ファチマの聖母マリア

ファチマの聖母を信じ、聖母に従う教会の義務

The Fatima Crusader Issue 74, Summer 2003より

ニコラス・グルーナー神父 S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

 最近、多くの平信徒、司祭、ならびに司教、枢機卿から、ファチマの聖母を信じ、聖母に従う義務に関してある非公式の調査が行われました。驚くことではなかったのですが、その問題に関する自称専門家である人々の中に、危険な考え方があります。その問題は数百万、そしてそれ以上の霊魂の永遠の救いにとって非常に重要なことであり、それは世界平和のために絶対不可欠ですから、私たちはここに、2001年のローマでの司教会議においてグルーナー神父が行った話の編集版を提供します。

 私たちはファチマの聖母のメッセージを信じそれに従う義務についてこれから話すことにしましょう。ファチマの聖母を信じ、聖母に従う教会の義務、また私たち自身の個人的義務に関してはさまざまの神学的立場があります。

 第一に、ファチマは「私的な啓示」である、そしてそれゆえにわれわれはファチマを信じる必要はないし、またわれわれは、あるいは教皇でさえ、それに従う義務はないと言う人々がいます。それゆえ、これらの人々はこう言います、あなたは、もし好むならば、それを信じることができる、そしてもし好むならば、それが促進する敬虔な信心を果たすことができる、しかし、あなたは誰かに、それを信じ、それに従わなければならないと言うことはできない、と。

聖母を愛していると主張し、そのような事柄を言う司祭たちがいますし、ファチマ組織があります。彼らの立場は、広く支持されていますけれども、誤りであり、危険です。そしてこの立場を支持する多くの人々を最終的には地獄へまっすぐ導くことがあり得るでしょう。

 それがなぜ誤っており、危険で悪いことなのでしょうか? 私たちは、上に要約した立場にいずれも反対する他の二つの神学的立場を検討することによって見ることにしましょう。

第Ⅰ部

ファチマは聖書の預言の中にある

 ファチマの聖母を信じ、聖母に従う教会の義務を支持する最初の立場は次の通りです:ファチマのメッセージは預言によって聖書の中に含まれている。そしてそれがそこに含まれているならば、それは信仰の遺産の一部である。そしてそれが信仰の遺産の一部であるならば、そのとき、われわれは神的なそしてカトリックの信仰でもってそれを信じなければならない。

 換言すれば、この立場に従えば、ファチマ・メッセージは聖書において聖霊によって保証された公的啓示の一部です。この神学的立場は明らかに直接的に「ファチマは私的啓示である」と言う人々に対立します。

 多くの人々にとって、司祭や神学者のような敬虔な人々にとってさえ、この立場(それを「ファチマは聖書の中にある」という立場と呼ぶことにしましょう)は擁護できないもの、過激で、そして余りにも急進的過ぎます。私はこの立場を確実な立場とは主張しません。しかし、それは理解するために非常に有益であることが分かるでしょう:第一に、それは真であり得るでしょうし、またいつか教導職の教えとなってさえいるかもしれません。そして、第二に、以下に述べる第二の立場--それもまた信じ、従う私たちの義務を主張します--をよりよく理解する助けとなります。

反対する神学者沈黙させられる

 ところで、「ファチマは聖書の中にある」という立場に関して、私が一人の神学教授とした神学的議論によって説明させてください。その議論はずっと以前にローマのマリア神学校Marianumのクラスで公に行われたものです。神学教授は、われわれはファチマを信じる必要はまったくないと私に提案しました。それで私は彼に言いました。「それが聖書の預言の実現でないということをあなたはどのようにして知るのですか? あなたはそれが信仰の一部でないということを断言的、絶対的に主張することができますか?」そして彼は、私の立場に完全に反対であったけれども、それを論駁することができませんでした。彼は答を持っていませんでしたし、またそのことを認めました。

 その教授は、反対していたのだけれども、なぜ認めたのでしょうか? 簡単です。議論は非常に単純で直接的で論理的だからです。その力を理解するためには私たちはいくつかの基本的なことをよく調べる必要があります。

 私たちがカトリック信仰告白によって信仰しなければならないということはどういうことでしょうか? 信仰のということはどういうことでしょうか? 聖トマスは、それは神が啓示なさったすべてであると私たちに告げています。カトリック信仰のということはどういうことでしょうか? 聖書の中にあるすべてです。カトリックの伝統の中にあるすべてです。それがカトリック信仰です。

 聖トマスは『神学大全』の中で、もし聖書がダビデは70人の息子を持っていたとあなたに告げていることをあなたが知っているならば、そのときあなたは、神的なカトリック信仰によってそれを信じなければならないと指摘しています。ですから、神学者は平均的な平信徒よりは信仰についてより高い基準を持っていると主張されるのです。

 救われるためには、すべての人は使徒信経の12の項目を信じなければならないと聖トマスは言います。しかし、神学者はそれよりももっと多くのことを信じなければなりません。なぜなら、信仰の遺産の中には決定され、教えられ、受け伝えられてきたもっと多くのことがあるからです。注1

 聖トマスは、もしあなたが聖書の中でダビデがイェッセの息子であると言われているということを知っているならば、それを神的なカトリック信仰でもって信じなければならない、なぜなら、神がそれを啓示なさったからだ、と言っています。神学的な信仰の徳の本質は、彼の意見が神の御意見に一致するから信じるのではなくて、神が啓示なさったことを受け入れるから信じるのだということです。注2

 私たちは、まったき聖であられる神が嘘をつくことがお出来にならないということを知っています。私たちは、全知であられる神が誤ることはあり得ないということを知っています。もし神が何事かを私たちに告げられるならば、そのときわたしたちはそれを信じなければなりません。さもなければ、私たちは神を冒涜するのです。なぜなら、その場合には、私たちが神を嘘つきと呼んでいるか、あるいはすべての真理を知られる神の能力を否定しているかのどちらかだからです。信じない人は神を明白に冒涜しようと意図しないのかもしれません。しかし、彼は不信というまさにその行為によって神を冒涜しているのです。

信仰を否定する大罪

 それがカトリックの信仰の一つの箇条を否定する大罪である理由です。教会は、聖書そのものがそうしてきているように、数世紀にわたって教えてきました。聖パウロはガラテヤ人への手紙1:8においてこう言っています。「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げしらせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」(それの意味するところは、彼は切り離されるがよい、彼は呪われるがよい、彼は永遠の地獄に行くがよいということです。)

 教会は、霊魂に対するその憐れみと愛において、救われるためには、ある事柄は信じられねばならないということを明らかにしてきました。それが、教会が荘厳な決定をくだす理由です。荘厳な決定に反することを言う人あるいは信じる人は誰であれ、破門にされるがよい。切り離されるがよい。

 ところで、第三の秘密によれば、私たちの時代にはカトリック教会における多くの人々が教義の感覚を失っています。(真理は変わらない:もし私たちが教義を失うならば、信仰を失うのであるを参照。)しかし、単に他の多くの人々が教義の感覚を失ってしまったという理由だけでは、誰も信仰の諸真理を信じることから免除されません。教義的な信仰は救いのために要求されます。必ずしも誰もが教導職の教義上の教えを知っているわけではありません。しかし、すべての人は、教会が神的なカトリック信仰に属するものであると荘厳に決定したと知っている事柄を明確に信じなければなりません。

 たしかに、神学者は平信徒よりも多くそれらを知り、それらを信じる義務があります。

 しかし、平信徒でさえ、ひとたびある教義上の教えが彼の注意を呼び起こしたならば、神学者と同じようにはっきりと信じる同じ荘厳な義務を持っています。聖アウグスティヌスは私たちに、誰もが同じ理解の賜物を持っているのではない、そして知力がそれほどないために、才能がそれほど与えられていない人々は、その責任ももっと軽いと告げています。しかし、基本的な義務は誰にとっても同じです。すなわち、神が教え給うことを私たちは信じなければならないのです。神が教え給うことを信じるのを拒否することはあなたを永遠の地獄へ断罪するに十分です。

 そしてそれゆえ、この立場の主要な論拠は、ファチマでの聖母の御出現は聖書に含まれているということです。なぜなら、それは黙示録第12章に予告されているからです。換言すれば、もし1917年のファチマでの聖母の御出現が事実聖書の中で予告されているならば、そのとき私たちはそれを今や起こった予告された未来の出来事として信じなければならないのです。そしてそれは、それ自体信仰の遺産の一部なのです。私がこの立場を確実なものだと主張しているのでないことを思い出してください。しかしながら、私はそれを尊重しています。そしてそれに反対するどんな論拠も持たないからです。

あなたはファチマを無視することができると言う盲目の指導者たちに私たちは従ってはならない

 さて、もしファチマが実際聖書の中の預言のうちに含まれているならば、現代に生きている私たちは今や、最も荘厳な仕方で非常に特別の義務を持っているのです。なぜなら、私たちひとりひとりは今や私たちの永遠の運命を決定するであろう永遠の真理に直面しているかもしれないからです。私たちは単純にこのことを脇へ押しやること、あるいは無視することまたそれを熟考しないことはできません。われらの主の時代に多くの人々がそうしたのと同じように、私たちは単純に、他の人々に、たとえ言うところの専門家でも、私たちの代わりに決めさせることはできません。

 ファリザイ派の人々は目の見えない人々であり、目の見えない人を導く人々でした。そして両者は共に地獄の穴に落ちました。ここでしばらくの間われらの主の生活との類似点について考えてみましょう。われらの主の到来は旧約聖書において予告されていました。そして旧約聖書のファリザイ派の人々は自分たちは聖書を持っていると主張しました。それゆえ、彼らはなぜナザレト出身のこの「無知な」大工に耳を傾ける必要があるのかと主張したのです。彼らが忘れていたことは、彼ら自身の聖書が預言を含んでおり、それらの預言はナザレト出身の大工について語っていたということです。そしてそれゆえに、自分たちがその保持者であり、主人であると主張していたまさにその預言において、彼ら自身が悪役としての役割を果たしたのです。そして彼らが断罪されたのは、彼らが神を信じなかったから、そして(自分たちは神を信じていると主張していたけれども)イエズスがおこなった奇跡を信じなかったからなのです。

 われらの主の到来は多くの預言者たちによって旧約聖書の中で予告されていました。そしてキリストは予告されたその時に来られました。注3 キリストがなされるであろうこと、キリストがどのような死に方をなさるかということ注4、キリストについての多くの事実が予告されていました。

 そしてファリザイ派の人々は聖書に忠実であると主張していたけれども、彼ら自身キリストを十字架にかけた罪を負いました。(このことは、すべての罪人がある仕方でキリストを十字架につけるのだということを無視するものではありません。しかし、私たちは今時間におけるキリストの肉体的な死について語っています。そしてそれは予告されたものでした。)ユダヤ人の指導者たちは彼らの師として神を持っていると主張しました。しかしわれらの主は彼らにこう言われました。「もしあなたたちが父として神を持っていたならば、そのとき私を認めたであろう。なぜなら、私は父の似姿であるから。」「父と私は一つである。」(ヨハ10:30)「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」(ヨハ8:44)

 そして聖パードレ・ピオがかつて言われたように、聖書を支持するという名において、彼ら自身の時代における明白な奇跡を否定する人々がいます。そして彼らはそこからだんだんと、キリストが聖書の中で行われた奇跡をさえ否定することへと落ち込んで行くでしょう。

 これらの事実はどのようにここ、そして今、私たちに関わるのでしょうか? 非常に単純です。ちょうどキリストが来られることが聖書の中に予告されているのと同じように、もし聖母がファチマに来られることが聖書の中に予告されているならば、そのとき聖書の預言はそれが実現されるとき信じられなければなりません。ファリザイ派の人々がキリストが行われた大きな奇跡を与えられたとき、彼らがキリストを信じることを拒否したことは彼らを罪ある者としたのです。

 父なる神がお送りになった預言者を信じることを拒否する彼らの言い訳として聖書を信じるという彼らの主張は彼らを容赦しませんでした。注5 彼らはその罪のうちに死にました。

二人の教皇が私たちに告げておられる!

 ファチマの聖母はいつ来られたのでしょうか? 聖母は聖書の中でいつ予告されたのでしょうか?

 ところで、私たちは、黙示録の第12章第1節において示されているのはファチマの聖母であると過去37年間に私たちに告げている二人の教皇を持っています。両教皇は、黙示録第12章第1節のうちに含まれている預言を実現したのは、単に聖母ではない--そしてたしかにそれは聖母です--しかし、単に聖母ではなくて、ファチマの聖母であるということを明白に指摘しておられます。ところで、私たちは両教皇のこれらの陳述をどこに見つけるのでしょうか? 私たちはまず第一にそれをパウロ六世の回勅Signum magnum注6 の冒頭のパラグラフの中に見つけます。そのラテン語の訳は「大いなるしるし」です。そして黙示録第12章第1節はラテン語で"Signum magnum apparuit in caelo"で始まっています。--これは「天に大いなるしるしが現れた」という意味です。そしてパウロ六世は明らかに、これは絶対にファチマの聖母であると決定あるいは言明してはおられません。しかし、教皇は明らかにそうであるということを暗示したいと思っておられます。

 これは、教導職がファチマの聖母は太陽をまとった女であると言ったということを言っているのではありません。しかしながら、パウロ六世はその回勅の中で、明らかにそのメッセージを伝えようと意図しておられます。それは非常に微妙な言葉遣いをされています。しかしそれは教皇が意図なさっていることだということは明らかです。さらに、ヨハネ・パウロ二世もまた同じ指摘をされました。そして私は2000年5月13日の教皇のファチマでの説教のうちに、もっと強力にさえそれを見ます。注7 そこでは、ヨハネ・パウロ二世は同じ示唆を与えましたが、それについてより決定的でさえありました。ファチマに行かれた二人の教皇が、ファチマの聖母の御出現は聖ヨハネの聖書的預言の書の第12章の聖書的預言の実現であるということを示唆し、述べ、指示なさったということは最も注目に値することです。

 もしそれが実際聖書的預言の実現であるならば、そのとき、それは単に公的な預言的啓示--そのことを私はこの後すぐにあなたたちに説明しようと思います--であるばかりでなく、実際信仰の遺産であるという議論をすることができるでしょう。

教皇はそれを決定することができるであろう!

 「ファチマは聖書の中にある」ということは、たとえそれが広く支持されていないとしても、一つのちゃんとした神学的な立場です。私はこの立場が決定的である、とは言いません。すなわち、真の教導権を必要とするだろう、もっと正確に言えば、すべてのカトリック者をしばるようにするこの立場に全教会をしばることを意図する一つの荘厳な宣言を教皇にさせるだろう、とは言いません。それにもかかわらず、今までのところ、それが正確で、真ではないということを証明できる人は誰もいません。特に、二人の教皇が、ファチマの聖母は実際この聖書的預言の実現であるということを、非常に公的に、非常に明確に指摘された--おそらくあり得ることですが、まだ十分にはっきりと公開されていない完全な第三の秘密に基づいて--とき、私はあなたたちに、カトリック教会においてファチマに反対する人々(そして近代主義者から進歩派、自由派、保守派、ある「伝統主義者たち」すらにいたる多くの人々がいます)は「ファチマは聖書の預言の中にある」という立場に反対する何らの論拠も持っていないのだ、と告げることができます。私も論拠を何ら持っていません。

 もし教会がそれを決定するならば--教会はできるでしょう--この立場に対して開かれた選択肢を残すでしょう。事実、まさにこの点に関して、第五ラテラン公会議--1512年ころ開催された--は、教皇だけが預言的啓示の問題に関して決定すると決定しました。注6 国務省長官の枢機卿ではなく、信仰教義聖省長官ではなく、ただ教皇だけが決定できるのです。そして私たちは、私的な神学者としてではなくて、教師としてのその公的な能力における教皇について話しているのです。

いくつかの必要な説明

 この点において、一人の教皇と一人の裁判官の間には大きな相違はありません。裁判官の例を取り上げましょう。彼の妻が彼に殺人の裁判の途中である夜尋ねます。「ところで、その被告人は有罪なの、それとも無罪なの?」そしてその裁判官は妻に、その家庭のプライバシーの中で「有罪だと思うよ」と言うことはできるでしょう。しかし、その裁判官の見解は裁判の公式の陳述を構成するのではありません。それは彼の見解です。そして一人の教皇は同じように教会内に起こっているさまざまな事柄について意見を持つことができます。しかし、それらの意見の表明は、公的な場においてであっても、教導権の表現を構成するのではありません。それはそれ自体教導職の決定あるいは陳述を構成しないのです。

教皇の側で教導職上のものであるためにはある事柄に対してある種の厳密な要件があります。私は単に荘厳な決定についてだけではなく、教皇の通常の普遍的な教導職の行使についても話しています。それは他の全体的な議論です。しかし、それは必要です。なぜなら、今日その点に関して多くの混乱があるからです。私が得ていることは単純に預言的啓示についてのこれらの問題においては、教皇が最終的な唯一の判定者であるということです。しかし、教皇が教導職の上で宣言する時までは、私たちは自分自身の意見を持つ権利があります。聖アウグスティヌスは私たちに、「本質的な事柄においては一致が、本質的でない事柄においては自由がなければならない」と告げています。そしてそれゆえ、私たちは、真摯にそれを主張するかぎり、すなわち、証拠をはかりにかけ、問題になっていることを理解するために最善を尽くした後に、私たちの意見を持つ権利があります。

第Ⅱ部

公的な預言的啓示

 次の神学的立場は、ファチマのメッセージは一つの私的な啓示でもないし、また信仰の遺産の一部でもない、しかし、それは、それにもかかわらず、--神と人の前で--それを信じ、それに従い、私たちの能力と可能性の及ぶ範囲までそれを擁護し、それを促進する荘厳な義務を帯びているという立場です。

 たとえ「ファチマは聖書の中にある」という前にあらましを述べた立場がある未来の時点である未来の教皇によって決定されないことになったとしても、それにもかかわらず、私たちはなお、ファチマ・メッセージとその諸要求を信じ、それに従う義務を負っています。

 この第三の立場は「ファチマは単に一つの私的な啓示にすぎない」という誤った陳述に対する一つの明確な回答です。後で見るように、この第三の立場は聖書と正しい理性に基づいています。

それは、私たち(あるいは教皇、あるいは司教や司祭たち)はファチマの聖母を信じ、聖母に従う義務はないと主張する人々が、ラッツィンガー枢機卿あるはフォックス神父のような人々さえ、明らかに間違っているということを示しています。

この第三の立場は、そのとき非常に単純に、祝せられたおとめマリアのファチマのメッセージは一つの公的な、預言的啓示であるという立場です。そしてこれは、私自身よりも優れた神学者たちによってもっと完全に説明されてきた立場なのです。あなたは彼らの中にドイツのグレイバー司教を見出すでしょう。彼は私たちに、ファチマは無視することができる一つの私的啓示であると言う人々は間違っていると告げています。注9 あなたはローマで教えたカルメル会の神学者ジョゼフ・サント・マリー神父によって主張された同じ立場を見出すでしょう。注10 また彼は、ファチマは単なる一つの私的啓示であり、それに何らの注意を払う必要もないと言う人々がまったく間違っていると主張している他の神学者たちを引用しています。注11

そして私的な啓示とは何なのでしょうか? 私的な啓示とは、厳密に言えば、神あるいは聖人から一人の個人に向けられた、彼は信じなければならないという一つのメッセージです。それゆえ、もし聖母があなたたちのうちの一人に御出現になるならば、あるいはあなたの保護の聖人が現れるならば、そしてあなたに、あなたの魂を救うために、あなたがしなければならないこと、あるいはあなたが明日、あるいは一時間後にしなければならないことを告げるならば、あなたが受け、他の誰もそれを正しいと確かめることができないその啓示は私的なものでしょう。そしてあなた自身以外の他の誰もそれを信じるように縛られることはないでしょう。

ファチマは公的である

 しかし、ファチマは正しいと確かめることができないものではありません。そしてそれは一人の個人のための一つのメッセージではありません。それは全教会に対して与えられた一つの公的なメッセージであり、一つの公的な奇跡と公的な諸預言によって正しいと確かめられたメッセージです。そしてファチマの聖母の諸要求を無視することの諸結果は破局的です。ファチマは一つの公的、預言的な啓示です。そしてそれ自体、教会がひとたびそれを検討し、信じるに値すると認めるならば、自然法と聖書は私たちがしなければならないことを私たちに告げています。テサロニケ人への手紙第1,5:19-21の中で、聖パウロはこう書いています:「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」

ファチマは預言的である

 ファチマのメッセージは一つの公的な啓示です。それは一つの預言です。教会はそれを吟味し、それが良いものであることを見出しました。そして、それゆえに、私たちはそれを大事にする義務があります。何の結果も伴わずに無視することができるという態度を取ることは預言を軽んじることでしょう。別の点で、私たちは霊の火を消しているのでしょう。そしてもし私たちがそうできるのであれば、私たちはそのときこう言うことができるでしょう。「よろしい、ロシアを奉献することは私にとって不快なことです。」あるいは「毎日ロザリオの祈りをすることは私にとって不快なことです。」あるいは「これあるいはあれをすることは私にとって不快なことです。だから、私はそれをすることを望まないのです。」

 それゆえ、私がしなければならないすべてのことは単純に「私はそれを信じる必要がない」と言うことです。そしてそのとき、私は心静かにわが道を行き、最後の審判の日にこう言うことができます。「ところで、私はあなたがロザリオを祈るように私に求められたことを知りませんでした。あなたがファチマのメッセージを促進するように私に求められたことを知りませんでした。あなたがロシアを奉献するように私に求められたことを知りませんでした。」主はこう言われるでしょう。「よろしい、あなたは告げられたのだ。」「おお、しかし、それは、私の魂を救うために従う必要のない一つの私的啓示だと告げられました。」「いや、あなたはわたしによって確実な言葉で告げられたのだ。あなたがこのメッセージは私から来ているのだと知るように、私は一つの大きな奇跡を行った。あなたはただ聞きたくなかっただけだ。あなたは私を閉め出したかったのだ。あなたは明らかに私の霊の火を消そうと努めていた。あの言い訳はあなたを弁解しないだろう。ラッツィンガー枢機卿やフォックス神父が言い訳になるだろうと言ったと私に告げて私をうるさがらせないでほしい。あなたはもっとよく知っている。それを無視することは聖霊の火を消すことなのだ。注12 聖霊はこの預言を通じてあなたに話しかけられたのだ。あなたは預言を軽んじた。あなたは罪がある。そしてそれはあなたにとって余りにも悪いことだ。」

以下のことはシスター・ルチアがフエンテス神父との有名なインタビューの中で語ったことです:知られた真理を拒否することは聖霊に反する罪です。神はファチマのメッセージが神から来たという証拠をお与えになりました。

聖書からの教訓

 われらの主はカファルナウム、ベトサイダ、コラジンの町々に語りかけられました。聖書はこう言っています:

 「それから、イエズスは多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。

しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりもまだ軽い罰で済む。

また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。

お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。

 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりはまだ軽い罰で済むのである。」

 コラジン、ベトサイダそしてカファルナウムの町々はわれらの主の奇跡を見たのでした。個人的にそれらの奇跡を目撃しなかった市民たちでさえ、他の多くの市民の証言を持っていました。それゆえ、彼らの不信は咎められるべきものでした。

 7万人の目撃者の前で起こった太陽の奇跡を信じることを拒否することが咎められるべきことではないのに、どのようにして、われらの主の奇跡を信じることを拒否することが、咎められるべきことであり得るでしょうか? ベトサイダ、カファルナウムそしてコラジンの町々はキリストの知られた奇跡を信じることを拒否したために、そしてそれらの奇跡と共に与えられたメッセージを拒絶したために断罪されたのです。それは当然の断罪でした。そして、同じ論理の道筋によって、ファチマのメッセージを信じることを拒否することも断罪に値するでしょう。なぜなら、その奇跡は7万人の人々によって証言されたからです。そして太陽の奇跡だけではなく、またもろもろの癒しや預言も証言したからです。

第一バチカン公会議は、神は単に内的恵みによってカトリック信仰を信じるように私たちを動かされるばかりでなく、また信憑性の外的動機をも与えられるのだと私たちに教えています。注13. そして外的動機のうちの最大の二つのものは真実のものとなった外的奇跡と預言です。そしてこれらの事柄の両方を私たちはファチマにおいて持っているのです。それゆえ、神は外的なしるしをお与えになったのです。そして神はまた外的な預言をもお与えになりました。それらは皆このメッセージの真実を実証しています。

ファチマに耳を傾ける教皇および全司教の義務

 ファチマのメッセージはどうも、ファチマのメッセージに従うことから聖職者、司祭あるいは司教、あるいは枢機卿、あるいは教皇を免除すると考える人々がいます。私はここで誰かに審判を下しているのではありません。しかしそのことは神学的に正確ではありません。

 ある人は尋ねるでしょう:「誰がもっと重要でしょうか、シスター・ルチアですか、それとも教皇ですか?」その質問の仕方は間違っていると私は思います。それは、シスター・ルチアが教皇に命令をするかどうかという問題ではありません。彼女はそうするそぶりも持っていませんし、私もそうです。しかし、私がたった今言ったことと、私は今矛盾しているのでしょうか? そうではありません。答は簡単です。神が預言者--この場合にはシスター・ルチアです--にそれを与えられた通りにメッセージを与えることが預言者の役割です。教会の役割はその預言が神から来ているかどうかを吟味することです。その吟味はなされました。そして教会は「はい、このメッセージは神から来ています」と言いました。そこで、そのメッセージが預言者を通じて与えられた神に従うことが、教皇と司教たちの義務なのです。

 ですから、預言者と位階との間の関係は預言者が位階に命令するという関係ではないのです。位階に命令なさるのは神です。預言者を通して位階にそのメッセージをお与えになるのは神です。そしてそのメッセージが実際神から来ているということがひとたび決定されたならば、位階の務めは従うことです。

聖書をもっと熟考すること

 このことに対する聖書的な基礎が何かあるでしょうか? あなたは使徒たちの時代におけるまさにそのような関係について、使徒行録のうちにさまざまの例を見出すでしょう。例えば、聖パウロの司教としての聖別そのものは預言の声を通じてなされました。彼らが一緒に祈っている間に、聖霊が、明らかに一人の預言者を通して、語られました。そして言われました。「バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって決めておいた仕事に当たらせるために。」(使徒行録13:2)

 そしてそのように、そこで一緒に祈っていたカトリック教徒はさらに祈り、そして断食しました。そしてそれから、彼らの中の一人の司教がパウロとバルナバを司教にしました。しかし、彼らは預言の声を通して指名された司教でした。そして私たちはまた、エフェソの人々に手紙を書いている聖パウロの例を持っています(エフェソ2:20)。その中で聖パウロは、教会は使徒たちと預言者たちの基礎の上に建てられていると言っています。

 ヨゼフ・ド・サント・マリー神父によれば、その文脈は私たちに、語られている預言者たちとは新しい契約の預言者たちであって、彼らは使徒たちと彼らの後継者である司教たちと一緒に教会の基礎であると告げています。聖トマスは、神は新しい契約の預言者たちを、一つの新しい教義を与えるためではなくて、信徒たちに彼らの霊魂を救うために彼らがしなければならないことを思い出させるために、あらゆる世代に送られるのだと私たちに告げています。

 ヨゼフ・ド・サント・マリー神父は、この主題をさらに発展させています。そして私たちはそれを『ファチマ・クルーセイダー』および私の著書『世界の奴隷化かそれとも平和か』において公表しました。注14 あなたは私がここで述べた議論の多くを私の著書の83ページから157ページの間に見つけるだろうと思います。

 それは公刊されて現在13年になります。そしてすべての司教たちに送られました。私たちと一致しない一人の神学者をまだ私は持たなければなりません。信じ、従う義務は荘厳な義務です。そしてあなたは教会史のいろいろな例はまたこのことを確証しているということを見るでしょう。

首をはねられたフランス王の例

 また、聖マルガリタ・マリアの啓示もあります。注15 イエズスの聖心は聖マルガリタ・マリアに、フランス王は彼の国を聖心に奉献しなければならないと告げられました。単に私的にではなく、公的に[奉献すること]、そして聖心の紋章を軍旗に、フランス国旗にそして彼の紋章につけるようにと。ところで、これは太陽の奇跡なしに与えられました。これは1689年6月17日に聖マルガリタ・マリアに与えられたメッセージの中で与えられました。

 このメッセージは書き留められ、フランスの王たちに伝えられました。彼らはその要求について知っていました。そして彼らはそれを無視しました。それで1789年6月17日、ちょうどその日までで100年ですが、フランス王は第三身分によって立法上の権力を取り上げられました。そして4年後、しばらくの間牢獄に入れられた後で処刑されました。

 われらの主はファチマのメッセージの中で、次のように言われるとき、まさにその事実に言及しておられるのです。「私の命令の実施を遅らせることにおいてフランス王の例に彼らが従うならば、彼に従って不幸に陥るだろうということを、私のしもべたちに知らせなさい。」注17

ところで、われらの主が、フランス王は実際もしそれが彼に信じ、従う義務を負わせなかったならば、「私的啓示」に従わなかったために罰せられたと言われることは意味をなすでしょうか。しかし、それが起こったように、フランス王はイエズスの命令の実施を遅らせたために非常に厳しく罰せられたのです!さてわれらの主ご自身が、多くの司教そしておそらく教皇自身--そして多くの彼の司祭たちさえも--が一つの理由のためにフランス王に従うであろうと正式に警告しておられます。そしてその理由とはロシアを特殊的に奉献するという主の命令に対する従順の遅延です。それはわれらの主によって与えられたメッセージの明白な意図です。

 神が私たちに非常にはっきりと、非常に権威的に一つのメッセージをお与えになり、しかも私たちが神に向かってとがめなしに次のように言うことができるなどということは道理にかなうことではありません。「ええ、私の聖書の読み方によれば、私はそれを聖書の中には読みません。ですから、私はあなたに耳を傾ける必要はないのです」と。しかし、われわれはファチマのメッセージに注意を払う必要はないと言う、他の目の見えない人の指導者である目の見えない人々がいるのです。彼らは、たとえそれがすでに聖書の中に、預言の中にないということに彼らが確かであることはできないと認めるとしてもこう言うのです。ところで、もし私が賭をする人間であったとしたら、私はそのことをすべて知りながら私の救いに賭けないでしょう。換言すれば、もし私が--それが聖書の中にはあり得ると知りながら、私が神の御意志を行う義務を持っていると知りながら、そして神の御意志が何であるかを私に告げる労をお取りになったことを知りながら--「最後の審判の日に私を許すに十分な一つの疑いを、私は私の心の中に作り出すことができると思います」と言うとしたら--よろしい、誰ひとり神と議論をして、その言い分に成功することはないでしょう。

そしてわれらの主はこう言っておられるのです。「彼らは私の命令の実施を遅らせることにおいてフランス王の例に従っているがゆえに、彼に従って不幸に陥るであろう。」私は、その義務--ファチマの聖母を信じ、聖母に従う信徒の義務だけではなくて、司教たちや教皇の義務--はまったく明白でまったく確実であると思います。

第Ⅲ部

悪を善と呼んではならない

 これは誰かに審判を下すことではありません。なぜなら、私は誰の裁判官でもないからです--もしある人が私のところに告解に来るならば、そのとき私はその秘蹟を司る聖職者としての私の役割を果たし、告解をする人を判断しなければなりませんが、そのことを除いて--それゆえ、私はここで誰をも裁いていません。しかし、単に「私はあなたの裁判官ではないので、ある真理を主張することはできない」とだけ言うことは私にとって正しいことではないでしょう。「私はある人が罪があるかどうか知らない」と言うことと「これが罪であるかそれともそうでないか知らない」と言うこととはまったく異なったことです。

 聖書には悪を善と呼ぶな、そして善を悪と呼ぶなと言われています。注18 そしてそれゆえに、ファチマのメッセージの一発行者としての私の能力において、一カトリック司祭としての私の能力において、私はファチマの聖母に従うことを拒否することを善と呼ぶことはできません。私はそれを罪と呼ばなければなりません。ですから、私はX枢機卿、あるいはY司教、あるいは誰かを罪を犯していると言っているのでしょうか? いいえ、私はそうは言っていません。私は彼らの裁判官ではありません。しかし、私は客観的な道徳的秩序においてそれは一つの罪であると言っています。それについてのそれ以外の説明はありません。そしてもし私がこのことを神学論争において弁護しなければならないならば、そうできるでしょう。

私たちの義務

 ファチマをもっとよく知っている私たちもまた耳を傾ける義務があります。神学者がより多くの信仰箇条を信じる義務を持っているように、ファチマを知っている私たちはそれを信じ、それに従うより大きな義務を持っているのです。

 シスター・ルチアが1936年にわれらの主に「教皇がロシアを奉献することなしに、なぜ主はロシアを回心させられないのですか」と尋ねたとき、イエズスはこうお答えになりました:「私はその奉献をマリアの汚れなき御心の勝利として私の全教会が認めることを望んでいるからだ。その結果、後に私の教会は聖母への崇敬を広め、この汚れなき御心に対する信心を私の聖心に対する信心の傍に置くようになるだろう。」そしてシスター・ルチアはこの答えを聞いた後、言いました。「しかし、わが神よ、御身御自身が特別の霊感でもって教皇を動かされないならば、おそらく教皇は私を信じようとはなさらないでしょう。」そしてわれらの主のお答えはこうでした。「教皇のためにたくさん祈りなさい。彼はそうするだろうが、それは遅いであろう。」注19 ですから、教皇のために祈ることは私たちの義務なのです。

ファチマのために声を大にしなさい

 私は結局こういうことだと思います:人々はファチマのメッセージを知らないか、それとも彼らは実際にそれを信じていないかのどちらかだ、と。信仰を拒否することは一つの罪です。そして従うことを拒否することもまた一つの罪です。ある人は罪を犯しているのでしょうか? 神は御存知ですが、私は知りません。しかし、私たち自身は義務があるのでしょうか? はい、あります。ファチマについて何を為しているかを知って、私たちは確かに教皇のために祈らなければなりません。そして私たちは確かに沈黙を守ってはいけません。これは聖母の敵が望んでいることです。

三人の子どもたちの驚くべき模範

 ウーレム(Ourem)の市長が三人のファチマの子どもたちから望んだすべては、彼らにとって聖母を見たことについて話すことをやめることだったということを思い起こしてください。そして彼らはそうすることを拒否しました。市長は彼らを死をもって脅迫しました。

 これら三人の子どもたちが孤立し、見離され、牢屋に入れられていたということを思い起こしましょう。市長の怒りや極端な暴力の脅迫も、彼の権力の地位、威光や明らかに無制約の権威も彼らをおじけづかせませんでした。彼らはファチマの聖母とそのメッセージについて沈黙するようにという命令に従おうとはしませんでした。

 彼らは押しつけられたあらゆる国家権力に抵抗しました。そして彼らは、それは悪魔から来たものであろうと言った教区司祭のほのめかしに抵抗しました。彼らは真実を知っていました。そしてそれと共に、神の恵みと一緒に、彼らは地獄の怒りに抵抗したのです。彼らは神、そしてファチマの聖母とそのメッセージに不忠実であるよりはむしろ死んだでしょう。

 彼らは短期間に、彼らの祈りと犠牲の生活によって、祈りとイエズス・マリアの功績を呼び求めることによって、この戦いのために準備しました。彼らは自分たち自身の生活の中で聖母が彼らにするようにお求めになったすべてのことに従おうと努めました。聖母はこの戦いのために彼らを強めることによって彼らに恵みを返されました。

 彼らは出版物印刷経営を始めませんでした。しかし、彼らは聖母を見たことを否定しようとはしませんでした。彼らは聖母のメッセージを偽り伝えようとはしませんでしたし、そうするよりはむしろ死ぬことを選んだでしょう。彼らは、死ぬまで油の中で一人ずつ順番に煮られる--と彼らは信じました--というような究極的な試練に会いました。私たちもまた、少なくともある仕方で、ファチマのメッセージについて沈黙することを拒否することによって、彼らを模倣すべきでしょう。

 私たちのうちのほとんどの人々はメッセージを知らせるために限定された手段しか持たないとしても、皆何らかの手段を持っています。7月に来た5千人の人々が6月にそこにいた50人の人々の結果として来たのだということを思い起こしてください。そして8月に来た1万5千人の人々は、7月13日から8月13日までの間に彼らの友人や隣人たちに告げた5千人の7月の目撃者の結果だったのです。そして9月に来た3万人は友人たちに話した1万5千人の人々の結果であり、そのようにしてまた10月には7万人の人々が来たのです。そして、もし政府の諸力の反対や当時のいくつかのカトリック聖職者たちの反対がなかったならば、もっと多くの人々がいたことでしょう。

 私たち各人はわずかばかりのことができます。そして私たちはできることをしなければならないと私は思います。なぜなら、レーゲンスブルグの司教、グレイバー司教が言われたように、「世界が今日恐るべき大量破壊兵器によって完全に破壊され得るということを知れば、そしてまた、いとも聖なるおとめがファチマで私たちに思い起こさせられたように、このことを祈りと償いによって防ぐことができるということを知れば、救いのこの二つの手段、祈りと償いを利用することは私の聖なる義務です。それらを無視することによって、私は人々の破滅において罪を負います。祈りと償いを怠ること--私はこのことを全く真剣に言います--は人類に対する一つの犯罪です。」注20

そして私は、教皇がロシアの奉献を行わないならば、国々が絶滅させられ、全世界が奴隷化され得るということを知っていれば、少なくともこのことの真実を伝えないということで、私は人類に対する犯罪を犯すことになると言うでしょう。そしてそれゆえ、ファチマのメッセージが知られ、理解され、正しく評価され、そして従われるようにするために私たちの役割を果たしましょう。そして同時に、ファチマのメッセージは単に私的啓示にすぎず、どんな義務も課さないのだという誤った議論を受け入れないようにしましょう。

司祭、司教、枢機卿たちそして教皇に声を上げる義務

 そして私はさらにもうひとつのことをつけ加えてもよいでしょう。私たちは教皇の邪魔をしてはならない、結局教皇も単に一個人であり、請願について聞き飽きておられるのだ、という議論があります。私は、この議論が、他にもあったでしょうが、少なくとも数年前にファチマの司教によって説教壇などからなされた、と思います。

 私は、教区教会の司祭が司祭たる委任を受け入れるときは、それを喜んで受け入れるのだということを指摘したいと思います。彼は、喜んで受け入れるとき、また単に名誉、役割、俸給を受け入れるばかりでなく、責任とそれに伴う義務をも受け入れます。そしてもし彼がある晩、深夜に「あなたの教区民であるスミス氏が死にかけており、彼は最後の秘蹟を望んでいます」と聞かされたならば、「よろしい、明日それをしましょう」と実際に言うことはできません。彼は神の前に、その人のところに行き、その教区民に彼がそれらに値するかぎり、諸々の秘蹟を授ける義務を持っています。

 聖アルフォンソすら、教区司祭は彼自身の生命の危険がある場合でさえ、彼の教区民に秘蹟を授ける義務があると指摘しています。それは司祭としての彼の義務なのです。

 しかしそのことは単に教区司祭に適用されるだけではありません。そのことはまた司教にも適用されます。司教たちは、彼らが一つの司教区を預かるようになるとき、その責任を喜んで引き受けるのです。そしてそれはまた教皇自身についても同じです。注12 彼は教皇となることを受け入れました。彼はすべての霊魂の司牧者としての役割を引き受けます。そしてその司牧の一部はファチマの聖母のメッセージに答えることを要求します。それゆえ、私はそんなに都合の悪いことだとは思わないのですけれども、私たちの司教たちにとってそれは都合の悪いことかも知れない--あるいは、枢機卿たちや教皇にとってそれは都合の悪いことかも知れないとしても、ファチマのメッセージは教会と位階の諸成員に一つの義務を課しているのです。

 ファチマのメッセージは教会に一つの義務を課していると言われたのは教皇ヨハネ・パウロ二世御自身でした。注22

彼はそのことを1982年5月13日にファチマでの説教において公的に言われたのです。

 そしてそれゆえ、請願に署名しないように、教皇に奉献を求めないように、と言う人々の善意から出た意見によっておじけづくようにさせられないことが私たちにとって重要なことです。彼らは善意からそうしているのでしょう。しかしそれは私たちの義務であり、私たちの権利なのです。リヨンの第二公会議が決定したように--そして第一バチカン公会議が決定したように--教会の権限に属する事柄における裁定を求めることは私たちの権利です。注23

ファチマが教会に、教皇や司教たちを含む教会のすべての成員に一つの義務を課しているということを思い起こすことは、私たちにとってその次に重要なことです。そして私たちはそれを無視することの結果について告げられてきました:「もし私の要求がかなえられるならば、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。もしそうでないならば、ロシアは諸々の戦争と教会に対する迫害を引き起こしながら世界中にその誤謬を広めるでしょう。善人は殉教し、教皇は多く苦しみ、さまざまの国が絶滅させられるでしょう。」私たちは声を大にしなければなりません。私たちは請願を行わなければなりません。そして私たちはロシアの奉献のために祈らなければなりません。私たちは、教皇でさえ、神の前では従わなければならないということを強調しなければなりません。なぜなら、ロシアの奉献は欠くことのできないことなのですから。

脚注

(1)St. Thomas Aquinas, Summa Theologica, Pt. II-II, Q2, Art.6.

(2)St. Thomas Aquinas, Summa Theologica, Pt. II-II, Q2, Art.5.

(3)Daniel 9:24-26.

(4)Isaias 53:2-12.そして旧約聖書の至るところにある他の預言。

(5)ヨハネ 3:19-21; 5:23; 5:36-47; 10:24-26.

(6)1967年5月13日.

(7)「神の御計画によれば、『太陽をまとった一人の婦人』(黙示録 12:1)が特権を与えられた御父の子どもたちを訪問するために天からこの地上に来られました。その婦人は母の声と心とをもって彼らに話しかけられます。婦人は、彼らを安全に神へと導く準備ができていると言いながら、彼らに自分自身を償いの犠牲として捧げるように求められました...

後に、特権を与えられた子どもたちのうちの一人、フランシスコは叫びました:『私たちは、神である光の中で燃えていました。そして私たちは燃え尽きませんでした。神はどんな方でしょうか? 言うことは不可能です。実際、私たちは人々に告げることは決してできないでしょう。』神は燃え尽きることなしに燃える光です。モーゼは燃える柴の中で神を見たとき同じ経験をしました...

 『もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である』(黙示録 12:3)ミサの最初の朗読からのこれらの言葉は、人間が神を脇へ押しやるとき、どのように幸福に達することができず、自らを滅ぼすことに終わるかを示しながら、善と悪との間の大きな戦いについて私たちに考えさせます...

ファチマのメッセージは、『その尾が天の星の三分の一を掃き落とし、それを地上に投げる竜』(黙示録 12:4)に関わることのないように人類に警告する回心への呼びかけです。」2000年5月13日の教皇ヨハネ・パウロ二世の説教から。

(8)Father M. Laffineur, Star on the Mountain,(Published with permission of ecclesiastical authority, November 20, 1967, Newtonville, New York), p.70.

(9)Bishop Rudolf Graber, "Why this Pall of Silence Regarding Fatima?", The Fatima Crusader, Issue 19, February-April 1986, pp.4-5; あるいは、またhttp://www.fatima.org/library/cr19pg04.htmlにあるウェッブの論考を見てください。

(10)Father Joseph de Sainte-Marie,O.C.D., "The Church's Duty in the Face of the Fatima Message", The Fatima Crusader, Issue 9-10; あるいは、またhttp://www.fatima.org/library/cr09pg08.htmlにあるウェッブの論考を見てください。

(11)Ibid.

(12) Frere Michel de la Sainte Trinite , The Whole Truth about Fatima - Vol.III:The Third Secret,(Immaculate Heart Publications, Buffalo, New York, 1990)pp.507.また、"Authentic Prophetic Interview With Sister Lucy of Fatima",The Fatima Crusaker, Issue 19, February-April 1986,p.11;あるいはまたhttp://www.fatima.org/library/cr19pg03.htmlにあるウェッブの論考をも見てください。

(13)「それにもかかわらず、私たちの信仰の従順が理性との調和のうちにあるために[ロマ 12:1]、神は聖霊の内的な援助に神の啓示の外的な証拠が付け加えられるべきだ、理知には神的な諸事実、特に諸々の奇跡と預言とが付け加えられるべきだ、とお望みになりました。それらは、神の全能と無限の知識を明白に示しているように、すべての人間の知性に適合した神の啓示の最も確実な証拠なのです。(教会法iiiとiV[以下を見よ])それゆえに、モーゼも預言者たちも共に、そして特にわれらの主キリスト御自身が、多くの最も明白な奇跡と預言とを示されました。そして使徒たちについて私たちは次のように読みます:「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。」[マルコ xvi,20]そしてふたたび次のように書かれています:「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」[2ペト i,19]

[教会法]III.もし誰でも、神の啓示は外的なしるしによっては信ずべきものとされ得ない、そしてそれゆえに、人々はただ各人の内的経験によってのみ、あるいは私的な霊感によってのみ、信仰へと動かされるべきだと言うならば、その人は破門されよ。

[教会法]IV.もし誰でも、奇跡は不可能である、それゆえに奇跡に関するすべての説明は、聖書に含まれるものであっても、架空のものあるいは神話的なものとして捨て去るべきである、あるいは、奇跡は確実には知り得ない、そしてキリスト教の神的起源は奇跡によって正当に証明されない、と言うならば、その人は破門されよ。」第一バチカン公会議、カトリック信仰に関する教義憲章、1870年4月24日。Dogmatic Canons and Decrees,(TAN Books and Publications)という書物のpp.224,235-236から引用。Dz.1790; Dz.1812; Ds, 1813;D.S.3009; D.S.3033; D.S.3034をも見よ。

(14)$9.95でファチマ・センターから入手可能。

(15)聖マルガリタ・マリア・アラコックはフランス・ブルゴーニュ地方のパレ・ル・モニアルにある訪問童貞女会の修道女でした。彼女は1648年から1690年まで生きました。彼女はまだ生存中の間でさえ聖人として認められていました。このように、当時のフランス王ルイ十四世は神御自身から来たものとしてメッセージに従うべきだったのです。

(16)聖マルガリタ・アラコックのメッセージの受取人であったルイ十四世の孫であるルイ十六世はフランスの革命派の人々によってその権力を剥奪され、後にギロチンで処刑されました。

(17)Father Joaquin Maria Alonso著、Fatima ante La Esfinge,Ediciones"Sol de Fatima", Madrid 1979, p.97. Sister Lucia dos Santos, Fatima in Lucia's own words, p.200を参照。

(18)災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らは闇を光りとし、光を闇と」する。(イザヤ 5:20)

(19)Memorias e Cartas da Irma Lucia,(Porto, Portugal, 1973, edited by Father Antonio Maria Martins)pp.414-415における1936年5月18日付けの手紙。

(20)Father Nicolas Gruner, "World Peace Depends on the Catholic Bishops and You", The Fatima Crusader,, Issue 11-12, May-July 1983, p.4;またhttp://www.fatima.org/library/cr11pg03.htmlにあるウェッブにも載っています。

(21)これらの点については、グルーナー神父の論考、"By This Means", Parts I-II, The Fatima Crusader,, Issue 23, September-October 1987, pp.2ff, 9ff;あるいはhttp://www.fatima.org/library/cr23pg02.htmlおよびhttp://www.fatima.org/library/cr23pg09.htmlにあります。

(22)教皇ヨハネ・パウロ二世はこう言われました:「ファチマ・メッセージの聖母のアッピールは福音書と伝統の全体に非常に深く根付いているので、教会はそのメッセージが聖母に対する一つの責任を課していると感じています。」L'Osservatore Romano(English Edition), May 17, 1982,p.3.また"13 May:Pope John Paul's Homily at Mass in Fatima ", The Fatima Crusader,, Issue 9-10, October-December 1982, p.7;あるいはhttp://www.fatima.org/library/cr09pg05.htmlにあります。

(23)First Vatican Council(1870), Dz.1830, D.S. 3063; Second Council of Lyon(1274), Dz.466..

2003/10/24 三上 茂試訳

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作成日:2003/10/24

最終更新日:2005/03/19

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