ファチマの聖母マリア

殉教者たちの教会

The Fatima Crusader Issue 08, April 1982より

ヨシフ・スリピー枢機卿

35年の迫害の後のウクライナ・カトリック教会に関するヨシフ・スリピー枢機卿による一つの報告

一つの古い伝説は使徒聖アンドレがキエフの丘を祝福し、ウクライナにおけるキリスト教の勝利を予告したと告げている。聖ペトロの3人目の後継者である聖クレメンスがトラヤヌス皇帝によってクリミアに国外追放され、そこで殉教者として死に、ウクライナにおける教会に一つの消えない影響を残したということが確実に知られている。500年後にもう一人の国外追放された教皇マルティノ1世が教会の一致のためにウクライナの海岸地方で殉教死を遂げた。

キリスト教徒の一致のための殉教はウクライナ教会の栄光あるしるしであった。東方教会の分裂の後、ウクライナ教会はブレスト・リトヴスクにおいてローマ教会との一致を取り戻した最初の教会であった。そして血の河と死体の山をもって使徒座へのその忠誠を再び動かぬものとした。

この殉教は、スターリンとモスクワの総大主教の活動を通じて、ローマに忠実であったウクライナ人たちが強制的に正教会に編入された第2次世界大戦の後にその頂点に達した。無数の信徒、数百人の司祭そしてほとんどすべての司教たちがこの非エキュメニカルな力の使用の結果として非業の死を遂げた。モスクワの総大主教区における権威者たちはそのことを今なお正教会の歴史における栄光ある1ページと見なしている。

ヨシフ・スリピー枢機卿はその恐怖を生き延びた。彼がローマとの一致を断念し、教皇の首位性を否定するという条件でモスクワの総大主教の座を提供されたときも、彼は忠実であり続け、その十字架の道を続けたがそれは18年間に及んだ。

ヴァチカン公会議の始めには、迫害の責任を分かち持っているアレクシス総大主教の代表者たちが出席していた間、彼[ヨシフ・スリピー枢機卿]の座は空席であった。抗議の嵐が起こった。ヨハネ23世教皇は個人的に介入された。1963年2月9日、この迫害をくぐり抜けた不動の信仰告白者は解放された。ローマ--それ以来彼はそこに住んだ--から彼は彼の教会を指導し続けた。その教会は今なおカタコンベにおいて、そして移住者たちの共同体において生きているのである。この説明において、彼自身、35年以上にわたって彼の祖国において迫害されてきたカタコンベ[地下]教会について報告している。

ルヴィヴ(Lviv)にある聖ジョージ司教座聖堂は17世紀以来ウクライナにおけるカトリシズムの焦点であり象徴であった。1946年にそれは共産主義者たちによって接収され、ロシア正教会に与えられた。ヨシフ・スリピー枢機卿はウクライナ教会の歴史において最も恐るべき迫害が1945年4月11日に始まったとき、この司教座聖堂の首都大司教であり、ウクライナカトリック教会の長であった。枢機卿はこの迫害の最も適任の承認であり、今日の彼の祖国におけるカタコンベ教会を最もよく知っている人物である。

ウクライナ教会の粛正

私の、聖人のような前任者、神のしもべ首都大司教アンドレイ・セプティスキー(Andrej Szeptyckyj)は1944年11月1日に亡くなられました。私たちのウクライナ・カトリック教会がモスクワの総大主教区の助けと共にソビエトの手によって粛正に直面したその瞬間に、神は私に彼の後継者であるという困難なしかし大きな任務をお与えになりました。

1945年4月11日に私は他のすべての司教たちと一緒に逮捕されました。1年以内に800人以上の司祭が私たちに続いて投獄されました。1946年の3月8日から10日まで、リヴィヴの規則違反の教会会議が招集され、無神論者の圧力の下でウクライナ・カトリック教会のソビエトに支配された正教会との「再統合」が告知されました。

10人の司教が殺され、あるいは別の仕方で死ぬ

この「再統合」そしてそれと共に私たちの教会の外的な粛正が野蛮な力をもって遂行されました。司教たちはソビエト連邦のあらゆる地域に強制移送され、そしてほとんどすべては例外なく牢獄で死にあるいは殺されました。私たちは各々自分たちの十字架の道を行かなければなりませんでした。今私は88歳です。イェニセイスク(Jeniseisk)、モルドヴィア(Mordovia)、ポラリア(Polaria)、インタ(Inta)そしてシベリア(Siberia)の記憶は薄れて来ました。しかしその当時は一つの厳しい現実でした。私はほとんど18年近くの間この十字架を堪え忍ぶ力を与えてくださった神に感謝します。そしてその生命の犠牲をもって教皇、聖座そして普遍的教会への忠誠を封印した彼らの投獄によって司教職における私の10人の兄弟たち、1400人以上の司祭たち、800人の修道女たちそして数十万の信徒たちに対して敬愛の念をもって頭を垂れます。

背教と強制移送との間の選択

私たちの司祭たちは「体制の教会」に加わり、そしてそれによってカトリックの一致を断念するか、それとも少なくとも10年の強制移送の厳しい運命とそれに関連したすべての処罰に耐えるか、そのいずれかの選択を与えられました。圧倒的多数の司祭たちはソビエト連邦の牢獄と強制収容所の道を選びました。

1945年から1955年までに私たちの最善の司祭たちの一人はポトマ(Potma)、サロヴォ(Sarovo)、ヤバス(Javas)、ウリヤノヴォ(Uljanovo)そしてポリヴァノヴォ(Polivanovo)の収容所で苦しみました。彼はその小教区の人々にこう書きました:「私はこの投獄を罪の償いとして受け入れ、そしてあなたたちがこの十字架なしで済ませることができるように、それをあなたたちに捧げます。私はあなたたちを祝福し、またあなたたちのために祈ります。1日に5回私は私のすべての小教区の人々のために祈ります。日曜日には私は神的な典礼を祝います。毎日私はmoleben(信心の祈り)を祈ります。...彼らは私に背教を強制したいと思っていますが、私は拒否しました。..神の訴訟は勝利するものでなければなりません。あなたたちの父祖の信仰を守りなさい!」

彼らの10年間の投獄を生き延びた司祭たちにとって、彼らの迫害の終りは決して見えるところにはありませんでした。私はカルパチア山脈にいる一人の修道僧についてのニュースを送られました。彼は子供たちに宗教教授を与えた廉で1968年に再び3年の懲役刑を宣告されました。彼は最後の日まで服役しました。1973年に彼はある女性の病床で祈った廉でさらに懲役18ヶ月の刑を受けました...ソビエト政府はウクライナ・カトリック教会は禁じられているという見解を持っており、そしてそれゆえに個人の家で祈ることでさえ国家に反する犯罪であると考えるのです。」

司祭たちを持たない信徒たち

それにもかかわらず、信徒たちは彼らの信仰に忠実であり続けています。教会が閉ざされ、司祭が強制移送された僻遠の村々で、彼らはときどき密かに教会を開き、晩歌、moleben、人々のために用いられるように考えられた典礼の部分--もちろん、それは応答の部分だけです、なぜなら私たちには司祭がいないからです--でさえを歌います。カリスが祭壇の上に置かれ、蝋燭が灯されます。」

信徒たちは礼拝に非常に愛着を持っていますから、もし彼らが正教会の司祭を信用する場合には、彼の儀式にも参加します。

無神論的体制はその目標を見失った

今なお35年間にわたって続いている迫害にもかかわらず、私たちは滅びるようにと宣告された私たちの教会が単に生きているばかりでなく、西部および東部ウクライナの両方において、そして私たちの強制移送された人々が生きているソビエト連邦のいたるところに、特にシベリアにおいて発展しているということを感謝をもって宣言することができます。

私たちの教会はローマに忠実であり続けた少なくとも400万人の信徒をソビエト連邦の中に数えます。彼らの信仰は非常に強いので、多くの実を結んでいます:私たちは司祭、修道者、修道女、さまざまの職業の人そして秘密の聖職位階を持っています。無神論的体制は信仰を破壊することに成功しませんでした。神なき国家において成長した親たちは自分たちの子どもをキリスト教精神において育てています。無神論的学校で教育された反体制の人々は神について話し、教会を擁護します。ある35歳の女性は法廷の前で4人の子どもに洗礼を受けさせ、彼らに祈りとカテキズムを教えたと誇らしげに認めています。ある旅行者の質問に答えて、14歳の生徒は真面目にそして躊躇せずに「もちろん、僕は祈ります」と答えます。

ウクライナにおける永久礼拝

私たちの信徒からの手紙は勇気づけるものです。私たちの修道女たちの院長は今年私に復活祭の挨拶を送ってきました。彼女はこう書きました:「私たちは日夜御聖体の礼拝をしています...私たちの娘たちの数人の者は結婚しました。」これは若い修道女たちの数人が終生誓願をしたという意味です。

看護婦として働く秘密の修道女たちはキリストに対するすばらしい証をしています。彼女たちは多くの探求者たちをキリストへ導いています。彼女たちの自己犠牲の生活は他の若い女性たちに彼女たちの模範に従う希望を与えます。彼女たちが修道女であることを知っている無神論的な医者たちでさえ彼女たちの献身を非常に高く評価しているので、あらゆる犠牲を払っても自分たちの病院に彼女たちを留めておきたいと望みます。

召命の不足はない

カルパチア山脈の向こうから来た一人の若い医師は司祭になるために借りてきた書物の助けで神学を勉強しています。若い医師たち、技術者たち、法律家たち等々が司祭あるいは修道者として自らを神に捧げています。一人の秘密の司教が1980年1月8日に私に1通の手紙を書いて来ました。「私たちは通信教育のコースで神学を研究してきた新しい司祭たちを間もなく叙階します。シスターたちは書面の質問を志願者たちに渡し、彼らの解答を集めています。口頭試問は田舎で春あるいは夏に戸外で行われます。入会式がそのあとに続きます。」

1980年2月11日のある手紙の中で一人の経験のある司祭が私にこう保証しました:「新しく叙階された司祭たちの中に何人かのすぐれた人々がいます。」それは非常な誉め言葉です。しかしカタコンベの教会において司祭職の恵みを受けるためにはどれほど多くの信仰が必要とされることでしょうか? そしてこの召命<をやり遂げるためにどれほど多くの犠牲が必要とされることでしょうか? このことをよく理解させるために、私たちの司祭たちのうちの一人の物語をあなたたちに話しましょう。

ミコラ神父の物語

私たちは彼をミコラ(Mykola)と呼びましょう。非常に宗教的な両親の息子として彼はまた非常に若いときから司祭になる望みを持っていました。カタコンベの司祭たちが彼に神学を教えました。彼は1975年に叙階されました。

地下貯蔵庫での叙階式

叙階式は信用のおける人々の列席の下に地下貯蔵庫で行われました。ミコラ以外に11名の他の叙階候補者がいました。カタコンベ司教は数人の老司祭たちによって補助されました。それは感動的な儀式でした。カタコンベでの司牧的な働きのためには最大の注意が要求されますので、誰一人典礼の祭服をつけませんでした。彼の司祭のための装備としてミコラは一つの小さなひげ剃りのケースの中にすべて積み込まれた祭服と典礼用のさまざまのものを与えられました。中身は? 小さなカップ、小さなスプーン、エピトラチェリオン(epitrachelion)あるいはストラ[帯状の布]として役立つための彩色された絹の細長い布きれそして水とぶどう酒の入った2本の小さな瓶。新しく叙階された12人の司祭たちは地下貯蔵庫の中で彼らの司教と共に最初の神の典礼を祝いました。司教の祝福と共に彼らはキリストと彼らの迫害された兄弟たちに仕えるためにそこで彼らの仕事を始めるために新しいカタコンベへと出かけて行きました。

一人の秘密の司祭と一緒の旅行で

ミコラ神父と彼の11人の友人たちはどのように働くのでしょうか? 若い司祭たちは活動のための自由のいくらかの余裕を彼らに残す安い給料の仕事を意図的に探します。彼らは状況が許すとき典礼を祝います。ミコラ神父は行くところはどこでも信用のおける人物を探します。日曜日の朝早く彼は村に行き、教会の外に立っている人々の間に混じります。

「典礼は祝われるでしょうか?」彼は訊ねます。

「人々は自分たちだけで祈ります。なぜなら、司祭は強制移送されたからです」というのが彼が与えられる答えです。

ミコラ神父は聖具保管室に入って行き、そして年老いた聖具保管人に神の典礼を祝ってもよいかどうか訊ねます。聖具保管人は最初彼を疑わしそうに見ますがしかし最後には納得し、彼が祭服をつける手助けをします。ミコラ神父は祭壇に上り、歌い始めます。出席している人々は眼に涙を浮かべて答えます。彼らが最後に司祭を見、神のみ言葉を聴いたのはずっと前のことです。司祭が教会を去るとき、彼は再び一人の単純なソビエトの労働者です。聖具保管人は彼を家に昼食に連れて行き、数人の他の信用のおける人々を招きます。彼らはミコラ神父に数日間滞在するように頼みます。多くの洗礼を受けていない子どもたちがおり、また告解を望んでいる病人がおり、そして祝福されなければならない多くの墓があるからです。彼はその村にとどまり、彼の司牧上の諸々の義務を遂行します...

神の御母が彼を守られる

ミコラ神父はたいていは、彼がまた必要な場合に隠れることができる一つの家に宿泊しています。いくつかの場合には彼は裏切られます。しかし信徒たちは常に彼の逮捕を妨害することができました。彼が司祭の諸々の職務を遂行するときには何人かの人々が常に見張りをします。教会で典礼を祝うことが不可能ならば、彼はある信頼できる信者の家でそれを行います。ときには彼は党幹部の子どもたちにさえ夜密かに洗礼を授けます。このようにして彼と彼の友人たちはウクライナ中を旅行します。彼は単にカトリック信者だけでなく、また正教会の信徒をも訪問します。ウクライナの人は皆神の聖なる御母が彼を保護してくださる、そしてマリアが御自分の司祭たちを、可哀想な人々を慰めるために送ってくださると信じています。

ミコラ神父の物語--私はそれを1979年10月に書かれたあるレポートから取ったのですが--は抑圧の中で成長し、山を動かすことができる英雄的な信仰を証しています。しかしそれはどれほどの値で勝ち取られたのでしょうか? 一人の正教会の反体制の人、オレス・ベルドニク(Oles' Berdnyk)は、教皇に次のように書いた後1979年12月にもう一度逮捕されたとき、このことを経験しました。「私は無神論が公式の教えである国に生まれ、育ちました。闘争によって、そして苦しみの中で私はキリストを見出し、そしてキリストの生涯の真実性を学びました...」

死体がまき散らされた十字架の道

同じことは私たちの司教たちのうちの一人--彼は最近彼の諸義務を遂行している間に発見されました--によっても経験されました。KGBは協力させようと彼に説得するために脅迫と拷問を用いましたが無駄でした。彼らはまた内部から教会の一致を分裂させる試みにおいてある程度の自由を彼に約束しましたが、しかしもれもまた失敗でした。なぜなら、その司教は教会にとって十字架の道以外には他の道は何もないということを知っているからです。ウクライナ教会のこの十字架の道は今日もなお死体でまき散らされています。

1980年3月に私たちの司祭たちのうちの一人、アナトール・ゴルグラ(Anatol Gorgula)の死体がロハティン(Rohatyn)地方の一つの村トマシヴカ(Tomashivka)で発見されました。彼は縛られ、石油をかけられて焼き殺されていました。彼の信徒は、彼の唯一の罪は教会に対する忠誠と神の典礼を挙行したことだったと私に報告しました。

1980年5月にルヴィヴ(Lviv)近くのジムナ・ヴォダ(Zymna Voda)で60歳の司祭イヴァン・コティク(Ivan Kotyk)が彼が働いていた工場で殺されているのが発見されました。彼の顔は真っ青で、鼻は凝固した血でつまり、すべての歯はへし折られ、そしてパンが口の中に無理矢理詰め込まれていました。彼の信徒たちは聖歌を歌いながら彼を埋葬しました。そして弔問者の数は非常に多かったので、葬列は600mにもなりました。

私たちの若い信仰告白者ヨシプ・テレリヤ(Josyp Terelya)が1977年3月6日にパウロ6世教皇に宛てて布きれに書いたことは今日でもなお真実です。「ウクライナにおけるギリシャ・カトリック教会にとって厳しい時がやって来ました。私たち、この教会の信徒は自分たちの子どもたちに秘密で洗礼を授け、結婚させ、告解をさせ、そして秘密のうちに埋葬するよう強いられています。私たちの司祭達は労働収容所や精神病監房の中で呻いています。彼らは精神的に滅ぼされつつあります...私はキリスト者であることが犯罪である国に住んでいます。キリストの教会の信徒が今日のような迫害に曝されたことは今までに一度もありませんでした。ウクライナのカトリック信徒はあらゆるものを奪われました:普通の家庭生活、言論の自由、私たちの教会の典礼を祝うことを。私たちはカタコンベの中にいます!神の言葉のために生きている精神が十字架にかかっています。私の生涯の34年のうち、私は14年間を牢獄、強制収容所そして精神病棟で過ごしました...キリスト教界のすべての勢力による一つの反作用がないかぎり、神なき世界の諸々の犯罪には終りを期待することができません...私たちは痛めつけられているギリシャ・カトリックのウクライナ教会を守ってくださるよう私たちのカトリックの兄弟たちに懇願します。」

殉教者たちの生ける教会

私たちの教会は、自由世界の多くの人々が信じているように、あるいはおそらく望んでさえいるように、死んではいません。なぜなら、私たちの教会はそのあまりにも人間的な計画の途上に立っているからです。私たちのウクライナ教会は生きています。このことの最善の証拠は私たちの教会の殉教者たちです。教会は信じるがゆえに苦しんでいます。そして教会は苦しんでいるがゆえに信じています。そして1980年5月の手紙の中で私が書いたように、教会は神のために苦しむことを許されていることを喜んでいます:「私たちは主から選ばれています。神とその教会のために苦しむことを許されていることは一つの恵みです。」

私たちの信徒にとって、私たちの教会が最も血生臭い迫害の35年後になお生き残っているという事実は彼らにくりかえし熟考することを強いる神の恩寵の一つの奇跡です。この奇跡は彼らの信仰を揺るぎのないものとしています。

共産主義体制もまた、60年前にそのような自信とそのような誇りをもってそれが始めた人間の霊魂に対する闘争が、彼らが期待した成功をもたらさなかったということを知っています。宗教的礼拝には参加しないようにという、諸々の共産主義青年組織の訴えを含む青年たちに対して新聞でなされるしばしばの訴え、聖なる場所や信徒を絶えず嘲ることは大多数の人々が今なお彼らの信仰を固持しているということを明らかに証明しています。この信仰は非常に強いので、それは若い人々を彼らの共産主義指導者たちの影響から引き離し、彼らを神へと連れて行く力を持ってさえいます。無神論の地獄において実際に生活した者だけが教会が私の祖国において信仰と道徳の教師としていかなる役割を果たしているかを理解することができます。

ソビエト連邦において当時なお反体制者であったウクライナの歴史家ヴァレンティン・モロス(Valentyn Moroz)は1973年に正当に次のように書くことができました:「教会は私たちの文化生活に非常に深く根付いているので、国家の霊的構造全体を同時に壊すことなく教会を邪魔することは不可能である。」

それは本当です。しかし教会はまた私たちの人々にとってより深い意味をさえ持っています:共産主義独裁体制との政治的協力を拒否する他の宗教的諸団体と共に、教会は福音を生きることに関わりたいと望むすべての人々にとって真理と道徳の柱、防波堤です。

離散教会と普遍的教会にとっての重要性

私の祖国における教会の生存と霊的強さは難民あるいは移民として世界中に散らばったウクライナ人たちの忠実さにとっても非常に重要なものです。しかし母なる教会の生存にとってディアスポラ教会[離散した教会]の問題はあり得ないでしょう!バビロン捕囚におけるユダヤ人が、エルサレムを忘れたとたんに異国の風習に不可避的に適応したのと同じように、ウクライナのディアスポラもまた母なる教会とのその内的なつながりがなくなればそのアイデンティティを失うでしょう。この運命的な同化は単に民族的なものにおいてだけでなく、また私たちの人々にとってその内的本性とそのカトリック信仰の喪失をもって終わるであろう宗教的な分野においてもまた進行します。

聖パウロの言葉において私たちが「キリストの神秘体」と呼ぶ生命の神的通交において、ある教会の生存はその影響を他のすべての特定の教会に及ぼしますので、いかなる教会もウクライナ教会に対して無関心のままでいることは許されません。無防備のキリストのようにすべての制度的、組織的および物質的手段を奪われても、ウクライナ教会はそのすべての姉妹諸教会にとって内的強さと真の刷新の源泉です。ここでウクライナ教会は普遍的教会の霊的宝に対して彼女自身の価値ある貢献を果たしています。

エキュメニズムにとっての重要性

普遍的教会の枠内におけるウクライナ・カトリック教会の位置と意義を考察するとき、私たちはすべてのキリスト者の再統合について話さなければなりません。キリストにおける一致は回復され、神秘体における分離の深い傷は癒されなければなりません。第2ヴァチカン公会議は私たちにこの任務を与えました。東ヨーロッパにおいては人々は数世紀にわたってこの任務のために働いて来ました。

今日いわゆるエキュメニカルな対話が最大の熱意をもって遂行されていますけれども、それは不幸なことに高位聖職階級や専門家たちの小さなサークルに限られています。西欧においては人々は非常にわずかしかそれに参加していませんし、ソビエト連邦においては全然参加していません。しかしソビエト連邦においては、一緒に生まれた迫害の十字架が一つの真のエキュメニズムを生じさせました。その真のエキュメニズムは妥協のない信仰告白と殉教者たちの血によって純化され、福音の最も基本的な原理:神に関わることを求め、人間たちに関わることを求めないという原理、にまで達しています。なぜなら、カトリック教徒と正教会信徒、バプテスト派の人々そして他の教派の人々はキリストのために同じ仕方で苦しんでいるからです。この苦しみは彼らすべてを同様な仕方で神とその教会の子どもとします。このことは計り知れない価値を持ちます。現代のエキュメニズム推進派はこの新しい事態から目を背けないほうがよいでしょう。

そして共産主義体制は?

私たちはまた私たちのウクライナ教会が共産主義体制から何かを期待することができるかという問を出してもよいでしょう。絶対に何もありません!

共産主義体制の中には教会のための余地はありません。教会が何らかの仕方で許容されているとしても、これは教会とは何の関係もないか、あるいは教会に反するかのいずれかの目的を達成するという唯一のそして排他的な目的のためです。そしてもし私たちがソビエト国家によって許容された教会組織における肯定的なキリスト教的要素を発見するならば、これらの要素は支配している共産主義者たちの意志によってではなく、神の御意志によって決定されたのです。教会の真の福祉はその悪魔的な性格のために原理的に神、教会そしてあらゆる宗教に反対して戦わなければならない一つの体制からは希望されることはできません。

ウクライナにおける私たちの兄弟姉妹たちはそれゆえにただ神だけを頼りにします。神はその御摂理の奇跡によってその憐れみに満ちた愛の道具となるために数千マイルの距離にあってさえ人々を奮い立たせることができる御方です。私の殉教した人々を援助するこの愛の仕事は多年にわたってヴェレンフリード(Werenfried)神父の「難局にある教会への援助」(Aid to the Church in Need)によって高貴な仕方で遂行されて来ました。私の忘れられ、知られていないウクライナ教会のために私は、教会があなたたちから受けた計り知れない援助に対して彼とあなたたちすべてに感謝します。私たちの感謝はあなたたちが単に金銭だけでなくまたあなたの心の一部をも私たちに与えておられるということを感じるときますます大きなものです。

あなたの援助の任務

物質的な援助よりももっと大切なのはあなたたちが与えることができる霊的および道徳的な援助です。あなたの迫害されている兄弟たちを決して忘れないことはあなたの任務でありあなたの義務です。ルヴィヴにおける私たちの神学校の前教授および校長であり、35年間のカルワリオの後に1980年1月26日その聖人のような死を迎えたイヴァン・ツォルニアク(Ivan Czorniak)博士は彼の最後の手紙の中で私に、世論に影響を与えることができるあらゆる可能なことをし、世界の良心を揺り起こし、ソビエト連邦におけるすべての抑圧された人々のために宗教の自由の基本的権利を要求し、そしてよく話すことができる人々によって沈黙の教会が死まで沈黙させられることを止めさせるように求めました。今や神がこの生活から私をお呼びになる日がだんだん近づいているので、私はおそらく最後になるであろうこの機会を利用して、私の殉教した兄弟の最後の望みを申し述べます。

しかし単に話すだけでは十分ではありません。あなたは祈りそして働かなければなりません。そしてとりわけあなたはいつもキリスト教的生活を送らなければなりません。私たちの迫害されている兄弟たちが再び自由世界の教会において道徳的な強さ、揺るぎない信仰そしてすべての人権の擁護を賞讃するその日がついに来るとき、その日彼らは彼らの闘争を続ける新鮮な勇気を引き出すでしょう。そのとき彼らの心はより大きな信頼で満たされるでしょう。そのとき彼らのくびきは容易なもとなり、彼らの重荷は軽いものとなるでしょう(マテオ11:30)。アーメン。

ヨシプ・スリピー枢機卿
ローマ、1980年7月28日

2004/01/28 三上 茂 試訳

作成日:2004/01/28

最終更新日:2005/03/19

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