ファチマの聖母マリア

聖マキシミリアノ・コルベ IX

The Fatima Crusader, Issue 23: Sep.-Oct. 1987より

ステファノ・マネッリ神父、O.F.M., Conv., S.T.D.

1982年10月10日、聖ペトロ大聖堂で福者マキシミリアノ・マリア・コルベ(Maximilian Mary Kolbe, O.F.M., Conventual)は彼の最も傑出している英雄的徳のために列聖された。マキシミリアノ・コルベ神父が、彼がほとんど知らなかった一人の不当に断罪された仲間の囚人に代わって死ぬために自由に身を捧げた後に、アウシュヴィッツのナチスの監獄キャンプにおいて殉教したのはちょうど41年前であった。教皇ヨハネ・パウロ2世は彼を「われわれの困難な世紀の保護者」と宣言された。われわれは、神がわれわれの時代に深い信仰、英雄的な愛そして特に聖母に対する計り知れない愛の模範としてお上げになった聖マキシミリアノをもっと多くの人々に知ることを可能にするこの論考を公表するのが嬉しい。この聖人の聖性への鍵はわれわれの母なるマリアへの彼のますます大きくなる愛である。聖マキシミリアノは神の御母に対する彼の愛に何の制限も設けなかった。そして実践において、彼はその生涯の間一つの驚くべきマリア使徒職において実を結んだ強烈な祈りの生活によって聖母に対する彼の壮大な献身を示した。そして彼は人々をイエズスとマリアのより大なる知識と愛へと連れて行くためにマス・メディアを用いる彼のマリア使徒職を天国から導き続けている。

しかしながら、フランシスコ会の上長たちは王子によって要求された条件を受け入れようとはしなかった。聖マキシミリアノは悲しんだ。彼は上長たちの拒否について告げるために王子を訪ねた。王子は怒っていた。そしてどうすべきかについて確信がなかった。彼はコルベに言った。「地所にあなたは汚れなきおとめの像を建てた。私はそれを必要としない。」

コルベは答えた。「聖母をそこにそのままとどまらせてください。それは今度はマドンナが家を見つけることができなかったということを示すでしょう。」

この驚くべき答の後、王子はコルベをじっと見つめた。それから彼はコルベに暖かい握手をして、言った。「よろしい、土地は何らの条件もつけずに像に同行します。」

マキシミリアノの心臓はどきんどきんと鳴った。修道院に帰るとすぐに、彼は印刷機のところで働いていた修道士たちにお祝いの挨拶をした。「跪いて汚れなき聖母に感謝を捧げましょう。」

礼拝堂が最初に来る

修道士たちの最初のグループがマキシミリアノと一緒に新しい場所に到着した。そして彼らはショベル、つるはし、その他の道具で、土地を開墾するために働いた。これは1927年8月の終りのことであった。マキシミリアノは彼らと一緒だった。彼らの仕事は速いペースで進んだ。彼らは一軒の農家の床にわらのベッドを作って眠った。そしてわずかしか食べなかった。

最初に建てるべき建造物は木造の礼拝堂であった。マキシミリアノはそこでミサを捧げ、神の栄光に仕えるため、そして汚れなきおとめを通じての霊魂たちの救いのために奉仕する場所を聖別した。

礼拝堂のバラックの周りに、印刷工場の異なった部門のための建物と同様に、修道士たちのための建物が建設された。

11月21日、[エルサレム]神殿への聖母の奉献の祝日に、聖マキシミリアノと共に働いていたグロドゥノのすべての修道士たちは新しい土地に旅行し、テレシンの最初の二つのバラックへと移った。テレシンはそのときから「汚れなき聖母の都市」(ポーランド語で「ニエポカラノフ」)と呼ばれた。

汚れなきおとめの美しい像はそこを訪れる人は誰でも皆歓迎するためにこの独自の都市の入り口にそびえていた。マキシミリアノはお互いにマリアの名前によって挨拶する習慣を紹介した。数年前、一つの全-マリア修道会の彼の夢-プロジェクトについて他の修道士に話したとき、彼はこう言った。「何という美しい共同体だ。それはそこで『マリア』がいたるところで聴かれる共同体である。『マリア』が挨拶であり、『マリア』が挨拶への応答である。彼女はマドンナ・ハウスの女性の主人であり、保護者である。」

英雄的な生活

フランシスコ会士である聖マキシミリアノはアッシジの熾天使的聖人を真に模倣したいと思った。最初の出発点からマキシミリアノは彼自身のためにそして彼の修道士たちのために聖フランシスコへの忠誠、最初のフランシスコ会の共同体に入るに値する宗教生活、英雄主義の点にまで従った会則や会憲の完全な遵守を望んだ。彼は限りない寛大さを支持した。彼は、その中で人々がその全生活を犠牲において捧げ、あらゆるテストをパスする一つの基礎以外の何物の上にもそのように大きな仕事を建てることはできなかったであろう。グロドゥノを去る前に、彼は修道士たちに言った。「新しい修道院においてはわれわれの犠牲は完全でなければならない。宗教生活はそこでは最も完全な遵守において栄えなければならない。会則と会憲は力強く遵守されなければならない。なぜなら、ニエポカラノフはすべての人々にとって宗教生活の模範でなければならないからだ。」

汚れなき聖母の都市の顕著に熱心な使徒的活動を養い、支えたのは英雄的に生きられた宗教生活であった。

よく剃髪された頭、サンダルとあて布をされた僧服の修道士たち、彼らは日の出数時間前に、そしてその後の夜までの合間に祈りに集まり、完全な沈黙のうちに熱心な仕事の数時間を過ごし、冷たい気候と飲食および休息における簡素に不満を漏らさずに耐える、--これらの人々は、彼らの日々の自己犠牲によって汚れなきおとめの愛に対して霊魂たちを勝ち得る値段を支払っていたのだ。

マキシミリアノの書き物からの一つの啓発的な節は次のように述べている:「ニエポカラノフ共同体の成員は慰めあるいは楽しみを求めない厳密に必要な物に彼の個人的要求を限定する。このようにして、彼は、慰めと楽しみを放棄することによってそれのために支払うとき、汚れなき聖母の騎士のますます多くの部数を印刷し、それをより広範に読まれるようにすることを可能にするのである。」

聖マキシミリアノはこのような精神の持ち主である修道士だけを望んでいた。それゆえに、ニエポカラノフへ行くためにグロドゥノを去る直前に、彼ははっきりと彼らにこう告げた。「自分はそこへ行く強さを持たない、あるいはそこへ行く意志を持たないと感じる者は誰でも誠実にそして率直にそう言って貰いたい。」

フランシスコ会の貧しさ

汚れなき聖母の都市は二つの事柄の上に建てられた--貧しさと汚れなきおとめ--聖マキシミリアノはそう宣言した。

われわれは聖コルベの貧困の愛をどのように記述するかを知らない。それは彼の熾天使的父祖聖フランシスコに相応しい愛であった。聖マキシミリアノの貧困に関するページは初期フランシスコ主義の諸著作の一つの概説としてりっぱに役立ち得るであろう。そして汚れなき聖母の都市の貧困の模範はわれわれを最初のフランシスコ会共同体の貧困の模範へと連れ戻す。

小さなことにおいてと同様に大きなことにおいても、聖マキシミリアノは彼自身常に、心と身体においてこの世のすべての所有物から距離を置いた、何物をも所有することを欲しない貧しい人のように生きるために厳密に必要であるものに満足して、その結果完全に神の所有物となり、所有物として汚れなきおとめに無条件に委ねたアッシジのポヴェレッロ[小さな貧しき人]の忠実な追随者であることを証明した。

コルベは汚れなき聖母の都市のために、ポーランドにおいても、あるいは日本においても、どんな土地の所有権も望んだことはなかった。彼は言った。「なぜ所有権を持つのか? 使用で十分だ。聖フランシスコのようでありなさい。何も所有するな。われわれは所有者がわれわれの滞在に同意する限りその場所にとどまろう。彼がわれわれにもはやとどまることはできないと告げるとき、われわれは別のところへ行くであろう。」

一人の同僚の修道士、アッシジのドミニック・ステラ(Dominic Stella)神父は聖コルベの上述の言葉について次のコメントをした。「これは彼の明確な考えと堅固な説得を伝えた。マキシミリアノの精神において最も重要なものが熾天使的父祖の精神と完全に一致した貧困の純粋な理想であるということは明らかなことであった。」

同様にまた、彼がインドにいたとき、エルナクラム(Ernaculam)の司教は彼にいくらかの土地、一軒の家、そして一つの礼拝堂を与えたかった。しかし聖マキシミリアノは「ただ用益権だけ」--すなわち、財産の使用とその産物への権利--を受け入れようとした。「なぜなら、私たちは所有権を欲しないからです」と彼は説明した。

つづく

2004/03/02 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/02

最終更新日:2004/03/02

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