ファチマの聖母マリア

私たちすべてに対する神の慈悲

The Fatima Crusader Issue 71 Autumn 2002より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

 「神は世界を罰しようとなさっています。そしてそれは恐ろしいものとなるでしょう。」

....ファチマのルチア

 合衆国とカナダでの少年愛スキャンダルにおいて起こっていることは私たちすべてに対するひとつの警告です。

 この危機は私たちの社会の公然たる懲罰です。

 この危機は、私たちが全滅させられるか、奴隷化されるか、それとももっと悪いことに直面するかそのいずれかが起こる前の悔い改めへの最後の呼びかけの一つです。

 この危機はファチマ・メッセージの中で予言されています。その一部はソダノ枢機卿に仕えるバチカンの職員たちによって今なお隠されています。

 私たちは今日ファチマで予言された恐るべき懲罰を切り抜けています。困った事態は--たいていの人々がそれが何であるかにまだ気づいていないということです。--そして最も悪いことはそれがまだこれからやって来るということです。私たちの仕事は、聖母が私たちに警告するために来られたこと、そして聖母が起こったことを阻止しようと努められたということを、聖母の権威によってあなたたちに告げることです。しかし世界は、そして教会の多くは、その位階の頂点に至るまで、耳を傾けませんでした。それでも、愛すべき御母は、私たちの上に降りかかろうとしている最後のもっと恐るべき懲罰を阻止するのを助けるために、今もなお私たちに手を差し伸べておられます。

 先へ進む前に、ファチマについて、ファチマ以前の世界について、そしてファチマ以後の世界および教会について、背景を知っておく必要があります。

1 現在の危機の脈絡

 2002年の現在私たちがどこにいるかを理解するために、まず1917年以前に世界と教会がどこにいたかを理解する必要があります。

 1917年にはすでに世界が非常に悪い状態にあったということを理解する必要があります。教皇聖ピオ十世は教皇在位の初めに(1905年頃)、時代は非常に悪化していて、アンチキリストがすでに地上に来ていると考えていると言われました。第一次世界大戦は人類の上にひとつの懲罰として与えられたのです。聖母はファチマで「戦争は罪に対する罰です」とおっしゃいました。

 1900年代初期の古きよき時代は実際は全然よいものではありませんでした。第一次世界大戦はそれまでの歴史の中で地上での最悪の戦争でした。

 私たちの道徳的基準を正す正しい見通しを得ようとするならば、すでに1917年に世界が非常に悪いものであったということを理解する必要があります。すなわち、人々は一般に善悪を隣人の手本--あるいは先祖の手本によって判断します。私たちは正しい模範となる役割モデルを見つける必要があります。さもなければ、私たちは悪い手本に従い、まっすぐに地獄へ向かうでしょう。

 聖母は教会と世界における状況をごらんになり、人が間違った道におり、導きを必要としていることをごらんになりました。聖母は私たちが非常な窮境にあることを理解なさり、母としての愛と配慮から、私たちが陥っている道徳的泥沼から抜け出す唯一の道を示すために来られました。

 (85年前、1917年以後に生まれた)私たちのほとんどの者にとって、私たちは1917年の諸々の悪を選択しませんでしたし、私たちはそれらの悪について責められることはできません。

 しかし、私たちは、ファチマを無視するならば、1917年以後は罪ある者です。私たちの世代を判断する規則は1917年10月13日の太陽の奇跡以後は変化しました。7万人の目撃者がその奇跡の途方もない力と栄光を証言しました。それは反駁できないものであり、否定できないものですから、この奇跡とファチマのメッセージは私たちひとりひとりに厳粛な義務を課します。

 教会と世界は全体として祝せられたおとめとそのファチマ・メッセージをみくびりました。このことは重大な罪です。なぜなら、それはキリストの御母に反することだからです。そしてよき御子であるイエズスはそのことを黙って許されないでしょう。そのことはまた聖霊に反する重大な罪でもあります。なぜなら、公的な太陽の奇跡を軽蔑することによって、私たちが周知の真理に反することになるからです。

 シスター・ルチアは次のように説明しています:

 「神は、世界を罰しようとなさる前に、いつも他のすべての救済策をお使いになります。さて、世界がどんな注意も払わないということをごらんになられると、神は、私たち人間の不完全な言い方で言えば、『ある種の恐怖』を伴って救いの最後の手段、すなわち、ご自分のいとも聖なる御母を私たちに提供なさるのです。」

 「それは『ある種の恐怖』を伴ってです。なぜなら、もしこの最後の手段を軽蔑し、拒絶するならば、私たちは天からのどんな赦しも得られないでしょうし、福音書が聖霊に反する罪と呼んでいる罪を犯すことになるからです。この罪は完全な知識と同意を伴って神が提供なさる救いを公然と拒否することにあります。イエズス・キリストが非常によき御子であること、そして私たちが御子のいとも聖なる御母に敵対し、軽蔑することを決してお許しにならないことを忘れないようにしましょう。」

 「私たちは数世紀にわたる教会史を通じて明らかな証言を記録してきましたが、それはいとも聖なる御母の名誉を攻撃した人々にくだった恐るべき懲罰によって、私たちの主イエズス・キリストがどのようにご自分の御母の名誉をいつも擁護されたかを示しています。」

 神は常に正しく、そして基本的な規則は同じです。しかしながら、ひとつの新しい事情があります。--神はひとつの誤り得ないしるしをお与えになりました。そのしるしの重大さ、証人の数の巨大さは人類の歴史においてかつて与えられたことがないものでした。

 その結果、地の表を歩かれたキリストを実際に見た世代を除いて、私たちは人類の歴史のどの時期においてよりも、このメッセージに注意を払わないことに対してより大きな罪を犯すことになります。そしてキリストの御復活を除いて、太陽の奇跡よりも大きな奇跡を神が人類にお与えになったことはかつてありません。

 この新しい事情は、キリストを十字架につけた世代を除いて、歴史の他のいかなる時代よりも大きな義務を私たちの世代に課します。

 ひとたびそのことを理解するならば、私たちは、この論考によって聖職者のさまざまの階級の少年愛や堕落、そして今日の教会における危機を理解することができます。そこで教えられている教訓を受け入れるならば、私たちは理解するだけでなく、諸問題に対する解決をすぐ利用できるように用意することになります。そしてそれを適用することは困難ではありません。

 ところで、「ファチマ・クルーセイダー」の100万人の定期購読者の多くはこれらの解決策を知っていますし、心にとめています。しかし、ファチマ・メッセージを知らない数百万の霊魂がいます。他の人々はそれを忘れてしまい、別の人々はそれを軽蔑し、判断を留保し、聖母を信じない、また信じるけれども、従いません。ある人々は他の人々が信じ、従うのを止めさて、自分たちが道をはずれているのに、聖母を愛していると公言します。

 預言のこの軽蔑--ファチマを信じないこと、従わないこと、反対すること--は罪であるばかりではありません。そのことはすでに現在北アメリカを含む世界の様々の地域で懲罰を受けているのです--そしてそのことはますます悪化しています。

2 なぜ神は神は罰し給い、そしてなぜ現代にそうなさるのか

 神は人間が罰するようには罰をくだされません。神は怒りあるいは弱さから罰を与えられることはありません。神は罰することを避けることがおできになるときには罰をお与えになりません。しかし私たちが悔い改めないならば、改心しないならば、矯正しないならば、そのとき神は罰をくだし給うでしょう。なぜなら、それは必要なのですから。

 他の何ものも働かないとき、神はご自身に忠実であることはできません。地の表で永遠にこれらの罪が犯されることを許し続けられるとすれば、神は全善ではあり得ません。

 神は罰をくだし給う前に、私たちに忠告を与え、私たちを脅されます。それは私たちが自らを矯正する別の機会を得るためです。神が罰をくだし始められるとき、私たちがその罰を認めることをお求めになります。少なくとも耳を傾け、自らを矯正し始めることをお求めになります。そうなれば、神はそれ以上罰をくだされる必要はないからです。「神は懲罰から私たちを救い出すために懲罰を与えると脅されます。」

 教会博士である聖アルフォンソ・リグオリは神の懲罰に関してそれ以上の洞察を私たちに与えています:

 「おお、私は逆らう者を必ず罰し、敵対する者に報復する。」(イザヤ1:24)

 罰や報復について話されるとき、そのようなことが神の言い方です。神はその正義によって敵対する者に報復することを強いられるのだと言われます。しかし、注意しなさい。神はHeu、「おお」という言葉で始めておられます。この言葉は悲しみの叫びであって、それによって神は、罰そうとなさるときに泣くことがおできになるならば、私たちに対する愛のためにご自分の命を捨てられるほどに心から愛されたその被造物である私たちを苦しめるように強いられることに対してひどく泣かれるであろうということを私たちに理解させようとしておられるのです...慈悲の父であり、私たちをいたく愛しておられる神は罰したり苦しめたりする傾きではなく、むしろ私たちを赦し、慰めたりする傾きを持っておられる方です。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。」(エレミヤ29:11)...そこで、兄弟たちよ、主が今、私たちを罰するためにではなくて、私たちが罪から身を清めるように、そしてそのようにして神が私たちを赦すことがおできになるために、怒りのうちに姿を見せておられるということを理解しましょう。」

 「聖バシリウスは私たちにこう言っています。すなわち、神はしばしば怒りのうちに姿を現されますが、それは神が私たちを慈悲深く扱おうと望んでおられるからです。また私たちを威嚇されますが、私たちを懲罰する意図をもってそうなさるのではなく、懲罰から私たちを救い出す意図をもってそうなさるのです。神の威嚇は懲罰することがお出来にならないことから起こるのではありません。なぜなら、神はそうしようと望まれるときには報復することがお出来になるからです。しかし、神は私たちが悔い改め、そしてそのようにして罰を免除されるのを見るために私たちのことを我慢されます...神は恐れでもって私たちを苦しめるために、憎しみから威嚇なさることもありません。神は、私たちが神に方向転換するために、そしてそれによって懲罰を免れるために、愛から威嚇なさいます。神が威嚇なさるのは、私たちが失われるのを見ることを望まれないからです...神は威嚇なさいます。しかし、それにもかかわらず、私たちのことを我慢なさり、罰を課すことを延ばされます。なぜなら、神は私たちが回心することを望んでおられ、失われることを望んでおられないからです。『一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。』(2ペトロ3:9)

 「多くの罪人は懲罰が彼らの上にくだるまで神の威嚇を信じないであろう。」

 聖アルフォンソは次のように続けています:

 「『あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』(ルカ13:5)神は威嚇なさいます。罪人たちよ、立ち止まりなさい。そして罪の贖いをしなさい。なぜなら、そうしなければ、他の多くの人々がそうなったように、あなたたちは自らを破滅させるでしょうから。」

 「聖プロコピウスは私たちにこう告げています、神は『人を恐れでもって鼓舞なさるが、悪魔は恐れを取り去る』と。神はただご自分の威嚇によって彼らを恐れさせることを望まれますが、それは彼らが罪から離れ、そしてそのようにして救われるためです。悪魔はその恐れを破壊しようと望みますが、それは人々が罪のうちに留まり続け、そのようにして失われるためです。多くの人々は神よりも悪魔を信じる哀れな者であり、そしてそのようにして惨めにも地獄落ちを宣告されるのです。」

 聖アルフォンソはさらに次のように教えています:

 「もし私たちが改心しないならば懲罰が来るでしょう。もし罪を終わらせないならば、神がそうなさるでしょう。ロトは、主はまさにソドムを滅ぼそうとしているということを主によって警告されたとき、すぐに娘婿たちに知らせた:『起きなさい!この場所から立ち退きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』(創世記19:14)

 「しかし彼らは信じませんでした。そして主が彼らに冗談を言っておられるのだと思いました。彼らは、主がそのような威嚇で彼らを恐れさせることによって、彼らの恐怖をもてあそぼうと望んでおられるのだと考えました。しかし罰が彼らを打ち、彼らは焔にもてあそばれるままになりました。兄弟たちよ、私たちは何を期待しているのでしょうか? 神は懲罰が私たちの上に覆い被さっていると警告しておられるのです。それとも私たちは神がそうなさるのを待つのでしょうか?」

 「おお、罪人たちよ、聞きなさい!聖パウロがあなたたちに何と言っているかを:『神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。』(ロマ11:22)

 聖アルフォンソはこう付け加えています:

 「使徒はこう言っています。主が罰され、地獄行きを宣告なさった多くの人々に行使された正義を考えなさい。実に、倒れた彼らに対しては厳しさがあります。主があなたに与えられた慈しみを考えなさい。しかし、あなたに対しては神の慈しみがあるのですから、あなたは罪を棄てなければなりません。もしあなたが生き方を変え、罪の機会を避け、秘蹟をしばしば受け、キリスト者としての生活を送り続け、善のうちにとどまるならば、主はあなたの罰を免じてくださるでしょう。そうでないならば、あなたは滅びるでしょう。そうでないならば、あなたもまた切り取られるでしょう。神はすでに余りにも長い間あなたのことを忍耐してこられましたが、もはやあなたのことを我慢することがおできになりません。神は慈しみに満ちたお方ですが、にもかかわらず正しいお方です。神は御自分を恐れる人々を慈しみに満ちて扱われますが、強情な人々に対してはそうなさることはできないのです。」注1

神は私たちに警告なさったか?

神は私たちに忠告なさったか?

その通りです。神はご自分の聖なる御母を通じてファチマで私たちに警告なさり、忠告なさいました。

 「もし私の要求が聞き届けられないならば、ロシアはその誤謬を世界中に広め、多くの戦争と教会に対する迫害を起こすでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しめられ、さまざまの国民が全滅させられるでしょう。」注1a

 シスター・ルチアはフエンテス神父にこう告げました:

 「いとも聖なるおとめは、私自身にと同様に、私のいとこのフランシスコとヤシンタに何度も、多くの諸国民が地の表から消え去るでしょうと告げられました。聖母は、もし私たちがあの可哀相な国民[訳者注:ロシアの国民]の回心を前もって得ていないならば、ロシアが全世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具となるでしょうと告げられました。」注1b

 神はまたファチマのメッセージを通じて、四つの罰--すなわち、戦争、飢饉、教会の迫害と教皇の迫害--によって世界を罰するであろうと告げておられます。

 教会内部の人々を含むほとんどの人々が知らないことは、教会の迫害は私たちが今まさに耐えていることだということです。これは恐るべき罰です。聖にして母なる教会は今やよこしまな人々、異端的な人々、フリーメーソンや共産主義者のような背教的な人々の潜入によって、そして特に少年愛と同性愛ネットワークによって迫害されているのです。

 教会の迫害はすべての物的懲罰よりもはるかに悪い霊的懲罰です。今日の教会における少年愛スキャンダルの根にあるのはこの霊的懲罰です。

 この脈絡を知るならば、私たちは今やこのことがなぜ起こっているかを理解することができます。このスキャンダルは恐るべきこと、途方もないことであり、私たちはあらゆる段階で、教会で、公的にまた私的に、それに対して抗議しなければなりません。

 私たちはまた、このスキャンダルが、私たちが皆懲罰を受けているという明白なしるしであるということを認識しなければなりません。神がその民のことをお怒りになっているのですから、これらの悪い聖職者が私たちの間にいることをお許しになったのです。

 ですから、私たちは皆悔い改めなければなりません。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:3)

 私たちは皆、悔い改めの必要な犠牲から切り離されました。非常にわずかのカトリック者が実際、悔い改めのゆるみが聖職者のスキャンダルや司祭たちの怠慢において役割を演じたという結果を理解し、あるいは知っているのです。

 私たちが社会的、公的に悔い改めていない(この義務は論考の終わりに説明されます。46p以下を見てください。)がゆえに、多くの司祭はその羊の群を導く恵みを得ていないのです。信徒は悔い改めていません。--司祭は十分な恵みを得ていません。--その結果、信徒は適切に指導されていないのです。

 私たちは、神に仕えているふりをしているが、その心が神から遠い聖職者や信徒のうちに偽善の結果を持っています。このようにして聖書の預言の実現が私たちの眼前で起こっているのです。

 聖パウロはエフェソに一緒に集まった司教たちや司祭たちにこう言っています:

 「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。」(使徒行録20:29-30)

 黙示録第12章は太陽をまとった婦人と彼女の迫害者である大きな竜の幻視を記述しています:

 「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。」(黙示録12:4)

 この節で言及されている天の星はカトリックの枢機卿、司教、司祭たちです。この聖書の箇所についてのカトリック学者の非常にもっともな説明として、ベルナルド・クレイマー神父の『運命の書』(pp.275-284を見よ)を見てください。

 そして聖ジョン・ユードはこれにこう付け加えています:

 「神の怒りの最も明白なしるし、そして神が世界に対してお与えになることができる最も恐るべき懲戒は神がその民に、名前は司祭であるけれども、行為において司祭ではないような司祭、献身的な牧者よりはむしろ貪欲な狼の残酷さを実行する司祭であるような聖職者の手に落ちることを、許しておられるとき、明らかにされています...」

 「神がそのようなことを許されるとき、神がその民のことを徹底的に怒っておられ、民に対してその最も恐るべき怒りを向けておられるという非常に明確な証拠です。だからこそ、神はキリスト者に絶え間なく叫んでおられるのです。『背信の子らよ、立ち帰れ...わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。』(エレミヤ3:14,15)このように、司祭たちの生活における不正行為は罪の結果として人々の上に訪れる天罰を構成するのです。」注2

 数ある理由の中で、教会において多くの人々が社会的な悔い改めをすることを止めたがゆえに、私たちは司祭たちの中へのあらゆる種類の潜入を持っているのです。しかし、それはまた、私たちの集団的な罪にも責任があります。私たちは司祭たちのために十分に祈らず、犠牲をしていません。このスキャンダルは私たちひとりひとりに対する、善人に対してさえの、悔い改めるようにと目覚めさせる呼びかけなのです。

3 自分たちは神に仕えていると考えているが、しかし悪魔に仕えている「善人たち」

 「善人」でさえ落ち度があります。誰も自分は非難するところがないと考えるべきではありません。余りにもしばしばファチマ・メッセージを無視し、預言を軽んじているのは「善人」です。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」(1テサロ5:19-21)

 イエズスの時代には:イエズスの時代に「彼を十字架につけよ」と叫んだのは、宗教をあざ笑う人々、嘲る人々、不可知論者たち、異教徒、間違った宗教を信じる人々、宗教を信じない人々ではありませんでした。

 それは旧約聖書への信仰を告白する「宗教的な」人々、自分たちは神に仕えていると考えながら、イエズスの死のために叫び声をあげたとき実際には悪魔に仕えた、当時の真の宗教に属する人々でした。彼らは自分たちで考えるよりはむしろ、神が彼らにお与えになった明白な奇跡やしるし--イエズスが真に預言者であり、堕落した宗教的指導者たちよりはむしろイエズスに従うべきだという--を認めるよりはむしろ、自分たちの宗教的指導者たちに余りにも大きな信頼を置きました。

 私たちの時代には:それはプロテスタント、ユダヤ人、無神論者、共産主義者、フリーメーソン、異教徒、マホメット教徒ではありません。それはいかなる間違った諸宗教でもありません。それは彼らの宗教的指導者たちに同調するカトリック教徒です。そして彼らは神の御母の言葉より以上にその指導者たちを信用します。ファチマのメッセージを裏書きする神の与え給うた明白なしるしや奇跡より以上に指導者たちを信用します。

 その結果、彼らは世界のラッツィンガー枢機卿の「敬虔な帰依者たち」に同調します。(このことは『悪魔の最後の戦い』において説明されています) 彼らは誤ってこう言います。「あなたたちはファチマのメッセージを信じる必要はないのです。そうすることはすばらしいことであり、敬虔なことですが、しかしあなたたちはファチマのメッセージに従う必要はありません。そして、われわれ、教会の指導者たちは信じる必要、従う必要はないのです。」イエズスの時代に指導者たちが「あなたたちはイエズスを信じる必要、あるいは彼に従う必要はないのです」と言ったのと同じように。

 そして私たちの時代の人々はこの考えに同調します。どのように? 彼らは完全なファチマ・メッセージ使徒職へ献金することを止めました。彼らは、ファチマのメッセージを推進しているカトリック司祭たちが街路へと追い出される、あるいはいわゆるカトリック新聞から排除されるとき、抗議しません。

 彼らは、ファチマ・メッセージがテレビから追い出されるとき、抗議しません。彼らは友人や近所の人々にこう言います。「グルーナー神父に耳を傾けてはいけません。彼は活動停止処分の身なのです」と。これは全くの嘘です。彼らはアロンゾ神父によって集められたファチマ文書の出版禁止になっている22巻の書物の出版を要求しません。アロンゾ神父の未公刊の研究はファチマについて流布されている多くの誤りを払いのけるでしょう。

 彼らは第三の秘密の完全な公開を求める教皇に対する数千万の請願に署名しません。彼らはロシアの奉献を教皇に求めません。彼らは、余りにも自分たちのフットボールの試合に興味を持っていたり、「ファチマの預言は皆過去のものです。あなたたちは安心してファチマを無視できます」と彼らに告げることによって彼らを地獄へ導いている司教あるいは枢機卿を喜ばせています。

4 私たちの時代のしるし:ファチマは無視されている

 私たちの時代の、特にカトリック教会内部での、第一の罪はファチマでの聖母の御出現に対する不信仰と聖母の御要求への不従順です。

 イエズスの時代の罪は、人々がイエズスが神の子であることを信じなかったことです。なぜなら、彼らはイエズスがその奇跡を行われた後でさえ信じなかったからです。イエズス御自身、実質的にはこう言われました:「もし私が来なかったならば、またもし私がこれらの奇跡を行わなかったならば、彼らは罪がなかったであろう。しかし、私は来た、そして奇跡を行った、そして彼らはそれらを受け入れることを拒否したのであるから、罪は完全に彼らのものである。」

 私たちの主はエルサレムのことを思って泣かれました。なぜなら、人々は彼らの災いの時を認識せず、主を受け入れる代わりに、先祖たちがしたことをし続けたからです。彼らはキリスト以前の預言者たちを殺しました。イエズスの時代の人々はすべての預言者たちの王を殺しました。

 彼らはその当時の聖職階級の指導的な人々:ファリザイ派の人々、大祭司、律法学者たちのそそのかしでそうしたのです。

 私たちの時代の罪はキリストが地の表を歩かれた時代の罪と非常によく似ています。

 私たちの時代には彼らは自分たちの災いの時、ファチマのメッセージとともに神が私たちにお与えになった恵みのこの瞬間を認めません。

 私たちの学問のある人々、私たちの時代の高慢な律法学者たち--法律の博士たち、大学教授たち、高位の司祭たち--のように、ラッツィンガー枢機卿とソダノ枢機卿は(『悪魔の最後の戦い』において説明されているように)人々に、預言者たちの元后とそのメッセージを軽蔑するように教えています。そして彼らは自分たちの災いの時を認識していません。彼らは天の元后を信じるよりはむしろ、聖職者の指導者たちを信じています。そしてその結果、西暦70年にエルサレムの破壊があったのと同じように、ファチマの聖母が予言された諸民族の絶滅による私たちの社会の破滅が起こるでしょう。

 完全な第三の秘密(バチカンがそのテキストを公開することを拒否している)はそれ以上の恐るべき懲罰、すなわち、教会における背教を予言しています。聖職者のスキャンダルは、聖職者の堕落によって助長された背教であるように、神からのひとつの懲罰です。このこともまた『悪魔の最後の戦い』の中でよく説明されています。

証拠--ファチマの要求は満たされていない

 聖パウロのテサロニケの信徒への第二の手紙の中で、彼は人々に、キリストの信仰に忠実であるように、そして偽りの教師たちのほのめかしによっておびえないように忠告しました。彼は彼らに、口頭によるのであれ、あるいは書簡によるのであれ、彼から受けた伝統を固守するように命じています。彼は邪悪な者、すなわち、アンチキリストが現れるであろうと私たちに告げています:

 「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そしてあらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。」(2テサロニケ2:9-11)

 ところで、真理を信じなかった人々のために、神が私たちの間に「偽りを信じるようになる惑わす力」を送られるという教えにびっくりする人々のために少し説明しましょう。」

 詩編17(注3)の中で神は次のように記述されています:

 「忠実な者に対してあなたは忠実です。誠意のある者に対してあなたは誠意のある方です。真摯な者に対してあなたは真摯な方です。しかし、心の曲がった者に対してはあなたは機敏です。」

 もし誰かが神の裏をかこうと試みることによって神をだまそうとするならば、神は嘲笑されることを望まれないでしょう。自分たちがどのように神を愛しているかを公的にも、自分たち自身にも宣言するが、にもかかわらずその心が神から遠い人々、真理を愛すると公言しながら真理を憎む人々はアンチキリストの先輩である邪悪な人々の嘘によって欺かれるでしょう。

 私たちはすでに、カトリック教会内部の背教は、上層の位階における余りにも多くの人々の側での欠如、ファチマを信じない、心に留めない、従わないことに対するひとつの懲罰であると指摘しました。そしてまた、それは聖母に個人的に従わない信徒や司祭に対する罰です。すなわち、私たちの多くはロザリオの祈りをしない、スカプラリオを身につけない、聖母に奉献しないのです。

 私たちはファチマの緊急のメッセージが無視されてきたことを次に挙げるような指標によって知っています:

 ・ファチマの聖母が私たちに与えられた正確な要求に従って、ロシアは奉献されませんでした。聖母はロシアが特殊的に[名を挙げて:訳者注]奉献されることをお求めになりました。今や私たちは皆、一人の司教が自分の司教区を奉献することによって、あるいは教会あるいは墓地がある小教区を奉献することによってさえ、小教区教会あるいはカトリック墓地を単純に神の奉仕に特殊的に奉献しないということを知っています。いいえ、司教は外的なしるしによって、彼が特殊的に奉献しようとしているものが何であるかを明白に指摘しなければなりません。このようにして司教はその教会がある場所へ行き、その名前を挙げ、教会の上に十字架のしるしをする、等々のことをします。同様に、世界の奉献はロシアを特殊的に奉献するものではありません。

 聖母の言葉は、約束された効果をもたらすためには、正確に従わなければなりません。結局、世界の平和というこの恵みは小さな事柄ではありません。確かに、聖母が明示されたことことを正確に果たすことは私たちに過大なことを要求しているわけではありません。今日にいたるまで、その奉献は適切にはなされませんでした。教皇は、世界のすべての司教と共に、同じ日に、そして同じ時間に、ロシアを特殊的に名を挙げて、マリアの汚れなき御心に奉献しなければならないのです。

 ・ロシアは回心しませんでした。ロシアの誤謬は、聖母が預言されたとおり、今なお私たちの間に広まっています。もし私たちが聖母の要求に従わなかったら、預言は成就されるでしょう。薬物の広範な使用、中絶の合法化、そして今や安楽死、これらすべて、そしてもっと多くのことは人類を不道徳の増大と神からの離反へとさらすでしょう。これは、神への立ち帰り、唯一の真のキリストの教会への立ち帰りである回心ではありません。

 ・私たちは約束された世界平和を手にしていません。今なおエスカレートしている諸々の戦争があり、ニューヨーク市のツウィン・タワーで示されたように、ますます近づいて来る戦争の噂があります。現在のエスカレートする核戦争の脅威は言うに及びません。

 ・シスター・ルチアは私たちの主に、教皇が特殊的にロシアをマリアの汚れなき御心に奉献しないならば、そしてそれまでは、なぜ主がロシアを回心させないのですかと尋ねました。イエズスはこうお答えになりました:

 「それは私が、私の全教会にその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として認識するよう望んでいるからである。そのようにして、後に、教会はこの奉献を促進し、この汚れなき御心への信心を私の聖心への信心と並ぶ信心とすることになるであろう。」注4

 1943年に教皇ピオ十二世が世界を(しかしロシアを特殊的にではない)マリアの汚れなき御心に奉献した後で、イエズスはシスター・ルチアに話しかけ、自分はこの行為に満足である、そしてその結果、「現在の苦悩」--これは第二次世界大戦のことを意味している--は短縮されるであろう、しかし、世界平和はそれからは結果しないであろう、と言われました。このことは、明らかに、ファチマ・メッセージに従えば、ロシアが特殊的に奉献されなければならないからです。

 さまざまの機会に、シスター・ルチアは、ファチマの聖母が汚れなき御心への世界の奉献をお求めにならなかったということを明白に述べてきました。例えば、ウィリアム・トーマス・ウォルシュ教授に「一再ならず、そして明確に強調して」シスター・ルチアはこう言いました:

 「聖母が望んでおられることは、ある特別な一日に、教皇と世界中のすべての司教たちが聖母の汚れなき御心にロシアを奉献するということです。もしこのことがなされるならば、聖母はロシアを回心させられ、そして平和が訪れるでしょう。もしそれがなされないならば、ロシアの誤謬が世界中のあらゆる国に広まるでしょう。」注5

 ロシアの誤謬は私たちの間に、毎年5千万人の赤ん坊を殺している合法化された中絶のようなひどいもののように露骨に、広まりました。

 明らかに、この使徒職ばかりでなく、単にシスター・ルチアばかりでなく、祝せられたおとめマリアばかりでなく、神御自身が私たちに、ロシアの奉献がなぜ明白に、そして変更なしになされなければならないかを告げておられます。にもかかわらず、神の保証の後でさえ、聖母のファチマでの霊的な要求は無視されたままです。

 「誰も注意を払わなかったので聖母は悲しんでおられます。」

 聖母がファチマで私たちにお与えになった緊急のメッセージは無視されてきました。シスター・ルチアはフエンテス神父とのあるインタビューの中で聖母の苦悩を強調しています:

 「神父様、いとも聖なるおとめは誰も、善人も悪人も、聖母のメッセージに注意を払わなかったのでとても悲しんでおられます。善人は自分たちの道を続けますが、しかし聖母のメッセージにはどんな重要性も与えません。悪人たちは、現実に彼らの上に降りかかっている神の罰を見ずに、メッセージに気を使うことすらなく、自分たちの罪の生活を続けています。しかし、神父様、私を信じてください、神は世界を懲罰なさろうとしています。そしてこれは恐るべき仕方でなされるでしょう。天からの罰は差し迫ったものです。」注6

 「神父様、私のいとこのフランシスコとヤシンタが自分自身を犠牲にしたということ、それは彼らがいとも聖なるおとめのすべての御出現においていつも非常に悲しんでおられるのを見たからだということを、皆に知らせてください。聖母は私たちに一度も微笑まれませんでした。聖母のうちに私たちが認めたこの悲しみ、この苦悩は私たちの魂を貫きました。この悲しみは神に対する侮辱と罪人たちを脅かす罰がその原因です。ですから、私たち子どもは祈りと犠牲のさまざまの方法を考え出すことのほかには何を考えていいのかわかりませんでした。」注7

 「私たちは教皇様の側でローマから悔い改めるようにという世界へのアッピールが来るのを待つべきではありません。また司教区において司教様から、あるいは修道会から悔い改めるようにという呼びかけが来るのを待つべきでもありません。そうではありません!私たちの主はいつも非常に頻繁にこれらの手段を用いてこられました。そして世界は注意を払いませんでした。ですから今、私たちひとりひとりが自分自身を霊的に改革し始めることが必要なのです。各人は自分自身の魂を救わなければならないばかりでなく、また神が私たちの道の前に置かれたすべての魂を救うように努めなければなりません。」

 「悪魔は総力を尽くして私たちを誘惑し、私たちから祈りへの愛を取り去ろうとします。私たちは一緒に救われるか、それとも一緒に地獄に行くかでしょう。」注8

 そのインタビューは1957年に行われました。1982年には教皇ヨハネ・パウロ二世はファチマでこう言われました:「世界はファチマの聖母によって指示された方向とは反対の方向に来てしまいました。」世界とカトリック教会内の多くの位階はその日以来ファチマの聖母をそれ以上にさえ無視してきました。

5 私たちはその結果を蒙っている

 イエズスの時代には:われらの主は人々に前もってエルサレムが破壊されるであろうと警告なさいました。主はエルサレムの町のことを考えて泣かれました。なぜなら、彼らはその訪れの時、恵みと慈しみの瞬間が彼らに来たということ、そして彼らがそれを拒否したということを認めなかったからです。われらの主が言われたように:

 「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」(マタ23:37)

 当時神が彼らに提供なさった援助を拒絶した結果として、エルサレムの破壊は前例のないものとなりました。そしてそれは今日までなお見ることができます。われらの主は、あなたたちの敵があなたたちを取り囲み、城壁を駈け登り、町を破壊する時が来るであろう、その結果「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコ13:2)と言われました。

 今日に至っても、エルサレムは古い町があったところは再建されていません。そしてエルサレムのあの破壊のモニュメントがあります。それは嘆きの壁です。いくつかの石が他の石の頂上にある一つの壁がありますが、それは破壊されたエルサレム全体のうちで残された唯一のものです。

 そして人々は奴隷として連れ去られました。エルサレムの破壊を生き延びた人々は他の言語、他の国へ故郷から何百マイルも離れた地へ捕虜となって連れて行かれました。彼らはその残りの生涯を奴隷として過ごし、彼らの子孫は何世紀にもわたって、そうでした。

 それがそのとき人々に起こったことでした。なぜなら、彼らはその堕落した指導者たちに従い、神が彼らにお与えになった預言者に耳を貸さなかったからです。たとい彼らが自分たちは神に仕えているのだと考えたとしても、彼らは悪魔に仕えていたのです。しかし、これらの人々は当時真の宗教に属する人々でした。

 まったくあり得ることですが、彼らは自分たちが真の宗教に属していることを誇りに思っていました。そして彼らがエレミヤの時代に言っていたことを自分たちにも言っていました。「エルサレムは神の聖なる都だ。それは決して破壊されることはないだろう。」 ちょうど私たちの時代のカトリック教徒が真の信仰に属していることを自慢にし、「神は地獄の門もこれに対抗できないとお約束になったのだから、私たちには何事も起こらないだろう」(マタ16:18)と言うのと同じです。

 彼らはこの考えによって自らを欺きます。なぜなら、地獄の門が教会に対抗できないというお約束は真ではありますが、彼らが個人的に教会に留まるであろうという保証を持っているわけではありません。背教によって、異端によって、分派によって、ある人は教会を離れます。ですから、約束はもはや彼らには適用されないのです。

 私たちの時代には:結果はすでに、東ヨーロッパ、ロシア、中国そしてキューバの人々の奴隷化でした。すなわち、戦闘的無神論的専制主義、別名共産主義がそれです。

 これらの政体は--それらのうちのあるものはその外見を変えましたけれども--今なおこれらの国々をその支配下に置いています。この専制主義の害をこうむったのは単に共産主義諸国ばかりではありません。共産主義ロシアの誤謬は西欧にも広まりました。カナダや合衆国のようないわゆる自由民主主義諸国においても、両親たちは彼らにとって最も価値あるところのもの、すなわち彼ら自身の子どもたちを殺す自由を宣言し、そうするための手段を提供している彼らの政府に感謝しています。

 彼らは自分たち自身の子どもを殺すというそのような猛烈な行為は必要であると感じています。なぜなら、彼らは現在では子どもたちを持つ余裕がないからです。しかし、彼らは自分たちの政府が彼らの収入の40%を取り上げていることに気づいていないように思われます。それは彼らが自分たち自身の子どもたちを養うために必要とする以上の金額です。

 このことについてのいかなる抗議の声も聞こえません。むしろ、聞こえて来るのは、「私たちは自由な中絶を欲する、私たちは自分たちの赤ん坊を殺す権利が我が国のあらゆる法律において大切にされることを欲する」という大衆の抗議です。彼らはいかに盲目なことでしょう。これは、私たちの時代の人々がファチマのメッセージを無視していることの結果として、ロシアが世界中に広めることに成功した誤謬の一つです。

 私たちの時代には人々の懲罰はまだ終わってはいません。もし私たちが聖母を無視し続けるならば、教会は迫害されるでしょう(現在そうである以上にさえ)、善人は殉教するでしょう(今そうである以上にさえ)、教皇は多く苦しむでしょう(今以上にさえ)そしてさまざまの国が絶滅させられるでしょう、すなわち、無に帰せしめられるでしょう、ということを保証するファチマの聖母の預言を持っています。

 それはまだ起こっていませんが、それほど遠い先のことではありません。シスター・ルチアが言ったように:

 「もし私たちが改心しないならばやがて来るであろう物質的な懲罰について告げることが私の意図ではありません。そうではありません。私の意図はすべての人に、もし改心しないならば、地獄に行く危険に私たち皆が直面しているということです。」注8a

シスター・ルチアはまた(1957年に)、神が恐るべき仕方で世界を罰せられるでしょうと言いました。すでに、1957年までに、ポーランド、ハンガリー、ロシアそして中国--世界人口の三分の一の10億の人々--が奴隷化されました。しかし、よしそれが恐るべきものであるにせよ、シスター・ルチアは、共産主義的専制主義者たちによる諸国の奴隷化よりももっと悪くさえある、恐るべき仕方で神が懲罰を下されるでしょうと言いました。

6 背教のしるし

 シスター・ルチアが言及している--諸国の絶滅よりももっと悪い--恐るべき罰とは何でしょうか? その罰は霊的な罰です。その罰は聖書に予言されています。その罰は一つの名前を持っています。それは背教と呼ばれています。ファチマの第三の秘密は、私たちの時代におけるすべての国々の、おそらく諸大陸の、信仰からの背教を予言しています。(このこともまた『悪魔の最後の戦い』という書物の中で説明されています。)

 この懲罰はどんな物質的懲罰よりも悪いものです。なぜなら、人々は自分たちが神に仕えていると考えているのに、悪魔に仕えているからです。彼らは、自分たちが天国における報酬を刈り取っていると考えているのに、地獄における深い場所を自ら刈り取っているのです。この背教はファチマ・メッセージ全体を無視し、信ぜず、従わず、熱心に促進しない人々の結果です。

 この罪は単に悪い人々--銀行強盗、殺人者、中絶をする人々、他の公的な罪人--のためばかりではありません。ファチマの聖母とその預言的なファチマ・メッセージを軽蔑するこの罪はまた善人にも及ぶべきものです。

 イエズスの時代には:彼らは、みだらなダンスの値を払うために洗礼者聖ヨハネの首をはねた一人の王を持っていました。彼はそのことを、祝祭の最中、人々が食事のすばらしい時間を過ごしているときにやってのけました。このことはあなたたちに、権力を簒奪し、まったく不道徳であった彼らの国王がどのように堕落した者であるかということを考えさせます。

 人々は、彼らの現世的な事柄に対するこの種の支配者がすでにその時代がいかに悪いかのしるしであること、そして彼ら自身どれほど悔い改めなければならなかったか、を認識しませんでした。彼らは、神がお怒りになっているということを知ったときにニネヴェの人々がしたように、荒布の衣服をまとい灰をかぶって悔い改めをする代わりに、喰らい楽しみながら、自分たちの生活を続けました。

 背教が突然起こるのではないということを理解することは大切なことです。それはあなたたちの上に忍び寄って来ます。そして、しるしがあなたたちに与えられ、あなたたちが地獄への滑りやすい道をくだる間違った道にいるとき、もしあなたたちが強く反応しないならば、そのときそれは加速するのです。

 同様に、イエズスの時代には、その唯一の関心が自分たち自身の野心と権威の地位であったあの残忍な大祭司たち、イエズス・キリストを十字架につけようと共謀した者たちは一夜にして悪くなったのではありません。

 それはずっと前から明らかであったに違いありません。彼らの偽善はイエズス御自身によって指摘されていました。しかし彼らは悔い改めることを拒絶しました。そのような悪は見ようと望む人々に明らかにされないはずはありません。当時の彼らの教会におけるその種のリーダーシップはまた人々にとって彼らが悔い改めをしなければならない一つのしるしでもあります。国家においてと同様、教会における指導的な地位にあるそのような悪い人間は人々を目覚めさせるために神がお用いになる罰の一つなのです。しかし、その代わりに人々は眠り続け、態度を変えませんでした。

 私たちの時代には:聖なる無垢の幼児たちを殺害したヘロデの例に従う国の支配者たちについてコメントすることなく、私たちは数千万人の無垢な胎児を殺害する現代における同様な支配者たちを持っています。

 1984年以来だけでも、政府によって直接的にか、あるいはヘロデのような政府の黙認、奨励、同意によってかのいずれかで、控えめに見積もって8億人の赤ん坊が殺害されています。私たちの時代におけるその種の政府は確かに一つの懲罰です。

 しかし、カトリック教徒を含むほとんどの人々はそのことを認めません。そして少なくとも荒布をまとい、灰をかぶることによって、そして少なくとも毎日ロザリオ5連を祈りなさいというファチマの聖母の要求に注意を払うことによって、反応を示すことはありませんでした。苦行、悔い改めそして嘆願において神に立ち帰る強力な反応のこの欠如は私たちの側でのとがめられるべき点です。

 「第三の秘密において、他の事柄とともに、教会内に大きな背教が最上位のところで始まるとうことが予告されています。」

 上述のことははまさにチアッピ枢機卿(教皇ヨハネ・パウロ二世の個人的教皇付き神学者)の言葉です。「最上位で」始まる「大背教」の結果は教義、道徳そして典礼における聖職者および平信徒の堕落です。

 今日、教会は大きな危機にあります。その指導者たち--司祭、司教そして枢機卿すら--は教会の内外でスキャンダルを引き起こしています。異端的な教義が公言され、不道徳--ただ僅かのものを挙げるだけでも同性愛、少年愛、中絶、避妊そして離婚--が実践されています。

 悪い司祭たちは一つの懲罰であるという事実は聖ジョン・ユードによって証言されています。私たちは彼が、神はお怒りになるとき悪い司祭たちをお送りになると告げたことを思い起こします。神は単に悪い司祭たちをお送りになっているだけでなく、また明らかに悪い司教たちや悪い枢機卿たちをも私たちに送られたのですから、御自分の民に対してたいそうお怒りになっているのです。

 教皇ヨハネ・パウロ二世は2000年5月13日ファチマで私たちに次のように告げました:

 「ファチマのメッセージは竜と関わりを持たないようにと人類に警告する回心への呼びかけです。『竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。』(黙示録12:4)」

 その声明を易しい言葉で言うならば、教皇ヨハネ・パウロ二世は次のように言っておられるのです:枢機卿のうちの三分の一、カトリックの司教の三分の一、カトリック司祭の三分の一には従ってはいけません。彼らは信徒たちを天国へ導くその高められた地位から悪魔によって引きずり下ろされたのです。注8b

 別の言い方をすれば、教皇様は私たちに、現代についてファチマのメッセージが私たちに何を警告しているかを告げておられるのです。それは、聖職者(天の星である)の三分の一が悪魔とその協力者たち--フリーメーソン、共産主義者、同性愛ネットワーク--によって引きずり下ろされたということ、そして今や悪魔自身のために働いている、神のため、キリストの教会のためではなくて、悪魔のために働いているということです。

 非常に単純に言えば、それがソダノ枢機卿の命令とラッツィンガー枢機卿の黙認によって明らかにされなかった第三の秘密の中にあることです。この最後の陳述は、あなたたちが読まなければならない書物、『悪魔の最後の戦い』において説明されています。

 私たちが社会的、公的に悔い改めをしていませんから、多くの司祭たちは彼らの羊の群を導く恵みを得ていません。多くの信徒は悔い改めをしていません。多くの司祭は、彼らがそうであることを必要としている聖であるための、そして啓発された者であるための十分な恵みを手に入れていませんから、そのことによって多くの信徒は適切に指導されていないのです。

 これらのスキャンダルに照らし合わせれば、私たちの態度はどのようなものでなければならないのでしょうか? ファチマのメッセージはこれらの事柄について私たちに何を告げているのでしょうか? 私たちは何をなすべきなのでしょうか?

 ある人々--世間的な人々、教会の外にいる人々、信仰の弱い人々、教会の敵たち--にとっては次のように結論することは容易でしょうし、また正当化されているとさえ思われます。「私たちはあなたたちに言いました。独身制を諦めなさい。修道生活をやめなさい。教会の指導者たちを棄てなさい。諦めて世間のようになりなさい。神に仕えようとしてはいけません。私たちは聖職制度反対が必要なのです。」

答は聖職制度反対でも聖職主義でもない

聖職制度反対--は教会のさまざまの部局でその姿を現しています。それはこのスキャンダルが起こる以前に始まっていました。生ぬるい人々、弱い人々、嫉妬深い人々はこう言いました。「私たちはもはや聖職者を必要としていない。司教たちはいいでしょう。しかし司祭たちは私たちの要求に従ってたらいまわしに送られる単なる役人です。人がしなければならないことはただ、司祭たちが私たちの言いなりに振る舞わないときには不満を述べることだけです。」

 彼らは一人の司祭に教権に従順であるように説教します。なぜなら、その司祭は「彼らの教権」に従順でないからです。この聖職制度反対は、超公会議タイプのカトリック教徒のように、さまざまの範囲で--保守的な人々、自由主義的な人々、近代的な人々、そしてバチカン第二公会議の間で--横行しています。

聖職主義--は何であれX神父の言うこと--彼が離婚は結構、手による聖体拝領は結構、聖櫃を掃除部屋に置くことも結構と言うときでさえ--を私はしなければならないと言う誤謬です。「たとえ教会が、避妊の行為は大罪であると常に一貫して教えてきたし、そして今なお公に教えているとしても、妻と共に避妊器具を使うことができると、X神父は告解の中で私に告げたから、私たちはX神父に従います。このような仕方で聖職主義に従うことは、私たちが最後の審判の日に言い逃れを持っていると私たちに感じさせ、神は私たちを赦さなければならないだろうと感じさせることによって、私たちの良心のとがめをやわらげるのです。」

 謙遜のため、聖職者に対する尊敬のために通用させるこの自己欺瞞は数百万の魂を救うためには十分ではないでしょう。おそらくあなたが非常によく知っている誰かをさえ救うために十分でないでしょう。

 生涯の最も真面目な仕事、私たち自身の個人的な魂を永遠にわたる地獄の火から救うことはもっと良心的な取り組みを要求します。あなたが、新聞の見出しを読み、あるいはソダノ枢機卿、あるいは地方の司教、あるいは司祭たちから出された最近の当局の方針(『ファチマ・クルーセイダー』69号p.10の「当局の方針」を見てください)を検索することによって、情報を得ていると感じることは十分ではありません。当局の方針はあなたの魂を救うためには確かに十分ではありません。

 教会におけるこの危機は私たちひとりひとりに対する目覚めるようにという呼びかけです。この危機はあなたの魂と今日生きているすべてのカトリック教徒の魂を求める悪魔の最後の戦いのしるしの一つです。

 シスター・ルチアは1957年のフエンテス神父とのインタビューの中で次のように言わなければなりませんでした:

 「神父様、悪魔は祝せられたおとめに対する決定的な戦いに従事しようとする意向です。そして悪魔は何が最も神に背くことであるか、そしてどれが彼にとって大多数の魂を短期間に獲得する道であるかを知っています。このように、悪魔は神に奉献された魂たちを圧倒するあらゆることをします。なぜなら、このようにして悪魔は指導者たちに見離された信徒の魂を離れさせることに成功し、そのことによってますます容易に彼らの魂を捕らえるからです。」

 「マリアの汚れなき御心とイエズスの聖心を傷つけるものは修道者、司祭たちの魂の堕落です。悪魔はその美しい使命から堕ちた修道者や司祭が多くの霊魂を地獄へ引きずって行くことを知っています...悪魔は奉献された霊魂たちを手に入れたいと望んでいます。悪魔は平信徒の人々の霊魂を眠らせるために奉献された人々を堕落させ、そのことによって彼らを最終的な悔い改め不能な状態に導こうと努めます。悪魔はあらゆる策略を用いますが、修道生活へ入ることを延期するように暗示するところまで行くことさえあります。このことから結果することは内的生活の不毛です。そして平信徒の間では快楽を断念するとか、自分自身を完全に神に捧げるという主題に関する冷淡さ(熱意の欠如)です。」注8c

 寛大な霊魂たちへ、私たちはあなたたちが多くの霊魂たちを救うことを助けることができるということを思い出させます。ファチマの聖母はこう言われました:

 「多くの霊魂が、彼らのために祈り、犠牲を捧げてくれる者を持っていないために地獄に行きます。」注8d

 おお、寛大な魂よ、あなたは祈り、多くの犠牲を捧げることができます。そしてそのことによって多くの霊魂を救う助けをするのです。

7 聖職者はどのように預言者たちに反応したか

 イエズスの時代には:ファリザイ派の人々と大祭司たちはイエズスを殺すために共謀しました。そして彼らはそのことを法的な正当化の外見をもって行いました。最後の結果は彼らが、(大祭司たちやファリザイ派の人々によって操作され、統制され、刺激された)群集からの圧力の下で行為しながら、ローマ人を通じてイエズスを殺したということでした。彼らはそれを巧みに工作しました。彼らはそれを共謀しました。彼らはそれをやり遂げました。そしてこれはまたイエズス自身の弟子の一人であるユダによる30枚の銀貨のための裏切りをも含んでいます。

 私たちの時代には:シスター・ルチアを沈黙させること:

 今日の大祭司たちはシスター・ルチアを42年間にわたって沈黙させたことによって、たとえそれが人々に与えるように彼女に託されているとしても、ファチマのメッセージ全体を公衆に彼女が告げないように、彼女を不可能な制限で閉じこめることによって、「シスター・ルチアの殺人」を遂行しています。ですから、この秘密を自分の心のうちに、精神のうちに持つことは彼女にとって生ける死のようなものです。そして彼らのためにはそれを偽って主張することが自由にされており、彼女にとってそれを知ることは一つの嘘なのです。

 彼女は法の見せかけによって縛られています。すなわち、彼女の沈黙を守ることは「聖なる従順」なのです。そしてこのこと、この嘘はまた、彼らの時代の世俗の支配者たちの機嫌を取るために、ファリザイ派の人々がわれらの主の時代にした同じ目的のために、聖職階級におけるユダたちによって遂行されるのです。今日、彼らはフリーメーソン、共産主義者、世俗的なヒューマニスト、そして現代の世俗的政府を喜ばそうと努めています。

 非人格としてのグルーナー神父の宣告

 一方、彼らはグルーナー神父を沈黙させることができません。なぜなら、彼は彼らの誤った論法と誤った法律を見通したからです。彼らは彼を、ちょうどスターリンがソビエト連邦において反対者たちに対してやったのと同じように、非人格であると宣告します。それゆえ、彼らはグルーナー神父の聖職上の地位について偽りの声明を発表します。また、それは預言を沈黙させるためにバチカンにおける高位聖職者たちによって遂行された一つの人格暗殺です。このことのもっと詳細な点は私たちのウェッブサイト上の「隠蔽の年表」を見るか、あるいは無料のコピーを請求するかしてください。またこの点に関しては『悪魔の最後の戦い』という書物をも見てください。

8 「罪は制度化された」

 私たちは歴史におけるどの時代よりも大きな罪が今日教会と世界において続いているのを知っています。教皇ヨハネ・パウロ二世が1982年ファチマで言われたように:「罪は制度化された」のです。  悔い改めなしに、告解なしに御聖体拝領に行くカトリック平信徒の間の広く行き渡った中絶、避妊、離婚、不貞は神の怒りを私たちの上に呼び下ろしています。

 どんな悔い改めもなしに罪が増加するとき、神は懲罰を下されます。神は全善です。次の世代の人々は、神はそのような悪い例を喜ばれないので、ソドムとゴモラでなさったのと似た一つの例をそのような罪深い世代についてなさなければならないということを見なければならないのです。私たちはこれらの例を選びます。なぜなら、それらは理解しやすいし、記録しやすいし、証明しやすいからです。45歳以上の人々にとってその教えはあなたたちが今日持っているものと正反対であったということをあなたたちは思い起こすでしょう。45歳以下の人々はあなたたちの両親、目上に尋ねることを勧めます。そして彼らはこのことを確証するでしょう。

 これらの例は気難しく余り重要でないと思われるかもしれません。私はこの論考を読んだ後ではあなたの認識が変わると信じています。聖霊御自身が聖書の中で私たちにこう警告しておられます:「小さなことを軽んじる者は次第に落ちぶれる」(シラ19:1)

A. 金曜日に肉食を絶つこと

 あなたたちが信じるように導かれてきたのとは反対に、あなたたちが第二バチカン公会議で告げられて来たこととは反対に、枢機卿、司教、司祭あるいは彼らの全体会議によって与えられたいかなる影響あるいは声明とも反対に--事実は、あなたたちが今日なお、大罪の苦痛の下に注9、14歳に達したならば、金曜日には肉食を絶つ義務があるということです。唯一の免除特権はそれを守ることを免除された病者のためだけです。

 教会法は:

 (1)私たちは金曜日には肉食してはなりません。それは神の勧告に基づいています。あなたたちが悔い改めをしなければならないのはキリスト御自身による神の御命令です。われらの主を直接的に引用するならば、主はこう言われました。「あなたたちは、悔い改めないならば、皆滅びる。」私たちは、自分の魂を救おうと努めなければなりませんから、悔い改めをしなければならないのです。

 (2)私たちは、厳密な正義と感謝において、私たち自身の個人的な罪から私たちを救うために十字架上で死なれたことに対して私たちが主に負っている負債を認めなければなりませんし、また連続的に認めなければなりません。この承認は単に私たちと神との間の私的なもの(それは重要なものではあるけれども)であるばかりでなく、また公的なものでなければなりません。すなわち、あなたの仲間の前で、少なくとも教会の家族、信仰の家族の内部の人々、私たちのカトリックの仲間たちの前で認められなければなりません。

 教会は数世紀にわたるその智慧において、私たちの各々が個人的に持っているこれら二つの荘厳な義務を、教会が各々の成員に課す権威を持っている一つの単純な法に圧縮しました。すなわち、キリストが聖金曜日に私たちの救いのために堪え忍ばれた苦しみと死に対する承認として、私たちが金曜日に、一つの償いとして、肉食を絶つということです。教会法は今日までなお効力をもっています。

 私は確かにあなたたちのある人がこう抗議するに違いないと思います。「それは真実ではない。それは公会議で変えられた」と。いいでしょう、私は何が変えられたかを言いましょう。1966年2月に教皇パウロ六世はPaeniteminiという題の使徒的憲章(1966年2月17日)を公布されました。その中では彼は教会法はなお一年中すべての金曜日に肉食を絶つことと言っていると言われました。

 しかしながら、彼はある特定の国の司教会議が聖座、教皇に、その国の人々のために肉食をしないことの代わりに金曜日に他の償いをする許しを請願するならば、法律の文字に反する許可を与えました。ですから、その司教団が金曜日に肉食をしないことの代わりに別の償いを代用するという道を通った国々においては、それらの国の個人は別の償いを代用することができるのです。

 しかし、あなたたちが告げられなかったこと、そして誰も知っているとは思われないことは、あなたたたちがなおその金曜日に別の償いをする義務を負っているということ、そしてあなたたちがなお大罪の苦痛の下に縛られているということです。

 ですから今、もしあなたが、あなたの隣人--たとえ彼が毎日教会に行っているとしても、たとえ彼がたまたまあなたの司牧者あるいは司教であるとしても--がそうしているからという理由で、あなたが金曜日に肉を食べ続けることができると考え、そして金曜日に肉食を絶つ償いをする代わりに別の償いを代用しないならば、そのときあなたは大罪を犯す(あなたが合法的な特免を持たないかぎり)ことになり、悔い改めてあなたの罪を告解しないならば、あるいは死ぬ前に告解の秘蹟に与る可能性がないときには完全な痛悔の行為をしないならば、そのために地獄に行くでしょう。さもなければ、あなたは地獄に行くでしょう。ところで、地獄に行くことは小さなことではありません。私はあなたが同意するだろうと確信しています。

 あなたは羊の群の多くが黙示録において話されている三分の一の聖職者によって誤り導かれているということを見ることができます。私たちは何をすることができるのでしょうか?

 私たちは預言された混乱の時代に生きています。ですから私たちは聖職者に対して怒るべきではありません。誤謬を指摘することは私たちの義務です。真理を求めている人々に健全なカトリックの文献と聖書の諸真理をもたらしなさい。私たちは彼らにあなたがここで学んだことを指摘すべきです。そしてあなたは第一にグルーナー神父あるいは『ファチマ・クルーセイダー』を引用しているのではないということを思い起こしてください。--あなたはカトリック教会と聖書の教えに含まれている諸真理を彼らに思い起こさせているのです。ちょうどファチマの聖母が私たちに新しい教義を与えるために来られたのではなく、すでに聖書とカトリック教会の永遠の教導権のうちに含まれている教義について私たちに思い起こさせるために来られたのと同じです。

 また、私たちは自分自身の行動の誤りを直し、良い模範を示さなければなりません。私たちは祈り、聖霊が私たちにするようにお告げになることに対して私たちの心と精神を開いていなければなりません。私たちは、耳を傾けたり悔い改めたりしないあの三分の一の聖職者を避けなければなりません。なかんずく私たちは彼らの地獄への道に従ってはなりません。

 あなたたちは、あなたたちを適切に導くために今なお神に忠実である三分の二の聖職者の中から少なくとも一人の聖なる司祭を見つけ出すためにロザリオの祈りをしなければなりません。

B 手による聖体拝領

 教会法では2002年の今日までなお、あなたが舌で御聖体を受けなければならないということです。その習わしはキリストと使徒たちの時代にまで遡ります。キリストはそのことを使徒たちにお教えになりました。トレント公会議が私たちに教えているように、舌での聖体拝領は使徒的起源を持つものです。

 それがなぜそのように重要であるかをあなたたちに告げる多くの教義的な理由がありますが、今私たちは教義と歴史的起源に基づいている教会法を論じましょう。

 教会法は非常に単純に、ラテン典礼においては、すなわち、東方典礼に属しないすべての人々にあっては、御聖体を受けるやり方は、司祭が御聖体を受ける人の舌に与えるというものです。その教会法は第二バチカン公会議の間変化しませんでしたし、第二バチカン公会議の後も変化しませんでした。そしてそれは今日までなお教会の法です。

 Acta Apostolica Sedisの546ページと547ページにおいて(A.A.S. 1969)1969年に教皇パウロ六世によってこの問題に関して何が公布されたかをお話ししましょう。教皇パウロ六世は舌での聖体拝領はなお教会の法であると言っておられます。

 しかしながら、教皇は、もし二つの原理と七つの規則が守られるならば、法の文言に反してもよいという許可をお与えになっています。もしこれら二つの原理のいずれか一つが守られないか、あるいは七つの規則のどれかが守られないならば、そのとき御聖体は手に与えることはできず、ただ舌にだけ与えられるのです。それらの条件は、『ファチマの司祭』の附録5や『ファチマ・クルーセイダー』の1および2版、第7号と第28号を含む多くの場所で公表されています。あなたたちのためにここでそれらを要約しましょう。

 原理1:信徒は手による聖体拝領の実践によって恥辱を与えてはならない。

 原理2:もし御聖体が手に与えられるならば、御聖体とその部分にはいかなる不適切あるいは神聖冒涜の危険も存在してはならない。不適切さと見えることすらあってはならない。

 今規則#3を考えてみましょう。手による聖体拝領の実践は、手で御聖体を受けようとするその人の真の現存への信仰を増大させなければなりません。もしそうでないならば、その時その人は手で御聖体を受けることはできません。その規則と結びついていることは、実際に御聖体を与える聖職者がその場で、この実践が御聖体を受ける人の信仰を増大させるという判断をしなければならないということです。

 はっきりさせるために言えば、その判断をしなければならないのは、そしてもちろんのこと、個人的に神御自身に対して責任を負っているのは、教皇、司教、裁判所事務局あるいは司牧者ではなくて、もっぱら御聖体を与える司祭だけなのです。御聖体を与える司祭は直接神に答えることができるからです。たったひとりの相応しくない人に手による聖体拝領をさせることのために彼は大罪を犯すこともあり得るでしょう。

 手による聖体拝領に関する次の問題は、それが完全に司祭の選択権であるということです。司祭はもし諸規則や諸原理が守られないならば、手に御聖体を与えることはできません。たとえそれらの規則や原理が守られるているとしても、司祭はなお手に御聖体を与えない自由を持っています。その自由はいかなる人によっても、教皇によってでさえ、取り上げられることはできません。その理由は単純に司祭は彼が配るそれぞれ全部の御聖体について神に答える義務を持っているからです。

守られるべき七つの規則がある

 守られなければならない七つの規則があるということをどれほどの人が知っているでしょうか? あなたの教区の司祭、司教、枢機卿に尋ねてごらんなさい。彼らのだれも知らないと思います。

 ですから、もし彼らが規則が存在することさえ知らないならば、どのようして規則を守ることができるでしょうか? 多くの霊魂たちが手に御聖体を受けて教会法を破り、そしてそのことを知りさえしないということはまったくあり得ることです。

 七つの規則のうちの一つは単純に次のことです:御聖体を手で受けるとき、ホスチアの断片が床に落ちることが許されないようにあなたは配慮しなければならないということです。あなたは、手で御聖体を受ける者として、いつも自分の手を見、床にホスチアのほんのわずかでも落とさないように見る義務を負っているということを知っていましたか?

 もしあなたが落とすというようなことをすれば、神聖冒涜の罪を犯したのです。たとえあなたがそのようなことを起こそうと意図しなかったとしても、神聖冒涜の罪を犯したことになるのです。あなたは自分の霊魂に神聖冒涜を望み、最後の審判の日に神によって裁かれることを望みますか? もしあなたが、過去にはあなたの無知を言い訳にできたかもしれないからただ煉獄に送られるだけであるならば、自分を幸せ者に数えるでしょう。今はもはや言い訳は通らないでしょう。生ける神の御手の中へ落ちることは小さなことではありません。

 その問題に関して1969年5月に出された教皇パウロ六世の布告Memorabile Dominiをお読みになることを勧めます。そのテキストは私たちのウエッブサイトwww.fatima.org上で見ることができます。あるいはそのコピーを求めてファチマ・センターへ電話するか、手紙を出してください。

C 慎み深さと尊敬の欠如

 女性が教会の中で、あるいはミサの聖なる犠牲に参加するときにはヴェールをかぶることは聖書の二つの異なった箇所にその命令が含まれている神の御命令です。この命令、この勧告は教皇、司教、あなたの小教区司祭あるいはあなたの個人的な聴罪司祭によって変えられ、廃棄され、取り消され、免除されることはできません。なぜなら、彼らはこの法を変える権限を持っていないからです。

 これは狭量であると思われるかもしれません。しかし、もし神がそれを命じておられるならば、それはあなたにとって十分によい理由です。しかしながら、聖パウロはそのことに対する二つの理由を挙げています。そのうちの一つだけを詳しく述べましょう。神は、概して男性よりも女性をより魅力的に、より美しく創造されたということが一般に大部分の男女によって認められています。

 聖パウロは女性の美しさについてコメントしながら、女性の髪の毛はその頂点をなす栄光であると言っています。神のこの賜物の結果として、女性は教会の中で頭を被う義務があります。なぜなら、彼女たちの髪の美しさは、自分自身のことを思い起こし、ミサの犠牲の間イエズスに、そして最も祝せられた秘蹟における現存に完全な注意を払うことよりもむしろ女性の髪を見ることへとある男性たちの注意をそらすような魅力を持っているからです。

 ですから、聖パウロは聖霊によって霊感を受けて聖書の中に、ミサ中や教会の中で、そして公式の祈りの間に女性にとってヴェールをかぶることは義務であると書いたのです。聖パウロはもしある女性がこうしないならば、その人はミサ中にヴェールをかぶらないことによって自らを不名誉な者とするのだと言っています。

 およそ過去30年間、私は女性に小教区内でミサのときにヴェールをかぶるように言っている司祭について聞いたことはありません。彼らのうちのある者は明らかに、このことは第二バチカン公会議で、あるいは第二バチカン公会議に続く数年の間に変わったと考えています。事実は、1969年に、バチカンで行われた記者会見で一人のジャーナリストがバチカンのスポークスマンに、教会の中で女性がヴェールをかぶるという法に関して何か変更があったかどうか尋ねたところ、スポークスマンは何の変更もないと言いました。これはまったく合法的で正しい答えです。

 しかしながら、その世界的な新聞で報道しているジャーナリストたちはこの答を、女性はもはや教会の中でヴェールをかぶる必要はないものと解釈しました。彼らは言うところのカトリック新聞諸紙の中で大見出しをつけたフロント・ページで世界に向かってこの虚偽を公表しました。翌週、次の記者会見のときに、バチカンのスポークスマンは世界のジャーナリストたちの誤りを訂正しました。そしていくつかの彼らの新聞の中のどこかでほんの数行の短い撤回の記事を載せました。

 多くのカトリック司祭、司教そして新聞はあなたたちに真実を告げることにおいてあなたたちによく奉仕しませんでした。その代わりに、無知のため、あるいは恐れのため、あるいは自分たち自身が法を変えることを望んでいるためか、そのいずれかで彼らはあなたたちに真実を告げませんでした。事実は、過去30年以上にわたって、あなたたちが誤り導かれてきたということです。

 ところで、小さなことを軽んずる人はだんだんと堕落するでしょう。あなたたち婦人は教会の中でヴェールをかぶることなく日曜日にミサに与るとき、祈りと敬虔な働きのすべての利益を得ていないのです。あなたたちのすべての努力とあなたたちのすべての善意に対して、あなたたちは受けるべき利益を得ていないのです。なぜなら、それが神を喜ばせないということを告げられなかったからです。

 ですから、私たちの司祭、司教、枢機卿、そして教皇のために、私たちが少しずつ地獄へと投げ込まれていく自分たちを見る代わりに、皆が一緒に天国において喜ぶことができるように、知る必要のある真理全体をこれらの聖職者が私たちに告げてくれるように祈ることが大切なのです。シスター・ルチアが言っているように、「私たちは一緒に救われるか、それとも一緒に地獄に落とされるか、でしょう。」

 司祭たちや会衆の中の男性たちが女性の髪の自然的な美しさによって心を悩まされないように、教会の中でヴェールをかぶることという点にいたるまで神が慎み深さに関心を持っておられるということが真実であるとすれば、公共のどんな場所でも、特に教会の中で、自分を露出する女性について私たちは何と言うべきでしょうか? それがぴったりと身についたタイツ、短いショーツ、タンクトップ、低すぎる襟ぐり、あるいはその女性について男性が心の中で罪を犯すことを助けるように悪魔が用意した他のどんな数百の方策であろうと、そうです。

 私たちの主は、もしある男が心の中である女をみだらな思いで見るならば、彼はすでに罪を犯したのであり、地獄の火に値すると言っておられます。聖ヨハネ・クリゾストモスはこう指摘しています:「毒をあおいで自殺する男と飲むために毒を準備する男と、いずれが殺人の罪が重いだろうか?」

 慎みを欠いた衣服をまとった女性の毒--それは故意のみだらな望みによって彼女たちを見る男性たちの魂を殺すのですが--は男に大罪を犯させるに十分です。しかし、男の魂を殺すために毒を準備する女はその男自身よりも殺人の罪は重いのです。それが衣服における慎みのなさがなすことです。それは男の魂を殺します。そしてそれはあなた自身の魂を殺すのです。それが教会の中で、そしてミサのときになされるとき、不純の罪から離れて、一つの神聖冒涜です。

 スラックスをはくことは皮膚を露出するドレスあるいは他の衣服よりも慎み深い、したがって罪ではないと考える人々に対して指摘しなければならないことは、みだらな思いや望みを引き起こすのは単に現している皮膚の量だけではなくて、また現している女性の形がどれほどかということです。ですから、全部がそうでないとしても、ほとんどすべてのスラックスは女性の形を余りにも多く現しているのです。その結果、スラックスをはいている女性はしばしば、健全な、普段は穏当な、ゆがめられていない精神の持ち主に対するひとつの罪の機会であるのです。もし男性が罪を犯さないならば、それは恵みのゆえであり、彼は目をそむけるからです。しかし、このことは女性の言い訳になるわけではありません。

D 結婚の目的からの離反

 多くのカトリック信徒は結婚および男性と女性による生殖の神聖な能力の使用に関する教会の教えの全体を知りません。生殖の神聖な能力は一般に性として言及されています。

 聖書ならびに聖伝およびカトリック教会の教導職は新しい人間の生命をこの世にもたらすために男と女が一緒に持っているその神聖な力は神に属すると教えています。

 この教えは神がひとりひとりの人間存在の創造主であるという基本的な真理に基づいています。この真理はカトリック教会とカトリック道徳の礎石です。事実、聖書が霊感を受けた神の言葉であると主張しているすべての宗教は同じことを教えています。

 もし神が私たちひとりひとりを創造されたのでないならば、私たちは神の被造物ではないでしょう。ちょうど私たちがその労働の実りに対する一人の労働者の権利を認めるように、そして金を採掘する金鉱のような、その財産から引き出されるものを所有する財産の一部について所有者の権利を認めるように、私たちはまた、世界を無から創造なさり、私たちひとりひとりを創造なさった神が創造主としてまた所有権を持っておられるということを認めなければなりません。

 実際、神の所有権は絶対的です。人間の所有者の権利はただ相対的なものにすぎません。人間の所有者の諸権利は創造主御自身よりも大きな所有の権限を主張することはできません。

 一例をあげましょう:私の腕の終端にある手はある意味で私のものです。それは私に属するのであって、私の隣人に属するのではありません。しかしながら、別の意味ではそれは私のものではありません。私はこの手を創造しませんでした。私はそれを作りませんでした。私はそれが出て来た物質を創造しませんでした。私はそれを私に受け継いだ両親を創造しませんでした。それは神に属しています。しかし、神は私をそれの執事、管理人となさいました。

 私は単に神に対するそれの執事、管理人にすぎません。ですから、私は自分の手を神の律法に従って用いなければならないのです。私は善をなすためにそれを用いなければなりません。私はそれを悪をなすために用いてはなりません。ですから、ちょうど私の手が、神が創造主であられるがゆえに、絶対的な意味において神に属するように、私の残余のものは神に属するのです。

 しかし、そのことは単に私にとって真であるばかりではありません。それはすべての人、地の表にかつて生きた、あるいはこれから生きるであろう女性や子どもにとっても真です。外部空間のどこかでロケット船に乗っているかもしれない人々にとってすらそうです。

 私の手でものを持ち上げたり掴んだりする能力が、私が神の法に従って用いなければならない、神が私にお与えになった能力であるのと同じように、神が人間生活を世界にもたらすために私にお与えになった能力もまた神に属します。それは神の法に従って用いなければならない一つの神聖な委託です。

 生殖というこの神聖な能力をどのように使うことができるか、そして使うことができないかということを、神は聖書、聖伝、教皇の聖なる堅固な教え、過去2000年にわたる教会の堅固な教導職において明らかにお教えになりました。

 短い節の中で明瞭に話すために、私たちは神が私たちにお与えになったこの能力を、そしてそれを次のような仕方で用いられるべきであるということをこう要約することができます:

 神は生殖(性)をただ非常に限定された状況においてのみ用い、楽しむことをお許しになりました。すなわち、性はただ婚姻の聖なる絆の内部で世に新しい生命をもたらすという目的のために男と女の間でだけ用いることができます。夫婦のどちらかが子どもを作る能力がないとしても、彼らがその能力を神に委ねるかぎり、そしてその結合の結果として子孫を神がお送りになることを妨げる何かをしないかぎり、彼らがその能力を用いることを妨げるものではありません。

 この能力は用いるための権利ではありません。それは私たちが固執することができる快楽の道具ではありませんし、私たちがそれで欲していることをするような私たちの持ち物ではありません。その能力はお互いに結婚した男女の結婚の内部でだけ用いることができます。

 しかしそのことはその能力の範囲ではありません。結婚においてさえこの能力を、配偶者ではない誰かと関係を持っている人が乱用することもあり得ます。あるいは、最初の配偶者と離婚し、最初の人がまだ生きている間に第二の人と結婚することによっても乱用されます。あるいは生殖のための能力を、神がその結合に子孫を送られることを妨害するために機械的、あるいは化学的、あるいは外科的な手段を用いることによって乱用する場合もあります。この後者の罪は避妊と呼ばれています。  もっと多くの子どもを持つことを妨げる自然的家族計画(NFP)の使用でさえ、NFPを用いる十分な理由がないときにはまた重大な罪です。一人の司祭が結婚した夫婦の義務を要約するために次のように言ったように、「ちょうど個人が神の前に一つの使命を持っているのと同じように、結婚した夫婦は神の前に一つの使命を持っています。」彼はこう言いました。「あなたたちは禍なことよ、もし最後の審判の日に、神があなたたちに持つことを意図されたすべての子どもたちをあなたたちが持っていないならば」と。彼は明らかに、結婚生活をし、結婚の諸特権を享受し、そして神が彼らに送ろうと望まれたすべての子どもたちを受け入れることを拒否する人々のことに言及しているのです。

 聖書の中で聖ラファエルは若いトビアスに、悪魔が結婚した人々のうち若い夫婦に対して力を 持っていると忠告しています。

 「すると天使ラファエルは彼に言いました。私の言うことを聞きなさい。そうすれば、私は彼らが誰であるかをあなたたちに示すでしょう。悪魔は彼らに勝つことができるのです。

 なぜなら、自分たちから、そして心から神を閉め出すような仕方で、そして理性を持たない馬とラバのように自分たち自身を快楽に委ねるような仕方で婚姻を受ける人々に対して悪魔は力を持っているのです。」(トビト6:16,17)

大天使ラファエルが「馬やラバのように自らを快楽に委ねる」と言うとき、彼は子どもを生む意向を持たずに、あるいは子どもを妊娠する能力を厳しく制限する意図をもって結婚の特権を用いる人々に言及しているのです。このことは馬とラバが一緒になっても子孫をもうけることができないという事実から明らかです。

 そのようなことが男あるいは女のどちらかの不妊処置の罪です。不妊処置をした相手を持つ結婚した夫婦は神からその当然の権利を奪おうとする人々です。盗んだものを私たちの隣人に返さなければならないのと同じように、結婚の益を享受するが、しかし不妊処置をした人は、神から盗んだものを神に帰す義務があります。

 換言すれば、もしある人が雇い主あるいは他の誰かから千ドルを盗むならば、その人は千ドルを返さなければなりません。もし彼が全部を一度に返すことができないならば、できるだけ増額して返さなければなりません。もし彼が貧しくてそれを返すことがまったく不可能ならば、そのとき神は彼に返す義務を許すでしょう。しかし彼が盗んだものを返す能力を持っているかぎり、それを返す義務があります。

 もしある人が子どもを妊娠しないようにして、次に生殖によってこの能力を使用するするために不妊手術をすることによって神からその権利を盗んだならば、この手術を逆転させることによって神に返す義務があります。もしそのような手術が彼を死なせることになるならば、そのとき神はその状況の下では彼がそれを元に戻すことを期待なさらないでしょう。

 同様に、結婚前の生殖能力の使用もまた禁じられています。なぜなら、神は孕まれたすべての子どもたちが、その子どもの世的なならびに霊的な福祉のために育てられる堅固な環境を子どもが持つことができるようにお互いに結婚した両親の下に子どもが生まれて来ることを望んでおられるからです。

 ですから、結婚以前のすべての結婚能力の使用は大罪の苦痛の下に厳格に禁止されています。さらに、生殖のための能力は非常に強い力ですから、いわば経過を始めそして次にそれを中断することさえできません。そして、彼らが言うように、行くところまで行かないことはできないのです。そのようなことをすることは単に大罪の機会であるばかりでなく、またそれ自身一つの罪です。なぜなら、人はそれが結婚の地位にある人々にのみ取って置かれているときに、結婚に関係づけられた快楽を得ているからです。

E 同性愛

 このように、二人の男あるいは二人の女の間の同性愛の行為は、それが人間の生命の出産をもたらし、原因することができないという単純な理由のために常に悪いということは誰にも非常に明らかでしょう。ですから、彼らは、結婚の外にいるがゆえに罪深いばかりでなく、神が生殖能力に与えたもうたまさにその目的を挫折させるがゆえに罪深いのです。

 要約すれば、男と女はそれぞれ神の被造物です。そういうものとして神は彼らを、その身体と霊魂を全体的に所有しておられるのです。彼らの身体のすべての部分は神に属します。彼らはその身体のどの部分をも、神が彼らになすことを禁じたもうた仕方で用いることはできません。彼らはそのさまざまな能力を、神がそのためにそれらの能力を作られたその目的のために用いなければなりません。

 生殖(人間の性)の聖なる能力に関して言えば、この能力は、聖書、カトリック教会の聖伝そして教会の荘厳なまた一般的な普遍的教導職のうちに見出されるような神の厳格な教えに従って用いられなければなりません。そのようなものとして、性交はただ結婚した男とその妻の間にのみ存在しえます。そしてそれが世界に新しい人間生命をもたらすことへと開かれている場合にのみあり得るのです。性の他のいかなる使用も大罪です。このように慎みのない接触、外見、そして衣服でさえすべて罪です。

 ファチマの聖母は「他のどんな理由でよりも肉の罪のためにより多くの霊魂が地獄に行きます」と言われました。聖アルフォンソは人間の性に反するこれらの罪は地獄への四つの大きな戸口あるいは門のうちの一つであると教えています。聖書は天に復讐を呼びかける四つの罪があると私たちに告げています。そのうちの一つは同性愛です。そしてもう一つは無邪気な人間生命を故意に奪うこと、殺すことです。

 私たちはこれら二つの罪が、中絶とその合法化の罪、ならびに同性愛に賛成する宣伝と合法化の罪を通じて現代の世代において千倍も増加したということを見ています。そしてそのように、それは私たちが危機の中におり、そして神によってまさに懲罰を受けようとしているもう一つのしるしなのです。

 

罪人を愛し、罪を憎みなさい

 同性愛や他の罪、そして他の種類の罪人たちに対して私たちの態度はどうであるべきでしょうか? それは聖アウグスティヌスによって、私たちは罪人を愛し、罪を憎むべきであるとうまく要約されています。ですから、私たちにとって罪が罪でないふりをすることは悪いことでしょう。

 聖書が私たちに告げているように、そして司教が奉献された司教であるときにいずれも皆思い起こさせられているように、私たちは善を「悪」と呼んではならないし、また「悪」を善と呼んではならないのです。これは偽善よりももっと悪いことです。

 悪の三段階があります。第一の段階はあることが悪であると知っていること、そしてそれが悪であると知りながらすることです。第二の段階は悪をするのですが、しかしあなたの仲間の人間にあなたがその悪をしていない、そしてあなたが実際は善人であり、それらの罪を犯していないと見せかけることです。それは偽善です。他のことをしていると主張している間に一つのことをすることです。それは単純に悪をすること、そしてそれについて誤った主張をしないことよりも悪いことです。

 第三の種類の悪は偽善的な悪よりも悪いものです。そしてそれは悪いことをしてそれを善と呼ぶのです。なぜなら、殺人を犯す人々、あるいは銀行強盗をする人々、あるいは同性愛を含む純潔に反する罪を犯す人々、そして次に「ええ、私はこの罪を犯しています、しかし私はそのことを誇りにしています、それは私がしている偉大なことです」という人々は神の観点からは非常にいとうべきことです。そしてそれは自分たちの行為が悪であると知りながら罪を犯す人々、あるいは罪を犯しているのに、犯していないふりをする人々よりも悪いことです。私たちは悪を「善」と呼んではなりませんし、善を「悪」と呼んではなりません。

 同性愛に関しては、私たちは預言者たち、聖書そしてカトリック教会の荘厳な2000年にわたる教えと共に、その行為と同性愛の故意の欲望は罪であると言わなければなりません。各々のそのような行為は一つの重大な罪です。それは大罪です。もし人がこの罪をたったの一度でも犯し、それを悔い改めないならば--そのことは彼がこの罪を告解し、それをふたたび犯さないように決心し、そのことを後悔しなければならないということを意味します(もし彼が死に直面していて、悔い改めているときに彼の告解を聞くことができる司祭がいないならば、救われるための完全な痛悔の行いをしなければなりません)--その罪は、悔い改めがなされないならば、彼を永遠にわたる地獄の火へと送り込むでしょう。

 もし私がこの問題についての真実を彼に話さなかったならば、私の隣人、私の同性愛の隣人を愛していないことになるでしょう。これは真理です。なぜなら、もし私が彼にその生き方の誤謬について確信させることができるならば、私はまさに彼に最大の親切な行為をした--すなわち、地獄の火から彼を救うという--ことになるからです。もし誰一人彼にこの罪を止め、そしてそれを悔い改めるように説得したことが今までになかったとしたら、その罪のためにあの永遠の苦痛へと神によって宣告されて彼が確実に地獄へ行くだろうことは確かです。彼は審判の日については知らないと主張することはできないでしょう。彼は今日はできると考えるかもしれませんが、しかし最後の審判の日にはそれは彼を許さないでしょう。

 この規則には決して例外はありません。なぜなら、聖パウロはローマ人への手紙第一章で私たちに「柔弱な人々(同性愛を実行する)は神の国に入ることはない」と言っているからです。地獄へ行くことになるのは単に、自分たちの同性愛の行為と欲望が悪いと理解して同性愛を実行している人々ばかりではなく、実行している彼らのことごとく皆がそうです。なぜなら、この法は彼らの心の中に書きこまれており、神はそれを彼らの心の中に置かれたからです。

 どんな書物も彼らに教える必要はありませんし、いかなる説教者も彼らに教える必要はありません。たとえ教皇、あるいはある枢機卿あるいは司教が彼に異なった風に教えるとしても、そのことは最後の審判の日に彼を容赦することはないでしょう。そして彼らはそのことを知る必要があります。私たちにとってこのことを言うことは苦痛ですが、彼らは私たちの沈黙あるいは誤った教えによって奉仕を受けることも助けられることもありません。

 私たちは「同性愛の行為あるいは故意の同性愛の欲望は大罪です」と言うことはこの誘惑で苦しんでいる人を憎むことではないし、またこの罪を実行さえしている人を憎むことではないということを指摘しなければなりません。私たちは罪人を憎みません。私たちは罪を憎みます。私たちは罪人を愛しますから、彼が悔い改めることによって、毎日ロザリオの祈りをすることのような恵みの手段を用いることによって、自分の魂の上に神の恵みを呼びおろすためにしばしば告解をすることによって、そして将来にこの誘惑を避けるために彼が何をすることができるか、また何をなすべきかについて彼に助言をすることができる人を彼のもとに送ることによって、彼の魂を救う助けをすることができるように、彼に真実を告げなければなりません。

 肉の弱さに由来する他のすべての罪と同様に、罪の機会を避けることによって、この種のほとんどすべての罪もまた避けることができます。神の法、聖書によって霊感を受けたよき聴罪司祭、よき司祭、よきカウンセラーは、どんな人をも--特に彼がカトリック信者であり、カトリック教会のうちに見出される恵みの手段を用いるならば--将来この罪を避けるよう助けることができます。

 すべての人は少なくとも毎日三回「めでたしマリア」を祈り、この日から生涯の終わりまで毎日その「めでたしマリア」を祈る決心をすることができます。もし彼らができるかぎりこの実践に踏みとどまるならば、聖母は早晩この罪から彼らを解放してくださいます。

 私たちの時代のいろいろな罪に直面して私たちが取らなければならない態度は謙遜の態度です。そしてそれは神の恵みがなかったならば、そこに私が行きますということを認めることです。私たちはファチマの子どもたちの態度を取るべきです。彼らは、多くの人々の魂は誰ひとり彼らのために祈ってくれ、犠牲をしてくれる人がいないので地獄へ行くのだということを知って、多くの罪人たちの救いのために、英雄的な犠牲と償いを引き受け、彼らの祈りに加わったのでした。

 私たちもまた、罪人たちの回心のために祈りと犠牲によって役割を果たさなければなりません。イエズスが言われたように、「多く与えられた人々には多くが期待される」のです。もし、神の恵みによって、私たちがこれらの恐るべき罪を避けることができたならば、この時代における神の特別の恵みと保護に対して神に感謝しなければなりません。そして罪人たちの回心のために祈りと犠牲を捧げることによって神にお返しをしなければなりません。私たちはどの罪人に対しても憎しみの態度を取るべきではありません。むしろ、キリストが生きておられたときに罪人たちを愛されたように、私たちは彼らを愛さなければなりません。

9 私たちがしなければならないこと

 これら五つの例からお分かりになるように、カトリック信者の大多数が彼らの魂と彼らの周りの人々の魂の福祉に影響を及ぼすいくつかの非常に単純な点を教えられてこなかったのです。このことは聖職者を裁くことではありません。まったくあり得ることですが、多くのよい意図をもった聖職者は今日非常に広く行きわたった誤った宣伝によって誤り導かれているために、信徒たちをこれらの問題における彼らの荘厳な義務へと呼びかけることにおいてその義務を果たしていないという罪があります。

 私は、怒りのうちに、あるいは聖職者に対する非難としてこれらの事柄を指摘しているのではなくて、私たちがその中に生きている時代、私たちすべてが多かれ少なかれ欺かれている時代のしるしを指摘しているのです。というのも、私たちは周りの他の人々が同じことをする、あるいは同じことをしないのを見ており、それゆえに、他の誰もがしているのだからそれは間違いないと結論するからです。

 これは、特に現代においては、事柄を見る十分なやり方ではありません。大洪水の時代の人々は同じように他の誰もが同じことをしているから間違いないと自らを慰めていました。しかし、人類全体、即ち何千万の魂が神によって懲罰を受けました。なぜなら、彼らは神の基本的な律法を破っていたからです。そして全人類の中からたったの八人だけが大洪水を生き延びました。他のすべての人々は悪かったのです。

 私たちは背教の時代に生きています。そして私たちは私たちの時代のためのファチマの預言的なメッセージによって導かれる必要があります。それを無視することによって、それに従わないことによって、私たちはとがめなしにファチマ・メッセージに注意を払わないでいることができると私たちに告げる司祭に耳を傾けることによって、あなたたちが、もしこの警告を無視するように教える彼を、あるいは他の誰かを信じるならば、地獄への道にいるかもしれないことを知りなさい。

 祝せられたおとめがファチマのメッセージの中で私たちひとりひとりに「ただロザリオの聖母だけがあなたたちを助けることができます」と言われるとき、聖母は文字通りそのことを意味しておられるのです。私たちは聖母を必要としています。私たちは聖母のメッセージを必要としています。そして私たちはそれに従う必要があります。ですから、そのことに失敗することは私たち自身の救いについて危機に直面することです。私たちはまた司祭のために祈らなければなりません。私たちは犠牲をしなければなりません。

 「多くの霊魂は彼らのために祈り、犠牲をしてくれる人が誰もいないために地獄に行きます。」注10

 あなたたちはまた祈り、犠牲をしなければなりません。私たちは聖母に自らを奉献しなければなりません。私たちは聖母の汚れなき御心に自分を奉献しなければなりません。そのようにして私たちは神の御保護と聖母の御保護を私たちの上に呼びおろすでしょう。

 「私の汚れなき御心はあなたの避難所となるでしょう。私の汚れなき御心はあなたの慰め、あなたを神へと導く道となるでしょう。汚れなき御心への信心を実践する人々は私によって神の玉座の前に置かれた花のようになるでしょう。」注11

 もし誰かが汚れなき御心の保護を必要としているとすれば、それはこの邪悪な時代に生きているあなたであり、私なのです。もし誰かが毎日ロザリオの祈りを必要としているとすれば、それはこの邪悪な時代に生きているあなたであり、私なのです。神は私たちすべてをお助けになります。

 しかし私たちの信仰の炎とファチマの光は今なお生きています。私たちは頼るものもなく後退する必要はありませんし、数百万の魂が地獄へとすべり落ちてゆくのを目撃する必要もありません。私たちは教会および世界における危機のこの重大な時期にここにいるべく選ばれたのです。私たちはファチマの救いの恵みの時代に生きるべく選ばれたのです。

 私たちは、何ができるか、何をなすべきかを知っています。しかし、マリアの汚れなき御心、教会、そして全世界のための平和の栄光ある勝利への、ファチマに照らされた道に従うように、私にあなたたちを助けさせてください。私たちは永遠の地獄へと数百万の霊魂が失われることではなくて、霊魂の救いに導く真理を愛する人々に有利な証言をすることを選びます。

 ここに私たちが今しなければならないことがあります!

 ・神の十戒に従いなさい。
 ・カトリック教会の勧告に従いなさい。
 ・カトリック教会の使徒的な、また聖職上の伝統を受け入れ、信奉しなさい。
 ・毎日ロザリオの祈りをしなさい。

 ・茶色のスカプラリオを身につけなさい。

 ・マリアの汚れなき御心に自分自身と家族を奉献しなさい。
 ・5回の初土曜日の信心を行いなさい。
 ・愛徳の行い、知られているファチマの解決策をすることによって聖母と隣人を愛し、そのことに  よって私たちの上にもっと祝福をもたらしなさい。
 ・多くのよい司祭たちがいることを認め、支持しなさい。聖書によれば、三分の二の司祭は良い司  祭です。教皇ヨハネ・パウロ二世は、ファチマ・メッセージが私たちは三分の一の悪い聖職者を  もった預言の時代(黙示録12:3-4)にいるのだと言っていると私たちに告げておられます。
 ・生活の中でのあなたの地位によって要求される償いをしなさい。
・罪の機会:衣服の様式、思考様式、私たちを罪へと導きやすい人物、場所、物事を避けなさい。  聖アルフォンソはもし男性や女性が罪のすべての機会を避けたならば、今犯されているほとんど  すべての大罪は犯されなかったであろうと私たちに告げています。
 ・悪いテレビ、映画、ゲームを避けなさい。

 ・霊的書物、聖人伝を読みなさい。
 ・完徳のために努力しなさい。私たちすべて--平信徒、司祭、修道者--は完徳のために努力するよ  う招かれています。「だからあなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全   な者となりなさい。」(マタイ5:48)「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリス  トの律法を全うすることになるのです。」(ガラ6:2)この危機は私たちの聖化のためのひと   つの機会です。毎日祈りの中で神に対して寛大であるように願い、恵みのうちに忍耐するように  願いましょう。自発的に、そして毎週、毎日でさえ、何か償いの行いをしなさい。「私はそのこ  とに呼ばれていません」と抗議しないでください。ええ、あなたは聖人となるように呼ばれてい   るのです。

 ・あなたは何事かをすることができます。ですから、そのことをしなさい。「人がなすべき善をし  りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブ4:17)
 ・聖母が要求なさったようにロシアの奉献をもたらすためにあなたのできるすべてのことをしなさ  い。 
 ・ファチマの秘密全体の公開を求めなさい。なぜなら、それは、教会における背教、聖職者の中の  堕落、教会と世界の内部に広くゆきわたっている誤謬の時代に聖母の忠告を私たちに与えるから  です。

 シスター・ルチアは私たちのためにそれを次のように要約しています:

 「世界を救うための二つの手段は祈りと犠牲です。聖なるロザリオに関しては、神父様、考え   てください、いとも聖なるおとめは私たちが生きているこの最後の時代にロザリオの祈りを    することに新しい一つの効力をお与えになりました。その効力は、私たちひとりひとりの個人生  活において、私たちの家族、世界の家族、あるいは宗教共同体、あるいは人々や諸国民の生活に  おいてさえ、それがこの世のものであれ、あるいはとりわけ霊的なものであれ、ロザリオによっ  て解決できないような問題は何一つないほどのものです。」

 「申し上げますが、それがどれほど困難であろうとも、聖なるロザリオの祈りによって解決出来  ないどんな問題もないのです。聖なるロザリオでもって私たちは自分自身を救うでしょう。私た  ちは私たちの主を慰め、多くの霊魂の救いを得るでしょう。」

「最後に、私たちのいとも聖なる御母であるマリアの汚れなき御心に対する信心は憐れみ、善そして許しの座として、そして私たちが天国へと入るべき確実な門としての聖母を考察することにあります。」注12

 今や私たち自身、私たちの友人たち、私たちの愛する人々、私たちの隣人、私たちの教会および世界を救うべきときです。神とその聖なる御母にしかるべき敬意を捧げるべきときです。

 ファチマはその道へと導きます。神が私たちにお与えになったタラントを今や返すべきときです。

 私たちがよい道にいると考える人々でさえ、ファチマ・メッセージに従い、それを促進するために--私たちの祈りによって、私たちの犠牲によって、友人や隣人との会話によって、教皇と司教がファチマに従うべきだと主張することによって、ファチマ使徒職を擁護することによって、ファチマ・メッセージを広めるために財政的に貢献することによって、私たちのボランティアの時間によって、神が私たちに自由に使えるようにされた他の何らかの手段によって--今日私たちの時代にできるすべてのことを私たちは行っているかどうかを再検討する必要があります。

脚注:

(1)教会博士Alphonsus de Liguori, Miscellanyから引用。

(1a)Frere Michel de la Sainte Trinite , The Whole Truth about Fatima --Volume I: Science and Facts,(Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, 1989)p.182.

(1b)Frere Michel de la Sainte Trinite , The Whole Truth about Fatima --Volume III:The Thirud Secret,(Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, 1990)p.505.

(2)Saint John Eudes, The Priest:His Dignity and Obligations,(P. J. Kenedy & Sons, New York, 1947)pp.9-10.

(3)さまざまの翻訳者がこれらの節を異なった風に訳している。事実、この節の二つのラテン語の翻訳がある。The Hours of the Divine Office in English and Latin, Volume Three,(The Liturgical Press, Collegeville, Minn., 1964)p. 267.とBiblia Vulgata,(Biblioteca de Autores Cristianos, Madrid, 1985)p. 462.

(4)Letter of Sister Lucy of May 18, 1936(from Pontevedra)to Father Jose Bernardo Gonzales, S. J., Memorias e Cartas da Irma Lucia,(Father Antonio Maria Martins, editor Porto, 1973), p. 415.

(5)William Thomas Walsh, Our Lady of Fatima, fourth printing,(The MacMillan Company, New York, 1947), p. 226.

(6) The Whole Truth about Fatima --Volume III, p.504.

(7)Ibid., p. 506.

(8)Ibid.

(8a)Ibid.

(8b)このことは私の3部の論考"Pope John Paul II Gives Us the Key to the Real Third Secret" in The Fatima Crusader, Issues 67, 68 and 69.

(8c) The Whole Truth about Fatima --Volume III, p.505.

(8d)1917年8月19日の聖母の言葉から引用。

(9)断食のこれらの日と時間を守る義務は一般に重い。(使徒的憲章Paenitemini II, 2, 17-02-1966, AAS 58(1967)183m CLD6(1963-1967)675; Reply of the S. Cong. of the Council of 24-02-1967, AAS 59(1967)229, CLD 6(1963-1967)684-685)最も重要な償いの日:灰の水曜日と聖金曜日--は必ず断食と小斎が必要である。他の日には--年間を通じてすべての金曜日には--義務は小斎だけ。その他は:四旬節の他の総ての日には--何かの償いの行いをする一般的な義務がある。(cf. c.1249)

(10)脚注8dを見よ。

(11)1917年6月13日の聖母の言葉から引用。

(12) The Whole Truth about Fatima --Volume III, p.508.

この特別報告は私たちの母なる教会におけるあなたたちの救いと多くの霊魂の救いのために発表されました。注意深く読んでください。あなたが自分自身を助け、また神があなたの道に置かれた人々を救うことができるように今何が起こりつつあるかを自分自身に知らせ続けることは絶対に必要なことです。神があなたを祝福なさいますように。そして神の聖なる御母が、私たちの唯一、聖にして、普遍的、使徒的教会のためになすすべてのことについてあなたを守ってくださいますように。

2003/10/11 三上 茂試訳

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作成日:2003/10/11

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