ファチマの聖母マリア

ハンガリーのミンゼンティ枢機卿と
カトリック教会は裏切られた

The Fatima Crusader, Isuue 27: Feb.-April 1989より

ウリッセス・フロリディ神父、S. J.

モスクワによって指導された世界共産主義は世界中のカトリック信仰と信徒を撲滅するという目標を持っている。それは悪魔主義者のカール・マルクスによって設立されているその理由であった。そしてそれはロシアのミハイル・ゴルバチョフと共産党の目的であり続けている。

無神論的共産主義の目標は同じまま、すなわち、キリスト教と王たるキリストの主張を裏切ることのないそのすべての信徒を完全に滅ぼすことである。

この不倶戴天の敵に直面した教会はただ二つの選択肢を持つだけである。不倶戴天の敵に面した二つの敵のどちらかについては、攻撃された方は逃げるか、戦うかそれとも交渉するかのいずれかのやり方を取ることができる。教会は逃げることができない。なぜなら、それは世界的だからである。共産主義は世界的である。それゆえ教会は逃げる場所を持たない。

それゆえ、それはただ戦うこと、あるいは交渉することができるだけである。ファチマのメッセージからわれわれは教会がその不倶戴天の敵に対するこの戦いに勝利することができるのは、ただ教会が、ファチマの聖母によって与えられた霊的な武器すなわちロザリオと世界のすべてのカトリック司教たちとの一致における教皇によるマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献をもってしてのみであるということを知っている。

現在まで、教皇に助言しているヴァチカンの高官たちはロシアを奉献するようにというファチマの聖母の命令を無視する方を選び、そしてその代わりに共産主義者たちと交渉することを選んだ。そのような交渉が必ず失敗するに違いないということはどの真面目なファチマ学者にも明らかである。

われわれはここに、われわれの読者たちにわれわれのロザリオとファチマの聖母の要求を知らせ、その要求に従わせる努力とを倍加させる必要についてもっと深く確信させるためにハンガリーにおけるそのような交渉の結果を提供する。

以下の論考において提供されるのは、ヴァチカン-モスクワ協定のハンガリーにおける実施を確実にするためにカザロリ大司教*と他のヴァチカン高官たちによってミンゼンティ(Mindszenty)枢機卿がどのように欺かれ、そして迫害されたかを記述する一つの短い説明である。ハンガリーにおける教会は共産主義者たちに都合よく、そして教会の圧倒的な損害に結果したあの不実な協定の実施によって裏切られた。ハンガリーにおける、そして他の国における共産主義者たちは彼らがした約束を破った。そして教会を共産主義者の政策の道具へと変えるために協定を教会を引き継ぐための一つの手段として用いた。最後までミンゼンティ枢機卿は親-共産主義的ヴァチカン高官たちの裏切りに抵抗した。そして教会の諸権利を擁護して迫害を受けた。

*1964年に大司教であったカザロリは現在カザロリ枢機卿である。

以下の論考は1986年に出版されたウリッセス・フロリディ神父、S. J. による書物モスクワとヴァチカン(Moscow and Vatican)から取られた。この書物は読み易く、またよく研究されている。アレクシス・ウリッセス・フロリディ神父はカトリック教会に関する多くの書物および論考の著者である。1950年から1965年まで彼はイタリア・イエズス会の雑誌La Civilta Cattolicaのスタッフであった。彼はフォーダム大学で教えていた。そして多年にわたってソビエト連邦と中国からのロシア人およびウクライナ人亡命者たちの世話をしていた。彼は1986年にイタリアで手術台の上で亡くなった。この書物はthe Fatima Crusader Book Serviceから入手可能である。この抜粋の副題はThe Fatima Crusaderによるものである。

ハンガリーにおけるヴァチカンの共産党宥和政策

教会にとってカタコンベにおいてよりは拘束の下で存在する方がよいというヴァチカンの東方政策の原理は1956年革命の後にハンガリーにおいて何度か試みられたが不成功であった。1957年8月29日に政府の要求で、司教たちは「教会と国家の間の平和的協力のための前提条件である相互信頼が最近数ヶ月に回復された」と宣言した。そしてハンガリー問題に関する国連報告を一方的なもの、そして「国際的緊張を増大させることを計算したもの、そしてわれわれの国の真の利益を危険にさらすもの」として非難した。この「忠誠な」態度の見返りとして司教たちは「学校における危険に陥った宗教教授を維持し、またもし平和司祭たちが彼らの地位に戻ったならば結果するであろうより大きくさえある危険を避けること」を期待した。しかしその宣言は宗教教授を救わなかったし、また「民主的な司祭たち」の教会における指導的な立場への任命を妨げなかった。

1964年に大司教であった**カザロリはハンガリー政府との「部分的同意」をやっとのことで成就した。しかし再びヴァチカンによって任命された司教たちはVicar Generalsと共産党によってそこに据えられたChancellorsとの間で縛られて動きが取れなかった。ミンゼンティ枢機卿はこう書いている。ヴァチカン外交官は「ハンガリー・カトリシズムの要求をほとんど聴かなかった。そしてそれは、ヴァチカンの外交当局者たちが状況の正確な知識なしに交渉--ただ共産主義者たちにのみに利益をもたらすことができた、そしてハンガリーのカトリシズムには重大な不利をもたらした交渉--に入ったという理由のためであった。」

最後にヴァチカン自身どこに障碍があるかを発見した。それはブダペストにあるアメリカ大使館の中にあった。それは1956年にそこに亡命し、そのとき以来一語も話さなかったミンゼンティ枢機卿であった。平和とデタントはその障碍の除去を要求した。1971年6月にローマから2人のモンシニョールが彼を訪問した。そして彼が国を去るようにという教皇の望みを彼に知らせた。一つの試験的な協定が起草された。しかし枢機卿はそれにサインすることを拒否した。ローマへの出発は最終的に1971年9月29日に決められた。教皇は大きな栄誉をもって彼を歓迎し彼にこう請け合った。「あなたはエスツァーゴム(Esztergom)の大司教、ハンガリーの首座大司教であり、ずっとそうである。働き続けてください。そしてもし難しいことがあれば、いつでも信頼してわれわれのところに戻って来てください。」

ウィーンに居を構えた後に、枢機卿は教皇に諸外国におけるハンガリーのカトリック教徒たちのために配慮すること、そして彼らのために補佐司教たちを任命することを彼のために可能にしてほしいと要求した。彼の要求は叶えられなかった。補佐司教を欠いていたので、彼は自分で亡命中のハンガリー人たちのための司牧旅行を行い始めた。彼の演説の一つがすでに印刷所にまわっていたときに、リスボンにある教皇使節事務局によって検閲が行われた。彼がウィーンにいる教皇使節によって、聖座が1971年夏にハンガリー政府に、彼が海外にいる間はおそらくあの政府を不快にするようなことをしたりあるいは言ったりしない誓約を与えたということを知らされたとき、彼は、*教皇の個人的使節と彼自身の間で...なされた交渉の中には、何らそのような誓約についての言及はなかった、と答えた。「もし私がこの種の何らかの保証について知っていたなら、私は非常にショックを受けて、ハンガリーからの私の出発に関連してなされたすべての取り決めを撤回するよう教皇様に願ったことでしょう...* 私は教皇使節に、ハンガリー内部である不吉な沈黙がすでに拡がっているということ、そして私が同じように自由世界でも沈黙を守らなければならないという考えに私がすくんだということを、適切なヴァチカン当局者たちに知らせてくれるよう頼んだ。」

ミンゼンティ枢機卿、職務を離れることを強いられる

「ヴァチカンの保証の実現を要求したブダペスト政権の爆撃」の下で「教皇はもはや抵抗できなかった」と枢機卿は書いている。その大司教の職務を辞任することを求められて、ミンゼンティは再び拒絶した。1974年2月5日にエスツァーゴムの大司教座からの彼の解任の告知が公表されたとき、彼の事務局はこう宣言した:

多くの報道機関がヴァチカンの決定を、ヨゼフ・ミンゼンティ枢機卿が自発的に引退したということを意味するような仕方で伝えた。報道機関はさらに教皇の決定の前にヴァチカンとウィーンに住んでいる枢機卿・大司教との間で書簡の激しいやり取りがあったと強調した。それゆえに、ある人々はこの決定に関する一つの協定がヴァチカンとハンガリー首座大司教との間で締結されたという結論を出した。真理のためにミンゼンティ枢機卿はその事務局に次の声明を出すことを認可された。

ミンゼンティ枢機卿は大司教としての彼の職務を、あるいはまたハンガリー首座大司教としての彼の尊厳を放棄されなかった。決定は聖座のみによってなされた。

長いそして良心的な考慮の後に枢機卿はこの問題に関する彼の態度を次のように正当化された。

1.ハンガリーとハンガリーのカトリック教会は自由ではない。

2.ハンガリーの司教区の指導権は共産党政権によって建てられ支配された教会行政の手の中にある。

3.上に言及した教会行政の組織あるいは機能を変える立場にあるたった一人の大司教あるいは使徒的管理者もいない。

4.政府が教会の地位を誰が占めるか、そしてどのくらいの期間かを決定する。さらに、政府はまたどの人間を司祭として叙階するかを司教に許すかを決定する。

5.憲法によって保証された良心および宗教の自由は実際には抑圧されている。「選択的な」宗教教授は都市および大きな町にある学校では禁止されてきた。現在学校における選択的宗教教授のための闘争はより小さな共同体において続いている。青少年は彼らの両親の意志とは反対に無神論的な精神において排他的に教育されている。信徒たちは日常生活の多くの領域で差別を受けている。宗教の教師は最近彼らの職業と彼らの宗教との間でどちらを選ぶかという問題に直面させられている。

6.上に言及した諸々の乱用の除去なしの司教や使徒的管理者の任命はハンガリー教会の諸問題を解決しない。「平和司祭たち」の重要な教会の地位への配置は教会の最高の行政における忠実な司祭や平信徒の信頼を揺るがした。これらの重大な状況においてミンゼンティ枢機卿は職務を放棄することはできない。1975年始めに教皇パウロ6世はハンガリーにおける5名の新司教を指名された。そして他の4名を11のハンガリー司教区の2つ以外のすべてに在住司教を置いた主要な移動区に移された。使徒的管理者たちの下に残っている2つの司教座はエスツァーゴムとギヨル(Gyor)司教区の首座大司教区である。あるヴァチカンの高官は「以前の十数人の在住司教たちはハンガリーにおける位階と司祭団との両者の間に緊張と不安を引き起こした。いまやそれはすべて終わった。一つの新しい静穏の感覚が達成されるであろう」と宣言した。しかし彼は、宗教教授、カトリック新聞、カトリック諸団体、神学校、教皇立諸大学での主要な神学校の勉学を含むハンガリー教会とローマとの間の定期的な接触、諸修道会、そして国家によるあらかじめの承認なしに小教区や他の司祭の指名を行う司教区の司教の自由というような、ブダペスト政府と議論されるべき重要な問題がなお存在するということを認めた。

これらの状況の下で「年老いて病弱な」ミンゼンティ枢機卿は働くことを止めることができない

ハンガリーの宗教的状況を矯正することなしに空位の司教座を埋めることは「ハンガリーにおける教会の立場の重要な強化」として解釈されることはほとんどできない。これが年老いて病弱なミンゼンティ枢機卿が引退しようと考えなかった理由である。1974年の間、彼は2ヶ月を合衆国で過ごした。そして彼の回想録を出版した。彼は東ヨーロッパからの他の知識人たちと一緒に、新しい雑誌Kontinentの発行を始めたソビエトに異議を唱える人々の努力に参加することに同意した。最初、V. Maximov(編集主任)、A. Galich, M. Djilas, E. Ionesco, A. Sakharov(編集主任)およびA. Sinyavskyを含んでいたその編集委員会は次の目標あるいは優先事項を宣言した:1)無条件の宗教的理想主義、2)無条件の反全体主義、3)無条件の民主主義、4)無条件の無党派性、「すなわち、存在する政治的諸団体のどれかの利益を表明することの絶対的な拒否」。意味深くKontinent創刊号の表紙には3つの引用のある3枚の写真が印刷された。写真はアレクサンダー・ソルジェニーツィン、ミロヴァン・ジラス(Milovan Djilas)そしてミンゼンティ枢機卿の写真であった。以下は枢機卿の写真に添えられた引用である。「教会は、その逃れ場が神の翼の下であるがゆえに世俗権力によって守られることを求めない。教皇の教会にある祭壇の上の絵は聖ステファノの石打ちを表現している。私はこの絵を指さし、そしてハンガリーの人々に、お互いに石を投げ合わずに、聖なる教会のこの最初の殉教者の徳を模倣するように訴えた。」

ミンゼンティ枢機卿は1975年5月6日にウィーンで亡くなった。[死者に対する]頌の中で、東ヨーロッパにおける司祭たちを助ける組織の創設者、そして枢機卿の友人であったヴェレンフリート・ファン・シュトラッテン(Werenfried van Stratten)神父はハンガリーの元首座大司教を不必要な苦しみに会わせた共産主義者たちとヴァチカンの両者を非難した。

**省略は元のテキストにあった。

2004/03/05 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/05

最終更新日:2004/03/05

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