げることに満足しなさい。『暗闇の君であるわれわれは、あなたたち、すなわち王子たち、高位聖職者たち、そして霊魂の司牧者たちにあなたたちの怠慢のために、大勢の信徒たちが地獄に落とされていることを感謝する。また、われわれは、あなたたちが地獄でわれわれと一緒になるだろうとき、この引き立てに対するあなたたちへの報酬を蓄えつつある。』」

「私が天主の法廷の前に出頭したとき、6万人の人々が世界のあらゆる場所から同時に到着しました。その6万人のうちから、3人の人が煉獄に行くことによって救われました。そして残りのすべての人は地獄へ落とされました。」

他の人々に命令するあなたたちに災いあれ!もしそのように多くの人々があなたたちの落ち度よって地獄に落とされるならば、あなたたちには何が起こるでしょうか? もし、最初天主の教会にいる人々のうち少数の人しか救われないならば、あなたたちに何が起こるでしょうか? あらゆる状態、両性、すべての状態、すなわち、夫、妻、未亡人、若い女性、青年、軍人、商人、職人、裕福な人と貧しい人、貴族と平民、を考えてごらんなさい。われわれは、そのように悪い生き方をしているこれらすべての人々について何と言うべきでしょうか? 聖ヴァンサン・フェレルからの次の話はそれについてあなたが何と考えればよいかをあなたに示すでしょう。彼は、リヨンの一人の副司教がその義務を放棄して罪の償いをするためにある砂漠のような場所に隠遁した、そして彼が聖ベルナルドと同じ日の同じ時刻に死んだ、と述べています。彼の死後、彼は彼の司教のところへ現れ、彼にこう言いました:「司教様、知ってください。私が亡くなったまさにその時刻に、3万3千人の人々もまた死にました。この数の中から、ベルナルドと私自身が遅れることなく天国へのぼりました。3人が煉獄へ行きました。そして他のすべての人々は地獄に落ちました。」

われわれの年代記はもっと恐ろしい出来事を述べています。その教えと聖性のために有名な、われわれのブラザーたちのうちの一人がドイツで説教をしていました。彼は不純の罪の醜さを非常に力強く描いたので、一人の女性は皆の前で悲しみのあまり死んだようになって倒れました。それから、生気を取り戻して彼女はこう言いました:「私が天主の法廷の前に出頭したとき、6万人の人々が世界のあらゆる場所から同時に到着しました。その6万人のうちから、3人の人が煉獄に行くことによって救われました。そして残りのすべての人は地獄へ落とされました。」

おお、天主の審判の深淵よ!3万人からただ5人だけが救われたのです!そして6万人からただ3人だけが天国へ行ったのです!私の話を聞いているあなたたち罪人はどの部類に数えられるのですか? ...あなたたちは何と言いますか? ...あなたたちはどう思いますか? ...

私は、あなたたちのうちのほとんどすべての人々が驚きと恐怖に満たされてあなたたちの頭を垂れているのを見ます。しかしわれわれの麻痺状態を脱しましょう。そして自分自身にへつらう代わりに、われわれの恐怖から何らかの利益を引き出すように努めましょう。天国に導く二つの道がある、ということは真実ではないでしょうか? すなわち、それは純潔と悔い改めです。ところで、もし私があなたたちに、非常にわずかの人しかこれら二つの道のどちらか一つを取らないということを示すならば、あなたたちは理性的な人々として、非常にわずかの人しか救われないと、結論するでしょう。そしてその証明のことに触れるならば:どの年齢、仕事、あるは状態のうちに、あなたは、邪悪な人々の数が善人の数よりも百倍も多くはないということを見出すでしょうか、そしてそれについて人はひょっとすればこう言うのではないでしょうか

「善人はその数において非常にまれであり、そして悪人は非常に多い」と?

われわれは、サルヴィアーヌスが彼の時代について言ったことをわれわれの時代について言うことができるでしょう:すなわち、あらゆる種類の罪悪の中に完全に浸された罪人たちの数え切れないほどの多数を見出すことは、少数の純潔な人々を見出すことよりも容易である、と。

何人の使用人たちが彼らの諸々の義務において完全に正直で忠実でしょうか? 何人の商人たちが彼らの商売において公正で公平でしょうか? 何人の職人たちが正確で正直でしょうか? 何人の販売員たちが公平無私で誠実でしょうか? 何人の法律家が公正な決定を見捨てないでしょうか? 何人の軍人たちが純潔を踏みにじらないでしょうか? 何人の主人が彼らに仕える人々の給料を不正に与えずにおかないでしょうか? あるいは彼らより地位の低い人々を支配しようとしないでしょうか?

いたるところで、善人は数においてまれであり、悪人は多いのです。今日、分別のある男たちの間でそのように多くの放蕩が、若い女性たちの間で気儘が、女性たちの間で虚栄が、貴族階級のうちにみだらさが、中流階級のうちに堕落が、人々のうちに離婚が、貧しい人々の間に図々しさがあるということを誰が知らないでしょうか。人はダヴィドが彼の時代について言ったことを言うことができるでしょう:すなわち、「すべての人が同じように正道からそれてしまった...善を行う者は一人もいない、ひとりもいない。」と。

通りや広場の中へ、宮殿や家の中へ、都市や地方の中へ、裁判所や法廷の中へ、天主の神殿の中へさえ、入ってごらんなさい。あなたはどこに徳を見出すでしょうか? サルヴィアーヌスはこう叫んでいます:「悪を逃れている非常に少数の人々を除いて、キリスト教徒たちの集会は、悪徳の汚水だめでないとしたら、何であるか?」と。

われわれがいたるところで見出すことができるすべては、自分本位、野心、貪欲そして贅沢です。男たちの大部分は不潔の悪徳によって汚されているのではないでしょうか? そして「世界全体が邪悪さのうちに住んでいる」と言う聖ヨハネは正しくないでしょうか? 私があなたたちに告げているのではありません。理性はあなたたちに、そのように悪い生活を送っている人々の中から非常に僅かの人しか救われないということを信じることを余儀なくさせるのです。

しかしあなたたちはこう言うでしょう:告解が純潔の喪失を有利に償うことができるのではないか? と。そのことはその通りです、私はそのことを認めます。しかし、私はまた、告解は実践においては非常に困難であり、われわれがその習慣をそのように完全に失っており、またそれが罪人たちによってそのように悪しく乱用されていて、その結果そのことだけでも、非常に僅かの人しかその道によっては救われないということをあなたたちに確信させるに十分であろう、ということをも知っています。おお、それはどのように見るに険しく、狭く棘の多いそして恐ろしいか、そして登るにどのように困難であることでしょうか!いたるところで、われわれは見ます、われわれは血の跡と悲しい諸々の記憶を思い起こさせる諸々の事柄を見ます。多くの人はそれを見ただけで弱くなります。多くの人はそもそもの出発点で退却します。多くの人は中間点で弱さから倒れます。そして多くの人は最終地点で惨めに断念します。そしてそれを死に至るまで堪え忍ぶ人のなんと少ないことでしょう!聖アンブロシウスは、適切な告解をした人を見つけることよりは、その純潔を守った人を見つけることの方が容易であると言っています。

告解の恐るべき乱用

あなたが告解の秘蹟を考察するならば、そこには非常に多くの歪められた告解、非常に多くの慎重に考えぬいた弁解、非常に多くの欺瞞に満ちた痛悔、非常に多くの偽りの約束、非常に多くの効果のない決心、非常に多くの無効の罪の赦免があることでしょう!不純の罪について自らを責め、しかもなおそれらの罪の機会を保持している誰かある人の告解をあなたは有効なものと見なすでしょうか? 明らかな不正について自らを責め、しかもそれらについて何らの償いをする意図を持っていないある人の告解は? あるいは、告解に行ったその直後に同じ罪へと再び陥る人の告解は?

おお、そのように偉大な秘蹟の恐るべき乱用!ある人は破門を避けるために告解をします。他の人は悔悟者としての評判を得るために告解します。ある人は自分の良心の呵責をしずめるためにその罪から解放されます。他の人は恥から自分の罪を隠します。ある人は悪意から罪を不完全に責めます。他の人は習慣から罪を表明します。ある人はその秘蹟の真の目的を心にとめていません。他の人は必要な悲しみを欠いています。そしてさらに他の人は堅固な目的を持っていません。哀れな告解聴聞司祭たちよ、あなたたちは、悔悟者たちの大多数をこれらの決心や行為に連れて来るために何をしたのでしょう。それなしには、告解は神聖冒涜であり、罪の赦しは断罪であり、そして悔悟は幻想なのです。

キリスト教徒たちの間で救われる人の数が地獄に落とされる人の数よりも多いと信じている人々、そして彼らの見解を権威づけるために、このように理屈をつける人々、すなわち、カトリックの大人たちの大部分は教会の諸々の秘蹟で武装された彼らのベッドで死ぬ、それゆえに、大部分のカトリックの大人たちは救われる、と理屈をつける人々は、今どこにいるのでしょうか? おお、それは何という立派な理屈でしょうか!あなたたちはまさにその正反対のことを言わなければなりません。大部分のカトリックの大人たちは死のときに悪い告解をします。それゆえに、彼らの大部分は地獄へ落とされます。私は「それだけ余計に確実である」と言います。なぜなら、健康状態がよいときによい告解をせずに死んで行く人は、彼が重い心とふらふらする頭、混乱した精神をもってベッドに横たわっているとき、彼がなお生きている諸々の対象によって、採用された諸習慣によって、そしてとりわけ、彼を地獄へ投げ込むためにあらゆる手段を探し求めている悪魔たちによって、多くの仕方で反対されているとき、いっそう困難な時を持つだろうからです。

ところで、もしあなたがこれらすべての偽りの悔悟者たちに、医師の無知のために、あるいは彼らの親族の落ち度によって、罪のうちに思いがけなく死ぬ、中毒から、あるいは地震において埋もれることから、あるいは打撃から、あるいは転倒から、あるいは戦場で、戦闘中に、罠にはまって、稲妻に打たれて、焼かれあるいは溺れて死ぬ、他のすべての罪人たちを加えるならば、大部分のキリスト教徒の大人たちは地獄に落とされると結論せざるを得ないのではないですか?

それは聖クリソストムスの論法です。この聖人は、大抵のキリスト教徒は彼らの生涯を通じてずっと地獄への道を歩いている、と言っています。それでは、なぜあなたは、大多数の人々が地獄へ行くことにそのように驚いているのですか? 一つの扉のところへ来るためには、あなたはそこへと導く道を取らなければなりません。あなたはそのように強力な理由に何と答えますか?

その答は天主のあわれみは大きいということです、とあなたは私に言うでしょう。そうです、天主を畏れる人々にとっては、とその預言者は言います。しかし、天主を畏れない人にとっては天主の正義は大きい、そしてその正義はすべての強情な罪人たちを断罪します。

天国はただキリスト教徒たちのためにある

天国は、もちろん、キリスト教徒のためにあります。しかし、彼らの品位を辱めず、キリスト教徒として生きる人々のためにあるのです。さらに、天主の恩寵のうちに死ぬキリスト教の大人たちの数に、あなたがもし洗礼の後に、理性の年齢の達する前に死ぬ数え切れない多くの子どもたちを加えるならば、あなたは、使徒聖ヨハネが救われる人々について話しながら、「私は誰も数えることができなかった非常に多くの人々を見た」と言っていることに驚かないでしょう。

そしてこれはカトリック教徒の間で救われる人の数が、地獄に落とされる人の数よりも多いと言い張る人々を欺くことなのです...もしその数にあなたが無垢の衣を保った大人たち、あるいはそれを汚した後に、告解の涙のうちにそれを洗い清めた大人たちを加えるならば、より多くの人々が救われるということは確かです。そしてそのことは聖ヨハネの「私は非常に多くの人々を見た」という言葉を説明します。そして「多くの者が東から、また西から来るであろう。そして天の王国において、アブラハム、イザアクそしてヤコブと共に祝宴に連なるであろう」というわれらの主の言葉、そして通常その意見に賛成して引用される他の比喩をも説明します。

ほぼ8年前に9/11が思いがけなく襲いました。数日後、グルーナー神父はある消防士の遺物を祝福するために出席しました。多くの生命の喪失に対する深い痛恨がなお存在しましたが、しかし準備ができていなかった霊魂たちの喪失に対してはもっとそうでした。あなたの霊魂は審判の日のために準備ができていますか? あなたはあなたの9/11攻撃の前に聖なる告解、聖なるミサそして御聖体拝領を利用していますか?

しかしもしあなたがキリスト教徒の大人たちについて話しておられるならば、経験、理性、権威、礼節そして聖書はすべてより多くの人々が地獄に落とされるということを証明することにおいて一致しています。このことのゆえに、天国が空であると考えないでください。その反対に、天国は非常に人口の多い王国です。そしてもし地獄に落とされる人が「海辺の砂ほどに多い」ならば、救われる人は、「天の星ほどに多い」のです。すなわち、一方も他方も、非常に異なった割合においてではありますが、無数なのです。

ある日のこと、聖ヨハネ・クリソストムスはコンスタンティノープルの司教座聖堂で説教をしながら、そしてこれらの人々の割合を考えながら、恐怖に身震いし問わずにはいられませんでした、「これら多くの人々の中から、あなたたちはどれくらいの人々が救われると考えますか?」そして答を待たずに、彼はこうつけ加えました。「このように多くの人々のうちに、われわれは救われる百人の人々を見出さないでしょう。そして私はその百人についてさえ疑いを持っています。」何という恐ろしいことでしょう!この偉大な聖人はそのように多くの人々のうちわずか百人しか救われないだろうと信じていました。そしてそのときでさえ、彼はその数について確信を持てませんでした。私の話を聴いているあなたたちに何が起こるでしょうか? 偉大な天主よ、私は身震いすることなしにそのことについて考えることはできません!兄弟の皆さん、救いの問題は一つの非常に困難な事柄です。なぜなら、神学者たちの諸々の格言に従えば、一つの目的が大きな努力を要求するとき、少数の人々だけがそれを達成する、からです。

それが、天使的博士聖トマスが、その巨大な学識において、賛成・反対のすべての理由を熟考した後に、カトリック教徒の大人たちの大多数が地獄に落とされると最終的に結論している理由です。彼はこう言っています:「永遠の至福は自然的状態を凌駕しているがゆえに、特に自然的状態は本来的な恩寵に恵まれていないからして、救われる人の数は僅かである。」

それゆえ、自己愛をもってあなたを盲目にし、天主の正義に関する非常に誤った考えをあなたに与えることによってそのように明白な真理を信じることを妨げている目隠し布をあなたの目から取り外しなさい。われらの主イエズス・キリストは「正しい御父よ、世はあなたを知りませんでした」と言われました。主は「全能の御父、最もよきそして憐れみに満ちた御父」とは言っておられません。主は「正しい御父」と言っておられます。それゆえ、われわれは天主のすべての属性の中から、天主の正義よりも知られていないものは何もないということを理解してもよいでしょう。なぜなら、人々は自分たちが受けることを恐れているものを信じることを拒否するからです。それゆえに、あなたの目を覆っている目隠し布を取り除き、そして涙ながらにこう言いなさい:

悲しいかな!カトリック教徒たちの大部分、ここに生きている人々の大部分、おそらくこの集まりにきている人々さえ、地獄に落とされるでしょう!あなたの涙にもっと値するどんな主題があり得るでしょうか?

クセルクセス王は、戦闘態勢についている10万人の彼の軍隊を見ながらある丘の上に立って、そして彼ら全員のうちから100年後には一人も生き残ってはいないであろうということを考えながら、その涙を抑えることができませんでした。非常に多くのカトリック教徒たちの中からその大多数が地獄に落とされるという考えに涙を流すもっと多くの理由をわれわれは持っていないのでしょうか? この考えはわれわれの目に涙の川を流れ出させる、あるいは少なくとも、われわれの心のうちに、一人のアウグスチノ会の修道士、聖ドミニコのヴェン・マルチェッルスによって感じられた同情の念を産み出さないでしょうか? ある日、彼が永遠の苦しみについて黙想していたとき、主は彼に、その瞬間にどのように多くの霊魂が地獄へ行っているかをお示しになりました。そして彼に地獄への一つの非常に広い道をお見せになりました:

2萬2千人の天主に見放された人々が、お互いに衝突し合いながら、深淵へ向かって走って行きました。天主のしもべはそれを見て驚愕し、こう叫びました。「おお、何という人数か!何という人数か!そしてもっと多くの人々がやって来る。おお、イエズスよ!おお、イエズスよ!何という狂気!」エレミアと共に私に繰り返させてください:「誰が私の頭に水を、私の目に涙の泉を与えてくれようか? そして私は私の民の娘たちの殺戮のために日夜泣くであろう」

哀れな霊魂たち!あなたたちはどのようにしてそのように速く地獄へ向かって走ることができるのですか? あわれみのために、立ち止まってしばらくの間私に耳を傾けてください!あなたは永遠にわたって救われること、そして地獄に落とされることが何を意味するかを理解しているか、それとも理解していないかのいずれかです。もしあなたが理解しているならば、そしてそれにもかかわらず、今日あなたの生活を変え、よい告解をし、世間を踏みにじる、一言で言うならば、救われる人々の少数の人数の中に数えられるためにあらゆる努力をする決心をしないのであれば、私は、あなたが信仰を持っていない、と言います。もしあなたがそのことを理解していないならば、あなたはより申し訳が立ちます。なぜなら、そのとき、人は、あなたが正気を失っている言わなければならないからです。永遠にわたって救われること、永遠にわたって地獄に落とされること、そして一方を避け、他方を確実にするあらゆる努力をしないことは信じられない何かある事柄です。

天主の善性

おそらくあなたたちは私が今しがたあなたたちにお教えした恐るべき真理をまだ信じておられません。しかし、私を通じてあなたたちに話されたのは最も尊敬されている神学者たち、最も輝かしい教父たちです。それでは、あなたたちはどのようにして、そのように多くの例と聖書の言葉によって支持されている理屈に抵抗することができるのですか? それにもかかわらず、もしあなたがなお躊躇されるならば、そしてもしあなたの精神が反対の立場へと傾くならば、まさにその考察はあなたを震えさせるに十分ではないのでしょうか? おお、そのことは、あなたがあなたの救いのために全然配慮されていないということを示しています!この重要な問題においては、感受性のある人は、霊魂が関与していない他の事柄における全体的な破滅の証拠によってよりも、彼がおかす危険のほんの僅かな疑いによってもっと強く打たれます。われらの修道士たちの一人、福者ジルは、もしただ一人の人が地獄に落とされることになるとするならば、彼は自分がその人でないことを確信することができるためにあらゆることをするだろう、と言うのを習慣としてしていました。

それゆえ、われわれ、大多数の人が地獄に落とされようとしている、そしてそれはすべてのカトリック教徒の中からだけではない、ということを知っているわれわれ、は何をしなければならないでしょうか? われわれは何をしなければならないでしょうか? 救われる人々の少数者に属する決心をしなさい。あなたはこう言います:もしキリストが私を地獄に落とすことを望み給うたのだとすれば、それではキリストはなぜ私を創造されたのか? と。お黙りなさい、軽はずみな舌よ!天主は地獄に落とすために誰一人創造なさいませんでした。しかし、地獄に落とされる人は誰であれ、彼が地獄に落とされることを望んでいるがゆえに地獄に落とされるのです。それゆえに、私は今私の天主の善性を擁護し、あらゆる非難からそれを放免するよう努めます。それが、第二の点の主題となるでしょう。

先へ進む前に、一方にルターとカルヴィンのすべての書物とすべての異端とを集め、他方にペラギウス派と半ペラギウス派の書物と異端とを集め、それらを焼くことにしましょう。あるものは恩寵を破壊し、他のものは自由を破壊します。そしてそれらすべてのものは諸々の誤謬に満ちています。それゆえ、それらを火の中に投げ込みましょう。地獄に落とされたすべての者は彼らの額に預言者ホゼアの託宣を帯びています。すなわち、汝が地獄に落とされるのは汝から来ていると。それは、彼らが、地獄に落とされる者は誰でも、彼自身の悪によって地獄に落とされるのであり、そして彼が地獄に落とされることを望んでいるがゆえにそうなのである、ということを理解するためです。

最初にこれら二つの否定し得ない真理を基礎として受け取りましょう:すなわち、「天主はすべての人が救われることを望んでおられる」、「すべての人は天主の恩寵を必要としている」ということです。ところで、もし私があなたたちに、天主はすべての人を救うことを望んでおられるということ、そしてこの目的のために天主は彼らすべてに天主の恩寵とその至高の目的を達成するために必要な他のすべての手段を与えておられるということ、を示すならば、あなたたちは、地獄に落とされる者は誰であれ、そのことを彼自身の悪意に帰さなければならないということ、そしてキリスト教徒の大多数が地獄に落とされるならば、それは彼らがそうされることを望んでいるからであるということに同意せざるを得ないでしょう。「汝が地獄へ落とされることは汝から来る。汝の救いはただわがうちにのみある。」

天主は御自分の聖なる御母、あわれみの聖母を送り給うた。聖母の御母としての配慮を通じてわれわれはイエズスにより近づくであろう。上の写真で、ファチマの聖母の栄誉を称える行列において、われわれはまたわれわれの生活を改めよという警告のメッセージを見る。

天主はすべての人が救われることを望んでおられる

聖書の中の100箇所において、天主はわれわれに、すべての人を救うことが真に天主のお望みであると告げておられます。「罪人が死ぬことが私の望みであるか? そして彼がその生き方から回心することが私の望みではないのか? ...私は生きている、と主は言われる。私は罪人の死を望まない。回心して行きなさい。」ある人がある事柄を非常に望むとき、彼は欲望と共に死んでいる、と言われます。それは一つの誇張表現です。しかし、天主は、われわれの救いを大いに望まれましたし、また今なお望んでおられますから、望んでお亡くなりになりました。そして天主はわれわれに生命を与えるために亡くなられました。すべての人々を救うというこの意志はそれゆえに、天主における一つの影響を受けた、表面的なそして外見上の意志ではありません。それは一つの真実の、効果的なそして有益な意志です。なぜなら、天主はわれわれに、救われるためにわれわれにとって最も適切なすべての手段を提供なさっているからです。天主は、われわれが救いを達成することがないようにとそれらの手段をわれわれにお与えになっているのではありません。天主は一つの真摯な意志をもって、われわれがそれらの結界を得るという意図をもって、それらをわれわれにお与えになります。そしてもし彼らがそれを達成しないならば、天主はそれについて傷つけられ、感情を害された御自身をお示しになります。天主は地獄に落とされる者にさえ救われるためにそれらを用いるようにお命じになります。天主はそれを用いるように彼らを促されます。天主はそれを用いるように彼らに義務づけられます。そしてもし彼らがそうしないならば、彼らは罪を犯すのです。それゆえに、彼らはそれをすることができ、そしてこのようにして救われることができたでしょう。

さらに、天主はわれわれが天主の助けなしには天主の恩寵を利用することさえ出来ないだろうということを御覧になるがゆえに、われわれに他の諸々の助けをお与えになります。そしてもし彼らがときどき効果のないままにとどまるならば、それはわれわれの責任です。なぜなら、これらの同じ助けでもって、ある人はそれらを悪用し、そしてそれらと共に地獄に落とされるかもしれませんし、またある人は正しいことを行い救われるかもしれないからです。彼はより強力でない助けをもってしてさえ救われるでしょう。そうなのです、われわれがより大きな恩寵を悪用してそして地獄に落とされ、一方で他の人がより少ない恩寵をもってして救われるということが起こり得るのです。

聖アウグスティヌスは次のよに叫んでいます:「それゆえに、もしある人が正義から身をそむけるならば、その人は自分の自由意志によって運ばれるのであり、自分の欲望によって導かれ、自分自身の説得によって欺かれるのである。」しかし神学を理解しない人々のためには、ここに私が彼らに言わなければならないことがあります:天主は非常に善なる御方でありますから、自分の破滅へ向かって走る一人の罪人を御覧になるとき、彼のあとを追いかけ、彼に呼びかけ、懇願し、地獄の門のところまでさえ彼に同伴なさいます。天主が彼を回心させるために何をなさらないでしょうか? 天主は彼によき霊感と聖なる考えをお送りになります。そしてもし彼がそれらから教訓を得ないならば、お怒りになり、立腹なさいます。天主は彼のあとを追われます。天主は彼をお打ちになるでしょうか? いいえ。天主は空気を打ち、彼をお赦しになります。しかしその罪人はまだ回心しません。天主は彼に一つの致命的な病をお送りになります。それは確かに彼にとって終わりです。いいえ、兄弟の皆さん、天主は彼をお癒しになります。その罪人は悪に関して強情になります。そして天主はそのあわれみにおいて他の方法をお探しになります。天主は彼に他の年をお与えになります。そしてその年が過ぎ去るとき、天主は彼にさらに別の年をお与えになります。

天主を非難してはならない

しかしもしその罪人が、そのすべてのことにもかかわらず、自分自身を地獄へと投げ入れることを望むならば、天主は何をなさるでしょうか? 天主は彼をお見捨てになるでしょうか? いいえ。天主は彼の片手をお取りになり、そして彼が片一方の足を地獄に踏み入れ、もう一方の足を地獄の外にしているとき、天主はなお、御自分の恩寵を悪用しないように彼に説諭なさり、懇願なさいます。さて、私はあなたたちに尋ねます、もしその人が地獄に落とされるならば、彼は天主の御意志に反して地獄に落とされるのであり、そしてそれは彼が地獄に落とされることを望んでいるからであるということは真ではないでしょうか? 来て、今私に尋ねてください:もし天主が私を地獄に落とすことをお望みであったならば、なぜ天主は私を創造なさったのですか? と。

恩知らずの罪人よ、もしあなたが地獄に落とされるならば、非難されるべきは天主ではなくて、あなたとあなたの身勝手がそうである、ということを今日学びなさい。このことについてあなた自身を説得するためには、深淵の深みにまでさえ下りて行きなさい、そうすればそこで私は、彼がこの真理をあなたに説明できるように、地獄において燃えているあれらの悲惨な、地獄に落とされた霊魂たちのうちの一人をあなたのところへ連れて行きましょう。ここに今一人います:「私に言いなさい、あなたは誰ですか?」「私はある見知らぬ土地に生まれた一人の哀れな偶像崇拝者です。私は天国や地獄について、また私が今苦しんでいることについても一度も聞いたことがありませんでした。」「哀れで見下げ果てた者よ!立ち去りなさい、あなたは私が探している者ではない。」もう一人別の人がやって来ます。そこに彼がいます:「あなたは誰ですか?」「私はダッタン国の果てから来た教会分離論者です。私は、天主が存在するということをかろうじて知っているある未開の国に常に住んでいました。」「あなたは私が望んでいる人ではありません。」ここに別の人がいます。「そしてあなたは誰ですか?」「私は北方から来た一人の哀れな異端者です。私は北極の下に生まれました。そして太陽の光もまた信仰の光もいずれも一度も見たことがありません。」「私が探している人はあなたでもありません、地獄に戻りなさい。」兄弟の皆さん、私の心は、地獄に落とされた者たちの間で真の信仰を一度も知らなかったこれらの惨めな人々を見て、打ちひしがれます。そうであっても、有罪の宣告は彼らに対して下されるということを知りなさい。そして彼らはこう告げられるのです:「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ」と。彼らは地獄に落とされることを望んだがゆえに地獄に落とされたのです。彼らは救われるために天主からそのように多くの助けを受けたのです!われわれは彼らが何であったかを知りません。しかし彼らは自分たちをよく知っています。そして今彼らはこう叫びます:「おお、主よ、御身は正しい、そして御身の裁きは公正である」と。

兄弟の皆さん、あなたたちは最も古い信念は天主の掟であるということそしてわれわれは皆われわれの心のうちに書かれているその掟を持っているということ、それはどんな教師もなしに学ばれることができるということ、そしてその掟のすべての指針を知るためには理性の光を持つことで十分であるということを知らなければなりません。それが、野蛮人たちでさえ彼らが罪を犯したときに包み隠した理由です。なぜなら、彼らは自分たちが悪をなしていたということを知っていたからです。そして彼らは彼らの心の中に書かれた自然法を守らなかったために地獄に落とされるということを知っていたのです。なぜなら、もし彼らがそれを守っていたならば、天主は彼らを地獄に落とさせるよりはむしろ一つの奇蹟を行われたでしょうから。天主は、彼らを教えるために誰かある人を彼らのところへ送り、そして彼らに他の諸々の援助を与えられたことでしょう。その援助に関しては、彼らは、彼ら自身の良心に一致して生きないことによって彼ら自身を相応しくないものとしたのです。彼らの良心は彼らがなすべき善そして彼らが避けるべき悪について彼らに警告することに決して失敗することはなかったのです。それゆえ、天主の法廷において彼らを告発したのは彼らの良心なのです。そして良心は地獄において絶えず彼らにこう告げるのです:「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ」と。彼らは何と答えるべきなのかを知りません。そして彼らが彼らの運命に値するということを告白せざるを得ないのです。ところで、もしこれらの無信仰者たちがどんな言い訳をも持たないとするならば、そのように多くの秘蹟、そのように多くの説教、そのように多くの援助を自由に使えるものとして持っていたカトリック教徒にとってどのような言い訳があるのでしょうか? 彼はどのようにして敢えてこう言おうとするのでしょうか? 「天主がもし私を地獄に落とそうとされるならば、それでは天主はなぜ私を創造されたのですか?」と。天主が、救われるために彼にそのように多くの援助を与えておられるときに、彼はどのようにして敢えてこのような仕方で話そうとするのでしょうか? それゆえ、彼を当惑させることを終えましょう。

深淵において苦しんでいるあなたたち、私に答えて下さい!あなたたちの間にカトリック教徒がいますか? 「確かにいます!」何人いますか? 彼らのうちの一人をここに来させてください!「それは不可能です。彼らは下の方のずっと遠くのところにいます。そして彼らを上に上がって来させることは地獄全体を混乱したものに変えてしまうでしょう。彼らのうちのある者を彼が落ちて来るときに止める方が容易でしょう。」そこで、私は大罪の習慣のうちに、憎しみのうちに、不潔の悪徳のぬかるみのうちに生きているあなたたち、そして毎日地獄へ近づきつつあるあなたたちに話しています。止まりなさい。そして方向転換をしなさい。あなたたちを呼んでおられるのは、そしてその御傷をもって、そのように多くの雄弁な声をもって、あなたに呼びかけておられるのは、イエズスです。「わが子よ、もしあなたが地獄に落とされるならば、あなたはただ非難すべきあなた自身を持つだけである」「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。」目を上げなさい、そしてあなたの永遠の救いを確実なものとするために私があなたをそれによって豊にしたすべての恩寵を見なさい。私はあなたをバーバリ[アフリカ北部地域]の森の中で生まれさせることもできたであろう。それは私が多くの他の人々に対してしたことである。しかし私はあなたをカトリック信仰のうちに生まれさせた。私はそのようによき父親、そのように優れた母親によって、最も純粋な教授と教育をもって、あなたが育てられるようにさせた。そのことにもかかわらずもしあなたが地獄に落とされるならば、それは誰の責任であるのか? わが子よ、あなた地震の責任、あなた自身の責任なのだ。「汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。」

「私は、あなたが犯した最初の大罪の後に、第二の大罪を待つことなしに、あなたを地獄へ投げ込むことができたであろう。私はそのように多くの他の人々にそうした。しかし私はあなたについては忍耐強かった。私は長年月の間あなたを待った。私は今日もなお痛悔のうちにあるあなたを待っている。そのすべてのことにもかかわらず、もしあなたが地獄に落とされるならば、それは誰の責任であるか? わが子よ、それはあなた自身の責任、あなた自身の責任なのだ:汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。あなたはいかに多くの人々がまさにあなたの目の前で死んだか、そして地獄に落とされたかを知っている。それはあなたにとって一つの警告であった。あなたはいかに多くの他の人々を、あなたによき模範を与えるために、私が正しい道に引き戻したか、を知っている。あなたは、あの優れた聴罪司祭があなたに何と告げたかを覚えているか? 私は彼にそれを言わせた者である。彼は、あなたを生活を変えるよう、よい告解をするよう、あなたに命じなかったか? 私は彼にその鼓舞を与えさせた者である。あなたの心を動かしたあの説教を覚えているか? 私はあなたをそこへ導いた者である。そしてあなたの心の秘密の中であなたと私の間に起こったこと...それはあなたが決して忘れることができないことである。」

「あれらの内的な霊感、あの明確な知識、あの絶えざる良心の呵責、あなたはそれらを敢えて否定するであろうか? これらすべては私の恩寵のそのように多くの援助であった。なぜなら、私はあなたを救うことを望んだからである。私は多くの他の人々にそれらを与えることを拒んだ。そして私は、あなたを愛情をこめて愛したがゆえに、それらをあなたに与えた。わが子よ、わが子よ、もし私が、今日あなたに話しているように愛情をこめて彼らに話したならば、どれだけ多くの他の霊魂たちが正しい道に立ち帰ったことであろうか!そしてあなたは...あなたは私に対して背を向けた。私がこれからあなたに告げようとしていることに耳を傾けなさい。なぜなら、これらは私の最後の言葉だからである:あなたは私に私の血を支払わせた。私があなたのために流した血にもかかわらず地獄に落とされることをもしあなたが望むならば、私を非難するな。あなたはただ非難すべきあなた自身を持つだけである。そしてそれは全永遠を通じてそうなのである。私にもかかわらずもしあなたが地獄に落とされるならば、あなたは、あなたが地獄に落とされることを望んでいるがゆえに、地獄に落とされるのであるということを忘れるな:『汝が地獄に落ちるのは汝から来るのだ。』

おお、わがよきイエズスよ、そのように甘美な言葉、そのように優しい表現を聞けば、石そのものも割れるでしょう。そのように多くの恩寵や援助をもってして、地獄に落とされることを望む人が誰かここにおられますか? もしそういう人がおられるならば、彼が私に耳を傾けるようにさせて下さい。そしてそれから、もし彼にできるならば、彼が抵抗するようにさせてください。

バロニウスは、背教者ユリアヌスの悪名高い背教の後に、彼が聖なる洗礼に対してそのように大きな憎しみを持ったので、彼は日夜、彼自身の洗礼を消し去る方法を探し求めたと、語っている。その目的のために、彼は山羊の血の浴槽を準備させ、そしてヴェヌスに捧げられた生け贄のこの汚れた血が彼の霊魂から洗礼の聖なる特性を消すことを望みながら、その中に自分自身を沈めたのです。そのような行動はあなたたちには嫌悪感を引き起こすものと思われるでしょうが、しかしもしユリアヌスの計画が成功することができたならば、地獄において彼の苦しみがはるかに少なかったであろうことは確実です。

罪人の皆さん、私があなたたちに与えたいと望む忠告はあなたたちには奇妙なものと思われるでしょう。しかしもしあなたたちがそれをよく理解するならば、反対に、それはあなたたちに対する優しい同情によって鼓舞されているのです。私は、キリストの御血によって、そしてマリアの御心によって、跪いてあなたたちに懇願します。あなたの生活を変えなさい、天国へと導く道に立ち帰りなさい。そして救われる人々の少ない数に属するためにあなたのできるすべてのことをしなさい。このことの代わりに、もしあなたが地獄へと導く道を歩み続けたいならば、少なくともあなたの洗礼を消し去る方法を見つけなさい。もしあなたが、イエズス・キリストの聖なる御名とあなたの霊魂に刻まれたキリスト教徒の聖なる特性を地獄へと持ち込むならば、あなたに禍いあれ!あなたの懲罰はいやが上にも大きいでしょう。ですから、私があなたにするように忠告することをしなさい:すなわち、もしあなたが回心することを望まないならば、まさに今日出かけて行ってあなたの司牧者に、洗礼台帳からあなたの名前を消してもらうように頼みなさい。それはあなたがかつてキリスト教徒であったことの何らの記憶も残らないようにするためです。あなたの守護の天使に、天主からの命令で天使があなたに与えた諸々の霊感や援助を彼の恩寵の書物から消してもらうように懇願しなさい。なぜなら、もし天使がそれらを思い出すならば、あなたにとって禍いだからです!われらの主に主の信仰、主の洗礼、主の諸秘蹟を取り返していただくよう言いなさい。

あなたはそのような考えにショックを受けています。それでは、イエズス・キリストの足許に身を投げて、目に涙を浮かべ悔恨の心をもってこう言いなさい:「主よ、今まで私はキリスト教徒として生きて来なかったことを告白します。私はあなたの選ばれた人々の中に数えられるに相応しくありません。私は、自分が地獄に落とされるに値する者であることを認めます。しかしあなたの憐れみは大きい。そして私はあなたの恩寵に対する全幅の信頼をもって、たとい私の財産、私の名誉、私の生命そのものを犠牲にしなければならないとしても、私が救われるかぎり、私の霊魂を救いたいと、あなたに申し上げます。もし私が今まで忠実でなかったのであれば、私は私の不忠実を後悔し、遺憾に思い、憎みます。私はそのことについて私を赦してくださるよう謙遜にお願いします。よきイエズスよ、私が救われるように、私を赦してください。そしてまた私を強めてください。私はあなたに富、名誉あるいは繁栄を願いません。私はただ一つのこと、私の霊魂を救ってくださることをあなたにお願いします。」

そしてあなた、おお、イエズスよ!あなたは何と言われますか? おお、よき牧者よ、あなたのところに戻ろうとしている迷える羊をご覧下さい。この痛悔している罪人を抱擁してください。彼のため息と涙を祝福して下さい。あるいはむしろよい性質を持ったこれらの人々、彼らの救い以外には何も望まないこれらの人々を祝福してください。兄弟の皆さん、われらの主の足許に身を投げて、われわれが、どれほどの犠牲を払っても、われわれの霊魂を救うことを望んでいるということを表明しましょう。目に涙を浮かべてわれわれ皆で主に言いましょう:「よきイエズスよ、私は私の霊魂を救うことを望んでいます」と。おお、祝福された涙、おお、祝福されたため息よ!

結論

兄弟の皆さん、私はあなたたち皆を元気づけて送り出したいと思っています。それで、もしあなたたちが私に救われる人々の数に関する私の感想をお求めになるならば、私の感想はこうです:救われる人々は多いのか、それとも少ないのか、救われたいと望む人は誰であれ救われるでしょう、と私は言います。そしてもし彼が地獄に落とされることを望まないならば、誰も地獄に落とされることはあり得ません。そして、少数の者が救われるということが真であるならば、それはよく生きる人が少ないからです。その他のことに関しては、以下の二つの意見を比較して下さい:第一の意見はカトリック教徒の大多数は地獄に落とされると言明します。第二の意見は、それとは反対に、カトリック教徒の大多数が救われると言い張ります。あなたたちに、大抵のカトリック教徒が地獄に落とされるだけではなく、ここに出席しているこの集まりのすべての人のうち、ただ一人だけが救われるであろうということをあなたたちに告げるために来て、第一の意見を確証するために天主によって遣わされた天使を想像してください。もしあなたが天主の十戒を守るならば、もしあなたが改悛の精神でイエズス・キリストの十字架を抱擁するならば、あなたは救われるあのただ一人の人であるでしょう。

今度はあなたの所へ戻って来て第二の意見を確証するさっきの同じ天使を想像して下さい。その天使はあなたに、単にカトリック教徒の大部分が救われるだけではなく、この集まりにいるすべての人の中からただ一人の人だけが地獄に落とされ、そして他のすべての人は救われると、告げます。その後で、もしあなたがあなたの法定利率以上の高利貸し、あなたの復讐、あなたの犯罪行為、あなたの不潔な行為を続けるならば、そのときあなたは地獄に落とされるあの一人の人であるでしょう。

救われる人が少ないか、多いかを知ることの利益は何でしょうか? 聖ペトロはわれわれにこう言っています:「よい行いによってあなたの選びを確実なものとするよう努めなさい」と。聖トマスの妹が彼に天国に行くためには自分は何をしなければならないかと尋ねたとき、彼はこう言いました:「あなたが救われたいと望むならばあなたは救われるでしょう」と。私はあなたたちに同じことを言います、そしてここに私の宣言の証拠があります。誰も、彼が大罪を犯さない限り地獄に落とされることはありません。そして誰も、彼が大罪を犯そうと望まない限り大罪を犯しません。そのことは一つの否定し得ない神学的命題です。それゆえに、誰も、地獄に行くことを望まない限り、地獄に行きません。その結果は明白です。そのことはあなたたちを慰めるに十分ではありませんか? 過去の諸々の罪を嘆きなさい、よい告解をしなさい。将来もう罪を犯さないでください。そうすればあなたたちは皆救われるでしょう。なぜあなた自身を苦しめるのですか? なぜなら、地獄に行くためにはあなたは大罪を犯さなければならず、そして大罪を犯すためにはあなたは大罪を犯すことを望まなければならず、またその結果誰も、地獄に行くことを望まない限り地獄に行くことはない、ということは確実だからです。そのことは単なる一つの意見ではなくて、否定し得ないそして非常に慰めに満ちた真理です。天主があなたたちにそのことを理解させてくださいますように、そして天主があなたたちを祝福して下さいますように。アーメン。


「救われる人々の数の少なさ」への注釈

霊の識別に関する第一の規則において、聖イグナティウスは、罪人たちの心を静めることは悪霊の典型であるということを示しています。それゆえに、われわれは主の無限の赦しと憐れみへの信頼と希望の義務とを絶えず説教し、そのことを生じさせなければなりません。なぜなら、回心は容易であり、そして主の恩寵は全能だからです。しかしわれわれはまた、「天主は嘲られることはない」ということ、そして習慣的に大罪の状態のうちに生きている人は永遠の地獄行きへの道にいるということを忘れてはなりません。

最後の瞬間の奇蹟があります。しかし、われわれが、奇蹟は一般的な事の成り行きであるということを主張しない限り、大罪の状態において生きている人々の大多数にとって最後に悔い改めないことが最もあり得る結末であるということに同意せざるを得ません。

ポート・モーリスの聖レオナードの諸々の理由はわれわれに説得的でした。それらの理由は傾聴に値します。雄弁と明白さをもって、それらは、1948年12月4日にカリアラでなされたイタリア共産党党首ヴェリオ・スパノ(Velio Spano)との公開討論会におけるロンバルディ神父(Father Lombardi)の考察を発展させています。「もしあなたがこのような仕方で続けられるならば、あなたが地獄へ音冴えるだろうと考えて恐怖に打ちのめされます」とロンバルディ神父はマルクス主義者スパノに言いました。スパノは答えました:「私は地獄を信じない」と。そしてロンバルディ神父は再びこう言いました:「はっきり申します、あなたがその生き方をそのまま続けるならば、あなたは地獄行きの宣告を受けるでしょう。なぜなら、地獄行きの宣告を受けることを避けるためには、人は地獄を信じなければならないからです。」

われわれはロンバルディ神父の答を一般化することができるでしょう。おそらく、人々を、われわれの現代生活へのその適用においてポート・モーリスの聖レオナードの仕方で説教するという司牧的超越の深い理解へと達することから妨げているのはまさにそのような超越的信仰の欠如なのです。いずれにせよ、それは道徳が今あの有名な宣教師の時代よりも何かよりよいものであるからではありません。いかなる場合もわれわれにとってピエ枢機卿のこの叱責を適用することよりもすばらしくはあり得ないでしょう:「私は至るところに用心深さを見ます。間もなくわれわれはどこにも勇気を見なくなるでしょう。休息が保証されました。もしわれわれがこのような仕方で続けるならば、われわれは知恵の攻撃から死ぬでしょう。」確かに天主の智恵ではありません。確かに。なぜなら、ただ肉的で世間的な用心深さだけが中身のない知識を引き起こすからです。それは聖レオナードの説教をばかにします。

ポート・モーリスの聖レオナードの教説は時の終わりまで無数の霊魂を救って来たしまた救うでしょう。ここには教会が、聖レオナードの天上的な雄弁について話しながら、聖務日課第六の祈りにおいて言っていることがあります:「彼の言うことを聞いていると、鉄や銅の心の持ち主でさえ、その説教の驚くべき効果と説教師の燃えるような情熱のために、改悛へと強力に傾けさせられる。そして典礼の祈りにおいてわれわれは主に願い求める:説教の働きによってかたくなな罪人たちの心を改めさせて下さい、と。」

ポート・モーリスの聖レオナードによるこの説教は、この偉大な宣教師を非常に愛した教皇ベネディクト14世の在位期間中に行われました。

ロザリオの聖母文庫からの引用

2009/09/15 三上 茂 試訳

ファチマ・クルーセイダー、2009年5月(第92)号目次 へ

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作成日:2009/09/15

最終更新日:2009/09/15

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