ファチマの聖母マリア

ロシア、グラムシの亡霊に耳を傾ける

The Fatima Crusader, Isuue 48: Winter 1995より

ジョン・ヴェナリ

われわれはここに、カトリック・ファミリー・ニュースの編集者によってメキシコ・シティにおいて司教たちになされた演説の一つを提供する。このよく研究された話はわれわれすべてにとって最も時宜を得たものである。ここでジョン・ヴェナリ(John Vennnari )はわれわれに、ロシアがどのように西側を欺いているかを理解する鍵を与えている。

われわれは後退し続けている。なぜならわれわれに対する文化的戦争は西側に公然とマルキシズムを抱擁させるよう準備しながら、われわれの精神を世俗化し続けているからである。これはグラムシの戦略である。それに対してあなた自身を武装するようにこのことについて読んでいただきたい。

ミハイル・ゴルバチョフによって始められたペレストロイカとグラスノスチは高い地位にある多くの教会人たちによって、そしてファチマ使徒職の大部分の人々によってさえ、素朴に主張されているように、ソビエト連邦の回心ではない。いわゆるロシアの「回心」は、第二次世界大戦の直前に亡くなったイタリアの共産主義者、アントニオ・グラムシ(Antonio Gramusci)の戦略によれば、西側により受容可能なより優しいそしてより穏やかなマルクス/レーニン主義の実施以上の何物でもない。

イタリアの戦略家

アントニオ・グラムシはカール・マルクスのすべての解釈者の中で最も成功した人間である。彼の名前は誰でもよく知っている言葉ではないかもしれない。しかしわれわれの時代には彼の影響はあらゆる家族--信仰の家族を含めて--に影響を与えている。

共産主義の戦略に対するグラムシの最大の貢献は次の三つであった:

1)古典的レーニン主義についての彼の鋭い批判

2)今世界を襲ったレーニン主義の改革のための彼のびっくりするほどの成功した青写真

3)西側の民主主義がグラムシの共産主義と、そして彼ら自身の未来との彼らの対決においてなすであろう主たる誤りについての彼の正確な予告

グラムシが考案した政治的定式は--資本主義の西側を通じてマルキシズムを広めるために古典的レーニン主義そして古典的スターリン主義よりもはるかに多くのことをなした。1945年以来--そして最も劇的に1985年以来、資本主義権力および共産主義権力の両者に起こったすべてのことはこのマルキストの天才の判断を完全に実証した。悪魔にその帰すべきものを与えるために、グラムシは一人の天才であった。

常識をもったユートピア的理想主義者

アントニオ・グラムシは1891年にサルディニア島のアレス(Ales)村に生まれた。結局は彼は本土イタリアに向けて島を出た。かれはトリノ大学で哲学と歴史を学んだ。1913年までに彼はイタリア社会党の党員であった。1919年28歳のとき、彼は「新秩序」と呼ばれた親共産主義新聞を創設した。彼の新聞のためのタイトルが標準的で予言可能であったとしても、彼のビジョンと戦略はそうではなかった。彼は平均的なマルキストの型には適合しなかった。

1921年に、パルミロ・トリアッティ(Palmiro Togliatti)と提携してグラムシはイタリア共産党を創設した。政治的競争はその後はすさまじかった。なぜなら、翌年ベニト・ムッソリーニ(Benito Mussolini)が権力の座についたからである。グラムシはそれからモスクワへ向かった。彼はムッソリーニのイタリアにいるよりはレーニンのUSSRにいる方が彼にとって安全であろうと考えた。

アントニオ・グラムシはイデオロギーにおいてはマルキストであった。しかし、彼は戦略が問題であるときには彼自身であった。

グラムシはマルクスやレーニンと同じように、「労働者の天国」のマルクス的理想へと人類を駆り立てる完全に内的な一つの力があると信じた。しかし彼にまたマルクス/レーニン主義の戦略的理想のうちに欠点を見させた歴史と生活についての彼の見解というもう一つの仮定があった。

マルクスとレーニンは人間社会の全体的世界はただ二つの対立する陣営--「人民の大多数の広い構造」--世界の労働者たちと抑圧的な資本主義の「不当に」創られた「上部構造」に--分けられると主張した。

グラムシは別の仕方で知っていた。なぜなら、彼はキリスト教的文化の本性を理解していたからである。それを彼は彼の周りのすべての人々の生活において今なお生き生きとしており、そして盛んであるのを見ていた。グラムシ自身はキリスト教とそのすべての超越的実在を拒否した。にもかかわらず、彼はキリスト教文化が存在したことを知っていた。存在しないプロレタリア革命--それはただ未来のはかない夢としてのみ存在した--とは違って、キリスト教文化は一つの、人々が食べ、飲みそして呼吸した堅い岩の実在であった。

キリスト教文化の結合力

グラムシは世界人口の大部分が労働者から成っているいることに同意した。それは明らかであった。しかしながら、彼にとって明白であったことは、どこにも--そして特にキリスト教的ヨーロッパにおいては--世界の労働者たちは自らを一つのイデオロギー的な分裂によって支配階級から分離されているものとは見なかったということであった。キリスト教とキリスト教文化はこの分裂を妨げた結合力であった。それはすべての階級を一つの同質の社会へと結合した。

もしこのことが真実であったならば--そしてそれは真実だった--マルクスとレーニンは彼らの基本的な仮定のもう一つにおいて誤っていたのでなければならなかった。プロレタリアートの栄光ある反乱なるものは決して存在することはないであろう。働く「下層階級」による支配する「上部構造」のマルキストによって鼓舞された暴力的転覆なるものは決してないであろう。なぜなら、彼らがどれほど抑圧されようとも、労働階級の「構造」は彼らの悲惨あるいは彼らの抑圧によって定義されるのではなくて、彼らのキリスト教信仰とキリスト教文化によって定義されるからである。

グラムシはそれでもなお「労働者の天国」の最終的な誕生は起こるであろうというレーニンの確信を抱いていた。しかし彼は武装したそして暴力的な革命というレーニンの概念とはまったく異なった仕方でそれはもたらされなければならないということを知っていた。

戦略においては、タイミングがすべてである。1920年代にアントニオ・グラムシは彼の考えを行動に移すことはできなかった。なぜなら、彼は共産主義の「栄光ある天才」の黄昏の時期にソビエト連邦に到着したからである。この時にレーニンを批判することは「政治的に正しくない」しまた危険であったろう。レーニンの死後スターリンが権力の座についた。グラムシは結果として彼自身の生命を気遣った。なぜなら、彼はスターリンが彼を一つの脅威と見ること、そして彼がおそらく悪名高い「ルビヤンカ」監獄--そこで彼の「逸脱」を告白するまで拷問され、次に殺されるであろう--で終わるであろうということを知っていたからである。

イタリアは二つの悪い選択肢の中で最善であると思えたので、グラムシは彼の目を祖国の方へ戻した。グラムシはひとたび帰国すると1924年にItalian Chamber of Deputyに選ばれた。彼は1926年にムッソリーニ政権によって逮捕された。1928年にファシスト法廷において20年の懲役刑を宣告された。

しかしながら、そのときまでに、彼はすでに主要なイタリア共産主義思想家たちや政治的指導者たちを彼の古典的レーニン主義批判へ、そして彼自身の示唆したレーニン主義改造へと変えていた。献身的なマルキストであったので、投獄さえ彼の熱意を抑えつけなかった。なぜなら、彼はその生涯の次の9年間を著述に費やしたからである。1937年に彼は46歳で死んだ。あらゆる不利な条件にもかかわらず、彼はマルクス主義的世界を達成する方法を指し示した9巻の資料を産み出した。

1948年に始まって、彼の6巻の獄中ノートが出版された。

グラムシの戦略

グラムシは労働階級の世界的革命はそもそもの初めから非現実的であるということを理解していた。「内では善とともに、外では悪と共に」というアプローチにおいて彼はマルクスの基本的な哲学的テキストを受け入れた。しかし彼がマルクスおよびレーニン両者の誤りと考えたものを拒否した。

グラムシは、知的にはイタリアのローマ・カトリック社会の産物であった。彼は共産主義の二人の主たる哲学者であったヘーゲルとマルクスを理解した。しかし彼は、たいていのマルキストたち以上に、キリスト教的形而上学一般、特にトミズムについてある理解を持っていた。そしてローマ・カトリックの遺産の豊かさに取り囲まれていた。その理解、そして彼自身の実用的な精神は彼に、マルクスがそうであった以上に、歴史についてのヘーゲル弁証法哲学の彼の解釈において遙かに精巧で繊細であることを許した。

世界的勝利のためのグラムシの青写真の基本的な要素は人間にとって「内的」あるいは「内在的」であるものと人間が彼と彼の世界の外部そして上部にあると考えるもの--個々人および大小両方の集団の限界を超える一つのより優勢な力--との間のヘーゲルの区別に基づいている。

グラムシにとって、内在的なもの超越的なものは不可避的に対になっており、結びつけられている。マルキシズムの「超越的なもの」はユートピア的な理想であった。しかしマルキシズム的超越はキリスト教精神そしてキリスト教文化にとってはあまりにも異質であった。それゆえグラムシは、内在的なものと超越的なものは対になっているのであるから、あなたが彼らの日々の生活の中で諸々の個人、集団そして社会にとって内在的であるもの、そして直接的であるものに組織的に触れることができないならば、どのような超越的なもののためにも彼らに闘争するように確信させることはできないと論じた。

本質的なことは内的人間をマルクス化することだとグラムシは主張した。そのことがなされたときにのみ、あなたは革命、暴力あるいは流血なしに、平和的そして人間的に受け入れられ得る仕方で受け入れられる「労働者の天国」を彼の目の前に見せびらかすことに成功することができるであろう。

グラムシはウラディーミル・レーニンから二つの主要なそしてこの上なく実践的な寄与を吸収した。

第一にレーニンの異常な地政政治学的なビジョン。

第二に地政政治学的に成功したマルキシズムの作戦の核としての党国家のレーニンの発明。なぜなら、グラムシの青写真にはレーニンの込み入った国際的党機構がソビエト連邦共産党(CPSU)中央委員会の優勢な支配の下での世界的共産党のための基礎であり続けるであろうからである。

グラムシは単に、マルクスとレーニンが直接的なプロレタリアート革命について誤っていたと信じただけではない。彼はまた、スターリンが彼のテロルの方法において誤っていたと信じた。--これらの方法は単に宗教とレジスタンスを好機を待つ脅威的なそして集中された地下へと追い込み、最初の機会に表面へと躍り出て、マルキシズムに損害を与えて海外の資本主義的集団によって利用されることになるだけであるから--

グラムシはもっとよい方法を持っていた。マルクス主義の勝利のための一つの巧妙な青写真。それは以下の通りである:

レーニンの地政政治学的構造を街路や都市を征服するためではなくて、市民社会の精神を征服するため、勝ち取られなければならない全住民の精神に対するマルクス主義者のヘゲモニー[主導権]を獲得するために用いよ。

彼は多元的共存を大目に見、また促進することが必要であろうとさえ主張した。

ゴルバチョフはグラムシのパターンに従っている

ミハイル・ゴルバチョフはグラムシの定式を賞讃し、評価しそして十分に取り入れるに十分心の広い最初のソビエト指導者として世界の舞台に突然現れる。一つ一つ、かつてのソビエト衛星諸国はUSSRの直接的支配から解放されたものとして見られている。彼のグラムシ的パターンにおいて、ゴルバチョフはUSSRそれ自体のための一つの新しい政治的構造、そしてUSSRの中身を増やすいくつかの「社会主義ソビエト共和国」のための新しい地位へ向かって働いた。グラムシ的過程はそのような諸変化を要求する。ゴルバチョフ主義は暗黙のうちにそれらの変化を支持する。「ファチマの聖母によって約束されたロシアの回心」として解釈されている、彼のペレストロイカとグラスノスチにおけるゴルバチョフは、グラムシの定式を用いながら、一方で彼自身の最新式のやり方と修正を加えながら、彼の強硬なレーニン主義に忠実であるゴルバチョフ以上の何者でもない。

グラムシの巧妙な戦術によって色づけされ、勝利のためのグラムシの青写真において欠けているものを何であれ供給するように修正されたレーニン主義の柔軟性--これがグラスノスチ/ペレストロイカ計画を構成している。このグラムシ的な計略が実際にファチマで約束された聖母の汚れなき御心の長く待たれた勝利であると言っている人々によっていまやファチマの聖母さえグラムシ的に用いられているのである。

ウクライナからの一つの確証

この驚くべき戦略がうまく行っている堅固な証言が1992年春にウクライナ・カトリックの活動家、ヨセプ・テレリャ(Josep Terelya)によって提供された。

テレリャ氏はこう言った:

「共産党員たちは今なお支配的な地位にいます。党機構全体がまったく完全に機能しています。何一つ変わりませんでした。このいわゆる崩壊の時に権力の座にいたすべての人々は今もなお権力の座にいます。誰一人投げ出された人はいません。誰一人職を失った者はいません。共産党はそれが再び現れるまで、ただしばらくの間地下にもぐっただけです。彼らは引き続き彼らの報酬、彼らがかつて受け取っていた給料を受け取っています。

エリツィンはもう一人の反キリストです...このすべてのことの背後にあるのは真にフリーメーソンの計略です。彼らが自らを何と呼ぶか--社会主義者、共産主義者、あるいはそうでない者と呼ぶか--は実際重要ではありません。彼らは皆唯物論者であり、彼らは皆神に反対する者たちです。」

2004/03/08 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/08

最終更新日:2004/03/08

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