ランスの大司教ヒンクマル

カール禿頭王に宛てられた
『王の人格と王の職務について』

序言

 (833B)主の栄光に忠実に献身しているそして献身的に忠実である[王よ]。
 預言者を通じて「祭司たちに、律法について尋ねなさい」(ハガii,12)と命じられる主の掟に聞き従う者たち、それらの小さな頭に関してあなたたちに相談することは私を喜ばせた。というのは、彼らについては真理が自ら「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める」(ヨハvii,18)と言われるからである。私が自分の言葉の武器なしにはあなたたちに答えないと考えたことは適切であった。しかし、聖書において、そしてカトリックの博士たちを通じて聖霊は何を語られるのか。よい香りのする小さな花、豊かな大地の事実、すなわち、聖書の野原を語られる。主はそれを短く一つにおいてわれわれに集めることを祝福される。そして私は約束を知っている。「天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」(ルカx,15)。私は(833C)王の職務に関してあなたに主から委ねられたことが適切であるということを見た。あたかも知識の光の火花が閃くかのように、私はあなたの上にそれを加える。実際、Comicusが言うように、「服従は友人たちを、真理は憎しみを生む」(Ter. in Andr.)のである。そして盲従、すなわちへつらいが地上の指導者そして主人を喜ばせるべきではなく、もしあなたが、私によって集められた、王の人格と王の職務についての文章のうちに何かあるより辛辣に言われたことを見出すならば、それはあなたに反対するためではなくて、あなたのためにそれらを私が集めたのだと考えて頂きたい。なぜなら、文章それ自体が記述しているように、私はあなたが寛大さと善においてそのような者としてあり、また行為されることを知っているし、またそのような者であることそしてそのように行為されることを望んでいるからである。しかし、この小著の文章は異なった収集によって三つの形式を持つものである。第一に、一般的に公共善のための王の人格と王の職務に関するもの。(833D)次に、それは憐れみにおける区別でなければならない。そして最後に特別の人々に関してである。(834B)もし破壊的に行為する人々が、一時的な死によって罰せられて教えられる以外の他の仕方で方向づけられることしかできないとすれば、それはある人々によって反対されると言われる。というのは実際、王は王の職務のために存在するからであり、また何らかの近い絆によって立てられるのでもないからである。王は神や聖なる教会に反して、また国家に反して、肉の欲望によって犯罪的に行為する者を抑制しなければならないのである。

第1章 神は善き王を造られるが、悪しき王を許容される

 書かれているように、「王国は主のものである」(詩xxi,19)から、「この神は御旨のままにそれをだれにでも与え」(ダニiv,l4)られるから、そして聖アウグスティヌスが『堅忍の賜物』(第6章)という書物において言っているように、「何事も神が為されるのでなければ為されないし、また神が許容されるのでなければ正しく為されない」から、(834C)善き王たちが統治するとき彼らが神の恩寵によって善き者であるように、また彼らは神が働きたまうことによって支配する。神御自身がこう言っておられるように。「私によって彼らは支配する」(箴viii,15)。そして悪しき王たちが統治するとき、彼らはその悪徳によって悪い者であるように、彼らは神の裁きによって支配することを許容されるのである。暫くは密かにであるが、しかし決して不正にではない。こう書かれている通りである。「民の罪のゆえに神は偽善者を王とされる」(ヨブxxxiv,30)。Facit造られると言われているのは、正義の配分から、神が許容されたからである。その語りの種類によってこう言われている。「主はファラオの心をかたくなにされた」(出ix,12)。Induravitかたくなにされたと言われているのは、主が恩寵によって心をしなやかにされずに、正義の配分からかたくなにされることを許容されたからである。神が造られるのではなくて、神によって許容されて支配する者については、主は預言者を通じて次のように言いながら問われる。「彼らは王を立てた。しかし、それはわたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない」(ホセviii,4)。グレゴリウス(Pastoral.cap.1)(834D)はこう言っている。「自分自身から、そして望みからではなく、支配者の最高の者たちは支配する。彼らはいかなる徳によって支えられるのでもなく、(835A)決して神として呼ばれるのではなくて、その欲望によって燃え立たせられて、支配の頂点に到達するというよりはむしろそれを奪い取る。しかしながら、内なる裁判官は彼らを繁栄させ、そして認識しない。なぜなら、彼は彼らを許容することによって忍耐しているが、確かに拒絶の判断によって彼らを知らないからである」。彼らについて詩編作者を通じて主によってこう言われている。「あなたは彼らが高められる間に彼らを打ち倒される」(詩Lxxii,18)。なぜなら、名誉によって成功し、そして道徳に欠けている者は高められる間に打ち倒されるからである。実際、死すべき者の行為を命じられる正しいそして憐れみ深い主はある者を好意的に受入れ、他の者を怒って許容される。そしてまた許容されたものを彼の集会において利用へと転ずるために忍耐される。

第2章 善き王は民の幸福であり、悪しき王は民の不幸であること

 王の名について、そして民の幸福はもし善き王が彼らを神の恩寵によって支配するならば、何に従属するか、(835B)そしてまたもし悪しき王がその悪徳によって彼らを支配するならば、民の不幸は何に従属するかについて、聖キプリアヌスは「濫用の段階」についての書物において(第9章)次のように示している。「王の名は、支配者の職務がすべての臣下を配慮するということのために知性的に保持される。しかし、自分の行動を、それが悪いものでないように、矯正しない者がどのようにして他者を矯正できるであろうか。というのは正義において王座は高められ、そして真理において民の支配は堅固にされるからである(箴xvi)。実際、王の正義は、誰をも力によって不正に抑圧しないこと、人々の受容なしに人々の間で、そして彼の隣人の間で正しく判決を下すこと、外国人、孤児、寡婦たちの擁護者であること、盗みを抑え、姦通を罰し、不正な者を高めず、恥知らずや役者を養わず、不敬な者を地上から取り除き、父殺しや誓いを破る者たちが生きることを許さず、教会を擁護し(835C)、貧しい者たちに慈善を施し、正しい者を王国の仕事に立て、年長者、知者、真面目な者に相談し、魔術師や占い師そして神託を聞く者たちの迷信を弁護せず、怒りを延ばし、祖国を力強く正当に敵に対して守り、すべてを通じて神に信頼し、繁栄によって誇り高ぶらず、すべての敵対者を忍耐深く我慢し、神に対するカトリックの信仰を持ち、自分の息子たちが不敬なことをするのを許さず、決められた祈りの時間を守り、適切な時間の前に食事をしないことである。「いかに不幸なことか、王が召し使いのようで、役人らが朝から食い散らしている国よ」(コヘx,16)。これらの王国は現在においては繁栄を作り、そして王国をより優れた天上の王国へと導く。実際、王国をこの律法に従って統治しない者は明らかに多くの(835D)帝国の敵を許すことになるだろう。まさにそのゆえに、民の平和はしばしば破られ、そして障害は王国からも起こって来、また大地の実りは減少し、民の奴隷状態によって彼らは足枷をはめられ、多くのそして様々の悲しみは王国の繁栄を暗くし、愛すべき者たちそして自由な人々の死は悲しみをもたらし、敵の攻撃はあらゆる方面から地方を略奪破壊し、[牛や羊の]群れの動物たちは引き裂かれ、夏や冬の天気は狂い、また大地の豊穣と海の供給は不可能となり、雷電の一撃は穀物や木々の花や葡萄の新芽を焼き尽くす。実際すべてに優って王の不正は(836A)単に現在の帝国の顔を暗くするばかりでなく、その息子たちや孫たちを、彼らが自分たちの後には王国の遺産を保てないように、暗くする。なぜなら、ソロモンの犠牲のゆえに主はイスラエルの家である王国を彼の息子たちの手から追い散らされ、またダビデの正義のゆえに、王のランプを彼の子孫から常にエルサレムに残された(王上xii,xvi)。王の正義が、それを見る者たちに明瞭に明らかなように、いかに世々にわたって力を持っているかを見よ。実際、民の平和は祖国の守り、民衆の特権、人々の城壁、物憂さの回復、人々の喜び、空気の適当な混合、海の清澄、大地の豊穣、貧しい人々の慰め、息子たちの相続権、そして自分自身にとっては未来の至福の希望である。しかし、王は人間たちの玉座に第一の者として立てられているように、またもし彼が正義を行わなかったならば、罰において、第一の者として受け取られるであろうということを知らなければならない。なぜなら、罪人たちが自らのもとに持ったものは何であれすべて自分たちの上に堪えることが出来ない仕方で未来において罰として持つであろうから」。

第3章 正しい統治は大いなる権力の基礎である

 政府の善い統治からはこの世の権力が大きいということが知られる。聖グレゴリウスは『道徳論』(第xxvi巻、第19章)という書物の中でこう言っている。「神の下で政府の善い統治についてその功績を持つこの世の権力は偉大である。それは権力のその秩序によって善である。しかし、それは統治者の思慮に富んだ生活を必要とする。それゆえに、その生活を保ち、そして攻撃することを知っている者はその権力を善く行使するのである。その生活を通じて罪を越えて高められることを知っている者、そして生活と共に他の平等によって結び付けられることを知っている者は権力をよく行使する者である。実際、人間の精神はたとえそれがいかなる権力によって支えられなくても、一般に高められる。もし権力さえが自分に付け加えられるならば、どれほど人は己を高めるであろうか。そしてしかも、他者の悪徳を矯正するために適当な罰によって準備される。それゆえパウロによってもこう言われている。「権威者は・・・神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです」(ロマxiii,4)。それゆえにその職務がこの世に受け取られるときに、誰であれ、権力からその職務が支えるものを引出し、それが試みるものを支配することを知ることができるように最大限の配慮で注意していなければならないのである。(同書)それゆえに、外的には我々が他者の有用性のために苦しむことを、内的には我々の評価に関して感じることを保つようにしよう。しかしそれにもかかわらず、それから出て来るある種のしるしによって適切に、我々に委ねられている人々自身もまた我々と共にそのようなものが我々を知らないことはないのである。我々の権威について彼らが恐れていることを彼らが見るように、そして謙遜について彼らが模倣していることを彼らが知らないように。(836D)しかし、政府の権威に注目して、我々は我々の心に絶えず立ち戻るようにしよう。そして絶えず我々が他の人々と同等な者として立てられたのであって、一時的に他の人々に先行する者とされたのではないということを考えなければならない。実際、権力は外的に傑出すればするほど、それが思考を圧倒しないように、その快楽において魂を奪わないように、すでに自分自身のもとで精神が欲望によって自分自身を支配することをそれに従属させるところの権力を支配することができないように、内的に抑制されなければならない。ダビデは王国の権力を支配することをよく知っていた。彼は自分の権力を高めることを自分自身で抑制しながら、次のように言って打ち勝った。「主よ、わたしの心は驕っていません」(詩cxxx,1)。誰が彼の謙遜の増大によって従属しただろうか。「わたしの目は高くを見ていません」(837A)。さらに彼はこう付け加える。「大き過ぎることを・・・追い求めません」。そして今や自分自身を最も鋭い吟味で粉砕しながら、こう言う。「わたしの及ばぬ驚くべきことを・・・追い求めません」同様にまた彼のすべての思考を心の奥から吐き出しながら、こう言って付け加える。「もし私が謙遜に感じずに、私の魂を高めるならば」(ibid.2)。見よ、彼が謙遜のホスチアをしばしば心の奥から明かにし、そして幾度も告白しながら犠牲を捧げることをやめず、彼の裁き手の目にそのホスチアを何度も示すのを。これは何であるか。そして彼はどのようにしてこの犠牲が神に喜ばれることを知り、、神の目に何がそのような声の繰り返しによって犠牲となるのであろうか。傲慢が往々にして権力に近いのでなければ、そして殆ど常に高慢は豊かな事物に伴うのでなければ。というのは、またしばしば体液の豊かさは興奮の荒さをもたらすからである。実際、高い心の持ち主においては意志の謙遜が支配するとき、それは驚くべきことである。(387B)それゆえに、明かに権力を持つ者は、彼らが謙遜に識別するときに頂点に外側からいわば長い間設定されたものとして到達するということを考えなければならない。そして彼らは正しくこの徳によって主をどれほど喜ばせるだろうか。なぜなら、権力者たちが殆ど見いだすことができないものを権力者たちは主に犠牲として捧げるからである。実際、頂点を保持し、栄光を抑制することは最も単純な生活の仕方である。権力のうちにあって、しかし自分が権力ある者であることを知らないこと、善きものを豊に与えるために自分に力があることを知らないこと、有害なものを攻撃するために強い力を持っているすべてのものを無視すること。それゆえに、そのようなことについて正当に次のように言われている。「まことに神は力強く、たゆむことなく、力強く、知恵に満ちておられる」(ヨブxxxvi,5)。もちろん、彼は神を模倣しようと望む。神は権力を嫌悪され、他者の利益のために熱心であられる。そしてご自分の賛美に高ぶられずに支配なさる。他の者に先んじて利益になることを欲しられるが支配することを欲しられない。(837C)実際、それは興奮の高慢であり、力の秩序ではないし、非難されることである。神は権力を分配されるが、しかし我々の精神の悪意は権力の高慢を見いだす。それゆえに、我々自身から集めたものを取り上げよう。そして神によって我々が豊に所有しているものは善いものなのである。」

第4章 忠告を与える王はいかに振る舞わなければならないか

 アンブロシウスは『義務論』において(第2巻、第17章)こう述べている。「他人に忠告を与える者は、善い行為の模範のために教えにおいて、完全さにおいて、荘重さにおいて他人に自分自身の形を与えるような者、彼の言葉が健全で、そして非難の余地がなく、助言が有益で、生活が誠実で、知恵が適切であるような者でなければならない(同書)。それ故に、そのような者はいかなる暗いもの、(837D)いかなる欺瞞、いかなる誤謬、彼の生活や行状を反駁するいかなる見せかけ、助言を求める者たちを逸脱させるいかなる恥知らず、いかなる悪意も持ってはならない。実際、避けられる他の人々がおり、軽蔑される他の人々がいる。我々は、もし助言を受ける者が信仰において疑わしいならば、金銭に貪欲で、金銭によって動かされるならば、害を与え得る人々、有害な行動の中をはいまわることができる悪意のある人々を避けよう。もし彼が不正な人間であるならば、彼は避けられ、退けられる。実際、快楽的な人、自制心に欠ける者は、たとい彼が悪行に関係がなくても、貪欲で、醜い物質的利益を欲する人であれば、その人は軽蔑される。実際、勤勉な模範は、労働の結果を消費することが出来る、(838A)自らに無気力と怠惰を与えた精神によって配慮と心配を受けるだろうか。(cap.12)それゆえに、獲得すべき忠告において一般に生活の良さ、徳のしるし、善意の使用、質素(他の場合、礼儀正しさ)の恵みが結び付くということに我々は注意しよう。実際、誰がゴミの中に泉を求めるだろうか。誰が泥の混じった水から飲み水を求めるだろうか。それゆえに、放蕩の生があるところには不節制、悪徳の混乱がある。誰がそこから自分のために何かを取り入れようと考えるだろうか。誰が道徳のcollluvionem を軽蔑しないであろうか。誰が彼の生の無益さを見ている他者の有益な根拠を判断するのか。更に、誰が悪しき者、悪意のある者、悪習に満ちた者、害悪を為す準備のできた者を逃れないであろうか。誰が彼を大いに努力して避けないであろうか。しかしながら実際、誰が忠告の援助のために教授を、しかし困難な接近によって、得ようと勤めるだろうか。ちょうどもし誰かが水の出る泉を塞ぐとすれば、その事は何に存するのだろうか。(838B)実際、もし彼が忠告を否定するとすれば、知恵を持つことは何の役に立つのだろうか。もしあなたが忠告の豊かさを締め出すならば、あなたは泉を閉じることになる。それは結果として他人の利益にもならないし、あなた自身にも有益ではない。しかし、思慮を持つ者についてもそれはきれいに当てはまり、悪徳の汚れによって思慮を汚すのである。そのことによってそれは水の出口を汚染する。生は相応わしくない精神を明らかにする。実際、あなたが劣った性格と見る人をどのように思慮によって優れた人と判断することができるのか。私が自分を委ねようと意図している人は私以上の者でなければならない。実際、自分自身に与えない忠告を私に与える人を私が信じ、そして自分自身に対して自由でない人が私を自由にすると私が信じることは適切なことであろうか。その人の魂を諸々の欲望は占領し、肉欲は征服し、貪欲は縛りつけ、情熱は混乱させ、恐れは揺り動かす。静かなものが何もないところで、どのようにして忠告の泉が可能であろうか。(838C)慈悲深い主が父祖に与えられた称賛すべき、私にとって驚くべき忠告も衝突を取り除く。」(cap.10)我々は最も思慮ある仕方で我々の責任を行使し、他のものからよりも忠告からもっと容易に要求する。しかし、忠実な忠告は正しいものよりも優れ、そしてしばしば最も知恵のあるものの才能よりも重い。実際、友人の与える傷は他人の接吻よりも有益である(箴xxvii,6)。次に、判断は正しい者に属するが、しかし議論は知恵ある者に属するから、論争の評価は前者のうちに、発明の才は後者のうちにある。もし両者が結合されたものならば、それは知恵の称賛と正義の愛によってすべての者から見られる大いなる忠告の健全さであろう。その結果すべての者は、そこにおいていずれの力もが結合されている人の知恵を聴きたいと望む(第8章)。それゆえに、賢慮と正義はその各々において求められる。そしてそれらは多くの人々から期待される。(838D)その結果それらが存在している人において、彼に信仰が与えられる。それは有益で忠実な忠告を欲する者に与えることができる。実際、誰が忠告を求める者自身が知っていることよりも自分は知らないと思っている者に自らを委ねるだろうか。それゆえに、忠告が求められる者は、それを求める者よりも優れていなければならないのである。実際、あなたが自分自身で理解しているよりもよりよくあることがらを識別できるとあなたが考えない人にあなたは何か相談するだろうか。もしあなたが才能の活発さ、精神の力強さと権威において優れている人を見出すならば、そして模範と規律とにおいてよく準備ができているほどに、彼がその人に近づいているならば、現在の危険は解消し、未来は予見し、脅威は命令し、議論は説明し、薬は時間において持続し、単に忠告するためにではなくて、(839A)また援助するためにも書かれるであろう。このように、忠告を求める者が言うように、こんな信仰がもたれるのである。「たとい彼によって悪いことが私に起こっても、私は堪えよう。」(シラxxii,31)それゆえに、我々はそのような人に我々の挨拶と名誉を委ねよう。彼は、上に我々が言ったように、正しくて思慮深い。実際、彼は正義を行い、その結果いかなる欺瞞の恐れもない。彼はまた思慮を行い、その結果いかなる誤謬の支持もないのである。しかしながら、我々は思慮ある人よりも正しい人をより容易に信じる。(第1巻、第30章)それゆえに、あなたが有益であって、有害ではないために善く意志し、そして思慮によって豊に与えることは美しい。なぜなら、もしあなたが贅沢な者に贅沢な濫費のために、不貞な者に不貞の報酬のために与えるべきだと考えるならば、それは善を行うことではなく、そこにはなんら善意は存在しない。実際、それは他人を害することであって、彼に有益なことではない。もしあなたが祖国に反して陰謀を企む者、教会を攻撃するふらちな者たちをあなたの支出で集めようとcnpiatする者を認容するならば、(839B)これは称賛すべき寛容さではない。もしあなたが寡婦や孤児たちに対して激しい口論によって争ったり、あるいはある種の力によって彼らの所有物をもぎ取ることを強制する者を助けるならば、たといそれが他者に豊かに与えられるとしても、その豊かさは善いものとされないし、誰かはもし彼が不正に要求して、正しく分配すべきであると考えるならば、他者から奪うことになるであろう。あのザアカイ(ルカxix)のように、おそらくもしあなたが騙し取っていたものを彼に先に返さないならば、氏族の成員の間の関係の欠陥も信仰の熱心さと信じる者の働きであなたは補償する。それゆえに、あなたの寛大さは基礎を持つであろう。あなたが信仰と比較するように、このことがまず求められるならば、あなたは捧げられたものを欺くことはない。」忠告においても助言者は同じように行為しなければならない。なぜなら、忠告のうちに最も大きな寛大さがあるからである。

第5章 もし支配の知識を持つ者が支配するならば、それ以上に幸福なことはない

 (839C)神の憐れみによって支配の知識を持つ者が支配することよりも人間的な事柄において幸福なことは何もないということは、アウグスティヌスの『神の国』という書物からも明かである。(第5巻、第24章):
 「真に敬虔を与えられて善く生活する者は、もし彼らが民を統治する知識を持っているならば、神の憐れみによって彼らが権力を持つよりも、人間的な事柄においてそれ以上に幸福なことは何もない。それゆえに我々はキリスト教の王たちを次のような場合に幸福だと言う。彼らが正しく支配するならば。彼らを高く持ち上げて尊敬する人々の言葉と極端にへりくだって挨拶をする人々の追従のなかでも褒めそやされることなく、自分が人間にしかすぎないことを憶えているならば。自分たちの権力を神の礼拝のために最大限に拡大すべく神の主権に仕える侍女とするならば。彼らが神を畏れ、愛し、礼拝するならば。彼らがそこでは[もう人々が]共同相続人になることを恐れることがないかの神の国を[この世の国よりも]いっそう愛するならば。彼らが罰するときは遅く、赦すときはすばやいならば。(839D)彼らが敵意から生まれる憎悪を堪能させるためにではなく、国家を支配し、維持するために懲戒を行うならば。彼らが不正を罰から免れさせるためにではなく、それを非難すべきだとする期待のために赦免を容認するならば。彼らが通常は厳格に下すことを強いられている判決を憐れみの優しさと溢れる好意によって釣り合うようにするならば。彼らにとって奢侈が自由人の地位にふさわしいものであることができればできるほど、いっそう統制のとれたものであるならば。彼らがどんな民族を支配するよりも[自分たちの]邪悪な欲望を支配することのほうをむしろ好むならば。そして彼らがこれらすべてのことを空しい誉れへの熱望のゆえにではなく、永遠の幸福への愛のゆえに行うならば。彼らが自分たちの罪のために謙遜、憐れみ、祈り、犠牲を神に捧げることを怠らないならば。(840A)私たちはこのようなキリスト教徒たる皇帝たちは、今のところは希望によって幸福であるが、私たちが待望しているものが到来した後では事柄それ自体によって幸福であろうと言うのである。」

第6章 善い王たちが長い間あまねく統治することは有益であること

 統治する者、そして彼らがその人々によって統治するその人々が、もし善良であるならば、長い間そしてあまねく統治することは有益であるということを聖アウグスティヌスは同じ書物の中で次のように言って、証明している。(第4巻、第3-4章)「もし真の神が礼拝され、正しい儀式と善い道徳とによって奉仕されるのであれば、善い人々が遠く広く長く支配することは有益である。そしてこのことは、彼らにとって有益である以上に、彼らによって支配される人々にとっても有益である。というのは、彼ら自身に関するかぎり、神の大いなる賜物である彼らの敬虔と誠直とは、彼らに真の幸福を得させるのに十分だからである。(840B)この真の幸福によって、彼らはこの人生を良く生き、またその後永遠の生命を得ることができるのである。したがってこの地上においては、善い人々の支配は彼ら自身に対してだけでなく、人間社会全体にとっても善いのである。しかるに悪人どもによる支配は[支配されている者よりも]、むしろ支配している者たちにとって有害である。彼らは[他の人々よりも]いっそう気ままに犯罪を犯し、自身たちの心を荒廃させているのである。しかし、彼らに奴隷的に従わせられている人々は、自分自身の不正によるほか、害を受けることはない。というのは、不正な主人たちによって正しい人々に課されたすべての害悪は、犯罪に対する罰ではなくて、有徳[であるか否かということ]の試験だからである。したがって、善人はたとえ奴隷として仕えていても自由である。だが悪人は、たとえ王として支配していても奴隷である。彼はひとりの人間の奴隷ではなくて、もっと悪いことには、[彼が持っている]悪徳と同じ数の主人たちに仕える奴隷なのである。聖書はこのような悪徳について論じて、次のように言っている、『なぜなら人は自分の征服者に奴隷として身を捧げるのであるから。』(iiペトii,19)こういうわけであるから、正義が欠けていれば、王国は大盗賊団以外の何であるか。」

(840C)第7章 戦争をすることそして王国を拡大する必要性はただ善い王たちを強いる

 戦争をすること、そして王国を拡大することは、必要によって善いと呼ばれていることはアウグスティヌスの『神の国』という書物から明らかである。(第4巻、第15章)「戦争をすること、また征服した民族の上に支配を拡大することは、悪人どもにとっては幸いであるが、善良な人々にとってはやむをえない[悪だ]と考えられる。しかるに、よこしまな者たちが正しい人々を支配することは、さらにいっそう悪いことであるから、このやむをえない悪が幸いだと言われたとしても、あながち不当ではないであろう。だが悪い隣人を戦いによって征服するよりも、善い隣人と協調して生きるほうが、いっそう幸福であることに疑いの余地はない。あなたが[戦争をして]勝つ相手をもつために、憎んだり恐れたりしうる相手をもちたいと願うことは、間違った願望である。」

第8章 戦争の準備態勢における王の熱心と軍隊のための勧告

 (840D)「戦争の準備状態における王の形とその軍隊の仕事の勧告を、主はモーセを通じて申命記の中で次のように言って示された、とアウグスティヌスは言っている。『右にも左にもそれることなく』と。(申xvii,20) 誰かがもし、王たちの王である主の御前でその熱心さによってその道を善く導くならば、彼は必ず彼の王国の最終的な平和を所有するであろう。それゆえに、そこでは直ぐ後に付け加えられる。『彼らはイスラエルの中で王位を長く保つことができる。』さらにもし彼が、右にも左にもそれるなという掟を守るならば、安全と平和の契約が喜ばしい勝利から得られるであろう。主は言われる。『あなたが敵に向かって出陣するとき、馬と戦車、(841A)また味方より多数の軍勢を見ても恐れてはならない。・・・あなたの神、主が共におられるからである。』(申xx,1)必要は戦争を作る。その結果、不和が鎮められ、平和が取り戻されることが可能である。それゆえに、王のこの熱心によって戦闘が遂行されるべきである。王は戦争が近づいたらその軍隊でユダの言葉をよりよい方向へと導かなければならない。こう言われている。『あなたは戦利品を望んではならない。なぜなら、それは我々に対する戦争だからである。』
(2マカxLix,17?)」

第9章 神の権威によって戦争を遂行した者たちは誤らなかったこと

 神の権威によって戦争を遂行した者たちが誤らなかったことをアウグスティヌスは序論のところで述べている。(lib.i,c.21)「この同じ神の権威は、人を殺してはならないということについて、いくつかの例外を置いた。その例外というのは、神が所定の律法によって、あるいは特定の時に特定の人に下された命令によって、殺すことを命じたもう場合である。(だがこの場合、その人自身の意志で殺すのではない。彼は、剣がそれを用いる者に対して道具であるように、彼に命ずる者に奉仕の義務を果たしているのである。それゆえ、神の命令によって戦争したり、または国家権力の行使者として、最も正しい理性の指図である国家の法律にしたがって犯罪人を死刑にする者たちは、『殺してはならない』(出xx,15)と言われるこの戒めに、決して反しているのではない。アブラハムは犯罪のゆえではなくて、むしろ従順のゆえに息子を殺そうとしたとき、残酷な罪を置かすという責めを負わなかっただけではなく、かえって敬虔ということで賞賛さえ受けたのである。(創xxii)またエフタは戦いに勝ってもどるとき、最初に出会った者を神に燔祭としてささげると誓っていたので、父親である彼に出会った娘を殺したが、このことが神の命令にかなうものであったか否かを尋ねるのは当然である。(士xi)またサムソンが家を倒して敵もろとも圧死したことは、彼をとおして奇跡を行なった御霊がひそかにこれを命じたという以外に弁護はされないのである。したがって、一般に正しい法律が、あるいは特別に正義の源である神ご自身が殺すことを命ずるこれらの場合を除いて、自分自身であれ、他のなんぴとであれ、人を殺す者はすべて人殺しの罪に巻き込まれるのである。」

第10章 戦争を指揮し、軍隊の下で戦った者たちは神によって嫌われないこと

 戦争を指揮し、軍隊の下で戦った者たちは神によって嫌われないということを、アウグスティヌスは再びボニファキウス宛ての書簡で次のように述べている。「戦争中の軍隊において戦う者は誰も神を喜ばせることはできないと考えてはならない。聖なるダビデは主がかくも大いなる証言を述べられた人々のうちに入っていた。彼の同時代の多くの正しい人々もまたその中に入っていた。主に次のように言ったかの百人隊長もまたその一人であった。『わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。また、部下に「これをしろ」と言えば、そのとおりにします。』彼について主はこう言われる。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』(マタviii,8-10)かのコルネリウスもまた彼らのうちの一人であった。天使が彼に送られてこう言った。『あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。』(使x,5)天使は、彼・コルネリウスに使徒聖ペトロのところへ行き、彼から為すべきことを聞くように命じた。使徒は(842A)、彼の所へ行くようにと、また宗教的な兵士を彼の所へ送った。主の先を歩く者であり、花婿の友である聖ヨハネのところへ来た時に洗礼を受けた人々もまた彼らのうちの一人である。彼らについて主ご自身がこう言っておられる。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」(マタxi,11)そして彼らは彼から彼らが何を為せばよいかを聴き、彼は彼らにこう言った。「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」(ルカiii,14)彼は何処ででも彼らに軍隊で軍務につくなとは禁じられなかったし、自分の給料で満足せよと命じられたのである。それゆえに、他の人々はあなたたちのために祈ることによって見えない敵に対して戦い、あなたたちは彼らのために戦うことによって見える野蛮人たちに対して働いているのである。一つの信仰が皆の中にあるように。なぜなら、それが殆ど働かされないときには、悪魔はより容易に彼らの天使たちに打ち勝つからである。それゆえに、あなたが戦うために武具を身に着けるとき、まずこのことを考えなさい。なぜなら、あなたの身体自身の力もまた神の恵みだからである。(842B)実際このように、あなたは神に反して為すことがないように、神の恵みについて考えなさい。実際、信仰はそれが伝播されるときは戦争が彼に対して行われる敵にも守られるべきであるのだから、まして彼のために戦われる友にはもっと守られるべきではなかろうか。神が必要性から解放し、平和のうちに保ってくださるように、意志は平和を、必要性は戦争を持つべきである。実際、平和が求められるのは戦争をするためではなくて、平和が達成されるために戦争が行われるのである。平和の利益のためにあなたが戦っている人々を勝利することによって導くように、あなたは戦うことによって平和をもたらす者であるように。主はこう言っておられる。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子とよばれる。」(マタV,9)しかしもし、人間の平和が死すべき者たちのはかない救いにとってかくも甘美なものであるならば、神の平和は天使たちの外的な救いにとってよりもさらに甘美ではないだろうか。それゆえに、意志ではなくて、必然性が戦う敵を破滅させるのである。ちょうど反逆する者や(842C)抵抗する者に暴力が加えられるように、征服された者や捕らえられた者には憐れみが与えられるべきである。それらの人において平和の情熱が最も恐れられない。」またヒエロニムスはこう言っている。「われわれは暦代誌のうちにイスラエルの子らが平和な精神で戦争に行ったということを読む。なぜなら、彼らは勝利する欲望のためにではなく、平和を獲得するために戦ったからである。」

第11章 たとい人間を殺しても、軍隊の権威に従う者は罪を犯すのではない

 軍隊の権威に従う者は、たとい人間を殺しても罪を犯すのではない。アウグスティヌスは『神の国』(第1巻第26章)で、次のように言っている。「実際、兵士が合法的に立てられたかぎりの権威に服して人を殺すとき、その国の法律が彼に殺人罪を負わせることはない。しかし彼がそうしないなら、かえって命令を放棄し軽視したという罪を負うことになるであろう。またもし、彼自身の意志と権威とによってそうしたのであれば、彼は人の血を流すという罪を犯したことになる。こういうわけで、彼は、命令を受けないで実行したときに罰せられるのと同じ理由で、命令を受けても実行しないなら罰せられるであろう。指揮官の命令に関して事情が以上のようだとすれば、まして創造主の命令に関してはいっそうそうである。それゆえ、自殺してはならないということを聞いている者も、その命令を軽視することの許されないかたが命じたもうた場合、自殺しても差し支えない。ただし、神の命令には不確実なことはないということを知らなければならない。わたしたちは他人の良心については、〔その人の言葉を〕耳で聞いて推察するだけであって、隠れたものについて判定を下す資格を持っていない。『人の内でなされていることは、その人の内にある人間の霊以外に、だれが知っているだろうか。』(1コリii,11)」

第12章 全能の神が望まれた者に戦争における勝利が与えられる

 戦争における勝利を全能の神から天使によって神が望まれる者に、そして神が義とされる者に与えられるということをアウグスティヌスは『神の国』において、次のように言って証明している。(第4巻、第17章)「『ユピテルが女神ヴィクトリアをつかわす。そしてヴィクトリアは、いわば神々〔たるユピテル〕に従って、彼が命じる者たちのもとに来て、彼らの陣営に加わるのだ』と。このことは、彼らが自分たちの考えにしたがって神々の王としてでっちあげている、あのユピテルについては真実であると言われないで、むしろあの世々の真の王〔キリスト〕についてあてはまる。なぜなら、この王は、何ら実体をもたないヴィクトリアをつかわさないで、自分の天使をつかわし、欲する者に勝利を得させたもうからである。そのはかりごとは隠れていることはできるが、不正ではありえないのである。」

第13章 戦争が行われる時神が立たれ、そして正しい側に勝利を準備されること

 戦争が行われる時、神が天を開いて立たれ、正しい側に勝利を準備されること、そして何かを特別の人々から要求なさらないということを、アウグスティヌスは次のように言って、ボニファキウス宛の書簡において、証明している。(書簡205)「あなたに有益な忠告を与えよう。(843B)手に武器を取れ。祈りは権威者の耳を打つ。というのは、戦争が行われる時は、神は心を開いてご覧になり、神が正しいと見られる側に勝利を与えられるからである。あなたは特別な人々から何かを要求されないし、徳の権威によって誇らないし、そしてあなたは内面的に敵を何ら支配しないであろう。」

第14章 もし神が兵士たちと共におられるならば、少数のゆえに怖じけづくべきではない

 もし主が兵士たちと共におられるならば、そしてゲデオンの頃の最も有名な戦争を主が命じられたとすれば、また次のように書かれている、マカバイ書とオロシウスの物語が証明しているとすれば、戦争においては多数を信じるべきでないが、また少数のゆえに怖じけづくべきではない(第11巻8第9章)。「ペルシャ人たちの王、クセルクセスは70万人の王国の兵士たち、鳥の嘴の形をした300隻の増援艦隊そして1200隻の艦船、(843C)数にして3000隻の輸送船を持っていたと言われる。正当にも不意の測り知れない数の軍勢によってもほとんど飲み尽くされない河川、ほとんど侵入されない土地、ほとんど航行しえない海が十分にあったと語られている。われわれの時代には信じられないこのようにおおきな軍勢−その数は今や星の数よりも厄介であり、その時はそれに取り巻かれていたのであるが−に、スパルタ人たちの王レオニダスは4000人の人間とともに狭いテルモピュライにおいて対峙した。しかるにクセルクセスは敵の数の少なさに慢心して、戦闘を決意し、戦闘開始を命じた。三日間継続して両軍の戦闘は行われず、一方の側の人民の虐殺があった。しかし、四日目にあらゆる方角から敵によって包囲されているのを見たとき、レオニダスは援軍に山の頂きへと撤退し、好機が到来するまで持ち堪えるように、激励した(843D)。スパルタ軍に別の幸運が近づくときには生命よりも祖国を大切にしなければならない、と。彼は援軍を派遣して、スパルタ人たちに栄光を最も重んじ、生命については何も望むべきではない、また敵や死期を恐れるべきではなく、夜が来たら陣営を破壊し、兵士を混ぜ、部隊を混乱させるべきである、と告げた。勝利者たちは敵の陣営において以外のどこにおいてもそれ以上に栄ある者であることはない。それゆえに彼らは、死ぬことを選ぶように説得され、あたかも彼ら自身その滅亡を追い払い、克服するかのように、将来の死の復讐のうちに武装させられる。驚くべきことに、600人の男たちが60万人の陣営を襲った。全陣営に大混乱が起こった。また(844A)スパルタ人自身はお互いに助け合った。スパルタ人たちは王を求めが、見つけることはできず、すべてのものを破壊し、打ち倒した。すべての陣営をへめぐり、死体のうづ高い堆積の間には人々を見出だすことはほとんどできなかった。明らかに勝利者たちは死以外のものを選ばなかったのである。

第15章 戦争において敵を殺した者たちのために犠牲が捧げられるべきこと

 戦争において忠実に戦って{敵を}殺した者たちのために、施し、祈りおよび聖体の捧げ物が信頼をもって捧げられなければならないということを聖書は次のように言って論証している。「最も剛毅な男ユダは、募金をして、1万2000ドラクメの銀を戦死者の罪のために捧げるためにエルサレムに送った。それは死者の復活のことを思う正しく宗教的な行為であった。」(マカバイ下、XII,43)多くの人々は、死者のために捧げ物を捧げることは空しくまた余計なことだと言うであろう。「だが彼は、敬虔な心を抱いて眠りについた人々のために備えられているすばらしい恵みに目を留めていた。その思いはまことに宗教的、かつ敬虔なものであった。そういうわけで、彼は死者が罪から解かれるよう彼らのために贖いのいけにえを献げたのである。」(同、45,46)

第16章 王国の王たちは主のために法律を制定することによって主に奉仕すべきこと

 われわれが先に言ったことにおいてばかりではなく、、主のために法律を制定することによって王たちは王たちの王である主に奉仕すべきであるということを、アウグスティヌスはボニファティウス宛ての書簡において次のように言って論証している。(『書簡』50)。「地上の王たちはまたキリストのために法律を制定することによってキリストに奉仕しなければならない。それゆえに、主に反して命じられることが、宗教的な厳格さによって禁じられ、罰せられることなしに、どのようにして王たちは恐れのうちに主に奉仕することがあろうか。なぜなら、彼はある仕方では、彼が人間であるがゆえに、別の仕方では彼がまた王であるがゆえに、神に奉仕しているからである。彼は人間であるがゆえに、信仰をもって生活することによって、神に奉仕するが、しかしまた王でもあるがゆえに、正しい法律を命じ、正義に反するものを禁じながら、正義に一致するものを精力的に定めることによって神に奉仕するのである。ちょうどエゼキヤが偶像の杜と神殿を、そして神の命令に反して建設された高い神殿を破壊することによって神に奉仕したように。(iv Reg.xxiii)。ちょうどヨシュアがそのような同じことを為すことによって、神に奉仕したように。(iv Reg.xxv)。ちょうどニネベ人たちの王が主を喜ばせるために町全体に強要することによって神に奉仕したように。(Jon.iii)。ちょうどダレイオスが偶像の破壊をダニエルの権力に委ねることによって神に奉仕したように。(ダニxiv)。ちょうどネブカドネツァルがその王国のうちに置かれたすべてのものを、神をののしることから恐るべき法律で禁止することによって神に奉仕したように。(ダニiii)。それゆえにこれらのことにおいて、王たちは彼らが王でなければ為すことができないことを、神に奉仕するために為すときに、彼らが王であるかぎりで、神に奉仕するのである。

第17章 正義を守るためにまた強制されるべきであるということ

 正義を守るためにまた強制されるべきであるということをアウグスティヌスはヴィンセンティウス宛ての書簡において、次のように言って論証している。(『書簡』48)。「『無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ』(ルカxiv,23)と家の主人が僕に言ったということをあなたが読む場合にも、また最初のサウロ、後のパウロ自身がキリストの大いなる暴力によって真理を認識し保持するように強制されたということを読む場合にも、あなたは誰も正義へと強制されてはならないと考えますか。(使徒ix)。そして、誰も彼よりもわれわれをよりよく愛することができない主ご自身がこのことを最も確実な実例によって為されたことをあなたが見る場合に、そして『父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない』(ヨハvi,44)とキリストが言われるのをあなたが聞く場合に、あなたは誤謬の破滅から解放されんがためにいかなる力も人間には禁じられてはならないと考えますか。このことは神の怒りの恐れによって神へと方向転換をするすべての人の心において起こることです。実際母なる教会は何であれ真なるそして正しいことを、たといどんなに辛くまた苦く感じられようとも、為すのであり、悪に悪を報いず、不正なる悪を取り去りながら規律の善を置くのである。(同上)。それゆえに、あなたは、各人が強制されるということを考えるべきではなくて、強制されるものがどのような性質のものであるか、それが善であるか悪であるか、を考えるべきでありそれによって各人が善良であるものが意に反したものであり得るかを考えるべきではなくて、こうむることを欲しないものを恐れながら、あるいは延期された熱烈さを除き去り、あるいは知られざる真理を認識するように強要され、恐れながら彼が対抗していた誤りを排斥し、彼が知らなかった真なるものを探求し、彼が欲しなかったことをやがては保持するように望むのである。思うに人に勝つことが人間の善ではなくて、欲している人間に真理が勝つことが人間にとって善である、というのは意に反した人間に真理が勝つことは人間にとって悪だからである。確かに真理がそれを否定する者にも、それに信頼する者にも勝つことは必然である。」この力強い強制について聖グレゴリウスも『説教』36において彼の最も甘美なそして豊かな流儀で語っている。それらは非常によく知られた講話に使用されて熟知されたものであるから、そして文章が長たらしくならないために、私はここではそれを省略しようと思う。

第18章 正義の愛によって不正なものを告訴する者はキリストに奉仕するということ

 不正な者たちや誤った者たちを訓育する規律もまたその憎しみの意趣あるいはその復讐の嫉妬によってではなく、正義の愛と神的な復讐によってキリストに奉仕するということを同じ聖アウグスティヌスは次のように言って論証している。(『ヴィンセンティウス宛ての書簡』48)。「真理が誤った者たちに告知されるとき、賢明な者には忠告は有益であるが、愚かな者には苦労は無益である。『神に由来しない権威はない。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。』(ロマxiii,1-3)。実際、権威は真理に好意をもっているある者を正し、矯正された人から称賛を得るか、真理に敵対する者に若干の点において粗暴であるか、冠を受けて勝利者となった者から称賛を得るかである。(『神の国』第1巻第5章)。われわれの教授(disciplina)のうちに敬虔な魂が怒るかどうかが問われてはならないのであって、何故怒るかが問われなければならない。それが悲しいかどうかではなくて、何故悲しいのかが、それが恐れているかどうかではなくて、何を恐れているのかが問われなければならないのである。実際、正されんがために罪人は怒りを受け、解放されんがために苦しむ者のために悲しまれ、滅びることのないように恐れによって試されるのだが、私は誰が健全な考察を非難するのか知らない。実際ストア派の憐れみを非難する習慣があるが、しかしかのストア派が人間を解放するために憐れみを脅かす方が災いを恐れるよりも遥かに誉むべきことであることか。」キケロがカエサリスにおいて次のように称賛していることは遥かに良いしまた人間的であり、敬虔な人々の感覚により合致するものである。彼はそこで次のように言っている。(Orat.pro Q.Lig.,c.12)。「あなたの徳のうちで憐れみよりも称賛すべきもの、好ましいものは他にない。しかし憐れみとは、他者の悲惨のいくぶんかをわれわれの心において共に感じることでないとすれば、何であろうか。何故なら、もしわれわれが援助することができるならば、われわれはいかなる場合にも強要されるからである。(compellimur)。しかるに、正義が保持されるために憐れみがこのように示されるとき、貧しい人々に施される場合にも、悔悟する者に認識される場合にも、この運動は理性に奉仕するのである。」

第19章 憐れみを持つことにおける区別について

 憐れみを持つことにおける区別についてアンブロシウスは『詩編講解』118 において次のように言っている。「憐れみは正しいものである。そしてまた憐れみは不正なものでもある。律法の書にはこう言われている。『彼に憐れみをかけてはならない』( 申xix,13)。そして王国の律法の書において預言者サウルは彼が神の律法を守ることを禁じた敵の王アガグが憐れまれたがゆえに、不興を招いた。(I Reg.xix)。もし誰か息子の掠奪者が哀願者に動かされ、その絶えざる涙によって動かされて、これまで掠奪を働く者の欲望を鼓舞していたのに、彼を解放しようと思ったならば、腐敗−それは大多数の者の腐敗を考えている者を解放する−が無垢なものを引き渡さないだろうか。確かに彼が剣を押し返し、束縛を解き放つとすれば、何故彼は隠れ場から解くのか。何故掠奪者のより慈悲深い方法によって可能な能力を彼は奪わないのか。彼は意志を奪うことはできなかったのか。更に二人のうち、一方は告訴者であり、被告人である。同数の訴訟によって始めから裁判する。他方は彼がもし証明しなかったならば、もし告訴人から反駁されなかったならば、裁判官は正義に属することに従わず、事柄に憐憫の情を起こす限り、是認する者を有罪と認め、あるいは証明することができない告訴人に好意を持っている限り、無罪の者に判決を下す。それゆえに、これは正しい憐れみとは言われ得ない。憐憫の情を起こすことが最も相応しい教会そのものにおいて、正義の形ができる限り、保持されなければならない。誰もが兄弟の交わりから遠ざけられることがないように。暫くの涙、そして備えられた時まで、あるいはまた多くの嘆きによって、長い時間をかけて求めなければならない交わりを、司祭の親切によって奪うことがないように。彼が一人の潔白な者に寛大であるとき、彼は多くの人々を失敗させるような影響を及ぼすのではないだろうか。実際、思いやりの能力は犯罪の教唆となる。神の言葉に従ってわれわれが知っているように、理性に従って憐れみが負債者に配分されるべきであるということが、このことによって言われているのである。もし医者自身が、内面に蛇の傷の痕跡を見出して、潰瘍の疾患がもっと広く広がらないように切除しなければならないときに、にもかかわらず、病人の涙の嘆願によって切除や焼却の企てから退き、メスで切開しなければならなかったところを薬剤で覆って、短時間の切開と焼却の苦痛のために身体全体が腐敗し、生命の利益を滅ぼすならば、それは無益な憐れみではないだろうか。それゆえに、司祭たちは正当に傷がもっと広がらないように、教会の身体全体から、良い医者のごとく、潜伏している罪の病毒を切り離し、暴かなければならないのであって、温存してはならない。なおそれを一つの排除すべきものだと考えないようなことがあってはならない。彼は教会から排除する多くのものを相応しいものとするのである。それゆえに、使徒パウロも次のように言って、神的な実例によってわれわれにこう奨励している。『だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。』(ロマxi,22)。」

第20章 君主あるいは裁判官には自由裁量によって寛大な処置を取ることが許される

 それゆえに、回心した者や悔い改めた者に寛大な処置をする裁判官による憐れみと正義のもとでは、君主あるいは裁判官には自由裁量によって寛大な処置を取ることが許される、ということを聖グレゴリウスは聖書についての説教において次のように論証している。(『説教』32)。「見よ、傲慢だった者がもしキリストへと回心して謙遜において豊かになるならば、彼自身を放棄したのである。もし放蕩な各人が節制のために生活を変えたならば、その人は彼がかつてあったものをいかなる場合にも拒絶したのである。もし貪欲な各人がすでに何かを得ようと努めることを放棄し、以前には他人から強奪した人が財産を贈与することを学んだならば、明らかにその人は自分自身を放棄したのである。確かに、彼自身は本性によって存在するが、しかし彼自身悪意によって存在するのではない。そのためにこう書かれている。「神に逆らう者は覆って滅びる。」(箴xii,7)。確かに回心した者は不信心な者ではないであろうが、それは彼らがまったくその本質においてそうではないからであり、しかしそれらがまったく不敬において罪でないからである。それゆえに、やがてわれわれはわれわれ自身を放棄するし、古さによってわれわれがそれであったものを避け、われわれが新しさによって呼ばれるものを頼りにするとき、やがてわれわれはわれわれ自身を拒絶する。パウロがどのように自分を拒絶したかを考えよう。彼はこう言った。『生きているのは、もはやわたしではありません。』(ガラii, 20)。確かに彼は荒れ狂った迫害者を滅ぼして、敬虔な説教者として生き始めた。もし彼自身がそうであったならば、以前は確かにそうではなかっただろう。しかし自ら生きることを拒絶する者は彼がどこからの者であるかを告げる。それは叫ぶ真理の教説による聖なる言葉である。彼は直ぐにこう付け加える。『キリストがわたしの内に生きておられるのです。』またもし彼があからさまにこう言ったとしたらどうであろうか。実際、私は私自身から葬り去られた。なぜなら肉においては私は生きていないからであり、キリストにおいて霊的に生きているからである、と。それゆえに、それは真理そのものが言ったのである。それはこう言っている。『わたしについて来たい者は自分を捨てなさい』(マタxvi,24)。自分自身から離れる人以外には彼自身を越えておられる方へと近づくことはできないからである。またもし彼が存在するものを賞賛することを知らないならば、彼は彼自身を越えるものを理解することはできない。」しかし恐らくだれかがこう言うだろう。自分を正し−perpecero−、矯正のうちにとどまった人がいるかどうか、どうして私は知るだろうか。このように言う人は主の考え方に帰るであろう。もし福音書から見て、二番目そして三番目に告訴されたならば、彼は自分を矯正しなかったであろう。彼は彼から異教徒や収税吏のように思われることを教えられ、彼が自分の救いに意を用いることを望まない人が平和のうちに生きることを欲している人々を害することができないように、君主からの律法の厳しさを必ず耐えるように強制される。しかし、もし誰かが、主がわれわれのうちの罪人には単に七回だけではなくて七の七十倍が赦されるべきだと教えられたということを、この章によって反対しようと望んだとすれば、彼はこのことがわれわれによって不正な者たちに命じられているのでああって、神によってではないということを知るであろう。というのは、聖アウグスティヌスの『命題集』(210)について、プロスペルはこう言っているからである。「罪は小さなものも大きなものも罰なしのものであることはできない。というのはそれは悔い改める人によって、あるいは裁かれる神によって、罰されるからである。しかし、人間の回心が先行するならば、神の復讐はやむのである。あるいは神は告白する人々を大切にされ、自分自身を裁く人々を裁かれないからである。」

第21章 君主は犯罪者の何であれ賄賂あるいはお世辞によって欺かれないように恐れなければならない

 君主は列王記の物語のうちに読まれること、すなわち、何であれ犯罪者の賄賂あるいはお世辞によって誘惑され、あるいはお世辞によって欺かれないように、恐れなければならない。「ベン・ハダドも逃げてこの町に入り、部屋から部屋へと逃げ回った。家臣たちは彼に行った。『イスラエルの家の王は、慈しみ深い王であると聞いています。腰に粗布をを巻き、首に縄をつけてイスラエルの王のもとに出て行きましょう。あなたの命を助けてくれるかもしれません。』こうして彼らは腰に粗布を巻き、首に縄をつけてイスラエルの王の前に出て、こう言った。『あなたの僕であるベン。ハダドは、命を助けてほしいと願っております。』アハブは、『王は生き延びておられたか。彼はわたしの兄弟である』と言った。その人々は良い兆しがあると見て、素早くその言葉をとらえ、『ベン・ハダドはあなたの兄弟です』と答えた。アハブは、『行って、彼を連れて来なさい』と言った。ベン・ハダドが出て来ると、アハブは彼を自分の車に乗せた。ベン・ハダドはアハブに言った。『わたしの父があなたの父から奪った町々をお返しいたします。また、わたしの父がサマリアで行ったように、あなたもダマスコで市場を開いてください。』アハブは言った。『では、協定を結んだうえで、あなたを帰国させよう。』アハブはベン・ハダドと協定を結び、彼を帰国させた。預言者の仲間の一人が主の言葉に従って隣人に、『わたしを打て』と言ったが、隣人は打つのを拒んだ。その人は隣人に、『あなたは主の御声に聞き従わなかったので、わたしのもとから立ち去ると、ライオンに殺される』と言った。隣人は彼のそばから立ち去ると、果たしてライオンに出会い、殺されてしまった。そのひとはもう一人の隣人を見つけ、『わたしを打て』と言った。この隣人は彼を打ち、傷を負わせた。この預言者は立ち去り、道で王を待った。彼は目に包帯をして、だれだか分からないようにした。王が通りかかったとき、彼は王に向かって叫んだ。『僕が戦場に出て行きますと、ある人が戦列を離れて一人の男をわたしのところに連れて来て、「この男を見張っておれ。もし逃がしたら、お前はこの男の命の代わりに自分の命を差し出すか、銀1キカルかを払え」と言いました。ところが、僕があれこれしているうちに、その男はいなくなってしまいました。』イスラエルの王は、『お前の裁きは、お前が自ら決定したとおりになるはずだ』と答えた。預言者が急いで目から包帯を取り去ると、彼が預言者の一人であることが、イスラエルの王にも分かった。預言者は王に言った。「主はこう言われる。『わたしが滅ぼし去るように定めた人物をあなたの手もとから逃がしたのだから、あなたの命が彼の命に代わり、あなたの民が彼の民に代わる。』」(王上xx,30-42)

第22章 君主にとっては犯罪者と友情を結ぶことは避けなければならない

 しかし君主にとってはこのような犯罪者の友情を結ぶこと、あるいはこのように友誼を保つことは避けるべきである。聖グレゴリウスはこう言っている。(『牧会論』第3部第23章)。「われわれが不注意に友情を結ぶとき、われわれは多くの罪に縛りつけられる。それゆえに、ヨシャファト−伝令使の以前の生活からこのように高められた−はアハブから、王の友情を大方滅ぼして、非難されたのである。主から預言者を通して彼に次のように言われている。『悪人を助け、主を憎む者の友になるとは何事ですか。そのため主の怒りがあなたに下ります。しかしあなたには良い事も見られます。あなたはこの地からユダを除き去り…』(代下xix,2,3)。実際、最も正しい者と、彼自身と彼は一致しない。不正な者たちの友情にわれわれの生活は一致するのである。」自らを全部内的な平和の契約へと結びつけたあのダビデは悪い強調をおそれなかったということを、次のようにいって、証明している。「神よ、あなたを憎む者をわたしも憎み、あなたに立..ち向かう者を忌むべきものとし、激しい憎しみをもって彼らを憎み、彼らをわたしの敵とします。」(詩cxxxviii,21,22)。また、彼は神の敵たちを完全な憎しみによって憎み、そのために為されたことを喜び、彼らの為すことを非難し、悪しき慣習を防止し、生命に役立つのである。

第23章 聖人たちは恐怖を追い払い、罪ある者たちを死によって正当に罰するということ

 実際、聖人たちが、単にそのような友情を避けるだけではなく、生きている者たちから恐怖を追い払い、また罪ある者たちを死によって正当に罰するということは、聖アウグスティヌスが『主の山上の説教』において次のように言って論証している通りである。(第1巻、第20章)。「霊魂を身体から分離するこの死が何ら恐れるべきものではないということを既に最もよく知っていた偉大な聖人たちは、死を恐れていた人々の気持ちに一致して、ある罪を死によって罰したが、それは生きている人々に有益な恐れが与えられるから、また死によって罰せられる人々に害を与えるのは死そのものではなくて、罪であり、罪はもし彼らが生き続けるならばますます大きなものとなり得るからである。彼らは神がそのような判断力を与えられたものによってほとんど判断しなかった。それゆえに、エリヤは多くの人々を死によって、彼自身の手で(王上xviii,40)、また神によって火で成就して(王下i,10)、苦しめたのである。他の多くの人々、また神的な偉大な人々は人間的な事柄によって鎮める同じ精神によってはほとんど為さなかった。/そして弟子たちがこのエリヤからひとつの実例を引用したとき、−主を歓待しない人々を焼き尽くすために天から火を呼びおろす力を彼ら自身にも主が与えられるために、エリヤによって何が為されたかを主に指摘しながら−、主が彼らのうちに非難されたのは、聖なる預言者の実例ではなくて、復讐をすることについての彼らの無知、まだ初歩的である彼らの知識なのである。主は、彼らが愛において矯正を欲しているのではなく、憎しみにおいて復讐を欲しているのを御覧になったのである。それゆえに、主が弟子たちに自分自身と同じように隣人を愛するとはどういうことであるかを教えられた後で、そして聖霊が、主の御昇天の後の10日間の終りに、主が約束されたように(使ii,1-4)、注ぎだされたときに、旧約聖書においてよりは遥かにまれではあったが、そのような復讐の行為はなくはなかった。なぜなら、そこでは、大部分、彼らは奴隷として火によって制圧されていたからである。しかしここでは大抵は自由人として愛によって養われたからである。使徒言行録のうちに読むように、使徒ペトロの言葉においてもまた、アナニアとその妻は倒れて死に、再び生き返らずに葬られた。しかし、旧約聖書に反対している異端者たちがこの書物を信用しないとすれば、使徒パウロのことを考えさせよう。彼らは、『霊魂が救われるために』(1コリv,5)肉の滅亡のために彼がサタンに引き渡したある罪人に関して語りながら、その書物をわれわれの考えに沿って読む。そしてもし彼らがここで死を理解しようとしないならば、(恐らく不確かだから)ある種のあるいは他の種類の罰(復讐)はサタンの手段によって使徒によって与えられたのだということを彼らに理解させよう。そしてこのことを彼が憎しみにおいてではなく、愛において為したのだということは『霊魂が救われるために』という付加によって明らかにされる。あるいは、彼ら自身が大きな権威を与えているあれらの書物においてわれわれが言っていること、−そこにおいては使徒トマスが自分を手の平で打った人に非常に残酷な形での死の罰(ライオンによって殺された後にその身体の残りの部分から引きちぎられた彼の手を一匹の犬が使徒が食事をしている食卓のところへくわえてくる)を祈り、一方でにもかかわらずその人の霊魂を、それが来世で救われるようにと神に委ねていると書かれている−を彼に注意させよう。われわれにとってこの書物を信じないことは容認されることである。なぜなら、それはカトリックの正典の中にはないからである。しかしながら、彼らはいずれもそれを読み、そしてそれを全く堕落していないそして全く真実なものとして称賛している。彼らは旧約聖書の中にある身体的な罰に対して、いかなる精神において、そして時間の秩序正しい分配におけるいかなる段階においてそれらが課されたかに全く無知でありながら、恐ろしく怒った(それがいかに盲目であるかを私は知らない)。それゆえに、罰によって償われる損害のこの種類において、そのような尺度はキリスト者たちによって保存されるであろう。受けた損害に、精神は憎しみにまでは登らず、病弱に同情してそれ以上に耐える準備ができているであろう。また精神は矯正を無視しないであろう。精神は忠告によってか、権威によってかあるいは力の行使によってか、その矯正を採用するのである。」

第24章 殺人は常に犯罪的であるのではないということ

 人を殺すことは常に犯罪的ではなく、律法によらずに殺そうとする奸策が犯罪的である(なぜなら、時折正しく為される場合もあるから、そのような場合には為されたという事実ではなくて、悪に同意する精神が断罪されるからである)ということを、アウグスティヌスは『神の国』において次のように言って、論証している。「もし誰かが悪しくあることを良いことであると考え、そう考えることによって悪を為したとすれば、彼は確かに罪を犯す。そして各人が悪しく為されたことを良く為されたと考える場合にはすべては無知の罪である。人を殺すことについて、ある人が彼らから殺されないようにという忠告は私の気に入らない、恐らく彼が兵士でなければ、あるいは国家の実行によって保たれるであろう。彼は自分自身のためにこれを為すのではなくて、他者のため、あるいは都市のために為すのである。そこではそれ自身でもあるが、彼の人格に合っているとしても、正当な権力によって受け入れられたものである。しかし、悪を為さないようにある恐怖によって突き倒される人は恐らく彼ら自身あることを実現するであろう。しかしそのためにこう言われている。「悪人に手向かってはならない」(マタv,39)。人々の矯正を我々が無視しないために、他人の悪によって魂を楽しませる復讐をあなたたちは喜んではならない。」

第25章 王は悪人たちの矯正者でなければならない

 それゆえに聖キプリアヌスは『濫用の段階』の第九章においてこう言っている。「王は悪人たちの矯正者でなければならない。窃盗を禁止し、姦淫を罰し、不敬な者を地上から滅ぼし、親殺しや偽誓者たちに生きることを許してはならない。」彼はまた次のように言っている。(第11章)。「濫用の第十一の段階は規律のない大衆であり、彼らは規律の訓練に従わず、規律の厳しさなしに神を逃れない。実際下着が身体全体を頭以外は覆い隠すように、規律はキリスト以外の全教会を覆い隠す。というのは、教会はその規律の下で踏まれ、飾られるからである。実際、繋がった下着全体は全体的に上から来ている。というのは同じ教会に規律は主によって天から与えられ、新たにされているからである。実際、キリストの身体の下着は教会の規律である。しかるに、規律の外にいる者はキリストの身体に敵意を抱く者である。それゆえに、われわれは規律を乱さずに規律から選ばれるのである。われわれは何であれキリストの掟から解き放たれるのではなく、各人は彼が呼ばれた方において、彼において神にとどまるのである。」

第26章 罪人たちの罰のゆえに君主の剣は神から許されているということ

 そしてここに聖インノケンティウスの『Ad Exsuperium Tolosanum episco- pum in Decretis』がある。「洗礼の後に管理をした人々について、彼らが圧迫だけを行ったのか、それとも死罪宣告をも下したのかが探求されるべきである。それらのことについてはわれわれはもっと多くのものからは明示されたものを何も読まない。実際、それらは神からこれらの権力が認められたということ、そして罪人たちの罰のゆえに剣が許されたということ、また神の務めがこのような処罰者に与えられたということに言及している。それゆえに、主の権威によってそれが認められたと彼らが見ているという事実を彼らはどのように非難するのだろうか。それゆえに、これまで守られるものとして我々がこのように保持しているものについて、規律を滅ぼさないように、あるいは主の権威の反して来ると我々が見られないようにしよう。しかし、彼の管理のすべては理性において彼自身に返すべきものとして保持されるであろう。」

第27章 正しい君主に由来する法律はどこでも守られるべきであるということ

 聖インノケンティウスは彼の同じ『Decretis』において(第11書簡)こう言っている。「懇願をする者たちに自由が認められるかどうか、あなたは探知することを欲した。いかなる場合にも洗礼の再生の後には君主からある者の死を要求する、あるいは犯罪者の血を要求する。君主たちは事柄を無条件には決して認めず、裁判官たちに対して罪そのものあるいは過失を常に軽減した。原因を探求し、誰であろうと探求者に派遣された人が守られるためである。赦免であれ、あるいは断罪であれ、それは問題の性質に従って述べられる。そしてもし、法律の権威が不敬な者たちにおいて行使されるならば、それは職務怠慢な独裁者であろう。」そしてここに聖キプリアヌスは次のように述べる。(『世紀の濫用』第12章)「第12番目の濫用の段階は法律を持たない民衆である。彼らは命じられているのに、裁可された法律を軽蔑し、様々の誤謬の道を歩みながら破滅の罠に陥る。右にも左にも逸れない王の道、すなわち神の律法が怠慢によってなおざりにされるとき、至る所で多くの破滅の道が歩まれる。それゆえに律法のない民はキリストのない民である。それゆえに我々はキリストなしにはこのはかない時のうちには存在しない。我々なしにキリストが未来において存在するということが始まらないように。」そして神の力、神の知恵たるキリストは言われる。「わたしによって王は君臨し、支配者は正しい掟を定める。」(箴viii,15)。また聖アウグスティヌスは『真なる宗教』において君主の法律が守られるべきであることを次のように説明している。(第30章)「これらの時間的な法律においては、たとえそれらについて人間がそれらを制定するときに判断するとしても、にもかかわらずそれらが制定され、確かなものとされたときに、それは判断を下すこと自体について判断されることを許さず、法自身に従って判断されるのである。」それゆえに、民衆によって告知された正しい法律であれ、正しい君主によって理性にかなってそうされたものであれ、どこにおいてもそれらの法律は守られるべきである。

第28章 自分の罪のために罰せられるべき人々は時には憐れみによって寛大に配慮されるべきであるということ

 自分の罪のために罰せられるべき人々もまた、もし必要の時に、そして切迫した危険の瞬間、あるいは最後の呼吸において、悔恨の保護、そして続いて和解の保護を彼らが求めるならば、その満足は禁じられるべきではなく、また和解は拒絶されるべきでもない。そして聖なる教会法、使徒の座の決定は聖なる権威によって福音的、使徒的、そして預言者的なものを明らかに示している。というのは神の憐れみに我々は尺度を置くこともできなければ、時間を制限することもできないからである。神の憐れみの前では真の告白は赦免のいかなる阻止をも受けないのである。神の霊はそのことを預言者を通してこう言っている。間もなくあなたが呻くために、あなたは救われるであろう。また同じ箇所ではこう言われている。あなたが義とされるために最初にあなたの罪を言い表せ。「慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。」(詩cxxix,7)

第29章 王はその近親者の悪しき行いを為す者を肉の情によって大切にしてはならないということ

 王が王の職務のために、近親者の親しみによって誰であろうと、神に反して、聖なる教会、また国家に悪を為す者を肉の情によって大切にしてはならないということは、こう言われている主の次の言葉から明らかである。「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(ルカxiv,26)。『聖書に関する説教』において聖グレゴリウスは次のように言ってそのことを確証している。(『説教』36)。「もし我々が掟の力を熟考するならば、思慮によって二つのうちのいずれかを為すことができる。すなわち、肉の血縁関係によって我々に結びつけられている者たちを、そして近しき者たちを我々が調べて判決を下すか、また神の道における反対者を甘受し、憎みそして逃れることによって、知らぬかのいずれかである。実際、憎しみによって愛されるのと同様に、肉的には知恵があるが悪い者は我々に無理に迫るが、聞かれることはない。しかし、主はこの憎しみを近親者に関して愛情のなさから示そうとして論じられたのではなく、愛からそうされたのである。それは主が直ぐに次のように言って、付け加えられたのを見ても分かる。『更に自分の命であろうとも』と。それゆえに、近親者を憎むこと、我々の魂をも憎むことを命じられているのである。それゆえに、愛することによって近親者を憎まなければならないことは明らかである。彼は自分自身を憎むように、近親者を憎むのである。なぜかといえば、我々がその肉的な欲望によって安心するのはなく、その欲求を抑え、その快楽に逆らうとき、そのとき我々が我々の魂を憎むのは良いことであるからである。それゆえに憎しみによって愛されるのと同様に、彼は軽蔑されてより良いものへと導かれるのである。確かに我々が近親者に憎しみの分別をこのように示さなければならないのは、彼らのうちにあるところのものを我々が愛し、神の旅程において我々を妨害するものに我々が憎しみを持つためである。(同書)。それゆえにこの憎しみの区別から我々は形を近親者の憎しみへと関係づけるであろう。この世においては誰でも敵は愛されるべきであるが、しかし神の道において反対者は近親者であろうとも、愛されない。実際誰であれ既に永遠を求める者は神のために彼が求めているもののうちに、父を除いて、母を除いて、妻を除いて、子供を除いて、親族を除いて、自分自身を除いて、生まれなければならない。そのことによって神をより真実に知り、その原因において神より以外の誰をも認めないためである。確かに肉の情が精神の注意を分散させ、その眼を曇らせることは多い。しかしながら、もし我々が彼らを圧迫しながら説服するならば、我々は犯罪者を決して許さない。それゆえに近親者は愛されるべきものである。愛はすべての人々、隣人たち、そして外国人に与えられるべきである。しかしながら、同じ愛のために神の愛から方向転換すべきではない。(同書)。このように確かに信仰者は誰でも、愛によって近親者に同情し、しかしにもかかわらず同情によって神の道から逸れることのないように、聖なる教会の内部にとどまらなければならないのである。」ここに聖ヨハネ・クリゾストムスはマタイ聖福音書の言葉「もし右の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。」(マタv,29)について、次のように言っている。(『説教』17)。「もし主が肢体について語られたとするならば、主は決して一つについて、あるいは右の目についてではなくて、無差別に両方の目について言われたのである。実際、右の目によってつまづく人は明らかに左の目によってもどうして害を受けないことがあろうか。それゆえに、右の部分の目もまたどうして原因に反するものであろうか。すなわち、あなたが肢体についてではなくて、むしろ友誼によって我々に結びつけられているものついて学ぶためである。そしてそれゆえにもしあなたが、代わりに目を楽しませるためにだけ、ある人を愛するならば、あるいはあの右の手を場所的に引っ張るために、そのようにあなたにとって誰かが有益であるとあなたは思うのである。そしてにもかかわらず、あなたの霊魂にとってはそれらは煩わすものであり、それらをあなたから切り離しなさい。そしてもっと入念にあの話自体の力を吟味しなさい。実際、主はそのような関係から離れよとは言われなかったのであって、最大の分離に言及されながら、「えぐり出して捨ててしまいなさい」と言われるのである。次に、主は十分に厳しいことを命じられたので、良い部分と悪い部分における言葉の比喩を注意しながら、両方の厳しさそのものから利益を示される。「体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」(マタv,29)。実際なぜパウロは破門されることを望んだのだろうか。(ロマix)。そこからいかなる場合にも何の利益も受けないためではなく、救いにおいて他の利益を得るためなのである。実際、そのこと自体を兄弟の悪の原因から理解しなさい。両方とも罪があるが、そのゆえに主はただ「えぐり出せ」とだけは言われずに、「そして投げ捨ててしまいなさい」と言われる。それは、もしこのようなものが保たれたならば、あなたが決して両方ともを受けとらないためである。実際、このような仕方で、そしてあのもっと大きな罪からあなたは解放され、そして危険から救われるだろう。しかし、この立法のもっと明らかな利益をあなたが理解するために、もしよければ、身体においてもまた原因と同様に我々は言われたことを吟味することにしよう。実際もし選択が与えられるならば、二つのうち一つが必要であろう。すなわち、両方の目で落とし穴に落ち、そしておなじその所で滅ぶか、あるいは一方の目なしで残りの目が身体を救うかのいずれかの場合、あなたは二つの場合から第二の場合を保持することを選ぶとは考えないだろうか。そしてそのことはすべてのもののうちで何の曖昧さもなしに明らかなことである。なぜならこれは目を憎むことではなく、残る身体を愛することだからである。」そして聖ヒエロニムスは『マタイ福音書注解』において、次のように言われる同じ主の言葉「もし、右の目があなたをつまづかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい」について、次のように述べている。「右の目、そして右の手において、兄弟、妻、子供、姻戚そして親族の情愛が示されている。もし真なる光を観想するために、彼らが我々に妨害であると考えるならば、我々は他のものを得ようと望んでいる間に自分自身を永遠に失ってしまうことがないように、そのような行為を断ち切らなければならない。それゆえに、その魂が主の礼拝に捧げられた大司祭についても次のように言われているのである。「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない。」(レビxxi,11)。すなわち、彼はその礼拝に捧げられているもの以外にはいかなる情愛をも知るべきではないのである。

第30章 子供や親族を、もし彼らが罪を犯したならば、どの程度大切にすべきであるか

 しかし、君主は近親者の関係に注意しなければならない。また他の人々との関係にも注意しなければならない。こう書かれている通りである。「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」(箴xxviii,13)。なぜなら、次のように書かれているからである。「悪から離れ、善を行え、そして世々に至るまで住め。」(詩xxxi,27?)。というのは白状し、悔い改める人にとって、悔い改める者が悔い改めるべきことを為さないで、改善の事実が伴わないならば、ただ一回の告白だけでは十分ではないからである。後に預言者から「あなたの罪は取り除かれた」(サム下xii,13)と聴いた聖なるダビデのように、彼は罪の改善においてより謙遜な者とされた。そのように彼はパンに代えて灰を食べ、飲み物には涙を混ぜた。(詩cii,10)。聖グレゴリウスが言うように(『道徳論』第8巻、第1章)、「悪しき人々もしばしば罪を告白するが、しかし罪について考えることを軽視する。それに対して選ばれた人々は告白の声によって明らかにした彼らの罪を厳しい吟味の嘆きによって追及する。それゆえに預言者もまた自分の罪を公に知らせると断言した後に、またそれらの罪について考えることを自分に課した。そしてもし彼が公然と次のように言って告白するならば:このように、悲嘆の棘から免れて他の霊によって決して歩き回ることがないように、彼は罪を舌を使って話す。しかし、罪を語りながら私は傷を露にする。なぜなら、罪を矯正のためと考えながら、私は悲嘆の薬による傷の回復を求めるからである。実際、行った悪を挿入するが、しかし挿入したものを嘆くことを拒絶する者は、いわば布によって覆われた傷を露わにはするが、しかし精神が麻痺していて、傷に薬を塗らないのである。それゆえに、告白の声はただ、悲嘆が取り除かれるためにのみ必要であって、それは露わにされそして無視された傷が、すでに人間的な知識によってもっと気ままに触れられ、もっと悪く腐敗しないためである。それゆえに、詩編作者は心の傷を単に露わにしたばかりでなく、次のように言って、露わにしたものに悲嘆の薬をも塗ったのである。「わたしは自分の罪悪を言い表そうとして、犯した過ちのゆえに苦悩しています。(cogitabo)」(詩xxxviii,19)。実際、彼は言い表すことによって、隠された罪を露わにする。しかし、思いめぐらすことによって(cogitando)、彼は傷の薬以外の何を塗るのだろうか。しかし、精神が打ち砕かれ、そして不安になってその罰を思いめぐらし、自分自身のための戦いが自分自身に反して起こる。実際、自分を悔い改めの嘆きへと促すときに、彼は自分自身を隠れた非難によって引き裂く。」君主はこのような仕方で、子供たちあるいは親族を、もし彼らが罪を犯したならば、再認識する者また悔い改める者たちとして大切にしなければならない。他の点については、罪人たちにおける罪の様式に応じて罰を与えなければならない。使徒パウロが言っているように、もし父なる神が「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡され、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜った」(ロマviii,32)のであり、そしてにもかかわらず、御父が御受難へと遣わされた御子を、同じ使徒が言っているように、御自分を教会のために引き渡された御子を(エフェv)、愛しておられたとすれば、普遍的教会の平和と普遍的な堅固さ、愛と愛された者たち、しかしそれ以上に堕落した子供たちを優先する必要がある。

第31章 最大のそして公的な犯罪には赦免があり得るべきか

 しかし、最大のそして公的な犯罪に関して心から自分を軽蔑せず、罪における弁明の理由を弁護しようとして、自分の罪を擁護することに心を砕く者、このような者には憐れみは与えられるべきではない。それというのは、聖チェレスティヌスがネストリウス宛の書簡において次のように言って、明らかにしているように、慈悲があたえられることは決して最重要ではないからである。(『書簡』4)。「私の良き主に忠実な僕である私は、預言者が彼らを憎しみによって憎むことを完全に保証した(詩cxxxviii)がゆえに、敵たちを十分に追及する。更に私は、私がこの力で顧みる者を大切にしないようにと、他人が語っていたのを思い出す。私の希望のためにすべてが私から取り去られるために彼が活動するときに、私は名誉のあるものをその人に保持すべきであろうか。聖書そのもののうちに主の言葉があり、そこではこう言われている。父、母、子供たち、ある親族を自分よりも先にしてはならない。(マタxxix)。何故かといえば、親子兄弟の情愛はしばしばそのようなものであるから。そこから、肉の情が勝ち、神であるあの愛よりも身体的な愛が優先されるとき、不敬虔が生まれるのである。」また聖グレゴリウスは『牧会論』(第2部第6章)において次のように言っている。「エリは誤った親子の情愛に打ち負かされて、罪を犯した息子たちを殺すことを望まなかったので、厳しい裁判官のもとに息子たちの信用しやすい判決とともに押しやった。神の声によって彼にこう告げられた。『あなたは自分の息子をわたしよりも大事にしている』(サム上ii,29)。実際、聖書にはエリが自分の息子たちを確かに言葉では非難したが、そうすべきであった分別の厳しさによって矯正しなかったと書かれている。それゆえに息子たち自身は戦において殺され、神の箱は掠奪され、民の大虐殺がおこなわれ、そしてエリ自身その座席から落ち、首を折って、司祭の首位の座と共にその命をも失った。」また聖アウグスティヌスはマケドニウス宛の書簡において(『書簡』54)次のように言っている。「悪い者たちの間で無罪がすべてであるために、そして悪い者たち自身のうちで、重い刑罰を恐れて能力が抑制される間に、神に呼びかけられて意志が癒されるために、律法を恐れることによって人間的な無謀さが抑制されることは無益なことではない。」実際、ある場合には憐れみが罰するものであるように、無情が大切にするものであることもある。実際、もし他の場合にダビデの家が平和を保つに値しなかったとするならば、彼の息子アブサロンがその父に反抗して行われた戦争において殺されなかったとするならば、いかに大きな悩みが生じたことか、彼をどれ程大いに元気で健康に保たせることができたか、そして父親としての情愛が悔い改める者に寛大な処置をとったか、極悪な者を嘆くことを除いて何が彼に残るのか、そして得られた王国の平和によって彼の悲嘆を和らげたのではないか。もし平和の維持において実の子供たちに寛大でないとするならば、律法の外面の厳格さにおいて大切にすべきものを我々はいかに少なく見積もるだろうか。

第32章 厳しさの杖と喜びのマンナは良い王のものであるということ

 しかもなお、罪人たちを長い間彼らが回心するように待ち、そして回心した人々をより厳しく断罪しない主、そして愛情深い母なる教会とは、「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩xxii,4)と書かれていることに従って、良い支配者の心のうちには厳しさの杖があり、また喜びのマンナがあるということを教えながら、鞭によって打ち、また杖によって支える。すなわち、打つところの厳しさの杖があり、支えるところの杖の慰めがある。愛があるが、しかし弱めるものではない。活力があるが、しかし挑発するものではない。熱心があるが、しかし法外に荒れ狂うものではない。親子の情愛があるが、しかしnonplus quam expediat parcens。モーセの例に従えば(出xxxii)、彼は情愛深く愛し、また厳しく荒れ狂う。なぜなら、イスラエルの民は神の目の前で殆ど許し得ない侮辱を招き、同じ民に対して自らを対立させたからである。しかし彼は同じ民へと来ながら、僅かな人々の命を剣によって殺した。彼はすべての者の命を彼の死と共に得ようと努める。吟味する者たち、そして真に告白する者たちまた悔い改める者たちを大切にするために、そして矯正不可能な者たちや罪のうちにとどまる者たちを断罪するために、ペトロがアナニア、サフィラそして脚部の骨折によって死んだ魔術師シモン(使v)を、またヘゲシッピの物語において読まれるように、そしてパウロが罪を犯した者を公の場でサタンに引き渡したように(1コリv,5)、またエリマを盲目によって倒したように(使xiii,11)そうしたのである。

第33章 罪を犯す者の多さにおいて罰は困難のゆえになおざりにすべき、あるいは猶予すべきである

 そしてもし恐らく誰かが、罰は一人の人間においては為されることが可能だが、しかし罪人の多さにおいては困難さのゆえに罰はなおざりにされるかあるいは猶予されるべきであると思われる、と言ったならば、聖インノケンティウスはその『マケドニアの司教宛の書簡』において、彼らにこう反論している。(『書簡』11,第6章)。「それゆえに、これまでかくも悪しきことが犯されてきたことをあなたの愛が悟るように。そして至る所で、あなたが言われるように、苦境が支配した。平和のうちにやがて教会を建設するなどと予期することはできなかった。しかし、しばしば起こるように、いかにしばしば民衆によってあるいは集団によって罪が犯されていることか。それというのは、すべてにおいて多さのゆえに罰を下すことができず、罰せられないで経過することが習慣になっているからである。それゆえに、私は神の裁きから一番先に放免すべき人々を挙げる。そして大部分の残余の人々については世話によって予め警戒すべきである。」そして同じく使徒の座の書簡においてこう言われている。「もしすべての司祭たちが、そして世間が有罪判決を下すことに同意するならば、判決は共謀する者たちをも含み、共謀の罪を赦免しない。なぜなら、犯罪は、私的なものから公的なものになるとき、減少せずに、増大するからである。実際、世間の罪人を大洪水によって絶たれた神はこのすべてのことを裁かれたのである。」
 御覧ください、これらのことについて私の微小さに対してあなたの知恵の崇高さが助言を求めたのである。あなたは聖書とカトリックの博士たちの格言を持っている。いまや喜びのうちに救世主の泉から水を汲みなさい。すなわち、同じ救世主が次のように言われる、それらの言葉からの教訓を。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」福音史家はこう言う。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハvii,38,39)。彼らはそれを同じ霊によって霊感を受けて汲んだのであり、書くことによって我々の知識のために教えたのである。

ヒンクマル『王の人格と王の職務』 終り
93.08.18

作成日:2009/02/01

最終更新日:2009/02/01

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