ファチマ・クルーセイダー

前フリーメイソンの告白:フリーメイソンはファチマの聖母に敵対する

The Fatima Crusader Issue 95, Summer 2010 より

ジョン・サルザ

フリーメイソンの内部からフリーメイソンの諸々の儀式を知っていて、ジョン・サルザは、フリーメイソンが真に一つの異教の宗教 - それは悪魔を礼拝する - であり、一方で、それは世界に対して、それがただ他の兄弟的な組織であるに過ぎない振りをしている、ということを指摘するのに著しく適格である。ジョン・サルザの講演のこの部分は、クレイマー神父によって32ページに始まる彼の講演において説明されたように、われわれに、ファチマの聖母が第三の秘密において警告なさった大きな危険をよりよく理解させる助けとなる。

フリーメイソンは教会の敵である。そしてわれわれが今日学ぶであろうように、聖母は何世紀もの間、フリーメイソンが教会に潜入し、位階を堕落させ、霊魂を破滅へと導くでしょうと、われわれに警告してこられた。この発表において、私は最初に、フリーメイソンが聖母に敵対しているということを示すいくつかの非常に重要な歴史的な点について話すつもりである。そして私はフリーメイソンの儀式について話し、そして最後にフリーメイソンがカトリック教会に対して持っていた影響でもって結ぼうと思う。

私はフリーメイソンであった

それではなぜ私はこのことについて語る資格があるのか? そうだ、私は生まれた時からのカトリック教徒、生涯続くカトリック教徒であるけれども、またフリーメイソンにもなった。法律学校を出てから、私は多くのカトリックの人々によってフリーメイソンに加入するよう懇願された。そしてそのことはアメリカにおいては非常に普通のことである。それは私に、単純に一つの社交クラブ、ビジネスの接触を展開することで私を助けてくれるであろう一つの組織として提示された。私は、アメリカのフリーメイソンはヨーロッパのフリーメイソンとは異なるという影響下にあった。そしてそのことは、それが私に説明されたやり方であった。実際、小教区の司祭たちからの何らかの助言を求めたとき、彼らは同じことを言った。それで私はそのことをそれ以上調べる必要を感じなかった。私の生涯のこの時期に、私はマスター・メイソン、第32階級メイソン、シュライナーたち(Shriners)のメンバーとなった。私は二つのメイソン・ロッジのメンバーとなった。私はそれらのロッジのうちの一つにおいて主席幹部としての職務を果たした。私は去る前には名誉マスターに選出されようとしていた。そして私は熟練カード(Proficiency Card)と呼ばれる非常にまれな資格を受けた。それはメイソンの儀式において他のメイソンたちに教える権限を私に与えるものであった。それは文字通り、ブルー・ロッジ・フリーメイソンの諸儀式のすべて、諸身分のすべてを記憶した一人の人間を要求する。そしてそのことが私が出来たことであった。それゆえ私はフリーメイソンが教えることを知っている。というのは、私自身それを教えたからである。

アメリカとフリーメイソンの誤り

私が言ったように、アメリカにおいてはフリーメイソンは有害であるとは考えられていない。それは単純に一つの社会組織であると考えられている。そして私は、なぜそうであるのか、としばしば自問した。それはヨーロッパではなぜ異なった風に理解されているのか? そしてその理由は、アメリカが最初から一度もカトリック国ではなかったからである。アメリカはフリーメイソンたちによって建国された。そしてフリーメイソンのイデオロギーは合衆国憲法の中に神聖なものとして大切にされている。例えば、政府がどんな宗教をも尊重しないであろうという制度条項。それはわれらの主イエズス・キリストの社会的王権の否定である。人にどの宗教をも実践する権利を与えている自由実施条項 - それは、再び、カトリック信仰に反する。アメリカはフリーメイソンの宗教を生きている、それがフリーメイソンが脅威であると考えられていない理由である。実際、ルーズヴェルト、トルーマンそしてアイゼンハワー(彼らは皆フリーメイソンであった)諸大統領の下で合衆国における教会と国家の分離という主義を創り出したのは合衆国最高裁判所判事たちであった。大統領たちは集団的に、12人の最高裁判事たちを指名したが、彼らのすべてはフリーメイソンたちであった。1941年から1971年までフリーメイソンたちは最高裁判所を支配した。そしてそれらの司法の決定を通じて彼らは教会と国家の分離というフリーメイソンの教義を創りだしたのである。

23回断罪されたフリーメイソン

もちろん、今カトリック教徒たちはもっとよく知るべきである。というのは、他の何らかの誤謬については非常にまれな断罪が存在してきた。しかしフリーメイソンほどに多くなかったからである。私の調査において12人の教皇たちがフリーメイソンについて別々の23の断罪を出されていることを私は見つけた。そしてこれらの教えは教会の正規の普遍的教権の一部と考えられている。それらはすべてのカトリック教徒たちの霊魂を義務づけるものである。教会は常にフリーメイソンに関する教会の立場について非常に明確であった。

ファチマはフリーメイソンに反対して警告している

今、私はファチマへに向きを変え、そしてあなたに、ファチマとフリーメイソンがどのように関係づけられているかに関する一つの展望を与えようと試みる。われわれは三つの秘密、あるいは秘密の三つの部分について知っている。第一に、われわれは地獄についての幻視を持っている。第二に、聖母はロシアの諸々の誤謬と、ロシアを聖母の汚れなき御心へ奉献する必要を明らかにされた、あるいはそれらについて警告なさった。そして、第三に、白い衣服を身につけた司教の幻視がある。それゆえ、他の何らかの情報なしに、われわれがそこに見るものは、諸々の誤謬について、地獄に行く人々についての警告がそこにあるということ、そして、教皇が第三の部分に関わっておられるゆえに、何らかの仕方で教会がそれに関わっているということである。

それから、シスター・ルチアは彼女の第四回想録において次の聖母の言葉を書いている:「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」、もちろんそのことは信仰の教義がどこかほかの所では保たれないであろうということを意味している。

なぜか? これらの誤謬のゆえに、である。それゆえ、われわれが持っているものは世界と教会を毒し、そして霊魂たちを地獄へと導くロシアの諸々の誤謬である。

それでは、ロシアの諸々の誤謬とは何であるか? それらはフリーメイソンの諸々の誤謬と同一のものである。それらは一つの同じものである。簡単に言えば、イエズス・キリストとその聖なるカトリック教会の拒絶である。人間となられた神の拒絶と人間が造った神の賛美。超自然的なものの拒絶と自然的なものの賛美。それがフリーメイソンが自然主義の宗教である理由である。われわれは皆自然的なレベルにおいて兄弟であり得る。しかしもしわれわれが超自然的なレベルを拒絶するならば、われわれは恩寵の秩序において兄弟であることはできない。われわれが恩寵を通じてキリストとその神秘体に結びつけられるときだけ、われわれは兄弟であり、姉妹である。究極的には、このことは神対サタンの問題である。そしてそれが、シスター・ルチアがそれを措定した仕方である。彼女は、サタンが聖母との決定的な戦闘をする気になっており、そして私たちは選ばなければならない、と言った。

フリーメイソンは一つの誤った宗教である

フリーメイソンの人々は一般に、彼らの同業組合が物質的な構造物を、ヨーロッパにおいて諸々の聖堂を、建設していた生産的なフリーメイソンから起こったと主張している。そして啓蒙時代(これは、その間、人々を教会の権威と超自然的な啓示から連れ去るための一つの運動が存在した時代であった)の間に、他の人々:すなわち銀行家たち、法律家たち、商人たち、をフリーメイソンの中へ招き入れる一つの運動が存在した。そしてそれは思弁的フリーメイソンと呼ばれている。

それゆえ、今日実践されているものとしてのフリーメイソンは結局一つの霊的な組織である。というのは、ちょうど生産的フリーメイソンたちが物理的な構造物を建設していたと同じように、今日のフリーメイソンたちは霊的な構造物を建設することを求めており、そしてその諸儀式は霊的に方向づけられているからである。そしてフリーメイソンの、超自然的な信仰の諸真理の拒絶とその自然主義の促進はフリーメイソンの儀式のうちに明確に体現されている。そして私は今あなたにいくつかの例を与えることにしよう。

フリーメイソンの儀式は冒涜であり、異教の神々の集まりを礼拝する

フリーメイソンの最初の階級 - そしてこれらの儀式は全員の儀式である - においては、フリーメイソンへ入って行くすべての人は、私がこれからあなたに告げようとしていることを経験する。最初の階級において、フリーメイソンへの志願者は、彼の下着以外は衣服を全部脱ぎ捨てて、丸裸になることを要求される。しかしそれがすべてではない。彼はまた、彼の十字架、彼のスカプラリオ、彼の結婚指輪すら取り去ることを要求される。というのは、その儀式が特に言っているように、人間は「ロッジの中へ攻撃的なあるいは防衛的な」ものを何一つ持って入ってはならないからである。、攻撃的というのは、カトリシズムがフリーメイソンに不快感を与えるからであり、防衛的とは、彼らが傷つきやすい人間を欲しているからである。彼らはその人が霊的な防衛を持つことを望まない。

フリーメイソンの冒涜

同様にまた、首縄が人間の首の回りに置かれる。そしてこの首縄は世俗世界への彼の愛着、彼の以前の宗教を象徴している。あなたは、その首縄が、彼がフリーメイソンとの信仰契約へと最終的に入るとき、取り去られるのを見るであろう。一枚の目隠し布もまた彼の両眼の上に置かれる。そして彼は霊的暗黒の状態の中にいると宣言される。彼らはこう言った:「この人はジョン・サルザ氏である。彼は長い間暗闇の中にいた。そして今、光へともたらされることを求めている。」そう、私はただその目隠し布を数分間つけていただけである。彼らは、たとえ私がイエズス・キリストの光の中へと洗礼を授けられていたとしても、私が霊的な暗黒の状態にあった、という事実について明瞭に語っていたのである。

フリーメイソンの諸々の脅迫と秘密厳守

そして次に人がロッジの中へ入って来るとき、彼は彼の裸にされた左胸を突き刺す一本の鋭い道具の尖端において受け取られる。そして彼らは「これがあなたの肉に対する苦痛の道具であるように、あなたがフリーメイソンにおけるあなたの諸々の秘密を破るようなことがあるならば、それを思い出すことがあなたの良心となるであろう。」これは悪魔的な諸儀式においてさえ用いられる一つの脅迫戦法である。フリーメイソンはこれが一つの秘密組織であるというトーンを直ちに示している。

フリーメイソンの悪魔的な祈り

志願者がロッジの中へと送り届けられるとき、彼は跪かせられる。そして祈りに参列する。そしてここでは、彼が今や神をどんな宗教でもその神として見るように条件づけられ始める。フリーメイソンは彼らが宇宙の偉大な建築家と呼ぶ一つの神に祈る。その下にあなたは、フリーメイソンに従えば、すべての神々を見出すことができる。それゆえ、たとえ聖パウロが、イエズスの御名がすべての名にまさると言うとしても、フリーメイソンは、神は名前のない百の名前のうちの一つであると言う。聖パウロは、われわれは信じない人々と一緒になることはできないと教えている - われわれは lex orandi,lex credendi[祈りの原理は信仰の原理]という霊的な公理を知っている - それは、もしわれわれがフリーメイソンと共に祈るならば、われわれはフリーメイソンのように信じ始めるだろうからである。

フリーメイソンは祈りにおいて単に神を呼び出すばかりでなく、それはまた独特の諸シンボルと神のための諸々の名前をも持っている。私は宇宙の偉大な建築家のことに言及した。英語を話すロッジにおいては、フリーメイソンの神は"G"という文字によって表されている。そして彼らが彼らの新入会者たちに与えるフリーメイソンの聖書 - それはそれ自身のフリーメイソンの付録をもった聖書のジェームズ王翻訳版である - の中で、それは、"G"という文字が「すべてのフリーメイソンたちの偉大な神」を表している、と言っている。同様にまた、フリーメイソンの神はすべてを見る眼によって表されている。それは明らかにオシリスにまで遡る一つの異教的なシンボルである。そしてフリーメイソンはだれでもフリーメイソンの儀式においてこれらのシンボルに対する偶像崇拝の行為においてお辞儀をすることを要求されている。

フリーメイソンの儀式の諸々の嘘

それゆえ、フリーメイソンは - これらの独特の名前、独特のシンボル、そして独特の祈りを通じて - 人々を一つの霊的な兄弟愛へと、そしてまたこれらすべての宗教の神々を一つの霊的な神へと結びつけようと努める。これは一つの途方もない諸宗派統合の形である。というのは、フリーメイソンの神は聖三位一体ではなく、一つの偽りの神であり、そして真の神の前での嫌悪すべきものだからである。聖パウロが言うように、多くの神々、そして多くの主が存在するが、しかし唯一の真の神、そして一人の主イエズス・キリストだけが存在する。

ダヴィドは詩編の中で、諸国のすべての神々は悪魔たちである、とわれわれに告げている。そしてそれゆえに、フリーメイソンの神は悪魔である。人が神へのこの祈りに参加した後に、ロッジの第一位の幹部である名誉マスターが、彼にこう尋ねながら信仰告白をさせる:「あなたは誰にあなたの信頼を置くか?」そして志願者がいかなる神を告白しようとも、フリーメイソンは彼にこう告げることを要求される:「あなたの信頼は神のうちにある。あなたの信仰はよく基礎づけられている。」それゆえ、イエズス・キリストを拒否する人々に対して、フリーメイソンは彼らに明白に嘘を言うのである。そしてそれは、フリーメイソンの創始者が嘘の父である理由である。

事実、この立場は単に啓示に反するだけではなく、理性それ自身に反する。明らかに、キリスト教と非キリスト教的諸宗教は両方がこの点において正しいものであることはできない。一方は偽りでなければならない。フリーメイソンの教えはここで明らかに客観的な真理をまったく否定する。というのは、フリーメイソンはそれらの両方に、彼らの信頼が真の神のうちにあると告げるからである。福者ピオ4世はそれ以上に正気でないことが人間の精神によって案出されたことはこれまでに決してなかったと言われた。そしてそのようにフリーメイソンは、人間を神以上に賛美しながら、この考え、人間の尊厳、自由、平等、友愛という誤った考えをすべて真理の上に置くのである - それはロシアの諸々の誤謬であり、フリーメイソンの諸々の誤謬である。

フリーメイソンの血の誓約は自己の呪いである

次に、その人はフリーメイソンの祭壇 - それはフリーメイソンにおいては「犠牲の場所」と呼ばれている - で一つの誓約をすることを要求される。それが犠牲の場所と呼ばれるのは、第一に、その人は私が記述しようとしている一つの血の誓約をするからであり、第二に、彼がフリーメイソンの宗教のために彼の以前の宗教を犠牲にするからである。

もしその人がキリスト教徒であることを告白するならば、彼は聖書において誓約をする。そして彼は、彼のフリーメイソンの誓約を破るよりは、むしろ彼ののどを切り裂かせ、彼の舌をその根本から切り取らせ、彼の胸を裂いて開かせ、彼の身体を真っ二つに切断させ、彼の内蔵を取り出させて、灰になるまで燃やさせるであろうと誓う。これらの誓約は自己の呪いであり、そしてこれらのタイプの誓いは重大な罪である。そしてそれらは血のいけにえを明らかに示している。これらの罰の記述は「血の誓約」と呼ばれている。そしてそれらはこれらの誓いの契約的な性質を確証している。

フリーメイソンの儀式:悪魔との契約

あなたは「契約」が個人間の交流であるということを知っている - われわれはそのことをわれわれの神学から知っている - そして血は、それが実際に提供されようが、あるいは象徴的に提供されようが、契約を追認するために、常に象徴であった。その人がフリーメイソンの祭壇で血の誓約をするとき、彼は、今や彼がそれに縛られるフリーメイソンの契約に印を押しているのである。首縄が彼の首から取り外されるのはこの時点においてである。そして彼は始めて兄弟と呼ばれる。なぜか? それは、彼が今はフリーメイソンとの契約的な交流の中にいるからである。

これらの誓いはサタンとオカルトへの入り口である。そして恩寵に対する障害物として役立つ。これらの呪いと共に、フリーメイソンたちは聖霊が霊感を与え給うたまさに聖書において聖霊の神殿を汚すことを誓うのである。彼が誓いをした後に、目隠しが取り外される。そして彼は「光へともたらされる」のである。そして彼が彼の前に見るものは、フリーメイソンの四角のコンパスと聖なる法の書である。もし彼がキリスト教を告白するならば、それは聖書であるだろう。しかしそうであってはならない。聖書は何らかの宗教的書き物によって伴われ得る、あるいは取って代わられ得る:すなわち、ゼンド・アヴェスタ、ソハル、コーラン、モルモンの書、あなたは何でも言っていい。

フリーメイソンがあらゆる神々を三位一体に等しいものとして見るように、すべての宗教的な書き物を聖書に等しいものとして見る。そしてこのことは再び理性に反する。聖書はキリストの神性を主張している。コーランはキリストの神性を拒否している。それにもかかわらず、フリーメイソンはそれら両方が神の意志を反映していると主張する。確かに、悪魔自身によって創始されたのだ。

フリーメイソンの人間崇拝

この人間崇拝はフリーメイソンが彼の白いエプロンを贈呈されるときに続いている。あなたはフリーメイソンたちの儀式において彼らがエプロンを着用することをよく知っているだろう。そしてフリーメイソンは、白いエプロンが生活と行動の清らかさを表していると告げられる。その清らかさは上位の天上界への入会を得るために彼にとって是非とも必要である。彼はまた一つの普通の小槌、一つのハンマーを贈呈される。彼は、昔、生産に関わった石工たちが未加工の石の諸部分を割って取るために小槌を用いたように、彼自身の自然的な諸努力によって彼は自分自身を完成することができ、そして天の霊的な建物のための一つの生きている石として神のために自分自身を価値あるものとすることができる、と告げられる。

もちろん、トレント公会議は、人間が彼自身の自然的な努力によって霊的に有益な何かあることをすることができるという考え方を断罪した。これは破門であった。そしてそれゆえに、フリーメイソンの諸々の教えは破門である。

フリーメイソンのキリストの嘲り

フリーメイソンの三番目の階級であるマスター・メイソン階級において、フリーメイソンは肉体の復活についてのその教説を教える。そしてフリーメイソンの聖書においてそれはこう言っている- 引用しよう - :「肉体の復活はフリーメイソンの宗教的信仰の本質的ドグマである。」

この階級 - それは第三階級のレジェンドと呼ばれているが、しばしばヒラミック・レジェンドと呼ばれている - において、志願者は一つの寓喩に参加する。彼は、歴史的にソロモン王の神殿で働いたヒラム・アビッフ(Hiram Abiff)という名前をもった一人の人物を表すものとされる。しかしこの伝説的人物は創作されている。それは一つのフィクションであり、フリーメイソンが作り上げた何かあるものである。本質的に、志願者は秘密の知識、霊的知識を持っていると言われ、仲間の手工業のフリーメイソンがそれを彼から求めている。そしてロッジの部屋の内部で彼は声をかけられる。彼はフリーメイソンの知識を棄てることを拒否し、そして彼は殉教者となる。彼は文字通り頭を打撃され、大袋の中に捕らえられ、命を捧げたと告げられる。そして象徴的に彼は殺される。それで、ソロモン王はその死体を探す。そして長い話を短くして言えば、墓の隣に植えられたアカシアの緑の小枝のおかげで、その死体は結局は発見される。そして儀式の中では、ヒラム・アビッフが、われらの主と同じように、街の門の外で処刑されたと、言う。これはわれらの主の死の一つの嘲りである。

フリーメイソンの儀式はまた、ヒラムがモリア山の西の丘のふちに埋葬されたと言う。再び、われらの主の嘲りである。その儀式はまた、彼らが式典の中で死体に近づくとき、嘆きの大きな雹のしるしと呼ばれるものを行う。そして彼らは言う:「おお、主よ、わが神よ、未亡人の息子のためにはいかなる助けもないのですか?」未亡人の息子のためにはいかなる助けもないのか、だと? その未亡人は聖母であり、そして息子はわれらの主、イエズス・キリストである。これはわれらの主の死、埋葬そして復活についての一つの悪魔的なパロディである。志願者がそれから名誉あるマスターによって起こされた後、彼はこの象徴的な起こしが永遠の生命へのフリーメイソンの信仰の証拠となると告げる。

その人が文字通り彼の自然的な死を、死ぬとき、彼はフリーメイソンの葬儀のサービスを受けることができる。その葬儀においては、彼は、洗礼のときに着る衣装に似たフリーメイソンのエプロンを着せられる。そしてフリーメイソンの兄弟たちは皆、それによってヒラムの死体が見つけられたアカシアの小枝をその死体の上に置く。彼らはそれを彼の胸の上に置き、そして彼の霊魂が宇宙の偉大な建築者へと昇っていくように推挙する。

サタンのシナゴーグ・フリーメイソン

教皇たちそして聖母はフリーメイソンを一つの宗教、一つの宗派、そして一つのカルトと呼ばれた。そして今あなたはその理由を見ることができるか? フリーメイソンはそれ自身の宗教的諸教説、それ自身の諸儀式、それ自身の独特の祈り、神を表すそれ自身の諸々の名称、神を表すそれ自身の諸々の象徴、それ自身の神学、それ自身の埋葬の諸儀式、それ自身の信契約を持っている。それはチャプレンを持っている。それは諸々の祭服を持っている。それは神殿と呼ばれる集会場所を持っている。それはロッジのための聖別の諸儀式を持っている。それは音楽を持っている。それはキリスト教を嘲る祝祭日を持っている - 6月24日に洗礼者ヨハネの祝日を、そして12月27日に福音記者ヨハネの祝日を - 。それはそれ自身の暦を持っている。フリーメイソンは anno domini 主の年を用いない。彼らは anno lucis 光の年、ルチフェル、サタンの年、を用いる。彼らは2010年に4000年を加える。それゆえ、フリーメイソンでは、6010年である。フリーメイソンの権威者たちもまた、フリーメイソンは一つの宗教である、と言っている。そして教皇たちはフリーメイソンをサタンのシナゴーグと呼ばれた。そして今われわれはその理由を知っている。

キトとファチマ

さて、キトでの聖母の諸々の警告を思い起こそう。キトはファチマを前もって示した。聖母がこう言われたということを思い起こそう:「二十世紀にはほとんど排他的にフリーメイソンを通じて、フリーメイソンが支配するでしょう、サタンが支配するでしょう。」そして教会は、異端、不信心そして不潔のために罰せられるであろう。そしてこれらの事柄はファチマで聖母によって確証されてきた。

それでは、われわれは、第三の秘密が明らかにされなければならなかった年、1960年以来何を見てきたのか? そうだ、われわれは諸々の誤謬を始めて断罪することを決定しなかった一つの公会議を持った。教えを固めるために教会は常に教えに影響を及ぼす諸々の誤謬を断罪してきた。そしてその通り、このことは起こらなかった。特に共産主義と無神論というロシアの諸々の誤謬を。再び、まさにその時に第三の秘密は公表されなければならなかった。

司牧的レベルにおいて教えを表明することにおける一つの失敗があった。われわれが知っているように、このどれも教義的なものではないし、決定的でもなかった。そして司牧的なレベルにおいてでもなかった。教会が常に用いてきた明確な表現を用いる代わりに、彼らは曖昧な言語表現を用いた。多くの例を示すことができる:例えば、"subsist" という言葉、キリストの教会はカトリック教会にみられる(subsist in)ということは、キリストの教会がどういうわけかカトリック教会よりも大きいという印象を与える。そしてまたキリストの教会が教皇制を拒否する異端者をも含んでいるという印象を与える。そのことは公会議が言ったことではないが、しかし曖昧な言葉遣いのこれらのタイプは近代主義的な諸々の解釈に力を貸す。

公会議はまた非カトリック諸宗教に対して前例のない好意的な意見を与えた。それらの諸宗教は真理を超えた一つのフリーメイソン的な統一の精神を皆に明らかに示しながら、救いへの障害物である。実際、われわれは、公会議が一つの新しい教義を公布したとさえ主張してもよいかもしれない。再び、教義上の、あるいは決定的なものではなくて、ただ宗教的自由に対する一つの政策あるいは一つの態度。人間が宗教的自由への一つの権利 - 単に一つの自由ではなく、単に一つの主観的な自由(心理的な自由)ではなくて、人間の尊厳と本性に基づく一つの客観的・自然的権利を持っているということをそこで公会議はまさに初めて言ったのである。それはどのようにあり得るか? 人間は神に服従しない一つの権利、神が与え給うた権利、を持っていない。人間は教会の外で礼拝する権利を持っていない。ロシアは1997年に宗教的自由についてのこの見解を採用した。そしてこのことはカトリック教徒たちにロシアにおいて福音宣教することができることを妨げてきた。

誤った宗教的自由はフリーメイソンの教義である

私は、宗教的自由は教会における問題の核心にあり、そしてそれは確かにフリーメイソンの諸々の教えの核心にある、と考える。実際、われわれは、第二バチカン公会議の諸々の教えを称賛しているフリーメイソンたちを持っている。フランスのフリーメイソン、イーヴ・マルソードン(Yves Marsoudon)は、『一人の伝統的なフリーメイソンによって見られたエキュメニズム』Ecumenism Viewed by a Traditional Freemasonと呼ばれる書物を書いた。そして彼はこう言っている、それを引用する。「すべての道は神へと導く。そしてフリーメイソンのロッジから流れ出ているこの自由な考え方は聖ペトロのドームの上に壮大に拡がった。」フリーメイソンたちがエキュメニカルな公会議の諸々の教えを称賛しているとき、そこにはそのエキュメニカルな公会議はどこか具合の悪いことが存在するのである。

われわれはまた二十世紀にはカトリック信仰について一つの異なった表現を持った。われわれはアンニバーレ・ブニーニ(Annibale Bugnini)によって希薄な空気から作られた一つの新しいミサを持った。彼自身の自伝は彼がフリーメイソンであったという証拠を与えた。そして、オッタヴィアーニ調停(the Ottaviani Intervention)が、ブニーニのミサはトレント公会議によって教義として述べられたものとしてのミサについての神学を反映していないと言ったということは驚くにあたらない。教皇はまた新しいミサを組み立てることについて意見を求めるために、六つの客観的な異端 - ミサについての神学を拒絶するプロテスタントたち - をも、認めた。教会における完全な混乱。

聖母がキトで風習の堕落について警告されたということを思い起こしなさい。二十世紀に教会の中へ入って来た諸々の新奇さについてはどうか? 立ったままでの手への御聖体。人々と向かい合う司祭。女の子の祭壇奉仕。各国語で声高に唱えられるミサ典文。プロテスタントの賛美歌。再び、教会の諸慣習の堕落。われわれは今プロテスタントたち、ユダヤ教徒たち、そして異教徒たちと一緒に祈っている高位の教会人たちを持っている。それは、あたかも彼らの霊魂を救うためにカトリック教会に加わるようにという何らの忠告もなしに、われわれが皆同一のレベルにいるかのごとくである。しかも、これらの同じ高位の教会人たちはグルーナー神父、聖ピオ十世会の司祭たち、そしてすべての時代の信仰を保持する他の忠実なカトリック教徒たちを教会の「外にいる者」として見るのである。ただ悪魔だけがそのような混乱の作者である。そして第三に、われわれは道徳を持っている。キトでの諸々の警告を思い起こしてください:異端、不信心そして不純。

それではわれわれは二十世紀には何を持っているのか? われわれは、われわれがこれまでに見た何かあるものとは似ていない、聖職者の性的乱用を持っている。そこでは、少年愛や同性愛の司祭たちが自由に歩き回り、子どもたちに対して諸々の犯罪を犯している。われらのベネディクト教皇は、メディアが言っていることにもかかわらず、このことについて確実にあることをなさっている。このことは教会の典礼、教会の神学そして教会のまさに魂そのものにおいて、教会の信仰を変えることの自殺行為に対して警告なさる未来のピオ十二世教皇のことを私に思い起こさせる。

1960年以来の教会における一つのフリーメイソン的な革命

二十世紀にはカトリック教会の中に一つのフリーメイソン的な革命が存在してきた。第三の秘密が公表されなければならなかった年、1960年以来教会の世界への一つの再方向づけが存在してきた。実際、私がそれを再方向づけと呼ぶとき、私は親切な人間である。というのは、シスター・ルチアはそれを「悪魔的方向感覚喪失」と呼んだからである。彼女はその言葉をそのように何度も用いた。人はその言葉遣いが実際に第三の秘密の一部であるかな、と思う。このすべてのことはファチマのメッセージと聖母の諸々の要求に注意を払うことに失敗しているこっと結びついている。

それゆえ、要するに、われわれは今や聖母がわれわれにフリーメイソンについて警告なさった理由を知るのである。これらのメッセージはキトとファチマの核心にある。われわれはまた、公表されてこなかったテキストの一部分が存在するということをも知っている。そのことは議論の余地がない。われわれは、単にそのテキストの性質だけではなく、テキストについての諸特徴をさえ知っている:すなわち、そのテキストが25行であること、難しいポルトガル語の慣用語句をもっていることなど。あなたは今週このことすべてについて聞くでしょう。しかし、フリーメイソンのイデオロギーが一つのエキュメニカルな公会議を通じてたぶん教会の中へ入って来るであろう、そしてその指導者たちに伝統を放棄するようにそそのかし、霊魂たちを地獄へと導くであろうという警告はファチマから、そしてキトからであった。われわれはまた第三の秘密が何を意味するかということについて多くの人々から一貫したそして明白な証言を得てきた。

2011/10/17 三上 茂 試訳

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作成日:2011/10/17

最終更新日:2011/10/17

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