プラトンの『ゴルギアス』における教育と政治

三上 茂


はじめに

 私は、プラトンの対話篇『ゴルギアス』1)は極めて今日的な問題を提出しているように思う。「原点」とはもともと数学上のことばとして「座標において座標軸の交わる点」のことを云い、それを基点として、われわれはものの位置を確定することができる。一般化して云うならば、われわれは、どのような問題を考える場合にも、いつもこの「原点」に立ちかえって、そこから、その問題の位置を確定しなければならない。それは「根源的な地点」であって、われわれは、問題をそこからラディカルに、つまり根底的にとらえることを要求されている。

 「弁論術について」という副題をもつこの対話篇は、教育の問題をわれわれが考える場合の原点となりうるものであると思う。ここでは、以下に『ゴルギアス』において教育と政治とのかかわりがどのように把えられているかということを検討してみたい。

I 弁論術

 われわれは、まず、この対話篇において、ゴルギアス、ポロスを相手になされたソクラテスによる弁論術の規定を検討することから始めよう。

 ソクラテスの最初の相手はレオンティノイの高名な弁論家ゴルギアスである。ソクラテスはゴルギアスが持っている技術にはどういう力があるか(tis hee dunamis tees technees tou andros?)(447c)2)と問うて、ゴルギアスの持っているものが「技術」(technee)であることを当然のこととして認めているふうである3)。ゴルギアスはソクラテスの「その技術は何であるか」(tis hee technee?)(449A)という問いに対して、弁論術(rheetorikee)と答える。ソクラテスはさらに、ではその弁論術というのはいったい、何に関する(peri ti)技術なのかと問う(449D)。ゴルギアスは「言論について」(peri logous)(449E)の技術だと答える。ところが、医術や体育術や、その他もろもろの技術はどれも言論に関係があると云えるのであって、弁論術がすべての種類の言論に関係があるとは必ずしも云えないから、言論に関係するというだけでは弁論術の規定としては不十分である。たしかに、弁論術は、「主として言論を使用する技術の一つである」(451A)が、問題なのは、それが「何に関して、言論によって目的を達成する技術であるか」(451A)、つまり、「弁論術の用いる言論が取扱っている対象とは、およそ存在するもののうちの、いったい何なのか」(451D)ということである。

 ソクラテスの「それは何であるか」(tis?)という執拗なまでの問いに対して、ゴルギアスはそれに直接答えずに、むしろ「それがどのような性質のものであるか」(poia tis?)(448E)を説明しようとする。ゴルギアスに云わせれば、それは「人間にかかわりのある事柄のなかでも、一番重要で、一番よいもの」(ta megista toon anthroopeioon pragmatoon kai arista)(451D)であり、「ほんとうの意味で最大のよいもの、それによって人びとは、自分自身には自由をもたらすことができるとともに、同時にまた、めいめい自分の住んでいる国において他人を支配することができるようになるもの」(452D)である。その善いものは何なのか。それは「言論によって人びとを説得する能力があるということ」(to peithein egoog' hoion t' einai tois logois)(452E)である。つまり、「弁論術とは説得をつくり出すもの」(peithous deemiourgos estin hee rheetorikee)(452E)なのだとゴルギアスは云うのである。しかし、さらにこんどは、説得の意味内容が吟味されなければならない。「およそ何かを教える人は、自分の教えることについては、説得する」(453D)のであるから、「弁論術だけが説得をつくり出すものではない」(454A)。だとすれば、「弁論術は説得の技術であるとしても、その説得はいったいどのような性質の説得であり、また、何についての説得であるか」(454A)が問われなければならない。どういう性質の説得かといえば、それは「法廷やその他いろいろな集会においてなされる説得」であり、何についての説得かといえば、「正しいことや不正なことについての説得」(454B)だというのが、ゴルギアスの答えである。

 ここで、ソクラテスは学識(matheesis)と信念(pistis)との区別をした上で、信念には虚偽のものと真実のものとがあるが、学識が偽りであったり、真であったりすることはないことを確認する(454D)。「ところで、学んでしまっている者も、また信じこんでいる者も、説得されているという点では、変りはない」(454E)。そこで、説得には二種類あるということになる。「一つは、知識の伴わない、信念だけをもたらす説得であり、もう一つは、知識をもたらす説得である」(454E)。ゴルギアスのいう弁論術は、前者の説得をつくり出すもの(peithous deemiourgos...pisteutikees)(455A)であって、相手を教えることによって理解させる説得をつくり出すもの(peithous deemiourgos...didaskalikees)(455A)ではない。

 ソクラテスはゴルギアスの提出した弁論術の規定の内実を限定し、より厳密に理解しようとする。ゴルギアスが場所的限定として、「法廷やその他いろいろな集会においてなされる説得」としたことに対して、ソクラテスは、多くの人びとが集まっているそういう集会を教えて理解させることは非常に困難であるから、「信じこませることになる説得」しかつくり出すことができないことを明らかにするのである。

 さらに、何についての説得かという点についても、ソクラテスはゴルギアスの注意を促す。ゴルギアスは前に、この点について、「正しいことや不正なことについて」(peri to dikaion te kai adikon)(454B, 455A)と規定したのであるが、ソクラテスは、国家に対してさまざまの専門的な事柄について提案したり、勧告したりするのは、各部門の専門家なのか、それとも弁論家なのかと問う。医者や船大工、軍事専門家が、それぞれの専門分野に関して国家に提案し、勧告し、意見を述べることができるのであって、弁論家がそうではないのではなかろうか。この疑問に対して、ゴルギアスはアテナイにおけるテミストクレスやペリクレスの例を挙げて、船渠や城壁、港湾の施設はまさに彼らの提案、勧告によって生まれたものであって、職人たちの意見によって生まれたのではない、つまり、そのような事柄についての説得もまた、弁論家の仕事であると答える。してみれば、弁論術は何についての説得かということに関しては、単に正しいことや不正なことについての説得ばかりでなく、あらゆる専門的な事柄についての説得をつくり出すものとして、ここでは規定されているのである4)。

 以上、規定されてきた時点で、ソクラテスは、そのように見てくると、実際、弁論術の力の大きさは、何か人間業を超えたもののようだと指摘する(456A)。ゴルギアスも、それに合わせて、「弁論術は、ありとあらゆる力を一手に収めて、自分のもとに従えている」(456A)のであって、その技術の力は「どんな事柄について論ずるのであろうと、大衆の前でなら(en pleethei)弁論の心得あるものが、他のどんな専門家に比べても、説得力において劣るということはひとつもない」(456C)ほどに大きなものだと吹聴する。彼はさらに続けて、弁論家は「大衆の前でなら(en ochlooi)、要するにどんな問題についてであろうと、ほかの誰よりも説得力がある」(457A)が、「しかしながら、たとえ、そうする能力があるとしても、だからといって、医者たちからその名声を剥ぎ取っていいわけのものではないし、また、その他の専門家たちに対してもそうすることは許されない」(457B)と云う。つまり、拳闘の術を学んだからといって、自分の父母や友人を殴るべきではないし、また、仮に拳闘の術を学んだ者がそのようにしても、それを教えた人たちを非難するのは当たらない。それと同じように、弁論術も正しく用いなければならないし、また仮に弁論術を学んだ者がそれを不正に使用したとしても、教えた者を憎んだり、国家から追放するべきではない。

このように見てくるとゴルギアスは弁論術の持つ大きな力に二つの条件、制限をつけていることがわかる。即ち、一つは、弁論術が説得をつくり出すのは「大衆の前で」5)という点であり、もう一つは、弁論術は不正に使用されることがあるという点である。

 ソクラテスはゴルギアスのこの二つの条件に対して反撃の鉾先を向ける。弁論の心得ある者は、どんな事柄についてでも、大衆の前では、説得力ある者になるということが既に云われた。例えば、健康に関する事柄についても、大衆の前では、弁論家の方が医者よりも、説得力がある。しかし、考えてみると、大衆の前ではということは、一般にものごとを知らない人たちの前で、ということである。何故なら、ものごとのわかっている人たちの前でなら、弁論家の方が医者よりも、説得力があるはずはないからである(459A)。このことは、一般化して云えば、知識のない者(弁論家)のほうが知識のある者(医者)よりも、一般にものごとを知らない人たちの前でなら、もっと説得力がある、という奇妙な結果になる。もしそうだとすれば「事柄そのものについては、それがどうあるかを、弁論術は少しも知る必要はないのであって、ただ、ものごとを知らない人たちに対してだけ、知っている者よりも、もっと知っているのだと見えるようにする、何かそういう説得の工夫を見つけ出しておけばいい」(459B-C)ということになる。ゴルギアスはそういう結論を肯定して次のように云っている。「それならそれで、弁論術というものは、大変便利なものだということになるのではないかね、ソクラテス、ほかのいろいろな技術は学ばなくても、ただこの一つの技術を学んでおくだけで、専門家たちに少しもひけをとらないというのであれば」(459C)。果たして、このようなものが技術という名に値するものなのであろうか。この点については、後にポロスとの対話において、徹底的に批判されることになる。

 次に、ゴルギアスが弁論術は不正に使用されることがあると云ったことについて吟味が行われる。「果たして弁論の心得ある者は、正と不正、美と醜、善と悪についても、ちょうど健康に関することや、その他ほかの技術の対象となっているものを取扱う場合と、まさに同じような取扱いをするものなのでしょうか。つまり、何が善で何が悪か、何が美で何が醜か、また正か不正かという、それらの事柄そのものについては、何も知らないのだけれども、しかし、それらの事柄について説得する方法は工夫しているから、そこで、自分は知らないながらも、同じようにものごとを知らない人たちの前でなら、知っている者よりも、もっと知っているのだと思われるようにするのでしょうか。それとも、弁論家たるものは、それらの事柄について、ほんとうに知っているのでなければならないのであり、したがって、弁論術を学ぼうとする者は、それらの事柄についての知識をあらかじめ持った上で、あなたのところへ来るべきなのでしょうか」(459D-E)。ゴルギアスはこのようなソクラテスの問いに対して、弁論術の教師であることを公言している自分は、単に、知らないけれども説得する方法を工夫しているから、知らないことを知っているように思わせることができるだけでなく、善悪、正不正、美醜について、弁論術を学びに来る者が、たまたま知らない場合には、それらの事柄を自分のところから学ぶことになるだろうと云う。しかしながら、これはすぐ後で弟子のポロスによって否定されている。つまり、ゴルギアスはソクラテスの問いに対して、正不正その他の事柄について知識を持たないというのはきまりが悪いから、持っていると答えたのだ、と(461B)。それはともかくとして、ゴルギアスが弁論術を誰かに教えるとすれば、彼は必ずその人を正しいことや不正なことについて知識ある者にする、ということが確認される。ちょうど、大工のことを学んだ者が大工となり、医学のことを学んだ者が医者になるのと同じ仕方で、正しいことを学んだ者は、正しい人になるはずである(460B)。だとすると、「必然的に、弁論の心得ある者は正しい人であるし、また、正しい人は正しいことを行うのを望んでいる、ということになる」(460C)。

 ソクラテスはゴルギアスとの対話において、ゴルギアスの主張する弁論術が結局のところ、自己矛盾に陥ってしまうことを明らかにした。弁論術の心得ある者は必然的に正しいことを為すということを一方で認め、他方で同時に弁論術を不正に使用する者があるということを認めたからである。ゴルギアスが最初、公言していたように、弁論術は人間にかかわりのある事柄のなかでも、一番重要で、一番よいもの、であるとは認められない。ソクラテスの吟味によって、ゴルギアスが教えると公言する弁論術は、それが用いる言論の取扱っている対象の本性については何ひとつ知らなくても、相手を説得できるようになる一種の工夫(meechanee)(459C)、手練手管なのだということが暴露されるのである。この対話篇の冒頭で、技術と見倣されていた弁論術は、次のソクラテスとポロスとの対話の中では、その技術性をあからさまに否定される。

 弁論術は技術(technee)ではなくて、ある種の経験(empeiria)、ある種の喜びや快楽(charitos kai heedonees)をつくり出すことについての経験である(462B-C)。ここで、弁論術が料理法(opsopia)と比較され、そのどちらも、同じ営みに属する一部門であることが言明される(462D-E)。「ぼくが弁論術と呼んでいるものは、何ら立派なものの部類にははいらない、ある事柄の一部門なのだ」(463A)。それは、あからさまに云えば、技術の名に値する仕事(epiteedeuma technikon)ではなくて、その仕事の眼目は迎合(kolakeia)である。弁論術は、一般に技術であると思われているが、しかし、技術ではなくて、経験や熟練(tribee)であるにすぎない。このような部門として、弁論術のほかに、ソフィストの術(sophistikee)、料理法(opsopoiikee),化粧法(kommootikee)がある(463A-B)。これら四つの部門はそれぞれ四つの技術の「影のようなもの」(eidoolon)である。ソクラテスは、弁論術は迎合という仕事のなかの一つの部門であって、それがどのような部門であるかはこれから検討しなければならないと云う。「弁論術は、政治術の一部門の影のようなものである」(estin hee rheetorikee politikees moriou eidoolon)(463D)。

 ソクラテスはこのことの意味をどのようなものとしてとらえているのであろうか。

ソクラテスは、人間の生に対する配慮を大きく二つに分ける。すなわち、身体に対する配慮と魂に対する配慮である。これらの配慮は身体と魂という二つの対象に向けられ、この二つの対象に応じる二つの技術と考えられる。身体のための技術には、そうすぐには一つの名称を与えることができないが、魂のための技術には政治術(politikee)という名が与えられる。それぞれに二つの部門があって、身体の世話をする技術のうち、一つは体育術(gumnastikee)、もう一つは医術(iatrikee)である。魂の世話をする技術である政治術のうち、一つは立法術(nomothetikee)、もう一つは司法(dikaiosunee)である。これら四つの技術は、いつも最善ということを目指しながら(aei pros to beltiston)、身体及び魂の世話をしている。このことを迎合の術はすぐに感知すると、自分自身を四つに分けた上で、身体及び魂の配慮としての技術のそれぞれの部門の下にこっそりともぐりこんで、そのもぐりこんだ先のものであるかのようなふりをする。つまり、立法術の下にソフィストの術が、司法の下に弁論術が、体育術の下に化粧法が、医術の下に料理法がもぐりこむのである6)。

 これら四つの迎合の術は、次の二つの点で技術性格を否定されるとソクラテスは考える。つまり、第一に、それは最善(to beltiston)を無視して、快いこと(to heedos)だけを狙うのであり、第二に、それは、自分の提供するものが本来どんな性質のものであるかについて、何ら理論的な知識(logos)を持たないのである(465A)。技術がそれによって技術でありうるところのものは、このように、善を目指すということと、理論的知識を具えているということなのである。

ゴルギアスやポロスが、人びとに教えると公言している弁論術は、法廷や国民議会などの集会において人びとを説得する術であり、それが取扱う言論の対象は、正や不正に関することがら、また、国家の政策全般に関することがらである。つまり、ここで考えられている弁論術は、単なる言論の技術、あるいは雄弁、修辞の術ではなくて、すぐれて政治的な技術としての弁論術である。このような弁論術によってはじめて、ひとは国家における支配的な地位を得ることができると考えられているのである。そして、そのことは直線的に、弁論術の心得ある者にとって善いこと、幸福であることにつながっているとされているのである。ゴルギアスやポロスにとっては、そのような政治術としての弁論術はまさに「この世の中で最大の善いもの」なのである。ゴルギアスやポロスの弁論術の規定はこのようなものである。

しかしながら、ソクラテスはゴルギアスやポロスのいう弁論術がほんとうのところは、政治の技術ではなくて、にせの政治術、あるいは政治術の影のようなものであることを明らかにし、その本質は技術としての性格を欠く単なる経験であり、それの目的は迎合なのだという規定をする。つまり、ゴルギアスやポロスの規定に対する反措定としてそのように規定するのである。しかし、このような批判は裏をかえせば、ソクラテスのいう真の弁論術(aleethinee rheetorikee)(517A)によって、はじめて可能であると云えよう。

では、ソクラテスのいう真の弁論術とはどういうものであろうか。それは、「市民たちの魂ができるだけすぐれたものとなるようにしてやり、そして聴衆にとっては、快いことになろうが、不快なことになろうが、いつでも最善のことを語って、終始一貫、その態度を守り通す」(503A)ような弁論術である。ソクラテスのいうような弁論家、すなわち、技術の心得のあるすぐれた弁論家は、人びとの魂にどんな内容のことを語りかけるにしても、「彼の同胞の市民たちの魂の中に、正義の徳が生まれて、不正は取り払われるように、また節制の徳がその中に生まれて、放埒は取り払われるように、そしてその他にも美徳が生まれて、悪徳は去って行くようにという」(504D-E)ことを念頭におきながら、語りかけるのである。このようなことが、ソクラテスのいう善を目指すものとしての技術という性格をもつ真の弁論術のあり方なのである。

II パイデイア

以上、われわれはゴルギアスやポロスのいう弁論術とソクラテスのいう弁論術との区別を検討してきた。ゴルギアスやポロスによって考えられている弁論術は、国家の一員としてすぐれた人間をつくる政治的技術(ポリティケー・テクネー)、もっと一般化して云えば、徳の教育といっても差し支えのないことがらである。それは、プロタゴラスがソフィストとして世に教えると公言していたことがら、すなわち、「国家公共の事柄について、これを行うにも、論ずるにも最も有能有力の者」(319A)7)にするという仕事と同じものである8)。

 もちろん、すでに見てきたように、ゴルギアスの弁論術は単に政治的技術だけでなくて、また、どんな事柄についても専門家に劣らない説得力を発揮するものだと主張されていた。このこともまた、プロタゴラスのあの有名なミュートスの中で語られているプロメーテウスのもたらした生存のための技術知に関する事柄である。

 ゴルギアスは以上のような人間生活の二つの側面の教師として世に立っているのである。われわれはこのことをゴルギアス的パイデイアとして一括して考えることができるであろう。パイデイア9)を人間形成あるいは広い意味での教育と解するならば、ゴルギアスのいう弁論術もまた、ひとつのパイデイアであろう。それは生存のために必要な技術知、知識、技能の教育と、国家、社会の成員として要求される徳の教育という二つの側面をもっている。ゴルギアス的パイデイアは、ソクラテスによって、理論的な知識、ロゴスを欠いているという点、さらに、快をもって善に変えている、あるいは目的と手段との混同があるという点10)で、徹底的に批判されている。

 これに対置されるソクラテス的パイデイアは、真の意味での技術の性格を持つものである。すなわち、理論の裏づけなしに信じこませる仕方での教育ではなくて、対象の本性について理論的知識を教える仕方での教育であり、また相手となるものの機嫌を取ったり、へつらったりする迎合、デーメーゴリア11)ではなくて、相手の快、不快にかかわりなく、相手の善を目指すところの教育である。ソクラテスは、すでに見たように、人間のために配慮する技術として四つのものを区分した。彼においては、人間は魂と身体から成り立っていると考えられており、魂に対する配慮が政治術と呼ばれている。われわれはまずこの呼び方に注意しなければならない。さらに、この政治術が、積極的な方面の配慮、つまり、正常で良好な状態にある魂を維持あるいは増進させる技術としての立法術と、消極的な方面の配慮、つまり、異常で不良な状態に陥った魂を正常で良好な状態にまで回復させる技術としての司法術とに区分されている。身体に対する配慮を一括して呼ぶ名前は与えられていないが、積極的な方面の配慮が体育術、消極的なそれが医術と呼ばれていることも、既に見た通りである。この区分そのものとその呼称の今日における当否ということについては様々の問題があろう。しかし、ここで、われわれが問題にしたいことは、ソクラテスがここに提出している人間に対する配慮ということの内実が、人間形成、教育という人間の根本的な営みに対してどのような意味を持つのかということである。

 われわれは政治とか立法とか司法ということばを国家的なレベル以外で使うことに慣れていない。しかし、ソクラテスは、個人とか国家の次元をそれほど厳密に区別せずに、人間というレベルでの配慮として捉えているように見受けられる。人間の健康の維持増進と病気の治療ということが、精神と身体の両面から考えられており、それが集団と個人、国家とその国民の何れの側にもあてはまるものと考えられている。

 ソクラテスは非常に単純なことがらから出発している。それは人間の配慮ということも人間の幸福(eudaimonia)のための配慮であるということである。そして、人間が精神と身体の両面において健康であることが幸福であり、不健康、病気であることが不幸なのである。不健康、病気の者は治療を受けなければならない。そのときに目指されるものは快ではなくて善でなくてはならない。司法術、医術が目指すのはその対象が受ける苦痛、快楽ではなくて、その治療の目的である精神的、身体的悪からの解放としての善である。

 ソクラテスは人間の幸福の全体(hee pasa eudaimonia)は、彼が教養と正義の徳の点で、どのような状態にあるか(paideias hopoos echei kai dikaiosunees)ということにかかっている(470E)と云う。ソクラテス的パイデイア(paideia)は、このように見てくると、すぐれて人間の精神の面での健康にかかわって来ることが明らかとなる。魂の劣悪さである無学(amathia)や不正(adikia)からの解放こそ、真の弁論術たる広い意味でのソクラテス的パイデイアの目指すところである。われわれは無教養(apaideusia)(527E)の状態から脱け出さなければならない。

 ゴルギアス的パイデイアとソクラテス的パイデイアの対立は必ずしも、悪しきものと善きものとの対立として捉えることはできないかもしれない。しかしながら、ソクラテスがゴルギアスの弁論術を「恥ずべき大衆演説」(aischra deemeegoria)(503A)、「卑しい迎合」として拒否する限りでは、ソクラテスにとって悪しきものであった。ところが、ゴルギアスの弁論術は、彼自身に云わせれば、「人間にかかわりある事柄のなかでも、一番重要で、一番よいもの」を産み出すから善きものとされる。

このような考え方は、ポロスがソクラテスからどのように弁論術の批判を聴かされても、それを心から納得できないということのうちにもあらわれている。ポロスによれば、弁論家たちこそ、「それぞれの国において、一番力のある者」(megiston dunantai)(466B)であって、「彼らは、ちょうど独裁者たちがするように、誰であろうと、死刑にしたいと思う人を死刑にするし、また、これと思う人の財産を没収したり、国家から追放したりする」(466B-C)ことが出来るのである。独裁者にも比すべき絶大な権力を得ることができる弁論家はポロスの憧れの的である(468E)。権力を獲得し、維持すること、あるいは、そのことによって思い通りのことができることが、直線的に幸福というものにつながると考えられているからである。ゴルギアスの弁論術は、それによって自分自身には自由を確保することが可能となるだけでなく、同時に、自分の住んでいる国家社会において、他人を支配することができるようになるもの(452D)なのである。つまり、ゴルギアス的パイデイアが目標とするのはまさにその地点まで、その高さまでなのであって、それ以上ではないのである。ゴルギアス自身は常識家として、弁論家は正しい者でなければならないことを一応は認めた(460C)が、ポロスやカリクレスはそのような世間並みの常識を簡単に捨て去ってしまう。弁論術は、彼らにとって、現実社会において絶大な効用を持っており、立身栄達の手段なのである。国家の支配的な地位を獲得すること、そのためには、弁論術の不正な使用さえ許されると考えられている。

 ソクラテス的パイデイアは、ある意味では、ゴルギアス的パイデイアの終わるところ、それが行き着くところから始まるとも云えるであろう。権力の獲得が直ちに幸福につながると考えることをソクラテスはきっぱりと拒否する。「莫大な財産でも、人々を支配する力でも、またはその他のどんな権力でも、これを獲得しようとしている人たちの精神が、もし立派で、すぐれたもの(kalee kagathee)でないとすれば、ほかにどんな親切をその上にほどこしてみたところで、何の役にも立たない」(513E-514A)からである。

 さらに、ソクラテス的パイデイアは、国家の召使(diakonos poleoos)(517B)としての弁論家、政治家たちのパイデイアに対立する。ゴルギアス的パイデイアは、迎合としての弁論術に代表されるあり方であるが、それは「国家が欲したものを、国家に提供する」(517B)のに召使的なやり方をする。ゴルギアス的弁論家であるカリクレスは、ペリクレスや、キモンや、ミルティアデスや、テミストクレスといったアテナイの政治家たちをその業績のゆえに大いに褒めそやしている。それに対して、ソクラテスは、人びとが「この連中が国家を大きくしたのだと云っているが、事実はしかし、あの昔の政治家たちのせいで、国家はむくんでふくれ上がり、内部は膿み腐っている」のであり、彼らは、「節制や正義の徳を無視して、港湾だとか船渠だとか、城壁だとか貢租だとか、そういった愚にもつかぬもので国家を腹いっぱいにしてしまった」(518E-519A)と云って、彼らを断罪している。

このように見てくるならば、ゴルギアス的パイデイアとソクラテス的パイデイアの相違はかなり明らかなものになるであろう。つまり、ゴルギアス的パイデイアは支配権力や財産の獲得を目標とする。このことは、云いかえれば、教育がその固有の論理を持たずに、権力の論理や資本の論理によって動かされ、あるいは支配されるということである12)。教育が支配権力への教育、支配権力のための教育、支配権力による教育である限り、それは教育という名を冠してはいるけれども、その実、教育の論理を喪失した恥ずべき大衆演説、へつらい、迎合にしかすぎないものである。さらに、資本の論理によって動かされる教育もまた、善美(カロカガトス)を求めるのではなくて、人間の欲望を無制限に煽る御機嫌取り、奴隷的なものと云わざるを得ない。要するに、ゴルギアス的パイデイアは、権力の論理、資本の論理の貫徹する枠内でのみ、その存在を許されるところの、にせの教育、真の教育のエイドーロン、影、幻なのである。それは、現実主義という大義名分によって、真理と正義から離れ、現実--強者が弱者を圧迫し、富める者が貧しい者を搾取する--との妥協を勧め、そのような現実に自らを埋没させてしまうことをよしとするついしょう、御機嫌取り、へつらい、おべっかなのである。ゴルギアス的パイデイアが目指すことは、「自分自身が一国の支配者となるか、あるいは、独裁者にさえなるか、もしくは、現に存在している政体に味方する者となるか、そのどれかになるのでなければならない」(510A)ということである。既に見たように、ゴルギアス的パイデイアは「国家公共の事柄に関して人を有能なものにする」ということを世に公言していたが、それはまさに、上述の意味で、人を有能にするものなのである。つまり、それは体制のピラミッドを形成するところの、上は支配者から、下は体制に密着し、協力する者までに対しての教育なのである。体制の枠内にとどまることなしには存続しえない教育、体制維持という保守的機能のみを担わされた教育なのである。

 以上のようなゴルギアス的パイデイアにまっこうから対立するソクラテス的パイデイアの特質は、おのずから明らかであろう。われわれは、ここにはまず教育の論理が貫徹し、その論理の枠内で、権力や財産の獲得が正当化されるという構造を見ることができる。ソクラテス的パイデイアが目指すものは、正義や思慮節制の徳をそなえ、ひたすら真理を修めることによって、立派ですぐれた(カロカガトス)人間になるということである。権力や財産もこのひとつのこと、すなわち、カロガティアを欠けば何の役にも立たないのである。

このことについて、もう少し詳しく検討してみよう。教育の究極の目的は、立派ですぐれた人間の形成である。ところで、「もろもろの欲望のなかでも、それが充たされるなら人間をよりすぐれた者にするような、そういう欲望は充たすが、より劣悪にするような欲望は充たさないということ、これこそがほんとうに人間の徳であって、しかもそうするのには、何か技術が要る」(503C-D)のである。

 魂の場合で云えば、それは「ある種の規律と秩序(taxeoos te kai kosmou tinos)(504B)を持つことによって、そのよさ(徳)となる。換言すれば、「道具でも、身体でも、さらに魂でも、あるいはどんな生きものでも、それらのもつよさ(aretee)は、偶然のでたらめによって(eikeei)ではなく、それらのおのおのに本来与えられている、規律と秩序正しさと技術とによって(taxei kai orthoteeti kai techneei)、一番見事に具わってくるのである」(506D)。そして「魂の規律や秩序に対しては、『法にかなった』(nomimon)とか『法』(nomos)とかいう名前がつけられている。そういう状態にあることが正義の徳(dikaiosunee)であり、また節制の徳(soophrosunee)なの」である(504E)。「思慮節制のあるある魂は、すぐれた善い魂である」(hee ara soophroon psukee agathee)。さらに云えば、「思慮節制のある人というのは、正しくて(dikaion)、勇気があって(andreion)、そして敬虔な人(hosion)であるから、完全に善い人」である(agathon andra einai teleoos)(507C)。「そして善い人というのは、何ごとを行うにしても、それをよく、また立派に行うものだ(eu te kai kaloos prattein)。で、よいやり方をする者は仕合わせであり、幸福である」(ton d'eu prattonta makarion te kai eudaimona einai)(507C)。それゆえに、「幸福になりたいと願う者は、節制の徳を追求して、それを修めるべきであり、放埒(akolasia)のほうは、われわれ一人一人の脚の許すかぎり、これから逃れ避けなければならない。そして、できることなら、懲らしめを受ける必要のひとつもないように努めるべきだが、しかし、もしその必要がおきたのなら、それを必要とするのが自分自身であろうと、身内のなかの誰かほかの者であろうと、あるいは、一個人であろうと国家全体であろうと、いやしくも幸福になろうとするのであれば、その者は裁きにかけられて、懲罰を受けるべきである(epitheteon dikeen kai kolasteon)。これこそ、ひとが人生を生きる上において、目を向けていなければならない目標(skopos)であると、ぼくには思われるのだ」(507D)。「もし何か不正を行っている者があれば、それを行っているのが自分自身であろうと、息子であろうと、仲間の者であろうと、ひとはその者を告発すべきである(kateegoreeteon)し、また弁論術は、その目的のためにこそ用いるのでなければならない」(508B)14)。

 以上、長々と引用を続けたが、このような考え方の根底にあるのは、すぐれて道徳的、倫理的な問題意識である。ソクラテス的パイデイアにおける教育の論理とは、人間の倫理性を中核とするものだと云いうるのではないだろうか。もちろん、真理性というか論理性というか、そういう側面を欠かせることはできない。しかし、善とか正義とか愛というものこそが人間の幸福をつくり出すのであるから、人間形成はそれらのものに向かっていかなければならないだろう。ソクラテスが真の弁論術は技術15)であって、経験や迎合から区別されると規定したとき、ロゴスの有無、善と快の目的手段連関、ないしは序列関係という二つの徴表を挙げて知的、理論的側面と倫理的側面を考えていたのである。

 しかしながら、われわれは、ここで教育の論理が倫理性を中核とするという意味を、何か教育という全体において倫理がその一部を役割分担するかのように理解すべきではない。それは問題の矮小化である。そのような部分的なものとしての道徳教育ということなら、ゴルギアス的パイデイアにすでに見られるであろう。そのような道徳教育は、権力の論理や資本の論理を貫徹させた上で、せいぜいそれを補強する役割しか果たさないであろう16)。ソクラテス的パイデイアにおける教育の論理は、教育という営みそのものが倫理性によって貫徹されているということではないだろうか。それは要するに、人間を立派ですぐれた者(カロカガトス)にするということ17)が、人間を幸福にするゆえんであり、このことを抜きにして何を積み重ねても空しいことであるという認識である。

 われわれはソクラテス的パイデイアにおける教育の論理を以上のようなものとして理解する。この教育の論理を承認しない限り、われわれは何をもって現実社会を批判し、変革して行くことができるだろうか。ポロスによるマケドニア王アルケラオスに対する羨望、カリクレスによる弱肉強食の正当化を批判し、論難することができるのは、この教育の論理によってではないだろうか。アルケラオスの王位簒奪、強者が弱者を支配し、支配する者たちが支配される者たちよりも多く持つということは「現実」としてまかり通っていたことだし、今も「現実」はそのようであるのではないだろうか。現実を把握し認識することはそれを承認し、肯定することとは別のことがらである。しかし、認識することでさえ、批判的な分析の尺度なしは出来ないのではなかろうか。その批判的分析の尺度こそ教育の論理である。

 教育の論理は、往々にして、精神主義、理想主義、あるいは観念論として拒けられがちである。そして、それに対抗させられるのが、現実主義なのである。前者は、常に「建前」論、「べき」論に終始するのであって、現実は常に妥協を要し、複雑で、厳しくて、困難を伴うものだとされる。それ故に、精神主義を否定し、「建前」論、「べき」論と訣別して、現実主義に立脚すべきだということになる。しかし、問題なのは、その現実主義が、建前を見捨てて本音に戻り、「べき」あり方を断念して、ありのまま、あるがままを肯定するという形で短絡現象を起こすことである。それは、現実を見極めることを最初から断念して、現実べったりに居直ることである。ゴルギアスやポロスやカリクレスの生き方はこのような現実主義に立脚しているのであって、それは、見かけの上の進歩性にも拘わらず、いなむしろ、まさにそのゆえに、保守的なのである18)。

 ソクラテスの生き方は、これに対して、「べき」姿に「ある」姿を近づけよう、あるいは引き戻そうとするものだと云えよう。それは「現実」の中に埋没してしまうこと、それに身を寄せて生きることを許さない姿勢である。すでに引用したように、誰であろうと、不正を行っている者があれば、その者を「告発」しなければならない、と彼は云っているのであり、彼はそれを行うことによって、殺されることになったのである。それは「現実」に対決することなしにはありえない生き死にである。そして、注意しなければならないことは、告発の対象には自己自身をも含んでいるということである。それは精神主義、観念論といった、理屈、理論の上のことがらではなくて、逆に、自己の行き死にがそのことにかけられているひとつの実践、行動なのである。

ソクラテスは、人間に対する配慮を分けて魂に対する配慮を政治術と呼んだ。しかし、われわれは、それはむしろパイデイアと呼ぶべきものだというふうに考えて来た。ゴルギアスなどが考える現実政治は、ソクラテスにとっては、迎合の術であり、国家を物質的なもので満たす奴隷的な仕事であった。しかしながら、考えてみると、ソクラテスは、人間の魂に対する配慮としての政治術が、あるべき姿として、現実政治をそれに近づけさせなければならないと考えたのではないだろうか。つまり、ソクラテスにおいては、現実のポリティケーはパイデイアに一致すべきものとして考えられているのである。その意味から云うならば、ゴルギアスたちの考え方とソクラテスの考え方とはまさに逆のものである。現実政治を基準としてそこから出発してパイデイアを考えるのがゴルギアスたちであり、パイデイアを基準として現実政治にその方向を与えるものでなければならないというのがソクラテスの立場である。パイデイア=ポリティケーでなければならない19)、そしてそのためにソクラテスは、妥協の道、迎合の道ではなくて、戦う道を選んで、殺されたのである20)。

 ソクラテスにおいては、教育と政治とのかかわりは、あるべき姿においては一つのものでなければならなかった。「ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政治の技術に手をつけている(epicheirein teei hoos aleethoos politikeei techneei)のは、ぼく一人だけだとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行っている(prattein ta politika)のだと思っている」(521D)。ソクラテスはそのことを実践したのである。

 しかし、彼は別の個所で「ぼくはあいにくと、政治家の部類にははいらない」(ouk eimi toon politikoon)(473E)と云っている。その意味は現実政治をそのまま承認し、肯定することは彼には出来なかったということである。ソクラテスの現実政治に対する認識、批判が非常に厳しいものであったことは、ペリクレス等に対する非難において既に見た通りである。また、彼は、最後の「幸福者の島」のミュートスを語っている中で、「権力者たちの大部分は、....たいていは、悪い人間となるものだ」(526B)とか、「それら見せしめとなる者(ハデスの国の牢獄で刑罰を受けて=筆者註)の大部分は、独裁者や王や権力者たち、つまり国家公共の仕事を行ってきた人たちから生まれてくるのである。なぜなら、これらの人たちは、何でも自由がきくので、最大の、しかも不敬きわまる過ちを犯すからだ」(525D)と云っている。

 このように見てくれば、彼のいう「真の意味での政治の技術」は現実政治と対決するものとしてのパイデイアにほかならないことがわかるであろう。ソクラテスはそのようなパイデイア、教育の論理をすべてのものに優先させる。そして、そのことが、権力を握る者によって殺されることにつながることも認めている。「ぼくが死刑になるとしても、それは少しも意外なことではない」(521D)。それは教育の論理が権力の論理とは必然的に相容れないことを示唆していないであろうか。プラトンの『ゴルギアス』が提出している問題のひとつはこれである。

むすび

 以上、みてきたように、『ゴルギアス』は「弁論術について」という一見われわれの今日の関心から離れているような問題を取り上げながら、そこに今日のわれわれが避けて通ることのできない問題のひとつを非常に単純な形でつきつけているのである。プラトンの時代の国家と現代の国家とは全く異なった相貌をもっている。にも拘わらず、原理的なことがらに関して、われわれはプラトンから学ぶものがあると考える。それは、単に歴史的なひとつの事実としてわれわれの知識に何かを加えるものではなくて、今日的な問題としてわれわれにひとつの実践、現実の行動を促すものであると思う。教育と政治とのかかわりという問題を追求してゆくことによって浮かび上がってくるのは、国家とは何かという大きな問題である。『ゴルギアス』はそのことを正面から取り上げていない。少なくとも、ここで明らかにされていることは、独裁政治であれ、民主政治であれ、現実の国家を枠としてなされている政治が邪悪なものであるということである。

今日、このことはプラトンの時代以上に真実ではなかろうか。近代国家の悪はポリスの悪を質量ともにはるかにしのぐであろう。しかも、教育は今日、私的なものとしてとどまることが許されないものとしてある。国家における教育ということを真剣に考えるべきだと思うが、今後の課題としたい。

1)Platonis opera, Ioannis Burnet, Tomus III, Oxonii, 1961, Platoonos Gorgias. 引用は岩波文庫、『ゴルギアス』、加来彰俊訳を殆どそのままの形で使用させて頂いた。その他、Otto Apelt, Platon Gorgias, Felix Meiner, 1955, Alfred Croiset, Platon, Oeuvres completes, Tome III, 2e Partie, Gorgigas-Menon, Paris, des Belles Lettres, 1968, Werner Jaeger, Paideia. Die Formung des Griechischen Menschen, Zweiter Band. Platos Gorgias: Der Erzieher als der wahre Staatsmann.を参照。
2)引用文の後の例えば(447C)などは、プラトンの著作引用の際に慣例として使われるステファヌス版プラトン全集の頁数と各頁内の10行目ごとを示すABCDEの符号である。
3)これは、後になって否定される。
4)われわれはここで、プラトンの他の対話篇『プロタゴラス』に出てくる、プロタゴラスの有名なミュートスを想起する。そこでは、人間の二つの知恵、すなわち、ゼウスの贈物である国家社会をなすための政治的技術と、プロメーテウスの贈物である生存のための技術知、について語られている(320C-322D)。ゴルギアスはこの二つの知恵のいずれについても絶大な説得力をもつと云われているのである。なお、この点に関しては、田中美知太郎全集、第3巻、『ソフィスト』を参照。
5)pleethos=a great number, a mass, throng, crowd; the people, the commons, ochlos=a throng of people, an irregular crowd, mob, multitude.(A Lexicon abridged from Liddle and Scott's Greek-English Lexicon, Oxford, 1963).
6)これを図式的に示せば次のようになる。

7)プラトン、「プロタゴラス」、藤沢令夫訳、筑摩書房、世界文学大系3.
8)『ゴルギアス』520A. 「同じだよ、君、ソフィストと弁論家とはね。あるいは、そうでないとしても、ごく近い関係にあって、ほとんど似たりよったりのものなのだ。」
9)paideia, hee=the rearing or bringing up of a child; teaching, education, discipline, correction. W. Jaegerはその著 Paideia. Die Formung des Griechischen Menschen, 3 Bde.においてこの語を広い意味に理解している。
10)「快いこともまた、善いことのためになすべきであって、快いことのために善いことをなすべきではないのだ」(500A)。「善があらゆる行為の目的であって、その善のために、他のすべてのことはなされるべきであるが、その他のことのために、善がなされるべきではない」(499E-500A)。
11)deemeegoria, hee=a speech in the public assembly. 大衆を前にしての熱弁。
12)このことは明治100年の日本の教育を振り返ってみて歴然としている。富国強兵、殖産興業は過去の事柄ではなくて、学制発布100年目の1972年の現実としてある。日本においては近代教育の最初から権力の論理と資本の論理が癒着しつつ教育を完全に従属させて来たといえるのではなかろうか。
13)ここで、云われている「法」は支配権力によって恣意的に、あるいは、形式だけを踏んで被支配者たちに対して制定される実定法を意味するものではない。よさ(aretee)、つまりそのものとしての徳とは、それが本来のあり方を発揮することである。人間の本来のあり方、つまり徳を抑圧し、窒息させる「法」は法ではないのだし、正義が損なわれている場合にも、そのことは云える。
14)懲らしめられる必要のあるものは、自己であれ、国家であれ、懲罰を受くべきであり、不正を行っているものも、自己であれ、国家であれ、告発されなければならない。自己告発と国家に対する告発は、勇気(andreia)を必要とするが、そのことなしには人間の徳もなく、また人間の幸福も存在しえない。日本は過去に侵略戦争と行った。それは国家の名において不正を行ったのだが、しかし、ひとりひとりの日本人がそれを承認し、加担することによって、個人としても不正を行ったのである。われわれはそれを過去のこととして水に流してしまうわけにはいかない。裁きにかけられ、懲罰を受け、告発されるべきであるのは過去のためだけではなく、それが現在、未来へとつながっているからである。まして、過去の不正が再び現在もまた犯される方向へと情況が動いている時には、なおさらである。パイデイアの仕事にかかわる者は、日本の教育の現実を見すえて、手を拱いていてはならないと思う。
15)技術の知的、理論的側面は誰でも指摘する点であるが、それが善を目的とするものでなければ技術の名に値しないという指摘は、特に現代の技術万能の時代に対して深い示唆を含むものである。よく、技術は中性的なものであって、それは善にも悪にも用いられる、と云われるが、上の考え方はそれを否定する。しかし、このことの詳細な検討は別の機会になされなければならない。
16)「期待される人間像」はそのひとつの例であると思われる。
17)私は、このことは内容のない空虚なことばだとは思わない。現代日本の人間の形成におけるカロカガトスの内実は、例えば対外的には、他国の犠牲の上に時刻の利益を図ること、対内的には弱者の抑圧、平和を願う者に対する弾圧、をきっぱりと拒絶できるということであり、要するに、不正な権力の論理、資本の論理を告発し、真理と正義を打ち立てていこうとすることであると云えよう。
18)例えば、マン・パワー論、教育投資論、人材開発政策等々のよって立つ思想的地盤を考えてみれば、このことはよくわかる。それは一見、科学的な装いをこらしながら、要するに、人間を高度成長経済の為の材料、手段にするためのものである。
19)もっと正確に云えば、パイデイア=ポリティケーという静的なものと捉えるべきではなく、パイデイア←ポリティケーという動的な形で考えるべきであろう。つまり、パイデイアの内実そのものは歴史的に変わるとしても、その内実はポリティケーを引き寄せる、あるいは引き戻すという形である。
20)現実のポリティケーが権力を持つものとしてあり、その意志をパイデイアに押しつけてくることは至極当然である。そこで、上述のパイデイア=ポリティケーは逆の力が働き、パイデイア→ポリティケーという形を取って、ポリティケーがパイデイアを自己のうちに完全に取り込もうとする。現実がそのような形を取っているとき、それを逆向きにするということは、対決すること、反逆することを意味し、権力によって殺されることも予想されるのである。

1972年1月10日稿了


Resume

Erziehung und Staatskunst bei Platos Gorgias

Shigeru Mikami

I. In dem Dialog "Gorgias" muss man die Rhetorik von Gorgias und die von Sokrates unterscheiden. Nach der Meinung des Gorgias ist die Rhetorik das groesste Gut und die Kunst von Ueberredung. Sie kann vor Gericht ueber Recht und Unrecht ueberreden und in anderen grossen Versammlungen ueber alle Techniken, z. B. ueber die Sschiffswerfen, die Anregung der Hafen, der Stadt Rat erteilen.

Aber nach der Meinung des Sokrates ist die Rhetorik ueberhaupt keine Kunst, sondern nur eine Erfahrenheit. Er erklaert sie fuer Schmeichelei, weil die Rhetorik von Gorgias keine Erkenntnis von der wahren Natur des Gegenstandes besizt und sie erstrebt nach dem Angenehme und nicht dem wahren Beste.

Die wahre Rhetorik, d.h., die Rhetorik als Kunst hat bei ihren Ausfuehrungen immer das Beste im Auge und sieht ihr Ziel darin, ihre Mitbuerger durch ihr Reden so trefflich wie moeglish zu machen.

II. Wir koennen die Rhetorik als die Paideia oder die Erziehung im weteren Sinne ansehen.

Die Paideia von Gorgias steht der Paideia von Sokrates gegeneinander. Jene hat ihr Ziel in der Besitznahme der Macht und des Vermoegens. Sie ist die Erziehung zur Macht, fuer Macht und durch Macht. Die Philosophie der Macht und des Kapitals durchdringt in ihr.

Dagegen hat die Paideia von Sokrates ihr Ziel in der wahren Menschenformung, d. i., die Formung des Menschen der Kalokagathia. Der Kern der sokratischen Paideia ist das Ethische.

Wenn der Staat Unrecht tut, muss man ihn anklagen und sich dazu der Rhetorik oder der Paideia bedienen. Die Philosophie der Erziehung steht ueberhaupt mit der Philosophie der Macht und des Kapitals im Widerspruch. Die sokratisceh Paideia stellt mit der Staatskunst oder Politik gegenueber und sie weiss dass sie dafuer die Gefahr des Todes hat.

神奈川県立栄養短期大学紀要 第4号 昭和47(1972)年3月 pp.83-93から転載

作成日:2003/01/23

最終更新日:2003/01/23

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