ファチマの聖母マリア

汚れなき聖母を愛した使徒
(聖マキシミリアノ・コルベ V)

The Fatima Crusader, Issue 17: Feb.-April 1985より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

マリアの司祭

聖マキシミリアノにとって、神学校に入る一人の少年の最も美しい夢--司祭になる夢、祭壇に上る夢、十字架の犠牲を更新する夢、彼の手の中にイエズスを降りて来させる夢、霊魂たちにイエズスを配る夢--の実現がついに来た。

1918年4月28日にマキシミリアノは司祭に叙階された。翌日彼はローマの聖アンドレア・デッレ・フラッテのバシリカ、「奇跡の祭壇」--祝せられたおとめがユダヤ人ラティスボンに御出現になり、彼が瞬時に回心したその場所--で初ミサを献げた。

マドンナのその祭壇で、マキシミリアノはマリアの司祭の生きている模範として立った。彼ら二人--マドンナと聖マキシミリアノ--イエズスの御母と司祭たるキリストの人格と同一化した司祭--を熟考してみよう。マドンナはどのように愛情をこめてその最初のミサをご覧になり、それをお助けになったに違いないことだろう!そしてマキシミリアノはどのようにマドンナを愛情をこめて眺め、マドンナ、女王、仲介者、彼の司祭職の汚れなき御母に栄光を帰したに違いないことだろう!

イエズスにおいてあらゆる司祭は、その中で彼が、イエズス御自身の、神の御母に対する天的な愛をもって、彼自身の心と精神にイエズスを溢れさせる程度においてマリアの司祭となるべきである。

彼自身をイエズスによって完全に貫通され支配されるようにさせ、その結果彼がイエズス御自身の聖母に対する司祭的な愛をもって、彼の天上の御母を愛するようになる以外にどのようにして人はマキシミリアノについて考えることができようか?

御聖体に対する愛

祭壇に対する聖マキシミリアノの愛情と彼の御聖体に対する限りない献身は御聖体におけるイエズスを熱烈に愛することを欲するすべての霊魂にとって、特に司祭たちにとって常に一つの大きな模範であろう。彼は、時に彼のミサで手伝いした後で、彼を知らなかった人が祭壇でそのような信心を鼓舞したあの司祭が誰であるかと尋ねに行くほどのそのような信心をもってミサ聖祭を献げた。

彼はミサ聖祭の挙行をどのように重要なことだと考えたことだろう!疲れていても、あるいはへとへとでも、あるいは気分がすぐれなくても、聖人は愛のこの至高の犠牲を行うことを抜かそうと望んだことは一度もなかった。彼は、立っていることそしてぐるりと回ることができないときでも、ミサ聖祭を祝うことができるように彼を支えてくれる二人の修道士の助けを求めさえした。祭壇の前で祈っている彼を見つけることは容易だった。彼が若い聖職者であったとき、彼はよく毎日毎晩御聖体訪問を平均10回はすることにしていた。

彼の汚れなき聖母の諸都市に関して彼が持っていた主要関心事の一つは御聖体の永久礼拝を維持することであった。日本では、司教がその家が余りにも荒廃していると考えたとき、家の中に御聖体のある礼拝堂を持つために彼はどのように多くの苦労を経験したことであろう!一人の訪問者がニエポカラノフでなされた壮大な仕事を大いに賞讃したとき、マキシミリアノは御聖体を指して、言った。「ニエポカラノフのすべての生活はこの御聖体によるものです。」

彼が自分自身を御聖体で霊的に養っていると感じていたその必要性についてわれわれは何と言おうか? 彼が15分毎に霊的聖体拝領をするという聖フランシスコ・サレジオの決心を彼自身の決心としたと言うことで十分である。彼の心を彼の秘蹟の主で絶えず養っているというこのことはわれわれに、聖母の心がどのように絶えずイエズスの礼拝のうちにあり、聖母の生活、聖母の愛、聖母のすべてであったイエズスと共に分かち難く結びついていたかについて考えさせる。

今日の司祭のための模範

聖マキシミリアノ・マリア・コルベの列聖式は1971年10月17日に、ローマで司教たちの第三回一般司教会議が開催されている間に行われた。司教会議が終わった後、ポーランドの司教たちは一通の共同所感を書いた。それは、他のこともいろいろあるがこう述べている:「ポーランドの司祭、聖マキシミリアノ・マリア・コルベの列聖は司教会議にとって摂理的であった...われわれが司祭職に関するわれわれの省察の結論にまさに到達したときに、教皇パウロ6世はバシリカにおいて現代の司祭のための模範を提示することを選ばれた...なぜなら、ただ司祭職について話すだけでは不十分である:人は今日のために一つの模範に向かうべきであるからである。」これは非常に雄弁になされたのであり、その結果司教たちは教皇に感謝したのである...司教会議の代表者の一人(デュヴァル枢機卿)は司祭職に関するこの列聖は司教会議ホールで言われたすべてのものよりも大きな重要性を持っていると宣言した。

聖マキシミリアノは汚れなきおとめに自らを与えた。彼は自らを聖母の純なる御手の中に置いた。そして汚れなきおとめは彼を模範司祭になさった。実際、司祭たちは、もし彼らが至高の大祭司イエズスの母である汚れなき聖母の御手と御心に自分たち自身を完全に委ねるならば、愛の、熱意の、犠牲の、巨人となるために彼らの模範としてマキシミリアノを受け取ることができる。

ポーランドへ帰国

聖マキシミリアノは、1919年7月22日にフランシスコ・コンヴェントゥアルの教皇庁立学部から神学の学位を受けた後、ただちにポーランドへ戻った。そこは当時貧困と飢饉で苦しんでいた。

マキシミリアノは次に教鞭を取るために上長たちによってクラコウの修道院へ送られた。彼は学生修道士たちのための哲学教授そして主要な神学校における教会史の教授であった。、

模範的で従順なマキシミリアノは、彼の心の中で広大な企てがすでに形成されていた--彼の愛するポーランドにおいてすくすく育つであろう汚れなき聖母のミリティアに生命を与えるであろう使徒職の企て--一方で、まったく真剣に彼の割り当てられた仕事を遂行し始めた。

彼は祈りに多くの時間を費やした。彼はしばしば短い次の祈りを唱えた。「原罪なくして宿り給いし...」あらゆるところで彼は不思議のメダイを配っていた。彼は沈黙や怠惰にとどまっていなかった。

「あと3ヶ月の命」

しかし間もなく彼は彼のすべての活動に脅威を与えた恐れられた病気、すなわち、結核の徴候を示した。病気は非常に進行していたので、一人の修道士の説明によれば、医者たちは彼はせいぜい「あと3ヶ月の命」しかないと宣告した。

彼は絶えざる咳の時期と弱い声に苦しんだ。彼の呼吸作用は弱く、彼の顔色は蒼かった。彼は突然の運動が大出血を引き起こす恐れがあるためにゆっくりそして注意深く動いた。数ヶ月後に上長たちは教鞭から彼をはずし、告解を聴くこと、そして少しだけ説教することを割り当てた。しかし彼はこの方法でさえ長く続けることはできなかった。まさに彼が聴いた告解や彼の短い説教が彼の呼吸の力を弱めた。そしてそれから、その不幸な時期の決定的な食事の不足が彼に不利に影響を与えたので、彼はほとんど立つことができなかった。

しかしながら、聖マキシミリアノを最も苦しめたものは結核ではなかった。それは何か別のものであった。彼は彼のミリティアの計画に対して彼が修道士たちの間に見出した無関心と軽率の態度に失望した。肩をすぼめること、皮肉な笑い、つけられたあだ名、ひどい冗談、あるいは単純なあざけり--これらが、マキシミリアノが汚れなき聖母のミリティアについて話したときに出会った初期の反応であった。彼のマリア使徒職への熱心な努力が続くのは「あと3ヶ月」だろうと思われた。

しかしながら、祈りと寛大さは決して実りのないものではなかった。

1917年10月7日

聖なるロザリオの聖母の祝日は聖マキシミリアノに甘美な驚きをもたらした。それは長く待たれていた何かあるものであった。彼はそれについてこう書いた:

「今晩、レクリエーションの間に6人の修道士-聖職者たちが彼らの師ケラー神父と一緒に彼らの名前を汚れなき聖母のミリティアへの入会に役立つであろう書面に署名した。

...愛する御母よ、私はこの計画でわれわれがどうなるかを知りません。しかし神の最大の栄光に奉仕するためにあなたのお望みの通りに私と私たちのすべてをどうか使ってください。おお、私の汚れなき御母よ、私はあなたのものです...」

これは始まりであった。事態は始まったのであり、もはやとどまったままではないだろう。彼はマリアのサークルのための基礎を置く一方で集会や会議を組織し始めた。これらの集会-サークルはクラコウの住宅地域において、そして下宿屋、学生寮そして軍隊のバラック内にすばやく拡がって行った。

彼はこう言っていた。「汚れなき聖母のミリティアは大衆を引きつけ、サタンから彼らを奪い取る一つの運動である。」そして「われわれは一つの霊魂がサタンの支配の下にとどまっている限り休息する権利を持たない。」

聖マキシミリアノが汚れなきおとめを通じて霊魂たちを獲得する彼の使徒職の出発と急速な発展を見たときのその喜びをわれわれは想像することができるだろう。

彼が苦しんだとき、人々が理解しそこなったとき、あるいは同意しなかったとき、あるいは彼を迫害しさえしたとき--これらの出来事は汚れなき聖母のミリティアのための基礎を敷くのに役立った。マキシミリアノはかつて彼の聖職者たちにこう言った:「ときにはわれわれの意図は悪く解釈される。ときには彼らはわれわれに対して誤った非難を持ち出しさえする。これらの迫害は単に敵どもから来るばかりではなく、善良で敬虔な、聖でさえある人々、おそらく汚れなき聖母のミリティアの高位にある人々からも来る。これらの人々が、われわれが作り上げたものを破壊しようともがくことによって、そして霊魂たちにわれわれの計画を嫌いにさせようと努力することによって神に栄光を帰するとう意図をもったあらゆる道をふさぐのを見ることほど苦痛なことは何もない...」

これは神の御計画が成長する仕方である。それらは貧困、支持のないこと、反対そして迫害の諸条件において生じたそして生じ続ける具体化の結果の小片である。

つづく

2004/03/01 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/01

最終更新日:2004/03/01

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