ファチマの聖母マリア

ますます切迫している共産主義の脅威

The Fatima Crusader, Isuue 25: Aug.-Sep. 1988より

ハミッシュ・フレイザー

共産主義者たちをなだめるための妥協はただ最も破壊的な効果だけを産み出してきた一つの大きな失敗であった。ヴァチカン-モスクワ協定によって沈黙の押しつけを自発的に受け入れたことは無神論的共産主義においてそのように爆発的に体現されている破壊主義の悪魔的な力に対する防御の文明化された世界の最後の防壁を破壊した。

それ自体としての宗教、文化そして文明への恐るべき脅威に対して、カトリック教会はヴァチカン-モスクワ協定によって動けなくされてきた。そしてその麻痺させられた状態で、共産主義者たちは教会当局の一部分を彼らの悪魔的な計画の道具へと変えることさえ何とかやりおおせた。以下の論考は教会が今置かれている荒涼とした事態についてのハミッシュ・フレイザーの事実的なコメンタリーである。

この論考はハミッシュ・フレイザーが全インド平信徒会議の終身会長ヴィクター・クランデイ(Victor Kulanday)の要求で準備した講演の抄録から構成されている。ハミッシュは1986年の彼の早すぎる死の前にインドで行うために準備した。彼の言葉はこれまでより以上に重要性を持つものである。

...ポール・レオナード神父

ますます切迫している共産主義の脅威

ハミッシュ・フレイザー

共産主義の最も権威ある定義は教皇ピオ11世がおよそ50年前にDivini Redemptoris(1937)において宣言された定義である:

「尊敬する兄弟たち、信徒が見張りをされていることを見なさい...共産主義は本質的に悪であります。そしてそれゆえにキリスト教文明を絶滅から救おうと望む者は誰もどんなものであれいかなる企てにおいてもそれに援助を与えるべきではありません。騙されることを自らに許す人々、そして自分たちの国において共産主義の体制を黙認する者は自分たちの誤りの罰を最初に支払うことになるでしょう。そして共産主義が潜入することに成功するいかなる国においてもそのキリスト教文明が古ければ古いほど、そして栄えていれば栄えているほど、そこにおける彼らの無神論的憤激はそれだけより破壊的となるでしょう。」

この定義は、それが単に教皇の教導職注1)の一貫した教えの単に再陳述であったから権威のあるものであるだけではなくて、またそれがDivini Redemptorisが公表されて以来の半世紀において恐ろしいほどに事実を裏付けてきたから権威のあるものである。

共産主義に関するその回勅が書かれたとき、そのときまで生き残ろうと企てていたようなそのような旧ボルシェヴィキを粛清するという偽の裁判がまだ終わっていなかった。「クラーク」(Kulaks)--すなわち、ウクライナの独立農民たち--は、スターリン自身が後に認めたように、--すでに虐殺された人々あるいはグラーグ[強制収容所]に送られた人々を遙かに越える、意図的に企てられた飢饉の結果としての500万人から1000万人の間の人々のどこかでの死と共に--第二次世界大戦の死者をさえ越える大きな血と財産の犠牲を払って、すでに「粛清されて」いた。

これらの、そして他の数え切れない「スターリン時代の犯罪」はフルシチョフによってまだ公式的には認められていない。そのフルシチョフ自身は「ウクライナの絞首刑執行人」としての目立った役割を演じたのであった。(事実上、フルシチョフの[スターリンを犯罪者とする]告白は、それによって共産主義の犯罪のすべてがスターリン後のソビエト体制を無罪にするための手段としてスターリンに負わせられた一つの手の込んだ手段を構成した。)

Divini Redemptorisが公表されたとき、ソビエト・ロシアの諸々の戦争犯罪--連合軍の共謀でスターリンの慈悲へと犯罪的に帰された戦争捕虜たちの後の虐殺は言うにおよばず、カチン(Katyn)の森におけるポーランド将校たちの虐殺を含む--はまだ認められていなかった。東ヨーロッパはまだソビエト帝国内部には合併されていなかった。中国はまだ毛[沢東]の革命的マルキスト独裁制の同様に野蛮な形式によって引き継がれていなかった。そして東南アジアのカルワリオ[苦難]もまだ始まっていなかった。Divini Redemptorisが書かれたとき、共産主義は世界人口の6分の1だけを支配していた。今日その比率は3分の1に近い。そしてモスクワの帝国主義的猛攻は地球のすべての主要地域:フィリピン、南アフリカ、中米および南米において続いている。さらに、今日1962年のローマ-モスクワ協定に引き続いて、まさにキリストの教会そのものが、「キリスト教の見せかけにおける単純に革命的マルキシズムである「解放神学」の教会人の主唱者たちによって潜入され、大規模に占拠されてきた。その結果、制度的な教会はますます革命に不可欠のものとなってきている。言葉を換えて言えば、今日われわれは目の前にDivini Redemptorisの警告と同様にファチマの聖母の警告の実現を目撃しているのである。

自発的ではない

母なる教会への--同様にまた他の教会共同体への--この潜入とそれらの占拠が自発性に由来すると考えることよりも大きな誤りはあり得ないであろう。教会の精神で考えるよりは世間の精神で考える:すなわち、プロテスタンティズムあるいは18世紀および19世紀のフリーメーソンの精神で、そして20世紀にはますます社会主義/共産主義の精神で考える強情なキリスト者たちが常にいたことは確かである。現在の状況について異なっていることは、そのような傾向が、そのアパラチク[命令にすぐ従う組織の一員]たちやまたその高度に組織化されたシンパたちによって、革命の諸目的に奉仕するために周到に教化され開発されてきたその程度である。

ソビエトの脅威の本性

西欧においてはこのまさに現実的な脅威に対する集団自己防衛の必要性が間もなくNATOの設立へと導いた。極東においては、それは最初に赤色中国の口実を調べるために朝鮮戦争へと導いた。そして直ぐ後にベトナムへのアメリカの関わり合いへと導いた。さらに、いたるところでの現実逃避の平和主義者たちの気の抜けた仮定にもかかわらず、ベトナムにおける合衆国軍の敗北の後にドミノ-効果が生じないだろうということは無駄であることが分かった。実際、ロシア、東ヨーロッパあるいは中国そのものにおいてさえ、大規模な集団虐殺は、それがカンボジア(カンプチア)において起こったほどにはまったく悪性のものとはならなかった。

自由放任社会の無関心

今回までに、ああ、共産主義の「平和」攻勢の破壊力は、特にメディアの影響力の見地からは、非常に効果的であったので、「ボート・ピープル」の悲惨な光景にもかかわらず、西側は核戦争の脅威によってそのようにとりつかれたものとなり、またそのように快楽の傾向があって、もはや共産主義の犠牲者たちの運命について配慮することができなかった。東ヨーロッパの運命、アレクサンダー・ソルジェニーツィン(Alexander Solzhenitsyn)やナジェージダ・マンデルスタム(Nadezhda Mandelstam)注2)のような疑う余地のない証人たちの有益な忠告--スターリン時代の諸々の犯罪についてのフルシチョフ自身の破滅的な告発は言うに及ばず--それらすべては「本質的に悪」としてのピオ11世の共産主義についての定義を裏付けた:このすべては、もはやそのものとしての自由に関心がないほどにみだらな自由放任に身を委ね、モスクワの承認を得たほどのそのような「解放」の形式のみを促進するように準備され、そしてそれゆえにさらになおソビエト全体主義の脅威についての西側の意識をなまくらにされた自由世界によって間もなく忘れられた。

1962年ヴァチカン-モスクワ協定の役割

しかしながら、このすべては公会議の教父たちによる共産主義の議論すら禁止した、そしてそのようにして、キリストを革命と同一視することによってモスクワに、それによってモスクワが全世界を有利に洗脳し続けることができた手段を与えたあの「解放神学」の出現を可能にした第2ヴァチカン公会議の1962年ヴァチカン-モスクワ協定がなかったならば不可能であったであろう。

ヴァチカン-モスクワ協定が、そして「解放神学」がなかったならば、モスクワはおそらく努力しても無駄であったであろう。しかしながら、実際そうなったように、共産主義にとって教会の諸制度をさえ教会人たちと同様に革命の二輪戦車に馬具で繋ぐことが間もなく可能となった。後のことはわれわれが知っている。

モスクワの主たる目的

振り返ってみると、ソビエトの平和攻勢の主要目的が何であったかは明白である。司教たちや教会人たちが一般に「本質的に悪」としての共産主義についてのローマの定義を受け入れていた限り、反共産主義が支えとしてそれに依存することができた一つの最も信頼できる国際的核が存在した。しかしながら、ひとたび酵母が反酵母となり、ひとたび革命的理想が教会人たちによって、そして教会後援の諸組織によってさえ、本質的に「キリスト教的なもの」として提示され始めると、世俗の反共産主義もまた必然的に掘り崩された。なぜなら、共産主義者たちにとってはカトリックの教会人たちによってさえ誠実な味方として受け入れられ得るものとなることが可能となったからである。

新しい超-脅威の発明

共産主義が教会人たちによって「本質的に悪」として見られ、、そして世間一般によって現代社会に向かい合っている最大の脅威として見られていた限り、共産主義者たちがキリスト教徒によって、あるいはリベラル派によってさえ、受け入れることができる味方として考えられる可能性はまったくなかった。実際、1950年代には大部分の社会主義的政党でさえ、反ソビエトであった。共産主義者たちにとって味方として受け入れ可能なものとなるためにはまず一つの超-脅威を発明することが必要であった。そしてそれを、共産主義でさえより恐るべきものとして提示することが必要であった。それゆえ、キリスト教徒、リベラル派、トム・コブリーおじさん、そしてすべてのものを共産主義者と結びつけることは正当化されるであろう。

この発明は教会人たちおよび諸々の教会制度の公会議後の逸脱がもしなかったならば不可能であったであろう。そしてそれは主として、「本質的に悪」であるのは共産主義ではなくて、反共産主義であるということを主張し始めたそのような教会人たちの裏切りによって達成された。

メンデス−アルセオ司教

これらの教会人たちの中でも最たる人はメキシコのカトリック司教、セルジオ・メンデス-アルセオ(SERGIO MENDEZ-ARCEO)であった。ソビエトによって支配されたキリスト教平和会議によって組織されたプラハでの第6回全キリスト教平和集会に宛てた彼の演説のまさに標題は「反共主義:人民の阿片」であった。また彼は次のように述べながら、その演説において言葉を気取って話さなかった:

ラテン・アメリカにおける反共主義は帝国主義の介入と脅威に反対する人民や諸政府の連帯と一致の最大の障碍である。反共主義は中央アメリカ諸国とのその連帯におけるヨーロッパの不信を産み出すものである...反共主義は合衆国大統領が中央アメリカの独立に反対して永久に送り出してきた十字軍のモットーである...反共主義者であることは反キリスト者であることである。」(下線は筆者)

Trocaire

そのようなものはまたしばらくの間たいていの西欧カトリック司教団の暗黙の立場であった。しかしながら、アイルランドの「ツツ」、ゴルウェイのイーモン・キャシー(Eamonn Casey)司教--彼はアイルランドのCatholic Development Agency, 'TROCAIRE'の議長である--よりももっと率直に物を言う反-反共主義者はいなかった。

それゆえに、「アパルトヘイトとその諸結果に関するTROCAIRE情報箱」の始めにアイルランド外務大臣、ジョージ・バーミンガム(George Birmingham)氏が次のように報告したことは驚くべきことではなかったのである:

南アフリカはその存在が本質的に悪に基づいている唯一の国家である。

言葉を換えて言えば、本質的に悪であるのは共産主義ではなくて、南アフリカである。

南アフリカの司教たち

数千マイルも離れた司教の狐穴の安全な場所からメンデス−アルセオ司教やキャセイ司教のような教会の「役に立つ愚か者たち」が単にファチマの聖母の警告に対してだけではなくて、また現代生活の基本的な政治的諸事実に対しても彼らの目や耳を閉ざすということは十分に悪しきことである。しかし、南アフリカそれ自身においてカトリック司教会議がまったく明白に、国家に反対して共産主義者によって支配されたANCと提携するなどということはなおそれ以上にけしからぬことである。その同じANCは合法的な政府にいかなる仕方においても敢えて協力しようとする者を誰でも生きたまま火あぶりにすることによって、そして生きたまま火あぶりにすると脅迫することによって国家を統治不可能なものとしているのである。そして教会人たちが、マンデラ夫人がすでに野蛮な「ネックレス」注4)のより広い使用をさえ要求したばかりでなく、またUSSRを「われわれすべての希望のたいまつの灯り」と主張し、同じタス通信のインタビューにおいて「ソビエト・ロシアにおいては人民の真の力は一つの夢から一つの現実へと変化した」と付け加えているようなそのような自由を用いているという事実にもかかわらず、マンデラのための無条件の自由を主張しているときに、である。

そのようなことが、文明の敵である共産主義者たちにはどんなものであれいかなる種類の援助も与えてはならないというピオ11世の警告を拒んだようなそのような教会人たちのわがままな盲目、自殺的な愚かさである。実際彼らはわがままの盲目、自殺的である。なぜなら、共産主義の野蛮さと権力欲は弱まるどころか、一つの征服から次の征服へとますますエスカレートしてきたからである。

ゴルバチョフの割れた蹄

より洗練されたゴルバチョフがスターリンや毛[沢東]の粗野な制服よりはボンド・ストリートの仕立て洋服を選び、そして彼の妻を最も高価につくパリのクーチュリエールによって仕立てられた洋服を着させたゆえに、彼の脅威は小さいというよりもむしろ大きいのである。ただ衣服に関することゆえにだけでも、彼は表面的には平凡な西欧の政治家たちの一般の趨勢から見分けがつかない。

彼のウラジオストックにおける1986年7月28日の演説は、彼がその先任者たちよりもその態度において何ら強硬派ではないという考えが誤っていることを示すに十分である。なぜなら、その機会にエコノミスト紙は彼のロシアはオーストラリアとニュージーランドまでまっすぐ下る太平洋全域において一つの権力へと決定されているという強硬な声明に言及しなければならなかったからである。

さらに、日本の防衛庁報告はアジアおよび太平洋におけるソビエト海軍、陸軍、空軍を1976年当時と現在におけるそれとで比較しながら、1976年にはモスクワのアジア軍事力は単に31師団、2030機の戦闘機、755隻の海軍そして中距離弾道核ミサイルなしであったのに、今日(アフガニスタンあるいは中東における軍隊を数えずに)その太平洋軍事力は41師団、2390機の戦闘機、85機のバックファイヤー爆撃機そして2隻の航空母艦と164基のSS-20ミサイルを含む840隻の艦隊を持っている、と指摘した。

共産主義の鉄の踵

もしオーストラリアやニュージーランドを併合することが都合のよいものとなるならば、そしてそのときには、これらのアングロサクソン民族集団は東南アジアにおいてすでに経験されてきた扱いよりも優しい扱いを期待する必要はない。その東南アジアでは、--ベトナム戦争においていたるところで殺された総数--総計120万人を別にして--カンボジアにおいてだけでも、少なくとも225万人以上が虐殺された。そしてその殺戮は今もなお続いている!

東南アジアは共産主義の規則の例外ではない。なぜなら、ニューヨークに本拠地がある人権団体Freedom Houseが指摘したように、どの共産主義者の征服の後でも虐殺された人々の数はそのものとしての征服に付随して起こるいかなる死傷者をも遙かに越えているからである。

死者の数

例えば、1918年から1953年までにソビエト政府は自国の人民の少なくとも3,950万人ほどを処刑、虐殺、餓死、殴打あるいは拷問による死あるいは他の仕方での殺人で殺した。そして中国では毛沢東の下で共産党政府は4500万人より少なくない人民を精算した[殺した]。このように、東南アジア、アフガニスタン、エチオピア、等々を除外して、USSRと赤色中国においてだけでも、殺された数はおよそ8400万人であった。しかし第1次および第2次世界大戦を合わせても、そこでの戦死者は2400万人以上ではなかったのだ!

核戦争に劣らない脅威

それゆえに、戦争も恐るべきものであるが、共産主義の暴力の脅威はなおそれよりも大きい。実際、その犠牲者の数がすでに核戦争において殺されるであろう数に接近しているというそのようなことが共産主義の過去の実績なのである。

反-反-共産主義よりも自滅的でさえあるものが何かあるか?

しかしながら、反-反-共産主義よりも自滅的でさえあるものは今自由世界の上に重くのしかかっているまったく前例を見ないほど多数の大罪である:すなわち、母親の胎内における無数の罪なき子らの大量虐殺、ほとんど想像を絶する、そしてソドムとゴモラをさえ比較的に節度があると思わせるほどの規模におけるあらゆる考えられる限りの嫌悪感を催す事柄を含む性的倒錯の疫病注5)である。実際、現代の反-反-共産主義は、それに対してファチマの聖母がそのように雄弁に警告なさった、全世界を通じての共産主義の誤謬の拡がり--教会人たちの積極的な黙認を伴った--もまたそうであるように、罪に由来する盲目の一つの結果である。

教会人たちの盲目

しかしながら、すべてのことの中でも最悪なのは、教会人たちの信じられない、しかし決して罪なしではあり得ない盲目である。われわれが、ボタ(Botha)氏やレーガン(Reagan)氏の「罪」--それはネオモダニストの司教たちや神学者たちによって「真に罪深い」ものであると認められた唯一の罪であると思われる--に用心するように司教が後援する諸団体からの無数の忠告によってしつこく悩まされているのに、--一方で男色および不妊化から、他方において中絶までの他のすべての性的倒錯の根本にある避妊というまさに真の罪に反対する司教の警告は何一つなかったということは特に重要である。注6)なぜなら、ひとたび避妊の基本的前提--性は本質的に楽しみのためのものであり、ただ可能的にあるいはむしろ奇妙に生殖のためのものであるという--が是認されれば、あとは何でも起こるからである。

われわれの社会は救いの限界を超えているのか?

生殖(proCREATION)--実際創造(CREATION)と創造主(CREATOR)--にその背を向ける社会は単に生き残るに値しないばかりではない。実際、それは生き残りのまさに可能性と手段を自ら奪っているのである。

逆説的なことであるが、「試験は『男のためのピルが可能であることを証明する』」ことを報じた1986年8月26日のDaily Telegraphの同じページにある、その主要記事はEECの経済・社会委員会によれば、すでに「方向転換の見通しのほとんどない20%以下の補充レベルの」ヨーロッパの急落する出産率の結果を扱っている。その報告によれば、「その傾向は社会における労働者の不足を招来し得るであろう。」如才なく言えば、防衛のためのマンパワーの見地からはそのことは諸結果へのすべての考慮を欠いていたと思われる!しかしながら、すでにフランスが21世紀のある時に顕著にイスラム国家になるという可能性についての推測がある!

それゆえに、われわれの社会がすでに実際に救いの限界を超えているかもしれないということがあり得るのである。実際、彼がヨーロッパが最初に赤軍によって占領されることなしに正気に戻る可能性を見ることができないであろうと、私に語ったのはローマで昨年私が会った1985年10月24日の彼の死の数ヶ月前、昨年の6月のことであった。その彼とはカトリック・ヨーロッパの最もすぐれた、そしてまた最も注意深い神学者、故ジョゼフ・ドゥ・サント・マリー神父(Pere Joseph de Sainte Marie, O. Carm.)である。

絶望の忠告ではない

これはまた決して、ジョゼフ・ドゥ・サント・マリー神父の側での絶望の忠告ではなかった。それは単に、間に合うように、天の元后に対する不従順から生じる戦争、占領そしてこれの諸々の恐怖の懲罰を避けるために、司教団によるマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の恵み、そしてそのようにしてまたその結果としてのロシアの回心の恵みを得るわれわれの社会の極端な蓋然性のなさを理解した、ファチマの聖母のメッセージに関するすぐれた権威者によるレアリズムの表現でしかなかった。

またこのことが起こるべきである--神は禁じておられる--ならば、絶望のための何らかの根拠はまったくない。なぜなら、神は各人に彼の救いのための十分な恵みをお与えになるからである。誰も彼自身の罪がないならば断罪されない。そしてすべてのうちで最も重要なことだが、われわれは、われらの神なる主がすでにこの世の君と彼のすべての文字通り地獄的な働きと高慢な振る舞いを滅ぼされたということを絶えず思い起こさなければならない。

それゆえに、われわれができることをしよう。--われわれがしなければならないことをしよう。そしてわれわれがすることができることをしよう。われらの天の御父の小さな子どもとしてのわれわれに相応しい信頼をもって全能の神にそれを委ねよう。

1.ピオ9世のSyllabusQui Pluribusを参照せよ。(Qui Pluribus「自然法そのものに完全に反する共産主義のあの悪名高い教説に言及している)そして共産主義を「人間社会のまさに生命維持に不可欠な諸器官にこっそり侵入し、死滅の脅威を与える致死的な疫病」として記述されたレオ13世を参照せよ。(Quod Apostolici mineris, 1878を参照せよ。)

2.Joseph Mandelstamのユダヤ人の未亡人、スターリンによって粛清された指導的ソビエト詩人。Hope against Hope, Collins & Harvill Press, 1971を参照せよ。

3.The Irish Press, June 4, 1986. 横断見出しは''THE ONLY NATION IN THE WORLD "BASED ON EVIL"

4.言及されているネックレスは(共産主義者の暴徒によって選ばれた)、犠牲者の首の周りに吊されている自動車のタイヤである。タイヤはガソリンを詰められて燃やされた。犠牲者は彼女を間に合うように救うために消されることができない火の中でひどく苦しみながら死ぬのである。

5.これらの嫌悪を催す事柄のいくつかは実際非常に常軌を逸脱しているので、最もみだらなタブロイド新聞でさえ敢えてそれらを記述しないほどのものである。

6.アルンデル(Arundel)およびブライトン(Brighton)のコーマック・マーフィ・オコナー(Cormac Murphy-O'Connor)司教によれば、「人為的産児制限は善い動機のために」結婚した夫婦によって実行されてもよい。彼はこうつけ加える「時にはその実行は軽い罪であるかもしれない。時には全然罪ではない。もしあるとしても、稀に聖体拝領の妨げであろう。」1984年10月5日づけのThe Tabletへの手紙の中で。そしてこれは「避妊」(「ピル」およびIUDの低量投与)の最も一般的な形が中絶を起こすものであるという事実にもかかわらず、である。

7.この問題はまたローデシアの陥落に関して'Operation Esther'においてハーヴェイ・ウォード(Harvey Ward)によって論じられている。これは間もなくNewsleaf Press, Box 311, Greenforest, Arkansas 72638, U. S. A. によって出版されるであろう。

2004/03/03 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/03

最終更新日:2004/03/03

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