ファチマの聖母マリア

汚れなきマリアの十字軍の理想

聖マキシミリアノ自身による入門

The Fatima Crusader, Issue 72, Winter 2003より

どのように読むか? あなたが汚れなきマリアについて読むための時間に近づくときは、常にあなたが一人の生きている、愛すべき人物、純粋であり罪のいかなる汚れ持っておられない方--祝せられたおとめマリア--と接しているということを思い起こしなさい。

あなたが読んでいる言葉は、その方がどなたであるかを十分に表現できないということを思い起こしなさい。なぜなら、これらの言葉は地上の言語から取られたただ人間的でしかない言葉、人間の形式における事柄を表現する言葉にすぎないからである。汚れなきマリアは神に完全に属する存在である。それゆえ、われわれは、マリアはわれわれを取り巻いているすべてのものをいわば無限な仕方で超えておられると言うことができる。マリアはあなたに御自身をあなたが読む文章を通じて明らかになさるであろう。そしてマリアは、著者自身でさえそれを書いているときに考えなかったであろう思想、確信そして感情でもってあなたを鼓舞なさるであろう。

あなたが読むとき、あなたの良心を浄化することに集中しなさい。あなたが告解の秘蹟によってあなたの霊魂をしばしば聖化すればするほど、あなたの思想は汚れなきマリアに関してそれだけ真理に近いものとなるであろう。マリアの助けなしには、あなたはマリアについて何事をも知ることができない、そしてその結果あなたはマリアを愛することができないであろうということを心から認めなさい。マリアだけがあなたの精神をますます多く照らし、そしてあなたの心を愛で強め、そしてそれを御自身に引き寄せられるのだということを理解しなさい。その理由で、またあなたの読書の実り全体はマリアへの祈りに依存しているということを思い起こしなさい。

あなたが聖母に対する一つの祈りを唱えるまでは読書を始めてはいけない。沢山読もうと試みてはいけない。むしろ、特に何か気の散ることがあなたの心の中に起こる時には、あなたの読書をマリアに対するあなたの心の精神的な熱望と織り交ぜなさい。あなたが読書を終えたとき、その読書からマリアが最善の実を産み出されるように、マリアに十分な結果をもたらす自由を捧げなさい。

聖母に関するどのような書物も好奇の精神において読むべきではない。むしろゆっくりとして注意深く読むべきである。われわれが読んだことは何であれ、実行に移されるべきである。

思想の豊かさはそのように美しく、そしてそれはわれわれの精神をそのように多くの省察へと開く。そして同時に、われわれの精神を汚れなきマリアへ向けられた善い意図のより頻繁な更新へと 導く称賛すべき幸福の感情を創り出す。

霊的読書のためには毎日5分間だけを捧げることで十分である。しかしわれわれはそれについて不断に続けるべきであり、そしてこれらの数分間を読書に十分に捧げるべきである。これはわれわれにとって、われわれの霊魂の生活における進歩の保証であろう。それはまたわれわれの霊魂のための健康な食物でもあろう。なぜなら、それはわれわれに聖性の高みへの、また汚れなきマリアとのより大きな一致へのわれわれの旅におけるより高い渇仰を与えるであろうからである。

聖マキシミリアノ・マリア・コルベの著作からの抜粋

汚れなきマリアを通じて、われわれは偉大な聖人になることができ、そしてそれを一つの非常に容易な仕方で達成できる。

すべての恵みの仲介者である汚れなきマリアはあらゆる時代のそしてあらゆる場所での回心と聖化の恵みを手に入れることがお出来になる。マリアは宇宙における各人の霊魂を再生することを望んでおられる。マリアはまたわれわれの秩序を再生することを望んでおられる。

汚れなきマリアを通じての回心と聖化の意味は何であるか? それは回心と聖化の恵みがマリアを通じて獲得されるということを意味する。

汚れなきマリアを通じて「私は私を強めてくださる御者においてすべての事柄をなすことができる。」そしてなぜマリアを通じてであるか? 教会はわれわれに、一連の諸教皇の言葉において、神の国はいわば二つの部分に分けられていると告げる。神は御自身のために正義を割り当てる機能を保持なさった。しかし祝せられたおとめに神は憐れみを与える機能を割り当てられた。

そして神がその無限の善性において、われわれの違反のためにわれわれを罰することをお望みにならないとき、神はわれわれに対する御自分の憐れみを実行するために祝せられた御母にわれわれをお与えになった。再びわれわれは「汚れなきマリアを通じて」という文言をつけ加える権利を持っている。なぜなら、何であれ救いと聖化へと導くものは、霊魂における神の恵みの働きから出て来るのであり、そして神の御母は、−ちょうどイエズス・キリストがわれわれの仲介者であるのと同じように--すべての恵みの仲介者だからである。

われわれはマリアがわれわれの贈り物を汚れのない、そして受け入れ可能なものとしてくださるように、汚れなきマリアを通じてイエズスにわれわれの贈り物を捧げる。そしてイエズスを通じてわれわれはそれらを御父なる神に捧げる--それらが、イエズス・キリストの犠牲と結ばれて、無限の価値を持つものそして神の威厳に相応しいものとなるように--.

マリアがイエズス・キリストにお与えになるものは何であれ汚れのないものであり、われらの主が御父なる神にお与えになるものは何であれ無限である。それゆえに、われわれがマリアとイエズスを通じて神にお捧げする栄誉は汚れなきものであり無限なものである。

われわれの生活はマリアを通じてのこの地上でのイエズス・キリストの御生活の継続であるべきである。汚れなきマリアの助けでもってわれわれはあらゆることをすることができる。われわれが汚れなきマリアへ近づけば近づくほど、それだけわれわれは聖なるものとなる。

神の御母はすべての恵みの仲介者である。そして聖性は神の恵みの完全な作品である。

悪魔は、われわれが汚れなきマリアに近づけば近づくほど、それだけマリアの手からわれわれが多くの恵みを手に入れるであろうということを知っている。そのために、悪魔はあらゆる犠牲を払ってでも、イエズス・キリストに対する信心を装ってさえ、霊魂たちを祝せられた御母から遠ざけようと努力する。悪魔は神が汚れなきマリアを通じてお働きになるであろうことを知っている。悪魔は霊魂がマリアから離れるときそれほど多くの恵みを手に入れないであろうということを知っている。

それゆえに、われわれにとって、マリアを通じて、マリアと共に、マリアのうちに生きることは非常に重要なことなのである。

われわれが恵みのこの道に惹きつけられるかどうか、われわれが光のうちにいるのかそれとも暗闇のうちにいるかどうか、われわれは常に、われわれがわれわれの汚れなき御母の近くにい続けるならば、前進するのである。

汚れなきマリアは、われわれがイエズスの聖心にまで登って行く梯子である。もしその梯子がわれわれから取り去られるならば、われわれはわれわれの目標に到達しないであろう--われわれは地に落ちるであろう。われわれはマリアがわれわれをイエズス・キリストへと導いてくださることを堅く信じている。もし誰かがこのことに反することを教えるならば、その人は破門され、非難されよ。

もしわれわれが汚れなきマリアの御心をもってイエズス・キリストを愛し、マリアの御心をもってキリストを受け、マリアの熱望をもってキリストを愛し、マリアを通じて償いと感謝の行為をすることを望むならば、そのとき--われわれが起こっていることを理解しようとあるいは感じようと--われわれは本当にマリアの御心を通じてイエズスに近づくのである。あるいはむしろ、マリアはわれわれがマリアの道具となるためにわれわれを通じてイエズスを礼拝なさり愛されるであろう。

汚れなきマリアの愛

汚れなきマリアの愛はそれでもって被造物が愛することができる最も完全な愛である。マリアの御心をもってイエズスの聖心をもっともっと愛するように努力しよう。これはわれわれの最も大きな努力であるべきである。

単に多くの霊魂を獲得するばかりでなく、できる限り多くの霊魂を獲得するよう、そしてマリアを通じて彼らをできる限り密接にイエズスのいとも聖なる御心に結びつけるよう努力しよう。

これは、最初にわれわれ自身の心を、そして次に他の人々の心を征服するための計画である...

汚れなきマリアの一つ一つの考え、行動そして苦しみは神の愛の、そしてイエズスの愛の「最も完全な行為」であった。

マリアが神の御心に対して抱いておられた最も完全な、最高度の愛が地を燃え上がらせるように、われわれは存在しそして時の終わりまで存在するであろうすべての霊魂に、よい模範、言葉、書き物、印刷、ラジオ、絵画、彫刻等々の手段を通じて、あらゆる職業における人々の日常生活の実践的な状況において汚れなきマリアが考え、言いそして行われたであろうことを告げなければならない。

神の愛の本質は専らそれぞれの瞬間における神の御意志の実現に存する。この実現がわれわれに困難、嫌悪あるいは反発をさえ引き起こすことが多ければ多いほど、それだけ愛の現れもそれだけ大きくなるであろう。しかしこれらの困難でさえ、それらなしには存在し得ないこの愛の本質に属するのではない。それらはただこの愛を現すためにのみ役立つのである。

汚れなきマリアに対するわれわれの愛において成長することにおいてお互いに競い合おう。そしてそうすることにおいてわれわれは他の人々をマリアをもっと愛するように誘うであろう。われわれの心はそのように小さく、そのように弱い。われわれはマリアがわれわれを愛しておられるその愛に決して相応しく立ち戻ることはできないであろう。

汚れなきマリアに対するわれわれの愛をもっと、そしてなおもっと強め、そして、子どもたちがその母親に依り頼むように、皆でマリアにいつも依り頼むように努力しよう。

完全な愛の行為は霊魂を再生させる。しばしばこの手段を利用しよう。それは実際問題としてはそれほど困難ではない。なぜなら、この行為の本質は--犠牲の愛:報償あるいは罰の動機を無視して汚れなきマリアに喜びを与える自己犠牲を通じての一つの努力だからである。

神の愛の本質は感情あるいは甘美さの感動させる言葉に存するのではない。それは専ら意志に存する。それゆえ、もし霊魂がマリアの意志と共に聖性、そして神の愛への道において辛抱することを決心するならば、そのときたとえ心の感情が起こらないとしても、霊魂が着実に進歩しており、そしてどんどん高く登っているということを確信することができるのである。

「完全さの絆」である愛はただ苦しみ、犠牲そして十字架によってのみ養われ、かきたてられる。

マリアのために他の人々を愛することにおいて、われわれは汚れなきマリアにわれわれの愛の最大の証拠を与えるのである。

汚れなきマリアがわれわれを愛しておられるということをわれわれはどのようにして証明することができるか? もしわれわれがマリアを愛するならば、そのときマリアはわれわれをはるかに多く愛してくださる。

汚れなきマリアの無制限の愛によって何が意味されるか? 汚れなきマリアは単にすべての聖人を高く超えてばかりでなく、また天使たちや大天使たちをも超えて、ケルビムとセラフィムを超えて上げられておられるほどのそのような愛を通じて神に結びつけられておられる。それゆえに、汚れなきマリアに対するわれわれの愛が限りないものであればあるほど、それだけそれはわれわれをマリアに高く上げ、またわれわれを天使たちの群れを超えて引き上げながら、愛によってわれわれをマリアと結びつけるのである。

汚れなきマリアの限りない愛によって何が意味されているか? マリアは神に最も近く、そしてわれわれはマリアに最も近い。そしてそれゆえに、マリアを通じて神御自身に近いのである。神はわれわれに、われわれがマリアを通じて神に達することができるためにあの白い梯子をお与えになった。他の類比を用いるならば、マリアはわれわれをその母親の心に抱きしめ、そしてわれわれを神御自身へと連れて行かれるのである。

しかしこれらは単に異なった絵、類似、類比である。事実は比較にならないくらいもっと美しく、もっと高貴でもっと神的である。

「あなたの母を見なさい」

[a]マリアを犠牲の点まであなたの母として愛しなさい。マリアは御自身の神の御子を犠牲になさる点までさえあなたを愛された。受胎告知においてマリアは自由に御自分の子どもとしてあなたを受けられた。

[b]マリアはあなたを御自身に似たものとされるであろう。マリアはあなたをますます純粋なものにし、そして御自分の恵みの乳であなたを養われるであろう。ただマリアにあなたを自由に導かせ、あなたを形成させなさい。あなたの霊魂の純粋さを見張りそれをマリアの愛において純化しなさい。たとえあなががしばしば大罪に陥ることがあるとしても、落胆に道を譲ってはいけない。完全な愛の行為はあなたを純化するであろう。

[c]マリアが御自分の子どもに対する母親の義務を果たされる際にどんな仕方でも制限されないように、マリアがお望みになることをあなたに対してなさるようにさせなさい。マリアが何らかの目的のために制限なしにご自分の意志に一致してあなたをお使いになれるように、マリアの所有物となりなさい。

あなたはあなたの貴婦人、あなたの女王であるマリアに絶対的に属している。奴隷は彼の仕事を売る。あなたはあなたの仕事とあなたの苦しみそして全体的な自己を一つの贈り物として捧げるのである。

マリアにあなたの望みを無視するように頼みなさい。そして常に「マリアの」意志に従って自由にあなたを扱われるように願いなさい。誰かがかつて記述した、あるいは誰かが、何処かでいつか成功するであろうあらゆる仕方で、マリアの子ども、マリアの召使い、マリアの愛の奴隷でありなさい。一言で言えば--他の人々が、あなたがそうであると同じように、そしてあなた以上にそうでさえあるように、もっとマリアのものとなるように、--あなたがマリアの真の十字軍兵士であるまでにマリアのものでありなさい--このようにして、世界中で今生きている人々そして生きるであろう人々が皆蛇との闘いにおいてマリアと協力して働くであろう。

われわれの使命は偉大な使命である--われわれの毎日の生活において汚れなきマリアの十字軍兵士であるところのものを示すこと--

私は、もし汚れなきマリアがそのための御自分の意志を明らかになさったならば、聖なる従順において、いかなる瞬間にもいかなる場所へも宣教へと出発する用意ができている...

われわれは、汚れなきマリアに対するその愛を保証するために、苦しみ、働き、そして死ぬ十字軍兵士として何処でも、いつでもどんな遠征のためにも準備が出来ている汚れなきマリアの十字軍兵士である!そしてマリアのために全世界を勝ち取ることへと急ぐためにその血を最後の一滴まで流す十字軍のような様式においてそうなのである。

われわれはマリアの「十字軍兵士たち」と呼ばれる。なぜなら、マリアに属する者は誰でもただ単に汚れなきマリアに自分自身を奉献するだけではなく、彼が自分自身の心を捧げたと同じように、他の人々の心をもマリアに捧げるために、彼独りができる限り、努力するからである。そしてこのようにしてマリアのためにできる限り多くの心--今存在している、あるいは世界の終わりまでさえ存在するであろうすべての人々の心--を獲得するのである。

汚れなきマリアの十字軍に属する霊魂は彼の霊魂についてさえ悩むことを止める。彼はあらゆることが彼の意志に依存するのではなくて、汚れなきマリアを通じて神の御手から来るということを認める。そして彼は、自分の側で、汚れなきマリアの意志をより完全に学び、それが自分の血を流すまでさえの多くの苦しみの犠牲を払ってであっても、それをより忠実に果たすことができるすべてのことをなそうと努力する。

汚れなきマリアの十字軍兵士は悪の広まりに無関心ではなくて、彼の全心をもって悪を憎み、あらゆる機会に、あらゆる時間に、あらゆる場所で、人間の霊魂たちを毒するこれらの悪に対して戦う。

霊魂が汚れなきマリアの助けをもって達成できないいかなる英雄的行為もない。

汚れなきマリアを通じて、そしてマリアの御手における一つの道具として、ただ神のみのために苦しみ、働きそして死ぬこと--これは汚れなきマリアの十字軍兵士に相応しい一つの理想である。

汚れなきマリアの十字軍兵士はイエズスと神に属する最も速いそして最も容易な道は汚れなきマリアのうちに、そして汚れなきマリアを通じてであるということを知っている。彼は汚れなきマリアが、彼があらゆる可能な仕方で努力するとしても、彼自身ができるよりも比較にならない仕方で彼のうちに、そして彼を通じてイエズスを愛されるであろうということを知っている。

彼は、あらゆる恵みがイエズスとマリアを通じて御父なる神から霊魂に入って来るのであって、他のいかなる仕方ででもない、ということを知っている。そのようにイエズスとマリアを通じてこの恵みに対するすべての答が来るので、あらゆる返報、愛に対する愛は御父なる神に達することができるのである。彼はこれが最も容易で最も高い聖性への、そして神の最大の栄光への唯一の道であるということを知っている。

霊魂が、ますます多数の霊魂を獲得する点にまで、そして汚れなきマリアを通じてますます多くイエズス・キリストの所有物となる点まで、そしてキリストを通じてますます完全に天にまします御父なる神の所有物となる点まで、汚れなきマリアの所有物となればなるほど、それだけ多くその霊魂は汚れなきマリアの十字軍兵士となり、そしてそれだけ深く十字軍の本質の中へと入るのである。

あらゆる意味において汚れなきマリアの所有物であるように努力することは十分ではない。われわれは他の霊魂たち、単に生きている者の霊魂だけでなく、また存在するようになるすべての者の霊魂をも、何らの制限もなしにマリアのところへ引っ張るためにマリアを放射させることを望む。一言で言えば、われわれは、全世界とあらゆる一人一人の霊魂をマリアのために--できるだけ速く--できるだけ速く--できるだけ速く!--征服するためにわれわれの血の最後の一滴まで完全に犠牲にする準備のできた十字軍兵士となるまでますますマリアのものでありたいと望んでいる。

汚れなきマリアを知りそして愛した者、そして自らを、何も残さなかったほどに、自分自身のためには何一つ留保しなかったほどに完全にマリアに捧げた者、あらゆる意味においてますます多くマリアのものとなることを欲する者、霊魂たちの王国に対するその心配において、他の人々が自らをより完全にマリアに捧げることを望む者、この目的のために可能なあらゆることをなし、そして、たとえ彼が多く苦しまなければならないとしても、この理想を彼の血でもって保証しなければならないとしても、どんな機会をも逃さないように努力する者、実際、マリアのために霊魂たち--彼らが何処にいようと、民族性あるいは人種の区別なしに、彼らが現在生きていようとあるいは将来において生きようと--を獲得するために、彼自身の生命を犠牲にすることを彼の望みの頂点、最大の幸福と見なす者--これは汚れなきマリアの完全な十字軍兵士である。

マリアの意志、私の意志ではない

汚れなきマリアに対するわれわれの信心のあの甘美さを常に感じたいと望んではならない。なぜなら、それは霊的な貪欲であろうから。われわれが好むようにではなく、マリア御自身の意志に従ってマリアによって導かれることを自らに許すようにしよう。それらがどれほど聖なるものであるとしても、常に愛撫の時間があるわけではない。われわれはまた保護、無味乾燥、遺棄をも必要とする。それゆえに、マリアがわれわれの聖化のための一つの手段としてお望みになるときにはそれらを適用していただこう。ただ一つの事柄だけが絶えず深められなければならない。そしてそれはわれわれ自身をますます完全にマリアに捧げ、聖なる従順によってマリアの意志への従順を示すためにわれわれ自身をマリアによって導かれるようにしていただく望みである。

生活の中でできるだけ多く十字架を避けようと努め、何事においても禁欲を実行しない者はまだ幸福の意味を知らないのである。愛のために多く苦しむ者はまた愛の深さを楽しむことができる。

農夫にとって収穫がその実りを納屋や家畜置き場の中へ集める最大の努力の時期であるように、霊魂にとって、その間に霊魂ができるだけ多くの好意として集めることができる骨の折れる収穫がある。しかし苦しみと十字架で一杯となる瞬間もある。

神がわれわれに苦痛と苦しみをお与えになり、そして霊魂が棘だらけの土地を歩くとき、それは神がそれを高い完成のために定め給うたことを喜ぶ時間である。

神は、御自分ががこの世において懲罰をお与えになる人々に対して特別の愛をお示しになるのである。なぜなら、煉獄においては罰は長く重い。しかしここ[地上]での十字架への自由な服従はわれわれを天国におけるより大きな栄光に値することができる者とする。それゆえ、次の諺があるのである。「神は御自分が愛し給う者を罰し給う」。

あなたの十字架を担いなさい

霊魂が神の恵みの助けでもって強くなればなるほど、彼の肩に載せられる十字架はそれだけ大きくなる。そしてこのことにおいて彼は十字架につけられた御者の生涯を熟考することができる。

もし外的および内的な暗闇にあって、悲しみに満ち、仕事で圧倒され、慰めなしに苦しみ、いたるところで迫害され、不幸に取り囲まれ、すべての者によって嘲られ、孤独であるならば--イエズス・キリストが十字架で見捨てられたように--もしそのときわれわれがすべての者のために祈り、そしてあらゆる可能な手段ですべての者を神に惹きつける努力をし、マリアを通じて彼らを神により密接に結びつけるならば、われわれはより多くの恵みを勝ち取るであろう。

流れに逆らって舵を取ろうと望む水夫は絶えず漕がなければならない。さもなければ、流れは彼を押し戻すであろう。われわれが疲れたとき、われわれが困難を見出すとき、神の御母がわれわれを助けてくださるようもっと大きな信頼をもって御母のところへ行こう。そして繰り返し繰り返し汚れなきマリアの意志をよりよく実現するために前進しよう。

苦しみと犠牲は、苦しみだけが愛の本質ではないけれども、愛の最善のものである。

犠牲:味覚、聴覚そして特に視覚のような五感の禁欲を通じての犠牲のない愛はない

このことは人が世俗的な人々の間にいるときには特に当てはまる。

諸々の困難の場合には、汚れなきマリアが御自分の意志に従って--それらを取り去り、それらを減らし、それらを増やしあるいはそれらを変化のないままに残し--それらを処置なさるように、それらすべてをマリアに捧げなさい。

最も大きな困難でさえ、われわれを失望させるのではなく、むしろ、これらの困難に打ち勝つためにわれわれの意志を強固にし、強くするべきである。

多くの異なった誘惑や困難がわれわれの霊魂を圧倒するとき、霊魂が見捨てられ霊的な暗闇の中に取り残されたと感じるとき、われわれが、十字架に釘づけにされたイエズス・キリストのように、いわば、何の釈放あるいは慰めなしに十字架にかけられ、しかもこのことにもかかわらず、われわれが静かにそして喜びに満ちて受け入れ、そしてその十字架を長い間担うとき--これは真の完成である。霊魂はそれがいかなる高みに上がっているのか、そしていかに大きな栄光を神が彼のために天国に準備しておられるかを理解しない。

愛がわれわれの内部に浸透しそして溢れるとき、そのとき犠牲はわれわれの霊魂にとって一つの必然性となる。犠牲から霊的な喜びが出てくる。

苦しみは愛の学校である。

愛が犠牲によって生き、そして養われるということを思い起こそう。内的平和のために、愛によって高められていることのために汚れなきマリアに感謝しよう。しかし、善いそして美しいあらゆるものでさえ愛の本質ではないということを忘れないようにしよう。イエズス・キリストが十字架の上で「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給うや?」と言われたとき、それはこの愛、その永遠の存在、それのまさに頂点であった。

非常にしばしば、われわれの周りで嵐が荒れ狂い、そして雷が轟音を発するであろう。しかしもしわれわれが留保なしに汚れなきマリアに奉献しているならば、われらの愛する御母がそれを許されるのでなければ、いかなる害もわれわれのところには来ないと確信できる。そして働きと苦しみにもかかわらずそれが霊魂たちの救いのためであるとき、われわれは甘美な休息を見出すであろう。そして再び、十字架がわれわれを圧倒するとき、神の恵みはわれわれの心を温め、そして、われわれが制限なしに苦しみに対する渇きでもって燃やすようなそのような愛でもってそれらに点火し、われわれがどれほどわれらの御父、そして最良の友イエズス・キリストそしてその愛する御母汚れなきマリアを愛しているかを示すために、賤しめられ、軽蔑され、そして見捨てられさえする渇きでもって燃やすであろう。

われわれが汚れなきマリアのためにそれほど多く力の限りを尽くし苦しんだかを理解するとき、どのような幸福が死の床にあるわれわれを充たすことか。

愛の炎

愛は怠惰に休息しないで、あらゆるものを自らに引き寄せる火のように広がる。そしてわれわれ、汚れなきマリアの十字軍のメンバーもまた、これらの愛の炎のうちに自分たち自身が変容させられるように--そしてそのとき同じ火が世界に存在している、そしてこれから存在するであろうすべての霊魂を変容させるように努力しなければならない。

祈り、われわれの十字架を担おう。友人であれ、敵であれ、われわれのすべての隣人の霊魂を真剣に愛そう。そして一つの目的を視野に入れて--汚れなきマリアができる限り早く世界におけるすべての一人一人の霊魂の女王となられるように--信頼しよう。

われわれが人前にいるときにはいつも、われわれが町あるいは他のどこかへ出かけるときはいつも、われわれは説教をする。そしてわれわれが聖になればなるほど、われわれの使徒職はそれだけ効果的となる。その使徒職はわれわれの内的な恵みの十全さから流れ出るべきである。

そこにおいて霊魂の救いを確保すべき最も単純な道は--全能の神の御意志に従って--天と地のいとも慈悲深き女王なる汚れなきマリアのためにあらゆる小さなことをなしまた苦しむようにその霊魂に勧めることである。

汚れなきマリアはわれわれがマリアのために完全に犠牲にされる準備が整うまでマリアに対する愛のうちにわれわれを成長させてくださる。マリアはマリアのためにますます多くの霊魂を獲得するよう、マリアを知り、また愛するようにすべての霊魂を助けるよう、われわれに望まれる。その結果彼らはマリアを通じてイエズスの神的な御心へとますます近づくことができるのである。イエズスはそのように深くわれわれを愛されたので、十字架に釘づけになり、われわれのために聖櫃のうちにとどまることを選ばれたのである。

しかし、もしわれわれの愛の熱心が増す代わりに次第に冷えてくるならば、われわれはどのようにして使徒的であり得るであろうか? 汚れなきマリアがそのような不幸からわれわれを救ってくださるように、一人一人の個人のために、そして一人一人の個人は皆のために、しばしばそして熱心に祈ろう。

われわれはすべての霊魂を汚れなきマリアのみ足許に導かなければならない!それゆえ、できるだけ速くわれわれの栄光に満ちた目標--「汚れなきマリアのために、そして汚れなきマリアを通じて、イエズスの聖心のために全世界を勝ち取ること、それゆえに、攻撃に、征服に!」--に達するために大きな努力と犠牲が必要である。

人が汚れなきマリアの栄光と愛を広めれば広めるほど、そして汚れなきマリアのために、そして汚れなきマリアを通じてイエズス(十字架の死に至るまでさえわれわれを愛された)の聖心の愛へと霊魂を獲得すればするほど、そのような人は「最大の愛」を示すであろう。なぜなら、それはいとも聖なる御心に対する「活動的な愛」であり、そしてイエズスとより密接に結びつけられるであろうからである。

汚れなきマリアが御自分に払われる栄誉の最も小さなしるしに対してさえ寛大に報いられるであろうということを思い起こしなさい。もしわれわれが汚れなきマリアの国をその人々の間に広めているそれらの人々がマリアのために何かをするならば、マリアはそれを決してお忘れにならないであろう。

汚れなきマリアのために諸々の心を獲得するわれわれの使徒職において決して止まらないようにしよう。諸々の心におけるマリアの支配の広まりのために祈ろう。その目的のために、われわれの心配と悩みを捧げよう。そしてとりわけマリアに完全にわれわれに満足していただけるように努力しよう。われわれは、われわれの霊魂が常に純粋であるときにはこのことを達成するであろう。

霊魂たちのために働く際にわれわれは、われわれの使徒的熱意の器が恵みでもって他の諸々の霊魂の上に溢れるように、これまで以上にやらなければならない。

もし悪が遅らせずに素早くそして計画に従って働くならば、そのときわれわれは汚れなきマリアのこの十字軍において、働くことをやめてはいけない。それは諸々の霊魂を救う問題、汚れなきマリアのために全世界と一人一人の個人の霊魂を獲得する問題である。われわれは世界の終わりまで汚れなきマリアを通じてすべての霊魂の聖化のために働いている。一つの霊魂の獲得に失敗することは不幸なことであろう。

われわれは自分たち自身では何もできない。しかし汚れなきマリアの助けがあれば、われわれは全世界を回心させるであろう。そして全世界をマリアの足下に引っ張って行くであろう。われわれが完全にそして制限なしに--マリアのものであるようになろう。

汚れなきマリアの愛によって生きよう。マリアの愛のために働こう--そしてその愛がわれわれから他の人々へと放射しますように。

汚れなきマリアを通じてすべての霊魂を勝ち取ることは確かに神の御意志である--そしてマリアが世界を征服なさるように、われわれのすべての苦労、いやなことそして苦しみを捧げるべきである。

汚れなきマリアにこの人が、あるいはあの人がより多くをなしたかどうかについての問題があるべきではなくて、ただ各人が、できるだけ速くそしてできるだけ完全にあらゆる霊魂のうちにマリアの支配をもたらすためにできるだけ多くのことをしたかどうか--各人がマリアにおいて生き、マリアにおいて働き、そしてマリアにおいて神御自身の御心を愛するように--の問題だけがあるべきである。これが唯一の問題であり、そしてそれは創造主に対する被造物の無制限のそして強められた愛に関係するのである。

おお、なんじ信仰うすき者よ、なぜ落胆がおまえの心の中へ入るのか? あなたがどこにいようと汚れなきマリアに対する愛を燃やし、汚れなきマリアを信頼しなさい。そうすればあなたは間もなく最も心のかたくなな罪人の目からも涙がこぼれるのを、監獄が空になるのを、正直な労働者たちが団結するのを、諸々の家庭が徳で溢れるのを、平和と幸福が支配し、そしてすべての不和と苦しみが消え去るのを見るであろう。なぜなら、今は「新しい時代」なのだから...

われわれはわれわれの近くにいる隣人を愛する。しかしわれわれは、異端と分派の絆のうちに留まる哀れな霊魂たちのための場所をわれわれの心のうちに持たないのか? われわれの心を彼らに開こう。そして汚れなきマリアが彼らに真の幸福の源泉である神をもたらされるために、これらの哀れな霊魂たちに汚れなきマリアを紹介するよう努力しよう。

地獄全体があなたに反対するとしても、あなたは勝利するであろう

また、この宣教においてあなたは単に外的な困難を見出すばかりではないであろう。われらの主は御自分の栄光と汚れなきマリアの善性と力の顕示のために、あなたが落胆と不安、等々を通過することをお許しになるであろう。あなたがあなた自身に信頼せず、あなたの全信頼をすべての恵みの仲介者であるわれらの汚れなき御母に置いてさえいれば、たとえ地獄全体があなたに反対するとしてもあなたは確実に切り抜けて勝利するであろう。

単に敗北しないだけでなく、あなたは、彼らが光と強さのために行くべきところを彼らに思い起こさせながら、他の人々を慰め、彼らの霊魂の苦しみを和らげるに十分な力を見出すであろう。

聖母のために祈りの増加をもってあなたの天国の侵略を強めなさい。汚れなきマリアが常に支配なさいますように...

編集者注:聖マキシミリアノが上述の論考においてわれわれに注意している理想は聖母に対するわれわれの愛において成長するようわれわれを助け、そしてファチマの聖母のためのよりよき十字軍兵士であるためのわれわれの努力の一つ一つにおいてどのようにより熱心で効果的であるかをわれわれに示してくれるであろう。....

2004/04/03 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/03

最終更新日:2004/04/03

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