ファチマ・パースペクティヴズ

528号

「あなたたちのためそしてすべての人のため」はゴミ箱行きとなる

2006/12/13

クリストファー・A. フェララ

四十年近くもの間教会はパウロ六世のミサのラテン語テキストの翻訳の侮辱を堪え忍んできた。その翻訳は、われらの主の御血のカリスの上[で述べられる]言葉 pro vobis et pro multis (「あなたたちのためまた多くの人々のため」)を pro vobis et pro omnibus (「あなたたちのためまたすべての人のため」)に変えていたのであった。新しいミサに対する痛烈な批判を提供しているその有名な著作「ローマ典礼の改革」The Reform of the Roman Liturgy において、モンシニョール・クラウス・ガンバーはこの翻訳についてこう言われた:「現代の神学的思考によって鼓舞されているがどの歴史的な典礼のテキストにおいても見出されない翻訳である pro multis という文言の『すべてのひとのため』という翻訳は実際真にけしからぬものであり、まったく疑問の余地のあるものである。」(pp.55-56)。

ガンバーの書物のフランス語の序言の中で現在在位しておられる教皇は、ラッツィンガー枢機卿であられたときに、「真の預言者の警戒と真の証人の勇気」とを持っていること、そして典礼とその適法な発展についての「信じられないほど豊かな知識」を持っていることに対してガンバーを賞賛なさった。そして今、10月に教皇ベネディクト御自身の決定によって「すべての人のため」(という文言)はすべての典礼のテキストから取り除かれ、新しいミサの種々の現代語の翻訳において「多くの人々のため」あるいはそれと同等のものと取り替えられるべきことになった。

このことは言語的な小さなあら探しではなくて一つの重大な神学的論争点である。教会は常に、ローマ・カテキズムが強く要求しているように、われらの主の御受難がすべての人々を「客観的に」救う一方で、ただ選ばれた者 - 「多くの人々」 - だけが恩寵に一致することと恩寵の状態において死ぬことによって御受難から「主観的に」救いへの利益を受ける、と教えてきた。それゆえに、われらの主御自身が聖ヨハネ福音書において宣言なさっているように、「わが祈るは世のためにあらずして、われに賜いたる人々のため」(ヨハネ17:9)- すなわち、選ばれた者のためであって、「すべての人」のためではないのである。

それゆえに、ローマ・カテキズムが結論しているように、われらの主は、最初のミサを捧げられたとき、最後の晩餐において客観的な救世について話されたのではなく、ただ選ばれた者についてのみ話されたのである:「すべての人のためという言葉が[キリストによって]落とされたのは非常に適切なことであった。なぜなら、ここでは御受難の成果だけが[キリストによって]話されているのであり、そしてただ選ばれた者にのみキリストの御受難は救いの結実をもたらすのである。」

「すべての人のため」という言葉をわれらの主の口から語らせることによって、新しいミサの誤った翻訳者たちはミサの犠牲がすべての人々の救いを手に入れるであろうということを偽って示唆していたのである。これが、ガンバーが(ほかならぬラッツィンガー枢機卿の明白な承認と共に)その誤訳を「実際真にけしからぬものであり、まったく疑問の余地のあるものである...」と呼んだ理由である。それが、実際、現にあるものである。

ところで、「すべての人のため」[という文言]の使用はいかなる教皇のいかなる普遍的な規律に関する命令によっても決して教会に課されたことはなかった。むしろ、それは諸々の地方司教会議によって要求され、そして単ヴァチカンの一つの省、礼拝聖省 Congregation for Divine Worship (CDW)によって許容されていたにすぎない(のであって課されていたのではない)。CDW は教皇ではない、そして教皇の不可謬性のカリスマを所有していない。

それゆえ、世界中で「すべての人のため」[という文言]を廃止するようにというベネディクト教皇の決定を告知する際に、CDW の現在の長であるアリンゼ枢機卿は CDW が許容してきたものを次のたった一つの文章において廃止することができたのである:「教会によって伝えられた 'pro multis' という言葉に相応するテキストは最も初期の世紀からラテン語でローマ典礼において用いられてきた定式文を構成する。過去三十年かそこいら、いくつかの承認された現代語のテキストは『すべての人のため』'per tutti' あるいはそれに相応するものという解釈的な翻訳を持っていた。」

私は急いでつけ加えるが、この「解釈的な」翻訳はアリンゼ枢機卿御自身が次のように述べておられるように、忠実な翻訳ではなかった:「『多くの人々のため』[という文言]は pro multis の忠実な翻訳である。一方、「すべての人のため」はむしろ厳密にはカテケージスに属する種類の一つの説明である。」すなわち、新しいミサの翻訳者たちは、われらの主御自身が実際に最後の晩餐で言われたことよりはむしろ、彼らがそうすることを欲した点のために敢えてわれらの主を一人のカテキストにしたということである。ここに含まれているまったくの尊大さは並はずれたものである。

しかしながら、枢機卿が述べておられるように、教会は pro multis[という文言]を太古の時代から受け伝えてきた一方で、「すべての人のため」[という文言](あるいは実際新しいミサそれ自身!)を受け伝えてこなかったことは最も確実である。教会は今や教皇の命令によって「すべての人のため」[という文言]を廃止しつつある。それは、教会が受け伝えるもの - それは廃止され得ない - と教会が地方的な許可によって単に許すものとの間の相違である。

それゆえ、「すべての人のため」[という文言]は束の間の新奇な諸々の事柄のゴミ箱の中へと投げ込まれるのであり、それはそれが属する場所である。われわれはただこれが教会の規範としての伝統的なラテン語ミサの不可避的な回復へ向けての最初の一歩であること - まさにモンシニョール・ガンバーが(再び言うが、現に在位しておられる教皇の承認と共に)ローマ典礼の改革において要求されたこと - を希望し祈るばかりである。

ここで再び、公会議後の正しさの諸機関 - The Wanderer 、EWTN、Catholic Answers、等々 - が誤りに陥っていたということが言われなければならない。ちょうど彼らが、ロシアの奉献とファチマの第三の秘密に関するソダノ枢機卿の党路線(彼らはわれわれに「すべては過去にあった」と保証していた)を擁護した - 彼らはただ1984年のなされなかった奉献以来のロシア、教会そして世界の急激な衰退によって偽りの預言者たちとして暴露されただけである - と同じように、彼らは pro multis の完全に合法的な翻訳として「すべての人のため」[という文言]を頑固に擁護してきたのである。

そしてちょうど教皇が pro multis 問題に関する新奇さのこれらの擁護者たちを出し抜かれたように、教皇はまた - もしこの機会でなければ、次の機会に - ファチマのメッセージに関して彼らが誤りであることを証明なさるであろう。そしてそれはそこで終わらないであろう。典礼は、ファチマのメッセージが完全に実現されることが確実であるのと同じように完全に回復されるであろう。実際、教会においてうまくいかなかったすべてのこと、公会議後の正しさの諸勢力が誤った「従順」の名において擁護してきたすべての誤った新奇さは神のよき時において再び正しいものとされるであろう。このこと、そして外ならぬこのことがマリアの汚れなき御心の勝利を構成するであろう。

唯一の問題 - そしてそれは恐るべき問題である - は教会と世界が、第三の秘密において確かに予告されている背教と混乱の現体制において重要な地位を占めている人々の抵抗のゆえに、どれほど多くまず苦しまなければならないかということである。

作成日:2006/12/15

最終更新日:2006/12/15

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