ファチマ・パースペクティヴズ

エキュメニズムの最終的な結末

No. 523

クリストファー・A. フェララ

2006年7月3日 Wisconsin State Journal は「過去40年間マディソンに奉仕してきたベネディクト会のエキュメニカル共同体、聖ベネディクト・センターはローマ・カトリック教会に対するそのつながりを終えた」と報じた。センターの長であるベネディクト会修道女シスター・メアリー・デイヴィド・ウォルゲンバックは「センターはこれからはその新しい名称、聖なる知恵修道院の下に一つのエキュメニカルな共同体として純粋に機能することになるでしょう」と言った。

ベネディクト会修道女たちのこのグループはなぜカトリック教会に対するそのつながりを断念するのか? それがすべての「エキュメニカルな共同体」の目的だからである。カトリシズムへ改宗することを非カトリック者たちに期待することなしに彼らとの「一致」を求めるいかなる共同体も単純にカトリックとしてとどまることはできない。与えるために何かあるものが得られる。そしてもしエキュメニズムがその結末 - カトリック信仰への回心なしの「一致」 - に至るまで追求されるならば、与えるであろうものはカトリシズムである。エキュメニズムの最終的な結末は教会からの離反である。

ウォルゲンバックは彼女のベネディクト会修道女たちの共同体を破壊したエキュメニカルな病気の診断を確証している:「変化の理由はたくさんあります。その理由の一つは数年前プロテスタントのメンバーたちを受け入れ始めた規則です。『私たちは非カトリックのシスターたちが二流の地位を持つことを欲しませんでした』と彼女は言った。プレスビテリアンの女性聖職者リン・スミス師は2004年にその修道会のメンバーとなるために最終誓願を立てました。」

換言すれば、エキュメニズムのために聖ベネディクト・センターはカトリックであることをやめなければならなかったのである。それゆえに、ウォルゲンバックが報告したように、「聖ベネディクトのシスターたちはヴァチカンに、カトリック修道会としての彼女たちの誓願からの適用免除を請願し、そしてその要求は叶えられたのである。その修道会は今や『マディソンのベネディクティン女性たち』と呼ばれ、また一般的に聖ベネディクトの修道規則に従い続けるであろう。」

しかしある共同体がその宗教的な誓願を断念し、ローマによって認められたカトリック宗教共同体としてのその存在を終える一方でどのようにして聖ベネディクトの規則に「一般的に従い」続けることができるのか? 従われるのは聖ベネディクトの規則ではなくて、むしろウォルゲンバックと彼女のプロテスタント協力者たちの「規則」である。

もちろん、今日の教会の状態を考慮に入れて、ヴァチカンはこの馬鹿げた行為に対して許可を与えたのである。なぜなら、ヴァチカンはどのように、彼らが創り出した「エキュメニカルな共同体」を破壊することなしにシスターたちを彼女たちの誓願と彼女たちの公式の信仰告白にとどめることができたであろうか? 誓願とエキュメニカルな共同体とは基本的に相容れないのであり、そしてそれゆえに最後には出ていかなければならないのは誓願だったのである。

一方でマディソン・カトリック司教区のロバート・モーリノ司教はその変化を承認した。「しかしセンターではもはやいかなるローマ・カトリックのミサも捧げさせず、聖堂には祝せられた聖体式用の聖餅[blessed Communion wafers]はもはや『保存』されないことを要求した。」

司教は「祝せられた聖体式用の聖餅」によって正確に何を意味しているのか? カトリック教会の聖櫃に実際に保存されているものは聖別されたホスチアであって、その中にはわれらの主イエズス・キリストの御体、御血、御霊魂そして神性が実際にそして実体的にましますのである。ということは、司教は祝せられた秘蹟[御聖体]が元修道女たちと彼らのプロテスタントの仲間たちのグループによって聖堂の中に保たれることによって神聖冒涜されることがないことを要求したということである。

エキュメニカルな対話の教会においては、ごらんのように、そのものとしてのいかなる規律的な秩序も存在しないのであって、ただ諸々の要求があるだけである - もちろん、第二ヴァチカン公会議以来の教会の自己破壊に反対するあの強情な「伝統主義者たち」をあなたが取り扱っているのでない限りで - 。「伝統主義者たち」に関しては教会当局者たちは、マルセル・ルフェーブル大司教の場合にそうなされたように、今なお直接的な命令を発し、破門の布告をさえ発することを躊躇しないのである。

ルフェーブル大司教は、御存知のように、彼が彼の修道会を一つのエキュメニカルな共同体へと変えるために彼の聖霊会神父としての誓願を免除されるように求めたのではなかった。そのような場合にはヴァチカンは許可を与えたであろう。むしろ、1988年に大司教は教会における無類の危機と混乱の時期の間伝統的なミサ、諸々の秘蹟そしてカテケージスを守るために司教たちを叙階しようと努められたのである。そしてこれらの叙階のために(そのうちの一つに対してヴァチカンはすでに原則的に同意した。ただ同意の時期だけが残っている)大司教は72時間以内に「破門される」と宣言された。

実際、教会の規律上の権威は厳格にそして迅速に機能しつづけていると思われる - しかしそれはただ教会の規律の破壊に反対し、それについて何かをなそうと努力している人々に対するときにだけそうであるが - 。

祝せられた秘蹟[御聖体の秘蹟]が元修道女たちが創立したエキュメニカルな共同体において神聖冒涜されることがないようにという彼の「要求」に関連して、モーリノ[司教]は「そのような実験的な試みは教会のために大きな実りをもたらし得る...」という意見を述べた。このようにカトリック教会の一司教は修道女たちの誓願と彼女たちの修道会からの離反を一つの実りある実験として賞賛しているのである。

しかしモーリノ[司教]はこうつけ加えている。センターにおける諸活動への参加は「カトリック学校の宗教のクラス、高校終了後の青年のための小教区宗教教育、そして確かに洗礼志願者たちや RCIA (宗教研究)教育課程における志願者たちのためには適切ではない」と。なぜか? 明らかに、「エキュメニカルな諸活動」は信仰にとって危険であるからである。

モーリノ[司教]はこう警告した。「若い人々はエキュメニカルな諸活動に参加する前にカトリック信仰の根本原理を教え込まれる必要がある」なぜか? 彼らは「エキュメニカルな諸活動」にさらされることを通じて信仰を失うことがないように、カトリック信仰を「教え込まれる」ことが必要なのである。

しかしそれではなぜ、われわれが修道女たちの場合に見るように、もしそれらが「エキュメニズム」のためにカトリック教会の放棄へと導くならば、まず第一にそのような諸活動へとカトリック教徒たちをさらすのか? この問いに対するいかなる論理的な解答も存在しない。なぜなら、エキュメニズム - 不一致のうちに「一致」を探し求める - はそれ自身論理的でないからである。むしろ、エキュメニズムは、シスター・ルチアが第二ヴァチカン公会議以来の教会の「悪魔的な方向感覚喪失」と正当に呼んだものの緊要な部分である精神的混乱の一形式である。

Wisconsin State Journal における報告は「センターの歴史の大部分を共にマディソンにいたシスター・メアリー・デイヴィッドとシスター・ジョーン・コラッシュはローマ・カトリックとしてとどまるであろう。そして修道会におけるプロテスタントたちもまた彼らの個人的な宗教的所属を保持し続けるであろう」と述べることによって結論としている。

しかし聖トマス・アクィナスが教えているように、修道女にとって彼女の誓願を破棄することは信仰からの背教の一形式である。なぜなら、誓願を立てる者は一つの並はずれた程度の忠実さを公的に宣言した者だからである。それゆえに、そのより高度の約束から退却することは、たとえその人が他の点で教会のメンバーである続けるとしても背教 - 離脱 - である。

神以外の誰にとってもこれらの修道女たちの主観的な性向を裁くことはできない。彼女たちは諸々の理由の最善のために自分たちは行動していると信じているであろう。しかし、客観的に言うならば、信仰と道徳に関するカトリック教会の最も基本的な教えを拒否するプロテスタントたちと共に共同体において生活するために自分の誓願を放棄することはただ背教としてしか見られ得ない。そのようなものが今日教会をしっかりと捕らえているエキュメニカルな狂気の最終的な結果である。

作成日:2006/08/26

最終更新日:2006/08/26

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