ファチマの聖母マリア

聖人たちだけが教会を真に刷新するであろう

The Fatima Crusader, Isuue 58: Autumn 1998より

アンドルー・B. ホルヴァート神父、M. A.

実際、この20世紀の不道徳な放蕩においてはただ偉大な聖人たちだけが真にキリストの教会を刷新するであろう。私は「教会」という言葉を用いるとき、教会の成員、すなわち、聖職者、修道女そして平信徒を意味している。教会の教義に関しては、それらは宗教的無知の畑において限りない収穫を刈り取ってきた祈りのない、そしてリベラルな典礼的官僚主義者たちによって口火を切られた諸々の異端、法律上正当と認められた乱用、新奇さと革新で汚染されてきた。

「新しい」教会と「新しい」宗教はすべての規則と規制に反して生じた。1824年に亡くなったドミニコ会の聖痕を受けた人、尊者アンナ・カタリナ・エンメリック(Ven. Anne Catherine Emmerich)によれば、この「新しい」教会は聖人たちや天使たちによっては建てられないであろう。むしろ、それは人間的起源のものであり、そしてその中では混沌と混乱以外の何物も支配しないであろう。子どもでさえ、聖人が預言したことを正確に見ることができるであろう。リベラルな近代主義者たちは、自分たちが教会の偉大な刷新の先触れをしたと信じている。

私は「新しい」教会を「自由奔放に動き回る」教会と呼ぶ。そこではなにもかもことごとく動く。それは私に鞍とくつわをつけないで走っている馬を思い起こさせる。もはや何の抑制もない!あなたの好きなようにやりなさい、そしてあなたの好きなように信じなさい!しかし、今はもう誰が心配するのか? ルチフェルは目に余る不従順と宗教的無知のこの時代には大変陽気であるに相違ない。まことに、今は、宗教的に無知な者たちが十分な知識を持たない、あるいは誤った情報を伝える聖職者や修道女たちによって導かれるところへはどこへでも行く悪魔的な方向逸脱の時代である。盲人が盲人を導いている。そして彼らのすべてはあらゆる種類の誤謬の穴の中へ落ち込んでいる。教皇ベネディクト15世は言われた。「宗教の無知はすべての災難の源である。」そのことのゆえに、聖フランセス・ザヴィアー・カブリーニ(St. Frances Xavier Cabrini)によれば、「無数の霊魂は悲惨にも失われている。」

少年たちや少女たちは、もし彼らが宗教的な無教育の者たちであるならば、どうして司祭や修道女になることができるか? 聖ルイ・マリー・ド・モンフォール(St. Louis Marie de Montfort)は尋ねた。「人間にとって彼が知らないことを愛することは可能であるか?」もしイエズスとその御母が知られていないならば、どのようにして召命がありえようか? イエズスとその御母は、不幸なことに、リベラルな偶像破壊主義者、修正主義者そして刷新者たちによってわれわれの教会と教室から投げ出されてしまわれた。261年A. D. のカルタゴ第7公会議はこう宣言した:「異端者たちは反キリストであり、そしてキリストの敵である。」彼らは、聖アウグスティヌスに従えば、もし「一つの異端」を主張するならば、、かれらが主張することに関係なく、カトリック教徒ではない。「信仰における何らかの新奇さは異端の確実なしるしである。」(レランの聖ヴァンサンSt. Vincent of Lerins)。「悪魔は常に真理に反する何か新奇なことを発見している。」(教皇聖大レオ)そのことは、実際的にすべての司教区、小教区、修道院や女子修道院には無数のサタンの代理人たちがいるということを意味する。そうでなければ、異端者や背教者たちによって支配されている「教会」においてわれわれが今日見るすべての混沌と混乱をわれわれはどのように説明することができるか?

われわれの神学校が神学的および道徳的ごたまぜ--人間的な意見の寄せ集め--でいっぱいであるとき、われわれは召命のために祈るべきか。叙階される多くの志願者たちは、プロテスタント宗教改革の間に司祭服と修道服を捨てた者たちのような、ラ・ジョアボア神父なのである。彼らの学長が彼らに次のように言ったと私に言った元神学生たちの言葉は何と真であることか。「われわれはここで聖なる人間を欲していない。われわれは高度に教育された専門家を欲しているのだ。」しかしながら、幸いなことに、彼らは長くは続かなかった。このことは繰り返し証明されてきた。短期間のうちに、10,000人以上の司祭たちと50,000人以上の修道女たちが彼らの聖なる使命を放棄した。

昨年秋、合衆国のカトリック神学校の総数は、1992年の6,383校から1993年には6,244校に2,2%まで下落した。その下落は最も重要なグループ、すなわち、叙階の前の勉学の最後の数年において神学生である、神学コースの学生たちにおける急激な下落に由来している。彼らの数は3,178人から2,915人へ、1年間で263人あるいは8,3%の喪失である。しかし、神学生たちの生活が聖アントニオ・マリア・クラレットや聖ルイ・マリー・ド・モンフォールのような聖人たちの生活に基づいていないのであるから、人は何を期待することができるだろうか? 今日人々がたいてい見ているものは恥辱である。一人の年老いた靴職人がかつて私にこう言った:「われわれの司祭たちは今日浮浪者のように見える。」司祭たちが会衆のいるところで、一般人の服装で聖所の中へ現れるとき、その紳士は彼の判断において間違っているだろうか? しかし、彼はそのように考えることにおいて独りではない。ある日、私がミサ聖祭の後教会を去ろうとしていたとき、一組の男女が私に言った:「私はここに聖性を見ませんでした。」彼らは「集会の座長」("President of the Assembly")に言及したのだ。私は彼の持ち衣装がどのくらいの値段なのかを不思議に思う。私が司祭たちの代理をしたとき、私はかなり高価な衣装を見た。しかし、今日の現代的な修道女たちについてはどうであろうか? 彼女らの衣装、化粧そしてイヤリングはどのくらい高価なものなのか? 彼女らのうちの多くの者、特により魅力的な者たちは、企業の重役に仕える実際以上に美化された秘書のように見える。私は彼女らのライフスタイルは何に似ているのか不思議に思う。彼らは今は車を持っている。そして一般人の服装で、彼らは一緒に行こうと考えるどの人ともほとんどどこへでも行くことができる。私はこのことを想像しているのではない。なぜなら、あなたたちは、私が知っているのと同じように、そのことを知っているからである。

たとえ私があら探しをしているとしても、それならそれでよい。フランス、ラサレットの聖母は1846年にルチフェルが多くの悪魔たちと共に地獄から解き放たれるでしょうと預言なさった。信仰は、神に奉献された霊魂たちにおいてさえ、少しずつ失われるでしょう。彼らは、もし彼らがある特別の恩寵でもって祝福されるのでない限り、地獄のこれらの堕天使たちの霊を引き受ける、そのような仕方で盲目となるでしょう。いくつかの宗教的制度はすべての信仰を失うでしょう。そして多くの霊魂の喪失を引き起こすでしょう。諸々の聖なる場所が非神聖化されるでしょう。女子修道院においては教会の花(修道女)たちが、悪魔が自らをすべての者の心の王とするでしょうから、腐敗するでしょう、と。

司祭服[スータン]を脱ぎ捨てた司祭たちと同じように、修道女たちは修道服を脱ぎ捨てなかったか? 聖母が諸々の修道会に、彼らが受け入れる人々に対して警戒しなさいと警告された。なぜなら、悪魔は修道会の中へ罪人たちを導入するために彼のあらゆる悪しき策略に訴えようとするからである。なぜなら、無秩序と肉的快楽への愛は地球の至るところに広まるであろうから。1634年にエクアドル、キトの聖母は子どもたちが彼らの無邪気さを失うでしょうと預言なさった。召命はひどいものになるでしょう。司祭たちは、生活の神の道と彼の熱意とを放棄して、彼らの聖なる責任を放棄するでしょう、と。彼らはすでに責任を叙階されていない代理者たちに引き渡したのではないか? 私は御聖体を配り、そして祭壇へ立ち入る女性を見たいと夢見たことは決してない。

諸々の異端は19世紀の終わりころ、そして20世紀の大部分の間地上に広まるでしょう、人々は神の事柄にほとんど配慮しないでしょう、サタンが信仰のない人間たちのゆえに地のいたるところを支配するでしょう[とキトの聖母は預言なさった]。今日のわれわれの「新しい」教会人たちについてはどうであろうか? 彼らが礼拝する彼らの神は金である。

このことは陰気で絶望的だと見えるか? 何人かの司教たちや司祭たちは、教会は遙かに生き生きとしていると主張している。誰も皆今は大変陽気である。彼らは幾分カルワリオ山での異教の兵士たちや見物人たちに似ている。彼らは誰が十字架の上で死んで行くのかを理解しなかった。しかしそのとき以来時は変化しなかった。キリストの身体が十字架から下ろされたとき、その身体は清潔な亜麻布で包まれた。しかし今日キリストの身体が生意気なごろつきどもの汚れた手でひったくられるとき、そこにはいかなる尊敬のしるしもない。実際、まったく純粋なキリストをその神聖を汚す仕方で受け取る者たちの側では良心の呵責のいかなる現れもない。

イエズスはカルワリオ山で言われたことを彼らにも言うことがおできになるであろう。「父よ、彼らを赦し給え。彼らはそのなすところを知らざればなり!」「なぜなら、彼ら自身の悪が彼らを盲目にしたからである。」(知恵の書 2:21)われわれがヨブの書(38:15)のうちに読むように、彼らの弱さのゆえに光は彼らから取り去られた。

シエナの聖カタリナへの神の言葉に従えば、「善良聖なる牧者たち」は、たとえそれが力によってなされたとしても、神の教会を改革するであろう。今日のわれわれの教会における悪は、聖人への神の啓示によれば、「悪しき牧者たち」のゆえに広まる。彼らは矯正のための貧弱な実績を持っている。このことは特に今日の司教たちにとって当てはまる。私はそのような牧者たちに関して強調して自分の思うところを述べる。私は昨日叙階されたのではない。私は80歳である。そして52年間近く司祭職にあった。

しかしながら、私は絶望しない。なぜなら私は神の教会が「最後の時代」の偉大な使徒たち--彼らは教会をすべての神学的および不道徳な唾から清めるであろう--によって神の時において若返らせられるであろうと心から信じているからである。

2004/03/14 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/14

最終更新日:2004/03/14

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