ファチマの聖母マリア

われわれの救いのために祝せられたおとめマリア
の執り成しの必要性

The Fatima Crusader, Isuue 74, Spring 2003より

聖アルフォンソ・デ・リグオリによるマリアの栄光から抜粋

聖人たちに、そしてもっと特別に聖人たちの元后、永遠に祝せられたおとめマリアに、彼らがわれわれのために神の恩寵を手に入れてくださるように嘆願し、祈ることが単に合法的であるばかりでなく、有益であるということは一つの信仰箇条である。

それはわれわれの唯一の仲介者であられるイエズス・キリストに有害なものしてそれを非難した異端者たちに対して一般公会議によって決定されてきた。

しかしもしエレミアが彼の死後エルサレムのために祈ったのであるならば、注1)もし黙示録の長老たちが聖人たちの祈りを神に提示したのであるならば、注2)もし聖ペトロが彼の弟子たちに彼の死後彼は彼らのことに留意すると約束しているならば、注3)もし聖ステファノが彼の迫害者たちのために祈るならば、注4)もし聖パウロが彼の仲間たちのために祈るならば、注5)もし、要するに、聖人たちがわれわれのために祈ることができるならば、なぜわれわれは聖人たちにわれわれのために執り成してくださるように懇願することができないのであろうか? 聖パウロは彼の弟子たちの祈りに彼自身を委ねた:兄弟たち、われわれのために祈ってください。注6)

聖ヤコボはわれわれに、お互いに、祈りなさいと勧めている:あなたたちが救われるように、お互いに祈りなさい。注7)そこでわれわれは同じことをすることができる。

イエズス・キリストがわれわれの唯一の正義の仲介者であるということ、そしてキリストがその功績によって神とのわれわれの和解を得られたことを誰も否定しない。しかし、他方において、神は御自分の聖人たちの執り成しで、そしてもっと特別に御自分の御母マリア--皆から愛され、そして栄誉を受けられることをイエズスがそのように望んでおられるマリア--の執り成しで恵みを与えることを喜ばれないと主張することは不敬である。

母親に与えられる栄誉が息子の栄誉に跳ね返って来ないと誰が厚かましくも主張することができるのか? 子どもたちの栄光は彼らの父の栄光である。注8)それゆえに、聖ベルナルドはこう言っている。「われわれが、御子の栄光をわれわれが御母に惜しまず与える大きな称賛によって覆い隠すと考えないようにしよう。なぜなら、御母が栄誉を与えられれば与えられるほど、それだけその御子の栄光は大きいからである。」

聖人はこう言っている。「何であれわれわれが御母を称賛して言うことは等しく御子を称賛して言うことであるということに何の疑いもあり得ない。」注9)そして聖イルデフォンスもまたこう言っている。「御母に与えられるものは御子に跳ね返って来る。女王に与えられる栄誉は王に与えられる栄誉である。」注10)

イエズスの功績によってマリアがわれわれの救いの仲介者とされたということには何の疑いもあり得ない。実際、正義の仲介者ではなくて、恵みと執り成しの仲介者である。聖ボナヴェントゥラが彼女をはっきりと「われわれの救いの最も忠実な仲介者マリア」と呼んでいるように。注11)

そして聖ローレンス・ジュスティニアン(St. Laurence Justinian)はこう尋ねる。「彼女は、天国への梯子、天の門、神と人間との間の最も真なる仲介者とされた聖寵充ち満てる方である以外にどのようにあり得るであろうか?」注12)

それゆえ、学者であるスアレス(Suarez)は正当にこう指摘している。もしわれわれがわれわれの祝せられた婦人に恩恵をわれわれに得させてくださるよう嘆願するならば、それはわれわれが神の憐れみを信じないからではなくて、むしろわれわれがわれわれ自身の相応しくないことそして適切な自然的傾向の欠如を恐れているということ、そしてマリアの気高さがわれわれの低さを補ってくださるように、われわれはマリアにわれわれ自身を委ねるということである。彼はわれわれはマリアに「仲介者の気高さがわれわれの悲惨を補うために」依頼するのだと言っている。「それゆえ、いとも祝せられたおとめの助けを請い求めることは神の憐れみへの自信のなさではなくて、われわれ自身の相応しくないことの恐れである。」注13)

マリアの執り成しに依り頼むことが最も有益で聖なることであるということは信仰を持たない人々によってのみ疑われ得ることである。しかしわれわれがここで証明しようと意図していることはマリアの執り成しが救いにとって必要でさえある--われわれは--絶対的にでなく、道徳的に--必要であると言う。

この必要性は神の御意志そのものから発している。すなわち、神がお与えになるすべての恩寵は、聖ベルナルドの見解に従えば、そしてそれを今われわれは安全に神学者や学者たちの一般的な見解であると呼んでもよいが、マリアの御手を通過すべきだということである。マリアの支配の著者は事柄はそのようであるということを積極的に主張している。そのことは、ヴェガ(Vega)、メンドーサ(Mendoza)、パチウッチェリ(Paciucchelli)、セグネリ(Segneri)、ポワレ(Poire)、クラッセ(Crasset)によって、そして他の無数の学問のある著者たちによって主張されている。

その論題において常にそのように多くの留保を用いているナターリス・アレキサンダー(Natalis Alexander)は、われわれがマリアの執り成しを通じてすべての恵みを期待することは神の御意志であると言っている。彼自身の言葉を挙げよう。「神は、われわれが神から希望するすべてのよきものをおとめなる御母の強力な執り成しを通じて得ること、そしてわれわれが御母に嘆願するときはいつでも(われわれが義務上ぜひそうでなければならないように)われわれがそれらを得るように望んでおられる」注14)。このことを確証するために、彼は聖ベルナルドの次の有名な節を引用している:「われわれがすべてをマリアを通じて持つということが神の御意志である」注15)。

コンテンソン(Contenson)神父もまた同じ意見である。なぜなら、聖ヨハネに対して十字架上のわれらの主によって発せられた「見よ、汝の母を」注16)という言葉を説明しながら、彼はそれは、あたかも主がこう言われたかのように、それと同じ事柄であると指摘している:

「誰も私の苦しみと死の功績を通じて以外には救われることができないのと同じように、私の御母の祈りを通じて以外にはその時流された血に誰も与ることはないであろう。マリアを自分の母親として持つ者だけが私の悲しみの息子である。」

「私の傷は永遠に流れる恵みの泉である。しかしその流れはマリアの通路によって以外には誰にも達しないであろう。マリアを母として尊敬しなかった者は父として私に嘆願しても無駄であろう。そして汝、わが弟子たるヨハネよ、もし汝が我を愛するならば、わが母を愛せよ。なぜなら、汝は我が母に対する愛に比例して我によって愛されるであろう。」注17)

この命題(われわれがわれわれの主から受けるすべてのものがマリアを通じて来るという)はある一人の現代の作家を正確に言って喜ばせない。彼は、他の点では大きな学習と敬虔をもって真のまた偽りの信心について話すけれども、にもかかわらず彼が神の御母に対する信心について論じるときには、聖ゲルマヌス(St. Germanus)、聖アンセルモ(St. Anselm)、聖ヨハネ・ダマスケヌス(St. John Damascene)、聖ボナヴェントゥラ(St. Bonaventure)、聖アントニヌス(St. Antoninus)、聖ベルナルディノ(St. Bernardine)、尊者セル大修道院長(Venerable Abbot of Celles)、そしてマリアの執り成しは単に有益であるばかりでなく、必要であると主張することに何の困難も持たなかったそのように多数の他の学者たちによって何のためらいもなく聖母に与えられたあの栄光を聖母には出し惜しみをしているように思われる。

その同じ著者は、神がマリアを通じて以外には恵みを何もお与えにならないという命題は大げさで誇張されたものであると言っている。それらは白熱状態にあるある聖人たちの唇から出たものであるが、しかし、正確に言うならば、それはただ、その方の功績によってわれわれがすべての恵みを得るイエズス・キリストを受け取ったのはマリアを通じてであるということを意味するものとしてだけ理解されるべきである、と。なぜなら、彼はこう付け加えているからである。「神がマリアの執り成しなしにはわれわれに恵みを与えることがおできにならないと信じることは、聖パウロの信仰と教説に反するであろう。聖パウロはこう言っている。われわれは『神は唯一であり、神と人との間の仲介者もまた、人であるキリスト・イエズス、ただ一人です』ということを認める」と。注18)

しかし、彼には失礼だが、そして彼自身の承認を求めて言えば、功績の道による正義の仲介は一つの事柄であり、祈りの道による恵みの仲介は別の事柄である。そしてさらに、神がマリアの執り成しなしに恵みを与えることがお出来にならないと言うことと、お望みにならないと言うこととは別の事柄である。われわれは、神があらゆる善の源であり、すべての恵みの絶対的な主人であられるということ、そしてマリアは単に一つの純粋な被造物であり、何であれマリアが神からの純粋な好意として手に入れられるものを受け取られるのだということを喜んで認める。

しかし、神は、その生涯の間他のすべての人よりも神に栄誉を与え、神を愛された方、そしてさらに、神が御自分の御子、われわれの共通の救い主、の母たるべくお選びになったこの偉大な被造物を高めるために、神が救済なさった者たちに与えられるすべての恵みがマリアの御手を通過し、そしてマリアの御手によって配られるべきだとお望みになっていると主張することが最も理に適ったことであり、適切であるということをそもそも誰が否定できるのか?

われわれは、さっきなされた区別に従って、イエズス・キリストが正義の唯一の仲介者(only Mediator of justice)であるということ、そしてキリストの功績によってキリストがわれわれのためにすべての恵みと救いを手に入れられるということをまったく快く認める。しかしわれわれは、マリアは恵みの仲介者(mediatress of grace)であると言う。そして全てを受け取られながら、マリアはイエズス・キリストを通じてそれを手に入れられる、そしてそれはマリアがイエズス・キリストの御名においてそれを祈られ、求められるからである、と言う。しかしそれでもやはり、何であれわれわれが受け取る恵みは、マリアの執り成しを通じてわれわれに来るのである。

このことには確かに信仰に反するものは何もなくて、その反対である。それは教会の考えとまったく一致している。教会はその公式の、承認された祈りの中で、われわれにこの神の御母に絶えず依り頼むように、そして「病人の回復、罪人の拠り所、キリスト信者の助け、そしてわれらの命と希望」注19)としてマリアに嘆願するように、教えている。

マリアの諸々の祝日に唱えられるように指定された日課祈祷において、この同じ聖なる教会は、「シラの書」の言葉をこの祝せられたおとめに適用しながら、彼女のうちにわれわれがすべての希望を見出すということをわれわれに理解させている。私のうちに生命のすべての希望と徳の希望がある!注20)マリアのうちにあらゆる恵みがある。私のうちに道と真理のすべての恵みがある。注21)最後に、マリアのうちにわれわれは生命と永遠の救いを見出す:私を見出す人は生命を見出し、主から救いを引き出す注22)。そして他の個所には:私によって働く人は罪を犯さないであろう。私を説明する人は永遠の生命を持つであろう注23)。そして確かに、これらのような表現はわれわれがマリアの執り成しを必要としているということを十分に証明している。

さらに、われわれはそのように多くの神学者たちや教父たち--彼らについて、上に名を挙げた著者がそうしているように、マリアを高めることにおいて、彼らが大げさに語り、そして彼らの口からたいそうな誇張を話すことを許したと言うことは確かに正しくない--によってこの見解に確証させられる。誇張し、大げさに語ることは真理の限界を超えることである。そして確かにわれわれは真理それ自体であられる神の霊によって命を与えられた聖人たちがこのように語ったと言うことはできない。

すこし本題からはずれ、私自身の感情を述べることが許されるならば、ある意見が何らかの仕方でいとも聖なるおとめの栄誉へと傾くとき、それが何らかの基礎を持ち、そして信仰や教会の法令、あるいは真理に矛盾したものでないとき、それを保持することを拒否することあるいはそれの反対が真であるかもしれないゆえにそれに反対することは神の御母に対する信心をほとんど示さないのである。

そのような人々の立場を私は選ばないし、また私の読者たちがそうであることをも望まない。むしろ、このよき御母に最も喜ばれる忠順の行為の中に聖母の栄誉に跳ね返るすべてのものを堅く信じる行為を置くルーペルト(Rupert)修道院長に従って、マリアの偉大さに関して誤りなしに信じられ得るすべてのものを十分にそして堅く信じる人々の数の中に入ることを選ぶ。注24)

マリアの称賛において超過するというわれわれの恐れを取り除く以外に何もないとすれば、聖アウグスティヌス注25)が十分であろう。なぜなら、彼は、何であれわれわれがマリアの称賛において言ってもよいことは、神の御母としてのマリアの威厳のためにマリアに相応しいものに比較すればわずかしかないと宣言しているからである。そしてさらに、教会はマリアの祝日のために指定されたミサの中でこう言っている。「おお、聖なるおとめマリア、汝は幸せな方、あらゆる称賛に最も相応しい方である」注26)。

しかし、その問題に関して聖人たちが言っている点にまで戻り、検討することにしよう。聖ベルナルドはこう言っている。「神はすべての恵みでマリアを満たされた。その結果、人々は一つの通路によってのように、マリアによって自分たちに来るあらゆるよきものを受け取ることができる。」彼は「マリアは、他の人々がマリアの充満から受けることができる完全な水路である」と言っている注27)。

このことに関して聖人たちは次の重要な指摘を行っている:「祝せられたおとめの誕生以前は恵みの絶えざる流れは欠けていた。なぜなら、この水路が存在しなかったからである」注28)。しかしいまやマリアが世界に与えられたので、天上の恵みはマリアを通じてすべての者の上に絶えず流れる。

悪魔は、ベチュリア(Bethulia)の町を手に入れるために水路が破壊されるように命じたホロフェルネス(Holofernes)のように、最大限の努力をして霊魂たちのうちの神の御母に対する信心を破壊しようとしている。なぜなら、恵みのこの水路が閉じられるならば、悪魔は容易に霊魂たちを手に入れるからである。

そしてここで同じ聖ベルナルドは言葉を続けている。「見よ、おお霊魂たちよ、われらの主はどのような優しい信心をもって、われわれが、常にその御保護に依り頼むことによってわれらの天の元后に栄誉を与えるべきだと望んでおられることか。なぜなら、われらの主は、マリアのうちにあらゆる善の充溢を置かれ、その結果これからはわれわれが、何であれわれわれが所有する希望、恵みあるいは他の有利なものはすべてマリアの御手を通して来るということを知り、認めることができるのである。」注29)聖アントニオは同じことを言っている:「人々にこれまでに与えられてきたすべての恵みはマリアを通してすべて来た。」注30)そしてこの理由で、マリアは、聖ボナヴェントゥラの次の指摘に従えば、月と呼ばれるのである:「太陽と地球の間にある月が、それが太陽から受けるものを何であれ地球に伝達するように、マリアは神の正義の太陽からお受けになる天の恵みをこの世にあるわれわれの上に注がれるのである。」注31)

再び、聖なる教会はマリアを「幸せな天の門」と呼ぶ。注32)なぜなら、同じ聖ベルナルドが次のように述べているように:「ある王によって送られる恵みのあらゆる命令が宮殿の門を通りすぎるように、天からこの世に来るあらゆる恵みはマリアの御手を通って来る」注33)からである。聖ボナヴェントゥラは、マリアは「天の門と呼ばれる。なぜなら、マリアを通過することなしに誰も祝せられた王国へ入ることができないからである」と言っている。注34)

ある古代の著作家、おそらく聖ソフロニュウス(St. Sophronius)、は聖ジェローム(St. Jerome)の著作と共に出版された被昇天に関する説教の中で、こう言っている。「イエズス・キリストのうちにある恵みの充溢はある異なった仕方でではあるけれども、マリアの中へと入って来た」と。注35)その意味するところは、その充溢が、そこから生命に満ちた精神(すなわち、永遠の救いを得るための神の助け)が主の神秘体の肢体であるわれわれの中へ流れ込む頭のうちにあるように、われらの主であり、そしてその同じ充溢は、そこを通ってこれらの生命に満ちた精神が肢体へと通過する首においてそうであるように、マリアのうちにある、ということである。

同じ考えはシエナの聖ベルナルディンによっても確証される。彼はそれをもっと明白に次のように言いながら説明している。「頭であるキリストから、キリストの神秘体の肢体である信徒に降る霊的生命のすべての恵みはマリアの道具性を通じて伝達される」注36

同じ聖ベルナルディンは次のように言うとき、このことに対する一つの理由を与えようと努力しているのである。「神がこの聖なるおとめの胎内に住むことを喜ばれたとき、このおとめは、いわば、すべての恵みに対する一種の権限を獲得された。なぜなら、イエズス・キリストがこのおとめのいとも聖なる胎から出られたとき、神的賜物のすべての流れが天上の大洋から流れ出るように彼女から流れ出たからである。」注37)

他の個所で、もっとはっきりした用語で同じ考えを繰り返しながら、彼は「このおとめである御母がその御胎内に神の御言葉を宿された瞬間から、彼女は、聖霊のすべての賜物に対する、いわば特別の権限を獲得された。その結果、いかなる被造物もそれ以来マリアの御手を通じて以外には神からのいかなる恵みも受け取ることはなかったのである。」注38)

他の著作家は、エレミア書のある個所--その中で預言者は永遠の御言葉の受肉について、そして神の御母マリアについて一人の女が一人の男を包むであろうと言っている--に関する注釈において、こう指摘している。「どんな線も円の中心から円周を通ることなしには引くことができないのと同じように、いかなる恵みもあらゆるよいものの中心であるイエズスから、その御胎内にイエズスを受けられたときイエズスを包まれたマリアを通ることなしには出て来ない」注40)。

聖ベルナルディンはこの理由で、「すべての賜物、すべての徳、そしてすべての恵みはマリアが喜ばれるその人へ、そのとき、そして喜ばれるように、マリアの御手によって配られる」と言っている。注41)

聖ローレンスのリチャード(Richard of St. Laurence)もまた、「神は御自分がその被造物にお与えになる何であれよいものがマリアの御手を通過することを望んでおられる」注42)と主張している。そしてそれゆえに、尊者セルの大修道院長は皆に「この恵みの宝」(なぜなら彼はマリアをそのように呼んでいるから)に依り頼むように勧めるのである。なぜなら、世界と全人類は望むことができるあらゆるよいものをただマリアを通じてのみ受けとらなければならないからである。彼はこう言っている:「祝せられたおとめに話しかけなさい。なぜなら、彼女によって、そして彼女において、そいて彼女と共に、そして彼女から、世界はあらゆるよいものを受け取るのであり、そして受け取らなければならないからである。」注43)

これらの聖人や著作家がそのような言葉でわれわれに、すべての恵みがマリアを通じてわれわれのところに来ると告げるとき、前に名前を挙げた作家が主張しているように、われわれは「あらゆる善の源であるイエズス・キリストをマリアを通して受けた」ということを、彼らは単に言おうとしたのではなくて、イエズス・キリストをわれわれにお与えになった神は、キリストの功績を通じて人々に与えられてきた、与えられている、そして世界の終わりまで与えられるであろうすべての恵みがマリアの御手によって、そしてマリアの執り成しを通じて与えられることを望んでおられるということを彼らはわれわれに確証しているのだということが、今やすべての人にとって明らかでなければならない。

そしてこのように、スアレス神父は「マリアの執り成しと祈りは他のすべての人々の執り成しや祈りを超えて、単に有益であるだけでなく、必要である」注44)ということが普遍的教会の考えであると結論している。必要である、というのはわれわれがすでに言ったことに従ってであって、絶対的な必然性をもって、ではない。なぜなら、イエズス・キリストの仲介だけが絶対的に必要だからである。必要であるのは、しかし道徳的必然性をもって、である。なぜなら、教会は聖ベルナルドと共に、神がいかなる恵みもマリアの御手によって以外には与えられないと決定なさったのだ、と信じているからである。

聖人は言っている。「神は、マリアの御手を通過しなかったものをわれわれが何も持たないことを望んでおられる」注45)そして聖ベルナルドの前に聖イルデフォンス(St. Ildephonsus)は次のことばで祝せられたおとめに呼びかけながら、同じことを主張した:「おお、マリアよ、神は人間のためにお与えになったすべてのよき賜物をあなたの御手に委ねるように決定なさいました。そしてそれゆえに、神はすべての宝と恵みの豊かさをあなたに委ねられたのです。」注46)

そしてそれゆえに、聖ペトロ・ダミアノ(St. Peter Damian)は次のように述べている。「神はマリアの同意なしには人間になられることはなかったであろう。先ず第一に、われわれはマリアに対して大きな恩義の下にいるのを感じる。そして第二に、われわれはすべてのものの救いはこの祝せられたおとめの配慮に残されているということを理解するであろう。」注47)

イザヤ書のうちにわれわれは読む:「エッセの株から新芽が出、その根からひこばえがめばえ、その上に主の霊がやどる」(イザヤ 11:1-2)。これらの言葉によってイザヤは一人のおとめ、マリアがエッセの子孫からから生まれ、そして彼女から一つの花、受肉した御言葉が起こるだろうと預言している。この預言を黙想しながら、聖ボナヴェントゥラは次の美しい言葉を発している:「聖霊の恵みを得ようと望む者は誰でも、幹の上に花を探すべきである。なぜなら、幹を通じてわれわれは花に来るのであり、そして花を通じて霊に来るのである。」言葉を換えて言えば、皆にマリアを通じてイエズスを探させなさい。マリアを通じてイエズスを見出して、われわれはイエズスを通じて神の霊に至るであろう。

同じ著作の第10章において、彼はこうつけ加えている:「そしてもしあなたが花を所有しようと望むならば、この花を付けている幹に、あなたの祈りによって、膝をかがめなさい。」それがあなたが花を所有するようになる道である。」

御公現の祝日の説教において、セラフィム的博士[聖ボナヴェントゥラ]は「彼らはその母マリアと共におられる御子を見出した」注50)という聖マテオの言葉を注釈しながら、われわれに、もしわれわれがイエズスを見つけたいと思うならば、われわれはマリアのところへ行かなければならないということを思い起こさせている。注51)そこで、われわれは、もしわれわれがマリアと共におられるイエズスを見つけるよう努力しないならば、イエズスを探しても無駄であろうと結論してよい。注52)そしてそれゆえ聖イルデフォンスはこう言っている。「私は御子の召使いでありたい。しかし誰も御母に仕えることなしにそうであることはないので、この理由で、私はマリアの奴隷であることを望む。」注53)

模範

海の旅をしていた一人の貴族がみだらな書物を読み始めた。彼はそれに大きな快楽を見つけた。一人の修道者がこれに気づいた。そして彼に言った。「あなたはわれらの祝せられた貴婦人に一つの贈り物をする気がありますか?」若い男はその気があると答えた。「じゃあ」ともう一人が答えた。「いとも聖なるおとめの愛のために、私は、あなたがその書物を諦めて、海の中へ放り込むよう望みます。」

「神父様、ここにあります」と若者は言った。修道者は答えた。。「いいえ、あなたは自分自身でマリア様にこの贈り物をしなければなりません。」彼はそうした。そして彼が生まれた場所のジェノアに帰りついた途端に、神の御母は神の愛でもって彼の心をそのように燃え立たせられたので、彼はある修道会に入会した。注54)

祈り

おお、私の霊魂よ、われらの主が、その御母の保護に信頼する汝を主の御憐れみにおいて鼓舞なさったことによって汝にお与えになった救いと永遠の生命の確実な希望の何たるかを見よ。そして何度も汝の罪によって汝が主の不快と汝の地獄に値したにもかかわらず、このことを見よ。汝の神に感謝せよ。そして汝の保護者マリアに感謝せよ。マリアはそのマントの下に汝をかばうために身を低くされた。それは汝がマリアの手段によって受けた多くの恵みの後に、このことについて汝がよく確信を持つことができるためです。

おお、その通りです。私はあなたに、私の最も愛する御母よ、あなたが地獄に値する私のためになさったすべてのことのために感謝します。どんなに多くの危険からあなたは私を救って下さらなかったことがあったでしょうか、おお、女王よ。

どんなに多くの霊感と憐れみをあなたは私のために神から得られなかったことがあるでしょうか!どんな奉仕、どんな栄誉を私はかつてあなたに捧げたことがあったでしょうか? あなたは私のためにそのように多くのことをして下さったというのに。私はあなたを促したものがあなたの唯一の善性であることを知っています。ああ、私があなたに負っているすべてに比べてそれが何とわずかであることでしょう。私はあなたのために私の血を流し、私の生命を捧げたことがあったでしょうか。なぜなら、あなたは私を永遠の死から救ってくださったからです。あなたは、私が希望しているように、神の恵みを回復することを私に可能にしてくださいました。結局、あなたに私が持っているすべてものを私は追っているのです。

私の最も愛すべき貴婦人よ、私、このように貧しく惨めである私、はあなたに、常にあなたを愛し、あなたを称賛する以外には何のお返しもできません。ああ、あなたの善性に対する愛で燃えている哀れな罪人の優しい愛情を受け入れることを軽蔑しないでください。

それが不純で地上的な愛情に満ちているゆえに私の心があなたを愛するために相応しくないないとしても、それを変えなければならない方はあなたです。ああ、そのとき私の心を変えてください。私を私の神に結びつけてください。そして私が神の愛から私自身を引き離す力を決して持たないように私をしばってください。あなたは私があなたの神を愛するように私にお求めになりました。そして私はあなたがこの愛を私のために手に入れて下さるようあなたにお願いします。常に神を愛することこれが私の望みのすべてです。

アーメン。

脚注

1. 2 Mach. 15:14.

2. Apoc. v. 8.

3. 2 Pet. 1:15.

4. Acts. 7:59.

5. Acts. 27:24; Eph. 2:16; Phil. 1:4; Col. 1:3.

6. "Orate pro nobis." -- I Thess. 5:25.

7. "Orate pro invice, ut salvemini." -- James. 5:16.

8. "Gloria filiorum, patres eorum." Prov. 17:6.

9. "Non est dubium, quidquid in laudibus Matris proferimus, ad Filium pertinere." De Laud. V. M. hom. 4.

10. "Redundat ad Filium, quod impenditur Matri; transit honor in Regem, qui defertur in famulatum Regina." -- De Virginit. S. M. c. 12.

11. "Maria, fidelissima Mediatrix nostrae salutis." -- Spec. B. V. M. lect. 9.

12. "Quomodo non est plena gratia qua effecta est paradisi Scala; coeli Janua, Dei et hominum verissima Mediatrix?" S. in Ann, B.M.

13. "Ut dignitas intercessoris suppleat inopiam nostram; unde Virginem interpellare, non est de divina misericordia diffidere, sed de propria indignitate timere." -- De Inc. p. 2. d. 23. s. 3.

14. "Deus vult ut omnia bona ab ipso exspectemus, potentissima Virginis Matris intercessione cum eam, ut par est, invocamus impetranda." -- Ep. 50 in calce Theol.

15. "Sic est voluntas ejus, qui totum nos habere voluit per Mariam." -- De Aquad.

16. "Ecce mater tua." -- John, 19:27.

17. "Quasi diceret: Nullus sanguinis illius particeps erit, nisi intercessione Matris mea. Vulnera gratiarum fontes sunt; sed ad nullos derivabuntur rivi, nisi per Marianum canalem. Joannes discipule, tantum a me amaberis, quantum eam amaveris." -- Theol. mentis et cord. t. 2, 1.10, d. 4, c. 1.

18. 1 Tim. 2:5.

19. "Salus infirmorum, Refugium peccatorum, Auxilium Christianorum, Vita, Spes nostra."

20. "In me omnis spes vita et virtutis." -- Ecclus. 24:25.

21. "In me gratia omnis via et veritatis." -- Ib.

22. "Qui me invenerit, inveniet vitam, et hauriet salutem a Domino." -- Prov. 8:35.

23. "Qui operantur in me, non peccabunt. Qui elucidant me, vitam aternam habebunt." -- Ecclus. 24:30, 31.

24. "Ejus magnalia firmiter credere."

25. Serm. 208, E. B. App.

26. "Felix namque es, sacra Virgo Maria, et omni laude dignissima; quia ex te ortus est Sol justitia. Christus Deus noster." -- M. Vot. a Nat. -- Resp. 7.

27. "Plenus Aquaductus, ut accipiant cateri de ejus plenitudine."

28. "Ideo tanto tempore humano generi fluenta gratia defuerunt, quia necdum intercederet is Aquaductus." -- De Aquad.

29. "Intuemini quanto devotionis affectu a nobis eam voluerit honorari, qui totius boni plenitudinem posuit in Maria; ut proinde, si quid spei in nobis est, si quid gratia, si quid salutis, ab ea noverimus redundare." -- De Aquad.

30. "Per eam exivit de coelis, quidquid gratia venit in mundum." -- p. 4, tit. 15, c. 20, § 12.

31. "Quia, sicut luna inter corpora caelestia et terrena est media, et, quod ab illis accipit, ad inferiora refundit; sic et Virgo Regia inter nos et Deum est media, et gratiam ipsa nobis refundit." -- Spann. Polyanth. Litt. . M. t. 6.

32. "Felix caeli porta."

33. "Nulla gratia venit de coelo ad terram, nisi transeat per manus Maria." -- Apud S. Bernardin. Pro Fest. V. M. s. 5, c. 8.

34. "Nullus potest coelum intrare, nisi per Mariam transeat, tamquam per portam." -- In Luc. I.

35. "In Christo fuit plenitudo gratia, sicut in Capite influente; in Maria, sicut in collo transfundente."

36. "Per Virginem, a Capite Christo, vitales gratia in ejus Corpus mysticum transfunduntur."

37. "Cum tota natura divina intra Virginis uterum exstiterit, non timeo dicere quod in omnes gratiarum effluxus quamdam jurisdictionem habuerit hac Virgo, de cujus utero, quasi de quodam Divinitatis oceano, flumina emanant omnium gratiarum."

38. "A tempore a quo Virgo Mater concepit in utero Verbum Dei, quandam, ut sic dicam, jurisdictionem obtinuit in omni Spiritus Sancti processione temporali; ita quod nulla creatura aliquam a Deo obtinuit gratiam, nisi secundum ipsius pia Matris dispensationem." -- Pro Festo V. M. s. 5. c. 8.

39. Jer. 31:22

40. Crasset, Ver. Dev. p. i, tr. i, q 5. § 2.

41. "Ideo omnia dona, virtutes et gratia, quibus vult quando vult, quomodo vult, per manus ipsius dispensantur." Pro Fest. V. M. s. 5, c. 8.

42. "Deus, quidquid boni dat creaturis suis, per manus Matris Virginis vult transire." -- De Laud. B. M. 1. 2, p. 3.

43. "Accede ad Virginem, quia per ipsam, mundus habiturus est omne bonum." -- Cont. de V. M. in prol.

44. "Sentit Ecclesia Virginis intercessionem esse utilem ac necessariam." -- D Inc. p. 2, d. 23. s. 3

45. "Nihil nos Deus habere voluit, quod per Maria manus non transiret." -- In Vig. Nat. D. s. 3.

46. "Omnia bona qua illic summa Majestas decrevit facere, tuis manibus voluit commendare: commissi quippe sunt tibi thesauri ... et ornamenta gratiarum." -- In Cor. Virg. c. 15.

47. Paciucch. in Ps. 86. exc. I.

48. "Egredietur Virga de radice Jesse, et Flos de radice ejus ascendet; et requiescet super eum Spiritus Domini." -- Is. 11:1.

49. "Quicumque Spiritus Sancti gratiam adipisci desiderat, Florern in Virga quarat: per Virgam enim ad Florem, per Florem ad Spiritum, pervenimus.-- Si hunc Florem habere desideras, Virgam Floris precibus flectas." -- Spec. B. M. V, lect. 6, 12.

50. "Invenerunt puerum cum Maria, Matre ejus." -- Matth. 2:2

51. "Si ergo hunc puerum vis invenire, ad Mariam accede."

52. "Nunquam invenitur Christus, nisi cum Maria, nisi per Mariam. Frustra gitur quarit, qui cum Maria invenire non quarit." -- Spann. Polyanth. litt. M. t. 6.

53. "Ut sim servus FiIii, servitutem appeto Genitricis." -- De Virginit. Mar. c. 12.

54. Nadasi, Ann. Mar. S.J. 1606.1. 2 Mach. 15:14.

2004/04/11 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/11

最終更新日:2004/04/11

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