ファチマ・パースペクティヴズ

「友好的異端者カスパー」最新情報

カスパーは彼が擁護していると思われるものを掘り崩している

2006/07/25

クリストファー・A. フェララ

ウィリアム・カスパー枢機卿は「エキュメニカルな諸問題」において彼が「カトリック的な見方」と呼んでおられるものを擁護しておられるように見える一方で信仰をまんまと掘り崩しておられる非常に巧妙な神学的シロアリである。女性の「司教たち」を「叙階する」かどうかをめぐるその論争に関して、2006年6月5日に「英国教会」の「司教たちの家」に向けられたカスパー[枢機卿]の挨拶を見てください。(女性司教の叙階は「アングリカン・コミュニオン」のアメリカおよびカナダ支部ではすでに起こってしまった。)

まず第一にここにカスパー[枢機卿]の挨拶の主題がある:「言葉の真の意味におけるエキュメニズムは完全な教会のコミュニオンの回復をその目標として持っている。それは今までのわれわれの対話の前提条件であった。その前提条件は女性たちの司教職への叙階の導入の後では現実的にはもはや存在しないであろう。」

この一つの陳述だけでも微妙な転覆に満ちている:第一に、その陳述はヘンリー八世によって建てられた一つの人間的な組織、異端と不道徳に満ちた一つの「福音」を説教している組織であるアングリカン・チャーチとイエズス・キリストの人格において受肉された神によって建てられたカトリック教会との間に実際に「完全な教会のコミュニオン」があり得たということを暗に意味している。

第二に、その陳述は、明らかに女性司祭たちの狂気がそれだけでひとりでにカトリック教会とアングリカン「教会」との間の「コミュニオン」のいかなる可能性をも排除するときに、司祭たちとしての女性たちの叙階が一つの克服できない障碍ではないということを暗に意味している。

第三に、「完全な教会のコミュニオン」について話すことによって、その陳述は、英国の「教会」を含むプロテスタントの諸派は、彼らが(教皇レオ十三世が Apostolicae Curiae の中で不可謬的に宣言されたように)聖職の位階と有効な聖体を欠いているがゆえに、全然教会ではないという Dominus Iesus において主張されたカトリック教会の教えを暗々裡に否定している。それゆえに、アングリカンの人々にとってはカトリック教徒との「完全な教会のコミュニオン」を達成するためにはただ一つの道だけが存在する:すなわち、アングリカンの偽りの教会を去り、そしてカトリック教会の成員となることによって、である。

カスパー[枢機卿]はすべての「エキュメニストたち」のやり方で、非カトリックの団体の回心以外に何か他のキリスト教一致への道があると言い張っておられる。カスパー[枢機卿]に従えば、大きな問題は唯一の真のキリストの教会とヘンリー八世の「教会」の間の何らかの「コミュニオン」の基本的な不可能性ではないのである。そうではなくて、カスパー[枢機卿]を困惑させているのはこの女性司教という事柄である。

司祭たちとしての女性たちの叙階に関しては、しかしながら、われわれはカスパー[枢機卿]の挨拶の中にそれ以上の転覆を見出す。カスパー[枢機卿]は女性たちの叙階に反対する教会の不可謬の教えを単に「カトリック教会の公式の議論...」そしてその問題に関する教会の「立場」として提示しておられる。カトリック教会は「それがそのような叙階のための権威を何ら持っていないと確信している...それゆえにそのような叙階は無効であると考えている。」とカスパー[枢機卿]は言われるのである。

このようにして、啓示それ自体の一つの真理 - キリストはただ男性たちだけを聖なる司祭職へと呼んでおられるという真理 - は「エキュメニカルな対話」にカトリックの側の一つの単なる議論、立場、信念あるいは考慮へと引き下げられるのである。この問題に関して不可謬的に話すカトリック教会の唯一のそして独占的な権威は、あたかもカトリック教会がその問題に関して一つの意見を持った単に別の団体ででもあるかのように、沈黙のうちに無視されているのである。

「女性司祭たち」に関してカスパー[枢機卿]は続けてこう言われる:すなわち、「伝統内部での女性たちの叙階の拒否が現代の考え方だけに基づいているのではなくて、本質的に神学的な議論にも基づいているということは学問的に証明され得る。それゆえにカトリック教会がいつかその現在の立場を改訂するであろうと考えられるべきではない」と。

この人は何と器用な近代主義者であることか:彼がどのように、教会はいつか女性たちの叙階を承認することができるであろうという考えのための僅かばかりの身動きの部屋を造り出されるかを御覧なさい。われわれは教会がいつかその「立場」を改訂するであろうと「想定する」べきではない、とカスパー[枢機卿]は言われる。なぜなら、その立場は「学問的に証明され」得る「神学的な議論」に基づいているからである、と。しかし暗々裡に傷つけられそしてそのようにして否定されているのは、女性たちの叙階は単純に不可能 - 今もそして永遠に - である、なぜなら、それは神御自身の啓示された意志に反するからである - ということを後の変更のいかなる見込みもなしに不可謬的に宣言することにおける教会の類のない役割なのである。

女性司祭たちに反対する不可謬の教えを「学問的な証明」や「神学的な議論」によって確信させられているカトリック教会の一つの「立場」へと引き下げることによってカスパー[枢機卿]は女性「司教たち」に関しても同じことをすることへと進まれる。

カスパー[枢機卿]はこう言われる:すなわち、「女性司教たちという考えは司祭職への叙階に関連した一つの新しい状況にわれわれを直面させ、また問題のかなりのさらなるエスカレーションを表す」と。このようにして、女性司教たちの不合理はカトリック教会の不可謬的な教える権威によって展開された啓示に反するものとして絶対に拒否されるのではなくて、むしろ一つの神学的「問題」のエスカレーションとして拒否されるのである。

近代主義者たちにとって、御承知のように、絶対的に正しいあるいは誤った解答はないのであって、実際には決して終わらない「諸々の論議」や「諸々の証明」によって無限に働きかけられるべき「諸問題」があるに過ぎないのである。近代主義者にとっては、教会は人々が疑義を差し挟むことが許されない有無を言わせぬ権威をもって教えないのである。教会はさまざまの「諸問題」- 女性「司教たち」の問題のような - に対する「諸々の解決」を単に提案するにすぎない - それらの解決はそれから「エキュメニカルな対話」を通じて非カトリックの対話者との合意に達する希望において議論の的とされるのである。

ここでカスパー[枢機卿]の挨拶における神学的な転覆が十分に明るみに出る:すなわち、女性「司教たち」に反対するさまざまの学問的および歴史的議論をし、そしてアングリカン信徒たちでさえこれらの議論のあるものに同意するということを示唆した後に、カスパー[枢機卿]は次のように結論される:すなわち、「司教職への女性たちの叙階のための決定はただ圧倒的な合意をもってのみなされ得る、そしていかなる仕方でも多数者と少数者との間の葛藤を含んではならない。この決定が東方と西方の古い諸教会の合意をもってなされることが望ましいであろう...一つのより広い合意が達成され得るまではそれは起こるべきではない、あるいは延期されるべきである」と。

まったく見事である:女性司祭たちおよび司教たちの不可能性に関する不可謬のカトリックの教えを擁護すると表明される一方で、カスパー[枢機卿]は最終的には問題全体を合意の問題へと引き下げておられる。どこにも、絶対にどこにも、カスパー[枢機卿]はその挨拶の中で、逆の「合意」がどれほど圧倒的であろうとも、女性司祭あるいは司教のようなそのような事柄があり得ないということは客観的、絶対的そして不可謬的にその根拠であるとは述べておられないのである。

それからカスパー[枢機卿]がどのように、その経過の中で教会のあらゆる他の教えと共に女性たちの叙階に反対する不可謬のカトリックの教えを最終的に相対化しておられるかを御覧なさい。カスパー[枢機卿]にとってはあたかもこの問題そして他の諸問題に関してきっぱりと語ったいかなる不可謬の教導職も存在しなかったかのようである。カスパー[枢機卿]にとってはそれは諸々の議論、立場、論証そして最終的に合意の達成の問題である。カスパー[枢機卿]にとっては、他のどの近代主義者にとってもと同様に、さらなる議論や論争を越えて永遠に措定されたいかなる絶対的真理も存在しないのである。

これらの問題における真理の一つの不可謬的な教師としての何であれ教会の独自の役割に対して彼がいかなる尊敬をも持っていないということには何の疑いも残さないで、カスパー[枢機卿]はこう結論される:すなわち「司祭職への女性たちの叙階の増大している実践は[エキュメニズムの]一つの評価し得るクーリング・オフ[契約取り消し補償]へと導いた。英国の教会内部での司教職への女性たちの叙階に賛成する決議は最も確実にアングリカンの聖職階級の可能的な承認の見地から、もう一度温度を下げるであろう。それは単に長続きしない冷却へと導くばかりではなく、重大なそして長く続く寒気へと導くであろう。」

「アングリカン聖職階級の可能的な承認」に言及することによってカスパー[枢機卿]はしかし再び(この主題に関する私の以前のコラムを見てください)アングリカンの聖職階級は絶対的に無効であり、カトリック教会によって決して認められ得ないという Apostolicae Curiae におけるレオ十三世の不可謬の教えを掘り崩しておられる。世俗的なオンラインの百科事典 Wikipedia でさえ述べているように、ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡 "Ad Tuendam Fidem " に関するその神学的注釈において当時のラッツィンガー枢機卿は「アングリカンの聖職階級が、ローマ・カトリック教徒たちが堅固なそして決定的な同意を与えなければならない撤回できない教えの一つとして『絶対的にそしてまったく無効』であると宣言しているレオ十三世の Apostolicae Curae をリストに入れられた。」

カスパー枢機卿がカトリック教会の撤回し得ない教えに堅固で決定的な同意を与えておられないということは明白である。彼はそれが今なお[条件さえ満たせば]だれにでも入手でき、そしていつか再考され得るであろうということをずうずうしくも暗示し続けておられる。

カスパー[枢機卿]の諸々の公的な陳述 - その多くはこのコラムで述べられた - は彼が、その高いヴァチカンの役職の従事が全教会に対する一つの明白な現在の危険を提供している一人のひどく有害な近代主義者であるということに疑いを残さない。われわれは現在統治しておられる教皇はこの人物を、彼が留保なしに詳細な信仰告白に署名することによってカトリックの教説と教義とに対する彼の信奉を公的かつ明白に断言するまではあらゆる権威の立場から解任する義務を持っておられると言わなければならない。それが偉大な教皇聖ピオ十世が近代主義者たちを遇された仕方である。そしてそれは彼らが今日遇されるべき仕方である。

作成日:2006/07/28

最終更新日:2006/07/28

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