ファチマの聖母マリア

神は奇跡を無駄にはなさらない

The Fatima Crusader Issue 73, Spring 2003より

デイヴィッド・ホワイト、Ph. D.

注:以下の論考はポール・クレイマー神父の編纂・編集による新しい書物悪魔の最後の戦いの書評である。デイヴィッド・アレン・ホワイト博士(Dr. David Allen White )はアナポリス海軍アカデミーの文学教授であり、Shakespeare A-ZおよびThe Mouth of The Lionの著者である。

神はそのしるしと奇跡を節約してお送りになる。聖ヨハネ福音書によれば、その息子が死にそうであったカファルナウムの王に仕える役人が主のところにやって来て息子を癒してくださるように願った。われらの主は「あなたがたは、しるしや不思議なことを見なければ、決して信じようとはしない」と仰りながら、その人に忠告なさる。そしてそれから要求された治癒、その役人と家族の者も皆信仰において確証する治癒を成し遂げられる。

今日われわれは、キリストが地上を歩かれたときに生きていた、そしてキリストが行われた異常な奇跡を目撃していたあるいはそれについて聴いていた非常に少数の人々が彼の信奉者たちとなったということを妙なことだと考えるかもしれない。われらの主の忠告はわれわれの人間的な弱さに話しかけている。われわれはしるしや不思議なことを要求する。しかしこれらはわれわれが神にわれわれの心を向けることを保証しない。

もしわれわれがモーゼとファラオとの間の争いについての創世記にある説明を考察するならば、その要点は再び明らかである。モーゼはイスラエルの子らが、神が彼に御出現になったということを信じないであろうと恐れている。神は民が信じるようにしるしを提供するであろうと言われる。すなわち、杖を蛇に変えること、そしてそれをまた元に戻すこと、そしてモーゼの手を完全な状態かららい病に掛かった手に変えられ、また元に戻される。モーゼはこれらのしるしを民に示した。そして彼らは信じる。

ファラオはもっと難しい例である。彼はイスラエルの民を自由にせよという神の御意志に応じることを拒否する。彼は次に蛇に変わる杖の奇跡を目撃する。しかし似たような不思議を行うことができる彼自身の魔術師たちを見つける。そのしるしは彼を感動させない。なぜなら、神は彼の心をかたくなにされたからである、とわれわれは告げられる。それから、モーゼはエジプトの川の水を血に変える。それでもなおファラオは動かされない。そこで神はその土地にしるしとしてもっと多くの罰を送られる--蛙、sciniphs、アブの大襲来、家畜の伝染病、はれもの、雹、イナゴ--。ファラオは自分自身の心をかたくなにし、そして神によって彼の心をかたくなにさせられたという両方のことを経験した、とわれわれは知る。これは神の摂理的な御計画と自由意志との間の完全な釣り合いである。しかし彼はなお神の御意志を遂行し、イスラエルの子らを行かせることを拒否する。そこで神はエジプトの地に大いなる暗闇と初子の死という恐るべき罰を送られる。ファラオは彼が神からの明白な御要求に応じる前に罰によって彼の土地が荒廃させられることを許す。

これらの考えはポール・クレイマー神父の編集・編纂になるぞっとさせる、しかし説得力のある新しい書物悪魔の最後の戦いを読んだ後に心に起こってくることである。最近のカトリック思想におけるこの画期的な著作のまさに最初の章は非常に明瞭に「神は奇跡を無駄になさらない」と述べている。ヨシュアからモーゼへ、12使徒へ諸世紀を通じて今日までのカトリック教会の諸聖人たちへ--救いの歴史を通じて、神は一つの主要な目的:神の名において奇跡を祈願する証人のための一つの神的な信任状として役立つこと、のために奇跡をお与えになった。神が一人の証人を選ばれ、そして次にその証人の証言に一つの真正の奇跡を伴わせられるとき、われわれはその証人が信ずるに値するということを確実だと知ることができる。(p. 5)

太陽が踊った

話されている奇跡はわれわれの時代の一つの奇跡的な出来事--1917年10月13日にポルトガルのファチマで起こった太陽の奇跡--である。証人はシスター・ルチアである。この奇跡は一つの異常な出来事、確かに20世紀の最も驚くべき出来事、月面歩行あるいは居間のための映像箱の発明のようなそのような取るに足りない人間的達成を顔色なからしめる出来事であった。

その日天からの目に見えるしるしがあるだろうと告げられていたので数万人の人々が集まった。彼らが見守っていると、彼らが何らの問題もなく眺めることができた太陽が、動くにつれて色を変えながら風車のように空においてくるくる回り始めた。それから太陽はその通常の活動範囲から移動させられ、そして直接集まった大群衆に向かって地上に落ちて来始めるように見えた。彼らは悲鳴を上げ、地に倒れた。だが彼らは上を見上げ、太陽がその通常の場所に戻り、その通常の仕方で輝くのを見ただけである。彼らの衣服と大地は今や奇跡的に乾いた。

悪魔の最後の戦いはこの驚くべき奇跡で始まり、そしてそれから、カトリック教会の歴史における(そしてそのようにして人類の歴史における)この最も重要な出来事と20世紀における聖にして母なる教会の歴史における他の決定的な瞬間--第二ヴァチカン公会議--との間に一つの輝かしい関連をつけることへと進んでいる。もし太陽の奇跡がシスター・ルチアの証言によって報告されているように神の証言と要求の真実性を封印するための神からの一つの偉大なしるしであるならば、そのとき第二ヴァチカン公会議は教会におけるファラオの勝利、神によって彼らの心をかたくなにされ、そして彼ら自身の心をかたくなにした支配者たちのグループの一時的な勝利として見られるであろう。

現在の危機、カトリック教会と世界を揺さぶっている進行中の混沌はそのときこの背景において非常に単純に理解され得る--それは保証された証人によって表明されたものとしての神の御意志に応じることを権威の地位にある人々が拒否したための、神からの罰である。われわれはわれわれの諸々の疫病の始まりにいるのであろうか? われわれは暗闇と死に直面するのであろうか?

ファチマ対暗闇の権力

ファチマの歴史はたいていのカトリック教徒にはよく知られるべきである。その主題に関する偉大な著作は聖三位一体のフレール・ミッシェル(Frere Michel of the Holy Trinity)による3巻の研究ファチマについての全真理という包括的な研究である。この新しい書物の中でクレイマー神父は二つの有利な地点からから始めている--すなわち、第一は、その出来事を目撃した人々の一連の驚くべき1人称の説明と共に詳細にわたって記述されている太陽の奇跡である。彼はまたファチマの御出現の最初から表面化していた諸々の反対をも年代的に記録にとどめた。彼はファチマがそれに属していた郡庁所在地オウレム(Ourem)の郡長アルトゥーロ・デ・オリヴェイラ・サントス(Arturo de Oliveira Santos)によって当時示されていた敵意を詳しく述べている。アルトゥーロ・サントスは単にオウレム郡長であったばかりでなく、オウレムの新しく設立されたフリーメーソン・ロッジの長でもあった。彼の反カトリック熱はカトリック教徒のミサ出席の低下、離婚率の増加、そして出生率の衰退という諸結果を示し始めていた。1917年8月11日の、毎月の御出現の真ん中で、オウレムの郡長は3人の幼い幻視者たち、ルチア、ヤチンタ、フランシスコが彼らの偽りを暴露するために裁判を受けなければならないと要求した。子どもたちによって報告されるメッセージに対するこの猛烈な怒りは--もし彼らが嘘つきであると認めないならば--恐ろしい死--油の中で煮る--をもって子どもたちを脅迫させることになった。

そのような行動において明らかにされた教会に対する猛烈な反対は聖にして母なる教会に対するフリーメーソンの深い憎しみを明らかにしている。この書物はフリーメーソン運動を通じてのこの敵意を、20世紀の初頭に世界中の多くの国々における共産党の公然の反対と同様に、跡づけている。フリーメーソンは彼らの目的をまったく明白に悪名高いアルタ・ヴェンディタの永久の教えにおいて述べた。それはカトリック教会の破壊のための一つの正確なそして実践的な行動指針である。ダグラス・ハイド(Douglas Hyde)ベラ・ドッド(Bella Dodd)や元KGB要員アナトリー・ゴリツィン(Anatoliy Golitsyn)のような、共産党の役職を棄てた者たちの証言は、共産党がカトリック教会破壊のための彼ら自身の行動指針を持っていたことを明らかにしている。二つのグループが彼らの不埒な目標実現において協同していることは疑うことができない。特に不安にさせることは、彼らがもっと容易にその尊敬すべき制度[教会]を堀り崩すことができる教会内部に彼らの支持者たちを置くことによってこの破壊において成功しようとする彼らの意図である。

問題はかなり明白になってくる--フリーメーソンと共産党員たちのますます強まる勢力による教会への憎しみは、まさに信仰の柱そのものを守り、受け渡して行く責任を担っている教会人の多くの者によって教会の諸々の伝統、教義そして教説の憎しみとなった。ファチマからのメッセージとそれに伴う諸々の命令がこれらの権威者たちに届いたとき、彼らはほとんど関心を示さなかった。時が経つに連れて、彼らの後継者たちは猛烈な反対を始めた。にもかかわらず、この反対を一般公衆からは隠そうと努めながら、彼らは聖母を愛しそして尊敬する振りをする一方で聖母のメッセージを掘り崩した。しかし、すべての証拠が示しているように、彼らは最初オウレムの郡長によって示されたのと同じ強さでもってファチマのメッセージと要求とを憎むことになった。実際、彼らの狂った精神とゆがんだ霊魂において、幻視者たちに表明されたものとしての神の御要望を転覆することは教会を転覆する最良の道であろう。

悪魔の最後の戦いは正確な詳細と確信させる証拠資料でもって第二ヴァチカン公会議の時代に二つのものが出会うまでのファチマ・メッセージと教会の堀り崩しの二つの道を跡づけている。以前の40年間の展望から振り返って見れば、真面目な観察者なら誰でも1960年代初期のあのエキュメニカルな公会議のいわゆる「新しいペンテコステ」はカトリック教会とカトリック信仰に対する意図的で破壊的な攻撃に他ならなかったということを結論することができるだけであろう。公会議の諸改革そしてそれに引き続く伝統的カトリック信仰およびその信念と典礼のあらゆる局面の解体によって積み重ねられた廃墟の上の廃墟の完全な編集をする必要はない。人はただ街を閉鎖された地方の小教区教会、あるいは新しいエキュメニカルな礼拝空間まで歩いてみるだけ、あるいは「カトリック」学校の教室において教えられた青少年に二三の基本的な質問をするだけ、あるいは地方の神学校によって追い払われたけばけばしい老人たちを見るだけ、あるいは地方の修道院の静養先を訪れるだけで十分である。

隠された第三の秘密

もし第二ヴァチカン公会議が教会の心臓に撃ち込まれた爆弾であったとすれば、ファチマの御出現とメッセージはそのシェルターとなるはずのものであった。この書物はシスター・ルチアがファチマからのメッセージの第三の部分を書き写した経過およびそれのローマへの移送の経過の証拠書類を提供している。メッセージの最初の二つの部分は公開されてきた。第三の部分に関する命令はより明瞭なものではあり得なかった。レイリアのダ・シルヴァ司教がそれを知る責任の重荷を望まず、封印した封筒の内容を読むことを拒否したとき、シスター・ルチアは彼に、その書物に引用されているカノン・ガランバの言葉によれば、「それは、どちらが先に来るとしても、彼女の死かあるいは1960年にかのいずれかの場合には、確実に開かれ、世界に対して読まれるであろう」ということを約束するように求めた。

ヴァチカンはその代わりに、その文書を隠すことに決定した。そのメッセージが教会における背教に関係しているということはほとんど疑いがない。この書物は非常に説得力のある証拠を提出している。神の明白な御計画に従ってそれを明らかにしたならば公会議の道筋と世紀の残りの間の引き続く歴史を変えたであろう。爆弾は信管を抜き取られたであろう。あるいは信徒はそこから敵に対して戦いに戻る避難の場所を持ったであろう。

メッセージは隠され、第二ヴァチカン公会議は進行した。それが前進するにつれて、ファチマ・メッセージに対するローマからの公式の攻撃は増加した:

教皇は第三の秘密を公表しないであろうということを告知する1960年無名のヴァチカン新聞発表がこう言った。「教会はファチマの御出現を認めるけれども、3人の羊飼いの子どもたちが聖母から聴いたと主張している言葉の真実性を保証するとは約束していない。」

この書物の著者は次のようにコメントしている:

「聴いたという主張?」太陽の奇跡の後で彼らの証言の真実性についての何らかの疑いがあり得るであろうか? これまでメッセージにおけるあらゆる予言の完全な成就から考えてみても--第一次世界大戦の間もなくの終りからロシアの誤謬の広まりまで、第二次世界大戦そしてピオ11世の選出まで--彼らが神からの真正の預言を与えられたことは何か問題があり得るであろうか? (p. 50)

しかしこれは攻撃の始まりに過ぎなかった。幻視者たちの真実性を疑問視することから、ヴァチカン当局者たちはシスター・ルチアを沈黙させること、そしてアロンゾ神父が1965年から1976年の間に編纂した24巻における5,000の証拠書類の公的接近と公的読書を禁止することへと動いた。書物はこう述べる。「犯罪が始まった」と。もしシスター・ルチアが秘密の第三部はそれが「そのときにはより明白になっているでしょう」から1960年には公表されるべきですと述べたのであれば、その明白性は公会議とその諸々の実と共に厳しいそして苦痛に満ちた現実性を帯びてやって来たのだ。これらの実は次のような標題の下に冷静に記録文書として残され、説明されている。それぞれは誤謬の重さ、そして次の40年間教会に重くのしかかり、そして教会からまさに生命を搾り取ったと思われるであろう伝統の侵害を具体的に表現している:「ロシアの諸々の誤謬」、「教会への潜入」、「第二ヴァチカン公会議におけるネオ近代主義者たちの勝利」、「教会にとっての一つの全体的な新しい『方向づけ』」、「教会は自らを共産主義およびフリーメーソンの敵との『対話に開く』」、「教会は自らを自由主義と『和解させ』る」、「ローマカトリック教会は排他的にキリストの唯一の真の教会であるという教えが放棄される」、「教会はもはや異端者たちおよび分離主義者たちの帰還を語らない」、「キリストの社会的王権[という考え方]は放棄される」、「『愛の文明』が異教徒の回心に取って代わる」。聖にして母なる教会の忠実な子どもはこのリストを読んで泣かなければならない。これは今日の時代の教会がなったものである。これは教会の現代的教会人が宣言したノンセンスである。

要塞の取り壊し

これらの新しいそして風変わりな考えを広めることに満足せず、第二ヴァチカン公会議はまた伝統的教会および伝統的信仰のどんな残りのものをも破壊することに努めた。「要塞の取り壊し」と題された章において、われわれは、軍隊の指揮官が主要な戦闘の後で死者のリストを読み上げるのを常としているように、改革者たちによってなされた破壊のリストを読む:「典礼の破壊」、「神学の破壊」、「教会の霊魂の破壊」。われわれが「教会の受難」を目撃しつつあるという観察の正確さについては何の疑いもあり得ない。

ファチマ・メッセージはこのことをどのようにして妨げることができたであろうか? それはなぜ新秩序の教会人にとってそのような脅威を表しているのであろうか? 近年における最も獰猛な攻撃の下にあった一連の教義はファチマで羊飼いの子どもたちに話されたものとしての祝せられた御母の言葉のうちにすばらしい大胆さでこう表現されている:

  • 聖母は天国についての教義を話された。

  • 聖母は地獄についての教義を話された。

  • 聖母は子どもたちに地獄を示された。

  • 聖母は煉獄の教義について話された。

  • 聖母は聖なる御聖体の教義について話された。

  • 聖母は告解の秘蹟の教義について話された。

  • そして聖母はまた、ロシアがマリアの汚れなき御心に奉献され、そしてカトリック宗教に回心する--バラマンド宣言においてヴァチカンの交渉者たちが「時代遅れの教会論」として記述したまさにその事柄--という神の御命令を聖母が伝えられたとき、イエズス・キリストの社会的王権について、間接的に、話された。(p. 81)

このリストとすべての時代の信仰のその提示を読んで、この注目すべき書物の大胆な主張と共にこう結論しなければならない:「第二ヴァチカン公会議によって始まった『新しい』教会とファチマ・メッセージによって代表されるすべての時代の教会との間には基本的な相違がある。」

戦線は、一方において伝統のカトリック教会、太陽の奇跡によって確証されたファチマの御出現とメッセージにおけるそのすべての栄光のうちに明るく輝いている教会と、近代主義の新秩序教会、世界とその暗黒の主人を抱き、そのスキャンダル、不毛そして背教において明らかにされた新奇さの教会との間に明確に引かれている。

しかし疑いはあり得ない:これは真の戦いであり、世界がこれまでに知ったどの戦争とも似ていない。これは霊的な戦い、宇宙的な戦いであって、ルチフェルが最初に服従することを拒否したときの天における天使たちの戦いに似ていなくもない。

ある人々は、その当時自分は一人の人間の女性の役に立つであろうと理解していたためであると言う。悪魔と婦人との間の戦いは今やその最終段階にあり、数百万の霊魂が不安定な状態にある。われわれは結果を知っている。聖母もまたわれわれにファチマ・メッセージの一部分として、最後に「私の汚れなき御心は勝利するでしょう」ということをお知らせになった。それはわれわれが、誰が勝ち、誰が負け、絶望して地獄に堕ちるかを知っているということを意味する。

そのような神学的確実性は、しかしながら、その戦いが早いあるいは容易であるということを意味しない。今日ヴァチカンにおいて権力を持っている人々の獰猛さはそのことを明確にするであろう。彼らはその反対において攻撃的であり強固である。彼らはファチマの聖母が体現しそして表明しておられることを憎んでいる。書物の多くは今日のローマにおける権力の御用達が神の御意志を鎮圧しに行くこの敵意と長さを記録にとどめている。

偽りの陳述と虚偽はきれいな流れをどろどろにする汚染のように流れ出ている。彼らは、ロシアの奉献はなされた、そしてロシアは回心したと言っている。この書物は、世界における最高の中絶率(平均的ロシア女性はその妊娠可能期間の間に8回の中絶をする)からそれに続いて起こる急落する出生率まで、世界におけるアルコール中毒症の最高比率まで、児童ポルノの配給のための世界センターであることまで、カトリック信徒、カトリック司祭、そしてカトリック教会に対する公然たる攻撃までの現代ロシアの諸々の恐怖を記録することによってそのような主張の狂気の沙汰であることを証明している。これらはマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献の実であるのか?

神の御母に対する公的な侮辱

ヴァチカンがファチマの秘密の第三の部分を公表したと言われ、それ自身の解釈を提供した2000年の夏に、もう一つの欺瞞が起こった。この書物は、ヴァチカンがファチマの秘密を含んでいると唱えた文書がシスター・ルチアのノートブックから取った4ページであったが、しかしそれは最も決定的にローマに送られる数年前に彼女が第三の秘密を書いた1枚の紙ではなかったということを明らかにしている。解釈もまた不合理であった。荒廃した街の中を多くの死体を超えて歩いてゆく「白い衣服を着た司教」の幻視そしてそれから撃たれて死ぬ彼自身の幻視が実際に1981年のヨハネ・パウロ二世の暗殺未遂の預言であったという解釈である。

その特別のビーンボール[故意に頭をめがけて投げた球]に満足せずに、彼らは、シスター・ルチアが霊的読書の後でエピソード全体を想像した可能性、そしてすべてのカトリック教徒の口はファチマの聖母とその啓示に関して永久に閉ざされ、決して再びそのことに関して一語も発せられるべきではないというようなノンセンスを含む二三の他のカーブボールを公衆に向かって投げたのである。彼らの意図は最も世俗的な精神の持ち主たちによってさえ識別され得るであろう。そして2000年6月27日のLos Angeles Timesは「カトリック教会、第三の秘密のヴェールを剥ぐ:ヴァチカンの筆頭神学者は数十年の憶測に燃料を注いできた1917年の幻視についての修道女の説明を穏やかに正体暴露する」と書いてある見出しをつけてthe smoke-and-mirrors announcementについて報道した。

ヴァチカンの「筆頭神学者」よりも多くの人々がカトリック教徒に対するこの公的な侮辱にそして神の御母に対する公然の侮辱に巻き込まれていた。この新しい書物の栄光の一つはそれが反ファチマ陰謀団としてまったく正当に確保されている4人の高位聖職者たちの名を挙げ、その一人一人によって演じられた役割を完全に調査していることである。彼らはアンジェロ・ソダノ(Angelo Sodano)枢機卿、ヨゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)枢機卿、タルシジオ・ベルトーネ(Tarcisio Bertone)大司教そしてダリオ・カストゥリヨン・ホヨス(Dario Castrillon Hoyos)枢機卿である。これらの高位聖職者たちは神の御母の息の根を止め、シスター・ルチアを沈黙させ、ファチマ・メッセージを覆い隠し、カトリックの伝統のすべてに反対する新しい教会を促進するために結託した。彼らは廃位されるに値する。彼らは創造主の前に立ち、答えさせられる前にさえ、カトリック教徒に答えることを強いられるべきである。彼らの反対は世界平和と数百万人の霊魂の両方を危険にさらしている。

この挑発的なしかし勇気ある書物が引き出している結論は過去40年にわたるカトリック教会の解体と破壊はファチマ・メッセージ--まさに起ころうとしているリベラルなイデオロギー的テロリストたちによる教会のハイジャックについてわれわれいまったく明らかに警告したメッセージ--の抑圧と直接的な関係を持っている。

彼らは秘密を葬り、それを保持してきた人々を公衆の目の前で困惑させ、愚かしい解釈でもって彼ら自身の偽りの代用メッセージをでっち上げるしかるべき理由を持っていた。彼らの新しくでっち上げた教会がカトリック信仰に対して害を与えてきたのと同じ動きである。彼らは 神が御自分の教会と御自分の民に望まれたこと--諸聖人、司教たち、殉教者たち、神秘家たちそして単純なカトリックの霊魂たちの諸世紀を通じて証拠となってきた--には何の関心も持っていない。彼らはリベラル派である。彼らは全能の神よりもよく知っている。彼らは古いものを解体し、新しいものを建設する。彼らはステンドグラスを粉砕し、聖所を破壊する。彼らは儀式を捨てて、トレンディな代用品を押しつける。彼らは神を恐れず、このようにしてほとんど知恵を持たない。かれらの傲慢な計画はわれわれをこの悲しむべき状態へともたらした。

われわれは現在の教会の状態を知っている。信徒の数は少なく、彼らの子どもたちは霊魂の死んだカトリック学校で信仰を学んだことがなく、背教者である。位階は同性愛の支配する神学校によって自由にされた倒錯の疫病をそっと支持してきた。司祭たちは品性を落とした礼拝--エルビス・ミサ、カボチャ・ミサ、道化師ミサ、ギター・ミサ、オートバイ・ミサ、スターウォー・ミサ、信心深い聖なる司祭によって真の祭壇の上で御父に対する償いとしてそして人類の救いのために捧げられるわれらの主イエズス・キリストの無血の犠牲であるすべての時代のミサ以外の何らかのミサ--において彼らの情熱的なそして生気のない想像力を見せびらかすためにプロテスタント化された典礼によって提供された諸々の機会をつかまえたのである。多くの真のミサが次第に減少したので、中絶医師たちの手術台の上での無辜の血の聖ならざる犠牲が世界をずぶ濡れにしたのである。暗闇の君は彼の悪魔的な歓喜を抑えることができない。今は彼の時である。

非常に重要な書物

裏切りについてのこの真実のそして人をうち砕く説明は適切な標題をつけられている。悪魔の最後の戦いは進行中である。そして昨年はわれわれにわれわれがこれから期待するであろうものについてのヒントを与えた:テロリズムと経済的崩壊、社会的混沌と文化的恐怖、狂気と絶望と死。ファチマの聖母は予言なさった。「さまざまの国々が絶滅させられるでしょう。」われわれは皆われわれがその苛酷な幻視の成就の崖っぷちにいることを知っている。そしてローマはわれわれの口を閉ざし続け、決して再びファチマについて話すなとわれわれに告げることによって答えるのである。

神がクレイマー神父とこの実にみごとなそして非常に重要な書物を作るために一緒に働いた他の信心深いカトリックの霊魂たちを祝福されんことを。

思い切って話すことによって、彼らは進行中の戦いにおいて主要な一斉射撃を行った。そして彼らの武器、カトリック真理のこの火薬樽は聖母の最終的な勝利を確実に援護するであろう。傍観者として坐していてはいけない。なぜなら、あなたは、世界に今生きているあらゆる霊魂と同じように、戦闘のただ中にいるからである:この書物を読み、友人にも分かち合ってください。それから、聖母の兵士および支援者としてあなたの役割を果たしてください。そして究極の武器を用いてください:すなわち、あなたのロザリオをつかみ、跪いてマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献のために祈ってください。

その出来事は、それが起こるとき、より驚くべきものとなり、あっと言わせるような太陽の奇跡がそうであったよりももっとびっくりした目で見られるであろう。

2004/03/26 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/26

最終更新日:2004/03/26

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