ファチマの聖母マリア

懲罰の時

The Fatima Crusader, Issue 71, Autumn 2002より

聖アルフォンソ・デ・リグオリからの抜粋

私の兄弟たち、もしわれわれが改心しないらば、懲罰が来るでしょう。もしわれわれが罪を終わりにしないならば、神はそうなさるでしょう。神は神を恐れる人々を憐れみをもって扱われるでしょう。神は頑固な人々に対してはそのように行動なさることはできません。

そのような人間は、自分自身が罰せられるのを見るとき嘆き、そしてなぜ神は私の健康を私から奪われるのか? と言います。なぜ神は私からこの子どもを、あるいはこの親を取られたのか? と。エレミアはこう叫んでいます。「ああ、罪人よ!おまえたちは何と言ったのか、おまえたちの罪はよい物を遠ざけた。」(エレミア 5:25)あなたから何らかの祝福、何らかの利益、あなたの息子、あるいはあなたの親を奪うことは神の御望みではありませんでした。すべての事柄においてあなたを幸せにすることが神の御望みでしたでしょう。しかしあなたの罪が神にそのことを許さなかったのです。

ヨブの書の中にわれわれは次の言葉を読みます。「神があなたを慰められるということは大きなことか? しかしあなたの悪しき言葉はこのことを妨げる。」(ヨブ 15:11)主は喜んであなたを慰められるであろう。しかしあなたの冒涜、あなたの呟き、そのように多くの人々にとって恥さらしなあなたの卑猥な言葉が神を妨げてそうさせなかったのです。われわれを惨めにそして不幸にするのは、神ではなくて、呪われた罪です。「罪は民の恥辱である」(格言の書 14:34)。

神がわれわれを厳しく取り扱われるとき神に不平を述べることにおいてわれわれは間違っているとサルヴィアン(Salvian)は言っています。おお!われわれは、神がわれわれに与えてくださった恩恵を忘恩でもって報いながら、どれほどもっと厳しく神を取り扱っていることでしょう!

主は忍耐強いお方です。しかし懲罰の時が来るとき、そのときは主は罪のうちにとどまり、あたかも彼らにとって地獄が存在しないかのように、平和のうちに生きるそれらの惨めな人々を正当に地獄へと断罪なさることでしょう。

私の兄弟たち、われわれにとってもはや罪がないようにしましょう。もしわれわれが、われわれの上にかかっている天罰を逃れようと望むならば、回心しましょう。もしわれわれが罪を犯すことを止めないならば、神はわれわれを罰せざるを得ないでしょう。「なぜなら、悪をなす人々は切り離されるからである」(詩編 26:9)。頑固な人々は単に最後に天国から切り離されるだけではなく、彼らの例が他の人々を地獄へと引っ張ることがないように、地を急いで去らせられるのです。

そしてこれらの一時的な罰はそこからの救済の希望が何もない永遠の懲罰に比較するならば何物でもないということを熟考しましょう。おお、罪人よ!私の兄弟よ、耳を貸しなさい!「おのはもう木の根におかれている」(ルカ 3:9)。不完全な仕事の著者はこの節に関する彼の論評においてこう言っています。「おのがおかれているとと言われているが、それは枝にではなくて、根に置かれているのであって、その結果、それは回復不可能な仕方で根絶させられるであろう」と。

彼は枝が払われるとき、木はなお生き続けるが、しかし木が根から切り倒されるとき、それは次に死に、そして火の中へ投げ込まれると言っているのです。

主はその手に罰をもって立っておられます。そしてあなたは今なお主の不興を買ったままにとどまっています。おのが根に置かれているのです。神があなたの罪においてあなたが死なせられることがないように震えなさい。なぜなら、もしあなたがそのようにして死ぬならば、あなたは地獄の火の中へ投げ込まれるでしょうから。そこではあなたの破滅は永遠にわたって希望のないものでしょう。

聖ヨハネ・クリゾストモスは、ある者は見ない振りをする、と言っています。彼らは懲罰を見、そしてそれらを見ない振りをします。そして次に他の人々は、彼らが、罰が彼らを襲いかかったのを見るまで罰の恐れを持たない、と聖アンブロシウスは言っています。

これらすべての人々にそれは起こるでしょう--それが大洪水の時代に人類に起こったように--。太祖ノアは神が彼らの罪のために準備なさった罰を彼らに予告し、告げ知らせました。しかし罪人たちは彼を信じようとしませんでした。そして彼らの目の前で箱船が建造されていたにもかかわらず、彼らは自分たちの生活を変えずに、罰が彼らの上に来るまで、彼らが大洪水の中で窒息死するまで、罪を犯し続けました。「そして彼らは洪水が来てすべてを滅ぼすまで何も知らなかった」(マテオ24:39)のです。

兄弟よ、これは神があなたにお与えになる最後の呼びかけでないかどうか、誰が知るでしょうか? 「深淵がくいつくさず、私の上で穴が閉じぬようになしたまえ」(詩編 68:16)。それは罪が結果するものであり、穴の口を引き起こすのです。すなわち、彼の上で次第に閉じる、罪人がその中へ落ちる断罪の状態です。

その穴が完全に閉じない限り、脱出の何らかの希望はあります。しかしひとたびそれが閉じれば、あなたにとってさらにどんな希望が残されているでしょうか? 穴が閉じるということによって、私は罪人があらゆる恵みのあらゆるかすかな現れからも閉め出されるということ、そして無に止まること、賢明な人が言ったことの完成であることを意味します。すなわち、「悪い人間は、罪の深みの中へ落とされるとき、軽蔑する」(格言の書 18:3)。

彼は神の律法、忠告、説教、破門、脅迫を軽蔑します。彼は地獄そのものを軽蔑します。それゆえそのような人々は「多数の者が地獄に行く、そして私は残りの者のうちの一人である」と言う者として知られて来ました。そのように話す人は救われることができるでしょうか? 彼は救われることができます。しかし彼が救われるであろうということは道徳的には不可能です。

兄弟よ、あなたは何と言いますか? おそらくあなたはあなた自身神の懲罰を軽蔑してきたでしょう。あなたは何と言いますか? よろしい、もしあなたが軽蔑したのなら、あなたは何をすべきでしょうか? あなたは絶望すべきですか? いいえ、あなたはなさなければならないことを知っています。神の御母に依り頼みなさい。

あなたが絶望のうちにあり、神によって見捨てられるべきであるとはいえ、ブロシウス(Blosius)はマリアは絶望している者の希望であり、そして見捨てられた者の助けであると言っています。聖ベルナルドは次にように叫ぶとき、同じことを言っているのです。「御身に希望する、絶望する人間は絶望的であることをやめる」と。

しかしもし神が、私が滅びることをお望みであるならば、私にとってどんな希望があり得るでしょうか? しかし、神はこう言われます。「いや、わが子よ、私はあなたが滅びるのを見ることを望まない。私は悪人の死を望まない」(エゼキエル 33:11)。しかし、おお、主よ、そのときあなたは何をお望みになるのですか? 私は彼が回心し、そして私の恵みの生活を取り戻すことを望んでいる。しかし、その悪人が彼の道から立ち帰って生きることを望む。そこで、兄弟よ、イエズス・キリストの足許にすがりなさい。キリストを見なさい!キリストがどのように両手を拡げてあなたを抱くために立っておられるかを見なさい。

主よ、あなたはしばしばこの民を赦されました。あなたは地震による、隣の国々における疫病による、そしてそれ自身の市民の病気と死による破壊をもってこの民を脅迫なさいました。しかし、あなたは後で彼らに対して憐れみを注がれました:「あなたは民に対して好意を示されました。おお、主よ、あなたは民に対して好意を示されました。あなたは光栄をお受けになったでしょうか?」(イザヤ 26:15)あなたはわれわれを赦されました。あなたはわれわれを憐れみに満ちて扱われました。あなたはそのお返しに何を受けられたでしょうか?

あなたの民は彼らの罪を捨てたでしょうか? 彼らはその生活を変えたでしょうか? いいえ、彼らは悪いことからもっと悪いことへと歩み続けました。あのつかの間の恐れが過ぎると、彼らは再びあなたに背き、あなたの怒りを引き起こし始めました。しかし私の兄弟たち、おそらくあなたたちは神が常に待たれ、常に赦され、そして決して罰せられないと考えているのですか? 神は一つの季節の間は憐れみに満ちておられます。それから神は罰されます。

われわれは、神が罪を憎む以外のことをなさることがおできにならないということを納得しなければなりません。神は聖そのものです。そしてそれゆえに、その悪意が神の完全性にまったく反する神の敵、あの怪物を憎まざるを得ません。そしてもし神が罪を憎まれるならば、罪と同盟を組む罪人を必ず憎まなければなりません。「しかし、神には邪悪な者と彼の邪悪さは同じように憎いものである」(智恵の書 14:9)。おお、神よ、悲しみのいかなる表現をもって、そしていかなる理由でもって、あなたはあなたの敵に味方するためにあなたを見くびる者たちに不満を述べられないことがあるでしょうか。

「おお、天よ聞け、地よ耳を傾けよ。主が語られる。『私は子らを養い育てたが、彼らは私に逆らった。』」(イザヤ 1.2)。おお、なんじ、天よ、聞け。主は言われます。そして、おお、地よ、耳を傾けよ。私がそれでもって人間たちによって取り扱われている感謝の念を証言せよ。私は彼らを養い育て、彼らを私の子らとして高めた。そして彼らは軽蔑と無法をもって私に報いた。「牛はその飼い主を知り、ろばは主人のかいばを知るのに、イスラエルは私を知らなかった。彼らは後ろの方へ行ってしまった」(イザヤ 1:3,4)

主は続けて言われます。野の動物たち、牡牛やろばはその飼い主を知っており、彼に感謝している。しかし私の子らは私を知らなかった。そして私に彼らの背を向けた。しかしこのことはどうしてなのでしょうか?

「奉仕は動物によってさえ覚えられている」とセネカは言っています。動物でさえ彼らの恩人たちに感謝します。犬が自分を養ってくれる主人にどのように奉仕し従順であり忠実であるか、虎やライオンが自分たちを養う人々に感謝しているかを見なさい。そして、私の兄弟たち、今まで私たちにあらゆるものを与えてくださり、われわれに食物や衣類を与えてくださった神:それ以上何を[求めるのですか]? われわれが神に背いたときまでわれわれを存在させてくださった神をわれわれはどのように扱ったのですか?

われわれは将来にどのように行為しようと意図しているのでしょうか? われわれはこれまでに生きてきたように生きると考えていないでしょうか? われわれはおそらくわれわれにとって罰はない、地獄はないと考えていないでしょうか? しかし、主は罪を憎まざるを得ないとうことに耳を傾け、知りなさい。なぜなら、主は聖なる方だからです。ですから、神は罪人が頑固であるときには罪を罰せざるを得ないのです。なぜなら、主は正しい方だからです。

神が懲罰をなさるとき、それは御自分を喜ばせるためではなく、われわれが神を懲罰せざるを得ないようにするからです。賢者は、神が人間をそこへと断罪する欲求によって地獄を創造なさらなかった、そして神が彼らの地獄に落ちることを喜ばれないと言っています。なぜなら、神は御自分の被造物が滅びるのを見ることを望まれないからです。「神は死をつくらなかった。神は、生きる人が滅びるのを喜ばない。神が万物をつくったのは、万物を存在させるためだ」(智恵の書 1:13,14)。

そしてわれわれは何をなすべきでしょうか? あなたは尋ねます:われわれは絶望すべきか? と。いいえ、神はわれわれが滅びることをお望みになりません。「あわれみを受けるために、また時に適した助けの恩寵を見いだすために、信頼をもって恩寵の玉座に近づこう」(ヘブライ 4:16)と聖パウロがわれわれに勧告しているように、われわれがなすべきことはそのことです。

われわれの罪の赦し、そしてわれわれの上にかかっている罰の免除を受けることができるように直ぐに恩寵の玉座のところに行きましょう。時に適した助けによって使徒は神が今日われわれに喜んでお与えになろうとする、明日には拒否なさるかもしれない助けを意味しています。そこで、直ちに恩寵の玉座へ行きなさい。

しかし、恩寵の玉座とは何ですか? 私の兄弟たち、イエズス・キリストが恩寵の玉座です。「キリストは私たちの罪のとりなしをされるいけにえである」(1ヨハネ 2:2)。その御血の功徳によってわれわれのために赦しをを獲得することができるのはイエズスです。しかしわれわれは直ちに用いなければなりません。救世主は、ユデアにおいて説教をなさっている間に、病人を癒されました。そして進んで行かれたときに他のいろいろな親切な行いをお与えになりました。即座にイエズスから好意を願った者は誰でもそれを手にしました。しかし怠慢であった者、そして願いなしにイエズスに通り過ぎることを許した者は誰でも元のままにとどまりました。

「イエズスはあまねく地方を巡って善を行」われた(使徒行録 10:38)。聖アウグスティヌスにこう言わせたのはこのことです。「私はイエズスが通り過ぎられるのを恐れる」。それによって彼が表現しようとしていることは、主がその恩寵をわれわれに提供なさるとき、われわれはそれを得るために最善を尽くして直ちに一致しなければならない、さもなければ主は通り過ぎられ、そして主の恩寵なしにわれわれを残されるであろう、ということです。

「今日主の声を聞けば、...心をかたくなにするな」(詩編 94:8)。今日神はあなたを呼んでおられる。今日あなた自身を神に捧げなさい。もしあなたが、神にそのときあなた自身を捧げようと意図しながら、明日を待つならば、おそらく神は呼ぶことを止められるであろう。そしてあなたは捨てられたままにとどまるでしょう。

聖アントニウスが言っているように、憐れみの女王であり御母であるマリアもまた恩寵の玉座です。それゆえ、もしあなたが、神があなたに対して怒っておられるのを見るならば、聖ボナヴェントゥーラは罪人たちの希望に依り頼みなさいと勧めています。「行きなさい、罪人たちの希望に依り頼みなさい」。マリアは罪人たちの希望です。マリアは「聖なる希望の御母」(シラ 24:24)と呼ばれています。

しかしわれわれは、聖なる希望は自分の悪しき行いを後悔し、生活を変えることを決心する罪人の希望であるということ、しかしもし誰かがマリアが援助し救ってくださるだろうと希望して悪を追い求めるならば、そのような希望は偽りであり、そのような希望は悪しく、また無分別なものであるということに注意しなければなりません。

それではわれわれの罪を痛悔し、改める決心をし、それからマリアがわれわれを助け、救ってくださるという信頼をもってマリアに依り頼みましょう。

編集者注:今、痛悔のよい行いをしましょう。そしてこの危機の時代に、熱心に(そしてしばしば)ロザリオの祈りをしましょう。なぜなら、7月13日のファチマ・メッセージにおいてわれわれはこう告げられているからです:「ただロザリオの聖母だけがあなたを救うことができます。」

2004/04/04 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/04

最終更新日:2004/04/04

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