ファチマの聖母マリア

汚れなき聖母を愛した使徒
(聖マキシミリアノ・コルベ VII)

The Fatima Crusader, Issue 20: June-July 1986より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

「汚れなき御方よ、あなたのために」

この創刊号のすべての部数は容易に売り切れた。聖コルベは直ちに第2号は1万部の印刷を考えることができた。しかし彼はそのお金をどこから得るであろうか? 当時インフレがポーランドを襲っていた。そして彼が自由にできるわずかのお金は誰をも断念させるにふさわしいものであったろう。

マキシミリアノは修道院長の神父にわずかの援助を訴えた。しかしただ次の返事を受け取っただけである。「私に何ができますか? 修道会は財産を持っていません。あなた自身がこの困難から抜け出すことはあなたにかかっています。」

彼は何をすることができたであろうか? 彼は祈ることができた。マキシミリアノは教会の中に入って行き、汚れなきおとめの祭壇のところへ行った。彼はその祭壇の上に一つの封筒を見た。封筒には次の言葉が書いてあった。「汚れなき御方よ、あなたのために。」彼は封筒を取り上げそして開けた。その中には「汚れなき聖母の騎士」の第2号のために必要とされた正確な金額が入っていた。そしてそのように雑誌は、毎月発行部数が増加して、その仕事をもちこたえた。

雑誌のために誰が書いたのか? 最初は聖マキシミリアノが実際にすべてをやった。マドンナについて彼が書くスタイルは単純、明快、効果的なものであった。彼は大部分の読者が断然ただ中程度の学校教育しか受けていないことを非常によく知っていた。彼が行ったことは実質的で堅固だった。彼は汚れなきおとめの知識と愛において彼らを教え、彼らに熱心に勧め、彼らを向上させた。発行部数を増やすために、聖マキシミリアノは予約を待たずに求める人には誰にでも彼の雑誌を送った。それからは寄付が彼にとって常に続けていけるのに十分な程度に自動的に入って来た。彼の天上の御母からの摂理は彼を配慮していた。

「兄弟なる機械設備」

マキシミリアノは、1ヶ月に5万部以上印刷を始めたときに、彼自身の印刷所を持つことについて考え始めた。これは馬鹿げたこと、彼の他の諸々のプロジェクト以上にもっと大きな馬鹿げたこととさえ、思われたであろう。しかしマキシミリアノは自分のことを「汚れなきおとめの馬鹿」と呼ばなかったか?

汚れなきおとめの助けと共に、「汚れなき聖母の騎士」がそれ自身の印刷機--コルベがそれを呼んだように、「兄弟なる機械設備」--を獲得したとき、この一見馬鹿げたプロジェクトは一つの現実となった。

もっと大きなそしてもっと適した場所を手に入れるために、彼は北ポーランドにある山岳地帯、グロドゥノ(Grodno)においてすべてのことを始めることを考えた。そしてそれから、彼と共に働くために割り当てられた修道士たちと一緒に、聖マキシミリアノはそこに移り、絶え間なく働き続けた。

編集、執筆、印刷--これらは、祈り、ミサ、礼拝、告解、そしてグロドゥノからおよそ2マイルの町でのカテキズムの教授に捧げられた時間に加えて、彼の日々の雑事であった。彼は、熱があろうとなかろうと、弱さを感じようと強さを感じようと、祈り、働いた。また執筆し、授業を受け持った。そのことについて心配するのは無益であった。なぜなら、時間は非常に早く過ぎ去り、そして彼は汚れなきおとめのために完全に自らを犠牲にしたいと思っていたからである。

彼は弟のアルフォンスス(Alphonsus)神父にこう書いた。「私の一日は本当に仕事でいっぱいだ。読者数が大股で増大している。汚れなきおとめはご自分の雑誌を強い手で前進するように導いておられる。時に私の顔が熱で赤くなろうとも、私は病気である暇がない。たとえ常に弱いと感じているとしても、私はこう繰り返している:私は病気である時を持っていない、と。」

つづく

2004/03/02 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/02

最終更新日:2004/03/02

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