ファチマの聖母マリア

ロシア、教会を操作する:当時...そして今

The Fatima Crusader, Isuue 50: Autumn 1995より

I. F. コルクホウン

1943年の正教会とのスターリンの「政教条約」へと導いた正確な諸状況を明らかにする新しい証拠--戦争の結果に直接影響を与えた宣伝行為--が現れた。その話は、ドイツ軍がソビエト国境を横切って襲って来るとともに、スターリンがルーズベルトに緊急に必要な軍需品を要求した1941年6月に始まる。

当時アメリカ合衆国には二つの考え方の派があった。ヒットラーをこれ以上国境突破させないように妨げる最善の手段はロシア人に軍事援助を与えることであると考えたルーズベルト自身のような人々がいた。その人々に反対したのは、政治的および宗教的自由を求めてヨーロッパを去った大部分がカトリック教徒の、「孤立主義者たち」であった。その自由をアメリカに見出した彼らは、多年にわたって教会の血にまみれた迫害を行ってきたスターリンの側に立ってヨーロッパ戦争へと引きずり込まれることに乗り気でなかった。教皇ピオ11世はその回勅"Divini Redemptoris"の中で、共産主義を「本質的に悪」として非難し、共産主義者たちを援助する諸国家は彼らの抑圧の下に倒れるであろうと警告されなかったか? それゆえ、彼らの態度は「犬どもの喧嘩は放っておけ」であった。

これらの孤立主義者たちは議会において十分な勢力であった。そして彼らの指導者たちはロシアに対して援助を与えることに反対して大きな声を上げ始めた。このことはルーズベルトが10月に議会に提出している「貸借法案」に一つの脅威を与えた。それゆえ、彼が9月11日にソビエト大使に会ったとき、「彼は、議会において大きな政治的権力を行使している国内の大きな集団の間のロシアに対する偏見あるいは敵意とロシアの不人気の故に議会から必要な権威を得ることが困難であることをかなり詳細に説明した。そして...もしモスクワがこれから先数日以内に宗教の自由に関してアメリカに何らかの評判を取り戻すことができたならば、次の貸借法案が議会に提出される前に非常にすばらしい教育的効果をもつであろう、と示唆した。」(合衆国外交関係、1941年、第1巻、国務省)

それゆえ、戦争の転換点において、ルーズベルトはスターリンに、彼が教会を自由にしたということを西側に信号を送ることになる何かあることをするように促したのだ。しかしながら、スターリンが行動する時間を持つ前に、ルーズベルトは教皇ピオ12世に使節を送り、共産主義者たちを援助することに対する彼の前任者の禁止を事実上ひっくり返す声明を発するよう強要した。

教会の支持の獲得

ルーズベルトの議論は、ヒットラーがスターリンよりも大きくさえある脅威を宗教に与えた、そしてロシアは今やドイツによって攻撃されている、ロシアは軍事援助への権利を持っている、というものであった。この訴えは教皇をジレンマに陥れた。もし彼がこの戦争に加担するならば、彼はキリスト教の司牧者としての彼の役割を傷つけることになるであろう。しかし彼の国務省長官マリオーネ(Maglione)枢機卿は非公式に、ピオ11世は共産主義を攻撃されたが、ロシアを攻撃されたのではない、そして教皇はその回勅が戦争の問題における政治家たちの青写真であることを意図なさらなかった、という趣旨のアメリカにおける彼ら自身の声明を合衆国[教会]位階が出す権限を与えた。

直ちにアメリカの司教たちは彼らの声明を出すために働いた。この展開のニュースが議会における孤立主義者たちのところへ届いた。そして当然のことながら、彼らをジレンマに陥れた。もし彼らが貸借法案を阻止し続けるならば、彼らは単に彼らの大統領に反対するだけでなく、また彼らの司教たちにも反対することになるであろう。彼らは「孤立無援の状態」であった。10月までに彼らの反対は衰えた。そして法案は大多数の賛成で可決された。注1)

戦争を通じて、ルーズベルトは彼の諸政策に対して議会を説得して味方に引き入れる必要があった。そして彼は今回は成功した。しかしロシアに物資を供給することはアメリカ人たち自身を掛かり合いにさせなかった。彼らは自分たちの生命を失うために出かけて行かなかった。しかし連合軍に対してフランスへ侵攻するようにというスターリンの要求がやって来たとき、それは別の問題であった。なぜなら、侵攻軍はほとんどアメリカ人で構成されるはずであり、これからは彼らの生命が危険にさらされることになるからである。それゆえ今やルーズベルトはもう一つの問題に直面した。ここで彼は歴史上最大の侵攻の責任を引き受ける用意ができていた。そして彼がこの侵攻において息子たちを失わなければならない人々の支持を得られなかったならば、彼らは1944年11月、侵攻のまさに直後の時期に行われることになっている運命の次の選挙で彼を免職にすることができたであろう。

1943年の間、スターリンは「第二戦線」を要求し続けた。ロシア軍がドイツ軍を力ずくで退却へと追い込んでいたことは明らかであった...しかし、スターリンはそれ以上のことを欲した:彼はドイツ軍を彼自身の国境線から退却させ、そしてこのようにして赤軍を東ヨーロッパ諸国へと侵入させることを可能にするように、連合国がフランスに侵攻することを望んだ。チャーチルは個人としては危険を予見した。しかしルーズベルトは彼の「個人的顧問」ハリー・ホプキンズ(Harry Hopkins)によって影響されて、スターリンは東ヨーロッパには何の野心も持っていないと信じた...しかしながら、最近の諸発見はホプキンズがまさにこの目的のためにNKVDへと徴募された丸抱えのソビエト代理人であったことを明らかにしている。*

それゆえ、状況は1943年から以降はスターリンが一つの拡大された帝国を形成し、そしてそのようにロシアを一つの支配的な権力とするであろう諸々の領土への彼の視野を据えたということであった。チャーチルはその危険を認めていたゆえに、ロシア軍が東ヨーロッパを占領することを妨げるための一つの計画を案出した。その計画は一つのことを除けば成功していたであろう:それはアメリカの支持にかかっていた。そして決定的な瞬間にルーズベルトはその支持を引っ込めた。

1943年9月4日に

チャーチルは1943年7月、連合軍がシシリー島を侵攻した直後に彼の好機を見た。イタリア軍は突然ムッソリーニを解任した。そして連合軍に降伏した。このようにして[イタリア]半島の占領への一つの政治的障碍を取り除いた。チャーチルはそのとき本土の攻撃に対するルーズベルトの承認を勝ち得ていた。彼はこの攻撃をバルカン諸国へ、そしてゆくゆくはウィーンへと押し進めて、このようにして赤軍が東ヨーロッパを占領することができる前にその前進を阻止することを望んでいた。注2)

それゆえ、1943年9月3日に連合軍がイタリアに上陸したとき、歴史は不安定な状態にあった。戦略的な意味はスターリンには明白であったであろう。彼が望んでいたようにフランスに侵攻する代わりに、連合軍は彼の前進に脅威を与えた攻撃においてイタリアに兵を進めた。彼は"D Day"の日付を設定することにルーズベルトが乗り気でない背後に何があるかを知っていた。それゆえ11月後半にわたってその連合軍とのテヘラン巨頭会談を早急に調整した後、彼はルーズベルトが求めたこと、何らかの「宗教の自由に関する宣伝広報」作戦の口火を切った。彼が連合軍イタリア侵攻のことを聴いたまさにその日、9月4日に彼は正教会の指導者セルゲイ(Sergei)首座主教を喚問した。そしてその支持の見返りに教会に新しい譲歩を提供した。セルゲイが同意したとき、スターリンは、以前には彼が抑圧していた役職である大主教を選ぶ目的のための教会会議を開催する許可を彼に与えた。教会会議は9月8日に開かれた。そして型どおりにセルゲイを選出した。彼は12日に戴冠された(極端な急ぎ方に注目せよ)。注3)そうこうする間に、セルゲイはカンタベリーの大司教に電報を打った。*そしてFreeAgent[by Brian Crozier, Harper/Collins, 1993, pages 1, 2.]はその出来事を目立たせるために英国国教会の聖職者たちの代表団を送るように彼に求めた。それゆえ9月15日には、ヨークの大司教と二人の聖職者が英国国教会からの支持のメッセージを持って飛行機でモスクワへ出発した。彼らは到着したとき貴賓として遇された。訪問はモスクワのカテドラルにおける儀式(ミサ)の「展示品」祝祭において頂点に達した。そのミサの中でセルゲイは司式した。そして、エキュメニカルな連帯のジェスチャーとしてコープ[聖職者用マント]とミトラ[司教冠]を着けたガルベット(Garbett)博士によって祭壇で同伴された。注4)訪問の間に正教会の主教たちはやや露骨な「メッセージ」を発表した。その中で彼らは「世界中のキリスト者たちに、すべての連合国のキリスト者たちの努力によって長い間期待されていた第二前線がついに確立され、そして、われわれ自身の赤軍が勝利のうちに敵をわれわれの国から追い出しているこの好ましい時期に勝利と平和へと近づくように希望しながら、ドイツに対する勝利を早めるために、彼らの力においてあらゆることをするように訴えた」。(キーシングの現代アーカイヴ、1943年)

西側では、新聞はこれらの出来事を好意的に報道した。このようにして、9月5日にはNew York Timesは大胆にこう宣言した:「ロシアにおいて教会を復活させる一歩が告知される」

その次に来たのはセルゲイの主教としての戴冠のニュースであった。9月14日にはNew York Timesはこうコメントした:モスクワの儀式は...何か一つの宗教の基礎の上でではなくて、宗教的自由の基礎の上でのロシアと民主主義世界との間の一つの共通の会合の場という希望を助長した。」

イギリスでは、9月17 日のThe Timesが次のようにコメントした:「主教の任命、そして別の国家的教会の代表としてのヨーク大司教に与えられた公式の歓迎は四つの自由のうちのもう一つ、世界のいたるところで彼自身の仕方で神を礼拝するすべの人の自由、のロシアによる受容を意味するものと主張されてよいだろう。」

次に24日には、New York Timesはガルベット大司教が次のように述べているとして以下の言葉を引用した:「私はソビエト連邦には礼拝の完全な自由があると確信した。」彼はロシアにおいて物事は変化したというメッセージを強調していた。しかしミンゼンティ枢機卿が後に明らかにしたように、それはすべて欺瞞であった。「政府と教会との間のこの和解のニュースは世界中に広まった...海外では、この政教条約は共産主義者たちが民主的諸原理を受け入れ始めている、そしてブルジョアの立派な態度への途上にあるという希望を目覚めさせた。実際は、この種の何事も起こらなかった。教会はその内面的自由を回復しなかったのであり、一つの政府部局へ従属させられたのである。言葉を換えて言えば、教会は無神論国家の体制の中へと拘束衣を着せられたのである。(1974年Macmillan社によって出版された回想記315ページ。)

そしてその欺瞞が向けられたのは誰であったか? ソビエト国家資料集に基づいたスターリンについての最近の伝記において、最近までボリス・エリツィンの防衛顧問をしていたドゥミトリ・ヴォルコゴノフ(Dmitri Volkogonov)大将はわれわれにこう告げる:

1943年9月4日に突然、...スターリンは教会指導者たちと会見することに決定した...翌日、プラウダはその会合を報じ、主教セルゲイが新しい主教を選出するために主教会議を開催すると告知した...スターリンは、その年の終わりにテヘランで巨頭会談のために準備していたのでこの段階を踏んだ。そして第二前線を開くために再び圧力をかけること、また援助を増加させようとすることが彼の意図であった...(カンタベリーの)主席司祭(ヒューレット・ジョンソン(Hewlet Johnson))からの多くのメッセージを受けて、スターリンは教会に対する彼の忠誠を明らかに示す公的なジェスチャーをする時であると決断した...彼は西側がそのシグナルを認め、それが望んでいた反応を呼び起こすであろうと信じた...」スターリン:勝利と悲劇、Wiedenfield and Nicolson, 1991)

ルーズベルトが彼のキリスト教徒の有権者たちの支持を確信して、彼の軍隊をフランスの侵攻へと委ね、スターリンにD Dayの日付を告知したのはもちろん数週間後であった。アメリカ軍は絶対多数だったので、ルーズベルトは今や事実上「戦争指導者」であった。そしてチャーチルはより従属的な役割を果たすように強いられた。それゆえスターリンは今や「ルーズベルトを手の内にした」のであり、そして彼にイタリアから軍を撤退させ、それを南フランスの侵攻に動員するよう説得した。そしてハリー・ホプキンズがスターリンは東ヨーロッパにはいかなる野心も持っていないとルーズベルトを説得したゆえに、ルーズベルトは同意した。軍隊はすばやく撤退した。このようにしてバルカン諸国のためのチャーチルの戦略を妨害することになった。舞台は今やソビエトの東ヨーロッパ占領のために準備された。スターリンは彼に求められたことを準備した:すなわち、ロシアにおける教会は自由であるということを指摘する何らかの宣伝広報。そうすることによって彼はアメリカの人々の「良心を精算させた」のであり、D Dayを続行することへのいかなる反対をも取り除いたのである。

影響力あるソビエト代理人

諸々の出来事がスターリンに証明したことは西側における政治的変化に影響を及ぼす最善の方法は「教会」を操作することであるということであった。この欺瞞における重要な役割はヨークの大司教によって演じられたことに注目せよ。彼はモスクワに行き、帰国してから「礼拝の自由」についてまくし立てることによって、スターリンの宣伝に信憑性を与え、そしてそのようにして事実上ソビエトの「影響力ある代理人」であった。そのエピソード全体は、もしソビエトの指導者たちが似たような行き詰まりに直面するようなことがあったならば、西側にどのように影響を与えればよいかを彼らに印象づけたことであろう。そしてもちろん、[核]爆弾の発達はそれと同じことをやることであった:それはロシアをその長期の目標を達成することを妨げていた。唯一の抜け道は西側のキリスト教徒にロシアは完全にキリスト教国であり、いかなる野心も持たない平和愛好国家であると信じさせることであった。

聖母が1960年に秘密が公表されるように命じられた理由

冷戦の時代に、ソビエトの指導者たちは彼らの教会の役割を拡大した。1958年にロシア正教会は西側の教会をソビエトのプロパガンダで浸透させるために企てられた前線であるキリスト者平和会議の重要なかなめとなった。

それを指導するのは現代の「セルゲイたち」:正教会の指導者たちであった。そして彼らと提携するのは「赤い[アングリカン]主席司祭」のようなソビエト・プロパガンダを持ち帰って促進する西側の選ばれた聖職者たちであった。誰も「聖衣の人」に挑戦することを好まないので、彼らの地位は人々にほとんど金城鉄壁の信憑性を与える。彼らは主としてエキュメニカルな分野で活動する。なぜなら世界教会会議(WCC)やそれに付随する団体のような組織は政治的活動のための計り知れない範囲を提供するからである。

もちろん、「キリスト者平和会議」によって計画された欺瞞はそれが明らかにモスクワの支脈であるという事実によって制限されていた。それゆえ組織全体が世界教会会議に隠れ家を見つけた。1960年に主座主教ニコディム(Nikodim)--ロシアを非難することから公会議教父たちを妨げる悪名高いヴァチカン-モスクワ協定を取り決めたその同じ人間--はロシア正教会の世界教会会議への加入を交渉した。短期間のうちにキリスト者平和会議に関わっていた他の東側ブロックの諸教会もまた参加した。間もなく世界教会会議はキリスト者平和会議と同じ指導者たちを持った。注5)それゆえ、キリスト者平和会議はモスクワとエキュメニカル運動との間の一つの効果的な結びつきを形成してる。世界教会会議の目的が諸教会の統一であるので、ロシアは今や諸教会を統一するための運動の効果的な支配が可能な地位にいる。カトリック教会にとっての危険は明らかであった。世界教会会議は統一のためのそれ自身の計画のうちにカトリック教会を巻き込むであろう--そしてそのようにしてそれを堀り崩すであろう。聖母がかつてルチアに秘密は少なくとも1960年までに明らかにされなければならない--そのときそれはより明白なものとなるであろうから--と望んでいると語られたのはこの理由による。

別の影響力ある代理人

1943年においてと同じように、もう一人の教会人が今やロシアにヨーロッパにおける一つの支配的な地位を与え得るであろう一つの行動の先頭に立つために現れた。1985年以来、スコットランド教会会議の事務総長であるのとは別に、キリスト者平和会議それ自体の幹事であるアングリカン・カノンのケニヨン・エドワード・ライト(Kenyon Edward Wright)はNATOとその防衛戦略に脅威を与える一つの計画を作ってきた。

冷戦の一つの遺産はわれわれが通常兵器を除外して核爆弾によって悩まされいるということである。ロシアはわれわれの目から隠された圧倒的に優勢な通常兵器を持っている。しかしロシア人が彼らの武器を集積して来た間、われわれは自分たちの防衛力を削減してきた...

攻撃に傷つき易いヨーロッパ

最大の危機はもしイギリスがNATOを離れる気にさせられたならば来るであろう。なぜならイギリスはヨーロッパ本土に攻撃のあった場合にアメリカの爆撃機が離着陸し、燃料補給するための重要な基地を提供しているからである。それゆえ、もしイギリスがNATOへのその義務を放棄するならば、ヨーロッパは攻撃に傷つき易いであろう。しかしイギリスのNATOへの連続した加盟に脅威を与える今日形を取りつつある一つの戦略がある。その政策は分割して支配するという政策である。連合王国を分割せよ、その分離した地域を支配せよ。その戦略を指導しているのはキリスト者平和会議のメンバー、カノン・ケニヨン・ライトである。1985年に彼は明白に政治的な目標をもったスコットランドにおける一つの「教会統一計画」を打ち出した。

それから...1989年に左翼政治家たちとの連携を形成した結果として、彼は分離したスコットランド議会の設立の陣頭に立つ一つのロビー、「スコットランド憲法協議会」を創立することができた。彼は今や「執行部議長」である。後にウェールズ議会のためのキャンペーンが始められた。そして彼はその最初の会議で話をした。彼は二つの「議会」は結びつけられるべきであると認めさえした。注7)彼はスコットランド議会に議席をもつことへの関心を表明した。注8)しかし、このような責任を担った「平和活動家たち」をもってしては確かにスコットランド議会はNATOを拒否するであろう。そしてそれを支持するウェールズ議会とともに、これらの島においてはNATOの全体的崩壊が早まるのではなかろうか?

意義深いことに、「[イギリスのスコットランド、ウェールズへの]自治権移譲」はレーニンとボルシェヴィキが共産党を売ったのと同じ線に沿って売られている。われわれは国家の支配を振り捨て、自己決定的になるよう説得されている。この革命の後にカノン・ライトと彼の追随者たちはスコットランドとウェールズは分離した地域として「ヨーロッパ」に入ることができる、そしてそれゆえに、ヨーロッパの資金のよりよい分け前を相続することができると約束している。スコットランドとウェールズが分離した国家になるとき、このすべては明らかにわれわれのものであるだろう。

同時に、他の誰かは他の諸国がヨーロッパ連合に入る準備ができているということに気が付いたのか? それはソビエト・ロシアのかつての衛星諸国:ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキア、その他の国々である。しかしここに一つの考えがある:ひとたび彼らが入るならば、ロシア自身が参加を申し入れることを何が止めるか? そのような動きはその積年の経済的諸問題のために奇跡をなすであろう。ロシアはヨーロッパによって、すなわち、「連合」のより豊かなメンバーたちによって援助されることができるであろう。それゆえ、ロシアが加入申し込みの適切な瞬間を待ちながら、舞台の袖に立っているということは一つの安全な賭である。もちろん、ひとたび加入したならば、それらの豊かな諸国家のいくつかはロシア経済回復を援助しなければならないことに抗議の声を上げるかもしれない。これは逆にロシアをおそらく軍事力の誇示によってヨーロッパ連合を支配するように駆り立て得るであろう。そのことは現在は起こり得ないであろう。なぜなら、NATOがヨーロッパを守るからである。しかしひとたびNATOが実質的に廃止されたら、ロシアがヨーロッパの支配権を握ることを止めるものは何もないであろう。

1943年に起こったこととの関連は自明である。もう一度ロシアはそれ自身の目的を進めるために西側の聖職者たちを用いている。彼らの努力のおかげでわれわれはすべてのわれわれの軍事的抑止力を放棄しつつある。これまでに初めてわれわれは防衛のまさに必要性に挑戦しつつある。あるカトリック教徒はロシアにおける最近の出来事を、われわれが、エリツィンが彼の政治的反対者たちをロシア議会から爆弾で追い出し、チェチェンの人々を爆撃し、ボスニアのセルビア人たちを武装しているのを見たという事実にもかかわらず、おとめマリアがファチマで約束なさった「平和の奇跡」として解釈しさえしている。ロシアはこれまでと同じように専制的であるということに人々は目隠しされてきた。われわれはロシアは1943年に変わったと考えた。しかしわれわれはなるほどと思われるほどにまったく騙されていたので真理が現れてくるために50年かかった。その教訓を学ぶためにはそれは長すぎるのであろうか?

脚注

1. Roosevelt and Romanism by George Flynn, Greenwood Press, Conn. USA, 1970

2. The Struggle for Europe by Chester Wilmot; Memoirs by Lord Moran, pages 161-174.

3. Memoirs by Cardinal Mindszenty, page 315; Discretion and Valor by Trevor Beeson, Fontana, 1974, page 62.

4. Cyril Forster Garbett Charles Smythe; Hodder @ Stoughton, 1959.

5. Christian Peace Conference(Conflict Studies No. 91)by Lazlo Revesz: Institute for the Study of Conflict, London; pages 65 and 68.

6. Subversive Theology by R Watson in The Salisbury Review 9/87.

7. Speech to Campaign for Welsh Parliament 5/3/94; Radio Broadcast 1991.

8. Article on Kenyon Wright in The Universe(Catholic paper)12/5/91.

2004/03/09 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/09

最終更新日:2004/03/09

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