ファチマ・パースペクティヴズ

No.524

同性愛結婚に関するよいニュースと悪いニュース

クリストファー・A. フェララ

司法の分別のある瞬間において、ニューヨークの最高裁判所、控訴裁判所は - 至る所でリベラル派が驚いたことに - ニューヨーク州法が実際に「同性結婚」に対するいかなる権利も含んでいるとは思われないということを主張している2006年7月6日の決定を言い渡した。

4対2の評決によって - すなわち、二人の裁判官は違った風に考えた - 最高裁は(Newsday が7月7日の記事において報じたように)「何らかの曖昧な言語にもかかわらず、ニューヨーク婚姻法はただ異性のカップルズのみ結婚することを許している、そしてその制限は平等の保護という憲法上の保証を侵害していない、なぜなら、立法者たちは婚姻法が子どもたちをもうけることができる夫婦が安定した結合を形成することを促進するよう合理的に欲したであろうからであり、また一人の母親と一人の父親をもつ家庭の中での子どもの養育を当然のこととして支持したであろうからである」と主張した。

ロバート・スミス判事が裁判所のために書いた多数意見において、彼はこう宣言した:「同性結婚が正しいかそれとも誤りであるかを言うことはわれわれの任務ではない....われわれは人々が今から先の数世代に何を考えるかを予告しない。しかしわれわれは現在の世代がその問題をその選出された代表者たちを通じて決定するチャンスを持つべきであると信じる。」

それゆえ、われわれが見ることができるように、決定はよいニュースであり、そして悪いニュースである。よいニュースであるというのは、ニューヨークの最高裁判所がマサチューセッツ最高裁判所の道を行かなかった(少なくとも今のところまだ)からである。悪いニュースであるというのは、スミス判事自身が述べたように、裁判所の決定については永続的なものは全然ないからである。というのはその決定は正しいことあるいは間違ったことについての何らかの客観的な基準に基づいているのではなくて、「ゲイの結婚」に関して一つの憲法を採用することにおいてか、あるいはそれに関する法律制定について投票することにおいてか、歴史におけるある与えられた瞬間に「人々」がたまたま考えることに基づいているからである。

そうなのだ、「民主主義」においては、公共道徳が明日どうなるかを予告することは単純に不可能である。なぜなら、スミス判事が言っているように、人は「人々が今から先の数世代に何を考えるかを予告する」ことはできないからである。そして民主主義においては、市民法の内容を決定するのは、「人々が考えること」であって、教会によって説明され擁護されたものとしての神の不変の法ではないのである。

自由な社会秩序 - 教会に対するルターの反逆から結果した社会秩序 - 啓示された真理とカトリック神学からのその分離が原因である政治哲学の堕落、そしてカトリックの社会秩序を破壊し、最後に「人々が考えるであろうこと」のなすがままにすべてをわれわれに残した十八世紀および十九世紀の革命的な諸々の運動 - の狂気、を御覧なさい。

そしてこれは「自由」であると彼らはわれわれに告げる。しかしもちろんそれは最悪の種類の奴隷状態、「人々が考えること」に基づいて法律に制定された罪の奴隷状態である。「あなたたちは真理を知るであろう。そして真理はあなたたちを自由にするであろう」と約束しながらわれらの主がわれわれを解放するために来られたのはまさにこの奴隷状態からなのである。

しかしかつてのキリスト教の諸国は彼らを奴隷化する自由の偶像の方を選びながら、王たるキリストから顔を背けた。この理由で天の元后は大洪水より大きくさえある来るべき懲罰についてファチマと秋田で人類に警告なさったのだ。

作成日:2006/08/29

最終更新日:2006/08/29

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