ファチマの聖母マリア

ロシア奉献への障碍:

ヴァチカン・モスクワ協定

The Fatima Crusader, Isuue 73, Spring 2003より

アティラ・シンケ・グイマリャエス著

編集者注:ファチマの聖母は、御自分の勝利とその結果としての平和の一時期を約束なさりながら、教皇が世界の司教たちと一致してマリアの汚れなき御心にロシアを奉献するように要求された。別の仕方でヴァチカン・モスクワ協定として知られているメッツ協定はこの奉献--ロシアの回心をもたらしたであろう、そして教会が今苦しんでいる現在のスキャンダルを阻止したであろう奉献--を教皇が遂行することに対する主要な障碍となってきた。

ボーニー(Borny)--メッツ(Metz)というフランスの町の郊外にある--の貧しき者の小さき姉妹たちの修道院の傍を通り過ぎる人々は修道院付き司祭ラガルド(Lagarde)神父の住宅において超自然的に重要なある事柄が起こったと想像することは決してできない。この宗教的な住宅のホールにおいて1962年8月--第二ヴァチカン公会議が開催される2ヶ月前--に、2人の高位にある人物の間で最も重要性を持った一つの秘密の会合が行われた。

一人の高位の人は教皇ヨハネ23世を代表するローマ教皇庁のユジェーヌ・ティッセラン(Eugene Tisserant)枢機卿であった。もう一人はロシア分派教会の名において語る主座大主教ニコディム(Nikodim)であった。この出会いは、すでに20世紀の教会のまさに歴史の軌道を変えることを準備されていた公会議の方向を変える重大性を持っていた。

ヴィッレブランヅ(Willebrands)枢機卿が第二ヴァチカン公会議の最後の日にニコディム主座大主教に伴われた。メッツ協定の破滅的な諸条件が満たされた。共産主義は公会議の公式諸文書の中で断罪されなかったし、また特殊的に言及されることもなかった。

この会合で決議されたそのように非常に重大性を持つ問題とは何であったのか? 今日知られている諸文書に基づけば、そこで決定されたことは、共産主義が第二ヴァチカン公会議によって断罪されないであろうということであった。

1962年に、ヴァチカンと分派的ロシア教会は一つの同意に達した。その同意によれば、ロシア「正教会」はどんなものであれ共産主義のいかなる断罪もそこでなされることはないであろうという条件の下で第二ヴァチカン公会議にオブザーバーを送ることに同意したのである。注1)

そしてそのような協定の諸結果がなぜそのように遠くまで及ぶそして重要なものであったのか? なぜなら、20世紀においてカトリック教会の主要な敵は共産主義であったからである。そのようなものとして、第二ヴァチカン公会議までは、共産主義は教導権によって何度も断罪されてきた。さらに、60年代初期には、新しい断罪はまったく損害を与えるものであったであろう。なぜなら、共産主義は国内的にも対外的にもその両面で重大な危機を経験していたからである。一方において、共産主義はUSSR内部で信憑性を失いつつあった。というのは、人民は共産主義のデマゴギーの45年間の恐るべき行政の結果にますます不満になっていたからである。他方において、USSRの外では、共産主義は自由諸国の労働者や貧しい人々にその旗印を取り上げるように説得することができなかった。実際、その当時まで、共産主義は一度も自由選挙を勝ち取ったことはなかった。それゆえに、国際共産主義の指導者たちは彼らの持っている権力を保持し、新しい征服の諸方法を実験するために政権の外観を変え始める時期であると決断した。それゆえ、1960年代に、ニキタ・フルシチョフ大統領は突然微笑し始め、対話について話し始めた。注2)このことは、もし教皇あるいは公会議が公式の断罪を発していたならば、共産主義運動にとって特に都合の悪い時であったであろう。その公式の断罪は共産主義政権をひどく害するか、あるいはおそらく破滅さえさせることができたであろう。

半ば秘密の協定

さまざまの論題を扱うための第二ヴァチカン公会議における自由について話しながら、ロマーノ・アメリオ(Romano Amerio)教授はいくつかの以前に公表された事実を明らかにした。彼はこう言った:「注目されるべき顕著なそして半ば秘密の点は、ヨハネ23世が数ヶ月前に同意した公会議の自由に対する制限である。モスクワの首座大主教はそれによって公会議にオブザーバーを送るようにという教皇の招待を受け入れる正教会との協定を結び、一方で教皇は彼の側で公会議が共産主義を断罪することを慎むというものである。交渉は1962年8月にメッツで行われた。そして時と場所のすべての詳細は、その司教区の司教であるモンシニョール・シュミット(Msgr. Schmitt)によって記者会見の場で与えられた。[Le Lorrain新聞、2/9/63]交渉は正教会を代表するニコディム首座大主教と聖座を代表する枢機卿聖省長官ティッセラン枢機卿によって署名された一つの協定において終わった。」

協定のニュースはフランス共産党中央ニュース特報France nouvelle、1963年1月16-22日号において、次のような言葉で与えられた。「世界社会主義体制は議論の余地のない仕方でその優越性を示しており、そして数千万人の人々の支持を通じて強力であるがゆえに、教会はもはや未熟な反共産主義に満足することができないのである。ロシア正教会とのその対話の一部として、[カトリック]教会は公会議においては共産主義体制に対するいかなる直接の攻撃もないであろうと約束しさえした。」カトリックの側では、日刊紙La Croix1963年2月15日号がその協定について、次のように結論しながら、報じた。「この会話の結果として、モンシニョール・ニコディムは誰かが、保証が公会議の非政治的な態度に関して与えられたという条件で、招待状を持ってモスクワに行くことに同意した。」

「モスクワの条件、すなわち、公会議が共産主義については何も言うべきではないという条件は、それゆえに、秘密ではなかったのであり、それの孤立した公表が一般公衆に対して何の印象も与えなかったし、また報道機関によって大々的に取り上げられず、また広められなかった。その理由は聖職者の間で一般であった共産主義に対する無関心なそして麻痺させられた態度のゆえであるか、あるいは教皇がその問題において沈黙を課す行動を取ったゆえであるかのいずれかである。にもかかわらず、その協定は、沈黙したものとはいえ、共産主義の断罪の更新の要求が共産主義については何一つ言わないというこの協定を順守するために拒否されたとき、強力な効果を持ったのであった。」注3)

このようにして、公会議は、資本主義と植民地主義に関して声明を出したが、時代の最大の悪、共産主義については特殊的に何一つ言わなかった。ヴァチカンのモンシニョールたちがロシアの分派的な代表者たちに微笑していた間に、多くの司教たちは監獄にいた。そして無数の信徒たちは聖なローマカトリック教会に対する彼らの忠誠のために迫害されるか、あるいは地下へと追いやられていたのである。

クレムリン/ヴァチカン交渉

ヴァチカン・クレムリン交渉についてのこの重要な情報は30 Diasの1989年10月号において公表された「ローマ・モスクワ協定の不思議」という論考において確証されている。30 Diasはメッツの司教、パウル・ヨーゼフ・シュミット(Paul Joseph Schmitt)によってなされた陳述を引用している。1963年2月9日に、Republican Lorrain新聞とのインタビューにおいて、モンシニョール・シュミットはこう言った:

「ニコディム大主教とティッセラン枢機卿の『秘密の』会合が起こったのはわれわれの地区においてでした。その正確な場所は[メッツの郊外の]ボーニーにある貧しい者たちの小さき姉妹たちのための指導司祭ラガルド神父の住居でした。ここで最初にロシア教会の高位聖職者たちの到着が言及されました。この会合の後、ロシア教会のオブザーバーの出席のための諸条件がベア(Bea)枢機卿の助手であったヴィッレブランズ枢機卿によって確定されました。ニコディム大主教は公式の招待状が公会議の非政治的性格の保証を伴って、モスクワに送られることに同意しました。」注4)

同じ情報源はまた、メッツ協定に関するモンシニョール・ジョルジュ・ロッシュ(Georges Roche)の手紙を転写した:「その協定はクレムリンとヴァチカンの間で最高の地位の人々で交渉された...しかし、私はあなたに請け合うことができる...第二ヴァチカン公会議にロシア正教会のオブザーバーを招待するという決定はモンティーニ枢機卿[後のパウロ6世]の激励でヨハネ23世聖下によって個人的になされた。モンティーニ枢機卿はミラノの大司教であったときにヴェニスの大主教の顧問であった...ティッセラン枢機卿は協定を交渉し、それが公会議の間守られることを確約する正式の命令を受けた。」注5)

この後しばらくして出版されたある書物の中で、ドイツの神学者ベルナルト・ヘーリンク(Bernard Haering)神父--Gaudium et Spesに対する反応のための会議で書記・調整者だった--はパウロ6世と公会議に共産主義を断罪するよう求めて、多くの公会議教父たちが署名した請願の「握りつぶし」のもっと深い理由を明らかにした:「およそ20数人の司教たちが共産主義の荘厳な断罪を要求したとき、モンシニョール・グロリユー(Msgr. Glorieux)...と私は罪滅ぼしのための山羊のように非難された。私が、明らかに政治的な断罪のように響いたこの断罪を避けるために可能なあらゆることをしたことを否定する理由は何もない。私はヨハネ23世がモスクワの当局者たちに、ロシア正教会のオブザーバーの参加を保証するために公会議は共産主義を断罪しないと約束されたということを知っていた。」注6)

スターリンの時代以来

そのような議論の余地のない資料からの諸事実はメッツ協定の効力について何らの疑いも許さない。それらはまた、メッツ協定の前、間そして後に何が起こったかについての似たような詳細を提供している、まったくの事情通の元イエズス会員、故マラキ・マルタン(Malachi Martin)神父によってThe Jesuitsという表題の書物において提示された情報に信憑性を与えている。

マルタンの著作において、国務長官枢機卿は、Statoというペンネームの下に、1942年から今日まで聖座によってクレムリンとなされた理解について告げている:

Statoは彼の尊敬すべき同僚たちに、彼がソビエトの交渉者、アナトリー・アダムシン(Anatoliy Adamshin)との教皇の二つの会合で現在の教皇と一緒であったことを思い起こさせた。その会合のうち最も最近のものはこのまさに1981年の始めの頃であった。教皇はソビエトに、教皇によってか、あるいはポーランドの位階あるいは連帯の指導者たちによってか、そのいずれによっても1962年のモスクワ・ヴァチカン協定を侵害するようないかなる言葉あるいは行動もないという保証を与えた。」

Satoは彼の聞き手たちに、1962年春遅くにユージェーヌ・ティッセラン枢機卿が教皇ヨハネ23世によって、一人のロシアの高位聖職者、ソビエト政治局あるいはニキータ・フルシチョフ首相を代表するニコディム主座大主教に会うために特使として派遣されたということを説明する必要はなかった。ヨハネ教皇は、ソビエト政府が次の10月に開かれるように設定された第二ヴァチカン公会議に出席するためにロシア正教会の2人のメンバーを許すかどうかを熱心に知りたがった。ティッセランとニコディムの間の会合はパウル・ヨーゼフ・シュミットの公邸で、次にフランス、メッツの司教の公邸で行われた。ニコディムはソビエトの返答を与えた。彼の政府は教皇が二つの事柄:彼の来るべき公会議がソビエト共産主義あるいはマルキシズムのいかなる断罪も発しないこと、そして聖座がそのようなすべての公式の断罪を慎むことを将来にわたって一つの原則とすること、を保証するならば、同意するであろう、と。

「ニコディムは彼の保証を得た。事柄はその後ヨハネ教皇のためにイエズス会のアウグスティン・ベア(Augustine Bea)枢機卿によって、モスクワにおいて最終的な協定が締結され、ローマにおいて遂行されるまで組織化された。それは第二ヴァチカン公会議においても、それ以来ほぼ20年にわたる聖座の政策においても成し遂げられたのである。」注7)

さらに、マラキ・マルタンは1962年のこのヴァチカン・モスクワ協定は、ピオ12世の教皇在位のときの1942年に行われた会話の機会での「聖座とモスクワの間の初期の同意の単なる更新」であったと「述べている」。彼はこう書いている。

「彼自身後にパウロ6世として教皇職を嗣いだヴァチカンのモンシニョール・ジョヴァンニ・バッティスタ・モンティーニ(Giovanni Battista Montini)がヨシフ・スターリンの代表と直接話したのはこの年のことであった。これらの話はソビエト独裁者およびマルキシズムに対するピオ12世の絶えざる猛烈な非難をおぼろげにさせることを目標にしていた。Stato自身それらの話に関与していた。彼は又1944年のモンティーニとイタリア共産党指導者パルミロ・トリアッティ(Palmiro Togliatti)の間の会話にも関与していた...Statoは、彼が思い出しているように、1944年8月28日のOSS Report JR-1022で始めながら、その問題についてAllied Office of Strategic Servicesからの報告を与えることを申し出た。」注8)

そのようなものが、そこで、エキュメニカルな第二ヴァチカン公会議での信じられない怠慢を説明するメッツ協定についての公式的な文書ならびに公式外の情報である。

われわれが考察する必要のあるいくつかの事実

1.カトリック教義は常に強調して共産主義を断罪してきた。もし必要であるならば、もっぱら反共産主義の教皇による文書から構成される小さな書物を出版することが可能であろう。

2.それゆえに、1962年から1965年までローマで行われた第二ヴァチカン公会議にとって20世紀における教会およびキリスト教文明の最大の敵に対するこれらの断罪を確証することが自然であったであろう。

3.このことに加えて、213人の枢機卿、大司教そして司教がパウロ6世にそのような断罪を公会議にさせるよう懇請した。後に435人の公会議教父たちは同じ要求を繰り返した。2つの請願が公会議の内的ガイドラインによって設定された時間制限以内に正式に提出された。それにもかかわらず、不可解なことに、いずれの請願も一度も議論にはのぼらなかった。最初の請願は考慮に入れられなかった。第二の請願は、公会議が閉じられた後に、その要求を託された委員会の長であるモンシニョール・アキル・グロリユー(Msgr. Achille Glorieux)によって「失われた」と申し立てられた。

4.公会議は共産主義に関するいかなる明白な非難もすることなしに閉幕した。なぜいかなる非難もなされなかったのか? 問題は一つの謎の霧に包まれているように思われた。後になって初めてその問題に関するこれらの重要な事実が明らかになった。

私の論考の要点は読者の考察のためにいくつかの異なった資料から情報を集め、提示することである。メッツ協定の諸決定を鼓舞し、命令し、それに従い、維持したカトリック高位聖職者たちの行動はどのように説明され得るのか? 私はその答を読者に残す。

脚注

1. Ulysses Floridi, Moscou et le Vatican, France-Empire, Paris, 1979, pp. 147-48; Romano Amerio, Iota Unum, K.C., MO: Sarto House, 1996, pp. 75-76; Ricardo de la Cierva, Oscura rebeli? en la Iglesia, Barcelona: Plaza & Janes, 1987, pp. 580-81.

2. Plinio Correa de Oliveira, Unperceived Ideological Transshipment and Dialogue, New York: Crusade for a Christian Civilization, 1982, pp. 8-15.

3. Romano Amerio, Iota Unum, pp. 65f.

4. 30 Dias, October 1988, pp. 55-6.

5. Ibid., p. 57.

6. 30 Dias, October 1989, p. 55.

7. Malachi Martin, The Jesuits ・The Society of Jesus and the Betrayal of the Roman Catholic Church, New York: Simon & Schuster, 1987, pp. 85-6.

8. Ibid., pp. 91-2.

9. The full story is found in The Rhine Flows into the Tiber, Fr. Ralph Wiltgen, pp. 272-278.

2004/04/08 三上 茂 試訳

作成日:2004/04/08

最終更新日:2004/04/08

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