ファチマの聖母マリア

悪魔は嘘の父である

The Fatima Crusader Issue 73, Spring 2003より

嘘が人間たちの間で最も普通の罪の一つのであるということを誰が知らないであろうか。不幸なことに、人にとって真理に敵対して何か言ったりあるいはしたりすることがいかに容易なことであろうか!

仕事において、あるいは会社において、家庭においてあるいは学校において、市場においてあるいは工場において--いかに多くの嘘、不忠実、ごまかしがあることか!神お独りでないとするならば、誰がそれらを数えることができようか?

他方において、ある人々は嘘をちょっとした罪としか考えないことにおいて非常に表面的である。ある人はそれらは単に「悪を避けるための罪のない嘘あるいはちょっとした嘘あるいは有益な嘘」であると言うであろう。

しかしパードレ・ピオは「罪のない嘘は悪魔の絶叫である」と言った。そして「神父様、罪のない嘘をつかないことができますか?」と彼に尋ねた告解者に彼は冷淡に答えた。「いいえ」。「しかし神父様、彼らは何ら害をもたらしませんよ!」「たとえ彼らが他の人々に害をもたらさないとしても」とパードレ・ピオはつけ加えた。「彼らはあなたの霊魂に害をもたらします。神は真理です。」

「悪魔は嘘つきであり、嘘の父である」(ヨハネ 8:44)。彼はわれわれの嘘の真の父である。われわれがあちこちにそのように容易に広めるすべての偽りを提供するのは彼である。哀れなわれわれ!

もしわれわれがこの現実を真に考慮するならば、われわれは「嘘の父」と関わりをもたないようにと、その全力でもって反対することにおける聖人たちの感受性を理解するであろう。

聖母のお気に入りであった天使のような少年フォントガランドのグイドはどんなちょっとした嘘に対しても真の恐怖を示した。

かつて、彼の母が彼らの女中にこう言った。「もし誰かが今日私を探すようだったら、私は外出していると言いなさい。」

グイドが彼の母のこれらの言葉を聴いたとき、彼は直ちに飛び上がり、彼の母のところへ行き、彼女の首を抱きながら、言った。「お母さん、なぜあなたは二つの嘘をついたのですか? あなたの嘘と女中の嘘を? 私は真でないことを何か言うよりはむしろ歯が痛むほうがいいですよ。」

はいならはい--いいえならいいえ

嘘から利益を得るよりはむしろ真理のために苦しむほうがよい。悪魔と楽しみを持つよりは神と共に苦しみを持つほうがよい。

神は真理の光である。悪魔は嘘の暗闇である。誠実な霊魂は光を発する。嘘つきの霊魂は暗闇にいる。われわれキリスト者は「光の子ら」(ヨハネ12:36)でなければならない。イエズスはわれわれに、われわれの言葉は真正で真でなければならないと言われた。「はいならはい、いいえならいいえ」(マテオ 5:37)。

欺いて語ること、真理を隠すことはエデンにおいてアダムとエバを欺いた(創世記 3:17)「昔のへび」(黙示録 12:9)の邪悪な術である。嘘は欺く意図をもって人が考えていることと反対のことを言うことのうちに存する。

「あなたは偽証するな」(ルカ 18:20)は「嘘の父」に対する戦いへとわれわれを置く神の掟である。われわれはあらゆる犠牲を払っても真理を言うに十分強くあらねばならない。

ポーランドの司祭、聖ジョン・カンジオ(St. John Canzio)はかつて山賊たちに略奪された。彼らは彼がポケットに持っていたすべてのものを取り上げ、そして彼に尋ねた。「ほかに何か持っていないか?」「何も持っていない」と聖人は答えた。

山賊たちは彼を置き去りにした。しかし、聖ジョン・カンジオは間もなく彼のマントにいくばくかの金を縫い込んでいたことを思い出した。彼は山賊たちの後を追った。そしてこれすらも彼らに提供した。山賊たちは非常に教化されたので、単にそれを拒絶しただけでなく、彼らが奪ったすべてのものを返却した。

欺瞞の言語

真理はしばしばわれわれに大きな不快と悲しみをさえ引き起こすであろう。しかし--神の正義と罰の前では-- 神に与えた攻撃に比較すれば何であろうか!

「あなたは日夜悪事をたくらみ、詐欺を行い、その舌はとぎすました刃物のようだ。あなたは善を捨ていつわりを選び、滅びを呼ぶことばを好んだ、いつわりの舌よ、ゆえに神はあなたを打ち倒し、永久に破られる」(詩編51:4-7)。

聖アンドルー・アヴェリーノ(St. Andrew Avellino)は法律家であった。かつて、ある事件を弁護するために、彼はちょっとした嘘を発言することを自分に許した。彼は「嘘つきの口は、霊魂に死をもたらす」(知恵 1:11)という聖書のこの詩句を読むことによってそのことを理解したとき、この弱さによって悲しんだ。

彼はもはや躊躇しなかった。恩寵によって動かされ、彼は世間を去り、修道者そして聖人になった。それは彼の良心の繊細さの報いであった。

聖ヴァンサン・ド・ポール(St. Vincent de Paul)の美しい格言をわれわれのものにしよう。「われわれの舌はわれわれの内部にわれわれが持っているものを外的に言わなければならない。そうでなければ、われわれは沈黙を守る。」

真理を言え、さもなければ沈黙せよ。

耳を傾けられるおとめ

もしすべての者が舌によって引き起こされる悪についての聖ヤコボの手紙のページをよく読み黙想するならば、われわれは確かに沈黙をもっと愛し、そして「火であり、不義のかたまり...全身を毒するものとして制御できない」(ヤコボ 3:6-8)ようなものであるわれわれの舌の用い方においてもっと注意深くなるであろう。

嘘、偽り、誤謬、中傷、悪口、攻撃、口汚い言語、冒涜...すべては舌を通過する。そしてわれわれの言葉はどのように意図しないで何らかの悪に染められていることであろうか? >

その代わりに聖母を見よう。聖母の御生活には何という沈黙があることだろう。聖母は福音書において記述されているように、沈黙と輝きのうちにおられる。聖母はイエズスのすべての言葉を心にとどめて、「それらを心の中で考え続けられた」(ルカ 2:19)

教皇パウロ6世は聖母を、「むなしいことば」(エフェゾ 5:6)によって悩まされない、また「いつわりのことば」(格言 30:8)によって影響を受けない聖母の神との途切れることのない一致において教会の完全な模範として表しながら、「耳を傾けられるおとめ」(Marialis Cultus, n. 17)と呼んでおられるが、正当なことである。

何をなすべきか

聖ヤコボが舌について語っている手紙の箇所を読み、黙想しなさい。(ヤコボ 3:1-2)

舌のすべての罪に対するイエズスの赦しを求めながら、しばしば十字架に接吻しなさい。

あなたが常に真理を語るか、それとも沈黙を守るかして、決して嘘をつかないように助けてくださるよう聖母に祈りなさい。


ジョイス・キルマー(Joyce Kilmer)の以下のすぐれた詩は物騒な時代、特に「偽りのキリストたち」の時代における一つの有益な試金石として役立つ。

嘘の人

カルワリオの十字架の足下で
三人の兵士が坐り、さいころをふっていた、
彼らの内の一人は悪魔であった。
そして彼はキリストの外衣を勝ち取った。

悪魔が彼の元々の姿で
私が住んでいる部屋に来るとき

私は彼を知り、十字架のしるしをする
それは彼を地獄へと追いやる

私は彼を千のヴェールを通して見た
そしてこれは十分であったか?
今、私はキリストの輝く外衣をまとった
悪魔を見なければならないのか?

愚かである私はどのように告げることができるか
これがキリストであるか、それともそうでないかを?

私に伸ばされたあの血を流した両手!
そんなにも私を愛したあの目!

私は外衣を見る--私は見る--私は希望する--
私は恐れる--しかし私の悩める霊魂を
導いてくださる一人の方がおられる
キリストの御母はその御子を知っておられる。

これは嘘の人ですと聖母は言われる
恐るべき術でもって変装したのです、

彼は傷ついた手と足を持っていますが、
しかし傷ついた心を持っていないのです、と。

2004/03/25 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/25

最終更新日:2004/03/25

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