ファチマの聖母マリア

新しい教会のための新しいファチマ

ネオ・カトリック体制側はファチマ・メッセージの
改訂において公会議後の革命に加わっている

第Ⅱ部

The Fatima Crusader, Isuue 76: Spring 2004より

クリストファー A. フェララ

The Wanderer、革命を助ける--再び

この出版物そして他の出版物が述べたように、教会における刷新があるときはいつでも、公会議革命家たちは団結する必要がある。The Wandererはただただそうしてやることが幸せである。新しいミサ、新しいエキュメニズム、新しい諸宗教間対話、新しい福音宣教--新しい何でもかんでもはすべて、忠実なカトリック教徒の反対に反対してThe Wandererによって精力的に擁護されてきた。ところで、作法に忠実に、The Wandererはファチマの新しいメッセージを信徒に押しつけるのを助けるためにそれができるあらゆることをしている。

The Wandererはその10月30日号の中に、スティーヴ・マホワルド(Steve Mahowald)なる人物による一つの論考を掲載した。それはシスター・ルチアとのなおもう一つの私的な「インタビュー」を吹聴しているものであるが、その中で彼女は、ファチマの聖母によって要求されたロシアの奉献はロシアを名前を挙げて述べる必要があるという彼女の1989年以前の変わらない証言を、申し立てによれば(そして説明できない仕方で)否認しているのである。

I:シスター・ルチアの以前の陳述

ここにその証言のいくつかの例を思い起こしてみよう:

1985年9月、スペインにおけるブルー・アーミーの公式出版物、ソル・デ・ファチマにおけるシスター・ルチアのインタビュー:

質問:ヨハネ・パウロ2世はロシアの奉献に参加するようにすべての司教を招かれた。それを教皇は1982年5月13日にファチマでされようとしたのであり、そしてファチマの聖母のオリジナルな御像の前で1984年3月25日ローマにおいて聖年の終わりに更新なさった。それゆえに教皇はトゥイで要求されたことをなさったのではないですか?

シスター・ルチア:すべての司教の参加がありませんでした。そしてロシアの言及がありませんでした

質問:それでは、奉献は聖母によって要求されたようにはなされなかったのですか?

シスター・ルチア:ええ、なされませんでした。多くの司教はこの行為に何ら重要性を与えませんでした。

教皇使節に対する1983年のシスター・ルチアの陳述:

まさに1982年に試みられた奉献がロシアの言及をしなかった(そして司教たちが参加しなかった)ゆえに、シスター・ルチアは1983年3月19日にポルトガル教皇使節に1982年の奉献の行為は不十分であったと告げた。なぜなら、ロシアは奉献の対象ではなかったし、また司教たちはロシアを奉献する荘厳な公的儀式に参加しなかったからである。彼女はこう結論した:「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようにはなされませんでした。私はこの陳述を以前にはすることができませんでした。なぜなら、私は聖座の許可を得ていなかったからです。」注1)

オッセルヴァトーレ・ロマーノに公表されたウンベルト神父に対するシスター・ルチアの証言:

1982年5月12日、1982年に試みられた奉献の前日に、オッセルヴァトーレ・ロマーノ(イタリア語版)は、「1939年以来ファチマの幻視者の親友であった」注2)サレジオ会司祭ウンベルト・マリア・パスクアーレ(Umberto Maria Pasquale)神父によるシスター・ルチアの1978年のインタビューを公表した。1978年8月5日に行われたこのインタビューの間に、シスター・ルチアはウンベルト神父に確実な言葉で、聖母が世界一般の奉献を要求なさったのではなく特殊的にロシアの、そしてただロシアだけの奉献を要求なさったと告げた:

ある瞬間に私は彼女に言った:「シスター、ひとつ質問したいのだが。もしあなたが私に答えることができないなら、それで結構。しかしもし答えることができるなら、あなたに大いに感謝する...聖母はかつてあなたに御自分の汚れなき御心への世界の奉献について話されたことがありますか?」「いいえ、ありません、ウンベルト神父様!一度もありません。1917年にコヴァ・ダ・イリアにおいて聖母はこう約束なさいました:私はロシアの奉献を求めるために来るでしょう...1929年に、トゥイで、聖母は、約束なさった通りに、教皇様にあの国(ロシア)の奉献を求める瞬間が来たということを私に告げるために戻って来られました。」注3)

ウンベルト神父への証言を確証するシスター・ルチアの手書きの手紙:

この会話の後、ウンベルト神父はシスター・ルチアにこの明確化を書面にするよう求めた。彼女の手書きのノートは、シスター・ルチア自身が後に1982年および1984年の両方の奉献の儀式の後に言っているように、「世界」の奉献はファチマでの聖母の御要求を満たすためには十分ではなかったということをいかなる疑いをも超えて確立しながら、カヴァレイロ・ダ・イマクラード(Cavaleiro da Imaculado)によって造られた1980年のパンフレットにおいて最初に公表された。

ここに1980年4月13日の日付のある、ウンベルト神父宛のシスター・ルチアの手紙の写真による複写のコピーがある。

以下は1980年4月13日の、ウンベルト神父宛のシスター・ルチアによって書かれた手紙の翻訳である。

尊敬すべきウンベルト神父様、

あなたの御質問に答えて、次のことを明らかにします:ファチマの聖母は、その御要求の中で、ただロシアの奉献だけに言及なさいました。私が教皇ピオ12世に書いた--私の告解聴聞者の命令で--手紙の中で、私はロシアの明白な言及を伴った世界の奉献を求めました。献身的にあなたの、そして祈りのうちに。コインブラ、1980年4月13日(シスター・ルチアによる署名)。

ここでシスター・ルチアは全教会に、彼女自身の手書きにおいて、世界の奉献はファチマのメッセージにとって異質のものである、そしてせいぜい、告解聴聞者の示唆を表すということを確証している。この示唆は、シスター・ルチアがピオ12世に1940年12月2日の彼女の手紙の中で(ロシアに加えて)世界の奉献の要求をするようにというグルザの司教による命令から結果したと思われる。注4)このことが証明していると思われることは、「従順」の苦痛の下で、聖母が特殊的に要求なさったことを明確にそして率直に主張することをこらえるシスター・ルチアの自発性である。

教皇使節に対する1982年のシスター・ルチアの陳述:

1982年3月21日に、シスター・ルチアはポルトガル教皇使節、サンテ・ポルタルピ(Sante Portalupi)閣下と会ったが、それはその年の5月13日のために教皇が計画した奉献がどのように遂行されるべきかを正確に議論するためであった。使節は次のように知らされた:

シスター・ルチアは、教皇が全世界の司教たちに、各々彼自身の司教座聖堂において、そして教皇と同時に、償いとロシアの奉献の荘厳で公的な儀式を行うように命じる日付を選ばなければならないということを説明した...注5)

フエンテス神父に対する1957年のシスター・ルチアの陳述:

1957年12月26日に、シスター・ルチアはヤチンタとフランシスコの列福訴訟の副請求者であるフエンテス神父に次のような証言を与えた:

「神父様、いとも聖なるおとめは、誰も----善人も悪人も--御自分のメッセージに注意を払わなかったので、非常に悲しんでおられます...善人は彼らの道を続けています。しかし聖母のメッセージにはどんな重要性をも与えることなしにです。神父様、彼らに告げてください、いとも聖なるおとめは何度もいとこのフランシスコとヤチンタに、私自身にも同じように、多くの国家が地の表から消え去るでしょうと告げられました。聖母はロシアが、もし私たちが、あの可哀相な国家の回心を前もって手にしていないならば、全世界を罰するために神によって選ばれた懲罰の道具となるでしょうと言われました。」注6)

歴史家、ウィリアム・トーマス・ウォルシュに対するシスター・ルチアの証言:

1946年7月15日に、優れた著作家であり歴史家であるウィリアム・トーマス・ウォルシュ(William Thomas Walsh)は、100万部以上を売った彼の著書ファチマの聖母のために、シスター・ルチアにインタビューを行った。ウォルシュは、ピオ12世の最近の1942年の汚れなき御心への世界の奉献のことを考えて、ロシアの奉献に対する要求について正確な質問をした。--その奉献はシスター・ルチアが聖母の御要求が果たされたとは明らかに見なかった儀式であった:

最後にわれわれは7月2日の秘密の重要な問題に達した。それについては非常に多くの異なった、そして矛盾する解釈が公表されてきた。ルチアは、聖母が御自分の汚れなき御心への世界の奉献をお求めにならなかったということを明らかにした。聖母が特殊的に要求なさったことはロシアの奉献であった。もちろん、ルチアは教皇ピオ12世が1942年に汚れなき御心に世界を奉献されたのであって、ロシアを奉献されたのではないという事実に関して論評しなかった。しかし、彼女は一再ならず、そして明確に強調して、こう言った:「聖母が望んでおられることは、教皇と世界のすべての司教がある特定の日に御自分の汚れなき御心にロシアを奉献するということです。もしこのことがなされるならば、聖母はロシアを回心させられ、そして平和が訪れるでしょう。もしそれがなされないならば、ロシアの諸々の誤謬が世界中のあらゆる国に広まるでしょう。」

II:「シスター・ルチアの」最近の降伏文書

マホワルドの論考は、1984年の世界の奉献が(理性それ自体に反するが)ロシアの奉献であったということを、ネルカー氏(Mr. Noelker)宛てのシスター・ルチアからのものとされているコンピュータで造られた手紙そして他のいくつかの文書が最初に述べた1989年以来、コインブラの修道院から漂い出た一連の試揚気球の中の最も新しいものにすぎない。ネルカー書簡は特にすばやくインチキとして暴露された。なぜなら、それはパウロ6世が1967年のファチマ訪問の間に汚れなき御心に世界を奉献されたと主張したからである。その1967年には実際パウロ6世は木の切り株のように多く奉献はされなかった。教皇訪問の間ずっと陪席していたシスター・ルチアはそのような間違いをしでかさなかったであろう。その上、彼女の浩瀚な回想録をさえ手書きで書いた年配の修道女がネルカー氏に宛てて半ページの覚え書きを打ち出すためにワープロに切り替えたなどということはとうていないであろう。にもかかわらず、十分に奇妙なことであるが、(ただ日付だけで同定された)ネルカー書簡は、奉献が1984年になされたというその主張を支持するための2000年6月26日の第三の秘密に関する注釈においてヴァチカンが引用した唯一の証拠であった。シスター・ルチア自身は一度もこの点に関して証言するために引き出されたことはない--すでに暴露されたネルカー書簡の真実性を証言するためにすら引き出されたことはない。

マホワルドの論考が人を納得させるものでないことはネルカー書簡と同じである。まず第一に、ロシアの奉献に関するシスター・ルチアの変わることのない以前の証言についての他のあらゆる報じられた撤回と同様に、この論考はなぜシスター・ルチアが以前に言っていたすべてのことに突然矛盾したのかを説明する何らの試みもしていない。この問題への何らかの道理にかなった探求はまず最初に矛盾に対する説明を求めるであろう。しかし、十分に奇妙なことには、「シスター・ルチア」の最近の降伏文書の御用達によっては何一つ一度も探求されていないのである。なぜ彼らはシスター・ルチアに彼女の以前の陳述を説明するように一度も求めないのか? その答は明らかであると思われる:シスター・ルチアは、もし彼女がその立場を彼女の以前の証言と和解させるように強いられたならば、現在彼女に帰せられている立場を維持することを期待され得ないであろう。彼女はおそらく困惑しながら何か次のようなことを言うかもしれない:「従順の下で私は、この問題における私の信念が間違っていたということを見ることになりました。」言葉を換えて言えば、矛盾について圧力をかけて検討することは、シスター・ルチアが撤回へと威圧されてきたということをおそらく明らかにするかもしれないであろう。

最近の新味のない証言

マホワルドはシスター・ルチアの立場の変化に対するなおもう一つの新味のない証言をわれわれに提示している。マホワルドが報告しているように、フレドレリック・T. ツーガイブ(Fredrerick T. Zugibe)博士はコインブラの修道院においてゲッセマニからカルヴァリオまでのイエズスの苦しみの医学的局面に関する会議を催した。その会議の後シスター・ルチアが非公式な集まりの間に彼に、1984年のヴァチカンでの教皇による世界の奉献がロシアの奉献のために十分であったと告げたと申し立てられているのである。シスター・ルチアが通訳者を介してツーガイブ博士にしたと言われている正確な陳述--そして私は近いうちに彼と連絡がつくであろう--は次の通りである:「それはなされました。教皇はそれを望まれました。それはなされました。そしてあなたはすべての友人に告げることができます。」

しかしながら、この新しい証言に対する他のすべてのそうだと称されている証人たちと同様に、ツーガイブ博士はシスター・ルチアになぜ彼女がそんなにも長い間反対のことを言ってきたのかその理由を説明させる何の努力もしていない。ツーガイブ博士がThe Remnantの編集者に告げたように:「私はその話題を追求しなかった。なぜなら、私がそこにいたのはシスター・ルチアにインタビューするためではなくて、私の講義をするためだったから。」

「話題を追求する」ことに博士が失敗したことは彼の申し立てられているシスター・ルチアとの出会いの状況からして極端に奇妙である。ツーガイブ博士は論争になっているまさにその「インタビュー」のための彼の通訳者、ほかならぬカルロス・エヴァリストスの要求で、シスター・ルチアの一枚の写真についての彼の法医学的検討を詳しく述べている。

ツーガイブ博士によれば、エヴァリストは「彼女[シスター・ルチア]と一緒の彼自身の一枚の写真を持っていた。」彼はそれはシスター・ルチアではないと思った。そしてツーガイブ博士に、それが実際にシスター・ルチアを表現しているかどうかを見るためにその写真の「擬人的研究」(anthropomorphic study)を行うように求めた。十分に驚くべきことであるが、シスター・ルチアとの二つのインタビュー(1992年と1993年--それについては後で検討する)を行ったと主張しているエヴァリストは、一枚の写真の中で彼の傍に立っている女性が、たとえ彼が彼女に2回もインタビューをしたと主張しているとしても、シスター・ルチアであるかどうかさえ確信が持てなかったのである。

ツーガイブはこのように、シスター・ルチアとの彼女の修道院におけるある種の「インタビュー」を巡る疑念について知っているのである。実際、彼はエヴァリスト自身が一人のシスター・ルチア詐称者によって騙されてきたのかどうかを決定するようにエヴァリストによって雇われたと言っている。さらに、彼自身の承認によってツーガイブは、マホワルドに、シスター・ルチアがこの大きな論争に関して彼に言ったと申し立てられていることについて「私は多くの人々に告げようとしていた」と述べながら、ロシアの奉献が達成されたかどうかに関する大きな論争について知っているのである。

奇妙な行動

これらの状況の下では、ツーガイブは、彼が次のような二三の単純な再度の質問をすることによってそうする完全な機会を持っていたときに、ロシアの奉献についての「話題を追求する」ことに失敗したと信じることは困難である。すなわち:「しかし、シスター・ルチア、あなたが以前に何度も、世界の奉献はロシアの奉献を求めておられる聖母の要求を履行するには不十分であると言いました。何があなたの証言を変える原因になったのですか?」と。

問題を追求することの失敗は、その信用証明書の中に国立医学検査者協会役員およびアメリカ法医学アカデミー会員を挙げている、組織的研究において訓練された法医学専門家にとって非常に奇妙な行動であった。シスター・ルチアの証言の変化に直面したときに、疑わしい状況に対するこの医学的検査者の鼻、彼の探求的科学的精神、彼の自然的好奇心はどこにあったのか? 同様にまた、「話題を追求する」ことにおけるツーガイブ博士の奇妙な関心の欠如--なぜなら、結局、彼はただ十字架にかけられることに関する一つの講義をするためにのみファチマにいたのだから--は、あたかもそれがだれもが知るべき一つの大きな啓示であるかのように、まさのその話題について「多くの人々」に告げようという彼の述べられた意図とはほとんど一致しない。

このすべてのことは、議論のために、ツーガイブ博士に与えられた通訳は正確で完全であったということを想定させる。しかし、それはそうでなかったと信じる十分な理由がある。

「概念的通訳者」カルロス・エヴァリスト

シスター・ルチアのツーガイブ博士になされたとされている陳述が信頼できないのは、もちろん、博士が頼ることを強いられた通訳者が信頼できないのと同じである。博士がそれ以来確証してきたように、通訳者はエヴァリスト氏であった。

エヴァリスト氏はかなり不可解な人物で、ずいぶん前にカナダからポルトガルに移住し、他の誰もがヴァチカンから許可を必要としているときに、シスター・ルチアへの自由な接近をどういうわけか手に入れていた。エヴァリストは大学の学位を持っていないし、通訳者としての何の免許状も持っていない。彼は、歴史における学位も持っておらず、また確認されたジャーナルを持つどんな知られたスタッフの地位も持っていないのに、「歴史家」および「ジャーナリスト」だと自称している。一時期、彼はポルトガルにおけるグルーナー神父の使徒職のために、低い地位の管理助手として働いた。

シスター・ルチアとの彼の「インタビュー」の信憑性を擁護する際に、ツーガイブ博士はロシアの奉献に関する彼女の証言についてのシスター・ルチアの有名な1992年の撤回のエヴァリストによる英語の「写し」から多量に引用している。しかし、1992年の「写し」におけるシスター・ルチアに帰せられた馬鹿げた陳述についての公衆の批判が高まったことに直面して、エヴァリストはそれがでっち上げであったと認めざるを得なくなった。グルーナー神父の使徒職の本部へのファックスの中で、エヴァリストはこう認めた:「対話はそのときに記録されたのではなかった。メモは取られなかった...私は記憶力がよくないけれども、この言われたことの再構成はたいていは私によって造られたのではない。私はただそれをタイプしただけである。」注7)しかし、われわれがThe Remnantの最近号において述べたように、唯一の他のポルトガル語を話す会話の目撃者、フランシスコ・パチェコ(Francisco Pacheco)神父はグルーナー神父の本部に次のように忠告した:

「私は2時間続いたこの会合の公式の通訳者であった。私はカルロス・エヴァリストによって公刊されたシスター・ルチアとの2時間と題された小冊子が嘘と半分の真理を含んでおり、そして信じられるべきではないと無条件的に主張する。1993年1月に最初にコピーを示されたとき、私は直ちにカルロス・エヴァリストに連絡した。そして彼に、彼がその中で述べたひどい嘘のゆえにこの小冊子を出版しないように告げた...私はこれがカルロス・エヴァリストと彼の悪名高い小冊子によって引き起こされた混乱を終わらせると信じた。」注8)

エヴァリストは、それはみなシスター・ルチアとの2時間で始まったと題された彼の1993年の小冊子でもって彼自身の墓穴をより深くさえ掘った。その中で、彼は以下のような笑うべき否認声明文をつけて、同じ1992年の「写し」を再び公表したのである:「これは逐語的な翻訳ではない。それは概念的翻訳である。この文書に使用されている言語は実際のポルトガル語の対話に基づいている...」注9)

エヴァリストが最初公衆に「概念的」再構成を彼の個人的「翻訳」の逐語的写しとして提示したということはシスター・ルチアのための通訳者としてのエヴァリスト氏の信憑性についてわれわれが知る必要のあることである。にもかかわらず、これが、ツーガイブ博士とThe Wandererが、われわれにシスター・ルチアが今信じていることを告げる際に頼っているまさにその通訳者なのである。

通訳者名を隠すこと

The Remnantの編集者マイケル・マット(Michael Matt)がマホワルドに、なぜ彼はツーガイブ博士の通訳者の名を明らかにしなかったのか、あるいはその信任状を提出しなかったのかを問うたとき、彼はこう答えた:「私はそれが適切であるとは思わなかった」と。適切でない? 法廷では通訳者は自分の通訳の真正性に対して別の誓いをしなければならない。それはまさに通訳者の危害の可能性のゆえにそうなのである。この場合に、われわれは、シスター・ルチアのそうだとされている所見について一つのでっち上げの翻訳をすでに認めた悪名高いファチマ修正主義者に関わっているのである。にもかかわらず、マホワルドもThe Wandererも彼の名前に言及することが適切だとは見なかった。

カルロス・エヴァリストがすべての人々のうちで、ツーガイブ博士の講義に引き続いて非公式的な質疑応答のために、ちょうどたまたまコインブラの修道院のあたりをぶらついていたというようなことはどうしてなのだろうか? エヴァリストがちょうどたまたまロシアの奉献に関してシスター・ルチアへの鍵になる重要な質問のための通訳者であったということはどういうことであるか? そして、シスター・ルチアが、あたかも連邦承認保護計画においてであるかのように別様に扱われているときに、エヴァリストと博士とはこの問題に関してシスター・ルチアに自由に質問することを許されているということはどのようしてであるか?

ベルトーネ大司教でさえ、彼自身の非常に疑わしい秘密の幻視者とのインタビューを行うためにラッツィンガー枢機卿から許可注10)を得なければならなかった。そのインタビューは、その事実の2ヶ月後に明らかにされたが、公衆は会話のおよそ14,000語のうちから論争の的になっている話題については44語だけを与えられたのである。(ベルトーネ・インタビューのいかなる写しも利用可能とはされなかった。)にもかかわらず、エヴァリストが、ローマがヴァチカンの国家機密のように扱っている問題について、一人の平信徒のために、修道院の中へ足取り軽く入って行き、シスター・ルチアのぶっつけ本番の所見を「通訳する」ことができるのだ、と信じるものとわれわれは考えられているのである。

明らかに、修道院へのツーガイブ博士の訪問の間に起こったことは、エヴァリストの第三の試み-非常にありそうなことであるが、ヴァチカンの認可を得て--ロシアの奉献と回心に関する彼女の首尾一貫した公的証言をシスター・ルチアが私的に撤回したということを世界に説得するための試み--だったのである。

これは伝統主義者の偏執病的幻想であると言うかもしれない人々に対して、私はこう答えよう:結構、シスター・ルチアをマイクの前に立たせ、報道機関からのいろいろの質問に答えることを許すことによってわれわれの「偏執病」を軽減しなさい。あるいは、せめて綿密な質問を喜んでしたい誰かに、修道院でシスター・ルチアにインタビューをさせ、次に公衆にインタビュー全体の編集されていない写しを利用可能なものとさせなさい。もちろん、ヴァチカンはそのようなことを決して許さないであろう。そのことは、シスター・ルチアの有名な証言の変化に対するヴァチカンの信頼についてわれわれに何を告げるのか?

いいえ、それはなされていない

そしてあなたはすべての友人にそれを告げることができる

ここで、エヴァリストの最近の「翻訳」においてシスター・ルチアに帰せられた陳述における文言の奇妙な選択に注意することが重要である:「それ[奉献]はなされました。教皇様がそれを望まれたのです。」その文言は、教皇は実際にはロシアの奉献を遂行しなかった--結局のところ、教皇は1984年の儀式の間にロシアに言及しなかった--、しかし、教皇が外的には遂行しなかったことを内的に望むことによってなんとかしてその欠落を修復することができると考えた、ということを示唆している。

そのことは、事実、まさに、「シスター・ルチア」がエヴァリストの暴露された1992年パンフレットにおいて最初に進めた理論である:すなわち、「教皇が1984年奉献のテキストにおいて『あれらの人々』と言われたとき、その意図はロシアであった...神は教皇の意図がロシアであったこと、そして教皇が奉献において『ロシア』を意味されていたことを知っておられた。重要なことは、ある司祭がホスチアを奉献する意図を持っているときと同じように、教皇の意図である。」

ところで、実際のシスター・ルチアは、司祭が、適切な言葉を言うことなしには、彼のそうしようという単なる意図だけによって祝せられた秘蹟[御聖体]を作ることができないということを知っているであろう--そしてここにわれわれが、エヴァリストとの「インタビュー」全体を疑わなければならないもう一つの理由がある--。それがまさに重要な点である:ロシアの奉献のための適切な言葉はロシアである。

「シスター・ルチア」によって言及された「あれらの人々」という無益な文言はヨハネ・パウロ2世が彼の1984年3月25日の汚れなき御心への世界の奉献のテキストに付け加えた一つの自発的な発言から取られている。教皇はそれを聖ペトロ広場においてこう唱えられた:「その奉献と委託とをあなたがわれわれから待っておられるあれらの人々を特に照らしてください。」注11)教皇の自発的な言葉は、教皇がこの機会にはロシアを奉献していないということ、そしてその奉献は将来に起こるであろうということを知っておられたということを意味する。

数時間後、その意味は、教皇がファチマの聖母の御像の前に跪いて、1万人の目撃者たちの前で聖母にこう宣言されたとき、明らかとなった:「われわれは四旬節の第三日曜日、この日曜日--まだ救世の聖年内の--を世界の、大きな人類家族の、すべての人民の、特にこの奉献と委託の非常に大きな必要を持つ人々の、あなた御自身がわれわれの奉献と委託の行為を待っておられる人々の、委託と奉献の行為のために、選ぶことを望みました。」注12)

世界の奉献の数時間に、ロシアへの覆いをかけられた言及--「あれらの人々」--はファチマの聖母によって要求された奉献を今なお待っている一つの国を記述した。もっと悪いことには、1984年奉献の定式文は奉献を必要としているものとしての「あの国」すら言及せず、むしろ「あれらの人々」--奉献の対象の二重の覆い隠し--に言及した。

ロシアの奉献におけるロシアの言及へのこの奇妙な嫌悪はなぜなのか? われわれは今や、教皇が彼の聖座のメンバーたちによっていかなる奉献の儀式においてもロシアの言及を避けるように特殊的に忠告されたということを知っている。

Inside the Vaticanの2000年11月号において、「教皇の側近の顧問たちの一人」としてのみ同定されていた一人の指導的な枢機卿(私は後にそれがトムコ(Tomko)枢機卿であったことを学び知った。)が「[公会議後の]キリスト教の西側を含む全世界が深刻な問題に直面しているときに、あたかもロシアが特に援助を必要としているかのように、もしローマがそのような祈りの中でロシアを特殊的に言及したとすれば、ロシア正教会がそれを一つの『攻撃』と見なすであろうことを、ローマは恐れているのだ...」という趣旨のことを言ったとして引用されている。

その同じ枢機卿顧問はこう付け加えた:「余りにも融通のきかない人間にならないように気をつけよう。」それゆえ、The Wandererはヴァチカン党路線をオウムがえしにしながら、まさにロシア人たちが彼らの国を奉献の対象として認識することがないように、そこからロシアのいかなる言及も意図的に落とされた儀式においてロシアが奉献された!と信じるようにわれわれに求めているのである。

シスター・ルチアがロシアの有効な奉献のための要求について最近言ったとされていることとは無関係に、これは一般に理解された言葉の意味を採用する単純な常識の問題である。奉献するということは、「聖なるものと宣言すること、あるいは聖なるものとして取り置くことを意味する:教会を奉献する[聖別する]」(American Heritage Dictionary)。

その教会が司教区の一部であるという理屈に基づいて、その教会に言及することなく全司教区を奉献することによって一つの新しい教会を奉献しているのだと主張している一人の司教のことを想像してみなさい。あるいは、結局のところ、両手は身体の一部であるがゆえに、一人の新しい叙階を受ける者の両手を聖別することを拒否して、身体全体を聖別することのほうを選ぶ一人の司教のことを想像しなさい。その司教の知的能力を問うことは正当なことであろう。あるものの奉献[聖別]は奉献されるものに言及する必要があるということは人々が議論の的にする合理的命題ではない。The Wandererはしかしながら、それに機会を与える決心をした。

The Wandererはロシアの回心の失敗を「説明する」

しかしもし1984年の世界の奉献がロシアの奉献と同様によいものであったのならば、なぜロシアは聖母が奉献の結果として約束なさった宗教的な回心を経験しなかったのか? それがその過程においてどのように馬鹿げたものと見えようとも、常に党路線を擁護する準備のできたThe Wandererはまた、シスター・ルチアが今や、ファチマの聖母は、「最後に私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう」と預言なさったとき、決して宗教的回心を意味なさらなかったと言っているということをわれわれに信じるよう求めている。

しかしながら、この点に関して、The Wandererがすることができる最善のことはツーガイブ博士の次の陳述を引用することである:「シスターたち[注意、シスター・ルチアではなくて、出席している他のシスターたち]はマリアの汚れなき御心へのロシアの奉献は人々に自由意志、彼ら自身の選択をすることへの権利を与えた、と言った。言葉を換えて言えば、それはそれ[ロシア]を、彼らが教会へ行くことができる、告解に行くことができるように..開いた...あなたはあなたの霊魂を救うために、あなたが望むことをする自由意志を持っている。それが彼らに開かれたことである。あなたが見ることができたのは、偉大なあるいは大きな聖性ではない--人々はそのことについて悪い印象を持っている...しかし、これは彼らが彼ら自身の自由な選択をすることができる宗教の自由を開いた。」

The Wandererがそうしたように、ファチマの預言は「あなたが見ることができた偉大な、あるいは大きな聖性」とは何の関係もなく、ただ「自由選択」にだけ関係がある。自由選択の聖母というのが、The Wandererのファチマの聖母のための代理人である。そして、その結果として「共産主義の崩壊」以来のロシア・カトリック教徒の圧倒的多数の「自由選択」は彼らの宗教の実践を放棄することであった。30 Daysという雑誌によれば、ロシアのあらゆる教区から集められた統計は「1年に少なくとも1-2回教会に出席するカトリック教徒はロシア全体で258にわたって拡がっている登録された小教区で45,000を超えない。これはロシア人口の1%の十分の一以下の人々が年に2回のミサに与っているということである。」

あたかもそれが十分に悪いことではないかのように、ヴァチカンでさえ今はプーチン政権によるロシアのカトリック少数派の組織的抑圧に抗議している。プーチン政権はロシア正教会大主教アレクシー2世と共に密接に連携している。アレクシー2世はアレクシー・リディガー(Alexy Ridiger)として、モスクワ大主教への彼の突然の登壇の前に最近再指名されたKGBの要員であった。(共産主義者によって支配されたDumaはアレクシーのKGBの過去の調査を鎮圧した。)プーチン政権はカトリック位階の重要なメンバーたちをロシアから排除してきた(ほとんどのロシア・カトリック教徒が住んでいるシベリアの司教ジェルズィー・マズア(Jerzy Masur)を含む)。その一方で存在することを許された少数のカトリックの小教区には厄介な法的規制を課している。

そしてThe Wandererの職務の外側の世界においては、誰もがプーチンは草の根の政治的諸党派の形成を非合法化し、彼らのすべてをもっともらしい犯罪の廉で起訴することによって最も強力な政治的敵対者たちを消しながら、マス・メディアの支配権を掌握することによってロシア社会を再スターリン化することに忙しい、ということを知っている。

この底の知れない状況はThe Wandererが「ロシアの回心」としてその読者たちに今つかませようと努めているものである。われわれは確かに、カトリック・ジャーナリズムの頂点からのThe Wandererの長い下降のどん底を目撃している。このかつて尊敬すべきものであった新聞は反ファチマ兵士たちを求めてのその探求においてこれ以上低く沈むことはできない。

公会議後の耳のための一つのファチマ

シスター・ルチアが今やロシアの回心は「自由選択」以外の何物をも意味しないと言っているというThe Wandererの主張は最初にエヴァリストの1992年パンフレットにおいて現れた。そこでは以下のような「概念的翻訳」が現れている:

エヴァリスト:しかし、ロシアの回心はロシアの人々のカトリシズムへの回心として解釈されないのですか?

シスター・ルチア:聖母は決してそうは仰いませんでした。多くの誤解が出回っています。事実は、ロシア、共産主義的、無神論的な権力が人々を彼らの信仰を遂行することから妨げていたということです。人々は今彼らがあるがままにとどまるか、それとも回心するかの個人的な選択を持っています。

言葉を換えて言えば、エヴァリストの「シスター・ルチア」によれば、神の御母がロシアの回心について話されたとき、聖母は、もしそれが彼らの選択であるならば、--実際、明らかにそうであるように--回心しないロシア人の自由以外の何物をも意味されなかったのだ。エヴァリストの「概念的翻訳」は、聖母がロシアの奉献の結果として約束なさった「平和の時期」に関してシスター・ルチアの口に似たようなナンセンスを言わせた:

シスター・ルチア:しかし、聖母が預言において言及されているこの平和は無神論的共産主義の諸々の誤謬が全世界に引き起こしている戦争と迫害に言及しているのです...

エヴァリスト:率直に言うことが大切です...これは多くの人々が理解せず、世界平和は即座に来るものと考えている理由です...

シスター・ルチア:聖母は諸々の誤謬によって...全世界における無神論的共産主義の諸々の誤謬によって促進された戦争からの平和について話されました...無神論、そうです...そしてそれゆえに、それは存在する最も大きな異端です。そしてそれは無神論的共産主義から広まります...無神論的でない共産主義もあり得ました...しかしそれは全世界に多くの戦争を産み出していた無神論的共産主義について言及しています...[すべての欠落部分はオリジナル[のテキスト]にあるものである]

エヴァリスト:今日のロシアにはなぜ平和がないのですか? なぜですか?

シスター・ルチア:今存在している戦争が実際的には無神論に由来するのではなく、市民戦争であるからです。

それゆえ、エヴァリストの「シスター・ルチア」はロシアの回心とマリアの汚れなき御心の勝利に引き続くマリアの支配の平和が単に「無神論によって促進された」戦争はもはやないだろう、しかし、他のすべての戦争は--1984年の「奉献」以来およそ6億人の犠牲者を要求してきた胎児に対する戦争を含む--衰えないで続くでということを意味するにすぎない、とわれわれに知らせるのである。

そしてエヴァリスト・パンフレットの「シスター・ルチア」--そして今やThe Wandererの諸ページ--はロシア社会の実践的無神論とロシアの回心の預言とをどのように和解させるのであろうか? エヴァリストの「概念的翻訳」によれば、これが「シスター・ルチア」が提案したものである:「...無神論は今なお存在しています。しかし私はそれはもはや信仰、教会、神をそして超自然的であるすべてのものを破壊する無神論ではない、と思います。」

結論において、エヴァリストのパンフレットにおいて、そしてThe Wandererのページにおいて語る「シスター・ルチア」によってその鍵となる重要な言葉を与えられた新しい意味に由来するファチマの新しいメッセージはこう要約されてよいであろう:

ロシアの奉献はロシアそれ自身が奉献されることを要求しない。

ロシアの回心はロシアがカトリック宗教を、あるいは実際いかなる宗教をも持つことを全然意味しない。

聖母が、もしロシアが奉献されたならば、世界に約束なさった平和の時期は胎児に対する世界的な戦争を含む戦争の行為には何の実際的結果をも持たないであろう。

十分に便利よく、ファチマのメッセージのこの新版はわれわれが今日それを見出しているまさに同じ状況における世界よりもよいものを何も約束しない。ある驚くべき偶然の一致によって、ファチマの新しいメッセージは新世界秩序の多元主義的諸政体ならびにヴァチカンのエキュメニズムおよび諸宗教間対話の新教会計画に完全に適応している。その通り、ファチマの聖母はわれわれに公会議後の現状以上の何物をも約束しないために来られたように見える!そして今や、エヴァリストおよびThe Wandererが事柄を見ているように、カトリック者は神の御約束の実現を喜ぶべきである。

ファチマから遠く、遠く

40年間の公会議後の漂流の後に、ヴァチカン当局を排除しないでたいていのカトリック位階がファチマでの神の御母によって表明された単純なカトリック信仰から非常に遠く離れているということを論証する必要はほとんどない。

これらの人々はトキワガシの木の上に立たれた聖母の前で謙遜な畏れのうちに跪いた3人の子どもたちに聖母が打ち明けられた言葉を唱えることさえきまり悪く思うであろう。 むずがゆい公会議後の耳に害をあたえず、あたりさわりないようにするために聖母の言葉に新しい意味を与えるほうがよい。その仕事のために、ヴァチカンは不可解な仕方でエヴァリストという名の素性のはっきりしない一人の平信徒にファチマの最後の生き残りの幻視者へ無制限に近づく権利を与えた、と思われる。それは彼が彼女の最近の説明されない心変わりについてのニュースを流布することができるようにするためである。しかしもっと差し迫った質問をしようとするカトリック者はどういうわけか常に修道院の扉のところで閉め出されるのである。

The Wandererが今、あの色あせてゆく新聞が数年にわたって勇敢に擁護してきた他のすべての狂気の新奇さと並んで、その読者たちに抱かせようと力説しているのは、実際、新世界秩序の新教会のための新ファチマである。しかし、これはわれわれがThe Wandererから期待するようになったものにすぎない。The Wandererは、どういうわけか、ルイジ・チアッピ(Luigi Ciappi)枢機卿によって第三の秘密への彼の言及においてそのように適切に記述された大きな物語をいつも落とす一方で、公会議後の危機からの地方的な些細なことの山を公表してきた。チアッピ枢機卿は第三の秘密を教皇の個人的神学者としてのその地位において読んだ。それはこうである:「教会における大背教が頂点で始まるであろう。」注15)

シスター・ルチアは本当に彼女の以前の世界に対する証言を撤回したのか? 彼女は今本当に、ファチマのメッセージが結局のところ、無駄騒ぎであったということに同意するのか? 彼女の新しい証言は翻訳において変造されたのか、それともそれは従順の苦痛の下で彼女から引き出された、強制の産物なのか? 最後に、これらの問いに対する答は重要ではない。なぜなら、今日シスター・ルチアが何を言おうとも、聖母の御約束は自らのために語っている。カトリック精神が希望と期待をもって今もなお固守しているのは、それらを表現する言葉の一般的意味に従って、それらの約束である。そしてどんな愚かな者でもファチマでの神の御母の約束が実現されることからは一つの長い道であるということを見ることができるのである。

脚注

  1. Centre Saint Jean 615000 Sees,(Orne)FranceのPierre Caillon神父による論考の内部で報告された。この論考は月刊雑誌Fidelite Catholique、B.P. 217-56402.Aurey Cedex, Franceによって公表された。英語の翻訳はThe Fatima Crusader, Issue 13-14,(Oct.-Dec. 1983), p. 3から。

  2. Kramer, Fr. Paul, The Devil's Final Battle , Missionary Association,(Buffalo, NY:2002), pp. 270-271.

  3. L'Osservatore Romano, Italian Edition, May 12, 1982.

  4. Frere Francois de Marie des Anges, Fatima: Tragedy nad Triumph,, Immaculate Heart Publications, English Ed., 1994, pp. 218-219.

  5. Pierre Caillon神父による論考、Fidelite Catholique、B.P. 217-56402.Aurey Cedex, France

  6. The Whole Truth about Fatima , Vol. III, The Third Secret, English Ed., by Frere Michel de la Sainte Trinite , 1990, Immaculate Heart Publications, U. S. A., pp. 504. 505.

  7. カルロス・エヴァリストからコラリー・グレアム(Coralie Graham)へのファックスによる伝送。1992年11月23日。

  8. フランシスコ・パチェコ神父、O. C. C.の手紙。Postal, 60.033-790-Fort-CE-Brazil、The Fatima Crusader, Issue No.46, January 1994, p. 15.

  9. Evaristo, Carlos, It All Started with Two Hours with Sister Lucy, 1993, p. 4.

  10. 「ベルトーネ大司教は2001年11月17日、ポルトガル、コインブラ修道院でシスター・マリア・ルチアに会った。」L'Osservatore Romano,(Italian Edition, December 21, 2001.)

  11. L'Osservatore Romano, Italian Edition, March 27, 1984, pp.1 and 6.また、L'Osservatore Romano, English Edition, 2 April, 1984, p. 10をも見よ。

  12. Avvenire, March 27, 1984, p. 11.

  13. "More Power and Less Believers," 30 Days, No. 9, 2003, p. 31.

  14. Moscow Times, June 26, 2001.

  15. ザルツブルグ大学バウムガルトナー(Baumgartner)教授への個人的通信。

2004/04/30 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/30

最終更新日:2004/06/25

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