ファチマの聖母マリア

謙遜

われわれの霊魂を救うための鍵

The Fatima Crusader, Isuue 77, Summer 2004, p. 11

ニコラス・グルーナー神父、S.T.L., S.T.D.(Cand.)

前の論考(反キリストの前触れ)において、私はその魂を救うことを望んでいるすべての人々にとって現代がいかに危険な時代であるかを説明した。われわれは全般的な背教の時代に生きているのであり、家族や友人たちを含む多くの人々はさまざまの個人的な理由のために彼らの信仰を失ってしまった。しかし、その理由はまたバチカンから来ている背教のためでもある。この背教は彼らにその小教区レベルで促進されている。

背教はさらにハリウッド、宣伝、世俗のメディア、諸政党、そしてわれわれがその中に生きている全般的な文化--ヨーロッパであれ、北アメリカあるいは南アメリカであれ--によって促進されている。

アフリカとアジアは、われわれがそうであるのと同じように、彼ら自身の諸問題を苦しんでいる。特に公会議後の土着化という新奇さによって苦しんでいる。アフリカではヴードゥー教の儀式がカトリック典礼の中に組み込まれ、インドではヒンドゥー教の儀式がカトリック典礼の中に組み込まれている。これらの国々における様々の司教たちは実際にこの恥ずべきことを承認している。

このように、カトリック教徒は今や背教によって欺かれている。なぜなら背教はほとんどどこにでもあるように見えるからであり、また背教が過去において彼らが「信頼するに値する」と教えられたチャネルを通じて来ているからである。

換言すれば、過去においては、あなたたちは教皇、枢機卿たち、司教たち、教会当局者たち、司祭たち、そして修道会の模範と教えに従うことができた。われわれは、もちろん、世俗のメディアが必ずしもイエズス・キリストあるいはカトリック教会の友ではないということを知っていた。あなたたちは、諸政党が、王たるキリストの王国を前進させることよりもむしろ彼らの権力を前進させることにより興味を持っていることを知っていた。

しかし今日、われわれの小教区の司祭たち、司教たちそして修道会のほとんどすべてが聖なる伝統を通じてわれわれのところに来たのではない礼拝の儀式を奨励している。彼らのうちのある人々が今日奨励していることは、第二バチカン公会議以前には明白に拒絶されたであろう。たとえば、聖霊運動のさまざまの現われ(カリスマ運動)がそうである。それらは教会内部の今日の雰囲気の中ではカトリック的であるという外観を与えているが、そうではないのである。

新しい宗教をその新しい表現において促進している、司教事務室であれ、バチカンであれ、権力にあるすべての者は小さき人々を、彼らの「上長たち」がそれに協力しているがゆえに、大丈夫だと信じるように躓かせている。

それゆえに、われわれは、われわれを躓かせている人々が悪意、無知、弱さあるいは怠惰からそうしているにせよ、われわれの周りの人々の恥ずべき行為のゆえに、われわれの霊魂を救うためには最も困難な時代に生きているのである。

ある人々は無知からそうしている。彼らは自分たちがしていることが信仰とよき道徳に反しているということを知らない。

ある人々は悪意からそうしている。彼らはそうすることが悪いことであることを知っている。彼らはその勉学の中で充分に学んだ。しかし彼らは、偽りの宗教、公会議宗教に協力することが彼らに与える教会内部の権力、威信、地位を欲している。

ある人々は弱さからそうしている。彼らは「新しい宗教」を好まないけれども、彼らの給料を失い、協力することが彼らに与える生活における小さな事柄を失うことがないように、立ち上がることを恐れている。あるいは、彼らは彼ら自身よりももっと力のある人々に対して立ち上がり、率直に、明瞭にそして単純に真理を告げることを恐れているのである。

ある人々は怠惰からそうしている。彼らは自分たちの上長を恐れていず、また無知でもないのだけれども、そうである。彼らは自分たちがしていることが間違っているということを知っている。彼らは自分たちが促進していることが間違っていることを知っている。彼らは無知あるいは弱さによってそうしているのではなくて、怠惰によってそうしているのである。彼らは、もし自分たちが立ち上がるならば、それが労働であろうということを知っている。それは大きな努力であろう。それは彼ら自身のライフ・スタイルにおいて彼ら自身もっと精力的であることを要求するであろう。それは今彼らに対して中立的である敵を彼ら自身に対して肉薄させるであろう。

それが無知からであろうと、あるいは弱さあるいは悪意あるいは怠惰からであろうと、事実は大背教がわれわれの上にあるということである。事実は、現在の方向づけが、イエズス・キリストが建てた唯一の宗教 -- われわれの霊魂を救うためにわれわれがそれに属していなければならない宗教 -- が存在するというカトリック信仰を否定することへと霊魂たちを導いているということである。

事実は、われわれの霊魂を救うために、われわれはカトリック信仰に、まるごと全体的に、しがみつかなければならないということである。われわれはこのことを、アタナシウス信条がわれわれに告げているがゆえに、知っている。われわれは使徒たちからわれわれに手渡されて来たカトリック信仰において、そしてカトリックの諸儀式に従って、神を礼拝しなければならない。この真のカトリック礼拝は受け取られたそして承認された諸儀式のうちに見出される。

われわれから取り去られることができない、受け取られ、承認された儀式はトレント公会議のミサである。われわれは、次のように述べている聖ピオ五世の教皇大勅書Quo Primumから知っている。

「そして永久に、われわれは、彼らが必ずこのミサ典礼書(トレント公会議のミサ典礼書)を、良心の何らのためらいもなく、いかなる罰、宣告、あるいは非難を招くこともなく、いかなる教会においてもミサを歌いあるいは唱える際に用いることを認めそして許可する。彼らがこのことを行い、そしてこのミサ典礼書を自由にまた合法的に用いることができるように、われわれはわれわれの使徒的職務によって、そして現在の文書によって、これを永遠に認め、かつ許可する。」

誰も聖なるミサを、われわれによって決定された以外の他の仕方で捧げることを要求されることはないであろう。司牧者たち(Praesules)、管理者たち、修道会員たち、宮廷礼拝堂附き司祭たち、いかなる修道会の他の在俗司祭たちの誰一人も同様にそのように要求されることはないであろう。そしてわれわれは、同じようにまた、誰も、ある人によってこのミサ典礼書を変えるように強制されることがないと決定しかつ宣言する(すなわち、公式に命令する)。あるいは、この文字が取り消されたり、その効力が制限されたり(moderari=近代化される)することがなく、常にそのすべての力強さにおいて(in suo existent robore)堅固に強く維持されることを決定しかつ宣言する。

教皇ヨハネ・パウロ二世が1986年に9人の枢機卿が会合する委員会を持ったのはこのトレント公会議のミサについてである。このミサが今なおあらゆるカトリック司祭によって祝われることが許されているということは全員異議なく同意された。われわれはまたこのことを次のように述べているトレント公会議から知っている。

「受け取られ、承認されたカトリック教会の諸儀式」は「いかなる地位の、教会におけるいなかる司牧者によっても(per quemcumque ecclesiarum pastorum)他の新しい儀式へと」変えられることはないであろう(トレント公会議、第7セッション、カノン13.)(Dz. 856)

われわれは、われわれに違ったやり方をさせようとする人々に抵抗しなければならない。われわれは混乱を引き起こす、新しい儀式、新しい教義、新しい実践、新しい話し方に協力しないことによって、少なくともかなりの程度に、抵抗しなければならない。われわれは、能力と機会とを持っている程度に応じて、カトリック信仰とカトリックの諸儀式を擁護することによって、われわれの信仰とわれわれの信仰の要塞を破壊しようとする人々に対して、新しい宗教を促進しようとする人々に対して、積極的に抵抗しなければならない。

用心しよう:われわれはまた謙遜でなければならない

しかしわれわれはその上にさらにもう一つの問題に遭遇させられている。われわれはまた悪魔の狡猾さに抵抗しなければならない。われわれは高慢に対して自ら霊的に用心しなければならない。なぜなら、いかなる理由であろうと、神はわれわれに伝統的なカトリック信仰の真理を示されたのであり、われわれに偽りの公会議宗教はカトリック信仰に反するということを指摘なさったからである。しかしわれわれは、われわれがこの恩寵を持っているのはわれわれの功績、われわれの努力によるのではないということを理解しなければならない。誰も自分自身の力だけでは--予定された人、選ばれた人でさえ--欺かれないことはできないであろう。われわれがはっきりと見ることができるのは、神の憐れみと神の恩寵のゆえである。「選ばれた者でさえ、もしそれが可能であるならば、欺かれるであろう」とイエズスはわれわれのような時代について言われた。

われわれはそれが神の恩寵によってであって、われわれ自身の何らかの功績によってではないということを理解しなければならない。神はわれわれにこの大きな恵みをお与えになった。神はわれわれに対する御自分の投資に対する返礼を期待しておられる。なかんずく、聖人になることを期待しておられる。それゆえ、カトリック信仰の擁護、カトリック的な実践と秘蹟の擁護において、われわれは決して勇気を失ってはならないし、決して愛徳を失ってはならないのである。しかしわれわれは高慢になってはならない。

われわれは、まず第一に、われわれ自身の霊的福祉のための一つのプログラムを持つ必要がある。そのプログラムはファチマの聖母によって概略が示された。そしてそのプログラムは唯一の真の神の礼拝、単に理論においてではなく、実践において礼拝することに存する。

だからこそわれわれは、天使が1916年に子どもたちに教えた祈りをしばしば祈らなければならないのである。われわれは、独りでいるときには、この祈りを唱える間、天使が彼らに教えた姿勢をとらなければならない。すなわち、地面あるいは床にひれ伏しながらこの祈りを唱え、そしてわれわれが次の祈りを唱えるときにはいつも神の面前にいることを自覚することである。

「おお、わが神よ、私はあなたを礼拝し、あなたを信じ、あなたを望み、あなたを愛します。あなたを礼拝せず、あなたを信じず、あなたを望まず、あなたを愛さないすべての人々のために、私はあなたに許しを求めます。」

われわれは、イエズスとマリアの聖なる御心に対して、それらがわれわれの祈りを聞くことを待っておられるということを想起しながら、しばしば祈ることによって、天使が1916年に与えた忠告に従うべきである。聖母が要求なさったように、われわれは罪人たちの回心のために犠牲を捧げるべきである。われわれはそのなすすべてのことが、罪人たちの回心のためにわれわれが神に捧げる一つの犠牲であるようにすべきである。

とりわけ、われわれはすべての矛盾、不如意、侮辱、理解と考慮の欠如、仕事、天候、友人あるいは敵のいずれかによってわれわれに与えられる困難を受け容れるべきである。それをすべて、罪人たちの回心のために神、イエズスとマリアに捧げるべきである。

われわれは1916年秋に天使が彼らに教えた祈りを、特に祝せられた秘蹟[御聖体]の前で、祈らなければならない。われわれはまた自分たちの部屋の中で個人的に、少なくとも、われわれの近くの礼拝堂あるいは教会の聖櫃の中に現存しておられる御聖体の前に居ると想像しながら、その祈りをするべきである。われわれはまた、三人の子どもたちが、天使が次のように言ったことを為し、そして繰り返したように、周りに誰もいない時には、地面あるいは床にひれ伏して、この祈りをすることができる。すなわち、

「おお、いとも聖なる三位一体、父と子と聖霊よ、私は、あなたを深く礼拝し、それによって神が背かれておられるすべての冒涜、無法そして無関心を償うために、世界のすべての聖櫃のうちに現存しておられるイエズス・キリストのいとも聖なる御身体と御血、御霊魂と神性とをあなたに捧げます。そして私は、あなたが哀れな罪人たちを回心させられますように、イエズスのいとも聖なる御心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳にすがります。」

謙遜は必要である

われわれは高慢に対して用心しなければならない。それはすべての大罪の中の大罪である。他のすべての罪はこの高慢から来る。そして高慢は、高慢を持っているまさにその人間から自分自身を隠すという特に卑劣な性質を持っている。われわれはしばしば、「心の柔和にして謙遜なるイエズスよ、わが心をあなたの心に似たものとしてください」と祈らなければならない。

この論考を読んでいるすべての人は、私自身も含めて、高慢を持っている。われわれは皆それに対して戦わなければならない。あなたたちは自分たちが持っているさまざまの種類の高慢を学ばなければならない。そしてそれに対して絶えず戦う努力をしなければならない。

あなたたちを助けるために、われわれはこの号の18ページに小冊子『七つの大罪』から、高慢の章を印刷した。

高慢を克服するために、われわれは謙遜でなければならない。謙遜になる第一歩は神が私たちに耐えることを許されるすべての屈辱を受け容れること、われわれが値しない人々をさえがまんすることである。このことは、われわれが自分たち自身を決して守らないということを意味しない。しかし、それはわれわれが自分たち自身に対して次のことを認めることを意味する。すなわち、「たとえ私がこの問題、あるいはこの非難について罪がないとしても、私がそのことに対して謙遜であるべき、私が罪を犯した人々がいる」。

われわれは謙遜のために祈らなければならない。われわれは特にロザリオを祈らなければならない。なぜなら、聖母がわれわれに約束しておられるように、ロザリオはわれわれが悪徳を克服し、罪を減らしそして誤謬を克服することを助けるからである。われわれは謙遜において増大しないならば、これらの賜物を受け取ることはできない。われわれはしばしば諸秘蹟を受けなければならない。特に少なくとも月に一度は、なるべくなら週に一度は、良い聴罪師に告白しに行くべきである。

他のすべてのことにましてわれわれが実践しなければならない他の徳は愛徳である。もしわれわれが神から諸々の賜物を受けたならば、(実際、われわれは皆受けたのである)特に信仰、知識そして理解の賜物を受けたならば、われわれはこれらの賜物を霊魂たちを地獄の火から救うために用い、そして彼らの救いのために犠牲と祈りを献げなければならない。

われわれはまた、イエズスがそれによって背かれておられる背き、冒涜、無法そして無関心に対する償いをすることによって、イエズスに対するわれわれの愛を表明しなければならない。

われわれは、マリアの無原罪のおん宿り、その永久の処女性、神の母であることを冒涜する人々のために、マリアの聖像、御絵においてマリアを攻撃する人々のために、子どもたちの心からそのような良き母への信心を取り去ろうとする人々のために、マリアの汚れなき御心に対する償いをしなければならない。これらは、そのためにわれらの主と聖母がわれわれにマリアの汚れなき御心に対する償いの五回の初土曜日[の信心]をするようにお求めになった特別の侮辱である。

それでは今直ちにわれわれは何を為さなければならないか?

  1. 神の前にへりくだり、こう言おう。「おお、神よ、罪人なるわれのために憐れみをたれ給え。」(ルカ 18:13)

  2. 今立ち止まって三回「天使祝詞」を唱え、聖母にわれわれの生涯の残りを毎日そうすることを約束しよう。われわれが毎朝起きるとき第一にそうする習慣を作ることを約束しよう。

  3. 今毎日(少なくとも5連の)ロザリオの祈りをする決心をしよう。もしわれわれがすでにそう決心していたならば、その決心を新たにしよう。

  4. 茶色のスカプラリオを身に着けよう。それを毎日、常に、どこでも、身に着けよう。それが破れたとき今身につけているものに取り替えるために余分に一つあるいは二つを手に入れよう。

  5. 異なった種類の高慢について読むことによおていかにわれわれが高慢であるかを学ぼう。[この号の]18ページを見て、毎日われわれの高慢と戦う決心をしよう。

  6. 背教があなたを、あなたの家族をそして友人を誘惑するとき、それに抵抗するよう決心しよう。

  7. 第二バチカン公会議以前にそれが常に捧げられていたようなミサに出席する決心をしよう。第二バチカン公会議以前に承認されていたカトリックの書物を読み、他の人々にもそうするようにさせよう。聖人たちによって推奨された種類の霊的読書をしよう。新しい神学によって鼓舞された書籍に従ったり、読んだりしないようにしよう。他の人々にも同じようにさせよう。

  8. この論考を繰り返し読み、聖母に、その他にあなたがすることができること、しなければならないことを示してくださるように願おう。

2004/09/16 三上 茂 試訳

作成日:2004/09/16

最終更新日:2004/09/16

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