トマス・アクィナスのハビトゥス論と教育

三上 茂


I

 トマスは「神学大全」の第二部の一、第四十九問題−第五十四問題の中で、徳論の前提としてハビトゥスの問題を一般的な形で論じている。1)ここで取り上げられている問題は、ハビトゥス(habitus)ということばが連想させる心理学的な意味での習慣(habit)の問題とはかなり異なっているように思われる。2)そのことは、例えば、トマスがハビトゥスの中心的なものとして学知(scientiae)や徳(virtutes)3)を挙げていることを見ても推察できるであろう。

ところで、人間が学知と徳において成長してゆくことのうちに人間としての成長があるとうのが教育に関するトマスの基本的な考えである。4)人間形成である教育は人間が人間に成ることへの援助として規定されうるであろうが、5)その際に人間が人間に成るということの根本的な意味がまず問われなければならない。トマスは人間が人間に成ることを学知と徳において成長してゆくことだと理解し、学知と徳をより一般的な形でハビトゥスとして考察している。とすれば、トマスはハビトゥスという一つの概念を人間形成の意味を理解するうえでの一つの重要な包括的概念として提出していると考えることもできるであろう。それゆえ、小論においては、トマスのハビトゥス概念を吟味することを通して人間が人間に成るということの意味を考えてみたい。個々の具体的なハビトゥスについては別の機会に検討することにして、ここではハビトゥス一般について若干の問題を取り上げることにする。

II

 トマスはそのハビトゥス論の冒頭で、ハビトゥスは人間的諸行為の原理・根源(humanorum actuum principia)であり、しかもその内的原理(principium intrinsecum)として能力(potentia)とともに必要とされるものであると述べている。人間が知識を獲得し、徳を実行することができるためには、そのためのある能力が具わっていなければならないことは当然である。しかし、人間は行為の原理・根源としての能力を具えているだけでは十分ではなく、ハビトゥスを必要とすると云われている。してみれば、ハビトゥスは人間の行為の原理として、能力と行為を結びつけるあるものだと考えられているように思われる。ところが、トマスは本論に入ってハビトゥスについて論ずるときには繰り返し、それを人間本性(natura humana)とのかかわりにおいて把握しようとしている。ハビトゥスはまずなによりも本性との密接な結びつきにおいて理解されねばならないと云われている。いったいハビトゥスは能力や行為や本姓とどのようにかかわっているのであろうか。必ずしも一義的でないこれらの概念の間の相互関係を明らかにしてゆくことを通して、トマスのハビトゥス概念を検討してみよう。

 「神学大全」の当該の個所6)を検討する前に、予備的考察として、彼がハビトゥスについて関説しているいくつかの著作を取り上げる必要がある。まず、「徳一般について」7)という論文において、トマスはハビトゥスがその中に形成されうる能力はどのような性格を持つかということを検討している。ここではハビトゥスは能力とのかかわりにおいて規定されていると思われる。

能力(potentia)に三つのものが区別される。第一はただ能動的であるだけの能力(tantum agens)であり、第二はただ受動的であるだけの能力(tantum acta vel mota)、第三は能動的であるとともに受動的である能力(agens et acta)である。

第一にただ能動的であるだけの能力は行為の原理であるためになにか附加されたあるものを必要としない。そのような能力の完成8)はその能力それ自身以外ではない。例えば、神的能力、能動知性、自然的諸力はこのような能力に属する。この能力の完成はそれゆえにハビトゥスではない。

それに対して、第二のただ受動的であるだけの能力は他から動かされることによって以外には自ら動くことはない。そのような能力は自らの力で作用したり作用しなかったりすることはできないのであって、ただ外から作用するものの力によって動かされるにすぎない。つまり、そのような能力は、その行為に対する支配権を持たない(talis potentia non est domina sui actus)。例えば、それ自身として考えられた感覚能力はこのような能力である。このような能力はなんらかの附加されたものによってその活動へ向かって完成される。しかし、その附加されたものはその主体のうちに残存する形相として能力のうちにとどまるのではなくて、ただ受動という仕方で(per modum passionis)一時的に能力のうちに存在するだけである。つまり、他からの作用を受けている間だけ、活動へと完成されているが、作用を受けなくなるやただちにその附加的完成をも失ってしまう。したがってこのような能力にはハビトゥスが形成される余地は全然ない。

第三の能動的であるとともに受動的である能力は自己の活動によって動かされるが、しかしそれによって一つのものへと決定されることはない(non determinata ad unum)。このような能力はなんらかの附加されたものによって、その行為へ向かって完成されるが、この能力のうちに附加されるものは、その主体のうちに定着し、残存するところの形相の様式によって(per modum formae)附加されるのである。そしてこのような能力はその行為に対して支配権を持つことができる(talis potentia est domina sui actus)。このような完成がまさにハビトゥスと呼ばれるものであって、それはその能力に持続的な形で附加されることによって、その能力を活動へ向かって完成させるのである。人間の霊魂の知性的諸能力はこのような能力に属する。

以上述べたことから明らかなように、ハビトゥスがそのうちに形成されうる能力は全く能動的な能力でも、全く受動的な能力でもなくて、能動的であるとともに受動的である能力である。能力は完成されてその頂点に達するが、全く能動的な能力はその頂点に達するのになんらの附加をも必要としないし、反対に全く受動的な能力はその完成のために附加を必要とするが、その附加が一時的で、永続的な性質として残らない。能動的かつ受動的な能力はその完成のために永続的な附加を必要とし、それはいわば主体の本性に類似したもの、本性にとって固有のもの(connaturale)となる。9)ハビトゥスはこのような能力に附加されて、その能力を完成させる永続的な形相である。

III

 ハビトゥスは行為ないし活動への関係において能力を完成させる附加的な形相ないし性質であると規定されたが、われわれはここで、このことを可能態と現実態の概念に即してもう少し検討しておく必要があろう。能力(potentia)はまた可能態という意味を持っており、行為(actus)はまた現実態という意味を持っている。能力を行為へ向かって完成させるハビトゥスは同時にまた可能態と現実態との関係において把握されなければならないと思われる。

トマスがアリストテレスの『霊魂論』注釈において引いている例を手がかりにしてこの問題を考えることにしよう。10)彼によれば、人間の知性の状態は三通りの仕方で区別できる。第一に、知性は端的に可能態においてある。その知性は知識に対する自然本性的な能力を持っているとか、知識を獲得し、所有することができる種に属しているという意味において可能態にある。第二に、知性はある特定のことがらについて知識を所有しているが、その知識について現に知性をはたらかせていないかぎりで、ある意味において可能態においてある。第一の場合と第二の場合に、そこで云われている可能態の意味が異なることは明らかである。第一の場合には、彼が知識を獲得することの可能な種に属していることによって知ることができるとか、あるいは彼の知性が可能態においてあるとか云われるが、第二の場合には、彼がすでに獲得した知識を彼がそうしようと望むときに、現実的に知っているものとして取り出すことができるとか、あるいはそのことがらについて知性を現実的にはたらかせることができるという意味で、その知性は可能態においてあると云われる。第三に、知性はいま、ここで、あることがらについて現に考察しているかぎりで、端的に現実態においてある。

トマスは知性のあり方をこのように区別したのち、第二の知性の状態をハビトゥスにおいてある知性の状態だと云う。つまり、第二の知性は第一の端的に可能態においてある知性との比較において云えば、むしろ現実態においてあるし、第三の端的に現実態においてある知性との比較において言えば、可能態においてある知性と云わなければならない。このように、ある意味において可能態においてあり、ある意味において現実態においてある知性は、端的に可能態においてある知性と端的に現実態においてある知性のいずれからも区別されて、ハビトゥスにおいてある知性と呼ばれるのである。ここで可能態と現実態はそれぞれ前者は第一と第二の知性について、後者は第二と第三の知性について語られるわけであるが、その区別を確定しておかなければ混乱が生ずるであろう。

いま、二つの可能態に関してカエタヌスのことばを借りて云うならば、第一の知性はハビトゥスを伴わない可能態(potentia sine habitu)であり、第二の知性はハビトゥスによって完成された可能態(potentia perfecta per habitum)であって、前者は後者に対して不完全なものが完全なものに対する関係にある。11)人間知性は可能態として不完全・未規定であって、ハビトゥスによって完成され、規定される必要があるのである。

また、二つの現実態に関して云えば、第二の知性は第一現実態(actus primus)においてあり、第三の知性は第二現実態(actus secundus)においてある。このことに関して、トマスは次のように述べている。「ハビトゥスはそれが質(qualitas)であるかぎりで、ある現実態である。そしてそれゆえに活動の原理であることができる。しかし、活動に関して云えば、それは可能態においてある。それゆえにハビトゥスは第一現実態、そして活動は第二現実態と云われる。」12)

ハビトゥスが可能態と現実態の中間にある13)ということは以上のような意味で云われているのである。

このように見てくれば、ハビトゥスは一般的に云って、可能態が附加的な完成を獲得して、第一現実態としてあるあり方であると規定されるであろう。もっと簡潔に云うならば、ハビトゥスは可能態の完成である(habitus potentiae alicujus perfectivus est)。14)

ところで、ここで注意すべきことは完成・完全(perfectio)ということが必ずしも道徳的な意味での完成・完全ではないということである。完成はここではなによりもまず可能態との関係においてあらゆる現実態が完全であると云われる意味においての完成である。トマスは次のように云っている。「あらゆる有はそれが有であるかぎりで現実態においてあり、そしてある意味で完全である。なぜなら、あらゆる現実態はある種の完成だからである。」15)このある種の完成ということについては次のように云われている。「現実態はつねに可能態よりも、その固有の種の完全性において、より完全である。それゆえに、よき現実態はそのよさにおいてよき可能態よりも完全である。そして同様に、悪しき現実態はその悪さにおいて悪しき可能態よりも完全である。」16)

このように見てくれば、この完全ないし完成は道徳的に、つまり善悪に関して、問題とされているのではなくて、可能態と現実態化という形而上学的意味において用いられていることは明らかであろう。現実態に関して第一現実態と第二現実態の区別がなされるのと同じ意味において、第一の完成と第二の完成が区別されている。すなわち、第一の完成は事物の形相に関して、第二の完成は事物の目的に関して語られる。17)ハビトゥスは第一の完成なのである。

 

IV

 次に、ハビトゥスという完成がその主体に附加されると云われるとき、その主体の本性とハビトゥスはどのような関係にあるのかという点を検討しよう。われわれはII節において、ハビトゥスが活動への関係における能力に対するある種の附加として規定されていることを見たが、『神学大全』の本論においては、ハビトゥスはむしろ本性への関係(ordo ad naturam)において規定されているように思われる。

トマスはハビトゥスを、アリストテレスに従って、永続的な質(qualitas de difficle mobilis)として規定する。18)このことは何を意味するだろうか。ハビトゥスはhabereという動詞に由来するが、それは他動詞の「持つ」ということよりも、むしろ「なんらかの状態にある」(quodammodo se habere)ということを表している。そのような状態がかくかくの状態にあるのはなんらかの質によってである。そこで、アリストテレスは「ハビトゥスは自体的にか、または他との関係において、それによって状態づけられるものがよく、あるいは悪く状態づけられるところの状態」(habitus dicitur dispositio secundum quam bene aut male disponitur dispositum, et aut secundum se aut ad aliud,....)であると定義する。19)

 ところで、「状態はつねに諸部分を持つあるものの関係を意味する」(dispositio quidem semper importat ordinem alicujus habentis partes)20)から、、ハビトゥスはこのような状態として、ある複合体の諸部分の場所的、可能的、形相的な関係ないし状態づけである。すなわち、健康や美のような身体的状態は身体の諸要素の場所的関係(ordo partium in loco)として理解することができるし、不完全な学知や徳は知性的諸部分の可能的(secundum potentiam)関係、完全な学知や徳はそれらの形相的(secundum speciem)関係として理解することができる。21)

以上見たように、ハビトゥスはその主体がなんらかの状態にあるということを示す性質であり、その主体の本性への関係において、または他のものへの関係において状態づけられている仕方が永続的である性質である。状態(dispositio)ということばが示しているように、ハビトゥスはここでは一種の配置・秩序として主体のうちに位置づけられ、そのことによって主体を規定するものと考えられているのである。

トマスがハビトゥスをまずなによりもその主体の本性との関係においてとらえようとしていることは、彼がアリストテレスに従って、ハビトゥスを質の範疇に位置づけていることから、うかがえる。22)ハビトゥスは十の範疇のうちの第三の質に属する。23)すなわち、ハビトゥスは実体(substantia)ではなくて、実体のある種の様態(quemdam modum substantiae)を意味する。ところで、様態はある基準に従っての一種の限定を意味する(importat quemdam determinationem secundum aliquam mensuram)。トマスはそのような基準として存在(esse)を挙げ、それを実体的存在(esse substantiale)と偶有的存在(esse accidentale)に区別する。質料の可能態が実体的存在という基準に従って限定されるときに、それは質と云われるが、しかしそれは特殊な云い方であって、むしろそれは実体そのものの本性のことである。それに対して、主体の可能態が偶有的存在という基準に従って限定されるときに、それは偶有的質と云われるが、それもまたある意味での本性である。

ハビトゥスはこのような偶有的存在という基準に従って限定される様態として、あるものがなんであるかということ(quaedam differentia)を状態、質という形で示すのである。このようにみれば、ハビトゥスは主体を偶有的に規定することによって、その主体がある意味での本性をわれわれに示すものであると云うことができるであろう。

トマスは範疇としての質であるハビトゥスをさらに詳しく規定しようする。すなわち、偶有的存在に従っての主体の様態ないし限定は、第一に主体の本性そのものへの関係において(in ordine ad ipsam naturam subjecti)、第二および第三に、形相と質料という本性の原理から結果として出てくる能動と受動に従って(secundum actionem et passionem)、そして第四に、量に従って(secundum quantitatem)受け取ることができる。

まず、主体の様態ないし限定が量に従って受け取られるならば、質の第四の種を構成する。量は姿や形(figura et forma)として、その主体をもっとも外面的な層において限定するわけだが、その特質からして、運動とか善悪を伴わない。それゆえに、この質の第四の種には、あることがらがよいとか悪いということ、一時的であるか永続的であるかというようなことは属さない。

能動と受動に従っての主体の様態ないし限定は質の第二と第三の種において考察される。能動や受動においては、あることがらが容易になされるか、それともそれが困難であるかということや、またそれが一時的であるか永続的であるかということが考慮される。しかし、能動や受動という主体の様態ないし限定においては善悪の特質(ratio)に属することは考慮されない。なぜなら、運動とか受動は目的の性格を持たないが、善悪は目的に関して語られるからである。

事物の本性への関係における主体の様態ないし限定は質の第一の種に属する。すなわち、それがハビトゥスと状態(dispositio)である。アリストテレスは霊魂と身体のハビトゥスについて語りながら、それはある完全なものの最善のものへの状態づけ(dispositiones quaedam perfecti ad optimum)であり、完全なものとは本性に従っての状態(dispositio secundum naturam)であると云っている。さらに、アリストテレス事物の形相と本性はその事物の目的であり、そしてその目的因によって事物は生ずるのだと述べている。それゆえに、質のこの第一の種においては、善か悪かということが、一時的か永続的かということと同様に考慮される。そこで、アリストテレスはハビトゥスを定義して、それは「それに従って、情念に関してわれわれがよく、あるいは悪く状態づけられるところのものである」(habitus sunt secundum quos ad passiones nos habemus bene vel male)と云っている。様態が事物の本性に一致するとき、それは善という性格(ratio)を持ち、一致しないとき、悪という性格を持つ。そして本性は事物において第一に考慮されるものであるから、ハビトゥスは質の第一の種として措定される。24)

 トマスがここで述べていることは理解するのにかなり難しい問題を含んでいるが、少なくとも、彼が質という類を四つの種に分かちながら、それぞれの主体の様態ないし限定を本性への関係という観点から、漸次外的なものから内的なものへと深める形で見ていることは読み取れるであろう。

このことは、先に述べた「複合体の諸部分の場所的、可能的、形相的な関係」としてのハビトゥスの規定の仕方とも通ずるものがある。もちろん、ハビトゥスは厳密には、質の第一の種として考えられているのだが、事物の本性への関係がなんらかの意味で考慮されるかぎりでは、量的な主体の様態も能動的、受動的な主体の様態も、ともにハビトゥスと呼ばれているのである。25)

そこで、問題は本性がどのようにとらえられているのかということであろう。ハビトゥスが本性への関係において規定される質であると云われる場合には、その本性はアリストテレスが云うように、その事物の目的としての形相だと考えられるであろう。26)それはterminus ad quemとしての人間の目的、終極であり、terminus a quoとしての人間の可能態はそれへと向かって発展してゆくのである。このように見れば、ハビトゥスは目的として本性への途上にある人間の可能態のある状態であると云えよう。

しかし、本性はまたハビトゥスそのものについても云われている。ハビトゥスが質の第一の種の中で、特に状態(dispositio)から区別されて27)、永続的な質だとされるのは、ハビトゥスがその本性にとって単に一時的な附加的質ではなくて、いわば本性に似たもの(connaturale)28)、ある意味での本性だからである。このような意味では本性はそれ自身成長してゆく。このとき、ハビトゥスはなによりもまずその主体の本性への関係において考えられ、その主体の本性に固有の質として、形成途上にある本性と見做されているのである。

V

以上、本性とハビトゥスの関係について若干の点を見てきたが、ハビトゥスがなんであるかを明らかにするためにはなお、ハビトゥス形成の根拠を問わなければならない。しかし、その前にここでハビトゥスの基体(subjectum)について検討しておきたい。われわれはいままで、ハビトゥスの主体ということについて厳密な区別をせずに用いてきたが、トマスがその点に関してはかなりこまかい区別をして用いていることに注意しなければならないであろう。29)

 厳密な意味でハビトゥスを持つといわれるのはなにかということがここでの問題である。われわれはいままで主体ということばを用いてきたが、subjectumはここでは存在論的な意味で用いられており、むしろ基体ということばの方が適当であろう。この意味での基体とは偶有的諸規定が存在するためにそれに依存するところのもの、諸形相がそこにおいて受け取られるところのものである。30)トマスがハビトゥスの基体を問題にするとき、彼はハビトゥスという偶有的形相が受け取られるところのものが人間自身であるかどうかということを主として問うているわけではない。31)問題はそのことではなくて、その人間におけるなにが、すなわち、その身体か、霊魂の本質か、霊魂の諸能力か、そのいずれがそうなのかということである。

 ところで、ハビトゥスは本性への関係におけるなんらかの状態、または活動への関係におけるなんらかの状態である。

 まず、本性ないし形相への関係におけるなんらかの状態としてのハビトゥスが基体とするものはなんであろうか。身体はなんらかの意味でハビトゥスの基体たりうるであろうか。身体と霊魂との関係は基体と形相との関係である。すなわち、身体は霊魂という形相の基体である。霊魂はしかし身体の実体的形相である。ハビトゥスはすでに見たように偶有的形相であって、ある意味でその基体として身体を持ちうる。例えば、健康や美は身体を基体とす偶有的形相である。しかし、トマスはこのような偶有的形相はハビトゥスよりはむしろハビトゥス的状態(habitualis dispositio)と呼ばれるべきだと主張する。なぜなら、そのようなハビトゥス的状態はその本性からしてその原因が一時的であって、ハビトゥスが持っている永続的な性格を欠いているからである。32)

次に、本性ないし形相への関係におけるなんらかの状態としてのハビトゥスは霊魂そのもののうちに存在することができるだろうか。もし、いま問題にしている本性が人間本性をさす場合には、そのようなハビトゥスは霊魂そのものを基体とすることはできない。なぜなら、霊魂それ自体がすでに人間本性を完成させる形相(forma completiva humanae naturae)であって、それ以外のハビトゥスの如き形相によって完成される必要はないからである。しかし、もしその本性が神の本性への参与としてのある高次の本性について語られるならば、霊魂の本質のうちになんらかのハビトゥス、すなわち恩寵(gratia)が存在することを妨げるものはなにもない。33)

では、活動への関係におけるなんらかの状態としてのハビトゥスについてはどうであろうか。まず、身体はそのとき、第一次的には(principaliter)ハビトゥスの基体たりえない。なぜなら、あらゆる身体の活動は身体の自然本性的性質によるか、それとも身体を動かす霊魂による。本性からのものである活動のためにはなんらかのハビトゥスによって状態づけられる必要は少しもない。なぜなら、自然本性的な諸力は一つのものへと決定されている(determinata ad unum)からである。その基体が多くのものへの可能態のうちにあるときにはじめてハビトゥス的状態が必要とされるのである。身体を通じて霊魂から出てくる活動は、第一次的に霊魂それ自体の活動であって、第二次的にのみ身体の活動である。しかし、ハビトゥスは活動に対応するものであって、類似した行為から類似したハビトゥスが生じる。それゆえに、そのような活動へのハビトゥスは第一次的には霊魂のうちにのみあるのであって、ただ第二次的にのみ、すなわち、身体が霊魂の諸活動に迅速に仕えるように状態づけられ、能力を与えられるかぎりで、身体のうちにあることができる。34)

それゆえ、活動への関係におけるハビトゥスは主として(maxime)霊魂のうちに見出される。なぜなら、霊魂は一つの活動へと決定づけられているのではなくて、多くの活動へと開かれているからである。さらに、霊魂はその諸能力を通じてその諸活動の根源であるから、ハビトゥスが霊魂のうちにあるのは、霊魂の本質によってではなくて、その諸能力によってである。35)

以上検討したことから明らかなように、ハビトゥスの基体たりうるのは、厳密に云うならば、活動への関係における霊魂の能力だということになる。なぜなら、本性ないし形相への関係においてハビトゥスを考えるとき、その本性が人間本性ならば、霊魂はそれ自体がその身体の実体的形相としての人間本性を完成させるものであって、そのうえにハビトゥスの如きあるものが附加されて完成されるのはないゆえに、ハビトゥスの基体であることはできないからである。また、本性への関係における身体の状態としての健康や美のようなハビトゥス的状態、あるいは霊魂それ自体の状態としての恩寵は広い意味ではハビトゥスと呼びうるが、しかし前者はむしろハビトゥスとは区別される意味での状態(dispositio)であり、後者は獲得的ではなくて注入的(infusus)36)であるという意味で、自然本性的ではなくて超自然的なものであるから、結局のところ、本性への関係においては身体も霊魂も本来的な意味でのハビトゥスの基体であることはできない。

ただ、ここで本性が能力の本性を意味する場合には、身体についても霊魂についても、それは活動への関係における状態としてのハビトゥスと同じことが妥当する。

そして、活動への関係においては、身体はただ第二次的な意味においてしかハビトゥスの基体ではないのであって、第一次的には、霊魂、それも霊魂の諸能力のみがハビトゥスの基体でありうるということになる。37)

ところで、霊魂の諸能力は偶有的であり38)、ハビトゥスも偶有的である。偶有的なものは実体をその基体とすることができるのであって、他の偶有的なものを基体とすることはできないから、ハビトゥスは霊魂の諸能力をその基体とすることはできないのではないか。このような反論に対してトマスは次にように答えている。偶有的なものは自体的に(per se)は他の偶有的なものの基体であることはできない。しかし諸々の偶有的なもののうちにもなんらかの秩序があり、一つの偶有性のもとにある基体が他の偶有性の基体として理解されうる。従ってある偶有性が他の偶有性の基体であると云われうる。ちょうど色の基体が表面であるといわれるように、能力がハビトゥスの基体であると云われることは可能である。39)

VI

ハビトゥスの基体について検討した結果、ことばの厳密な意味では、ハビトゥスは霊魂の諸能力のハビトゥスであるということが明らかとなった。このことはトマスがハビトゥスをまずなによりも本性への関係において理解しなければならないと述べていたことと矛盾するのだろうか。どうもそうではないようである。トマスはハビトゥスが本性への関係におけるその基体の様態であることを確定した後に、「ハビトゥスは行為への関係を持つか」40)という項を設けてこの問題を検討している。

ハビトゥスが行為への関係を持つということは二通りの仕方で可能である。一つはハビトゥスの本質に従って(secundum rationem habitui)、他はハビトゥスがそのうちにある基体の本質に従って(secundum rationem subjecti in quo est habitus)である。

まず、ハビトゥスの本質に従って云えば、行為への関係を持つということはある仕方においてすべてのハビトゥスに適合する。なぜなら、それに一致するにせよ、しないにせよ、事物の本性への関係においてそれになんらかの関係を持つことはハビトゥスの本質に属することだからである。しかし、出生の目的である事物の本性はさらにまた他の目的へと関係づけられるが、この他の目的はある場合には活動であり、ある場合には活動によって達せられるなんらかの結果である。それゆえに、ハビトゥスは単に事物の本性への関係を持つだけでなく、またそれが本性の目的である限り、あるいは目的へと導くものである限り、結果的に(consequenter)活動への関係を持つ。

第二に、ハビトゥスがそのうちにある基体の側から云って、第一にそして主として(primo et principaliter)行為への関係を持つところのあるハビトゥスが存在する。なぜなら、ハビトゥスは第一にそして自体的に(primo et per se)事物の本性への関係を持つのであり、それゆえにもし、そのうちにハビトゥスが存在するところの事物の本性がそれ自身行為への関係のうちに存するならば、ハビトゥスは主として行為への関係を持つということになる。それゆえに、ある能力をその基体とするところのすべてのハビトゥスが存在するのである。そして前節でみたように、人間のハビトゥスの基体は主として霊魂の諸能力なのである。

VII

 最後に、ハビトゥスが形成される根拠ないし原因を検討することによって、ハビトゥスと本性の関係、ハビトゥスと行為の関係を明らかにしたい。

「あるハビトゥスは本性からのもの(a natura)であるか」41)という問いはトマスがハビトゥスの期限を自然本性のうちに探ることによってその本質を規定しょうとしていることを示していると思われる。

彼によれば、あることがらがあるものにとって本性的(naturale)であると云われる仕方は二通りある一つは種の本性に従って(secundum naturam speciei)であり、他は個の本性に従って(secundum naturam individui)である。例えば、人間にとって笑うこと、火にとって上へと上がることは種の本性に従って本性的であり、ソクラテスにとって健康であることは個の本性に従って本性的である。

これらはさらに、それが全面的に本性からのものであるか(totaliter a natura)、あるいは部分的に本性からのものであり、部分的に外的根源からのものであるか(partim a natura, partim ab exteriori principio)によって区別される。あるひとがひとりで回復する場合、その健康は全面的に本性からのものであるが、医薬の助けによって回復する場合には、その健康は部分的には本性から、部分的には外的根源から来ると云わなければならない。

 そこで、ハビトゥスに関して云えば、まず形相あるいは本性への関係における基体の状態であるハビトゥスは、上述の四通りの仕方でその基体にとって本性的であることができる。

次にしかし、霊魂の諸能力を基体とする活動への状態であるハビトゥスは種の本性の側からも、個の本性の側からも、全面的に本性からのものであることは不可能であって、ただ部分的に本性からのもの、部分的に外的根源からのものでしかありえない。

いま、認識的能力を例にとれば、それらのうちには種の本性および個の本性に従って、初期的な本性的ハビトゥス(habitus naturalis secundum inchoationem)が存在しうる。諸原理の理解(intellectus principiorum)が本性的ハビトゥスと云われるように、種の本性に従ってのハビトゥスは霊魂それ自身の側から来る。なぜなら、知性的霊魂の本性そのものからして、なにが全体であり、なにが部分であるかが認識されるとただちに、すべて全体はその部分よりも大であるということを認識するということは人間にふさわしいことだからである。しかし、なにが全体であり、なにが部分であるかということは、表象から受け取られた可知的形象によって以外には認識することができない。このように種の本性に従って本性的であるハビトゥスも一部は外的根源に由来するのである。

個の本性の側からみて、ある初期的な認識的ハビトゥスが本性的であると云われる。それは知性の活動のためにわれわれが感覚的諸能力を必要とし、その点であるひとが感覚器官の状態のゆえに他のひとよりも理解力においてまさるということがあるかぎりにおいてである。42)

以上のように、トマスはあるハビトゥスが部分的にではあるが本性そのものに由来するということを明らかにし、ハビトゥスが形成される原因・根拠がいわば生具的な性格を持つもののうちに探されなければならないことを主張するのである。

VIII

 トマスが、これまで見てきたように、ハビトゥスをさまざまの角度から本性へと関係づけてとらえようとしているのは、彼が行為という経験的なもののいわば背後に超経験的な根拠として本性を措定し、それを介して行為がハビトゥスとかかわることを示そうとするからであろう。そのように理解してはじめて、われわれはハビトゥスと行為との関係を適切にとらえることができるであろう。

われわれはII節においてすでに、ハビトゥス形成の条件としての能力について検討した。ここではハビトゥスが行為によって形成されると云われるのはいかなる意味においてであるかを検討したい。43)

行為者のうちには、ある場合に、この行為の活動的原理(principium activum)のみが存在する。ちょうど火のうちに熱するという活動的原理のみが存在するようにな場合がこれである。このような行為者のうちにはその固有の行為によってなんらかのハビトゥスが形成されることはできない。それゆえに、自然的事物は習慣づけられたり、習慣を取り去られたりすることはできない。しかし、ある行為者のうちには、そのうちにその行為の能動的原理とともに受動的原理(principium passivum)が存在するものが見られる。人間的行為はこのような能動的原理と受動的原理を持つ行為者の行為である。

例えば、欲求的能力の行為は、それに対象を提示する認識的能力(という能動的原理)によって動かされることに従って欲求的能力から生ずるのであり、また知性的能力は結論に関して推論するさいに、その能動的原理としての自明的命題によって動かされる。それゆえに、そのような行為者のうちには、行為によってあるハビトゥスが形成されるが、そのハビトゥスは第一の能動的原理に関して云われるのではなく、動かされて動く行為の原理に関して云われるのである。なぜなら、他からあることを蒙り、動かされるすべてのものは、その行為者の行為を通じて状態づけられるからである。それゆえに、反復された行為から受動的能力のうちにある種の性質が生み出されるが、こえがハビトゥスと呼ばれるものである。このように、道徳的徳のハビトゥスは欲求的諸能力のうちに、それらが理性によって動かされることに従って、原因され、また諸学知のハビトゥス(habitus scientiarum)は知性のうちに、知性が第一の諸命題によって動かされることに従って、原因される。

ハビトゥスは行為を通じて人間の受動的能力のうちに能動的原理によって形成される永続的な質である。この人間の受動的能力は未規定であり、不完全であって、行為を通じて能動的な原理がそれに働きかけ、それを一挙に、あるいは徐々に規定し、完成させてゆくのである。そしてハビトゥスはそのようにして受動的能力が規定され、完成されて、現実態へ向かって、すなわち、活動、行為へ向かって、準備されるように状態づけられた性質であり、ハビトゥスの形成はこのような能力の完成、それゆえにまた人間本性の完成の過程である。

ハビトゥスの形成ということは、それゆえに、人間が人間に成るということ、人間形成ということの別の表現であると云えよう。こどもの可能性を発展させるということは彼が持っている能力を完成させることであるが、ここでトマスがハビトゥス形成の真の原因、根拠だと見ている能動的原理の重要性が浮かびあがってくる。なぜなら、能力は能力としては、つまりそのままでは、未規定で不完全な可能態の状態にあるからである。人間はからの器にものを注ぎこむように全く受動的に外部から規定され完成される存在でないと同時に、また彼の能力は内に秘めているものをひとりでに展開し発展させてゆく全くの能動的な力でもない。人間は、彼のなかで能動的原理が受動的原理を規定し完成するときにはじめて彼の能力を、そしてまた彼の本性を完成させると云われるのである。

トマスはこの能動的原理は知性の完成においては自明的命題、意志の完成においては知性であると述べている。このことについての検討は紙数も尽きたので稿を改めたい。ここで少なくとも云えることは、トマスがハビトゥス形成の原因・根拠を行為ないしその反復を越えた能動的原理のうちに見ることによって、ハビトゥスがなによりもまず人間の行為を行為たらしめる究極的根拠としての本性そのものとのかかわりのなかで成立し、そのことを通じて行為と結びついているということを明らかにしているということである。

  1. St.Thomas Aquinas, Summa Theologiae, vol. 22, Disposition for Human Acts(Ia 2ae, 49-54),Anthony Kenny, McGraw-Hill, 1964. ここでは特に第49-51問題を取り上げた。なお、『中世思想研究』XIV, 1972の稲垣良典、「ハビトゥスとナトゥラ−トマス・アクィナスのハビトゥス概念についての一考察−」および有働勤吉、「IntellectusとSynderesis−トマス適性論の一考察−」の二論文が参考になった。その他、Vernon J. Bourke, The Perfecting of Potency by Habitus in the Philsophy of Saint Thomas Aquinas, Univ. of Toronto, 1938; G. Klubertanz, Habits and Virtues. A Philsophical Analysis, Appleton-Century-Crofts, 1965.

  2. 「習慣は経験によって習得される学習の結果であるから本能や反射のような生得的反応と対立して用いられる。習慣はひとたび形成されてしまうと、その反応は一般的に定型的となり、自動的となる傾向があるので、目的的行動や意図行動とも対立した意味で用いられることがある」。平凡社、心理学事典、昭32, 11, p.295.  このような習慣とトマスのハビトゥスはかなり異なったものを持っている。

  3. トマスは知性的ハビトゥスとして理解(intellectus),学知(scientia)、英知(sapientia)、賢慮(prudentia)、技術(ars)を挙げ、道徳的ハビトゥスとして賢慮(prudentia)、正義(justitia)、剛毅(fortitudo)、節制(temperantia)を挙げている。

  4. Cf. De Verit., 11, 1c.

  5. 拙稿「教育の本質と人間観」(篠崎謙次他、現代教育の反省と展望、第二章、福村書店、1973, pp.41-73参照。

  6. S.T., I-II, 49.

  7. De Virtutibus in communi, a. 1c.

  8. Virtus talis potentiae. そのような能力の徳、ことで徳はpotestatis perfectio力の完成を表している。

  9. De Verit., 20, 2c.

  10. In II De Anima, lect.11, nos.359-361.

  11. V, J. Bourke, op.cit., p. 32.

  12. S.T., I-II, 49, 3 ad 1.

  13. S.T., I-II, 71, 3c.

  14. C.G., 1, 92.

  15. S.T., I, 5, 3c.

  16. In II Sent., d. 44, q. 1, 1 ad 2m(V. J.Bourke, op. cit., p.37より引用)

  17. De Verit.,1, 10, ad 3 arugumentum sed contra.

  18. S.T., I-II, 49, 1 sed contra.

  19. S.T., I-II, 49, 1c.

  20. S.T., I-II, 49, 1 ad 3.

  21. Ibid.

  22. S.T., I-II, 49, 1 et 2.

  23. S.T., I-II, 49, 2c.

  24. Ibid.

  25. S.T., I-II, 49, 2 ad 1.

  26. S.T., I-II, 49, 2c.

  27. S.T., I-II, 49, 2 ad 3.

  28. De Verit.,20, 2c.

  29. S.T., I-II, 50, 1 et 2.

  30. Defferari, A Lexicon of St.Thomas Aquinas, 1948, p. 1060.

  31. もちろん、トマスは一方において神、他方において動物にハビトゥスを帰することを拒けている。

  32. S.T., I-II, 50,1c.

  33. S.T., I-II, 50, 2c.

  34. S.T., I-II, 50,1c.

  35. S.T., I-II, 50, 2c.

  36. S.T., I-II, 51, 4 ad 3.

  37. いま、これを簡単にまとめれば次のようになるであろう。

    ハビトゥスは
    身体を基体として人間本性への関係において:健康、美のようなハビトゥス的状態として存在する
    身体を基体として高次の本性への関係において:存在しない
    身体を基体として能力の本性への関係において:第一次的には存在しない
    身体を基体として能力の本性への関係において:第二次的に存在する
    身体を基体として活動への関係において:第一次的には存在しない
    身体を基体として活動への関係において:第二次的に存在する
    霊魂を基体として人間本性への関係において:存在しない
    霊魂を基体として高次の本性への関係において:恩寵として存在する
    霊魂を基体として能力の本性への関係において:存在するbr> 霊魂を基体として活動への関係において:存在する

  38. S.T., I, 77, 1 ad 5.

  39. S.T., I-II, 50, 2 ad 2.

  40. S.T., I-II, 49, 3.

  41. S.T., I-II, 51,1.

  42. S.T., I-II, 51,1c.

  43. S.T., I-II, 51, 2 et 3.

1973.09.02

『アカデミア』人文・社会科学編 第96号 pp.117-137 1974年1月から転載

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