イエズス
われらの御聖体の愛

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M.Conv., S.T.D.

諸聖人の模範に従った御聖体の生活

目 次

著者について

序言

第1章 おお神なる御聖体よ

第2章 私のためのイエズス

第3章 私の内におられるイエズス

第4章 イエズスは私と共に

第5章 われわれにイエズスを授ける人

第6章 われらの天の御母がわれわれにお与えになるパン

第7章 祝せられた秘蹟の前での祈り

附録:
ランチアーノの御聖体の奇蹟

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著者について

ステファノ・マネッリ神父は約28年間司祭であった。約10年の間彼は彼が創設した「カーサ・マリアナ」(マリアの家)という修道院の長であった。「汚れなき御方[マリア]の都市」という聖マキシミリアノ・コルベによって示唆されたこの宗教的共同体はアッシジの聖フランシスコの理想と規則にもっと近づいて従おうとしている。

マネッリ神父の「カーサ・マリアナ」の印刷施設とラジオ局は拡大し続けイエズスとマリアがもっとよく知られ愛されるようにするために専ら用いられている。マネッリ神父の指導の下に「カーサ・マリアナ」はフィリピンにもう一つのマリアの家を出発させることによってさらに拡大した。マネッリ神父は1982年にナポリのコンヴェントゥアル・フランシスコ会管区長に選出された。

神学の博士号を持っているマネッリ神父はイタリアではよく知られている。彼の書物イエズスわれらの御聖体の愛はイタリアにおいて少なくとも第5版まで版を重ね、10万部以上が印刷されてきた。

彼の他の著作のあるものは他のところで英語で出版されてきたけれども、この非常に信頼できるそして敬虔な著作が北アメリカで出版されたのは初めてである。神父はマリアを通じてキリストの甘美なくびきへと多くの霊魂たちを連れて行くためにマス・メディアを通じてより多くの霊魂たちの手に届くことができることを期待しているので、英語で彼の著作を出版する許可をわれわれに喜んで与えた。われわれはこの書物を出版し、配布することを幸せに思っている。

われらの御聖体のイエズスの神的愛をもっとよく知り、もっとよく愛したいと望むすべての人に対してわれわれはこの非常に力強いそして啓発的な書物を読まれるようにお勧めする。

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序言

御聖体の教皇、聖ピオ十世はこう言われた:「御聖体に対する信心は最も高貴なものである。なぜならそれは神をその対象として持っているからである。それは救いのために最も有益である。なぜならそれはわれわれに恩寵の創始者[すなわち神]を与えるからである。それは最も甘美である。なぜなら主は甘美さそのものであるからである。」

御聖体に対する信心は祝せられた御母に対する信心と共に天国の信心である。なぜならそれは天国の天使たちや聖人たちもまた持っておられる信心だからである。神秘家のジェンマ・ガルガーニいつもこう言っておられた:「天国には一つの学校があります。そしてそこでは人はただどのように愛するかということだけを学びます。その学校は[最後の晩餐の時の]高間であり、その教師はイエズスです。その教材はイエズスの肉と御血です。」

御聖体は愛そのものであり、イエズスとまったく同一である。

それゆえに、それは愛の秘蹟、慈愛に溢れた秘蹟である。それは真の生けるイエズス - 「愛である」(ヨハネ4:8)神、「終わりまで」(ヨハネ13:1)われわれを愛された神 - を真に含んでいるのである。

愛のすべての表現は最高のそして最も深いものでさえ、御聖体において確かめられる。このように、それは十字架につけられた愛、結びつける愛、礼拝する愛、観想する愛、祈る愛、喜んで満足する愛である。

御聖体のイエズスはミサの最も聖なる犠牲において十字架にかかられる愛である。その[ミサの]中でイエズスはわれわれのために御自身の犠牲の業を更新なさる。秘蹟的および霊的なコンミュニオンにおいてイエズスはイエズスをお受けする人と御自身を一つになさる結合する愛である。[御聖体の]イエズスは彼が御父に対する礼拝の全燔祭としてそこにおられる聖なる幕屋において礼拝なさる愛である。[御聖体の]イエズスはベタニアのマリアのように(ルカ10:39)「彼の足もとに」いることを愛する霊魂たちとの出会いにおいて観想なさる愛である。[御聖体の]イエズスは御父の前で「われわれのために執り成しをするために常に生きておられる」(ヘブレオ7:25)ことにおいて礼拝しておられる愛である。[御聖体の]イエズスは御自分の花嫁たち(両性の童貞たち)との結婚の結合の天上的な陽気さのうちに喜んで満足なさる愛である。彼は、童貞の使徒そして高間において「彼の胸において学んだ」(ヨハネ21:20)唯一の者である福音記者聖ヨハネを御自身に引き寄せられたように、彼らを御自身に引き寄せられるのである。

「イエズスによって所有され、そしてイエズスを所有すること - それは愛の完全な支配である」と聖ピーター・ジュリアン・エイマードは書いた。御聖体は心が清く、聖なる幕屋に近づき、そして謙遜と愛をもってホスチアのうちにましますイエズスに彼ら自身を結びつけるすべての人々の中でこの「愛の完全な支配」を達成なさるのである。御聖体のうちでイエズスはわれわれのために御自身を犠牲になさる。彼はわれわれに御自身をお与えになる。彼は無限の謙遜と愛をもってわれわれの間にとどまられる。

「そのように高い地位におられる御者にとってそのように低く身を屈められることは呆然とさせるほどの驚異である」と熾天使的教父聖フランシスコは叫んだ。「宇宙の主、神の御子がわれわれの救いのためにパンの外見の下に御自身を隠されるほどにそのように身を屈められるなどということは何と崇高な謙虚さそして何という謙虚な崇高さであることか!わが兄弟たちよ、神のその謙虚な仕方を見なさい。それゆえに、御自身を完全にあなたたちにお与えになる方にあなたたちが完全に受け入れられ得るものとなるように、あなたたち自身をあなたたち自身の何物かであると考えてはいけない。」

そして聖アルフォンソ・リグオリはいつもの彼の愛情のこもった優しさでもってこう付け加えている。「私のイエズスよ!この聖なる秘蹟は何と愛すべき考案であったことでしょう - すなわち、あなた御自身を愛される方そしてあなたを強く希求するどの人による訪問にも役立てられる方とするためにあなたはパンの外観の下にお隠れになろうとされたのです!」

毎日われわれにイエズスを与える司祭、そしてわれらの神なるイエズスの御母祝せられたおとめマリア、そしてすべての司祭たちについての何らかの記念がこのいとも聖なる秘蹟[御聖体の秘蹟]に対するわれわれの愛着のうちに常にあらんことを;なぜなら、ちょうどイエズス、マリアそして聖ヨハネがカルワリオにおいて分離できなかったのと同じように、御聖体と聖母と司祭たちは分離できないものだからである。

このすべてのことを諸聖人の学校において学ぶことにしよう。彼らは、御聖体に対する愛の熾天使として熱心で崇高である仕方で生きられた。これらの人々はは第二ヴァチカン公会議が宣言している( Lumen Gentium, n.50 )ように、御聖体の愛の神への「最も安全な道」である人々である。

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御聖体のイエズスはエンマヌエルすなわち:「われらとともにまします神」である(マテオ1:23)。

第1章 おお神なる御聖体よ!

御聖体のイエズスはわれわれの間におられる神である

聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネがアルスという世に知られていない小さな村に到着したとき、ある人は辛辣に「ここには何もすることはないよ」と彼に言った。「だから、するべきあらゆることがあります」と聖人は答えた。

そして彼は直ちに行動し始めた。彼は何をしたのか? 彼は朝2時に起き、真っ暗な教会の祭壇の近くに祈りに行った。彼は聖務日課を唱えた。彼は黙想を行い、ミサ聖祭のために準備した。聖なる犠牲の後に感謝を捧げた。それから正午まで祈りにとどまった。彼は常にロザリオを手に持ち、聖櫃に目を注いで何の支えもなしに床の上に跪いているのであった。

しかしそれから....彼は時間表を変え始めたのであった。そして事態は彼の計画において急激な変化を要求する点にまで達した。御聖体のイエズスと祝せられたおとめマリアはその教会が群衆を収容するために十分大きいとは思われなくなるまで、少しずつ霊魂たちをあの貧弱な小教区へと引き寄せた。そしてその聖なる小教区補助司祭の告解室は果てしない列の告解者たちに押し寄せられるようになった。聖なる小教区補助司祭は一日に10時間、15時間そして18時間告解を聞くことを余儀なくされた!そのような変化はどのようにして起こったのか? そこには一つの貧弱な教会、長い間用いられなかった祭壇、見捨てられた聖櫃、古い告解室があり、何かをする手段を持たないあまり才能のない一人の司祭がいたのであった。これらの事がどのようにして世に知られていないあの村においてそのように注目すべき変化を達成することができたのか?

われわれは今日イタリア、ガルガノにある一つの小さな町サン・ジョヴァンニ・ロトンドに関してその同じ質問をすることがができる。数十年前まではそれは岬のごつごつした絶壁のまっただ中にある一つの人目につかない、世に知られていない場所であった。今日サン・ジョヴァンニ・ロトンドは霊的文化的生活の一つの中心であり、そしてその評判は国際的である。ここにもまた、一人の将来性のない、病気がちの托鉢修道士がおり、一つの古い崩れかかった小さな修道院、この貧しい修道士にだけ残された祭壇と聖櫃のある一つの小さな顧みられない教会があった。その修道士は聖なるロザリオを疲れを知らずに唱えて彼のロザリオの珠と彼の手をすり減らしていた。

その変化はどのようにして起こったのか? 何が数十万人そしておそらく数百万人の人々が地球のあらゆる場所からそこに来ることになるほどに、アルスとサン・ジョヴァンニ・ロトンドにやって来たすばらしい変化を引き起こしたのか?

ただ神だけが「現にあるところを滅ぼすために存在するのではない諸事物」(1コリ1:28)を御自分のやり方に従ってお用いになりながら、そのような変化を働くことがお出来になるであろう。これら二人の司祭たち、真の「聖櫃の管理者たち」そして「神の奥義の分配者たち」(1コリ4:1)の管理を通じて霊魂たちに達しながら、あらゆる聖櫃から放射しており、そしてアルスとサン・ジョヴァンニ・ロトンドの聖櫃から放射したのは、すべて神に、御聖体の神的な無限の力に、牽引の無限の力によるのである。

質問をすることにしよう:御聖体とは何であるか? それはわれわれの間におられる神である。それはわれわれの教会の聖櫃のうちに、その御身体、御血、霊魂と神性とをもって現前しておられる主イエズスである。それはパンの外観の下に覆われてはいるが、しかし聖別されたホスチアのうちに実際に物理的に現前しておられるイエズスであり、その結果イエズスはわれわれのまん中に住まわれ、われわれのうちにそしてわれわれのために、われわれが自由に利用できるように働かれるのである。御聖体のイエズスは真のエンマヌエル、「われらとともにまします神」(マテオ1:23)である。

教皇ピオ十二世はわれわれにこう教えておられる:「教会の信仰はこうである:十字架の上で苦しまれ、御聖体のうちに現前なさり、そして天において支配なさっている神の御言葉とマリアの御子とは同一の御方である」

御聖体のイエズスはわれわれの霊魂の兄弟として友人としてそして配偶者としてここにわれわれとともにおられる。彼は永遠の命のためのわれわれの食物、われわれの愛、われわれの支えであるためにわれわれの内部に入ることを望んでおられる。彼はわれわれを、その中で彼がわれわれを請け戻し、われわれを救おうとされる彼の神秘体の一部とすること、そして次に永遠の愛の喜びのうちにわれわれを落ち着かせるために天国へとわれわれを連れて行くことを望んでおられる。

御聖体とともに神は真にわれわれにすべてのものをお与えになった。聖アウグスティヌスはこう叫んだ:「神は全能にましますけれども、[御聖体より]もっと多く与えることはおできにならない。この上なく賢明にましますけれども、どうすれば[御聖体より]もっと多く与えるかを知っておられない。限りなく豊かにましますけれども、与えるために[御聖体より]もっと多く持っておられない。」

そこでわれわれは御聖体のところへ行くべきである。われわれはイエズスへと向き直るべきである - われわれを「神に似たもの」にすることによって彼のものとなさるために御自身をわれわれのものとすることを望んでおられるイエズス、「強い霊魂たちの食物なるイエズス」のところへ - 。聖ジェンマ・ガルガーニはいつもこう言っていた:「私を強め、私を清め、私を神に似たものとしてください。」清い熱心な心でもって御聖体を受けよう。これは聖人たちがそうしたやり方である。この言葉に表せない神秘と親しくなることはわれわれにとって決して大きすぎる苦労であるべきではない。御聖体についての黙想、研究そして沈思はわれわれの時間表において毎日重要な位置を占めるべきである。それは祝福において最も豊かなわれわれの日々の時間であろう。

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御聖体を知り、愛し、生きること

御聖体の神秘のうちに蓄えられた計り知れない豊かさの少なくともあるものを調べるために一つで変わらないものであるが、精神、心そして意志を用いる一つの練習を始めることにしよう。

第一に、それは精神を用いる。ここでわれわれは御聖体に関する一つの注意深い規律正しい仕方において黙想する。このことはわれわれをこの愛の神秘を個人的に明らかにしそして深く熟考するように導く書物をもってしてなされるとよいであろう。内容において豊かな分かり易い小冊子は聖アルフォンソ・M. リグオリのVisits to the Blessed Sacrament and to the Blessed Virgin(聖体訪問と聖母訪問)である。また The Real Presence (真の現前)とHoly Communion (聖体拝領)と題された聖ピーター・ジュリアン・エイマードによる二冊の貴重な小冊子もある。

われわれは、とりわけ、御聖体の使徒として並ぶ者のない人であった聖ピーター・ジュリアン・エイマードの学校へと向かうべきである。彼の召命と使命はすべてのキリスト教徒を御聖体へと導くことであった。彼が祝せられた秘蹟[御聖体]の司祭たちの修道会を創設したとき、彼は自分の命をイエズスの御聖体の支配のために捧げた。その時に彼は以下のような熱烈な言葉を書いた:「親愛なるイエズスよ、ここに私の命があります。まさに私が御身のために一つの王座を建てることに成功し、そして御身に友人たちの一つの家庭、崇拝者たちの一つの国をお与えするために、石を食べ見捨てられて死ぬ用意のできている私を御覧ください。」

愛にましまし、御自身を愛に満ちた一つの贈り物としてわれわれにお与えになる神の贈り物をわれわれが知ってさえいたならば!聖ベルナルドはこう言われた:「御聖体は天国と地上におけるすべての愛を超越する愛である。」そして聖トマス・アクィナスはこう書かれた:「御聖体は愛の秘蹟である。それは愛を表している。それは愛を産み出す。」

ある日一人のアラビアの王子アブデッドカデルは一人のフランス政府高官と一緒にマルセイユの通りを通り過ぎている間に死のうとしているある人に御聖体を運んでいた一人の司祭に会った。そのフランス政府高官は立ち止まり、彼の帽子を脱ぎそして跪いた。彼の友人はこの身振りの理由を彼に尋ねた。

「私はあの司祭が一人の病人のところへ運んでおられる私の神を礼拝しているのです」と善き政府高官は答えた。

王子は言った:「あなたにとってそのように偉大な神が御自身をそのように小さくなさり、そして貧者の家にさえ御自身を行かせられる神を信じることはどのようにして可能なのですか? われわれマホメット教徒は神について遙かに高い観念を持っています。」

政府高官は答えた:「それはあなたがただ神の偉大さの観念だけを持っていて、神の愛を知らないからです。」

このことを確証して、聖ピーター・エイマードはこう宣言する:「御聖体はイエズスの愛の至高の証明である。この後には、神御自身を除いてより大きなものは何もない。」しかし、われわれキリスト教徒のうちのいかに多くの者が御聖体のうちに含まれた愛の広大な範囲を知らないことか。

第二に御聖体の豊かさを詳しく調べるために、われわれは心を用いる。もしすべてのキリスト教徒がイエズス・キリストを愛しなければならないならば(「人もし、わが主イエズス・キリストを愛せずば排斥せられよ。」(1コリ16:22))御聖体に対する愛は心から噴出し、そしてわれわれすべての者のうちに永遠に生き生きとしていなければならない。ところで愛でさえ練習を必要とする。心は真の神を愛し、「生命の造り主」(使徒行録3:15)を切望するために訓練される必要がある。

聖体拝領は愛のこの練習の最も高い点を表している。その焼き尽くすような炎は一被造物とイエズスの心を結びつける。聖ジェンマ・ガルガーニはこの点に関してこう叫ぶことができた:「私は、イエズスがその愛のすばらしい範囲において御自身を知覚できるものとなさり、その御心のすべての輝きにおいて御自分の最も低い被造物に対して御自身をお示しになるという考えをもはや避けることができません。」そしてわれわれは、聖ジェンマがイエズスを常に彼女とともに保とうとしている愛の天幕でありたいと望んだ彼女の心の「練習」について何を言うであろうか? 彼女は常にイエズスとともにいることができるために「チボリウム(御聖体を入れておく容器)のうちに小さな場所」を持つことを切望した。彼女は自分がイエズスに対する「愛で燃えている火を吐くボール」となることができるよう求めた。

幼きイエズスの聖テレジアが重い病気になったとき、彼女はイエズスをお受けするために非常な努力をして教会へ足を引きずって行った。ある朝聖体拝領の後に彼女は疲れ切って彼女の部屋にいた。シスターたちのうちの一人があまりにも努力をし過ぎるべきではないと注意した。聖女はこう答えた:「おお、これらの苦しみは一度の御聖体拝領に比べて私にとって何でしょうか?」彼女の甘美な不満は彼女が毎日御聖体を拝領することができないことであった。(彼女の時代には毎日の聖体拝領は許されていなかった。)彼女はイエズスに熱心に嘆願した。「あなたが聖櫃のうちにとどまっておられるように、私のうちにとどまってください。あなたの小さなホスチアからあなたの現前を決して退かせないでください。」

聖マルガリタ・マリア・アラコックは、世間を去り、修道院において神に自らを奉献したとき、一つの私的な誓願をし、そしてそれを彼女の血の中に書いた:「すべてを御聖体のために、私のためには何一つなし」。この聖女の御聖体に対する燃えるような愛を記述しようと試みることは無益である。彼女は、御聖体を拝領することができなかったとき、以下のような愛の熱烈な表現においてその心を打ち明けた:「私は、もし御聖体をお受けするために火の道を通って裸足で歩いて行かなければならないとするならば、言葉では言い表せない喜びをもってそうするだろうほどにそのような望みを御聖体に対して持っています。」

シエナの聖カタリナは彼女の聴罪司祭にしばしばこう言った:「神父様、私は飢えています。神の愛のためにこの霊魂にその食物を、御聖体における霊魂の主を与えてください。」彼女はまたこう打ち明けた:「私は、私の主をお受けすることができないとき、教会の中へ入って行き、そしてそこで私は主を見ます...私は主を再び見ます...そしてこのことが私を満足させます。」

われわれはこのことを「心の練習」と呼ぶ。

第三に御聖体の豊かさを見つけるためにわれわれは意志を訓練すべきである。われわれはこのことを御聖体に関する神の諸々の教訓を自分の生活の中へともたらすことによってなさなければならない。もしわれわれが御聖体を生きることへと次に進まないならば、御聖体を熟考するときに御聖体の無限の価値を発見し、御聖体拝領のときに御聖体を愛そうと努めることは何の益となるであろうか?

御聖体は語ることを超越する愛を教えられる。御聖体は完全な自己犠牲を、そして人間性における匹敵するもののない教訓を、そして自己消去を教えられる。それは忍耐と無制限の献身を教えられる。しかしわれわれはこのすべてのことから何を引き出すのか? われわれは確かに何かを達成すべきである!イエズスがわれわれを愛してこられたとき、そして「極までさえ」(ヨハネ13:1)この大きな寛大さをもって今なおわれわれを愛しておられるときに、われわれは無関心であり続け、そして何もしないでいることができるのか?

われわれは、もし弱いと感じるならば、[御聖体の]イエズスに頼り、イエズスに話しかける必要があり、そしてイエズスの助けと支えとを求めることについてぐずぐずしてはならない。なぜなら、イエズスは「われを離れては汝ら何ごとをもなすあたわず」(ヨハネ15:5)と言われたまさにその御方だからである。何よりもまず彼の前に行こう。「われに来れ...われ汝らを回復せしめん」(マテオ11:28)。われわれのできるかぎり毎回教会に入り、聖櫃の前にしばしとどまって、しばしば[御聖体の]イエズスを訪問しよう。そしてわれわれの心を[御聖体の]イエズスの近くに、そしてわれわれの体を[御聖体の]イエズスの前に置くようにしよう!聖人たちは祝せられた秘蹟[御聖体]のうちにましますイエズスを訪問し、礼拝の聖時間、霊的聖体拝領、射祷、そして心から出て来る愛の熱心な諸々の行為を行うことにいつも熱心であった。彼らはこのことからどのように多くの利益を得、そしてどのように多くの善いことを伝えたことであろう!

ある日トリノで大学時代からの彼の仲間であった一人の友人がピーター・ジョージ・フラッサティにこう頼んだ:「出かけて行って食事でもしよう」。ピーター・ジョージはその機会を利用した、そして彼の友人に近くの聖ドミニコ教会を示しながらこう答えた:「もちろん行ってあのカフェで食事をしよう」。教会に入って彼らは聖櫃の近くでしばらくの間祈った。それから彼らは献金箱に近づいた。ピーター・ジョージは言った:「ここに食欲を増進するものがある。」そして二人の若者のポケットから貧しい人のための義捐金が出て来たのだ!

聖ヨハネ・クリゾストモスはその説教の間に御聖体について考えながら、ある時こう尋ねた:「われわれはわれわれの身体からどのようにして一つのホスチアを作ることができるか?」そして彼は自ら答えた:「あなたの目に悪いものを何も見せるな、そうすればあなたは一つの犠牲を捧げたのだ。あなたの舌に下品な言葉を提供させるな、そうすればあなたは一つの献げ物をしたのだ。あなたの手に罪を犯させるな、そうすればあなたは全燔祭を捧げたのだ。」

聖コレットの眼をただ思い起こしなさい。その眼は常に下げられ、そして甘美なしとやかさのうちに落ち着いていた。なぜか? 彼女は一度その答を与えた:「私は私の眼をミサ聖祭での聖体奉挙の時に私が自分の眼をその方に固定したそのイエズスで満たしました。そして私はイエズスを他のどのような像とも置き換えたくないのです。」

キリスト・イエズスの御体との接触によって聖なるものとされた舌を正確に用い、話すことにおける聖人たちの慎みと精神的啓発について考えてみよう。

御聖体によって愛で満たされた霊魂たちが、イエズスが彼らにすべての兄弟たちに対する、特に最も必要としている兄弟たちに対する彼の愛の感情を伝えられたがゆえに、達成したよき業を思い起こしなさい。

われわれはまたこのようにわれわれの意志を訓練することができるか? 聖人たちから学び、そして彼らの善き業を継続し始めよう。

ピエトレルチーナの聖痕保持者である司祭、パードレ・ピオ(上の写真)は聖体拝領においてイエズスを受ける前に御聖体のイエズスを礼拝する模範をわれわれに与えた。

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イエズス「われを愛してわがためにおのれを渡し給い」(ガラチア2:20)たり。

第2章 私のためのイエズス

教皇ヨハネ・パウロ二世は1982年5月13日ファチマでの説教の中で、十字架上のイエズスがわれわれ一人ひとりにマリアをわれわれの御母として与え給うたということをわれわれに思い起こさせておられる。イエズスはまた十字架の上でわれわれの救いのために御自身を犠牲となさった。十字架上のイエズスの犠牲と同一の犠牲であるミサの聖なる犠牲においてイエズスは今日もわれわれの救いのために御自身を永遠の御父に捧げ続けておられる。

ミサ聖祭は十字架の犠牲である

ただ天国においてのみわれわれはミサ聖祭が何という神的奇跡であるかということを理解するであろう。われわれがどれだけわれわれ自身を強制しようと、またわれわれがどのように聖であり霊感に満たされていようと、人間たちと天使たちを超越するこの神的な働きに関しては口ごもらざるを得ない。

ある日ピエトレルチーナのパードレ・ピオはこう求められた:「神父様、どうか私たちにミサ聖祭を説明してください。」パードレ・ピオはこう答えた:「私はどのようにあなたたちにそれを説明することができるだろうか? ...天使にミサが何であるかを尋ねてみなさい、そうすれば彼は実際にあなたたちにこう答えるでしょう、『私はそれが何であり、そしてそれがなぜ捧げられるかを理解しています。しかしながら、私はそれがどれほどの価値を持っているかを理解していません。』一人の天使、千人の天使たち、天国のすべての者はこのことを知っており、そしてこのように考えています。」

聖アルフォンソ・デ・リグオリは次のように主張するに至った:「神御自身はミサ聖祭の執行よりももっと聖でありもっと大きい行為をもたらすことがお出来にならない。」なぜか? なぜなら、ミサ聖祭は綜合であるからだ、と人は言うことができるであろう。なぜならミサ聖祭は受肉と救世とを合計すると言われ得るからである。そして神がわれわれのために達成なさった神秘、イエズスの御誕生、御受難そして死を含んでいるからである。第二ヴァチカン公会議はこう教えている:「イエズスは、裏切られた夜最後の晩餐において、イエズスの再来まで諸世紀を通じて十字架の犠牲を続けるためにその御体と御血の御聖体による犠牲をお始めになった。」(Sacrosanctum Concilium、典礼憲章、n. 47)聖トマス・アクィナスはある啓発的な節のなかでこう書いた:「ミサ聖祭の執行は十字架上でのイエズスの御死去と同じ価値を持っている。」

この理由でアッシジの聖フランシスコはこう言った:「神の御子が司祭の手の中で祭壇の上にお顕れになる時、人間は震えるべきであり、世界は震動すべきであり、天全体が深く動かされるべきである。」

実際、ミサ聖祭はそれがイエズスの御受難と御死去の犠牲を更新する限り、それだけを取ってさえ、神の正義を抑える程に十分に偉大である。イエズスの聖テレサは彼女の娘たちにこう言った:「ミサ聖祭なしには私たちはどうなるでしょうか? ここ地上にあるすべてのものは滅びるでしょう。なぜならミサ聖祭だけが神の御腕[が振り下ろされるの]を押しとどめることができるからです。」「ミサ聖祭なしには教会は確実に続かないでしょうし、また世界はどうしようもなく途方にくれたものとなるでしょう。」「世界にとって太陽なしに生き残ることはミサ聖祭なしに生き残ることよりも容易であろう」とピエトレルチーナのパードレ・ピオは言った。彼は次にように言ったポート・モーリスの聖レオナルドに従っていたのである:「私は、もしミサ聖祭がなかったならば、世界はその弱さの重みの下で今までに深淵の中へ沈み込んでいたであろうと信じる。ミサは世界を支える強力な支えである。」

ミサのあらゆる犠牲がミサに与る人々の霊魂のうちに産み出す諸々の救いの効果は何とすばらしいものか。それは罪に対する悲しみと赦しとを獲得する。それは罪に起因する一時的な罰を軽減する。それはサタンの影響とわれわれの肉の抑制されない推進力を弱める。それはキリストの身体におけるわれわれの結合の絆を強める。それは危険と災厄からわれわれを保護する。それは煉獄の罰を短くする。それはわれわれのために天国における栄光のより高い程度を獲得する。聖ローレンス・ジュスティニアンはこう言った:「いかなる人間の舌もミサの犠牲へと辿り着く諸々の利点を数え上げることはできない。罪人は神と和解させられる。義人はより正しい者となり、諸々の罪は拭い去られ、悪徳は除去される。徳と功績は成長し、そして悪魔の計画は挫折させられる。」

そしてそのようにポート・モーリスの聖レオナルドは彼に耳を傾けた民衆を熱心に勧めることに倦まなかった。「おお、あなたたち欺かれた人々よ、あなたたちは何をしているのか? なぜあなたたちはできる限り多くのミサを拝聴するために教会に急がないのか? なぜあなたたちは、ミサ聖祭が執行されるときに天国から集団となって降りて来てわれわれのために執り成しをするために礼拝においてわれわれの祭壇の周りに彼らの場所を占める天使たちを模倣しないのか?」

われわれがすべてこの世の生活と来世のために恩寵を必要としているということがもし真であるならば、ミサ聖祭のように神からその恩寵を得られるものは何もない。聖フィリップ・ネリはいつもこう言っていた:「われわれは祈りをもって神から恩寵を求める。ミサ聖祭においてはわれわれは恩寵をわれわれに与えて下さるよう神を強いる。」ミサ聖祭の間に捧げられる祈りはわれわれの司祭職全体を、祭壇にいる個別的な司祭の司祭職からさえ離れた聖職者としての司祭職および全信徒の共通の司祭職の両方を、保証する。ミサ聖祭においてはわれわれの祈りはイエズスがわれわれのために御自身を犠牲になさるその苦しみの祈りと結びつけられる。ミサの中心であるミサ典文の間にある特別な仕方でわれわれすべての者の祈りはわれわれの間におられるイエズスの祈りともなるのである。その間にわれわれに親しい者である生者と死者の両者が記念されるローマ典礼文の二つのメメント[記念]はわれわれの嘆願を述べるためにわれわれにとって貴重な瞬間である。またイエズスが司祭の手の中でその御受難と御死去とを経験なさるそれらの至高の瞬間にわれわれはわれわれ自身の必要なものを願うことができ、またわれわれはわれわれに親しい者である生者と死者の両者を推薦することができる。このことによって利益を得るように配慮しよう。聖人たちはこのことが非常に重要であると考えておられた。そして彼らは、司祭たちに祈りを託されたとき、とりわけ典礼文の間、彼らを記念して貰うように司祭たちに求められた。

われわれが敬虔に拝聴したミサがわれわれに最大の慰めと希望をもたらすということ、そして生きている間に拝聴したミサがわれわれの死後にわれわれのために他の人々によって拝聴された多くのミサよりもより利益をもたらすということは特にわれわれの死のときにそうであろう。

われらの主は聖ジェルトルードにこう告げられた:「あなたは、ミサ聖祭で敬虔に手伝う人に関して、彼の生涯の最後の時の間に彼を慰め彼を守るために、彼がよく拝聴したミサがあったほどそれだけ多くの私の聖人たちを私が彼に送るであろうと確信してもよい。」

何という慰めであろうか!アルスの聖なる司祭は次のように言う理由を持っておられた:「もしわれわれがミサの聖なる犠牲の価値を知っていたならば、それを手伝うためにわれわれはどれほどもっと大きな努力をすることであろうか!」そして聖ピーター・ジュリアン・エイマードは次のように忠告された:「おお、キリスト教徒よ、ミサが宗教の中で最も聖なる行為であるということを知りなさい。あなたは、敬虔にミサに与り、そしてできる限りしばしばそれを手伝うことよりもより多く神に栄光を帰し、またあなたの霊魂をもっと益する何かをすることはできないのである。」

この理由でわれわれは、ミサ聖祭に与る機会をわれわれが持つたび毎に幸運であると考えなければならないのである。そしてその機会を失わないためにわれわれは、特に日曜日そして聖なる祭日に、何らかの犠牲のために決して自らを制するべきではない。

聖マリア・ゴレッティのことを思い起こそう:彼女は日曜日のミサに徒歩で行くために、往復15マイル(約24km)の道のりを歩いたのである。われわれは高熱があったのにミサに行ったサンティナ・カンパーナのことを考えるべきである。祭壇で倒れないように修道会の兄弟たちの一人が彼を支えなければならなかったほどにその健康状態が憐れむべき状態にあった時にミサ聖祭を捧げた聖マキシミリアノ・マリア・コルベについて考えなさい。そしてピエトレルチーナのパードレ・ピオは彼が出血していて熱があった間にどれほど多くミサ聖祭を捧げたことか!

われわれの日常生活の中で、われわれはミサ聖祭を他のいかなる善よりも高く位置づけるべきである。なぜなら聖ベルナルドは次のように言われるからである:「彼のすべての財産を貧者に配ることよりも、また巡礼で世界中を旅行することよりも、ミサ聖祭で敬虔に手伝うことによって人はより多くの功徳を得る。」そしてそれはそれ以外ではあり得ないのである。なぜなら、世界における何ものも一つのミサ聖祭の無限の価値を持たないからである。

われわれはわれわれの時間を浪費しそしてわれわれの霊魂に何の利益ももたらさない単なる娯楽よりもミサ聖祭にそれだけよけいに優先権を与えるべきである。フランス王聖ルイ九世は毎日いくつものミサに与っていた。政府のある大臣が、王はその時間を王国の諸々の事柄に捧げることができるであろうと言って不満を漏らした。聖なる王はこう言われた:「もし私が狩猟のような娯楽に二倍の時間を使ったとしても誰も反対はしないであろう。」

そのように大きな善を失わないために寛大にそして喜んで犠牲をしよう。聖アウグスティヌスは彼のキリスト教徒たちにこう言われた:「ミサ聖祭を拝聴するために彼が通うときに踏むすべての足取りは天使によって数えられている。そして次に人はこの世において、そして永遠において神によって高い報いを与えられるであろう。」アルスの司祭はこうつけ加えておられる。「ミサ聖祭に一つの霊魂を伴う守護の天使はなんと幸せであろうか!」

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毎日のミサ聖祭

人は、ひとたびミサ聖祭が無限の価値を持つということを理解すると、毎日、そして可能な限りよりしばしばでさえ、ミサ聖祭に与るための聖人たちの熱心さと配慮に驚かない。

聖アウグスティヌスは彼の母聖モニカについてこの称賛をわれわれに残した:「おお主よ、彼女はあなたの祭壇の前での神的な犠牲に出席することなしに一日を過ごすことはなかったのです。」

アッシジの聖フランシスコはいつもは毎日二つのミサに与っていた。そして病気の時は、ミサ聖祭なしでいることがないように、司祭であった一人の修道士に彼の部屋で彼のためにミサを捧げてくれるように頼んだ。

毎朝聖なるミサを捧げた後に、聖トマス・アクィナスは感謝のために他のミサの奉仕をした。

羊飼いの少年、聖パスカル・バイロンは羊を牧場に連れて行かなければならなかったので彼が与りたかったすべてのミサに与るために教会へ行くことができなかった。それで、彼は教会の鐘がミサのための合図を与えるのを聞くたび毎に彼が作った羊毛の布の前で羊の間に草の上に跪いた。そしてこのようにして彼は遠くから司祭が神的な犠牲を捧げたときに彼に従うのであった。何という愛すべき聖人、御聖体に対する真の愛のセラフィム(熾天使)であることか。その死の床で彼はミサのための鐘を聞いた。そして彼の兄弟たちにこう囁く力を得た:「僕は僕の貧しい生活の犠牲をイエズスの犠牲に合わせることができて幸せだよ。」そして彼は聖なるミサの奉献の時に死んだ。

スコットランドの女王で八人の子どもたちの母親であった聖マーガレットは毎日ミサに行き、子どもたちを一緒に連れて行った。そして母親の配慮をもって彼女がいろいろの宝石で飾るために選んだ小さなミサ典書を大切にするよう彼らに教えた。

われわれが聖なるミサのための時間を欠かすことがないようにわれわれの仕事をうまく処理するようにしよう。われわれは雑用で忙しいと言わないようにしよう。そのことに対してイエズスはわれわれに気づかせてくださることがお出来になるであろう:「マルタ、マルタ、汝はさまざまのことにつきて思いわずらい心を騒がすれども、必要なるはただ一つのみ」(ルカ10:41-42)。

人は、ミサに行こうと本当に望むならば、自分の義務を怠ることなく、ミサに行く時間を見つけるものである。聖ジョゼフ・コットレンゴはすべての人のため - 教師、看護婦、労働者、医師、両親のために - 毎日のミサを勧めた。そして行く時間がないと反対した人々に対して彼は断固としてこう答えた:「管理の仕方のまずさ!時間の節約のまずさ!」彼は真理を語ったのである。もしわれわれが聖なるミサの無限の価値を正しく評価するならば、われわれはミサに与ることをとても望むであろうし、またあらゆる仕方で必要な時間を見つける努力をするであろう。

セッゼの聖チャールズが彼の共同体のための義捐金を求めてローマをあちこち廻ったとき、彼は余分のミサに与るために一つの教会へ訪問するための時間を作り出すのであった。彼がその心の中に愛の投げ矢を受けたのはこれらのミサの一つの間のホスチアの奉献の瞬間であった。

パウラの聖フランシスコは毎朝教会へ行った。そして捧げられるその日のすべてのミサに与るためにそこにとどまった。聖ジョン・ベルクマンス、聖アルフォンスス・ロドリゲスそして聖ジェラルド・マジェラは彼らができる限りの多くのミサで奉仕するのが常であった。(彼らはこのことを、多くの信徒を教会へと惹きつけるほどのそのような献身と教化とをもってなした。)

カルメル会員尊者幼きイエズスのフランシスコは毎日10のミサの奉仕をした。もしそれよりも少ない数のミサの奉仕をすることがたまたまあったとき彼はこう言うのであった:「今日は私は十分な朝食を摂らなかった。」そしてわれわれはピエトレルチーナのパードレ・ピオについては何と言うことができるであろうか? パードレ・ピオは毎日多くのミサを拝聴した。そして多くのロザリオを唱えることによってそれらのミサに与った。アルスの聖なる司祭はこう言ったとき間違っていなかった:「ミサは諸聖人の信心である。」

同じことは聖なる司祭たちがミサを捧げるために持っていた愛について言われなければならない。ミサを捧げることができないことは彼らにとっては恐るべき苦痛であった。「私がもはやミサを捧げることができないということをあなたが聞くときには、私を死者として数えてください」と聖フランシスコ・ザビエル・ビアンキは同僚の修道士に言った。

十字架の聖ヨハネは彼がその投獄の厳しい試練の間に経験した最大の苦痛が引き続く九ヶ月の間ミサを捧げることも御聖体を拝領することもできないという苦痛だったということを明らかにした。

諸々の障碍や困難は、諸聖人がそのように優れた善を失わないことを目的に彼らの仕事の手筈を整えていたとき、彼らにとって問題ではなかった。例えば、ある日ナポリの通りで聖アルフォンソ・リグオリは腹部に激しい痛みを経験した。彼に同伴していた修道士が立ち止まって、鎮痛剤を飲むように彼に促した。しかし聖人はまだミサを捧げていなかった。そして彼の素早い返答はこうだった:「兄弟よ、私は聖なるミサを捧げることを逸しないためにこの状態で10分間歩きたいのだ。」そして彼の苦痛はその当時真夜中から義務であった御聖体のための断食を破るように彼を動かすことはなかったのであった。彼は苦痛が少し治まるまで待ってそれから教会へと歩みを続けた。

カプチン会士、ブリンディシの聖ローレンスは異端者たちの町にいた。この町にはカトリック教会がなかったので、彼は自分が聖なるミサを捧げることができる、カトリック教徒たちによって世話された一つのチャペルに到達するために40マイル(約64km)も徒歩で行った。

聖フランシスコ・サレジオはある時プロテスタントの町に滞在していた。そして聖なるミサを捧げるために彼は毎朝夜明け前に幅の広い川の反対側にあったカトリック小教区の教会へ行かなければならなかった。秋の雨の間に川はいつもより増水していて聖人が横切っていた小さな橋を押し流した。しかし聖フランシスコは勇気を失わなかった。彼は橋があった場所に一つの大きな梁を投げた。そして渡り続けた。しかしながら、冬には氷と雪のために、滑って川に落ちる大きな危険があった。そこで聖人は、彼が聖なるミサを捧げられなくなることがないように、梁にまたがり、四つん這いで何とか横切るという処置を考え出した。

われわれは筆舌では尽くされないあの神秘、われわれの祭壇上でカルワリオの犠牲を再現する聖なるミサを十分に考えることに決して成功しないであろう。またわれわれは神の愛のこの至高の奇跡に対する多すぎる信心を持つことも決してできないのである。

聖ボナヴェントゥラはこう書いた:「聖なるミサは神がそこでわれわれの見ている前に神が抱かれたすべての愛を置かれる一つの神の離れ業である。それはある意味において綜合、われわれに与えられたすべての恩恵の合計である。」

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能動的なそして実りある参加

聖なるミサの無限の偉大さはイエズスの犠牲に注意深くまた敬虔に与る必要性を理解することをわれわれに可能にするであろう。礼拝、愛そして悲しみはわれわれの心情の中で明白な優先性を持つべきである。

第二ヴァチカン公会議によって力強く引用されたある非常に感動的な意見において、教皇ピオ十二世は聖なるミサにおいて人がそれをもって与るべき性向をこう描写なさった:すなわち、それは「神である救世主が御自身を犠牲になさったときに持っておられた性向;同じ従順の謙遜な精神 - をもってであるべきである:すなわち、神の大きな威厳に対する礼拝、愛、賞賛そして感謝であり...そのようにしてわれわれはわれわれ自身のうちに福音の教えに従う犠牲と自己否定の状態を再現する。そのことによってわれわれは自発的にわれわれの罪に対して苦行、悲しみそして贖いの心からの犠牲を捧げるのである。

聖なるミサへの真の能動的な参加はわれわれをイエズスのように屠られた犠牲へと変えるもの、そして「われわれのうちに苦しみのしるしのついた容貌、イエズスの苦しみの似姿を再現すること」(ピオ十二世)に成功するもの、われわれが「キリストの死にかたどれる者とされる」(フィリッピ2:10)ように、われわれに「イエズスの苦しみの分かち合い」を許すものである。他のすべてのものは単に典礼の儀式であり、単に衣服である。大聖グレゴリオはこう教えた:「祭壇の犠牲はわれわれがわれわれ自身を犠牲として捧げるとき、神に対するわれわれの献げ物としてわれわれに代わって真に受け入れられ得るものとなるであろう。」この教えの反映として、初期のキリスト教共同体において信徒は悔い改めの衣服を纏い諸聖人の連祷を歌いながら、教皇が司式する聖なるミサの挙行のために祭壇へと行列して進んだものである。もしわれわれがこの精神においてミサに行こうとするならば、われわれは使徒聖トマスが次のように言ったとき表明した心情をわれわれ自身のものとすることを欲すべきである:「いざわれらも行きて彼とともに死なん」(ヨハネ11:16)。

聖マルガリタ・マリア・アラコックが聖なるミサに与ったとき、彼女が祭壇を眺めていると、彼女は十字架と燃えている蝋燭に目をやることを決して欠かしたことはなかった。なぜか? それは彼女の精神の中へ二つの事柄を刻印するためであった:すなわち、十字架は彼女にイエズスが彼女のためになし給うたことを思い起こさせた。燃えている蝋燭は彼女がイエズスのためになさなければならないこと:すなわち、彼女自身を犠牲にすることとイエズスのためそして諸々の霊魂のために彼女自身を消耗すること、を思い起こさせた。

聖なる犠牲への参加の最善の例はいとも祝福せられたおとめマリア、福音史家聖ヨハネ、そして敬虔な女性たちを伴った聖マリア・マグダレナによって十字架の下でわれわれに与えられている(ヨハネ19:25)。ミサで奉仕することはカルワリオにいることに非常に似ている。

聖アンドルー・アヴェッリーノはこう言うとき、涙にくれるほど感動するのが常であった:「人はいとも聖なる御聖体をイエズスの御受難から分離することはできない」。

ある日一人の霊的な息子がピエトレルチーナのパードレ・ピオに尋ねた:「神父様、われわれは聖なるミサにどのように与るべきですか?」

パードレ・ピオはこう答えた:「聖母、聖ヨハネそして敬虔な女性たちがイエズスを愛し、彼に憐れみを示しながら、カルワリオでしたように」。

パードレ・ピオは彼の霊的な子どもたちの一人のミサ典書の中にこう書いた:「聖なるミサで奉仕しているときに、あなたの目の前で行われているものすごい神秘に熱心に集中しなさい。そしてそれは罪の贖いの業であり、あなたの霊魂の神との和解です。」別の機会に彼はこう尋ねられた:「神父様、あなたがミサの間にそのように多く泣かれるのはなぜなのですか?」パードレ・ピオはこう答えた:「娘よ、祭壇の上で行われていることに比較すればそれらの僅かな涙は何ですか? そこには滝のような涙があるべきです!」そしてなお別の機会に彼はこう言われた:「神父様、ミサの間中神父様の出血しておられる足で立っていることによってどれほど苦しまなければならないのでしょう!」パードレ・ピオは答えた:「ミサの間私は立っているのではありません。私はつり下げられているのです。」何という答えであろう!「私はつり下げられている」という数語は聖パウロが語っている「キリストとともに十字架につけられた」(ガラチア2:20)ということが何であるかを非常に強く表現している。そしてそれはミサへの真のそして完全な参加を単に騒々しい外的な参加の点にまでさえ至る中身のないアカデミックな参加と区別するものである。聖ベルナデット・スービルーは、一人の新司祭に次のように言ったとき、申し分なく話したのである:「祭壇での司祭は常に十字架の上のイエズス・キリストであるということを覚えておきなさい。」アルカンタラの聖ペトロは聖なるミサのためにあたかもまさにカルワリオへ昇って行くかのように祭服をまとった。というのはすべての祭服はイエズスの御受難と御死去への参照を持っているからである:アルバはヘロデがイエズスを気が狂った人間として嘲るために彼に着させた白のチュニックを思い起こさせる。ストールはイエズスを縛ったロープを思い起こさせる。剃髪は茨の冠を思い起こさせ、十字架のしるしをされたカズラ[袖なしのミサ服]はイエズスの肩の上の十字架を思い起こさせる。

パードレ・ピオのミサで奉仕した人々は彼のあの燃えるような涙を思い起こす。彼らは出席する人々は跪いて聖なるミサに与るべしという彼の説得力のある要求を思い起こす。彼らはその中で聖なる儀式が展開される印象的な沈黙を思い起こす。彼らはパードレ・ピオが奉献の言葉を大きな努力をもって発音するとき彼の顔に無意識的に示される悲痛な苦しみを思い起こす。彼らは、パードレ・ピオが沈黙して一時間以上もの間いくつかのロザリオを祈っている間教会を満たした信徒の沈黙の祈りの熱を覚えている。

しかし聖なるミサでのパードレ・ピオの苦しみの参加はすべての聖人たちのそれと同じである。パードレ・ピオの涙はアッシジの聖フランシスコの涙(それは時には血の涙となった)、聖ヴァンサン・フェレルの涙、聖イグナチオの涙、聖フィリップ・ネリの涙、ブリンディシの聖ローレンス(彼は時には彼の涙で七枚のハンカチを濡らした)の涙、聖ヴェロニーチェ・ユリアーニの涙、クペルティーノの聖ヨゼフの涙、聖アルフォンソの涙、聖ジェンマ・ガルガーニの涙...に似たものであった。しかし、結局のところ、イエズスの十字架刑と御死去の前で無関心のままでいることがどのように可能なのか? われわれは確かにゲッセマニで眠った使徒たちに似た者ではないであろう。そしてわれわれは十字架の足もとで、死んで行かれるイエズスのぞっとするような痙攣にお構いなくたださいころのゲームしか考えなかった兵士たちに似た者ではなおさらありたくないであろう!(それにもかかわらず、みだらな服装をした女性たちと最も奇妙なファッションの若者たちとともに世俗的な安っぽいメロディーを演奏するギターのリズムに合わせて捧げられるいわゆる「ロック」ミサを見るときにわれわれが得るのは悲惨な印象である...「主よ、彼らを赦し給え!」)

祝せられたおとめと聖人たちを見守ろう。彼らを模倣しよう。ただ彼らに従うことによってのみわれわれは正しい道、「神を喜ばせる」(1コリ1:21)道にいるのである。

「聖なる犠牲への参加の最善の例はいとも祝福せられたおとめマリア、福音史家聖ヨハネ、そして聖マリア・マグダレナによって十字架の下でわれわれに与えられている...ミサで奉仕することはカルワリオにいることに非常に似ている。」
- マネッリ神父

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ミサ聖祭と煉獄の霊魂たち

われわれは、ひとたびこの世を去ったならば、われわれの霊魂のために聖なるミサを捧げて貰う以上のことを何も望まないであろう。祭壇の聖なる犠牲は最も強力な執り成しの祈りである。なぜならそれはあらゆる祈り、あらゆる苦行、そしてあらゆる善業に勝るからである。また、もしわれわれがミサの犠牲はイエズスが十字架の上でお捧げになった、そして今やその無限の罪の贖いの価値とともに祭壇の上でお捧げになっている犠牲と同じ犠牲であるということを思い起こすならば、われわれにとってそのことを理解することは困難ではないであろう。犠牲とされ給うたイエズスは「われわれの罪の贖い」(1ヨハネ2:2)の真の犠牲にまします。そしてイエズスの神的な御血は「罪の赦しのために」(マテオ26:28)流されるべきものである。聖なるミサに匹敵し得るものは絶対に何もない。そしてその犠牲の救いの実りは際限のない数の霊魂たちにまで拡大され得るのである。

ある時ローマの三つの泉の側にある聖パウロ教会において聖なるミサを捧げている間に、聖ベルナルドは天国へと昇っている一本の果てしない階段を見た。非常に多くの天使たちが、全世界の至るところの祭壇上で司祭たちによって繰り返されているイエズスの犠牲によって解放された霊魂たちを煉獄から天国へと運びながらその階段を上ったり下りたりしていた。

このように、われわれの親族の一人の死に際しては、花、喪服そして葬列についてよりも遙かにもっと多くその人のために聖なるミサを捧げ、ミサに奉仕したことについて配慮するようにしよう。

煉獄の霊魂たちが煉獄を去ることができるように彼らの意向のために聖なるミサを捧げてくれるようにパードレ・ピオに求めに来た、煉獄で清めを受けている霊魂たちの多くの出現が数え上げられている。ある日パードレ・ピオは彼の同僚のフランシスコ会士たちのうちの一人の父親のために聖なるミサを捧げた。聖なる犠牲の終わりにパードレ・ピオはそのブラザーに言った:「今朝あなたのお父さんの霊魂は天国へ入りました。」そのブラザーはそれを聞いて非常に幸せであった。にもかかわらず彼はパードレ・ピオにこう言った:「しかし、神父様、私の善良な父は32年前に亡くなったのですよ。」パードレ・ピオはこう答えた:「ねえ君、神の御前では何もかも支払われるのだよ。」そしてわれわれのために無限の価値:すなわちイエズスの御体と御血、「ほふられ給いし小羊」(黙示録5:12)の値段を獲得するのは聖なるミサなのである。

アルスの聖なる司祭はある日説教の間にある司祭の例を挙げた:その司祭は彼の亡くなった友人のためにミサを捧げていたが、聖変化の後で次のように祈った:「聖にして永遠なる御父よ、一つの交換をしましょう。あなたは私の友人の霊魂を煉獄に持っておられます。私はあなたの御子の体を私の手の中に持っています。あなたは私のために友人を解放なさいます。そうすれば私はあなたに、その御受難と御死去とのすべての功績を持たれたあなたの御子を捧げます。」

次のことを覚えておこう:ある霊魂のために捧げられるすべての祈りと善業は善いものであり、賞賛すべきものである。しかしわれわれができるときには、われわれに親しい亡くなった霊魂たちのためにとりわけ聖なるミサ(特に30日のグレゴリアン・ミサ)を捧げよう。

福者ヘンリー・スソの生涯のうちにわれわれは次のことを読む:彼は青年だったときに彼の修道会の一人のブラザーと次のような約束をした:「もしわれわれのうちどちらかが他の者より長生きしても毎週一回の聖なるミサを捧げることをもって永遠へと移った者の栄光を早めることにしよう。」福者ヘンリーの仲間が最初にある宣教地で亡くなった。福者ヘンリーはしばらくの間は彼の約束を覚えていた。それから、彼は他の人々のためにミサを捧げなければならなかったので、彼の友人に約束していた毎週のミサを祈りと苦行とで代用した。しかし彼の友人が出現して彼を叱った:「あなたの祈りと苦行は私のために十分ではありません。私はイエズスの御血を必要としているのです。」「なぜならわれわれがわれわれの罪の負債を支払うのはイエズスの御血をもってであるからです。」(コロサイ1:14)

また、偉大な聖ヒエロニムスはこう書いた:「敬虔に捧げられた多くのミサのために多くの霊魂たちが煉獄を去り、そして彼らは天国へと飛ぶ。」同じことは敬虔に拝聴される聖なるミサについても言われなければならない。有名なカルメリットの神秘家であるパッツィの聖マリア・マグダレナは煉獄にいる霊魂たちを解放する目的のためにイエズスの御血を霊的に捧げる習慣を持っていた。そして恍惚状態のうちにイエズスは彼女に真に煉獄にいる多くの霊魂が[イエズスの]いと貴き御血を捧げることによって解放されるということをお示しになった。またそれはそれ以外ではあり得ないであろう。なぜなら、聖トマス・アクィナスが教えているように、その無限の価値をもったイエズスの御血のわずか一滴があらゆる罪から全世界を救うことができるからである。

それゆえに、煉獄にいる霊魂たちのために祈ろう。そして多くの聖なるミサを捧げて貰いまた拝聴することによって彼らの苦痛から彼らを解放しよう。アルスの聖なる司祭はこう言われた:「すべての善業は全部合わせても一つの聖なるミサの価値を持つことはできない。なぜなら、前者は人間たちの業であるが、それに対して聖なるミサは神の業だからである。」

その叙階の時に司祭たちは彼らの司教からわれらの主を模倣するように告げられる。このことは司祭が聖なるミサを捧げるとき、特に注意されるべきことである。

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「わが肉を食し、わが血を飲む人は、われに留まり、われもまた、これに留まる(ヨハネ6:57)。

第3章 私の内におられるイエズス

聖体拝領:イエズスは私のものである

聖体拝領においてイエズスは御自身を私にお与えになり、その御体、御血、霊魂そして神性において私のもの、すべて私のものとなられる。このようにして、ある日聖ジェンマ・ガルガーニは率直にイエズスにこう言った:「私はあなたの師です。」

聖体拝領とともにイエズスは私の心の中へ入られ、そしてパンの形色(外観)が存続する間、すなわち、およそ15分間私のうちに身体的に現前して留まられる。この時間私の周りの天使たちがイエズスを礼拝し続けそして休むことなくイエズスを愛し続けていると聖なる師父たちは教えておられる。「イエズスが身体的にわれわれのうちに現前しておられるとき、天使たちは愛の守護者としてわれわれの周りを取り囲んでいる」と聖ベルナルドは書いた。

おそらくわれわれはあらゆる聖体拝領の気高さについて余りにも少ししか考えないのである。にもかかわらず、聖ピオ十世はこう言われた:「もし天使たちがうらやましく思うことができたとしたならば、彼らは聖体拝領のためにわれわれをうらやましく思ったであろう。」そして聖マドレーヌ・ソフィー・バラットは聖体拝領を「地上における天国」と定義した。

すべての聖人たちは経験によって御聖体におけるイエズスとの出会いと一致の神的な奇蹟を理解した。彼らは敬虔な聖体拝領がイエズスによって所有されることそしてイエズスを所有することを意味するということを理解した。「わが肉を食し、わが血を飲む人は、われに留まり、われもまた、これに留まる」(ヨハネ6:57)。ある時聖ジェンマ・ガルガーニはこう書いた:「今は夜です。明日の朝が近づいています。そしてそのときイエズスは私を所有なさり、そして私はイエズスを所有するでしょう。」それ以上に深いそしてそれ以上に全体的な愛の一致を持つことは不可能である:イエズスが私のうちに、そして私がイエズスのうちに、一方が他方のうちに。それ以上の何をわれわれは欲することができようか?

聖ヨハネ・クリゾストモスはこう言われた:「あなたは、イエズスの衣に触れた女の、その涙でイエズスの御足を洗った罪深い女の、イエズスの巡礼において彼に従う幸福をもったガリレアの女たちの、イエズスと親しく会話した使徒たちや弟子たちの、イエズスの口から出た恩寵と救いの言葉を聞いた当時の人々の、機会をうらやましく思う。あなたはイエズスを見た人々を幸せだと呼ぶ...しかし、祭壇の所へ来なさい。そうすればあなたはイエズスを見るであろう、あなたはイエズスに触れるであろう、あなたはイエズスに聖なる接吻を与えるであろう、あなたは涙で彼を洗うであろう、あなたはいとも聖なるマリアのようにあなたの内部に彼を連れて行くであろう。」

この理由のために聖人たちは熱心な愛をもって聖体拝領を望まれ、憧れられた。例えば、アッシジの聖フランシスコ、シエナの聖カタリナ、聖パスカル・バイロン、聖ヴェロニカ、聖ジェラルド、聖マルガリタ・マリア・アラコック、聖ドメニコ・サヴィオ、聖ジェンマ・ガルガーニ...ずっと続けることは無意味である。なぜなら人は実際すべての聖人たちを列挙する必要があるからである。

例えば、ある夜、ジェノアの聖カタリナに次のようなことが起こった:すなわち、彼女は翌日に彼女が聖体拝領をすることができなくなるであろうという夢を見た。彼女が経験した悲しみはそのように大きかったので彼女は絶え間なく泣いた。そして彼女が翌朝起きたとき、彼女は自分の顔が夢の中で流した涙によってびしょぬれになっているのを見出した。

幼きイエズスの聖テレジアは一つの小さな御聖体の詩を書いた。他の美しい詩の中の一つにおいて彼女はこう言った:「聖櫃の近くの望み。私はあそこのカリスでありたい。そこで私は神の御血を礼拝するでしょう。しかしながら、私は聖なる犠牲において毎朝その御血を私のうちに集めることができます。私の霊魂はそれゆえにイエズスにもっと親しいのです。私の霊魂は金の器よりももっと貴重なのです。」そしてある伝染性の病気の間に毎日の聖体拝領が彼女に許されたとき何がこの天使的な聖女の幸せでなかったのか?

聖ジェンマ・ガルガーニはある時彼女に聖体拝領をすることを禁じた一人の聴罪司祭によって試された。彼女は霊的指導者に手紙を書いた:「おお、神父様、神父様、私は今日告解に行きました。そして聴罪司祭は私がイエズスをお受けすることを止めなければならないと言われました。おお、私の神父様、私のペンはこれ以上書くことを欲しません。私の手は強く震えています。私は泣いています。」愛すべき聖女かな!真に御聖体のイエズスの対する愛に全身燃えている一人の熾天使。

同じように、聖ジェラルド・マイエラは、彼が自分自身を弁護することを望まなかった一つの誤ったそして中傷的な報告のために、聖体拝領を奪われることによって罰せられた。聖人の苦しみは非常に大きかったのである日彼は訪問していたある司祭のために聖なるミサに奉仕しに行くことを拒否した。彼はこう言った:「なぜと言うに、司祭の手の中にあるホスチアのうちにおられるイエズスを見ると、私は彼の手からホスチアを力ずくで取ることに抵抗できないでしょうから。」何という強い憧れがこのすばらしい聖人を焼き尽くしたことであろう!そしておそらく容易に毎日聖体拝領をすることができるのにそうしないわれわれに対してはいかなる非難があることであろう。それはわれわれが本質的なもの:すなわち、愛を欠いている一つのしるしである。そしておそらくわれわれはホスチアの中におられるイエズスとの一致の天上的な喜びをわれわれがもはや正当に評価することができないほどに地上的な喜びを愛しているのである。肉の喜び、ダンスや娯楽の喜びを愛している一人の青年に聖フィリップはこう尋ねた:「子よあなたは聖櫃から放散される天国のよい香りをどのように感じることができますか?」御聖体の喜びと感覚の満足は「お互いに対立する」(ガラチア5:17)。そして「肉的人物は神の霊のことを受け入れない」(1コリント2:14)。これは神から来る知恵である。

聖フィリップ・ネリは御聖体を非常に愛していたので、彼が大病であったときでさえ、毎日聖体拝領をしていた。そしてもしイエズスが早朝に彼の所に持って来られなかったならば、彼は非常に心をかき乱され、どのようにしても安息を見出すことができなかった。彼はこう叫んだ:「私はイエズスをお受けしたいというそのように大きな望みを持っていたので、待っている間私自身に平和を与えることができません。」同じことはわれわれ自身の時代にもピエトレルチーナのパードレ・ピオに起こった。というのは、ただ従順だけがミサを捧げるために4時あるいは5時まで彼を待たせることができたからである。誠に神への愛は「焼き尽くす火」(第二法の書4:24)である。

イエズスが私のものであるとき、全教会、天国における教会、煉獄における教会そして地上の教会は喜ぶ。敬虔に受けられるあらゆる聖体拝領において天使たちや聖人たちの喜びを誰が表現することができようか? 愛の新しい流れが天国に到達し、そしてそれは、イエズスを所有しまたイエズスによって所有されるために被造物が彼自身をイエズスに結びつけるあらゆる時に祝福された諸々の霊を震えさせるのである。聖体拝領は恍惚、歓喜あるいは幻視よりも遙かに大きな価値を持っている。聖体拝領は私の貧しい心の中へ天国全体を移す!

そういうわけで煉獄における諸々の霊魂にとって聖体拝領は彼らがわれわれから受け取ることができるもっとも貴重な個人的贈り物である。どれほどの聖体拝領が彼らの解放において役立つかを誰が言うことができようか? ある日パッツィの聖マリア・マグダレーナの亡くなった父親が彼女に現れた。そして彼は煉獄を去ることができるために彼にとっては170回の聖体拝領が必要であると言った。実際、彼のために捧げられた170回の聖体拝領の最後に、聖女は彼女の父親が天国へ昇って行くのを見た。

聖ボナヴェントゥラはこの真理の使徒となった。そして彼はそのことについて力強い口調でこう語った:「おお、キリスト者の霊魂たちよ、あなたたちはあなたたちの死者に対する真の愛を証明することを望みますか? あなたたちは彼らに天国への最も貴重な援助と金の鍵を送ることを望みますか? 彼らの霊魂の安息のためにしばしば聖体拝領をしなさい。」

最後に、聖体拝領においてわれわれがわれわれ自身を単にイエズスに結びつけるだけでなく、またキリストの神秘体のすべての成員に、特にイエズスに最も大切な、そしてわれわれの心に最も大切な霊魂たちにも結びつけるということを熟考しよう。われわれが「彼らが一に全うせられんため...われ彼らにおり...」(ヨハネ17:23)というイエズスの御言葉を完全に実現するのは聖体拝領においてである。御聖体はイエズスの成員たちであるわれわれ自身の間でさえ、われわれを一つになさる。われわれは、聖パウロが言っているように「キリスト・イエズスにおいてみな一人」(ガラチア3:28)なのである。聖体拝領はすべて真に神と隣人とに対する愛である。それは聖ジェンマ・ガルガーニが言ったように「愛の祝祭」である。そしてこの「愛の祝祭」において愛している霊魂は十字架の聖ヨハネとともに次のように歌いながら歓喜して言うことができるのである:「天は私のもの、地は私のもの、人々は私のもの、正しき御者は私のもの、そして罪人たちは私のものである。天使たちは私のもの、そしてまた神の御母も私のもの、すべてのものは私のもの。神御自身は私のもの、そして私のためである。なぜなら、キリストが私のものであり、そしてすべてが私のためであるからである。」

おとめマリアの御子

聖体拝領のために必要な霊魂の清らかさ

聖人たちが天使たちのパンを受けるためにそれをもって近づいた霊魂の最大の清らかさについて言うべきことがあるとすればそれは何であろうか? われわれは彼らが真に天使的である良心の大きな繊細さを持っていたということを知っている。彼らは彼ら自身の惨めさを知っていて、税吏と共に「神よ、罪人なるわれをあわれみ給え」(ルカ18:13)と繰り返しながら、自分たち自身を「聖にして汚れなき」(エフェゾ1:4)イエズスに捧げるよう努めていた。そして大いに注意して告解の清めを頼りとしていた。

聖ヒエロニムスがその生涯の終わりに臨終の御聖体をもたらされたとき、聖人は礼拝のために地面に跪き、深い謙遜をもって聖エリザベットと聖ペトロの言葉を繰り返した:「われ何によりて、わが主の来臨をかたじけのうしたるぞ」、「主よ、われは罪人なれば、われより遠ざかり給え」(ルカ5:8)と。そして天使的、熾天使的な聖ジェンマは彼女自身を卑しいもの、「糞の山」以外の何物でもないと主張しながら、御聖体を受けない気に何度させられたことであろうか?

ピエトレルチーナのパードレ・ピオは彼の兄弟たちにおののきをもってこう繰り返すのを常としていた:「神は天使たちのうちにさえ無秩序を御覧になる。神は私のうちに何を御覧にならなければならないであろうか。」この理由で彼は告解の秘蹟に与ることに非常に熱心であった。

「おお、もし私たちが聖体拝領においてお受けする神がどなたであるかを理解することさえできたならば、そのとき私たちはどのような心の清らかさを神に持って行くことでしょう!」とパッツィの聖マリア・マグダレナは叫んだ。

この理由で聖ユーグ、聖トマス・アクィナス、聖フランシスコ・サレジオ、聖イグナチオ、聖カロロ・ボロメオ、聖フランシス・ボルジア、聖ルイ・ベルトラン、聖ヨゼフ・クペルティーノ、ポート・モーリスの聖レオナルドそして他の多くの聖人たちは聖なるミサを捧げる前に毎日告解に行っていた。

レリスの聖カミルスは最初に告解に行くことなしに聖なるミサを決して捧げなかった。なぜなら、彼は少なくとも彼の霊魂の「塵を払う」ことを望んだからである。一度日没の時にリヴォルノの公共の広場で同じ修道会の一司祭と別れる前に、翌日の朝ミサの前に告解する司祭がいないことを予見して、立ち止まり、帽子を取って十字架のしるしをして、その広場のところでその同僚に告解をしに行った。

同様にまた聖アルフォンソ、聖ヨゼフ・カファッソ、聖ヨハネ・ボスコ、聖ピオ十世そしてピエトレルチーナのパードレ・ピオは非常にしばしば告解に行った。そして天使たちに非常に似ている子どもたちの無垢の心の中へイエズスを入らせることを許すためでないならば、なぜ聖ピオ十世は初聖体の年齢を七歳へと引き下げることを望まれたであろうか。そしてなぜパードレ・ピオは初聖体のために準備された五歳の子どもたちを彼のところへもたらしたときそのように喜ばれたであろうか?

聖人たちは聖霊の次の命令を完璧に利用なさった:「人はおのれをためし、しかしてのち、かのパンを食し杯を飲むべし。そはふさわしからずして飲食する人は主の御体をわきまえず、おのが宣告を飲食する者なればなり。」(1コリント11:28-29)

おのれをためし、痛悔し、告解においておのれを責め、神に赦しを願うこと、そしてこのようにして毎日告解の秘蹟から利益を得ることは聖人たちにとって自然的なことであった。そのように多くのことが可能であった彼らは何と幸せだったことか!聖化の諸々の実りは休みなくまた豊富であった。なぜなら、各々の聖人がそれでもってイエズス、「選ばれた者の小麦」(ザカリア9:17)を彼自身の中へと歓迎した霊魂の清さは「忍耐をもって実を結ぶ」(ルカ8:15)良き土のようであったからである。

聖アントニオ・マリア・クラレットはこの事実を非常にうまく説明している:「われわれが聖体拝領に行くとき、われわれはみな同じ主イエズスを受ける。しかしすべての者が同じ恩寵を受けるのではないし、またすべての者において産み出される結果も同じではない。このことはわれわれの構えの大小から来る。この事実を説明するために自然から一例を取ろう。接ぎ木の手順を考えてみなさい。ある植物が他の植物に似ていればいるほど、それだけうまく接ぎ木は成功する。同じように、聖体拝領に行く人とイエズスとの間に類似が多くあればあるほど、それだけ聖体拝領の実りは大きいのである。」告解の秘蹟は実際それによって霊魂とイエズスとの間の類似が回復される優れた手段である。

この理由で聖フランシスコ・サレジオは彼の霊的な子どもたちにこう教えた:「謙遜と献身をもって告解に行きなさい....もし可能ならば、たといあなたが良心において大罪のいかなる痛悔をも感じていないとしても、あなたが聖体拝領に行くたび毎にそうしなさい。」

この点に関して教会の教えを思い起こすことはよいことである。聖体拝領は神の聖寵のうちにある場合にのみなされなければならない。それゆえに、大罪を犯したならば、たといそれを痛悔し、そして聖体拝領をする大きな望みをもっているとしても、聖体拝領をする前にまず告解をすることが必要かつ不可欠である。もしそうでなければ、そのためにイエズスが聖ブリジェットにこう云われた聖なるものの冒涜という最も重い罪を犯すことになる。すなわち、「それを十分に罰するに十分大きいものである罰はこの地上には存在しない!

聖アンブロシウスはこの神聖冒涜を犯す人々は「僅かの罪と共に教会に来て、多くの罪を背負って教会を去る」と云われた。聖シリルはもっと強いことを言われた:「神聖冒涜的な聖体拝領をする人々は彼らの心の中へサタンとイエズス・キリストとを受け入れるのである。」「サタンを、というのは彼らはサタンに支配をさせるためであり、そしてイエズス・キリストを、というのは彼らはイエズスをサタンへの犠牲として捧げるためである。」このように、トリエント公会議のカテキズム(聖体について v.i)は次にように宣言している:「すべての聖なる神秘についてそうであるように...何物も...聖体と比較され得ない。同様にまさに創設者御自身そして聖性の源を含んでいるものの、信徒による神聖でない、あるいは宗教的でない使用に対してよりも重い罰はいかなる罪に対しても神から与えられるものとして恐れられることはない。」

他方においてすでに成聖の恩寵の状態にある霊魂をより純粋にそしてより美しくするための聖体拝領の前になされる告解は要求されていることではないとしても何か貴重なものである。それが貴重であるのは、それが霊魂により美しい「婚礼の服」(マテオ22:12)- それでもって天使たちの食卓で霊魂をその場所に置くであろう - で着せるからである。この理由で最も良心的な霊魂たちは小罪のためでさえ、罪の赦しという秘蹟的な清めを常にしばしば(少なくとも週に一度)用いてきたのである。もしあなたがイエズスを受けるために霊魂の大きな清らかさを欲するならば、いかなる清らかさもよい告白をするときに得るものよりももっと明るく輝くことはないのである。よい告白においてはイエズスの清めの御血は痛悔する霊魂を神的に輝く美しいものにするのである。「神の御血を受ける霊魂はより貴重な衣服に纏われるように、美しくなる。そしてもしあなたがそれを見ることができたならば、それを礼拝するよう誘惑されるであろうほどにその霊魂は美しく輝いて見える」とパッツィの聖マリア・マグダレナは断言した。

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マリアと共に聖体拝領

おお、イエズスの御血をもって清められ、纏われた霊魂によって拝領されることがどれほどイエズスをお喜ばせすることであろうか!そのような霊魂が汚れのない処女であるときイエズスはどのような愛情の籠もった喜びを感じられることか!なぜなら、「御聖体は処女性そのもの(すなわちマリア)の天国から来た」からであると大聖アルベルトゥスは言った。そしてわれらの御聖体の主は処女性において以外にはそのような天国を見出されることはないのである。誰も、まったく一人のおとめのように、雅歌の花嫁と共にすべての聖体拝領で次のように繰り返すことはできない:「愛する者は私のもの、そして私は彼のもの。彼は羊の群れをゆりの中で飼う...帰っておいで。愛する者よ」(雅歌2:16-17)。

聖体拝領のために準備する一つの賞賛に値するやり方は汚れなきおとめに嘆願すること、われわれが彼女の謙遜さ、彼女の清らかさそして彼女の愛 - をもってイエズスを拝領することができるように彼女を当てにすることである。この敬虔な実践は聖人たちによって、特に聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォール、聖ピーター・エイマード、聖アルフォンソ・リグオリそして聖マキシミリアノ・マリア・コルベによってたいそう勧められている。「聖体拝領の最善の準備はマリアと共になされる準備である」と聖ピーター・エイマードは書いた。喜びを与える描写がイエズスを拝領するために祭壇の聖体拝領台に恥ずかしそうに跪き、その髪の毛と衣服が乱れている三歳か四歳の少女として彼女の霊魂を描いているリジューの聖テレジアによって与えられている。しかしながら彼女はマドンナに訴える。そして聖女はこう書く:「直ちにおとめマリアは私を占領なさいます。彼女は素早く私の汚い衣服を取り替え、私の髪の毛を美しいリボンでくくり、一本の質素な花をつけ加えられます....このことは私を魅力あるものにし、そして天使たちの祝宴で困惑せずに私の場所を占めることを私に可能にさせるに十分です。」

この準備の方法をわれわれも試みよう。われわれは失望させられることはないであろう。われわれは聖ジェンマが恍惚のうちに叫んだことを言うことができるであろう。「天国の御母と共に御聖体を拝領することは何と美しいことでしょう!」と。

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聖体拝領後の感謝

聖体拝領後の感謝の時間はイエズスとの愛の親密な交換のための最も理想的な時間である。それをして、もはやわれわれ二人がいるのではなくて、言ってみれば霊魂と体において一人しかいないほどに真心を込めてこのようにイエズスの愛に立ち戻りながらの完全な自己贈与の愛たらしめよ。それをして、生かしそして結合する愛 - 彼が私のうちにおり、そして私が彼のうちにおり、その結果われわれが彼の愛の唯一性と一致において消え去るほどの愛たらしめよ。

「ちょうど私があなたの計り知れない愛の対象であるように、あなたは私の愛する餌食です」と聖ジェンマは愛情を込めてイエズスに言った。

聖ヨハネはこう書いた:「小羊の婚宴に召されし人々は幸いなるかな」(黙示録19:9)。実際、正しく拝領された御聖体の一致においては霊魂は一つの天上的で純潔な一致において配偶者なるイエズスに対する結婚の愛を実現する。霊魂は雅歌における花婿の最も優しい情熱をもってイエズスにこう言うことができる:「ああ、その口で私にくちづけしてほしい」(雅歌1:1)。

聖体拝領の後の感謝は天国において経験されるであろう愛の、地上にいる間の一つの小さな前味わいである。実際、天国においては、イエズスと永遠に一つであることによってでないとすれば、われわれはどのようにイエズスを愛することであろうか? 愛するイエズス、甘美なるイエズス、おお、あなたが私にお与えになるあらゆる御聖体に対して私はどのようにあなたに感謝すべきでしょう!聖ジェンマは他のどんなものに対してよりももっと御聖体に対して天国で彼女があなたに感謝するでしょうと言うしかるべき理由を持たなかったであろうか? おお、イエズスよ、あなたとそのように完全に結びつけられることは何という愛の奇蹟であることか!

水、イースト、みつろう

教父であるアレキサンドリアの聖シリルは聖体拝領におけるイエズスとの愛の結合を示すために三つの実例を用いた:「御聖体を拝領する人は水が火にかけられて煮えたぎるようになるのと同じ仕方で霊魂と身体において聖とされ神化される...聖体拝領はパン生地の中へ混ぜられ、その結果それが全体量を膨らませるイーストのように働く...二つの蝋燭を溶かし合わせることによって一片のみつろうを得ることができるのと同じようにイエズスの肉と血を受ける人はこの聖体拝領によってイエズスと共に溶け合わされ、そして霊魂はキリストのうちあり、キリストが霊魂のうちにあるということを見出すと私は考える。」

この理由で聖ジェンマ・ガルガーニは「すべてであるイエズスと無であるジェンマ」の間の聖体の一致について畏敬の念を起こさせる驚きのうちに語るのを常とした。恍惚のうちに彼女は叫んだ:「おお、イエズスよ、聖体拝領のうちには何と大きな甘美さがあることでしょう!私はあなたの抱擁のうちに生き、あなたの抱擁のうちに死にたい。」そして福者コンタルド・フェリーニはこう書いた:「ああ、聖なる聖体拝領!到達するために人間精神にとって言葉に表せない高さ!これらの純粋に天上的な喜び、永遠の栄光のこれらの味わいに匹敵する何を世界は持っているか?」

聖体拝領がわれわれの省察に値するものを持っているもう一つの価値がある。そしてそれは祝せられた三位一体に関してである。ある日パッツィの聖マリア・マグダレナは聖体拝領の後で修練女たちの間で腕を十字に組んで跪いていた。彼女は目を天の方へ上げこう言った:「おお、シスターたち、御聖体の形色が私たちの内部にとどまっている間、イエズスがそこにおられ、そして御父と聖霊と共に私たちのうちで分かち難く働いておられるということ、そしてそれゆえに全三位一体がそこにおられるということを私たちが理解しさえするならばよいのにと思います。」彼女は話し終わることができなかった。なぜなら彼女は恍惚状態に陥っていたからである。

少なくとも十五分間はとどまりなさい

聖人たちは、それが可能であったときには、聖体拝領後の感謝のためにどんな時間制限をも設けなかった。それは少なくとも30分は続くものであった。イエズスの聖テレジアは彼女の娘たちにこう語った:「愛情を込めてイエズスと共に留まり、聖体拝領に続く時間を浪費しないようにしましょう。それは神と関わり、神の前に私たちの霊魂に関わる問題を置くための非常に優れた時間です....私たちが、よきイエズスは私たちの自然的な温かさがパンに似た性質を溶かすまでは私たちのうちに留まり給うということを知っているように、私たちはイエズスに関わりイエズスの前に私たちの必要を置くそのような美しい機会を失わないおうに大いに配慮すべきです。」

アッシジの聖フランシスコ、聖ジュリアン・ファルコニエリそして聖アロイジウス・ゴンザガは二時間跪いて感謝を捧げるのを常としていた。パッツィの聖マリア・マグダレナは中断することなしに感謝を捧げたいと望んでいた。彼女が少しばかりの栄養を取るように強制することが必要であった。この聖人はこう言った:「聖体拝領に続く数分間は私たちが生涯において持っている最も貴重なものです。その時間は私たちの側では神と関わるために、そして神の側では神の愛を私たちに伝えるために最も適した数分間です。」

聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールは聖なるミサの後少なくとも三十分は感謝のためにとどまるのを常としていた。そして彼は彼にそのことをさせないようにするどんな心配あるいは用事もないようにしていた。彼はこう言った:「私は感謝のこの時間を天国の時間のためにさえ断念しないであろう。」

それではわれわれもまた次のような決心をしよう:聖体拝領後は少なくとも十五分間はわれわれが感謝のうちにとどまるように、われわれの時間と生活とを組織するようにしよう。そしてさらに、感謝のためのこの時間を取ることからわれわれを何物かが止めることを許さない決心をしよう。イエズスが物理的にわれわれの霊魂に現前なさり、われわれの身体のうちにおられるこの数分間はわれわれが決して浪費すべきではない天上的な数分間である。

聖フィリップと蝋燭

使徒聖パウロはこう書いた:「おのが身において神に光栄を帰し奉れ」(1コリ6:20)。これらの言葉が御聖体を拝領した直後の時間よりも文字通りそのようにうまく適合する時間はない。それで、ある人にとって聖体を拝領してミサが終わるや否や、あるいはわれらの主を受けるや否や直ちに教会を去ることは何と冷酷なことであろうか!われわれは聖フィリップ・ネリの例を思い出してよいだろう。彼は聖体拝領の後直ぐに教会を去った一人の男に同伴するように灯をともした蝋燭をもった二人の侍者を遣わした。 - 何という美しい教訓であろうか!他の理由のためでなく、良い作法のためにある人が一人の客人を接待するとき、彼はその客人に注意を払い、彼に関心を持つ。もしこの客人がイエズスであるならば、そのときわれわれはわれわれの内部でのイエズスの身体的な現前が僅か十五分あるいはそれよりもう少し長くしか続かないことを残念に思う理由を持つだけであろう。聖ヨゼフ・コットレンゴはミサと聖体拝領のためのホスチアを焼くことを個人的に監督するのを常とした。この仕事を委ねられたシスターに対して彼は次の指示を与えた:「私がイエズスと共に長い時間居続けることができるようにホスチアを厚くしなさい。私は聖なる形色が素早く溶けることを望まない。」

われわれがわれわれの感謝の時間を余りにも長いものと見なし、そしておそらくそれを終えてしまうためにもどかしく感じるとき、われわれはおそらく聖人たちの例とは反対の行動をしているのではないか? しかし、おお、われわれはここでどのようにわれわれ自身を警戒すべきであろうか!なぜなら、もしあらゆる聖体拝領において、イエズスの聖テレジアが宣言しているように、イエズスが「われわれが彼に示す歓待のために百倍のものをお与えになる」ということが真実であるならば、そのときわれわれがこの歓待を無視することのために百倍のものを答えなければならないということも同様に真であるからである。ピエトレルチーナのパードレ・ピオの同僚のカプチン会員は、彼がある日どのように聖なる修道者[パードレ・ピオ]の所に告解に行ったか、そして他のこともいろいろあったが、ミサ聖祭の後に彼の感謝を抜かした - というのはある奉仕がそれをすることを彼に不可能としたからである、と彼は言った - と告解した。パードレ・ピオは他の罪を裁く際には寛大であったのに、彼がこの[感謝の]脱落を告白するのを聴いたとき、より厳粛になり、厳しい表情で断固としてこう言った:「われわれが出来ないということが単にするのを好まないということではないということに気をつけよう。私は常に感謝をしなければならない。さもなければ私は大きな犠牲を払う。」

その事柄に本気の考えと注意を払おう。この感謝のように非常に貴重なものが問題であるときには聖霊の忠告を深く気にかけよう:「正しい望みを満たす機会を逃すな」(シラ14:14)。

マドンナと共に感謝

マリアのお告げに敬意を表してマリアと共になされる感謝には一つの特別の美しさがある。聖体拝領の直後にわれわれはわれわれの霊魂と身体のうちにイエズスをいただいている。それはちょうど祝せられたおとめマリアが天使のメッセージをお受けになったときそうであったのと同じである。われわれは、聖母が御自分の神の御子イエズスに対して彼女の汚れなき御心の下に囲んで持っておられた礼拝と愛の同じ感情をわれわれ自身のものとしながら、われわれの気持ちを神の御母の気持ちと一致させることによって以外にこの時にイエズスを礼拝し愛するもっとよい方法を見つけることはできない。このことを達成するのに、ロザリオの喜びの玄義を黙想しながら唱えることは有益であり得る。そうするように努力しよう。われわれはイエズスをマリアの天上的な御心と共に愛するためにマドンナとのこの道に結びつけられるようになることによって利益を受け損なうことはあり得ないのである。

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強い者のパンそして天国のための旅費

すべての人にとって御聖体におけるキリストが彼らを強くする真のパンであるということは言う必要もないことであろう。それは人間を英雄的にし、殉教者たちを支え、彼らの最後の苦悶において霊魂たちに強さと平和をもたらす食物である。

御聖体においてイエズスはこの涙の谷で苦しみ嘆くわれわれに次の愛情に満ちた呼びかけを繰り返される:「われに来れ、すべて労苦して重荷を負える者よ、われ汝らを回復せしめん。」(マテオ11:28)なぜなら確かに「地上での人間の生は戦争である」(ヨブ7:1)からである。さらに、イエズスに従う人々は「迫害を受けるであろう」(2チモテオ3:12;マテオ5:10参照)。そしてキリストのものである彼らが「おのが肉身をその悪徳および諸欲とともに十字架につけた」(ガラチア5:24)ということは真である。そして「キリストとともにこの世の小学につき」(コロサイ2:20)死んだ者のように生きるべきであるということも真である。

イエズスと共に「われを強め給う者においていっさいのこと、わがなし得ざるはなし」(フィリッピ4:13)ということもまた真である。なぜなら、イエズスは「すべて」であるからである(ヨハネ1:3; コロサイ1:17参照)。聖体拝領においてイエズスは御自身を「すべて私のもの」となさる。それで、私は神のしもべルイザ・M.クラレット・ドゥ・ラ・トゥーシュと共にこう言うことができるのである:「私は何を恐れる必要があるでしょうか? 世界を支え給う御方が私の内部にいらっしゃり、神の御血が私の血管の内部を循環しているのです。おお、私の魂よ、恐れを持つな。宇宙の主が御自分の腕の中へお前を捉え、お前がその御方のうちに安らぎを見出すことを望んでおられるのです。」

それゆえに聖ヴァンサン・ドゥ・ポールは彼の宣教師たちにこう問うことができたのである。「あなたたちがあなたたちの心の中へイエズスを受け入れたとき、いかなる犠牲があなたたちにとって不可能であり得るのか?」そして聖ヴィンセント・フェラーは迫害の犠牲者として苦しまなければならなかった二年の間、彼のすべての苦難において非常に喜びで満たされていた(2コリ7:4参照)。なぜなら、彼はその足枷や鎖そして彼の土牢の暗さにもかかわらず毎日ミサ聖祭を捧げることが何とか出来たからである。聖ジャンヌ・ダルクが火刑台での処刑に行く前に御聖体におけるイエズスを受けることができたとき同じ不屈の精神と喜びが与えられたのである。イエズスが彼女の暗い牢獄へ入られたとき、聖女は跪いて鎖をつけたままイエズスを受けた。そして祈りに没頭した。彼女が死へ向かって進むことを命じられたとき、彼女は立ち上がり、祈りを中断することなく彼女の旅を続けた。彼女は火刑台へと進み、犠牲とされた彼女の霊魂と身体のうちに留まり給うたイエズスと常に一致しながら炎の中で死んだ。

殉教者たちの強さ

最初の殉教者聖ステファノから天使的な殉教者聖タルシスス、そしてより最近の殉教者たちに至るまで殉教者たちの全歴史は、彼らが悪魔に対して、そして世界において働いているすべての地獄の諸力に対して戦うときに御聖体が彼らに授ける超人間的な強さの物語である(1ペトロ5:9参照)。

また、聖体拝領が病人に、そして単に彼らの霊魂にばかりでなく、彼らの身体 - ときどき驚くほどに癒された - にも、もたらす天上的な慰めと助けのことをも思い出しなさい。例えば、聖リドウィナやアレクサンドリア・ダ・コスタには御聖体の形色が彼らの身体の内部に留まっていた間中、彼らの恐ろしい身体的な苦しみが奇跡的に止まるということがよく起こった。同じように、ブリンディシの聖ローレンスや聖ピーター・クレイヴァーには彼らを苦しめていた重篤の病気のすべての苦しみが彼らがミサ聖祭を捧げていた時に止まるということが起こるのである。

まず霊魂に配慮すること

しかしすべてのことの中で最も慰めになることはキリスト者の最後の聖体拝領である。それはヴィアティクム(臨終の御聖体)すなわちこの世からあの世への旅のための食物と呼ばれる。おお、聖人たちが、われわれがそれを良い時に最善の状態で受けることに対して与えた何と大きな重要性よ!

聖ドメニコ・サヴィオが重い病気のために家に帰されたとき、医師は彼の回復は期待が持てると告げた。しかしこの聖なる青年は父親を呼びこう言った:「お父さん、もし私が天国の医師と関わるならばそれは良いことでしょう。私は告解に行って御聖体を受けたいのです。」

聖アンソニー・クラレットの衰えて行く健康が重大な心配を引き起こし始めたとき二人の医師が忠告のために呼ばれた。このことに気づいて聖人は彼の病気の重さを理解しこう言った:「分かりました。しかしまず第一に霊魂について考えましょう。そして次ぎに身体について考えましょう。」そして彼は直ちに秘蹟を受けることを望んだ。それがなされた後で彼は二人の医師を呼びにやり、彼らにこう言った:「さあ、あなたたちがしたいことをしなさい。」

まず第一に霊魂そしてそれから身体。われわれがこのことを評価しないということは可能であるのか? しばしばわれわれは、病人に気を配るために医師を呼ぶことについて大いに関心を示すが、その一方で患者がおそらく完全な意識をもって秘蹟を受けるには遅すぎる、あるいは秘蹟をまったく受けることさえできない最後の時間になって初めて司祭を呼ぶほどに無分別である。おお、われわれは何と愚か、何と無分別であることか!もし、間に合うように司祭を呼ぶことに失敗することによってわれわれが死んで行く人の救いを危険にさらし、彼が最後の瞬間に受けることができたであろう支えと大きな援助を彼から奪うならば、われわれはどのように責任を問われる立場から逃れることができるだろうか?

御聖体はこの哀れな逐謫の地に住むキリスト教徒に真の生命を約束する最高の保障である。ニュッサの聖グレゴリオはこう書いている:「われわれの身体はキリストの御体に結合されるとき不滅性の始まりを獲得する。なぜならわれわれの身体は不滅性に結合されているからである。」身体の短い生命が衰えて行くとき、われわれは永遠の生命にましますイエズスに頼る。イエズスはわれわれの不滅の霊魂の真のそして永続的な生命であるために、そしてわれわれの死すべき身体の復活であるために、聖体拝領においてわれわれに与えられる:「わが肉を食し、わが血を飲む人は永遠の生命を有す」(ヨハネ6:55)。「このパンを食する人は永遠に生くべし」(ヨハネ6:59)。なぜなら、「われは復活なり、生命」だからである。(ヨハネ11:25)。

ああ、聖なる最後の御聖体は何という大きな恵みであることか!アルスの聖なる司祭が死につつあり、聖なる最後の御聖体の到着を知らせるベルが鳴るのを聴いたとき、彼は感動して涙を流しこう言った:「イエズスがそのように大きな愛をもって最期の時のためにわれわれのところに来られるときわれわれはどうして泣かずにいることができようか?」

そうだ、御聖体のうちにましますイエズスは私の食物、私の強さ、私の生命、私の心の渇望となった愛である。生きている間あるいは死の時に私がイエズスを受けるときはいつも、イエズスは私を彼のものとするために御自身を私のものとなさる。そうだ、イエズスは私のもの、そして私はすべて彼のものである。一方は他方のうちにあり、一方は他方に属する(ヨハネ6:57参照)。これは地上と天国において霊魂と身体のための愛の完全さである。

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毎日イエズスと共に

イエズスは私のために聖櫃のうちにまします。イエズスは私の霊魂の食物である。「わが肉は実に食物なり。わが血は実に飲み物なり」(ヨハネ6:56)。もし私が私自身を霊的に養いそして十分に生命を供給されることを望むならば、私はイエズスを受けなければならない。「誠に誠に汝らに告ぐ汝ら人の子の肉を食せず、その血を飲まずば、汝らの内に生命を有せざるべし」(ヨハネ6:54)。聖アウグスティヌスはわれわれに、アフリカにおける彼の司教区のカトリックの人々が御聖体を「生命」という言葉によって呼んでいると告げている。彼らは、聖体拝領に行ったときには、「われわれは生命のところへ行く」と言うのであった。何というすばらしい表現の仕方であろうか!

私の超自然的な力とエネルギー - 私の超自然的な生命 - を健康に保つためには、私はそれらを養わなければならない。御聖体はまさにこのために要求されるものである。なぜなら御聖体は「生命のパン」(ヨハネ6:35)、「天よりくだりしパン」(ヨハネ6:59)だからである。それは霊魂の霊的エネルギーを新しく補給し、保ちそして増加する。聖ピーター・J. エイマードは敢えてこう言った:「聖体拝領は、ちょうど天使たちに彼らの栄光の生命を維持するために神の直視が必要であるのと同じように、われわれにとってわれわれのキリスト教的活力を維持するために必要である。」

私は、私の身体に身体的な活力を与えるためにそれに栄養を毎日与えるのと同じように、私の霊魂に栄養を与えるべきである。聖アウグスティヌスはこう教えている:「御聖体は日々われわれが蒙っている弱さに対する治療薬としてわれわれが摂る日々のパンである。」そして聖ピーター・J. エイマードはこうつけ加えている:「イエズスはただ一つのホスチアを用意なさったのではなくて、われわれの生活の毎日のために一つのホスチアを用意なさったのである。われわれのための諸々のホスチアが準備されている。それらの一つさえも失わないようにしよう。」

イエズスは、聖ジェンマ・ガルガーニに次のように言わせるほどに、霊魂にとってそのように甘美でそのように健康を増進させるホスチア、愛の犠牲である:「私はイエズスが私に提供なさるあの非常に甘美な食物によって新たに強められる大きな必要を感じます。毎朝イエズスが私にお与えになるこの愛情に溢れた治療は私のこわばりを取り除き私の心のあらゆる愛情をイエズスに引きつけます。」

聖人たちにとって毎日の聖体拝領は、あらゆる霊魂の生命と愛であるために御自身をお与えになるというイエズスの神的なお望みに一致して生命と愛に対する一つの至上の要求を満たす。われわれは聖木曜日はイエズスがそのことを「お望みになった」(ルカ22:15参照)日であるということを忘れるべきではない。それゆえ、アルスの聖なる司祭は強調してこう言ったのである:「あらゆる聖別されたホスチアは人間の心の中で愛をもってそれ自身を燃やすようにされている。」そしてリジューの聖テレジアは他のシスターにこう書いた:「イエズスが毎日天から下っておいでになるのは金でできたチボリウム[御聖体を容れる器]の場を占めるためではなくて、もう一つの天、すなわち私たちの霊魂を見出されるためです。イエズスは私たちの霊魂の中に喜びを見出されるのです。」そしてそうすることがよくできる霊魂がその心の中にイエズスを受けることを望まないとき「イエズスは泣かれる」のです。「それゆえに」と聖テレジアはこう続ける:「悪魔が罪と共に霊魂の至聖所の中へ入ることができないとき、彼は霊魂が少なくとも師匠を持たず、占有されていない状態にあること、そして聖体拝領から遠ざけられていることを望みます。」われわれがここで悪魔の罠に関係しているということは確かに明らかであろう。なぜならただ悪魔だけがわれわれをイエズスから離しておくことに関心を持ち得るからである。そこでわれわれは注意した方がよいであろう。われわれは悪魔の欺瞞の犠牲にならないようにすべきである。「聖体拝領をしそこなわないように努力しなさい」。聖マルガリタ・マリア・アラコックは忠告している:「私たちは、敵が私たちに対して持っている力を取り去られるイエズスから私たちが引き下がるときよりももっと大きな喜びを私たちの敵、悪魔に与えることはほとんどできないのです。」

毎日の聖体拝領は愛の、力の、喜びの、勇気の、あらゆる徳とあらゆる善の毎日の泉である。「かわける人あらば、わがもとに来りて飲め」(ヨハネ7:37)とイエズスは言われた。イエズスだけが「永遠の生命に湧き出ずる水の源」(ヨハネ4:14)である。聖化の恩寵の状態にあってこの神的な「主の祭壇」(1コリ10:21)に行くことを望まないあるいは困難を感じる人が誰かいるということがあり得るだろうか?

分裂に対する彼の抵抗のために殉教したイギリスの偉大な大法官聖トマス・モアは毎日ミサを拝聴し聖体拝領するのを常としていた。何人かの友人たちは彼に、この配慮はそのように多くの国事に重く従事している平信徒にとって適切ではないと説得しようとした:「あなたはあなたのすべての理由を提出している。そしてそれらの理由はむしろ私に、私は毎日御聖体を拝領すべきであるということをますます確信させる。」彼は言った。「私の気晴らしは数多い。そしてイエズスと共に私は思い出すことを学んでいる。神に背く機会はしばしばである。そして私はそれらから逃れるためにイエズスから毎日強さを受け取っている。私は非常に困難な業務を何とかやりくりするために光と分別とを必要とする。そして毎日私は聖体拝領においてイエズスに相談することができる。イエズスは私の偉大な教師である。」

かつてある人が有名な生物学者バンティングに、なぜ彼が毎日の聖体拝領についてそのように多く心を配るのかと尋ねた。彼はこう答えた:「もし露が毎晩おりなかったならば何が起こるだろうか? 植物は成長することができないだろう。草や花は日中の熱が一つあるいは他の仕方でもたらす蒸発作用と乾燥を切り抜けて生きることはできないであろう。それらのエネルギーの循環、それらの自然的な更新、それらのリンパ液の平衡、植物の生命そのものがこの露を要求する...」一息おいて彼はこう続けた:「ところで私の霊魂は一つの小さな植物のようなものである。それは何かややひ弱なものなので風や熱が毎日戦いを挑む。それゆえ毎朝聖体拝領に行くことによって私は霊的な露の新鮮な蓄えを得に行くのである。」

聖ヨゼフ・コットレンゴは彼の「神の摂理の家」の医者たちに彼らがその難しい外科手術をする前にミサに与り聖体拝領をするように勧めた。これは、彼が言ったように、「医学は一つの偉大な科学である。しかし神は偉大な医師である」からであった。ナポリの有名な医師であった福者ヨゼフ・モスカーティはこのことについて非常に規則正しかった。そして毎日の聖体拝領を抜かすことを避けるために(特に彼がしなければならなかったしばしばの旅行のことを考えると大きな不便という代価を払って)信じられないほどに何でもした。もし聖体拝領をすることがまったく不可能であったならその日には彼は診察をする勇気を持たなかった。なぜなら、と彼はこう言った:「イエズスなしには私は私の可哀相な患者を救うために十分な光を持たないのだ」と。

おお、聖人たちが毎日の聖体拝領に対して持っている熱心な愛!そして誰がそれを適切に記述することができるか? 毎日彼の愛する主を受けそこなうことのなかったクペルティーノの聖ヨゼフは修道生活における彼の兄弟たちに一度敢えてこう言ったことがあった。「私がペコリエッロ(偉大な小羊)を受けることができない日に私があの世へと出発することが確実でありますように。」彼は神の小羊のことを愛情を込めてそして敬虔にペコリエッロと呼んでいた。そして、事実、ある日御聖体におけるわれらの主を受けることを妨げる重い病気になった。そしてそれが彼の死の日であった!

聖ジェンマ・ガルガーニの父親が娘の健康について心配していたとき、彼は彼女が毎朝ミサに行くために余りにも早く出かけることを非難した。彼の非難は聖人から次の答を引き出した:「でもお父さん、私にしてみれば、もし私が聖なる御聖体におけるイエズスを受けないならば、病気になるでしょう。」

ジェノアの聖カタリナがミサと聖体拝領の禁止を掲げる彼女の都市に課された禁止令について知ったとき、彼女は聖体拝領をするために毎朝徒歩でジェノアの外部の遠い教会へ行った。聖女はやりすぎると告げられたときこう答えた:「イエズスをお受けするためにたとい燃える石炭の上を何マイルも何マイルも行かなければならないとしても、私はあたかもバラの絨毯の上を歩いているかのように、その道は容易ですと言うでしょう。」

このことは、イエズスをわれわれの心の中へ受けるのに都合のよいときにわれわれが行くことができる少し歩いたところに教会を持っているわれわれにとって一つの教訓を教えるであろう。そしてたといこのことがわれわれに何らかの犠牲を払わせるとしても、それだけのことをするに値するのではないだろうか?

しかし、もしわれわれが聖人たちは一日に一度だけでなく、数度聖体拝領をすることを望んでおられたということを考えるならば、そこにはこれ以上のことがあるのである。

満ちたチボリウム、空のパン箱

もっと先へ進もう!われわれは霊魂と身体のためのあらゆる祝福がそれに結びついている毎日御聖体を拝領することほどに聖なる何かをすることに対して弁明すべきではない。

「われわれを取り巻いている有害な病気に対して持続的な免疫を持つ最も確実な手段は御聖体という食物でもってわれわれ自身を強めることである。」
- パードレ・ピオ

霊魂のための祝福

霊魂のための祝福に関して教父であり教会博士であるアレクサンドリアの聖シリルはこう書いた:「もし高慢の毒があなたの中でふくれあがるならば、御聖体に向かいなさい。そうすれば御自身を低くなさり御自身を隠されるあなたの神であるパンはあなたに謙遜をお教えになるであろう。もし利己的な貪欲の熱があなたの中で荒れ狂うならば、このパンを食べなさい。そうすれはあなたは寛大さを学ぶであろう。もし物欲しさの冷たい風があなたを萎れさせるならば、天使たちのパンのところへ急ぎなさい。そうすれば慈悲心があなたの心の中へ花開きに来るであろう。もしあなたが不節制の痒みを感じるならば、その地上の御生活の間英雄的な自己制御を実践なさったキリストの肉と血であなた自身を養いなさい。そうすればあなたは節制ある者となるであろう。もしあなたが霊的な事柄について怠惰で反応が鈍いならば、この天上的な食物であなた自身を強めなさい。そうすればあなたは熱心になるであろう。最後にもしあなたが不純の熱によって焦がされていると感じるならば、天使たちの祝宴に行きなさい。そうすればキリストの汚れのない肉があなたを純粋にそして純潔になさるであろう。」

人々が、聖シャルル・ボロメオがたるんだそして軽薄であった他の若者たちの真ん中で純潔と正しさを保ったということがどのようにして起こったかを知りたいと思ったとき、このこと、すなわち頻繁な聖体拝領が彼の秘密であった。天使的な純潔の聖人となった若い聖アロイジオ・ゴンザガに頻繁な聖体拝領を勧めたのはこの同じ聖シャルルであった。確かに、御聖体は選ばれた者の小麦そしておとめたちを成長させるぶどう酒(ザカリア9:17)であることが分かる。そして若い人々に完全に親しい司祭である聖フィリップ・ネリはこう述べている:「祝せられた秘蹟[御聖体]に対する信心と祝せられたおとめに対する信心とは純潔を保つための単に最善の道であるだけでなく、実際唯一の道である。二十歳の時には御聖体以外の何物も人の心を純潔に保つことはできない...純潔は御聖体なしには不可能である。」これは最も真なることである。

身体のための祝福

そして御聖体が身体のためにもたらす祝福は何であろうか? 聖ルカはわれらの主についてこう言った:「力、彼の身より出でて、すべての人をいやせ」り(ルカ6:19)、と。ルルドではこのことが何度御聖体におけるわれらの救い主について再び真であると証明されなかったであろうか? どれほど多くの身体が白いホスチアのうちに覆われたこの親切な主によって癒されたであろうか? 病気あるいは貧しさに苦しんだどれほど多くの人々が、御聖体のパンでもって、健康、強さのパンそして他の諸々の必要のための援助を受けなかったであろうか?

聖ヨゼフ・コットレンゴはある日彼の「摂理の家」の多くの患者が御聖体を受けることを選ばなかったということに気がついた。チボリウムは満ちたままであった。ところでその同じ日食料品室は用意される食事のためのパンを使い尽くした。聖人は、チボリウムを祭壇の上に置いて振り向いた。そして非常に活気に満ちて次の表現に富む陳述を行った:「満ちたチボリウム、空のパン箱!」。

このことは一つの真実を確証した。イエズスは私の霊魂にとって生命と愛の充実である。イエズスなしには他のすべては空であり不毛である。イエズスと共に私は毎日あらゆる善、純潔そして喜びのための無限の蓄えを持っている。

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霊的聖体拝領

霊的聖体拝領は御聖体のイエズスを愛する者たちにとって常に得られる御聖体の生命と愛の蓄えである。霊的聖体拝領によって霊魂の愛する花婿たるイエズスと結ばれることを望む霊魂の愛する欲求は満たされる。霊的聖体拝領は霊魂とホスチアのうちにますますイエズスとの間の愛の結合である。この結合は霊的であるが、しかしそれにもかかわらず実在的であり、霊魂と身体との間の結合よりももっと実在的である。「なぜなら、霊魂はそれが生きるところでよりもそれが愛するところでもっと多く生きるからである」と十字架の聖ヨハネは言っている。

信仰、愛そして欲求

明らかであることだが、霊的聖体拝領はわれわれが聖櫃におけるイエズスの実在的な存在に対する信仰を持っていることを想定している。それはわれわれが秘蹟的な一致を望んでいるということを意味する。そしてそれはこの秘蹟についてイエズスの贈り物に対する感謝を要求する。このすべてのことは聖アルフォンソの次の定式において単純にまた簡潔に表現されている:「私のイエズスよ、私はあなたがいとも聖なる秘蹟のうちに実際に現前しておられることを信じます。私はすべてのものに越えてあなたを愛します。そして私は私の霊魂の内部にあなたを所有することを望みます。私は今あなたを秘蹟として受けることができませんので、少なくとも霊的に私の心の中へ来てください -(中断)私はあなたをすでにそこにおられそして私自身を完全にあなたに一致させる方として抱きしめます。あなたから分離されることを私に決して、決して許さないでください。」

霊的聖体拝領は、聖トマスと聖アルフォンソ・リグオリが教えているように、それがなされる意向に従って、イエズスが望まれる熱心さの多い少ないによって、イエズスが歓迎されしかるべき注目が与えられる愛の大きい小さいによって、秘蹟の聖体拝領に似た効果を産み出す。

霊的聖体拝領の特別の有利な点はわれわれが好むだけしばしば 拝領することができるということである。- われわれが好むとき - 夜遅くでさえ - そしてわれわれが好む場所で - 砂漠においてさえ、あるいは飛行機の中で空中でさえ - 可能であるということである。

特にわれわれがミサ聖祭に与っていてわれらの主を秘蹟として受けることができないときに霊的聖体拝領をすることは適切である。司祭が彼の聖体拝領をしている間にわれわれの霊魂はイエズスをわれわれの心の中へ招き入れることによって司祭の聖体拝領に与るべきである。この仕方でわれわれが拝聴するあらゆるミサ聖祭は奉献、犠牲の聖別そして聖体拝領を伴った一つの完全なミサ聖祭である。

二つのカリス

イエズス御自身がシエナの聖カタリナにある幻視において霊的聖体拝領がどのように貴重であるか語られた。聖人は霊的聖体拝領が秘蹟の聖体拝領には比べられないのではないかと恐れていた。幻視においてわれらの主は二つのチボリウムを取られてこう言われた:「この金のチボリウムのうちに私はあなたの秘蹟の聖体拝領を置く。この銀のチボリウムのうちに私はあなたの霊的聖体拝領を置く。両方のチボリウムは私にとってまったく喜びを与えるものである。」

そしてかつてイエズスは聖マルガリタ・マリア・アラコックが聖櫃におけるイエズスに切望の嘆息を向けることに没頭していたとき彼女にこう言われた:「私は私を受けたいという霊魂の望みをたいそう愛している、それで私はその霊魂の切望によって霊魂が私を呼び出すときにはいつでも霊魂のところへ急いで行くのである。」

霊的聖体拝領が聖人たちによってどれほど多く愛されてきたかを見ることは難しいことではない。霊的聖体拝領は彼らの愛する御方に結びつけられるというあの熱心な望みを少なくとも部分的に満たした。イエズス御自身こう言われた:「われに留まれ、われもまた汝らに留まるべし」(ヨハネ15:4)。そして霊的拝領は、われわれが教会から遠くにいるときでさえ、われわれをイエズスに結びつけられて留まる助けとなる。聖人たちの心のうちに燃えている情け深い憧れを満たす他のいかなる手段もなかった。「おお神よ、私の魂全体はあなたを憧れる。鹿が流れる水を渇き求めるように、私の魂全体は神を渇き求める。」(詩編41:2 )

これは聖人たちの憧れに満ちたため息である。ジェノアの聖カタリナはこう叫んだ;「おお、(私の魂の)愛する花婿よ、私はあなたと共にいる喜びをそのように強く切望しているので、私が死んだとしても、あなたを聖体拝領において受けるために生き返るだろうと思われます。」福者十字架のアガタは御聖体におけるイエズスに常に結びつけられて生きたいというそのように激しい憧れを感じていたのでこう述べた:「もし聴罪司祭が私に霊的聖体拝領をするように教えてくださらなかったならば、私は生きることができなかったでしょう。」

五つの傷の聖マリア・フランセスにとって、同じように、霊的聖体拝領は彼女の愛する主から遠く離れて家に閉じ込められていた時に、特に彼女が秘蹟の聖体拝領をすることが許されなかった時に、彼女が感じた激しい苦痛からの唯一の救いであった。そのようなときには彼女は彼女の家のテラスの上に出て教会の方を眺めながら、涙をためてため息をついた:「あなたを今日祝せられた秘蹟において受けた人々は幸いです。おお、イエズスよ、私のイエズスを守る教会の壁は祝福されています。最愛のイエズスの近くにいつも居る司祭たちは祝福されています。」霊的聖体拝領だけが彼女を少しだけ満足させることができた。

日中の間

ここにピエトレルチーナのパードレ・ピオが彼の霊的娘たちの一人に与えた忠告の一つがある:「日中の間あなたにとって他のことをすることが許されていないとき、あなたのすべての仕事の最中でさえ、魂の甘受した嘆息をもってイエズスを呼びなさい。そうすればイエズスは彼の恩寵と聖なる愛によってあなたの霊魂に常に結びつけられて留まるであろう。あなたが身体をもってそこに行くことができないとき、聖櫃の前に霊的な飛翔をしなさい。そしてそこであなたの精神の熱心な望みを注ぎ出しなさい。そして霊魂たちに愛された御方を抱擁しなさい...」

またこの賜物によって利益を受けよう。例えば、われわれが試練に苦しみ、あるいは見捨てられたと感じている間、われわれにとって霊的聖体拝領によるわれらの秘蹟の主の同伴よりももっと価値あるものが何かあり得るであろうか? この聖なる実践は愛の行為と感情をもってわれわれの日々を満たすために容易に働くことができる。そしてわれわれがそれをほとんど中断することがないようにわれわれがしばしばそれを新たにするまさにそのことに依存している愛の抱擁のうちにわれわれが生きることを可能にする。

聖アンジェラ・メリチは霊的聖体拝領をとても好んでいた。彼女は単にそれをしばしば行いまた他の人々にそうするように勧めただけではなく、彼女の娘たちに、彼らがそれを以後いつまでも実践するように一つの遺産として残すことを選んだ。

聖フランシスコ・サレジオについてわれわれは何と言おうか? 彼の全生涯は一連の霊的聖体拝領のように見えないであろうか? 彼は少なくとも十五分毎に霊的聖体拝領をする決心を立てた。聖マキシミリアノ・M. コルベは彼の青年時代の頃から同じ決心をしていた。神のしもべアンドルー・バルトラミはわれわれに彼の個人的な日記の短い一ページを残した。それは祝せられた秘蹟におけるイエズスとの絶え間ない霊的な交わりにおいて生きられた生活の小さなプログラムであった。彼の言葉がここにある:「私がどこにいようと私は祝せられた秘蹟におけるイエズスについてしばしば考えるようにしよう。私は聖なる聖櫃の上に私の考えを固定するようにしよう - 私がたまたま夜目覚めたときでさえ - 。私がいるところからイエズスを礼拝しながら、祝せられた秘蹟におけるイエズスに呼びかけながら、私がしている行為をイエズスに捧げながら、私は一つの電報線を私の勉強部屋から教会へ、もう一つの線を私の寝室から、そして三番目の線をわれわれの食堂から引くことにしよう。そしてできる限りしばしば私は祝せられた秘蹟におけるイエズスに愛のメッセージを送ることにしよう。」神的な愛情の何という流れがこれらの貴重なケーブルを通って流れたことであろうか!

夜の間もまた

聖人たちは彼らの溢れる心のための出口を見つけるためにこれらのそして似たような聖なる手段を利用することに熱心であった。なぜなら彼らは彼らの愛する努力において行き過ぎたとは決して感じなかったからである。「私が御身を愛すれば愛するほど、それだけ私は御身を愛することが少ない」と聖フランセス・ザヴィエル・カブリーニは叫んだ。「なぜなら私は御身をもっと多く愛したいがしかし私はできないからである。おお、私の心を大きくしてください、大きくしてください。」

聖ロッシュは危険な浮浪者であると判断されたがゆえに牢獄で五年を過ごしたとき、彼の独居房で彼はしばらくの間祈りながら、彼の眼をずっと窓に固定した。看守が尋ねた:「お前は何を見ているのか?」聖人は答えた:「私は小教区教会の塔を見ているのです。」その塔は彼に彼の心に分かち難く結びつけられた教会、聖櫃そして御聖体のイエズスを思い起こさせた。

アルスの聖なる司祭は彼の会衆にこう言った:「教会の塔を見るとき、あなたたちはこう言うことができます:イエズスがあそこにおられる。なぜならそこでは司祭がミサを捧げたからです。」福者ルイス・グアネッラはさまざまの聖堂に巡礼団と共に汽車で旅行していたとき、彼らが車窓から一つの教会の塔を見るたびに彼らの精神と心とをイエズスに向けるように、いつも巡礼者たちに勧めるのを常としていた。彼はこう言うのであった:「あらゆる鐘楼は教会を示しています。その教会には聖櫃があります。そこではミサが捧げられます。そしてそこにはイエズスが留まっておられます。」

聖人たちから一つの教訓を受け取ろう。彼らは彼らの心の中で燃えている愛の火花を伝えたいのである。多くの霊的聖体拝領を、特に一日の最も忙しい時間の間、するように約束しよう。そのとき直ちに愛の火がわれわれの中に入ってくるであろう。なぜなら、ポート・モーリスの聖レオナルドがわれわれに確証している非常に慰めになることは次のことであるから:「もしあなたが毎日かなり多くの時間霊的聖体拝領という聖なる課題を実践するならば、一ヶ月以内にあなたはあなた自身が完全に変わったということを見るだろう。」一ヶ月もかからないであろう - そのことは十分明らかである、そうではないか?

「私の心は祝せられた秘蹟におけるイエズスと結びつくちょうど前に毎朝あたかもそれが一つのより高い力によって引っ張られるかのように感じる。私はイエズスを受ける前にそのような渇きと飢えを持っているので、それは私が不安で死なない一つの奇蹟である。私はミサを捧げるためにほとんど神的囚人に触れることができない。ミサが終わったとき私はイエズスに感謝を捧げるためにイエズスと共に留まる。私の渇きと飢えは私が祝せられた秘蹟におけるイエズスを受けた後も減少しないでむしろだんだん増大する。おお、この朝私が天国と交わした会話が何と甘美であったことか。イエズスの御心と私自身の心が、もしそういう表現をあなたが許すならば、融合した。それらはもはや脈打っている二つの心ではなくてただ一つの心であった。私の心はあたかもそれが大海の中の一滴であったかのように消え去った。

パードレ・ピオ

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「われは世の終わりまで、日々汝らとともにおるなり」(マテオ28:20)

第4章 イエズスは私と共に

「聖体拝領においてイエズスは御自身を私にお与えになりそしてその御体、御血、御 霊魂そして神性において私のもの、すべて私のものとなられる。」
- ステファノ神父

真の現存

われわれの聖櫃におけるイエズスの真の現存は神の神秘、神の賜物、神の愛である。ミサ聖祭の間に奉献の時に司祭がイエズスの神的な言葉;「これわが体なり...これわが血の杯なり」(マテオ26:26-27)を言うとき、パンとぶどう酒はイエズスの御体と御血となる。パンとぶどう酒の実体はもはやそこにはない。なぜならそれらはイエズスの神的な御体と御血との変質させられた - 実体変化させられた - からである。パンとぶどう酒は、イエズスの言葉;「わが肉は実に食物なり。わが血は実に飲み物なり」(ヨハネ6:56)に従って食物と飲み物の実在を表現するために、ただその外観だけを保っている。

ホスチアのヴェール、仮面の背後に、そしてカリスの内部に、その御体、御血、御霊魂そして神性をもったイエズスの神的ペルソナが存在している。これは誰であれ御聖体を受ける人に与えられるものであり、聖櫃の中に置かれた聖別されたホスチアにおいて絶えずとどまっているものである。

聖アンブロシウスはこう書いた:「パンがキリストの御体へと変化することはどのようにもたらされるのか? それは聖別によってである。いかなる言葉をもって聖別は達成されるのか? それはイエズスの言葉をもってである。この聖なる不思議を達成するための瞬間が来るとき、司祭は彼自身として話すことを止める。彼はイエズスの人格において話す。」

聖別の言葉は神が教会にお与えになった最もすばらしいそして恐ろしい言葉である。それらは司祭を通して少量のパンとぶどう酒をわれらの十字架につけられた神イエズスへと変形する力を持っている!それらはセラフィムの力を凌駕しただ神と神の司祭たちにのみ属する一つの最高位の力によってこのすばらしい、神秘的な偉業を達成する。われわれは、彼らがそれらの神的な言葉を言うときに非常に苦しんだ聖なる司祭たちがいたということに驚くべきではない。クペルティーノの聖ヨゼフそしてわれわれの時代ではピエトレルチーナのパードレ・ピオは苦痛で目に見えて押さえつけられているように思われた。そして彼らはただ難儀してそして休み休みしながらでのみ聖別の二つの式文をやっとのことで言い終えるのであった。

ガーディアン神父は敢えてクペルティーノの聖ヨゼフに尋ねた:「あなたはミサ全体を非常にうまく声に出して言われます、そして聖別の各々の音節のところで口ごもって言われるのはどうしてですか?」

聖人はこう答えた:「聖別の聖なる言葉は私の唇の上の燃える石炭のようです。私がそれら[の言葉]を発音するとき、私は煮えている熱い食物を飲み込まなければならない人のようにそのことをしなければならないのです。」

イエズスがわれわれの祭壇に、われわれの聖櫃の中に、そしてホスチアのうちにおられるのは聖別のこれらの神的な言葉を通じてです。しかしこのすべてが起こるのはどのようにしてであるか?

「パンとぶどう酒がキリストの肉と血になるなどということがどのように可能なのですか?」と一人の教養あるイスラム教徒が一人の宣教師の司教に尋ねた。

司教はこう答えた;「あなたは生まれたとき小さかった。あなたは、あなたの身体があなたが取った食物を肉と血へと変化させたから大きく成長した。もし人間の身体がパンとぶどう酒を肉と血に変えることができるならば、そのとき神はそのことをはるかに容易になすことがお出来になります。」

イスラム教徒はそれからこう尋ねた:「イエズスにとって小さなホスチアの中にまったく、そして完全に現存するということがどのようにして可能ですか?」

司教はこう答えた;「あなたの前の景色をごらんなさい。そしてあなたの眼がそれと比べてどれほど小さいかを考えてください。ところであなたの小さな眼の内部にこの広大な田舎の一つの像があります。神は御自分のペルソナにおいて、一つの似姿あるいはイメージによってわれわれのうちになされることを実際にお出来になりませんか?」

それからイスラム教徒はこう尋ねた;「同一の御体が同時にあなたのすべての教会のうちに、そしてすべての聖別されたホスチアのうちに現存するということはどのようにして可能なのですか?」

司教は言った;「神に不可能なことは何一つありません - そしてこの答えで十分であるはずです。しかし自然もまたこの質問に答えています。一枚の鏡を取り上げましょう。それを床の上に投げ落としてそれを諸断片にさせなさい。各々の断片は鏡全体が以前に再現していたのと同じ像を再現することができます。同様に、まったく同一のイエズスはあらゆる聖別されたホスチアにおいて御自分御自身を単なる似姿としてではなく、実在として、再現なさいます。イエズスはそれらの一つひとつのうちに真に現存されています。」

御聖体の不思議はリマの聖ローザ、福者フォリニョのアンジェラ、シエナの聖カタリナ、聖フィリップ・ネリ、聖フランシス・ボルジア、クペルティーノの聖ヨゼフ、そして他の多くの聖人たちの生涯において記録されている。彼らの感覚は、彼らがイエズスを彼ら自身の目で見たとき、あるいは言葉で言い表せぬイエズスのよいかおりを経験したとき、聖櫃における、そして聖別されたホスチアにおけるイエズスの現存を知覚した。われわれはまた、パドゥアの聖アントニオがかつて、一人の不信仰者に、腹を空かせたラバが、聖体顕示台の側に置かれたカラス麦のかごをむさぼり食うことよりも優先して、祝せられた秘蹟[御聖体]を容れた聖体顕示台の前に膝を折っているのを示すことによって、どのように[イエズスの]真の現存を証明したかについての報告を持っている。聖アルフォンソ・リグオリが彼の病の床で御聖体を受けたときの彼のエピソードもまた注目すべきものであった。ある朝、彼は、ホスチアを受けるや否や涙と共に声を出して嘆息した。「あなたがなさったこと:あなたはイエズスを伴わないホスチア - 聖別されていないホスチア - を私に持って来られました!」その問題は調査された。そしてその朝ミサを捧げた司祭が非常に取り乱していたので、ローマ典礼における生者の記念唱から死者の記念唱までのすべてを抜かし、そしてそれによってパンとぶどう酒の聖別を完全に忘れたということが判明した。聖人は聖別されなかったホスチアからわれらの主の不在を見抜いたのであった!

聖人たちの生涯からは他の多くのエピソードが言及され得るであろう。同じように、憑かれた人々が御聖体によって悪魔から解放された悪魔祓いの諸事例が語られ得るであろう。また、人は聖体大会や有名な御聖体の諸聖堂(トリノ、ランチアーノ*、シエナ、オルヴィエト、そしてパティエルノの聖ペトロの諸聖堂のような)、今日でさえ[イエズスの]真の現存を確証する過去の驚くべき出来事の価値ある最新の証言を提供している諸聖堂、である、信仰と愛の偉大な証言を引用することができるであろう。

*この書物の終わりにある附録を見てください。

しかしこれらすべての事実的な歴史や証拠にまさるのは、それによって真の現存の真理が保証され、そしてそれが真理であるというわれわれの不動の確信をわれわれがそれに基づかせなければならない信仰である。「イエズスは真理である」(ヨハネ14:6)。そしてイエズスはわれわれに、われわれにとってわれわれの全心全霊をもって信じるべき信仰の神秘として御聖体を残された。

天使的博士聖トマス・アクィナスが臨終の御聖体の式にもたらされたとき、彼はそこに彼が横たえられていた灰から起き上がり、跪いて言った:「私は、私が受けようとしている御方が永遠の神の」御子であるということを、たとい私がそれについて千倍も明瞭な啓発を持っていたとしても、信仰の啓発よりももっと大きな確実性をもっては信じないであろう。」

Mysterium Fidei(信仰の神秘)

教皇パウロ六世は御聖体に関する彼の回勅にこれらの言葉で見出しをつけられたが、それは単純に神的実在が神の信仰よりも高い位置にある真理や確実性のいかなる源泉も持たないからである。聖人たちが、彼らが持っていたもの、すなわち神の御言葉より以上のいかなる証明をも望まなかったけれども、ホスチアにおけるイエズスを見るに値したのはこの信仰によるのである。教皇グレゴリオ十五世は(彼が列聖した)イエズスの聖テレジアが「彼女の精神の眼ではっきりとホスチアのうちに現存なさるわれらの主イエズス・キリストを見たので、彼女は天国において顔と顔とを合わせて主を見奉る祝せられた人の幸福を妬まないと言った」と宣言した。そして聖ドメニコ・サヴィオはかつて彼の日記にこう書いた:「私は幸福であるためにこの世では何一つ必要としない。私は信仰の眼をもって祭壇の上に私が今見そして礼拝している方、天国におられるイエズスを見ることだけが必要である。」

フランシスコ・マルトはファチマの聖母に教えられたようにわれらの主をなぐさめるために祝せられた秘蹟[御聖体]の前での祈りにおいてしばしば跪いた。

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イエズスへの訪問

イエズスはわれわれの聖櫃のうちにおられる。そしてこの事実をわれわれは真の現存と呼ぶ。汚れなきマリアの処女の身体の内部に彼女によって保護されたその同じイエズスは白いホスチアの小さな物体のうちにおられる。鞭打たれ、茨の冠をかむらせられ、そして世の罪のための犠牲として十字架につけられ給うたその同じイエズスはわれわれの救いのために犠牲となられた生け贄としてホスチアの形でチボリウムの中にとどまり給う。死者から復活し今は御父の右の座で栄光のうちに支配しておられる天国へと昇られたその同じイエズスは礼拝している無数の天使たちの大軍によって取り囲まれてわれわれの祭壇の上に存在し給う。それは福者フォリニョのアンジェラが幻視のうちに見た光景である。

このようにイエズスは真にわれわれと共におられる。「イエズスはそこにおられる!」アルスの聖なる司祭は涙を流すことなくこの三語[英語で]を繰り返すのをやめることができなかった。そして聖ピーター・ジュリアン・エイマードは喜びに満ちた熱情をもってこう叫んだ;「そこにイエズスがおられる。それゆえわれわれは皆イエズスを訪問しに行くべきである!」そしてイエズスの聖テレジアは、誰かが「私はイエズスの時代に生きていればよかったのに...私はイエズスを見ていたらよかったのに...私はイエズスと話をしていたらよかったのに...」と言うのを聞いたとき、彼女の元気のいいやり方でこう答えた;「でも私たちは御聖体のうちに私たちの前に現存しておられる生きた、真のそして実在のイエズスを持っているではありませんか? なぜそれ以上のことを求めるのですか?」

聖人たちは確かにそれ以上のことを求めなかった。彼らはイエズスがどこにおられるかを知っていた。そして彼らは、彼らの愛情において、そして身体的な現存によって、イエズスとの離れられない同伴を保つ特権以上のものを望まなかった。われわれの愛する者と常に共にいること - これは真の愛が求める第一の事柄のうちの一つではないか? 実際その通りである。そしてそれゆえに、われわれは祝せられた秘蹟[御聖体]への訪問と聖体讃美式が聖人たちの秘密のしかし明白な愛であったということを知っている。イエズスの所へ訪問する時間は全面的に愛 - われわれが天国において再び実践し始める愛 - の時間である。というのは愛だけが「絶えることがない」(1コリント13:8)からである。ジェノアのカタリナは次のように言うことにおいて誤りをしなかった;「聖櫃の前で私が費やした時間は私の生涯のうちで最も善く費やされた時間です。」

聖人たちからいくつかの例を見てみよう。

汚れなきおとめの使徒、聖マキシミリアノ・M.コルベは祝せられた秘蹟への一日平均十回の訪問 - 彼が若い学生として始めた実践 - をするのを常としていた。学年の間、学期と学期の間の休業期間中彼は午前中にイエズスへの五回の訪問を何とかしてすることができるように聖堂へと急ぐのであった。その日の残りの間に彼はさらに五回の訪問をした。これらの中で一つ[の訪問]は彼が常に午後の散歩の間の義務的にそこに立ち寄る所と考えていたものであった。それは祝せられた秘蹟がそこで顕示されていた(ローマにある)一つの教会においてであった。

また、聖ロベルト・ベラルミンは彼の青年時代に、学校の行き帰りのときに、一つの教会を四回通のを常としていた。このようにして、一日に四回彼はそこに立ち寄りイエズスへの訪問をするのであった。

われわれが一つの教会の横を通るということはどれくらいしばしば起こるのか? われわれはおそらくやや不注意で冷淡であるのか? われわれが、たといわれわれの前に教会を見出すとしても無関心であるのに、聖人たちは彼らが歩いて行く道に沿って一つの教会を見出すことを望んだ。尊者J.J. オリエはこう書いた:「ある場所に私を導く二つの道筋があるとき、私は祝せられた秘蹟により近くいるために、私がより多くの教会に出会う方の道筋を選びます。私は、私のイエズスがおられる一つの場所を見るとき、非常に幸せであり、そしてこう言います、『私の神、私のすべて、あなたがここにおられます』と。」

聖アルフォンソ・ロドリゲスは門衛であった。彼の職務はしばしば彼を聖堂の扉の横に連れて行った。そしてそのとき彼はわれらの主に愛すべき一瞥を与えるために少なくとも中をのぞかないというようなことは決してなかった。彼は、その家を去るとき、そして戻って来るとき、常にその祝福を求めるためにイエズスを訪問した。

天使的な青年、聖スタニスラウス・コストゥカは祝せられた秘蹟におけるイエズスを訪問するために急いで立ち去るあらゆる自由な時間を利用した。彼は、どうしてもそうすることができなかったとき、彼の守護の天使の方に向き彼に静かにこう言うのであった:「私の親しい天使よ、私の代わりにあそこに行ってください。」そしてそれは何と天使的な割り当てであることか!なぜわれわれはそのような要求をすることができないのか? われわれの守護の天使はまったく喜んで応じるであろう。実際、われわれは彼により高貴でより心地よい好意をわれわれにしてくれるよう求めることはできないであろう。

聖アウグスティヌスは彼の母、聖モニカについて一つの話をわれわれに残した。その話は彼女が、毎日ミサに与る以外に、どのように二度、一度は朝、そして一度は夕方に、われらの主を訪問するために出かけたかをわれわれに告げている。七人の子どもたちの聖なる母親であった福者アンナ・マリア・タイギも同じことをしていた。そしてボヘミアの王聖ウェンセスラウスは諸々の教会における祝せられた秘蹟を訪問するために冬の厳しさにおいてさえ、昼も夜も頻繁な外出をするのを常としていた。

ここに、ある王家におけるもう一つの幸せな例がある。ハンガリーの聖エリザベットは、少女のとき、友達と一緒に宮殿で遊ぶのが常であったが、常にいつでも気づかれることなく聖堂の扉の所で止まり、錠にキスをしそしてイエズスにこう言うことができるように、聖堂の近くの場所を選ぶのが常であった:「私のイエズス、私は遊んでいます。でも私はあなたを忘れてはいません。私と友達を祝福してください。またお会いします。」何と単純な信心よ!

三人の小さな羊飼いたちのうちの一人、フランシスコは小さな観想者であった。そして彼は祝せられた秘蹟を訪問することに対する熱心な愛を持っていた。彼は、彼が御聖体を彼の子どもらしい、深遠な話し方でそう呼んでいたように、「隠れたイエズス」に近い聖櫃の近くにいるためにできる限り長く教会にしばしば行きそしてそこに留まることを望んだ。病気が彼をベッドに閉じ込めたとき、彼はいとこのルチアに、彼の最大の苦痛が「隠れたイエズス」を訪問しに行くことができないこと、彼のすべてのキスと彼の愛をイエズスに捧げることができないことであると打ち明けた。ここにわれわれはどのように愛するかをわれわれに教える一人の少年を持っている。

われわれは聖フランシス・ボルジアが毎日少なくとも七回祝せられた秘蹟に訪問をするのを常としていたとつけ加えてもよいだろう。パッツィの聖マリア・マグダレナは彼女の生涯のある時期の間一日に三十三回の訪問をしていた。われわれの時代の謙遜なベネディクト会修道女、福者メアリ・フォルトゥーナ・ヴィティはこれと同じことをするのを常としていた。ドミニコ会第三会員、福者十字架のアガタは彼女の家から教会まで行きながら、一日に百回の訪問をすることに成功した。最後に、多年の間寝たきりであったときに世界のすべての「聖なる聖櫃」を訪問するために彼女の心の中で絶えず飛翔をしていたアレキサンドリア・ダ・コスタについてはわれわれは何と言おうか?

おそらくこれらの例はわれわれを驚かせ、聖人たちの間でさえ例外的であるとわれわれには見えるであろう。しかしそうではない。祝せられた秘蹟への訪問は信仰と愛の行為である。より大きな信仰と愛を持つ者は誰でもイエズスと共にあることの必要性をより強く感じる。そして聖人たちは、もし信仰と愛とによってでないとしたら、何によって生きていたのであろうか?

ある日一人の機知に富んだカテキストが彼の若い生徒たちにこう言った:「もし一人の天使が天からあなたの所へ来てあなたに『イエズスがご自身でかくかくしかじかの家におられ、あなたを待っておられます』と告げるならば、あなたは彼のところに急いで行くために直ちにあらゆるものを見捨てようとしませんか? あなたはどんな楽しみあるいはあなたの心を占めているどんなものをも中断するでしょう。あなたは行ってイエズスと共にいるために少しばかりの犠牲をすることができることをあなた自身幸せの中に数えるでしょう。ところで、イエズスは聖櫃の中におられ、そして彼があなたを常に待っておられるということを確信し、忘れないでください。なぜなら、イエズスはあなたが近くにいることを望んでおられ、御自分の恩寵であなたを大いに豊かにすることを望んでおられるのです。」

聖人たちは、イエズスの御自身での聖櫃における身体的現存と御自分の近くにわれわれを持ちたいというイエズスの御要求をどのように大きく、どのように高く評価していたであろうか? 聖フランシスコ・サレジオをして次のように言わせるほどに大きく、高く評価していたのである;「われわれは一日に10万回祝せられた秘蹟におけるイエズスを訪問しなければならない。」

御聖体におけるイエズスへのわれわれの訪問を愛するために聖人たちから学ぼう。これらの訪問をしよう。われわれの心の中にあるものについて愛情をこめてイエズスと話しながら、イエズスと共にとどまろう。彼は愛情をこめてわれわれをごらんになり、そしてわれわれを彼の心に引きつけられるであろう。アルスの聖なる司祭はこう言った:「われわれが単純さとまったき心とをもってイエズスと話すとき、彼は、その子どもの頭を両手で持ってそれをキスで覆い愛撫する一人の母親のように、なさるでしょう。」

われわれは、もし心から心への語り合いを含む、聖櫃への訪問をどのようにするかを知らないならば、聖アルフォンソの、聖体訪問と聖母訪問と題された美しい無類の小冊子を手に入れるべきである。聖体讃美式の直前に祝せられた秘蹟の顕示の間にピエトレルチーナのパードレ・ピオが聖アルフォンソの聖体訪問と聖母訪問の一節を涙をさそう声で毎晩読むことを常としていたやり方は忘れがたいものである。

愛情をこめて待っておられるわれらの主に一日少なくとも一回の訪問をすることを始めよう、そしてそうすることに忠実であろう。その次ぎにわれわれの能力に従ってこれらの訪問を増やすように努めよう。そしてもしわれわれが長い訪問をする時間を持たないならば、「立ち寄ること」をしよう。すなわち、われわれができるあらゆる時に教会の中に入り、祝せられた秘蹟の前で愛情をこめて次のように言いながら、しばらくの間跪こう:「イエズスよ、あなたはここにおられます。私はあなたを礼拝します。私はあなたを愛します。私の心の中へ来てください。」これは何か単純で短い事柄である。しかし、おお、非常に有益なことである!聖アルフォンソのこれらの慰める言葉を常に思い起こすことにしよう:「あなたの生涯のあらゆる瞬間の中で神的な秘蹟の前であなたが費やす時間は生涯の間あなたにより大きな力を、そしてあなたの死の時間にそして永遠の間により大きな慰めを与えるであろう時間であるでしょう。」

パードレ・ピオは初聖体を準備している子どもたちが彼のところへ連れて来られた時喜んだ。『イエズスわれらの御聖体の愛』の著者マネッリ神父はおよそ五歳の時にパードレ・ピオのところに初告解と初聖体に行った。

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イエズス、私はあなたを礼拝します!

そこに真の愛があるとき、そしてそれはある点にまで登るが、そこには礼拝がある。大きな愛と礼拝とは異なった事柄である。しかしそれらは一つの全体を形作る。それらは礼拝する愛および愛する礼拝となる。

聖櫃におけるイエズスはただ真に彼を愛する人々によってのみ礼拝される。そして彼は誰であれ彼を礼拝する人によって最高度の仕方で愛される。

聖人たちは、愛の実践において遙かに進歩しておられるので、祝せられた秘蹟におけるイエズスの忠実で熱心な礼拝者であられた。重要なことであるが、聖体礼拝はわれわれの天国全体を作り上げるであろう永遠の礼拝に対してわれわれが持っている最も接近した似姿として常に考えられてきた。その相違は信仰がそれについてわれわれに不動の確実性を与えるところのあの神の実在の視野を隠しているヴェールのうちにのみ存する。

祝せられた秘蹟の礼拝は聖人たちの熱心な信心であった。彼らの礼拝は数時間、また数時間、時には一日中あるいは数夜も続いた。そこ、「イエズスの足許に」(ルカ10:39)ベタニアのマリアにように、イエズスを観想することに没頭して、イエズスとの情け深い親密な交際を保ちながら、彼らは純粋なそしてかぐわしい礼拝の愛の奉献のうちに彼らの心を引き渡したのである。兄弟シャルル・ドゥ・フーコーが聖櫃の前で書いたことを聞きなさい:「私の神よ、何というすさまじい光か!ただあなたを見、あなたに『主よ、私はあなたを愛します』と告げるためにだけ他の何事をもすることなく十五時間以上を費やすことは何という甘美な喜びか!」

すべての聖人たちは、聖トマス・アクィナスや聖ボナヴェントゥラのような偉大な教会博士から聖ピオ五世や聖ピオ十世のような教皇たちに至るまで、アルスの聖なる司祭や聖ピーター・ジュリアン・エイマードのような司祭たちから聖リタ、聖パスカル・バイロン、聖ベルナデット・スービルー、聖ジェラール、聖ドメニコ・サヴィオそして聖ジェンマ・ガルガーニのようら謙遜な霊魂たちに至るまで、御聖体の熱烈な崇拝者たちであった。その愛が真実であったこれらの選ばれた人々は彼らが聖櫃の中のイエズスの前に日夜を過ごした情け深い礼拝の数時間を物の数ともしなかった。

アッシジの聖フランシスコがどのように長い時間、しばしば一晩中、祭壇の前で過ごしたか、そしてそこにそのように敬虔にまた謙遜にとどまったので、彼が彼を見るために立ち止まった者を誰も深く感動させたか、考えてみなさい。「四十時間の貧しい人」と呼ばれた聖ベネディクト・ラーブルがどのように祝せられた秘蹟が荘厳に顕示された諸教会において何日も過ごしたか、考えてみなさい。何年も何年も間この聖人はローマにおいて、そこで四十時間が保たれている教会から教会へと巡礼しているのを見られていた。彼はそこでイエズスの前に、礼拝の祈りに没頭して、彼の友である虫たちが彼にはい上がり、至るところを刺しているときでさえ八時間も動かず常に跪いて、とどまっていた。

誰かある人が聖アロイジオ・ゴンザガの肖像画を作ろうと望んだとき、彼にいかなる姿勢を与えるかについて一つの議論があった。達した結論は祭壇の前で礼拝している聖人を肖像画にすることであった。なぜなら、聖体礼拝は彼の特徴的なものであり、彼の聖性を最もよく表現するものであったからである。

聖心のお気に入り、聖マルガリタ・マリア・アラコックはある聖木曜日に礼拝において中断することなく平伏して十四時間を過ごした。聖フランセス・ザヴィエル・カブリーニは聖心の祝日に十二時間引き続いて礼拝にとどまった。彼女は御聖体におけるわれらの主にそのように没頭し注意を払っていたので一人のシスターが彼女に祭壇に花を生け、布を垂らして飾ることが好きかどうかを聞いたとき、彼女はこう答えた:「気がつきませんでした。私は一つの花、イエズスだけを見ていました。他の花を何も見ていませんでした。」

ミラノで司教座聖堂を訪ねた後、聖フランシスコ・サレジオは誰かが彼にこう尋ねるのを聞いた:「閣下、あなたはあそこに何と豊かな大理石があるか、そしてその線がどのように荘厳であるかを御覧になりましたか?」聖なる司教はこう答えた:「あなたは私があなたに何を告げることを望んでいるのですか? 聖櫃におけるイエズスの現存が私の精神をそのように夢中にさせたので、すべての美しい建築物は私の注意からもれています。」それらがあたかも博物館であるかのように有名な諸教会を 無分別に訪問するわれわれにとってこの答はなんという教訓であろうか!

最高の瞑想

聖体礼拝の間の瞑想の精神の一つの例として、モデナ大学教授の福者コンタルド・フェリーニは一つの際だった経験をした。ある日、われらの主を訪問するためにある教会の中へ入った後に、彼は眼を聖櫃に釘付けにし、礼拝にそのように没頭してしまったので、誰かが彼の肩に掛けられたマントを彼から奪ったときに気がつかなかった。

「稲妻の閃きですら彼女の気を散らすことはできなかった」:それは聖マリア・マグダレナ・ポステルについて言われたことであった。なぜなら、彼女は祝せられた秘蹟を礼拝しているときにはそのように落ち着いており信心深かったからである。他方においてかつて、礼拝の間にシエナの聖カタリナは横を通り過ぎる一人の人の方へ眼を上げることがたまたまあった。一瞬間このように気を散らしたことのゆえに、聖人は非常に苦しみ、「私は罪人です!私は罪人です!」と叫びながら、しばらくの間泣いた。

教会におけるわれわれの行動をわれわれが恥じないということはどういうことであろうか? われらの主が荘厳に顕示されている前でさえわれわれはそのように容易に左右を見回し、どんな悔いも感じることなしに - そしてこれは悲しいことである - 何らかのつまらないことによって動かされ気を散らさせられる。ああ!聖人たちの繊細で敏感な愛!聖テレジアは「聖なる秘蹟におけるイエズスの現存においてはわれわれは神の本質の前にいる天における祝せられた者のようでなければならない」と教えた。それが聖人たちが教会において振る舞った仕方である。アルスの聖なる司祭は、人々が彼はイエズスを彼自身の目でじかに見たと確信するようになるほどにそのような熱心と瞑想をもって、祝せられた秘蹟におけるイエズスを礼拝するのを常としていた。人々はその同じことを聖ヴァンサン・ドゥ・ポールについても言った:「彼はイエズスをそこ(聖櫃)のうちに見ている」。そして彼らは聖体礼拝の匹敵する者のいない使徒、聖ピーター・ジュリアン・エイマードについて言った。ピエトレルチーナのパードレ・ピオは彼を模倣しようと努力しながら彼の司祭礼拝者の会に入会し、四十年の間聖エイマードの小さな写真を彼の机の上に飾っていた。

死後でさえ

主がある聖人たちに、彼らに死後、祝せられた秘蹟への礼拝の行為を遂行することを可能にすることによってある並はずれた仕方で、好意を示されたと思われるということは注目すべきことである。このように、ボローニャの聖カタリナは、彼女の死後数日間祝せられた秘蹟の祭壇の前に置かれていたとき、彼女の遺体は信心深い礼拝の姿勢に起き上がった。聖パスカル・バイロンの葬儀ミサの間に彼の両眼は二度 - ホスチアの奉挙の時とカリスの奉挙の時 - 彼の御聖体への礼拝を表現するために開いた。福者ギルゲンティのマテオの遺体が彼の葬儀ミサのために教会の中にあったとき、彼の両手は御聖体に向かって礼拝して合わさった。ラヴェロでは福者ポテンツァのボナヴェントゥラの遺体は祝せられた秘蹟の祭壇を通って運ばれる間、聖櫃におけるイエズスに敬虔なお辞儀をした。

「愛は死より強し」(雅歌8:6)ということ、そして「この肉を食する者は永遠に生くべし」(ヨハネ6:59)ということは実際真実である。御聖体はイエズスわれらの愛である。御聖体はイエズスわれらの生命である。祝せられた秘蹟の礼拝はわれわれを生かし、われわれを「われわれのために絶えずとりなし給う」(ヘブレオ7:25)犠牲たるイエズスと一つにさせる一つの天上的な愛である。われわれは、イエズスが兄弟たちの救いのために御父に執り成しをなさるとき、礼拝する者が彼自身をホスチアにおけるイエズスと一つにするということに注意しなければならない。すべての人々に対する最高の愛は彼らのために天国を得ることである。そしてただ天国においてのみわれわれは、知られたそして知られていない聖なる人々によって償いとしてなされた聖体礼拝によっていかに多くの霊魂が地獄の門から解放されたを見るであろう。われわれは、ファチマで天使が三人の羊飼いの子どもたちに償いのための美しい御聖体の祈りを個人的に教えたということを忘れるべきではない。われわれはその祈りを学ぶべきである:「おお、いとも聖なる三位一体、御父と御子と聖霊よ、私は深くあなたを礼拝し奉る。そして私はあなたに、キリストがそれでもって傷つけられておられる侮辱、神聖冒涜そして無関心を償うために世界のすべての聖櫃のうちにましますイエズス・キリストのいとも貴重なる御体、御血、御霊魂そして神性をあなたに捧げ奉る。そしてイエズス・キリストのいとも聖なる御心とマリアの汚れなき御心の無限の功績を通じて私はあなたに哀れな罪人たちの回心を願い奉る。」聖体礼拝は愛の歓喜であり、そしてそれは諸々の霊魂を救うという使徒職における最も強力で救いをもたらす実践である。

この理由でマリアの偉大なる使徒、聖マキシミリアノ・マリア・コルベは彼の施設の各々に、修道士たちの個室を用意する前に、直ちに顕示された祝せられた秘蹟の永久礼拝を導入するために聖堂を用意することを望んだ。かつて彼は、ポーランドにおける彼の「汚れなきおとめの都市」を旅行で訪れた一人の人を迎え、そして彼らが大きな「礼拝」の聖堂の中へ入ったとき、祝せられた秘蹟に対する身振りをもって彼の訪問者にこう言った:「われわれの生活全体はこれに依存しています。」

よりよき部分

群衆があらゆる地方から彼のところへ集まったガルガーノの聖痕を受けた修道士、ピエトレルチーナのパードレ・ピオは告解室における彼の日々の長い日課の後に残りのほとんどすべての昼と夜とを、彼が数百のロザリオを唱えるときに聖母と共に過ごしながら聖櫃の前で礼拝に費やすのを常としていた。かつてマンフレドニアの司教モンシニョール・チェザラーノは八日間の黙想をするためにパードレ・ピオの修道院を選んだ。毎晩司教は聖堂に行くためにさまざまの時間に起きた。そして毎晩これらすべての時間に彼は常に礼拝しているパードレ・ピオを見出した。ガルガーノの偉大な使徒は世界中で見られることなく、彼の仕事をしていた。- そしてときどき彼は手にロザリオをもってイエズスの前に平伏してそこにとどまっている間に、バイロケーション[同時に別の場所に存在すること]の場合には姿を見られた -。彼は霊的な子どもたちにこう言うのを常としていた:「私を見つけたいときは聖櫃の近くに来なさい。」

われわれの時代のもう一人の偉大な使徒、ドン・ジェイムズ・アルベリオーネは彼の大きな計画、出版の使徒職 -「 Societa Apostolata Stampa」- の基礎として、彼の「神たる師の敬虔な弟子たちの修道会」におけるシスターたちのために聖体礼拝を特別に定めた。彼女たちは日夜御聖体のうちに顕示されたわれらの主を礼拝するという唯一のそして特別の使命を持っていた。

聖体礼拝は、イエズスが「多くの事柄」で忙しくしていたマルタをたしなめられたとき、それらのことは二次的なことである、マリアによって選ばれた「必要なただ一つのこと」を見逃しているが、それは謙遜で愛情に満ちた礼拝である(ルカ10:41-42)、と語られた「最善の部分」である。

それでは、われわれが聖体礼拝のために持つべき愛と熱心とは何であるべきか? もし「すべてのものが存続する」(コロサイ1:17)のがイエズスによってであるならば、そのときイエズスのところへ行くこと、イエズスの許にとどまること、われわれ自身をイエズスに結びつけることは、それによってわれわれが、そして全世界が存在するところのものを見出し、獲得し、所有することを意味するのである。「イエズスだけがすべてです。他のどんなものも無です」とリジューの聖テレジアは言った。それでは、すべてであるもののために無であるものを断念すること、無であるもののための代わりにすべてであられる方のためにわれわれのすべての富とわれわれ自身を使い果たすこと、これは実際われわれの真の富であり至高の知恵ではないか? これは明らかにピエトレルチーナのパードレ・ピオが次のように書いたとき、彼の考えであった:「人間の栄光を楽しむ千年間は祝せられた秘蹟におけるイエズスと甘美に交わりながら費やされる一時間にさえ値しない。」

聖人たちがしたと同じように、われわれは天使たちを羨まなければならないどんなしかるべき理由をもっていることであろうか。なぜなら天使たちは絶えず聖櫃のまわりにとどまり続けているからである。

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イエズスの家を愛すること

われわれの聖櫃におけるわれらの神なる主の真の現存は常に聖人たちによって非常に崇敬され尊敬された何かあるものであり続けた。「主に属する事柄」(1コリ7:32)のためのそのように素朴で純粋な彼らの愛する配慮は、規定された諸々の儀式の一つの単純な事柄でさえ、非常に重要なものであるとすべての事柄を考える、何物をもしりごみしない彼らの大きな愛の最も明白なしるしの一つであった。聖テレジアや聖アルフォンソはそれに対して彼らの生命を犠牲にする用意があると宣言した。

聖性と礼節

そして、イエズスの住み給う場所(マルコ11:17)である聖なる聖櫃、祭壇、教会を愛情のこもった配慮をもって取り囲みながら、イエズスを愛することをわれわれが学ばなければならないのは聖人たちからである。小さな事柄においてさえ、細目においてさえ、あらゆる事柄は礼節を表現しなければならない。あらゆる事柄は信心と礼拝とを鼓舞しなければならない。「栄光の王」(詩編23:10)を愛し崇めることに関わりがある場合には何物も決して多すぎるということはないであろう。人は、例えば、ミサ聖祭の間司祭の指を清浄にするために芳香で満たされた水さえ用いられることが要求される少数の古い慣行について考える。

さらに、イエズスは愛の秘蹟を一つの立派な美しい場所、すなわち家具と絨毯をある一つの大きな食堂であった高間(ルカ22:12)において制定することを選ばれた。聖人たちは神の家の美と整然さに気をつけることに常に真心を込めた熱意と識見とを示してきた。

例えば、アッシジの聖フランシスコは彼の使徒的な旅行の間、彼が汚いと思った教会を掃除するために一本の箒を携える、あるいは手に入れるのを常としていた。人々に説教した後、彼はその町の聖職者に主の家の尊敬に値する外観のために熱心であるように話し、熱心にそうするよう彼らに勧めた。彼は聖クララと「貧しきクララ会」シスターたちに祭壇のための聖なる亜麻布を準備させていた。彼の貧しさにもかかわらず、彼は貧しい無視された諸教会にチボリウム、カリス、そして祭壇布を手に入れて送るのを常とした。

われわれは聖ヨハネ・バプチスタ・ドゥ・ラ・サールの生涯から聖人が、聖堂が常に清潔で十分に必要な物を備えられており、祭壇が完全に調えられ、御聖体を示すランプが常に灯されているのを見ることを望んでおられたということを知る。破れた祭服や変色した容器類は彼には悲痛な思いをさせる見苦しいものであった。彼はわれらの主の礼拝のための備えが問題であるときにはいかなる出費も多すぎるとは考えなかった。

十字架の聖パウロは祭壇の備品が清潔なものであることを望んだ。ある日彼は二枚の聖餐布を次々に取り替えさせた。なぜなら彼はそれらが十分に清潔であるとは判断しなかったからである。

御聖体を愛した王たちの中で傑出しているのはボヘミア王、聖ウェンセスラウスである。彼自身の手で彼は土地を耕し、小麦を蒔き、刈り入れ、粉に挽き、篩いにかけた。それから最も純粋な小麦粉でもって彼は聖なる犠牲のためのホスチアを作った。また、フランスの女王、聖ラドグンデスは彼女が謙遜な修道者となった後に、彼女自身の手でミサ聖祭用のホスチアのために選ばれた小麦を挽くことができて幸せであった。そして彼女はそれらを自由に貧しい教会へ与えるのを常とした。同様にまた、注目に値するのは聖ヴィンセンチア・ゲロサである。彼女はミサ聖祭のためにぶどう酒を供給したぶどうの木の世話をした。彼女が育てたこれらのぶどうの房がイエズスの御血になるのだと考えて喜びを見出しながら、彼女は彼女自身の手でそれらを栽培し収穫した。

聖人たちが祝せられた秘蹟に関して持っておられた繊細な良心についてわれわれは何と言うであろうか?

彼らはホスチアの最も小さな目に見える断片のうちにさえわれらの主の真の実存に対する確固たる信仰を持っていた。このことに関しては、パードレ・ピオが祭壇にいるときにパテナと聖なる容器を清めるその入念な配慮を見れば十分である。人は彼の顔の上に礼拝を読むことができるであろう!

かつてリジューの聖テレジアがミサ聖祭の後にパテナの上にホスチアの小さなかけらを見たとき、彼女は修練女たちを呼び、それから真に天使的であった礼儀正しい、礼拝の行動をもってそのパテナを聖器具室の中へ行列して運んだ。聖テレジア・マルガリタが祭壇の近くの床の上にホスチアの断片を見つけたとき彼女は泣き出した。なぜなら、彼女はイエズスに対して示されるであろう不敬について考えたからである。そして彼女は一人の司祭がそれを取り上げに来てそれを聖櫃の中に置くまでそのかけらの前で礼拝して跪いていた。

かつて聖カルロ・ボロメオが御聖体を配っていたとき、その手から一枚の聖なるホスチアを不注意で落とした。聖人はイエズスに対して彼自身重大な不敬の罪を犯したと考えた。そして非常に苦しんで四日間彼はミサ聖祭を捧げる勇気を持つことができなかった。そして償いとして彼自身に対して八日間の断食を課した!

ときどき御聖体を配っているときに彼の手の中におられるわれらの主に対する礼拝の感覚によってそのように運び去られたと感じて、跪き、そしてその姿勢で御聖体を授け続けた聖フランシスコ・ザヴィエルについて、われわれは何と言おうか? それは神に相応しい信仰と愛の一つの証拠を提出しなかったであろうか?

より美しくさえある他のある事柄は祝せられた秘蹟を取り扱う際の司祭であった聖人たちの注意深い配慮であった。おお、彼らはどのように、汚れなき聖母と同じ汚れていない手を持つことを望んだことであろうか!コスタンザの聖コンラードに関する注目すべきある事柄は彼の人差し指と親指が彼がイエズスのいとも聖なる御体を持つときに彼がそれでもってそれらの指を用いた信仰と愛のために夜には輝くのを常としたということである。彼の恍惚と空中浮揚のために有名であった天使的な聖人、クペルティーノの聖ヨゼフは、イエズスのいとも聖なる肉を持つためにだけそれらが使われ得るようにもう一組の人差し指と親指を持ちたいという望みを表明したとき彼の信心の洗練された仕方を明らかにした。ときどき、ピエトレルチーナのパードレ・ピオは聖痕を持った彼の両手に、ホスチアと接触を持つことを許すことを彼自身相応しくないと判断しながら、明らかな困難を伴って、聖なるホスチアをつまみ上げるのであった。(舌の上に戴く代わりに手による聖体拝領を導入する試みがなされる痛ましい軽率さについてわれわれは何と言おうか? 聖人たちと比較して - そのように謙遜で、そのように天使的な - これらの人々は生意気な無法者のイメージを容易に提供しないか? )

女たちの節度

教会の上品さに対する、また霊魂の救いに対する聖人たちのもう一つの大きな関心は女たちの節度と上品さを要求するものであった。この特定の点に関する一つの厳しい主張は使徒聖パウロ(女に彼女の頭が、あたかも彼女が剃られているかのようでないためにはかむりものをかむるように告げている)から聖ヨハネ・クリゾストモス、聖アンブロシウス等々に至るまで、中途半端な寸法を認めず、常に明らかに膝より下の節度あるドレスを強く要求したピエトレルチーナのパードレ・ピオに至るまで、すべての聖人たちによって絶えず再び断言されている。そしてそれはどのようにしてそれ以外であり得るだろうか? 聖レオナルド・ダ・カステルヌオーヴォは節度のない服装をした女たちを、carne da mercato(「売りに出された肉」)と呼びながら、教会から追い出すのを常とした。そのように多くの女たちが教会においてさえ節度と上品さを無くしている今日彼は何と言うであろうか? 彼女たちは聖なる場所においてさえ男たちを、それについて聖霊がわれわれに警告している肉欲(シラ書9:9)へと誘惑する古い悪魔的な術を身に着けているのである。しかし神の正義はそのような大きな狂気と堕落を罰しないままにはさせられないであろう。その反対に、聖パウロはこう言っている:「そのような事柄に対しては神の怒りが解き放たれる」(コロサイ3:6 )と。彼は肉の諸々の罪のことを言っているのである。

さらに、聖人たちは模範と言葉とによって教会に入るときには聖水でもって敬虔に十字のしるしをし、うやうやしく跪き、そして何よりもまず、祭壇のまわりを見続けている天使たちと聖人たちに一致して祝せられた秘蹟のうちにましますイエズスを礼拝するという美しい実践に従うことを常に命じてきた。われわれは、もし祈りのために立ち止まるならば、われわれ自身を敬虔にそして注意深く保つように注意して心を落ち着かせる必要がある。

祝せられた秘蹟の祭壇に(適切な限界を守りながら)できる限り近く近づくこともまたよいことである。なぜなら福者ヨハネ・ドゥンス・スコトゥスは、人がイエズスの御体と御血に近ければ近いほど、イエズスのいとも聖なる人間性の物理的な影響力はより強いということを論証したからである。(聖ジェンマ・ガルガーニは、時々彼女は祝せられた秘蹟の祭壇に近づくことができなかった、なぜならそのような愛の火が彼女の心の中で燃えてそれが彼女の胸を越えて衣服を焼くであろうから、と言った!)

聖フランシスコ・サレジオが教会に入り、自らを祝福し、跪き、そして聖櫃の前で祈っているのを見た人は誰でも、人々が「それは天使たちや聖人たちがそれを天国においてするやり方である」と言うことを信用することを余儀なくされた。

かつてスコットランドの宮廷において一人の王子が友人にこう告げた:「もしあなたが天使たちがどのように天国で祈っているかを見たいならば、教会に行ってマーガレット女王が彼女の子どもたちと一緒に祭壇の前でどのように祈っているかを見なさい。」せわしい、そして取り乱したすべての人々は福者ルイス・グアネッラの以下の言葉を真面目に熟慮すべきである:「われわれは決して教会を廊下、あるいは中庭、あるいは道路、あるいは公共広場にすることは許されない。」そして聖ヴァンサン・ドゥ・ポールは人々に、祝せられた秘蹟の前で操り人形の動きに似ている跪きをすることを避けるように悲しそうに説得した。

聖人たちのこれらの模範や教えがわれわれにとって無益なものであることを証明しませんように。

われわれは聖書の中に上品さと魅力のために分かり易い愛の献身的な行為について告げている一つの短い物語を見出す。それは、聖マリア・マグダレナが、貴重な香油の入った雪花石膏の器を持ってイエズスの所へ来て、それをイエズスの頭に注いだ」(マテオ26:7)時の、ベタニアの家でなされた彼女の行為である。われわれの聖なる聖櫃に上品さと魅力の環境を準備することはわれわれがこれらの魅力的でよい香りのする被造物 - それは花である - に常に委ねた一つの仕事である。それらを用いることにおいて聖人たちは誰にも劣らなかった。トリノの大司教がある日「摂理の小さな家の教会」に訪問のために立ち寄ることを選んだとき、彼は祭壇が非常に美しく飾られ、花でかぐわしいのを見出したので、聖ヨゼフ・コットレンゴに尋ねた:「あなたは今日は何の祝日を祝っているのですか?」聖人は答えた:「私たちは今日は何の祝日も持っていません。しかしここの教会では常に祝日なのです。」

ジェロームの聖フランシスは祝せられた秘蹟の祭壇のための花を育てる仕事を持っていた。そして彼はときどき花を奇蹟的に生育させたのでイエズスは花なしに置いて行かれることはないのであった。

「イエズスのために一本の花」- 一つの美しい習慣!イエズスに対する愛のこの優雅な身振りを差し控えることのないようにしよう。毎週の小さな出費がかかるかもしれない。しかしイエズスはそれを「百倍にして」払い戻されるであろう。そして祭壇の上のわれわれの花はそれらの美しくさとかぐわしさとによってイエズスの側のわれわれの愛の現存を表現するであろう。

この点に関する興味のさらなる点として聖アウグスティヌスは彼の時代の一つの敬虔な習慣について告げている。ミサ聖祭の後、信徒たちの間で祭壇の上に用いられた花を手に入れるための一つの聖なる競技があった。彼らはそれらの花を家に持って持って帰り、遺物としてそれらを保存するのであった。なぜなら、それらの花は祭壇の上でイエズスの近くにあったからであり、そしてイエズスの神的な犠牲の間そこにあったからである。また、聖ジェーン・フランセス・ドゥ・シャンタルはイエズスのところへ新鮮な花を常に持って行くことについて勤勉であった。そして聖櫃の近くのそれらの花が萎れ始めるやいなや、彼女はそれらを彼女の十字架の足許に保つために彼女の個室に持って帰った。ああ、これらの実践は何という愛を証明していることか!

聖人たちの諸々の例から学び模倣しよう。

神は礼拝と償いを求めておられる

平和の天使がファチマで三人の子どもたちに出現したとき、天使は彼らに世界において神に対して犯された罪のための償いの行為をするように教えた。天使は罪に対する償いをし、神に栄光を帰するために聖霊と祝せられた秘 蹟のうちにましますイエズスの礼拝の行為をするように彼らに教えた。天使は彼らの次の祈りを教えた:
「いとも聖なる三位一体、御父と御子と聖霊よ、私はあなたを深く礼拝します。私はそれによってイエズスが背かれておられるすべての侮辱、神聖冒涜そして無関心の償いとして世界のすべての聖櫃のうちに現存なさるわれらの主イエズス・キリストのいとも貴重なる御体、御血、御霊魂そして神性をあなたに捧げます。イエズスのいとも聖なる御心の無限の功績とマリアの汚れなき御心の執り成しを通じて、私は哀れな罪人たちの回心をあなたに乞い願います。」

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司祭は「神の人」(2チモテオ3:17)である。

第5章 われわれにイエズスを授ける人

ジーノ神父によってサン・ヴィットリーノに惹きつけられてきた多くの神学生たちのうちの一人によって助けられ、彼の創設した新しい修道会のシスターたちに御聖体を授けるジーノ神父

われわれのために御聖体を準備しわれらの主をわれわれに授けるのは誰であるか? それは司祭である。もし司祭がいなければ、ミサの聖なる犠牲も聖体拝領も聖櫃におけるイエズスの真の現存もないであろう。

そして司祭とは誰であるか? 彼は「神の人」(2チモテオ3:17)である。彼を選ばれ、そして一つの非常に特別の使命のために人々の間から彼を呼ばれるのは神御一人である。「彼の召命は、アアロンの召命がそうであったように、神から来る。誰もこのような特権を自ら取る者はいない。」(ヘブレオ5:4)神は彼を他のすべての者から離して置かれる。彼は「神の福音を説教するために分けられ」(ロマ1:1)る。神は彼を「永遠の司祭」(ヘブレオ5:6)としながら、そして彼が神の諸々の事柄のために専ら聖別されたものとなるように仕える者としての司祭職の超自然的な力を彼に与えながら、 永遠に続くであろう一つの聖なる性格をもって、彼を区別なさる。「人々の間から選ばれ」る司祭は、彼が罪のために供物と犠牲とを献げるように、神に属する事柄において人々のために叙階されるのである(ヘブレオ5:1)。

清貧、貞潔、従順

司祭はその叙階によって霊魂と身体とにおいて聖別される。彼は神の司祭イエズスに似せられて、まったく聖なるものとなる。司祭はそれによってイエズスの召命と使命に参与するイエズスの真の延長である。彼は普遍的な救世の最も重要な働きにおけるイエズスの役割、すなわち、神の礼拝と福音の流布、を果たす。彼自身の生活において彼はイエズスの生活 - 童貞であった方、貧しい者であった方、十字架にかけられた方の生活 - を完全に再現することへと呼ばれている。彼が「異邦人の間でキリスト・イエズスの役者」(ロマ15:16)、「霊魂の指導者および教授者」(マテオ28:20)であるのはこのように自分自身をイエズスのようにすることによってである。

ニュッサの聖グレゴリオはこう書いた:「昨日人々の一人であった者は彼らの師、彼らの上長、聖なる諸々の事柄における教師、聖なる諸々の秘蹟における指導者となる。」このことは聖霊の働きとして起こる。なぜなら、「一人の人間に司祭職を授けるのは人間ではなく、天使でもなく、大天使でもなく、いかなる想像された力でもなくて、聖霊である」(聖ヨハネ・クリゾストモス)からである。聖霊は司祭の霊魂をイエズスの似姿とされ、「司祭が祭壇においてイエズスの人格的な役割を引き受ける」(聖シプリアヌス)という仕方で司祭にイエズスの役割を果たす力、そして「神に関わるすべてのことに責任を持つ」(聖ヨハネ・クリゾストモス)力をお与えになる。それで、たとい司祭の尊厳が「天上的」(カッシアヌス)、「神的」(聖ディオニシウス)、「無限」(聖エフレム)「天使たちによって愛すべき仕方で敬意を払われる」(ナジアンズの聖グレゴリウス)何かあるもの、「司祭が神的犠牲を行う時に天使たちが彼の周りを取り囲み、そして犠牲である生け贄に栄光を帰しながら讃美の歌を合唱するとき」(聖ヨハネ・クリゾストモス)そのように偉大である、と宣言されるとき、誰が驚くであろうか。そしてこのことはミサのときにいつも起こるのである!

尊敬と畏敬

われわれはアッシジの聖フランシスコが、自分自身そのような高貴な聖務に相応しくないと考えたので司祭になることを望んでいなかったということを知っている。彼は、司祭たちを彼の「主人」と考えながら彼らを特別な忠誠をもって尊敬した。なぜなら彼は彼らのうちにただ「神の御子」だけを見たからである。御聖体に対する彼の愛はイエズスの御体と御血を聖別し管理する司祭に対する愛と溶け合っていた。彼は司祭の手に対して特別の畏敬を払った。彼は司祭の手を跪いて非常に敬虔に接吻するのを常とした。彼は司祭の足にさえ、そして司祭が歩いた足跡をさえ接吻するのを常とした。

信徒によってうやうやしく接吻される司祭の聖別された両手の畏敬は教会において常に存在してきた。最初の数世紀の迫害の間に司教たちや司祭たちに対する一つの格別な暴行が彼らがもはや聖別を行ったり、また祝福を与えたりすることができないように彼らの両手を切断することに存したということは注目に値することである。キリスト教徒たちはそれらの切断された両手を見つけに行き、それらを防腐用のスパイスでもって遺物として保存するのを常とした。司祭の手の接吻することは司祭が代表しているイエズスに対する信仰と愛の一つの繊細な表現である。人々の間に信仰と愛が多くあればあるほど、それだけ多く彼らは司祭の前で跪き、それらの「聖にして尊敬すべき手」(ローマ教会法)に敢えて接吻しようとするであろう。その手の中でイエズスは毎日御自身を愛すべき仕方で現存させられるのである。

聖アウグスティヌスはこう叫んでいる:「おお、司祭の尊敬すべき尊厳よ、その両手の中で神の御子は、おとめ[マリア]の御胎内でそうであったように、受肉した方となられるのである。」アルスの聖なる司祭はこう言った:「われわれは、聖なるおとめの粥を入れる椀や幼子イエズスのそれのような、受け渡されロレットで保存された事物に大きな価値があると考える。しかし、イエズス・キリストの崇敬に値する御体に触れた、イエズスの御血があったカリスの中へ入れられた、イエズスの御体があったチボリウムの中へいれられた、司祭の指 - これらの指はより貴重であるのではなかろうか?」おそらくわれわれは以前にはそのことについて考えたことはなかったであろう。しかしそれは実際そうなのである。聖人たちの実例がこの答を確証している。

恍惚状態において尊者カタリナ・ヴァンニーニは天使たちがミサの間司祭の両手の周りに集まり、ホスチアとカリスの奉挙のときにその両手を支えるのを見た。われわれはこの神の奉仕者たる尊者がそれでもって司祭の両手に接吻するのを常としていた尊敬と愛情とを想像することができる!

女王、聖ヘドヴィッヒは毎朝宮廷の聖堂で捧げられていたすべてのミサ聖祭に与っていたが、ミサ聖祭を捧げる司祭たちに対して感謝と尊敬を示した。彼女は司祭たちを歓待し、彼らの手に献身的に接吻し、彼らが食事を供されているかどうかに気を配り、彼らにあらゆる敬意を示すのを常とした。彼女は、次のように叫ぶとき、深い感情を示したのであった:「神が天からイエズスを来させ、イエズスを私に与えた人を祝福されますように!」

聖パスカル・バイロンはある修道院の門番であった。司祭が到着する度毎にその聖なる平信徒の兄弟は跪き司祭の両手にうやうやしく接吻した。人々は彼について - 聖フランシスコについて彼らが言ったのと同じように - 彼は司祭たちの聖別された両手に対する信心を持っていた、と言った。彼はそれらの手は諸々の悪を近づかせず、それらを崇敬をもって扱う者のために祝福を下す力をもっていると考えた。というのはそれらはイエズスが利用なさる手であるからである。

そしてピエトレルチーナのパードレ・ピオがどのようにある司祭の手に愛情を込めて接吻することを望んだかを見ることは - 突然思いがけなくその手をとりながらでさえ - 啓発的な光景ではなかったか? われわれはまた、もう一人の神の奉仕者、司祭であるドン・ドリンド・ルオトロの例によって感銘を与えられる。彼はどの司祭も彼の両手に接吻させるという「愛徳」を拒否することができるということを認めようとはしなかったであろう。

われわれは神がこの崇敬の行為を真の奇蹟によってしばしば報い給うたということを知っている。われわれは聖アンブロシウスの生涯において、ある日ミサ聖祭を捧げた後、彼の両手に接吻することを望んだ、麻痺にかかった一人の女に近づかれた。その女は御聖体を聖別したそれらの手に対する大きな信頼を持っていた。そして女は直ちに癒された。同じようにベネヴェントにおいて十五年の間麻痺にかかっていた一人の女が教皇レオ九世に、彼の指を洗うためにミサ聖祭の間に彼が用いた水を彼女に飲ませるよう頼んだ。聖なる教皇はその願いを聞き入れた。その願いは、イエズスに「彼らの主人の食卓から落ちるくず」(マテオ15:27)を願ったカナアンの女の願いと同じように、まったく謙遜になされた。そして彼女もまた直ちに癒された。

聖人たちの信仰は真に偉大である何かであり、そして結果を産み出した。彼らは信仰によって生きた(ロマ1:17)。そして彼らがイエズスを遇したときにはいかなるしりごみも許さなかった信仰と愛とによって行動した。彼らにとって司祭はまさにイエズス御自身を代表していた。「司祭たちのうちに私は神の御子を見る」とアッシジの聖フランシスコは言った。アルスの聖なる司祭はある説教の中でこうのべた:「私は、司祭を見る度毎にイエズスのことを考える。」パッツィの聖マリア・マグダレナは、司祭について語ろうとするときには「このイエズス」として彼について言及するのを常とした。この尊敬のゆえにシエナの聖カタリナは司祭が通った床あるいは地面に接吻するのを常とした。ある日聖ヴェロニカ・ジュリアーニは病人に御聖体を持って行くために修道院の階段を登っている司祭を見た。そして彼女はその階段の各々に接吻し、彼女の愛が産み出した涙をもって濡らしながら、その階段の最下部で跪いた。何という愛の例!

アルスの聖なる司祭はこう言うのを常とした:「もし私が司祭と天使とに出会ったならば、最初に司祭に、そして次ぎに天使に尊敬を払うであろう...もしそれが司祭のためでなかったならば、イエズスの受難と死はわれわれを助けないであろう...金の一杯つまった箱も、もしそれを開ける人が誰もいなかったならば、何の善いものであろうか? 司祭は天国の宝への鍵を持っている...」誰が白いホスチアの中にイエズスを降りて来させるのか? 誰がイエズスをわれわれの聖櫃の中へ入れるのか? われわえがイエズスを受けることができるように誰がわれわれの心を清くするのか? それは司祭である。ただ司祭だけである。彼は「幕屋に仕うる者」(ヘブレオ13:10)、「和睦の務め」(2コリ5:18)を持っている者、「あなたのためにイエズス・キリストの役者」(コロサイ1:7)である者、そして「神の奥義の分配者」(1コリ4:1)である。おお、彼らの群にイエズスを授けるために彼ら自身を犠牲にする英雄的な司祭たちについていかに多くの事例が報告され得たことであろう!われわれはここに多くの事例の中から一つの事例を報告する。

何年か前ブルターニュのある小教区においてある年老いた司祭が死の床に横たわっていた。同じ時刻にまた彼の小教区民の一人が彼の生涯の終わりに近づきつつあった。彼は神と教会から迷い出た人々のうちの一人であった。その司祭は苦しんでいた。というのは彼は起き上がって、その人のところへ行くことができなかったからである。それで彼は助任司祭を彼のところへ送った。彼に死んで行く人がかつて秘蹟を受けずに死なないと約束していたということを思い起こさせるように忠告した。その小教区民はこのことを聞いて次の言葉で言い訳をした。「私はそのことを司祭様に約束しましたが、しかしあなたには約束しませんでした。」助任司祭はその死につつある人から去らなければならなかった。そして司祭に彼の答を報告した。司祭は、彼自身がただ残された数時間しか持っていないということを理解したけれども、くじけなかった。彼はその罪人の家へ運ばれるように手配した。彼はその家の中へ連れて行かれ、死んで行く人の告解を聴くことに成功した。そして彼に御聖体におけるイエズスを授けた。それから彼はその人に言った:「天国でわれわれが会うまでさようなら!」その勇敢な司祭は担架に乗って彼の司祭館へと運ばれて帰った。彼が到着したとき彼の上に欠けられていた覆いが上げられた。しかしその司祭は動かなかった。彼は死んでいたのだった。

司祭を尊敬しよう。そして彼に感謝しよう。なぜなら彼はわれらの主をわれわれにもたらすからである。とりわけ彼の高貴な使命 - それはイエズスの使命:「父のわれを遣わし給いしごとく、われも汝らを遣わすなり」(ヨハネ20:21)である - の実現のために祈ろう。それは、人がそれを鼓舞している愛について深く考えるとき精神を圧倒する神的な使命である。司祭は「神の御子にあやかり」(ヘブレオ7:3)たる者である。そしてアルスの聖なる司祭はこう言うのを常とした:「ただ天国においてのみわれわれはこのことの完全な偉大さを計り知るであろう。もしわれわれがそれをこの地上で正しく評価するならば、われわれは恐怖のゆえにではなく、愛のゆえに、死ぬであろう...神に次いで、司祭はすべてである。」

しかしこの至高の偉大さは司祭の貧弱にされた人間本性、あらゆる他の人間のそれとまったく同じ人間本性、の上に重くのしかかる一つの巨大な責任をもたらす。聖ベルナルドは言った:「司祭は自然本性によって他のすべての人間たちと同じである。尊厳によって彼は地上における他のあらゆる人間を越える。彼の行動によって彼は天使と比較されるべきである。」

神的な召命、至高の使命、天使的な生活、高い地位 - 何という巨大な重さ、そのすべてが哀れな死すべき者の肩の上にあることか!「司祭職は一つの十字架であり、殉教である」:これは優れた司祭そして神の僕であるドン・エドワード・ポップによって与えられた一つの優れた記述である。

霊魂たちの救いに対する責任の何という重さが司祭に課せられているかを考えてください。彼の職務は不信者たちに信仰をもたらすこと、罪人たちを回心させること、生ぬるい人たちに熱意を与えること、善人にもっと善くなるように刺激すること、聖なる人々を最高の水準で歩ませることである。ところで彼はイエズスとの真の一致、同一性を保たないならば、どうしてこのすべてのことをなすことができようか? これがピエトレルチーナのパードレ・ピオが以下のように言うのを常とした理由である:「司祭は聖人であるか、それとも悪魔であるかの何れかである。」彼は霊魂たちを聖性へと動かすか、それとも破滅へと動かすかの何れかである。相応しくない行動によって彼の天職を汚す司祭、あるいは聖別され主によって選ばれた者(ヨハネ15:16)としての彼の地位を放棄することによって敢えてそれを踏みにじろうとする司祭は何という計り知れない破滅をもたらさないことがあろうか!

聖ヨハネ・ヴィアンネの列聖のための教会法上の手続きにおいて、その聖なる司祭が、「彼らの天職の聖性に相応しない司祭たちの破滅について考えたときに、多くの涙を流した」ということが書かれている。ピエトレルチーナのパードレ・ピオは相応しくないそして不忠実な司祭たちの罪のためにイエズスが苦しまれた恐るべき苦痛の悲痛な幻視を記述した。

われわれは天使的なカルメル会修道女、リジューの聖テレジアが、その天職を放棄した一人の迷える司祭の立ち帰りを得る - というこの崇高な意向のために彼女が死ぬ直前に彼女の最後の聖体拝領をしたということを知っている。そしてわれわれはこの司祭がイエズスを呼び求めながら痛悔して死んだということを知っている。

われわれは、自分自身を司祭たちのために神に対して犠牲とされるべき生け贄として捧げた霊魂、特に清純な霊魂が稀であるということを知っている。これらの霊魂は一つのまったく非凡な仕方でイエズスによって目をかけられるのである。しかし、また、司祭たちのために、危機にある司祭たちのために、そしてより堅固にそして安全に立っている司祭たちのために、迷っている司祭たちのために、そして完徳において進歩している司祭たちのために、祈ろう。

そして特に、祭壇で司祭を見るときにはいつも、尊者チャールズ・ジアシントの言葉で聖母にもまた祈ろう:「おお、愛する聖母よ、彼が相応しくミサを捧げることができますようにあの司祭にあなたの御心をお与えください。」しかしもっと善いことは、むしろあらゆる司祭が聖ガエタノを模倣することができるように祈ろう:彼は彼自身をそのように密接にいとも聖なるマリアに結びつけることによってミサ聖祭を捧げるための準備をするのを常としていた。彼についてはこう言われていた:「彼はあたかも彼が聖母であるかのように、ミサを捧げた」と。そして実際、聖母がベトレヘムで彼女の腕の中へイエズスを歓迎なさったように、同じように司祭はミサ聖祭において彼の両手の中にイエズスを受け取るのである。聖母がイエズスをカルワリオにおいて生け贄としてお捧げになったように、同じように司祭は祭壇の上で犠牲にされる神の小羊を捧げるのである。聖母がイエズスを人類にお与えになったように、同じように司祭は聖体拝領においてイエズスをわれわれに与えるのである。このように聖ボナヴェントゥラは、祭壇における司祭はみな聖母と同一視されるべきであると正当に宣言する。なぜなら、このいとも聖なる御体がわれわれに与えられたのは聖母によってであったので、そのようにまた司祭の手によって聖なる御体は捧げられなければならないからである。そしてアッシジの聖フランシスコは、マリアの御胎内における御言葉の受肉と司祭の手における御聖体の聖別との間に密接な近さがあるということを考慮に入れるならば、すべての司祭たちにとって聖母は彼らの聖性の鏡を表していると言った。

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その方からイエズスが生まれ給うたマリア(マテオ1:16)。

第6章 われらの天の御母がわれわれにお与えになるパン

御聖体はわれらの天の御母から来られるパンである。それはマリアの汚れなき肉の小麦粉からマリアによって作られ、彼女の処女の乳をもって練り粉へとこねられたパンである。聖アウグスティヌスはこう書いた:「イエズスは彼の肉をマリアの肉から取られた。」

われわれはまた、御聖体における神性に結合されて、そこには祝せられたおとめの体と血から取られたイエズスの御体と御血があるということを知っている。それゆえに、われわれが受けるあらゆる御聖体拝領ではホスチアにおけるイエズスと分かち難く結びつけられたわれらの聖なる御母の甘美で神秘的な現存に注目することはまったく正しいことであり、そして非常に美しいことであろう。イエズスは常に聖母が礼拝なさる御子である。イエズスは聖母の肉の御肉であり、聖母の血の御血である。もしアダムがエヴァを、彼女が彼の肋骨から取られたとき「私の骨の骨、私の肉の肉」(創世記2:23)と呼ぶことができたとするならば、聖なるおとめマリアはイエズスを「私の肉の御肉、私の血の御血」と、よりいっそう正しくさえ呼ぶことができないか? 聖トマス・アクィナスが言っているように、「無傷のおとめ」から取られて、イエズスの御肉はマリアの母方の肉であり、イエズスの御血はマリアの母方の御血である。それゆえにイエズスをマリアから分離することは決してできないであろう。

この理由で、捧げられるあらゆるミサ聖祭で祝せられたおとめはホスチアとカリスにおけるイエズスに対して真理をもって「あなたは私の御子、今日私はあなたを生んだ」(詩編2:7)と繰り返すことがお出来になる。そして聖アウグスティヌスはわれわれに、御聖体において「マリアは彼女の神的母性を拡張しそして永続化なさる」と正しく教えている。一方大聖アルベルトゥスは愛をもってこう勧めている:「わが魂よ、もしお前がマリアとの深い関係を経験することを望むならば、あなた自身を彼女の両腕の間に運ばしめ、彼女の血で栄養を取らしめよ」...この言葉で言い表せない純潔な考えをもって神の祝宴に行きなさい、そうすればあなたは御子の御血の中に御母の栄養を見出すであろう。

多くの聖人たちそして神学者たち(聖ペトロ・ダミアノ、聖ベルナルド、聖ボナヴェントゥラ、聖ベルナディン...)はイエズスが御聖体をとりわけマリアのために、そして次ぎにすべての聖寵の普遍的仲介者たるマリアを通して、われわれすべてのために、制定なさったと言っている。そしてそれゆえにマリアからイエズスは日々われわれに与えられるために来られるのである。そしてイエズスのうちには、われわれの心の中へと浸透し、われわれの霊魂を酔わせるイエズスのいとも聖なる御母の汚れなき肉と処女の血が常に存在するのである。ミサ聖祭を捧げている間の恍惚状態において、ロヨラの聖イグナチオはある日この最も甘美な真理によって明らかにされた実在を観想し、そして長い間天上的な仕方で感動させられたままにとどまった。

さらに、もしわれわれがマリアの汚れなき御胎の身たるイエズスは、マリアの愛のすべて、彼女の甘美さのすべて、彼女の優しさのすべて、彼女の豊かさ全体、彼女の生涯全体を構成しているということを熟考するならば、そのときわれわれは、われわれがイエズスを受けるときまた、最高の愛の絆によって、並びに肉と血の絆によって、彼女が常にそして分かち難く「彼女の愛する者に寄りかかっている」(雅歌8:5)ように、イエズスと共に一つの統一、一つの全体を形成している彼女を必ず受けることになるということを見るのである。愛が、そしてとりわけ神的愛が結びつけ、一体化するということは真ではないか? そして祝せられた三位一体のふところにおける一致は別として、われわれはイエズスとおとめマリアとの間の一致よりもより密接で全体的な一致について考えることができるか?

マリアの清浄、彼女の処女性、彼女の優しいやり方、彼女の甘美な態度、彼女の愛、そして彼女の天上的な顔のまさに諸特徴さえ - これらすべてのものをわれわれはイエズスのうちに見出す。なぜなら、御言葉によって引き受けられたいとも聖なる人性は、マリアを霊魂と身体において永遠に汚れないそして栄光に満ちているであろう処女として聖別する一方で、マリアをイエズスの御母とされた聖霊によって達成された処女懐胎の偉大な神秘という理由で、全体的にそしてただただマリアの人性だけであるからである。

大聖アルベルトゥスはこう書いている:そしてこのように「御聖体は天使的である愛の衝動を産み出す。そして御聖体は天使たちの元后に対する優しさの聖なる感情を霊魂たちの中へ注ぎ入れる独特の力を持っている。彼女はわれわれに彼女の肉の肉、そして彼女の血の血をお与えになった。そして御聖体において彼女はわれわれにこの甘美で、清純で、天上的な食事を与え続けておられるのである。」

最後に、三位一体のふところにおける御言葉の永遠の産出において、御父は御自身を御父の鏡であられる御子に完全にお与えになる。同じように人性のふところにおける同じ御言葉の時間的産出において神の御母は「おとめなる御母の清純な花」(ピオ十二世)たる御子、彼女のイエズスに彼女自身を完全にお与えになる。そして御子は今度は御自身を彼女に似たものとし、彼女を「完全に神に似たもの」(聖ペトロ・ダミアノ)としながら、御自身を完全に御母にお与えになるのである。

そのようにまったく御聖体に献身した聖人である聖ピーター・ジュリアン・エイマードは、この世においてさえ、イエズスの天への御昇天の後に、祝せられたおとめは「祝せられた秘蹟における、そして祝せられた秘蹟による生活を送られた」と宣言した。そしてこのように、彼は彼女を「祝せられた秘蹟の聖母」と呼ぶことを好んだ。そしてピエトレルチーナのパードレ・ピオはときどき彼の霊的子どもたちにこう言うのであった:「あなたは常に聖櫃の側におられる聖母を見ないのですか?」そして彼女 - カルワリオで「イエズスの十字架のかたわらに立たれた」(ヨハネ19:25)彼女 - がどのようにしてそこにいないことがあり得ようか? それゆえに、聖アルフォンソ・リグオリは彼の信心書の中で、御聖体におけるイエズスへの訪問の度毎に祝せられたおとめマリアへの訪問を常に加えるのを常としたのである。そして聖マキシミリアノ・M.コルベは、われわれが祝せられた秘蹟におけるイエズスの前に行くときには、少なくとも彼女の甘美な名前が精神にのぼることに注意を払いながら、彼女に呼びかけ、彼女と結びつきながら、マリアの現存を思い起こさないことがないようにと、勧めるのを常とした。

ドミニコ会の修道士、聖ヒヤシントの生涯のうちに、われわれは、かつて祝せられた秘蹟の神聖冒涜を避けるために、聖人が聖なるホスチアを容れたチボリウムを、より安全な場所に置くために、取り出そうと聖櫃へ急いだ、ということを読む。彼の胸の近くに御聖体におけるイエズスをしっかりと抱きしめて、彼がまさに祭壇を離れようとしたとき、彼は祭壇の隣りにあった祝せられたおとめの像から、「何ですって? あなたは私を連れて行かずにイエズスを連れ去ろうとしているのですか?」と言っておられる声を聴いた。聖人は驚いて立ち止まった。彼はそのメッセージを理解した。しかし彼はどのようにマリア像をも抱えて行くことができるか知らなかった。困惑して、彼はもう一方の自由な手でそれを持って行くことができるかどうかを見るためにその像に近づいた。彼自身[の身体]を痛める必要はなかった。なぜなら御像は羽のように軽くなったからである。この奇蹟には一つの貴重な教訓があある:すなわち、われわれがイエズスと一緒にマリアをお連れするとき、彼女はいかなる重さあるいは出費をも絶対に加えない。なぜなら、一つのすばらしい仕方で彼らはお互いのうちにとどまる(ヨハネ6:57)からである。

ある人が聖ベルナデット・スービルーに次のような落とし穴のある質問をしたときに彼女が与えた答は非常に美しかった:「御聖体を受けること、あるいはグロット[洞窟]の中で聖母を見ること、何があなたをより喜ばせますか?」その小さな聖人はしばらくの間考えた、そしてそれからこう答えた:「何と奇妙な質問でしょう!二つのことは分けることができません。イエズスとマリアはいつも一緒に行かれます。」

聖母と聖なる御聖体は事柄の本性上「世の終わりまでさえ」(マテオ28:20)分かち難く結びついている。なぜなら身体と霊魂をもったマリアは天上の「神の幕屋」(黙示録21:3)だからである。彼女は「聖なるもの、汚れなきもの」(エフェゾ5:27)である不滅のホスチアであり、まさに御自身そのものと共に、人とされた神の御言葉を纏っておられる。聖ジェルマンは敢えて彼女を「神の甘美な天国」と呼んだ。聖ヴェロニカ・ジュリアーニの恍惚状態と幻視、そして特に福者マグダレン・マルティネンゴの恍惚状態と幻視によって支持された敬虔な意見に従えば、天国における祝せられたおとめは彼女の胸の内部にイエズスを一つの目に見えるホスチアにおいて保っておられ、また常に保たれるであろう。そしてこれは彼女の「永遠の慰めのためであり、天国のすべての祝せられた住人たちのための喜びの機会である。そして特に祝せられた秘蹟のすべての熱愛者たちにとって永続的な喜びである。」このことはマザー・スペランツァが最近描き、コッレヴァレンツァの聖堂の中に置かれている「普遍的仲介者たる聖母」のうちに表されている。それは前世紀の顕示台(礼拝のために御聖体を顕示する聖なるスタンド)においてしばしば再現されたイメージと同じである。それは聖母を表し、その中に聖別されたホスチアが置かれる見得る穴のために聖母の胸に一つの場所を作っている。「ある女、群衆のうちより声をあげて、幸いなるかな、汝を宿しし胎よ、と言えり」(ルカ11:27)。このようにフランスの教会のあるものにおいては、聖櫃は被昇天の聖母像の中に入れられるのを常とした。その意味はまったく明白である:すなわち、われわれに彼女の処女の胎の祝せられた実であり彼女の汚れなき御心の聖心であられるイエズスをお与えになるのは常に祝せられたおとめマリアである。そしてマリアはイエズスを天国にいる聖人たちの喜びに満ちた観想のために示すように彼女の胸の内部に御聖体におけるイエズスを永遠に運び続けられるであろう。それは、天使的博士、聖トマス・アクィナスの教えに従えば、聖人たちには今でさえイエズスの神的ペルソナを御聖体の形色のうちに見るために与えられている。

聖母とのわれわれの一致が彼女との一つの完全なそして愛すべき適合となるのは御聖体において、そして特に聖体拝領においてである。われわれは祝せられた秘蹟と一緒に彼女の献身的な配慮と保護を受ける。彼女の優しい注意は、キリストが、彼女をわれわれの霊魂と身体の上に彼女のすべての母親としての愛を注ぐように動かしながら、彼女の子どもたちであるわれわれの一人ひとりに結びつかれるとき、何一つ見逃されない。教父そして教会博士である偉大な聖ヒラリウスは次のような優れた一節を書いた:「われわれがマリアに与えることができる最も大きな喜びはわれわれの胸の内部に祝せられた秘蹟におけるイエズスを持つという喜びである。」彼女の母親としてのイエズスとの一致はまた、誰であれ、特に聖体拝領においてイエズスに結びつけられる人との一致となる。そして愛される人との一致と同じ喜びを愛する人に与えることができるものは何であるか? - われわれはたまたま天上の御母の愛する子どもたちであるのではないか?

われわれが祭壇上におられるイエズスの前に行くとき、われわれは常に、博士たちがベトレヘムでそうしたように、「その母マリアとともに」(マテオ2:1)おられるイエズスを見出す。そして聖なるホスチアのうちにおられるイエズスはわれわれの心の祭壇から、われわれ一人ひとりに、彼がカルワリオの祭壇から福音記者聖ヨハネに言われたこと:「これ汝の母なり」(ヨハネ19:27)を繰り返すことがお出来になるのである。

聖アウグスティヌスは、マリアがどのように彼女御自身をわれわれ自身のものとなさり、そして聖体拝領において彼女御自身をわれわれ一人ひとりに結びつけられるのかを、いっそうよく美しく描写している。彼はこう言う:「御言葉は天使たちのパンである。人間たちは御言葉を食する力を持っていないし、また彼らはそうする必要はない。必要とされるものはこの超実体的なパンを食し、それを彼女の乳へと変形し、そしてこのようにして彼女の哀れな子どもたちに食べさせる一人の母親である。この母親がマリアである。彼女は御言葉をもって彼女御自身を養われ、そして御言葉を聖なる人性へと変形なさる。彼女は御言葉を御肉と御血へと、すなわち、御聖体と呼ばれているこの最も甘美なミルクへと変形なさるのである。」

大きなマリア聖堂並びにより小さなマリア聖堂が常に御聖体に対する信心を助長しており、そのようにしてそれらの聖堂はまた御聖体の聖堂とも呼ばれ得る。ルルド、ファチマ、ロレット、ポンペイなどが頭に浮かぶが、そこではマリアの祝せられた実[御聖体]を受けるために群衆がほとんど無限の列をなして祭壇へ近づくのである。それはそれ以外ではあり得ない。なぜなら、人が御聖体を拝領するときに実現したほどに聖母とのそのように密接で甘美な結びつきは存在しないからである。イエズスとマリアは、聖ベルナデットが言ったように、「常に一緒に進まれる」のである。

ファチマで聖母が、聖なるロザリオと共に、聖母の汚れなき御心がお受けになるすべての罪と侮辱のための償いの聖体拝領がとりわけなければならないとお求めになったということもまた思い起こしてください。彼女は、福音記者聖ヨハネがそうした(ヨハネ19:27)と同じように、彼らの家の中へ彼女を歓迎することによって彼女を慰めたいと望む愛すべき心の持ち主を求めておられます。われわれは、聖体拝領においてイエズスをわれわれが受けることによって彼女の同伴を求める度毎に、われわれが彼女の大きな慰めと喜びのために生ける真のイエズスを彼女に捧げるとき、最も温かい歓待をもってわれわれの心の家の中へ彼女を誠実に歓迎するのである。われわれは、イエズスに対するそしてイエズスへの聖母の十分な配慮と注意を持つことがいかに大きな恵みであるかを正しく評価する必要がある。ああ、聖アンブロシウスはすべてのキリスト教徒が「主をほめたたえるマリアの魂と神にあって歓喜するマリアの精神」を持つことを望んだのだ!これはあらゆる聖体拝領において最も高貴な仕方でわれわれに与えられる好意である。愛と感謝をもってそのことを熟考しよう。

その胸に御聖体を抱いているマリアの姿に作られた古い聖体顕示台の一つはその基礎の部分に刻印された次の言葉を持っている:「生命のパンを受けるために信仰に満たされてやって来るキリスト教徒よ、それを相応しく食べなさい。そしてそれがマリアの清い血から作られたものであることを思い起こしなさい。」マリアはまったく正当に、霊感に満たされた預言者の次の言葉においてわれわれに手招きをされ、われわれに話しかけておられるのである:「私のパンを食べにきて、私の調えたぶどう酒を飲みなさい。」(格言の書9:5)聖マキシミリアノ・M.コルベは、祝せられた秘蹟のすべての祭壇が汚れなきおとめ自身が作られたパンを食べに来るようにわれわれすべてを招くためにその両腕を広げておられる汚れなきおとめの像が載せられることを提案したとき、この節の考えを伝えることを望んだのであった。

トゥールの聖グレゴリオは美しい比喩的表現をもって、マリアの汚れなき胸は彼女の子どもたちに食べさせるために作られた生命のパンがよく蓄えられた天上の食料庫である、と言った。「幸いなるかな、汝を宿しし胎よ、汝の吸いし乳房よ」(ルカ11:27)とある女はイエズスに声をあげた。汚れなきおとめはイエズスの体が彼女自身の肉と彼女自身の血から形成される間、イエズスを彼女の内部に持っておられた。このようにわれわれが聖体拝領に行く度毎に思い起こすべき甘美なある事柄は祝せられた秘蹟におけるイエズスがマリアの処女の乳と混ぜられてこねられた彼女の汚れなき肉の小麦粉でもってマリアから作られた生命のパンである、ということである。彼女はこれを彼女の子どもたちであるわれわれのために作られたのであった。そしてわれわれすべてが、われわれの御母のこの味のよい、この上なくすぐれたパンを食するとき、われわれ相互の兄弟愛をより十分に理解するのである。

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「彼ら…平伏してこれを拝し...」(マテオ2:11)

第7章 祝せられた秘蹟の前での祈り

聖体拝領

準備

信仰

私の主イエズス・キリスト、私の全霊魂をもって私はあなたが祭壇の秘蹟のうちに真に現存されていることを信じます。私はそれを信じます。なぜならあなた - 私が至高の真理として礼拝するあなた - がそれを言われたからです。聖なるホスチアのうちにおられるあなたに向かって、私は聖ペトロと共に宣言します:あなたはキリスト、生ける神の御子です、と。

礼拝

私はあなたを礼拝し、あなたを私の創造主、主、救世主、そして私の至高のもの、唯一の善として認めます。

希望

おお、主よ、私はあなたがこの神的な秘蹟においてあなた御自身を完全に私にお与えになったように、あなたが御憐れみを垂れ、もっと容易に天国を獲得するために私が必要としている諸々の聖寵を私にお与えくださることを希望します。

おお、主よ、私はすべての事柄よりもまずあなたを私の全心を込めて愛します。なぜなら、あなたは私の無限に愛すべき神であられるからです。今まであなたを余りにも僅かしか愛さなかったことに対して私をお赦しください。私はセラフィムの熱心とあなたの御母かつ私の御母である汚れなきマリアの御心をもってあなたを愛したく思います。

おお、イエズスよ、あなたのために私は私自身と同じように私の隣人を愛することを望みます。

謙遜

おお、主よ、私はあなたをお受けするに相応しくありません。しかしただ一言を言ってください。そうすれば私の心は癒されます。

悲しみ

あなたに近づく前に、おお、イエズスよ、私はもう一度私の諸々の罪の赦しをあなたにお願いします。あなたは私のために亡くなられるほどに多く私を愛してくださいました。そして私はそのように悪しく、数え切れないほど何回もあなたに背きました。私を憐れんでください!私を赦してください!あなたの恵みによって罪のあらゆる最も小さい汚れをも拭い去ってください。私はあなたを相応しく受けることができるよう、天使的な清純さをもってあなたに近づきたいと望みます。

望み

私の神よ、あなたがそれを聖としてくださるように私の霊魂の中へ来てください。私の神よ、それを清めてくださるように私の心の中へ来てください。私の神よ、それを保つために、そして私があなたの愛から決して離れないように、私の体の中へお入りください。

あなたの現存に相応しくない、そしてあなたの恩寵とあなたの愛を妨げ得るとあなたが御覧になる私のうちにあるすべてのものを滅ぼしてください。

(数分間の間はイエズスがあなたの内部におられるであろうということを思い起こしなさい。これはあなたのその日のうちで最も美しく偉大な瞬間である。

よく準備がされているようにしなさい。イエズスに対する愛と望みにおいて熱烈な心をイエズスに捧げなさい。あなたがそのように大きな恩顧に値しないということを十分に意識しなさい。そして大罪で汚れたあなたの霊魂をもって聖体拝領に行ってはならない。

あなたの聖体拝領がミサ聖祭の間になされるように努力しなさい。しかしもしこのことが不可能であるならば、あなたがイエズスを受けることなくその日を過ごすことがないように、先へ進んでミサ以外で御聖体を受けなさい。

熱烈な聖体拝領は1)あなたのうちに成聖の恩寵を保ちそして増大させる、2)小罪を取り去る、3)大罪に陥ることからあなたを守る、4)愛徳と永遠の生命の希望の増大をもってあなたに慰めと満足をもたらす、ということを思い起こしなさい。)

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感謝

(イエズスは今あなたと共におられるので、あなたは生ける聖櫃となったのである。落ち着きを保ち、あなたの主を礼拝しなさい。主を所有することにおけるあなたの喜びの十分さを主に表明しなさい。あなたの心を主に開き、大きな信頼をもって主に話しなさい。)

祈り

おお、イエズスよ、私はあなたの無限の愛の現存のうちに深く感動している自分自身を見出します。私はどのようにあなたに感謝していることでしょう!私は次のように繰り返す以外に他の何かをどうすればよいかを知りません。おお、イエズスよ、あなたに感謝!あなたの贈り物のお返しに、おお、主よ、あなたのために私は何をしましょうか?

私はあなたの甘美な声が私にこう繰り返されるのを聞きます:「わが子よ、私にあなたの心を与えよ」(格言23:26)はい、主よ、私はあなたに私の心と私の霊魂を捧げます。私はあなたに私の全生涯を捧げます。私は永遠にあなたに完全に所属したいと願います。

十字架にかけられたイエズスに

ご覧ください、おお、善きそしていとも甘美なるイエズスよ、私はあなたの見えるところで、そして私の霊魂の最も熱烈な望みをもって、跪きます。私はあなたが、私の諸々の罪に対する真の痛悔と改善の堅固な目的をもって、信仰、希望そして愛の生き生きした心情を私の心に刻印してくださることをあなたに祈りかつ嘆願します。その上、私の善きイエズスよ、私の目の前に預言者ダヴィドがあなたについて話したこと:すなわち、「彼らは私の両手と両足を刺し貫いた、彼らは私のすべての骨を数えた」ということを思い浮かべながら、深い愛情と霊魂の悲しみをもって私はあなたの五つのいとも貴重な傷について私自身の内部で熟考しそして精神的に観想します。(主祷文、天使祝詞)

祈願

キリストの霊魂よ、私を聖としてください。キリストの体よ、私を救ってください。キリストの御血よ、私を酔わせてください。キリストの御脇腹からの水よ、私を清めてください。キリストの御受難よ、私を強めてください。おお、善きイエズスよ、私に耳を傾けてください。あなたの傷の内部に私を保護してください。あなたから分離されることを私に許さないでください。邪悪な敵から私を守ってください。私の死の時に私を呼び、あなたの聖人たちと共に私が永遠にあなたを讃美することができますようにあなたのところに来るよう私に命じてください。アーメン。

聖ボナヴェントゥラの祈り

おお、いとも甘美なる主イエズス・キリストよ、私の霊魂が永遠にあなたを切望し、あなたに対する愛と憧れで溶けるように、私の霊魂があなたを慕い、あなたの求愛に気絶するように、そして溶かされてあなたと共にいることを望むように、真の、穏やかなそして最も使徒的な愛をもってあなたの愛のいとも喜ばしくいとも健康によい御傷で私の最も内奥の魂を貫いてください。私の霊魂が、あらゆる甘さと香りそしてあらゆる味の喜びを持っている天使たちのパン、聖なる霊魂たちの飲食物、われわれの日々の、そして超実体的なパンであるあなたをいつも渇望しますように。私の心に天使たちが眺めることを望んでいるあなたを渇望させあなたを味わうようにさせてください。そして私の最も内奥の霊魂があなたの味の甘さで満たされますように。私の霊魂が、生命の泉、知恵と知識の泉、永遠の光の泉、喜びの奔流、神の家の豊かさであるあなたをいつも渇き求めますように。私の霊魂がいつもあなたを巡り、あなたを探し、あなたを見出し、あなたのところに走り寄り、あなたに到達し、あなたを黙想し、あなたについて話し、謙遜と慎重さをもって、愛と喜びをもって、準備と愛情をもって、最後までの忍耐をもって、あなたの聖なる御名の賞賛と栄光とになるようにすべての事柄をしますように。ただあなた御一人だけがいつも、私の希望と私の全信頼、私の富、私の喜び、私の快楽と私の喜び、私の休息と静謐、私の平和、私の甘美さと私の芳香、私の甘い香り、私の食物と清涼剤、私の避難所と私の助け、私の知恵、私の相続分、私の所有と私の財産であってください。私の精神と私の心があなたのうちに永遠に固定され、堅固であり、そして確固として根づいていますように。アーメン。

聖トマス・アクィナスの祈り

おお、聖なる主、全能の御父、永遠の神よ、私はあなたに感謝します。あなたは、私のいかなる功績を通じてでもなく、あなたの大きな憐れみの謙遜から、罪人であり、あなたに相応しくないあなたの召使である私を養うために、あなたの御子われらの主イエズス・キリストの貴重な御体と御血を与えてくださいました。私はこの聖体拝領が私にとって罰への宣告ではなくて、赦しへの救いの嘆願であるよう祈ります。この聖体拝領が私への信仰の甲冑であり、善い目的の楯でありますように。この聖体拝領が私の悪徳の除去、そしてすべての欲望と快楽の根絶、愛徳と忍耐の増加、謙遜と従順の増加、そしてすべての徳の増加を引き起こしますように。この聖体拝領が私にとって、見える敵も見えない敵も私のすべての敵の罠に対する強い防御、肉体的および霊的両方のすべての私の悪しき衝動を完全に静めるものでありますように。この聖体拝領が私を唯一の真の神であられるあなたにしっかりと固着させますように。そしてこの聖体拝領が私の死を聖なるもの、幸いなるものとしますように。そして私は、そこにおいてあなたがあなたの御子とあなたの聖霊と共に、あなたの聖人たちにとって真の光、内容の十全さ、永遠の喜び、混ぜ物のない喜びそして完全な幸福であるあの言葉で言い表せない祝宴に罪人である私をもたらしてくださいますように、あなたに祈り求めます。私はこのことをわれらの主である同じキリストを通じて願います。アーメン。

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マリアと共に聖体拝領
(天使祝詞に関する黙想)

準備

めでたし、マリア

善き御母よ、私はあなたに御挨拶を送ります。イエズスを礼拝するためにあなたに結びつくことを私にお許しください。あなたの愛情、あなたの情感を私にお与えください。さらに実際私のためにイエズスを礼拝することをあなたに願い求めます。めでたし、おお、おとめマリアからお生まれになったイエズスの真の御体よ!私はあなたを信じ、あなたを礼拝します。

聖寵満ち満てるお方

マリアよ、あなたは全く聖なる神を受けるに相応しい方でした。なぜなら、あなたはあなたの生涯の最初から聖寵に満ちておられたからです。しかし私は貧しく罪深い者です。私の悪しき行いは聖体拝領に行くことを私には不適なものとします。おお、私の御母よ、あなたの功績をもって私を覆ってください。そして私をイエズスへと導いてください。

主御身と共にまします

おお、いとも聖なるおとめよ、主はあなたと共におられます。あなたの熱烈な願望によってあなたは主を天からあなたの心の中へと引きおろされました。私の心の中にもまたイエズスに対する熱烈な願望と飽くことを知らない飢えを注ぎ入れてください。その結果私は真にこう言うことができます:「おお、私のイエズスよ、私は、あなたの御母にして私の御母であるマリアの心をもってあなたを切望します。」

御身は女のうちにて祝せられ

おお、罪を犯すことから来る後悔を決して知られなかったマリアよ、あなたは祝福せられています。なぜなら、あなたはあらゆる種類の罪と不完全さから自由であられたからです。しかし私は私が罪を犯したことを知っています。そして私は私が十分に悲しんだという確信がありません。私の諸々の罪の悪と私が背いた神の善性とを私に理解させてください。私は私の諸々の罪のために涙を流します。このように後悔している私をあなたのイエズスに示してください。

御胎内の御子も祝せられられ給う

ああ、善き御母よ!われわれにわれらの主イエズスをお与えになることにおいてあなたは何と大きな賜物をわれわれにお与えになったことでしょう!そして御覧ください、イエズスは私をあなたの御心の特に愛する子どもにするために私のところへ来たいと望んでおられます。私は信頼をもってイエズスを受けに行きます。そして私はイエズスに申し上げます:「私のイエズスよ、私はあなたに私自身を引き渡します。あなたに忠実に仕えるための力と天国においてあなたの御母と共に永遠にあなたを楽しむ希望を私に与えに来てください。」

イエズス

おお、御母よ、あなたがイエズスと共に生活なさったとき、あなたがイエズスの名を呼ばれたときに経験なさった心情を私が経験することを叶えてください。私は今イエズスを受けようとしています。イエズスにこう言うことができるようにさせてください。「おお、私のイエズスよ、来てください。あなたは地上であなたの御母から得られたのと同じ歓迎を私のうちに見出すでしょう。私はマリアの執り成しを通じてあなたが私を天国へと歓迎してくださることを望みます。」

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感謝

神の御母聖マリア

おお、私の御母よ、私のイエズスと私が結合されていることは何と幸せなことでしょう!しかし私の主が私のところに来てくださるだけのどれほどの価値が私にあるでしょうか? おお、聖にして汚れなきマリアよ、私のために相応しい感謝をイエズスに捧げてください。

おお、私が今私の内部において歓迎するイエズスの心臓の鼓動を最初から感じておられたあなた、すべての聖人たちが一緒にイエズスを愛した以上にイエズスを愛されたあなた、そしてあなたが地上におられたとき彼のためにだけ生きられたあなたよ、私が今あなたの心情とあなたの愛を分かち持つようにさせてください。

そして、おお、イエズスよ、あなたはあなたの御母の愛を、あたかもそれが私自身のものであるかのように受け入れられ、そして私がまたあなたに私のすべての心をこめて「私はあなたを愛します」と言っている間私に優しい一瞥を拒否なさいません。

罪人なるわれらのために祈り給え

おお、マリアよ、私のために祈ってください。この時にあなたの祈りを私の祈りに結びつけてください。そして私にすべての恩寵を与える用意をなさってイエズスが私の心の中へ来られましたので、私はとりわけ罪によってイエズスから私自身を決して分離しないようにイエズスに願いたいと思います。おお、マリアよ、悪から私を守ってください。そして誘惑のときに私の避難所となってください。

今も

愛する御母よ、当分そして今から、私は私の霊魂にとって有益であるすべての恩寵を乞い願います。私のためにこの親切 - 私が善良さと従順の徳で纏われ、私の生活が汚れのないものであるという親切 - を得させてください。

臨終のときも

おお、イエズスよ、今からの私の祈りは、私が臨終のときに相応しくあなたを受けますように、そして私の臨終が聖なるものでありますように、ということです。私は死を、あなたが私にお送りになるとき、そしてお送りになる仕方で、受け入れます - 私は十字架の上で果たされたあなたの犠牲に一致してその死を歓迎します。私は、神の栄光のため、私の救いのためそして諸々の霊魂の救いのために、神の御意志に私自身を服従させるためにその死を受け入れます。

おお、悲嘆にくれておられるおとめよ、あなたがイエズスの最後の苦しみにおいてイエズスを助けられたように私をお助けください。

「アーメン」

「そのようでありますように」。おお、イエズスよ、私の青春時代の間も私の生涯を通じてもあらゆる瞬間に私が繰り返したい言葉がここにあります。あなたの御旨がいつも行われますように。そしてあなたが用意なさるすべては私にとって最善のものです。そしてこれからは私はそれを受け入れ、そしてあなたに感謝を捧げます。アーメン。

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御聖体の前で

聖体訪問

人々に対してあなたが抱いておられる愛のゆえに、同情と愛に満たされて、あなたを訪問しに来るすべての人を待ち、呼びそして歓迎しながら、日夜この秘蹟のうちにとどまり給うわが主イエズス・キリストよ、私はあなたが今祭壇の秘蹟のうちに現存しておられることを信じます。私は私の無の深淵からあなたを礼拝します。そして私はあなたが私にお与えになったすべての恵み、特にこの秘蹟においてあなた御自身をお与えになったことに対して、私の代弁者としていとも聖なる御母マリアを私にお与えになったことに対して、そしてこの教会においてあなたを訪問するために私をお呼びになったことに対して、あなたに感謝します。

私は今日あなたのいとも愛すべき御心に崇敬を捧げます。そしてこれは三つの目的のためです:すなわち、第一に、この大きな賜物に対する感謝において、第二に、この秘蹟においてあなたがあなたのすべての敵からお受けになったすべての侮辱に対する償いをするため、第三に、私はこの訪問によって、この秘蹟のうちにあなたが現存しておられ、そしてあなたが最も尊敬されず、大抵は見捨てられておられる地球上のすべての場所であなたを礼拝します。

私のイエズスよ、私は全心を込めてあなたを愛します。私は過去にあなたの無限の善性をしばしば不快にさせたことを痛悔します。私はあなたの恩寵の助けをもって将来そして今再びあなたに背かないように決心します。私は哀れな罪人ですが、あなたにまったく身を捧げます。私は私のすべての意志、私の愛情、私の望みそして私に属するすべてのものを断念し、あなたに引き渡します。今日から先、あなたが私を喜んでくださるものは何であれそして私に属するものをなさってください。私はあなたの聖なる愛、最終的な忍耐、そしてあなたの御旨の完全な実現をあなたから求め望みます。

私は煉獄にいる霊魂たち、特にいとも祝せられた秘蹟と祝せられたおとめマリアに最も献身的であった霊魂たちをあなたに委ねます。私はまたすべての哀れな罪人たちをあなたに委ねます。

おお、私の愛する救世主よ、私はあなたのいとも愛すべき御心の愛情に私のすべての愛情を結びつけます。そしてこのように結びつけられて、私はそれらをあなたの永遠の御父に捧げます。そして私はあなたの御名において、あなたの愛のために御父がそれらを受け入れ心を留めてくださるよう乞い願います。アーメン。

霊的聖体拝領

私のイエズスよ、私はあなたがいとも祝せられた秘蹟のうちに実際に現存しておられることを信じます。私はすべてのものに越えてあなたを愛します。そして私は私の霊魂の内部にあなたを所有することを望みます。私は今あなたを秘蹟として受けることができませんので、少なくとも霊的に私の心の中へ来てください。

(短い休止を作りなさい。そしてその間あなた自身をイエズスに結びつけなさい。)

私はあなたをすでにそこにおられる方として抱擁し、私自身をすべてあなたに結びつけます。あなたから分離されることを決して、決して私に許さないでください。アーメン。

祝せられたおとめマリア訪問

おお、いとも聖なる、汚れなきおとめ、そして私の御母マリアよ、私の主の御母、世界の元后、罪人たちの代弁者、希望、避難所であられるあなたに、すべての罪人たちのうちで最も惨めなものである私は今日あなたにより頼みます。おお、偉大な元后よ、私はあなたに敬意を払います。そして私は今まであなたが私にお与えになったすべての恵みに対して、特に、私がそのようにしばしばそれに値した地獄から私を解放してくださったことに対してあなたに感謝します。おお、いとも愛すべき婦人よ、私はあなたを愛します。そして私があなたに抱いている愛のゆえに、私は常にあなたに仕え、他の人々によってあなたが愛されるために私にできるすべてのことをすることを約束します。私はあなたのうちに私のすべての希望を置きます。私は私の救いをあなたの配慮に委ねます。あなたの召使いとして私を受け入れてください。そしておお、憐れみの御母よ、あなたのマントの下に私を保護してください。そしてあなたは神に対してそのように力を持っておられますから、すべての誘惑から私を自由にしてください。あるいは私のために私の死の時までそれらに勝利する力を得させてください。

あなたから私はイエズス・キリストの完全な愛を求めます。あなたから私はよき死を死ぬことを希望します。おお、マリア、私の御母よ、あなたが神に対して持っておられる愛のために、しかし特に私の生涯の最後の瞬間に、常に私を助けてくださるよう、懇願します。永遠にわたってあなたを祝福しあなたの憐れみを歌いながら、天国において私が安全であるとあなたが御覧になるまで、私を離れないでください、と私は嘆願します。アーメン。そのように私は希望します。そうでありますように。 - 聖アルフォンソ・リグオリ

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附録 ランチアーノの御聖体の奇蹟

フレンタネーゼの都市、古代のアンクサーヌムは十二世紀間以上にもわたってカトリック教会の最初のそして最も偉大な御聖体の奇蹟を保ってきた。この驚くべき出来事は御聖体におけるイエズスの真の現存についての一人のバジリウス会修道僧に対する神的な応答として、八世紀に聖レゴンティアンの小さな教会において起こった。

ミサ聖祭の間に、二回の聖別の後、ホスチアは生きた御肉にそしてぶどう酒は生きた御血に変えられた。御血は形と大きさの異なるまちまちの五つの小球体に凝固させられた。

ホスチア-御肉は、今日非常にはっきりと観察され得るように、ラテン教会において今日用いられている大きなホスチアと同じ大きさを持っている。それはうす茶色であり、背後から光を当てられるときバラ色に見える。御血は凝固させられており、黄土の黄色に似た土色をしている。1713年以来御肉はナポリ派のある職人によって精巧に浮き出し模様で飾られた芸術的な銀の顕示台の中に保存されてきた。

御血は水晶から作られた高価な非常に古いカップに封入されている。

コンヴェントゥアル・フランシスコ会が1252年以来その聖域の管理者であった。彼らの任命はキエティのランドゥルフ司教の望みであった。彼らの任命は1252年4月20日付けの教皇教書によって承認された。

その教会は1176年までバジリウス会修道僧たちの管理の下にあった。1176年から1252年までベネディクト会士たちがその教会に配置された。

1258年にフランシスコ会士たちが現在の教会を建てた。1700年にその建築様式はロマネスク−ゴチックからバロックへと変えられた。

その「奇蹟」は最初に主祭壇の側に位置する一つのチャペルに保存された。

それから、1636年からそれは今なお古い鉄製の容器と記念の銘を含んでいる聖堂身廊の脇祭壇に保存された。

1902年にそれは、ランチアーノの人々が建てた現在の堂々とした大理石の祭壇へと移された。

さまざまの教会の調査(「認可」)が1574年以来行われた。

1970年には一つの科学的な調査が解剖学、病理学的解剖学、化学および臨床顕微鏡検査の優れた教授であり、最も有名な科学者であるオドラルド・リノリ教授によって行われた。

彼はシエナ大学のルッジェロ・ベルテッリ教授の補助を受けた。

分析は絶対的かつ疑問の余地のない科学的な精密さをもって行われた。そしてそれらの分析は、奇蹟の教会において1971年3月4日に開催された会議において尊敬されたリノリ教授自身によって公的分野の問題とされた一連の顕微鏡写真と共に証拠書類で立証された。

これらの分析は以下のような結論を立証した:

結論として、科学がランチアーノの御聖体の奇蹟の真正性に関して一つの確実なそして徹底的な解答を与えたということが言えるであろう。

ランチアーノの御聖体の奇蹟

Imprimatur:
†Leopoldo Teofili
Archbishop of Lanciano

For information, books, pamphlets, slides, postcards, souvenirs of the Sanctuary, please apply to:

SANTUARIO DEL MIRACOLO EUCARISTICO
FRATl MINORI CONVENTUALI
66034 LANCIANO (Ch)Italy

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作成日:2006/08/03

最終更新日:2006/11/03

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