教育の本質と人間観

     

三上 茂


第I節 現代の人間観

 教育について考える場合に、その教育がかかわる当の人間について触れずにすませることはできない。なぜなら、教育するということは人間が人間になるということにかかわることがらであり、それゆえに、その人間になる人間をどのようなものとして考えるかということはすべての教育という営みに前提されなければならないからである。

 人間観--人間の人間による自己了解--は古今東西さまざまであって、これからも決着がつくことがらではないであろう。しかし、人間の人間化に関心をもつわれわれは、この問題--あるいはむしろ秘義というほうが適切かもしれない--へと接近しなければならない。

 今日、人間の危機が叫ばれ、さまざまの領域で非人間化の過程が進行していると指摘されている。たとえば、ベルジャーエフ(N. Berdaaev, 1874-1948)はこの過程が自然主義的傾向と技術主義的傾向をもって進行していると述べている。また、ヤスパースは「現代の精神的状況」を資本主義社会機構の機械化による人間の大衆化として特徴づけ、そこでは、人間は平均化され、自由を喪失し、本来的人間性から疎外されていると見ている。このような人間の危機の時代にあって、多くの人々が一種の集団神経症ともいうべき状態に陥っているとフランクル(V. E. Frankl, 1905-)はいう。彼はつぎの四つの徴候を挙げてそのことを指摘している。すなわち、宿命論的態度、仮の生き方、集合主義的考え方、そして狂信である。このような態度によってわれわれが見失っているのはなんであろうか。それは希望であり、自由と責任、人格の尊厳、精神であろう。教育が最終的には人間が人間になることにかかわるとすればそれらのものを欠くことはできない。われわれはすでに見失ってしまったこれらのものをもう一度見出さねばならない。

 現代の人間観をそのすべてにわたって究明することはできないが、以下において、主として西欧の人間把握を現代の視座から類型的に考察することにしよう。

 シェーラー(M. Scheler, 1874-1928)はその著『宇宙における人間の地位』(1928)のなかで、「われわれは、人間が完全にかつ徹底的に<問題的>となった最初の世代に属している。もはや、人間は自分がなんであるかを知らないが、しかしそれと同時に、自分がそれを知らないということを知っている」1)と述べている。彼は危機的状況のなかで生きている人間に、まさにそのゆえに生きる勇気を与えるために、人間の本質の把握をおこなわなければならないと考えたのである。われわれもまた、このような現状認識を根底に置きつつ、人間観を検討することにしよう。

 フィリップ・レルシュ(P. Lersch, 1898-)によれば、人間を外部から、つまり人間以外のものとの比較によって考察することによってえられる人間像と、人間を内から、つまり人間自身から考察することによってえられる人間像が、西欧の人間観の類型として取り出される。第一の、そしてもっとも伝統的な人間像のうちの一つは、ユダヤ-キリスト教的な神学的人間像である。人間は決定的に、神との関係において規定される。人間は神の子ども、神の似姿として創造された。さらにキリスト教的把握によれば、人間は罪によって神から離反したが、キリストの贖いによって救いに召されるもの、神の恩寵を回復するものとされた。

 ヨーロッパを長い間にわたって支配してきたこの人間観に対して、十九世紀にダーウィン(C. R. Darwin, 1809-1882)
の進化論によって刺激された一つの人間観が前面に出てくる。この第二の人間観はいってみれば人間を神の似姿とはみずに、動物との比較において、動物の連続的発展の頂点に位置するものと考える自然主義的人間観である。

 人間は精神的存在というよりは生物的存在であり、人間と動物との間には本質的差異はない。とくに人間的な徴表であると考えられている言語や知性も、程度の差であって、その萌芽は他の動物にも見出されるというのが、この人間観の主張である。しかし、この立場は今世紀に入って、生物学者たち自身によっても支持せられないものとなった。彼らは、動物との比較においてむしろ人間がひじょうに異なった存在であることを明らかにした。

 この第三の、生物学的人間観によれば、人間は生物として考察されるときに、他の動物に比較して、本能の貧弱さによって特徴づけられるいわば「欠陥生物」である。他の動物が生の維持のために装備している本能の代わりに、人間は経験と学習の過程を通して、生を維持してゆくためのさまざまの能力を獲得していかなければならない。動物はすでに所有しているものを展開させるのであるが、人間は新たに獲得しなければならない。

 この生物学的人間観はゲーレン(A. Gehlen, 1904-)によって代表されるもので、ホモ・ファーベル(Homo faber)という言葉で意味されている内容を含む。すなわち、人間は動物とちがって自らの環境を生の維持のために改造する能力をもっている。ゲーレンにおいては、人間は行為する生物として一元的に把握される。われわれはこの類型の中にマルクスの人間把握をある意味で認めることができるであろう。以上の三つの人間観はそれぞれに異なった人間把握であるが、人間を人間以外の他の存在との関係において、外部からみているという点で共通している。

 それにたいして、人間を他の存在との関連においてでなく、直接に内部から考察する人間観の類型が存在する。その一つはこれもまたひじょうに古いもので、西欧の精神史をギリシャの時代以来貫流している人間観である。それは人間の本質的核を理性、ロゴスのうちにみるロゴス中心の人間観であり、ホモ・サピエンスということばで人間をいい表そうとする人間観である。ここでは、さまざまのアクセントの置き方のちがいはあるとしても、いずれも人間の理性以外の内面的生の諸活動、すなわち、衝動、感情、激情、欲望等々は理性の従属すべきもの、理性の活動にとって障害になりうるものと見られる。

 この第四のロゴス中心的人間観はプラトン(Platon, 427-347 B. C.)、アリストテレス(Aristoteles, 384-322 B. C.)、デカルト(R. Descartes, 1596-1650)、カント(I. Kant, 1724-1804)などによって、--ニュアンスにおいて異なるとしても--共有されている。

 このロゴス中心の人間観にたいするアンチテーゼとして、十八世紀には、ルソー(J. J. Rousseau, 1712-1778)、さらにヘルダー(J. G. Herder, 1744-1803)が感情の諸力を強調した。この流れはローマン派に引き継がれ、十九世紀にはショーペンハウエル(A. Schopenhauer, 1788-1860)とニーチェ(F. W. Nietzsche, 1844-1900)によって、ホモ・サピエンスに対する徹底的な攻撃となってあらわれた。それは一言でいうならば、ロゴス中心の人間観に対するテュモス(ギリシャ語で魂、生命、息、感情、激情、意欲、憤怒、欲望、勇気などの意味をもつロゴス以外の人間の諸力)中心の人間観である。それは人間存在の中心となる核を衝動、欲望、感情、情熱のうちにみるのである。

 このテュモス中心の人間観の一つが第五の精神分析的人間観であって、フロイト(S. Freud, 1856-1939)は性衝動を、アドラー(A. Adler, 1870-1937)は力への意志を人間の中心的な核と見倣している。彼らが人間観にたいしてなした最大の貢献は人間における無意識的なもののもっている根源的な力の発見であるといえよう。それは盲目的な力ではあるが、しかし、人間をその根底において衝き動かす根源的な力である。

 テュモス中心の人間観の他の流れはクラーゲス(L. Klages, 1872-1956)によって代表される。彼によれば、人間の存在の中核は感情の諸力であって、ただ感情の体験によってのみ人間は自らの存在の充溢に到達することができる。従来のホモ・サピエンスの人間観が人間の本来的な本質の担い手と見倣していたロゴス、精神(ガイスト)は生の原理である魂(ゼーレ)の敵対者、妨害者として位置づけられる。それと同時に、ロゴス中心の人間観において精神と相並んで、あるいは精神に従っていた意識的な意志は、ここでは権力への意志、支配への意志としていわば否定的に精神に敵対するものとして解釈される。

 以上、六つの人間観の類型を簡単にみてきた。これで必ずしも全部を覆いつくしたとはいえないかもしれないが、しかしその最も重要なものには触れられているであろう。ただ以上の人間観の類型には、人間の社会性に関する視点が取り上げられていないが、これについては、今日の大きな問題であり、教育の本質にも重大なかかわりをもつので、あとで検討したい。ところで、これら六つの人間観はそれぞれに人間の事実的な側面が評価されているのであって、けっして恣意的な虚構ではない。問題なのは、現代の状況において人間の解釈のこれらの諸局面を収斂させ、インテグラルな人間観を確立することが可能かどうかということである。

 ダーウィンの自然主義的人間観がわれわれに指摘したことは、人間が純粋な精神ではなくて、一個の生物であるということ、つまりわれわれの生は身体性とその諸過程に結合されているという事実であった。さらに、ゲーレンの生物学的人間観は、人間がまさに生物として、しかし「欠陥生物」として他のすべての動物と根本的に異なるということを明らかにした--この点で自然主義的人間観から区別される--。

 人間は動物の自然的発展系列に連続的につらなってその頂点に立つのではない。動物が生の維持のために自然からその手段を贈与されているのに較べると、人間はその「本能の貧しさ」のゆえに自分の力でそれを作り出さなければならない。人間はその生物学的構造のゆえに、技術をつくり出し、行為する存在でなければならない。人間はホモ・ファーベルであらざるをえない。ゲーレンのこの人間観はたしかに人間の一つの本質的側面を正しくみている。

 しかし、この生物学的人間観は人間の全存在を十分に把握していないと思われる。人間の内面的なもの--われわれはこれを広い意味で「精神」と呼んでよいであろう--のはたらきは、一方において自己維持の諸行為として知性のはたらきであり、またエゴイズムや権力意志のような根本衝動のはたらきである。

 しかし人間の内的なはたらきは、他方において必ずしも生物学的欠陥の補償、自己維持の目標設定としては解釈しきれない他の本質的側面をも持っているといわなければならない。本当の愛は自己主張、要求、権力意志の発動ではなくて、逆に、自己犠牲、事故超越の行為であるし、畏敬は理性的に把握しうるもの、技術的に制御しうるものを越えたところにあるもの--神秘--によってわれわれがとらえられることによって成り立つ。また芸術の創造や体験においても、われわれは生物学的人間観が本質的な核と見倣す自己維持や自己貫徹の関心とはちがった次元の事柄にかかわっているのである。

 このようにみてくれば、ゲーレンの生物学的人間観は人間の本質の一つの側面をホモ・ファーベルとして正しく評価したが、しかし、もう一つの他の本質的側面を見落としているように思われる。それは利用価値の世界への参与とはちがった、個人を越えたところに成立する意味の世界への参与にかかわる側面である。

 ここで、ラテン語のレリギオということばの根源的な意味に立ち帰ってこの側面を明らかにする必要がある。普通レリギオは神と人間との結合、つまり宗教という意味で理解されているが、これをもとの意味に取ればレ=リギオ、すなわち再-結合である。それはわれわれの内面的なもの、人間存在の中核の--それは単に知性だけでなく、心情や良心や無意識的なものをも統合する責任と自由の主体である人格だといえよう--たんなる生とその維持という次元を越え出るあるものへの再結合として考えることができる。宗教的体験がこの再結合のなかに含まれることはもちろんであるが、しかし、それには真の創造的行為、芸術的感動、人間の真の出会いもまた含まれる。

 このような人間の本質的側面をホモ・ファーベルに対比していうとすれば、ホモ・レリギオースス(Homo religiosus)ということになろう。人間はホモ・ファーベルとしてその現存在の必要を満足させねばならないが、しかし同時にホモ・レリギオーススとしてその実存の委託に答えなければならない。これは二つの性格学的類型の区別であるというよりは、人間の全存在を規定する対立的側面であるといったほうがよいであろう。この対立の間に正しい規準を立てることが自由な人間に常に新しく課せられる課題である。現代の人間はこの規準を喪失してしまっている。現代の典型的な人間像はホモ・ファーベルであろう。この人間にとって、世界は自然科学と技術によって支配され、征服されるべきものとしてのみ存在すると同時に人間は生に対する畏敬を知らず、合理的に把握しうるものの彼方にある価値によって感動にとらえられることももはやない。

 クラーゲスがテュモス中心の人間観をもって抵抗しようとしたのはロゴス中心の人間観に対してであると同時にこのような状況に対してなのである。クラーゲスは人間を純粋に技術的な世界支配の際限のない進行から連れ戻そうとする。今日、事物は意のままに処理しうるものとなり、非魔術化され、神秘のない領域へと押しやられ、自然は技術による世界征服によって改造されてしまっている。

 クラーゲスは感情の諸力に訴えることによって、現代の人間がますますそれに対して盲目になってゆくものの現実性をもう一度みうるものにしようとしているのである。このかぎりで、クラーゲスの人間観はまさに現代史的な意味をもっているといえよう。しかし、彼が感情の諸力を強調する際に精神(ガイスト)を魂(ゼーレ)の敵対者として特徴づけ、人間は精神と魂との闘争の場であり、最後には精神が絶滅させられると考えるかぎりで、ロゴス中心的人間像の一面性を反対の人間像の一面性によって取って代わらせることになる。

 テュモス中心の人間像の中核と考えられた理性以外の諸力は、人間に充溢と色彩、光と闇、深みと創造の衝迫を与えるものであるが、しかしそれはまだ全体的人間を構成しない。それらのものを人格のもとに統合し責任をもって導いていくために理性、ロゴスが働かなければならない。ロゴス中心の人間観はそのしかるべき課題をはたさなければならない。思考と意識的な意欲がはじめて人間に選択と決断の自由を与えることができるのである。

 以上挙げた六つの人間観によってまだいいつくされない側面が考えられるであろう。たとえばラ・メトリ(J. O. La Mettrie, 1709-1751)の「人間機械(オム・マシン)は今日サイバネティクスの提出している新しい人間観の先駆をなすものであろう。サイバネティクス的人間観においては、人間は動物とではなくて、機械と比較され、情報理論、制御理論、システム論のなかで解体されてしまう危険がある。人間の行動および思考は外界の情報に対する反応というメカニズムとして解釈される。しかし、人間は反応することにつきる存在ではなくて自己自身について反省することができる存在であるということが見逃されてならないであろう。あるいは社会学主義的(社会主義的ではない)人間観もまた現代の支配的な人間観の一つである。ここでは人間はただ社会から規定されることにつきる存在とみなされる。人間は社会に適応し同化していくことによってのみ人間でありうるとされる。

 ところで、アリストテレス以来、人間は「ポリス的動物」(ゾーオン・ポリティコン)、すなわち社会的存在であることが認められてきた。キリスト教思想もまたこのことを認め、人格としての個人とそれらの諸個人からなる共同体を相補的なものとして考えてきた。しかし、不幸なことにこの基本的な事実は一方で個人主義によって、他方ではその反対の集合主義(コレクティヴィズム)によって見誤られ、あるいは看過された。

 個人主義は個人を自己自身にたいするうぬぼれた関係のもとで完結したものとみ、社会はただ自己の功利主義的目的に役立つかぎりでのみ意味をもつとみなす。他方において、集合主義は人間の個人の顔を覆い隠す。ここでは個人は集団(マス)の中の一単位しかすぎず、集団のなかに落ちこんでしまうことによって自由な決断と責任ある行為を放棄してしまう。十九世紀には個人主義が謳歌されたが、現代は反動的に集合主義が一般的な傾向となっている。個人主義と集合主義はいずれも人間的現実の一局面の誇張であろう。

 このことに関連して、ブーバー(M. Buber, 1878-1965)はこの個人と全体という二者をあれかこれかの対立として考えるべきではないと主張する。「人間的実存の根本的事実は個人それ自体でも全体それ自体でもない。両者はそれ自体で考察すればたんなる強引な抽象である。個人は彼が他の個人との生きた関係に入りこんでいるかぎりで実存の事実である。全体はそれが生きた関係の諸統一から建てられているかぎり実存の事実である。人間的実存の根本的事実は人間とともなる人間である。」

 このブーバーと並んで、レーヴィット(K. Loewith, 1897-)、ヤスパース、エーブナー(F. Ebner, 1882-1931)、グァルディーニ(R. Guardini, 1885-)、マルセル(G. Marcel, 1889-)、バルト(K. Barth, 1886-1968)などが人間の対話的本性、仲間性、なんじ性を強調し、交わり、出会い、対話をその人間学の中心に据えている。これらの人々の考え方は今日の人間観を規定する一つの大きな流れであるが、同時にそれは教育学に対して実り豊かな展望を与えるであろう。
 
 

第II節 教育されるべき人間

 カントは教育学講義の序文の冒頭で「人間は教育されなければならない唯一の被造物である」と述べている。また、ナトルプ(P. Natorp, 1854-1924)も「人間はただ人間社会を通じてのみ人間になる」といっている。これらの言葉は、人間が人間になるためには必ず他の人間の関与を必要とするという根本的な事実の表明である。人間以外の他の生物は生成の到達点において備わるべき形、内容をすでに出発点において所有している。ただ成長のためには外的な条件が整いさえすれば、正常の種子はまちがいなくその種の樹木に成長する。人間は種子が樹木になる、動物の仔が動物になるのとはちがった仕方で人間になる。

 人間は自然的、生物的生命を維持してゆくだけで自動的に人間になるのではなく、人間と接触することによって、人間の社会を通じて、はじめて人間になるのである。このことは、「アヴェロンの野生児」やインドで発見された「アマラとカマラ」の例が雄弁に物語っている。

 以上のような意味において人間が固定した存在の構造を持たず、その出発点においていわば未規定のものであることが、教育を人間にとって必須のものとする根拠をなすのである。

 さらにまたポルトマン(A. Portmann, 1897-)2)の指摘によれば、人間の子どもは他の動物の仔と比較して十二ヶ月はやく胎内からこの世に出て来る「生理学的早産児」である。人間の子どもは動物の基準から見れば本来出生の時に実現しているべきはずの成熟段階に、出生後一年にしてようやく到達する。従来、他の動物と共通であると考えられていた生理学的構造すらすでにひじょうに異なったものなのである。

 人間のこの特殊的地位が人間の子どもの無力さと援助必要性を他の動物とは本質的に異なったものとする。しかし、子どもは、いわば子宮外の胎児的段階、すなわち出生後一カ年の時期を、たんに生命を維持し、まだ完結していない身体的・生理的な胎児的発達を終わらせることだけで過ごすのではなく、それ以上に、胎児的状態のままで世界のなかに置かれ、世界と接触することによって決定的な事柄を経験する。

 人間の子どもはこのようにして社会的接触をまったく特別の形で経験することによって人間となる道を歩みはじめる。それゆえに、人間の子どもの出生時の無力さと援助必要性はゲーレンの指摘するように動物に比較してたんなる欠如として否定的、消極的に理解されるべきではなくて、逆にそのことのゆえに人間が宇宙のなかで特別の地位を占めるものとなっていると考えなければならない。そのことが人間を世界にたいして開かれた存在とするのである。人間が動物と比較してひじょうに特徴的であるもう一つの点は、その発育期間がおそろしく長いということである。ポルトマンはそのことを指摘してつぎにようにいっている。「発達の緩慢さは、ただたんに身体の基礎的な状況と考えられるだけでなく、人間の<世界に開かれた>存在様式にそったものと思われる。」このことは人間が教育によってじょじょに精神的に世界を獲得してゆくために与えられたチャンスなのである。

 以上のように、この人間生物学的な観点によれば、人間は、その以上に早過ぎる出生と発育のゆるやかさによって、また「動物の行動が、環境に拘束され、本能によって保証されている」のにたいして、「人間の行動は、世界に開かれ、そして決断の自由をもつ」ということによって、特有の存在様式を示すのである。この人間観は、人間が他の動物と決定的に異なるものであることを科学的に明らかにしていると同時に、人間を存在として静的に見るのではなくて、生成として、発達過程において動的にとらえているのである。

 ところで、人間が子宮外の胎児期として過ごす生後一年の間に、世界と接触して決定的な事柄を経験すると先にいったが、その内容はまさに人間を他の動物から区別するつぎの三つの重要な事柄である。すなわち、第一に直立姿勢に達するための努力、学習、模倣であり、第二に、言語の模倣、学習、そして第三に洞察力ある行為と技術的思考の成立である。人間はこの三つの事柄をこの時期に獲得しなければ取り返しのつかないハンディキャップを背負うことになる。

 人間はこのような意味で一回性の下に立ち、歴史性の法則に服しているといえよう。そしてこのことは人間がけっしてたんなる自然存在としてとらえることができないのであって、生命のレベル、生理学的、身体的次元でもすでに動物的ではなくて人間的であるということ、すなわち、人間の実存が最初から人間の精神性へさし向けられていることを示しているのである。

 教育されるべき人間(Homo educandum)は、欠如存在であるがゆえに教育されねば生存を全うできないという消極的規定を表しているのではなくて、むしろ教育されうる人間(Homo educabile)の特権、自然のなかで自然を越えるものとして人間にだけ与えられている一種の恵みを実現することへと呼びかけられているということを、表している積極的な規定ではなかろうか。

 そのようなものとしての人間は、一方において、垂直的な方向に成長・発達の過程をたどるとともに、他方において、その垂直的な方向そのものが成立するために不可欠である水平的な方向において--具体的にいえば、成長・発達が人間的な成長・発達でありうるために必然的に要請される他の人間の援助において--交わり、出会い、対話の世界に導き入れられる。比喩的ないい方をすれば、人間はこのような垂直的な方向と水平的な方向が交わるところの中点に立っている動的な存在である。

 そのような中点に立っているのは生きて躍動する全体的人間であるが、その人間の中核、つまり生成の過程で自己であり続け、他者との交わりにおいて責任ある主体である続けることを可能にするものとしての核、をわれわれは人格(ペルゾーン)ということばで呼ぶことにしよう。それはまた、ソクラテス(Socrates, 470/69-399 B. C.)によって「魂の世話」といわれたことがらにかかわるものであろうし、広い意味での「精神」の問題であるとみてもよいであろう。教育されるべき人間はもちろんすでに述べたように一個の全体的人間であるが、しかしわれわれはその全体的人間がどのようなものとしてとらえられるかを問題にしなければならない。

 教育されるべき人間は人格存在としての人間であるということがまずいわれなければならないことである。人間は精神-身体の統一であると従来考えられてきたが、この場合の精神は知情意も含めて心理学的な次元のものとみられるのが一般的であった。しかし、たとえば人間において本来的なものとされる責任性、自由、決断、良心、価値志向性はそれを心理学的次元に位置づけることによっては十分に説明されえない。

 われわれが無造作にひっくるめて精神に属せしめていることがらは、じつは次元の異なる二つのことがらとして区別されるべきであろう。すなわち、心と精神の。そこで、われわれはもう一度、人間は身体-心-精神の統一であるといい直さなければならない。

 フランクルはjこの人間的実存の統一を幾何学のアナロギーを用いて次元的存在論として展開している。彼によれば、人間の精神的なものは一つの固有の次元であるだけでなくて、また人間存在の本来的な次元でもある。しかし、精神的なものの次元が本来的次元を形成するとしても、それは人間存在の唯一の次元なのではない。人間は身体的・心的・精神的統一および全体性である。三次元空間の物体が二次元平面に投影されて生ずる写像は側面図は平面図として閉じられた像を結び、それらは相互に矛盾する場合がありうるが、しかしそれはもともと同じ一つの事物、開かれた物体の投影である。

 それと同じように、人間においてもまた人間的なものの次元が生理学的平面へ投影されることによって身体的諸現象を生じ、心理学的平面へ投影されることによって心的諸現象を生ずる。そのときそれらの像が相互に矛盾するであろうが、しかしもともと同じ一つの人間存在の空間においては矛盾しないのである。精神的なものの次元が人間的なもの一般の空間をはじめて構成するが、人間が世界に開かれた存在としてとして特徴づけられるのはまさにこの本来的に人間的なものの次元、精神の次元においてであって、それは幾何学的比喩でいえば三次元空間において見出されるのである。われわれが第I節で検討した人間観のあるものは人間をある一つの二次元平面に還元してそれをもって人間の全体だと主張し、それが還元される以前の全体的人間を無視するものであった。

 教育されるべき人間は人格存在として見られなければならないといったが、「人格的実存そのものの根本的な鍵となるカテゴリー」は「責任性」である3)。人格(ペルソナ)としての人間は「呼びかけられる存在」であり、その呼びかけに「応答する存在」である。旧約聖書のなかにつぎのような個所がある。「イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこういわれる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。』」(イザヤ書、43・1)人間は神によって名を呼ばれた者、ペルソナとしての存在である。

 宗教的な意味と背景をもったこのペルソナ概念はわれわれにたいせつなことを告げている。それは呼びかけられた者は、他から切り離され、孤立した個人でもないし、また集団(マス)のなかに埋没してしまっている無名の、あるいは匿名の「ひと」(ダス・マン)でもなくて、彼の名によって呼ばれた者として、その呼びかけに自らの名において応答しなけければならない人格的存在であるということである。

 応答(アントヴォルト)は自らの立場を明示するものであるかぎりで責任性の性格(フェアアントヴォルトリッヒカイト)をもつ。エミール・ブルンナー(E. Brunner, 1889-1966)は責任性についてつぎのようにいっている。「責任性は一つの属性ではない。それは人間存在の実体である。そのうちにすべてのものが、すなわち、自由と拘束、個人の自立性と社会の結合性、神、同胞および世界にたいする関係、人間を他のすべての被造物kら区別するもの、また人間をすべての被造物に結合するものが、含まれている。それゆえに、責任性についての知識はまたあらゆる人間を人間とするものである」4)。

 人格存在は責任性存在であり、そのなかで名をもった個人の独自性と一回性、自立性、自由、「われわれの心の心」といわれる良心の現象、われ-なんじの結合すなわち社会性があらわにされる。

 人間が人格であるということは同時に責任性存在であるということである。しかし、人間が教育可能であり、教育を必要とする存在であるということは、人格としての、責任性としての人間が最初から固定しているのではなくて、教育によって、教育を通じて、人格、責任性をあらわにしてゆくというふうに理解されなければならない。

 われわれはここで古来問題になってきたことがらに直面しているのである。すなわち、教育が達成しようとめざすものは人間の内にすでにあって、それをただ展開させればよいのか、それともそれは人間の内にはどのような形でもないものであって、教育はそれを外から移し入れるべきであるのかという問題である。しかし、われわれはこのような二者択一を単純に承認することはできない。われわれは人間において、人格であることと人格となること、責任性存在であることと責任性存在となることがある意味でともに成り立つことを承認しないわけにはいかない。たんなる人間ではなくて教育されるべき人間が問題であるとき、このことを看過することはできない。そのことを考慮に入れたうえで、ここでさらにもう少し教育されるべき人間の本質規定を検討しておこう。

 身体-心-精神の統一としての人間はその身体性において生まれ、成長・発達し、死ぬ。人間は身体性において自然に結合されており、この自然への結合において人間は性の区別をもった存在、つまり男か女かのいずれかになると同時に、遺伝的な素質を受け取ることによって個性をもつことになる。さらに生の原理としての心の次元で人間は自然に結合されており、さまざまの心的活動を営む。

 しかし、人間は精神の次元で自然を越えて他の現実に属する。われわれが人格でありうる、人格となりうるのは精神においてである。人間は精神性において環境世界の被護性から抜け出て、開かれた世界の不確実性に身を置く。このことは人間に知性の活動によって世界に処する道を選ばせるとともに、倫理的、道徳的存在として、決断を要求する。人間はここでは自由な存在として、意志の自由と行動の自由を持ち、身体性において自然に結合されているにもかかわらず、自然を越え出る。人間の自由は、一方において生物学的な遺伝や社会的環境を絶対視する自然主義や唯物論によって否定され、他方において、極端な観念論やある種の実存主義によって無制約的なものと考えられる。しかしそのいずれも極端であって、人間は自由であるがその自由は制約の中の自由、拘束された自由である。両極端は人間が責任性存在であることを否定するところから出てくる。

 また、人間の良心の現象は一つの「声」として体験される。良心は語りかけられ、また自らも語りかけるものとして、人格をその内に含んでいるのであって人格から切り離して考えられる独立の器官ではない。心理学において良心は人間の行動を制御する超自我と同一視される場合もあるが、むしろ精神の次元のことがらである。

 さらに、人格存在において人間の個人性と社会性が同時に充足される。ボエティウス(Boethius, 480-525)は人格について、それは「理性的本性の個別的実体」であるという有名な定義を下しているが、それは人格を精神の次元における個別存在と考えるものである。個体性つまり分割不可能性は動物ももっているが、しかし精神の次元において個別性をもつ、いいかえれば、自分自身を「私」ということができるのは人間だけであり、倫理的な人格存在、すなわち責任性存在にしてはじめて、一回性と独自性をそなえた人間的に個体的な存在といいうる。

 ところで、このような人格的個体はすでに述べたように、固有の名によって呼ばれる存在であり、非人格的個体がたんなる個体として取り替えが可能であるのにたいして、交換不可能であり、複製となって現れることのできないものである。

 また、名によって呼びかけられる者としての人格存在は当然に呼びかける者としての人格存在にたいするのであって、呼びかけと応答が対話を形づくる。われとなんじはその固有の名によって呼ばれる人格存在以外ではありえないし、そこで「出会い」が起こり、「われわれ」としての社会が基礎づけられる。人間の社会性が人間の個別性の欠如を意味するような社会は真正の社会とはいえず、顔や名のない「ひと」(ダス・マン)の集合にしかすぎないであろう。真の意味での社会は対話的構造をもっており、われとなんじは「言葉」と「愛」において結合される。人間は「意味」へと差し向けられた存在である。

 人間はまた時間的存在として誕生と死の間を歩んでゆく「旅する人間」(Homo viator)(マルセル)である。生成と発展と消滅はこの世のすべてのものの定めである。しかし、他のすべてのものがたんなる生成消滅を繰り返すのにたいして、人間は歴史をもつのである。すなわち、人間は自由と決断において生を形成し、遺産、伝統を積み重ねてゆく。そこには厳密にいえば繰り返しはなく、カイロス(決定的な時)においてつねに新しい形成がおこなわれる。人間が責任性そんざいであることはここにおいてもっとも明らかである。

 教育されるべき人間の本質規定についてまだいろいろいわれなければならないであろうが、最後に人間の価値志向性について検討してこの節を閉じよう。

 人間が歴史をもつということは人間が意味と価値の世界にさし向けられているということである。意味ないし価値の実現は機能的な範疇ではない。つまり、動物も目標志向的な行動をとることができるけれども、しかしそれは意味志向的な人間の行為とはまったく次元の異なることがらである。たとえば、フランクルが指摘するように、蟻塚への往来は目標志向的であるといえるけれども、意味あるものとして表すことはできない。そこでは意味範疇が欠けており、したがって歴史的なものも欠如するのである。それにたいして、人間だけは全体として文化伝統をもつと同時に、個人として意味充足と価値実現へとさし向けられているのである。
 
 

第III節 教育の本質と構造

 われわれは前二節においうて、人間がさまざまの観点からみられ、しかもどれかの局面だけを取り出して他を切り棄てることが不可能であるそういう存在であるということをみてきた。いわばそうした重層性ないし多次元性において、人間はみられなければならないということ、さらに、それらの多次元的な人間が人格存在として統一されているということが確認された。

 もう一つの重要な点は、教育されるべき人間ということからいって、人間は静的な存在の観点においてばかりでなく、同時に動的な生成の観点からみられなければならないということである。つまり、人間はすべて無力な、援助を必要とする赤子として生まれ、やがて死すべき時間的、経過的存在なのであって、人間であるためには人間となる必要があるのである。そしてすでに述べたように、人間が人間となるためには、他の人間の援助が必須である。それゆえに、教育は「人間が人間となることに他の人間がかかわること」だということができるだろう。以下、このことをもう少し詳しく検討してみよう。

 まず第一に注意しなければならないことは、教育は人間による人間の人間化へのかかわりであると規定したが、その場合の「人間によるかかわり」ということを積極的にとらえるか消極的に考えるかによって、二つの異なった教育の考え方が出てくるということである。

 第一の場合には、教育者は自己の意志する目標へ向かって被教育者を積極的に形成するのであり、被教育者は教育者の思い通りに形成され、ある一定の形へともたらされる素材として見られる。第二の場合には、逆に教育者は積極的に被教育者に働きかけるのではなく、被教育者は自ら内に秘めている可能性を自由に展開し発展させる自然と見倣される。人間が人間となるためにに他の人間が関与しなければならないことを認めるかぎり、関与する人間が積極的な役割をはたすと考えるのはしごく当然であろう。しかし、問題は関与される人間がそのときにたんなる形成されるべき素材として考えられることが妥当かどうかである。

 もちろん、否である。ものを制作する行為をそのまま人間を教育する行為と同じにみることはできない。教育されるべき人間は素材、ものではなくて、自由と尊厳をもつ人格である。教育されるべき人間はどうにでも出来る素材ではけっしてありえないが、しかしまたその関与は栽培する者と植物との関係におけるように、まったく外的な事柄に限定されることもできない。教育されるべき人間は妨害的な要因を取り除き、外的条件さえ整えれば、いわば自動的に発展して完全になるというわけにはいかない。

 「人間によるかかわり」ということは、たんにそのような外的条件が人間によって整えられるということだけでなく、もっと本質的な仕方で、他の人間が教育されるべき人間にかかわるということを意味している。それゆえに、「人間によるかかわり」ということは「技術論的」な、あるいは「有機体論的」な教育の把握(ボルノー O. F. Bollnow, 1903-)によっては捉えられていない人間的な条件、つまり人間が内的に、「精神」として、人格として他者と交わるという事態をいい表しているのである。教育は教育する者と教育される者との対話的関係においておこなわれる行為である。

 第二に、「人間によるかかわり」ということに関してもうひとつ問題がある。それは「機能的教育」と「意図的教育」の区別に関係する問題である。つまり、人間が人間になるということにたいして、「人間によるかかわり」以外のさまざまの影響をどのように考えるかという問題である。人格としての人間が計画的、意識的、意図的に、他の人格としての人間にかかわり、その人間の成長・発達を援助することをわれわれは教育と呼んだが、それは「意図的教育」であって、まだ教育の全体をいいつくしてはいないのではないか。

 「機能的教育」という考え方に立てば、無意識的、無意図的なものもまた人間を「教育する」。たんに人格としての人間だけでなく、自然、文化、国家や民族のような集団、慣習、時代精神もまた「教育する」。たとえば、クリーク(E. Krieck, 1882-1947)によれば、「すべてのものがすべてのものを教育する」。あるいは「教育はあらゆるところで、あらゆる時に人類のなかでおこなわれる根本機能である」。クリークによれば、教育は社会それ自体が無意図的におこなう一つの機能なのである。

 われわれが上述のすべてのものによって影響を受けることを否定するものはいないだろう。しかし、それらのものはわれわれを「教育する」のだろうか。その場合の「教育する」ということは一体どのような意味をもっているのであろうか。教育は影響からどの点で区別されるのであろうか。このように考えてくれば、きょういくは、たんなる影響ではなくて、可知的な方向性、その影響を受ける者がそれによって価値的に高められるような方向性を含んだ影響・作用・行為でなければならないと思われる。

 とすれば、われわれはことばの厳密な意味で機能的「教育」を語ることはできないであろう。つまり、教育は機能ではなくて、意識的・意図的な行為である。さらに、「機能的教育」の考え方は、その教育の主体に、たとえば国家、民族、あるいは自然といったものを措定するが、そのようなものが「主体」であるというのはどういう意味なのだろうか。個人の人格を越える存在としての国家や民族が理性や意志をそなえた倫理的実体とみなされ、自らの意志にしたがってその成員を「教育する」ことができると考えられるとき、個人の人格的自由、良心を従属させる全体主義がはじまるのではないであろうか。われわれはやはり、人格としての人間以外のものに意識や良心や責任性を帰することはできないし、そのような人間以外のものに価値的方向性をもった影響としての教育を帰属させることはできない。

 しかし、そのようにいったからといって、教育を真空の中での個人と個人の間のできごとであると考える必要は少しもない。われわれは自然・民族・文化の中に生き、それらから無数の影響を受けている。われわれがそのなかで「人間が人間となる」というとき、それは人間が社会や文化のなかへ入って行くこと、人間が社会化され、文化化されることを当然に意味しているのである。

 自然と社会と文化を仮に世界と呼ぶとすれば、人間が動物と比較して「世界に開かれた存在」で在ると言うことは、人間がそのような生きた世界へさし向けられそのなかではじめて人間となるということである。しかし、そのときにも、そのような社会化、文化化は「人間によるかかわり」を通して起こるのであり、世界が「教育的」影響をもちうるのは、人格としての人間を通じてである。

 このことに関連して、ブーバーはつぎのように述べている。「われわれが教育と呼んでいるもの--自覚され、意欲されたもの--は人間による作用している世界の選択を意味する。つまり、教育者のうちに集められ提示された世界の選択に決定的な効力を与えることを意味する。教育的関係は意図として、無意図的に流動するすべてのものの教育からはっきりと区別される。それゆえに世界は教育者のうちではじめて、その作用の真の主体となる。」

 同じことはまたつぎのようにもいわれている。「人間による人間の教育は一つの人格による、またその人格における作用している世界の選択を意味する。教育者は世界の構築的な諸力を結集するのである」5)。

 以上によって、われわれは「人間によるかかわり」の意味を明らかにすることができた。われは「人間の人間化」のための世界の選択であり、「人間の人間化」への援助である。人格としての人間のみが本来的な意味で教育するのであって、それ以外のものの影響は教育者の媒介によってはじめて「教育的」影響でありうる。人間はそれゆえに、教育者によって世界と出会い、世界と対決する。そのような世界との緊張関係、ふれ合いのなかで人間はまさに人間的に成長し発達するのである。

 ではつぎに「人間の人間化」ということを検討することにしよう。人間は人間にならなければならないということは、まさに人間の本質をなすことがらであるが、具体的にいえば人間は子どもからおとなにならなければならないということである。

 われわれはここで二つのことを確認しておかなければならない。一つは、子どもは子どもであるということ、もう一つは子どもはおとなになるということである。第一の点が確認されていないとき子どもはその独自性、固有の価値を認められず、おとなの価値基準によって測られ、またおとなとの相違を無視されて、受けるべき庇護、教育からさえ除外される。第二の点に関していえば、子どもは子どもとして同じところにとどまっているのではなくて、いまあるところを乗り越えてじょじょにおとなにならなければならない。子どもはやがて自らの責任を負い自らの生活課題をはたすことができるように自立する方向へ進まなければならない。

 この二つのいわばまったく当然のことが十分に認識されないときに、教育はその基盤を失い混乱する。二つのことがらが矛盾対立するものとしてとらえられるのは明らかに誤りである。むしろ二つのものが同時に承認されるときにのみ教育は可能となる。

 われわれは教育を人間による人間の人間化へのかかわりとみてきたのであるが、すでにその「かかわり」が援助であるともいった。このことは教育がある一定の段階で終わるということを意味している。つまり、教育は子どもがおとなになる時点で終わるのであり、それまでの期間の援助として人間の人間化にかかわるのである。

 教育がめざすのはやがて援助を必要としない自立的な、責任を引き受けうる人間、つまりおとなになることである(ランゲフェルド M. J. Langeveld, 1905-)。それ以後はどうなのだ、現に成人教育、生涯教育といういい方もあるではないかという疑問がおこるかもしれない。たしかに、われわれは教育ということばをひじょうに広い意味で使っている。しかし、われわれは子どもがおとなになることを援助するものとしての教育と成人教育といわれる場合の教育とはまったく異なるものであることを認めなければならない。後者はむしろ教養と呼ぶにふさわしいものであって、自らがその結果について責任を負わなければならないものである。子どもがおとなになることへの援助はいいかえれば子どもを責任性へと導くことなのであり、これが厳密な意味で教育と呼ばれるものである。

 以上の点を考慮に入れたうえで、もう一度、われわれが教育と呼んでいる包括的な人間の営みをみることにしよう。すでに述べたように、人間は自然存在としてみてもすでに動物とひじょうに異なった存在様式をもつものであった。氏kし、人間はやはり生物として成長・発達しなければならない。その点で教育はまず成長の援助として現れる。

 しかし、成長・発達は生物としてだけではなく、人間の場合には同時に社会的・文化的な存在としての成長・発達でなければならない。このことは個としての人間がまさに共同体のなかでの個人であるという人間の特殊の地位を明らかにしている。その点で、教育は、子どもを社会的・文化的に編入・同化する努力として現れる。子どもはまず母親を通じて人間の世界において社会的接触を経験し、さらに言語の習得によって精神的なものの世界への通路を開く。ここでは教育は子どもの社会化・文化化への援助である。

 しかし、子どもの社会化・文化化はそれが人格化と矛盾する形でおこなわれるならば、人間の全体性を害うものであろう。人間はたしかに、慣習、制度、伝統的な規範、価値の世界へと入っていくことによって人間化への道を歩む。しかし、教育はそれへの援助としての適応と同化につきるのではない。

 教育は子どもが既存のものを受け継ぎ、あるいはそのなかへ入っていくことを援助するだけでなく、そのようなものが崩壊しているといわれる現代の状況においてはとくに、子どもが新しいものの創造、おとなとの出会い、伝統との対決のなかから精神的に覚醒する方向に向かって子どもを援助することでなければならない(フリットナー W. Flitner, 1839-)。ここでは子どもは精神的存在として見られ、教育は精神の覚醒、魂の世話である。

 そして最後に、教育は人格存在としての人間にたいする援助として現れる。すなわち教育は子どもが倫理的人格へと成熟するように、責任を引き受けることができる者となるように援助する。フリットナーは「良心と信仰の覚醒」としていい表している。ここにおいて教育は人間の中核に触れることになる。ここで問題になっている人間は、すでに述べたように、責任の主体、良心、ペルソナであって、われわれが外に出ていって見出すことができないもの、われわれの内に、呼びかけられることによって応答するものとして、あるいは覚醒されるものとしてある人間なのである。

 このような人間だけが、その全体を賭けて自ら決断し、そしてそれに責任を取ることができる。子どもがそのような人間になることへと援助する教育は注入や伝達、あるいは展開させることとはおよそちがったものでなければならない。それはむしろ覚醒、触発、点火といういい方がより適切であるような、子どもの精神と世界のレアリティーとの厳しい緊張、出会いを子どもが経験するように仕向けることである。

 以上、人間が人間となること、そしてそれへの援助の内実を吟味した。現代という状況がわれわれに最も強く要求しているのはどの側面であろうか。もちろん、人間が人間となるためにはどれも不可欠の援助である。にもかかわらず、いな、それゆえにこそ、今日見失われ、あるいは忽せにされている側面にもう一度注意を向けるべきではなかろうか。成長への援助の側面が他の側面を圧倒するとき、そこに生ずるのは教育における生物学主義、心理学主義である。社会化・文化化への援助が絶対視されるとき社会学主義が教育を支配する。

 今日、圧倒的な力を誇っているのはこの二つの側面であろう。精神の覚醒、良心の覚醒への援助もそれだけが絶対化されると精神主義におちいるであろう。しかし、それらの側面が無視ないし軽視されるとき、それは人間が人間となることにとって致命的な傷を与える。現代の危機といわれるのはこのことと関係があり、したがってその克服はわれわれがそれらの側面を取り戻し、正当な評価を与えることにかかっている。そのことは現実を逃避して幻想の世界にさまようことを意味するのではなく、状況の暗さのなかを各人が人格的存在者として責任を担って立ち、その状況を突破していく勇気をつちかうこと、苦悩のなかにも意味を見出して堪えるすべを知ることを可能ならしめるのである。

[付記]

 本稿執筆のために参照した書物を引用の形で逐一注記できなかったので挙げておく。
1)Lersch, Philipp: Das Bild des Menschen in der Sicht der Gegenwart. Universitas, Jg. 13, Heft 1, 1958, S.1-10.
2)Maerz, Fritz: Einfuehrung in die Paedagogik. 1965.
3)Dienelt, Karl: Paedagogische Anthropologie, 1970.
4)Flitner, Wilhelm: Allgemeine Paedagogik 3. aufl.
なお、1972年度教育哲学会での東洋英和女学院石井次郎教授の「教育における精神について」の御発表内容から多くの示唆を受けたことを記して感謝したい。

1)M. ブーバー著、児島洋訳、 『人間とは何か』、理想社、1961、p. 134.
2)A. ポルトマン著、高木正孝訳、『人間はどこまで動物か』、岩波新書、1961.
3)F. Maertz, Einfuehrung in die Paedagogik, Muenchen, 1965, SS.62-63.
4)A. a. O., S. 63.
5)M. Buber, Ueber das Erzieherische: in Werke. I. Band. Schriften zur Philosophie , Muenchen, 1962, S.794 und
   S. 807.

参考文献

1)『フランクル著作集』(全7巻)みすず書房、1961-2.
2)『ブーバー著作集』(全10巻)みすず書房、1967-70. とくに1,2,4,8巻。
3)M. J. ランゲフェルド著、和田修二訳、『教育の人間学的考察』、未来社、1966.
4)M. J. ランゲフェルド著、和田修二訳、『理論的教育学 (上)』、未来社、1971
5)O. F. ボルノー著、峰島旭雄訳、『実存哲学と教育学』、理想社、1966.
6)O. F. ボルノー著、森昭・岡田渥美訳、『教育を支えるもの』、黎明書房、1969.
 
  

『生きる喜びとしての教育』 第2章 教育の本質と人間観 pp.41-73 から転載

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