ファチマ・パースペクティヴズ

No.525

断末魔の苦しみにおけるエキュメニズム?

クリストファー・A. フェララ

最近のこのコラムにおいて私は首位のエキュメニストであるワルター・カスパー枢機卿さえ、アングリカン「教会」がもし女性は「司教」であり得ると決定するならば、アングリカンたちとの「教会の交流」のためのすべての見込みは打ち砕かれるであろうということを認めたと報告した。

ところが、驚き、驚き、そのことがまさにアングリカン「教会」が行ったことなのである。Telegraph co.uk が2006年7月9日に報じたように:「英国の教会は昨日、司教としての女性の叙階は神学的に正当化され得ると決定した。一つの歴史的な動きにおいて、一般司教会議はその動きが『教会の信仰に一致する』と多数決で採決した。」

Telegraph の報道が述べているように:「その採決は女性司教の叙階が二つの教会の間の一致を『到達不可能なもの』にするであろうというヴァチカンからの抗弁にもかかわらず採決されたのである。カンタベリーの大司教、ローワン・ウィリアムズ師は採決の結果としてローマ・カトリック教会との関係にとって『一つの重大かつ深刻な』代価が存在するであろうと認めた。」

この決定によってヴァチカンの誰かが驚かされるということが実際に可能であろうか? 彼らは彼らがそれを見ているときに、一つの老いぼれたそして死につつある人間的組織を認めることができないのか? この最近のアングリカンの馬鹿げた行為は実際にヴァチカンの「エキュメニストたち」が『二つの教会[ママ]の間の一致が到達不可能である』ということを悟った最初の糸口であったのか? われわれは、すでに司祭としての女性の叙階を承認し、中絶(少なくともある場合に)、避妊、離婚そして信仰に反する無数の異端を承認してきた「教会」との一致が「到達可能」であると信じるべきなのか?

どれほど長く - どれほど長く - ヴァチカンはアングリカン・チャーチの Mad Hatters (全くの狂気の人々)およびその総体において真正の福音を奉ずる何らの意図をも絶対に持たない他のすべてのプロテスタント諸派との「一致」という無益な追求に教会の資源とエネルギーを浪費しようとするのか?

「カトリック・エキュメニズム」を監督している人々がその事業全体が出発点から失敗へと運命づけられているということを理解する前にそれは何を得るであろうか? それが失敗へと運命づけられているのは、それが、キリスト教一致の主題に関する第二ヴァチカン公会議以前のあらゆる教皇の教義的に必要な教えである常識:すなわち、すべてのキリスト教徒たちの一致をもたらす唯一の道はすべてのキリスト教徒たちをカトリック教会の中へ連れてくることである - なぜなら、他のいかなる教会も存在しないし、これからも存在することはないであろうから - ということをその第一の原理として受け取らなかったからである。

ヴァチカンの、アングリカンの人々との「一致」の追求 - たとい彼らが女性「司教たち」を「聖職者として叙任する」と言い張ったとしても疑いもなく続くであろう - はエキュメニズムがそれ自体一つのパロディとなったということを示している。エキュメニズムをそれがすでにそうであるより以上にばかばかしいものとして描写するためになし得ることは何もない。にもかかわらず、彼ら自身の運命づけられた「運動」の断末魔の苦しみを認めることを拒否しているその決意の固い実行者たちと共に、それは次から次へと進行する。彼らは、永遠に後退し続ける幻覚に彼らの目を固定させて、何処へも到達しない道をゆるぎなく進み続けるのである。ファチマの聖母がエキュメニズムのなかなか消えない魔力から彼らを救い出すために執り成しをしてくださいますように。

作成日:2006/08/30

最終更新日:2006/08/30

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