ファチマの聖母マリア

ポルトガルの信徒への公開書簡

ファチマ聖堂におけるスキャンダルについて

The Fatima Crusader, Isuue 76: Spring 2004より

2003年10月に、世界中の忠実なカトリック教徒はファチマ聖堂で、聖堂主任司祭ルチアーノ・ゲッラによって主催された仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、正教会信徒、聖公会信徒そしてカトリック教徒たちの、これまでに前例のない「諸宗教間会議」が開催されたというニュースを読んでぞっとさせられた。ゲッラ神父はこう宣言した。

「ファチマの未来、あるいはこの聖なる聖堂での神とその御母との礼拝はそこで異なった諸宗教が混じり合うことができる一つの聖堂の創造を経験しなければならない。ポルトガル、そしてカトリック教会における諸宗教間対話は今なお萌芽的な局面にある。しかしファチマの聖堂はこの事実に無関心ではない。そしてすでに使命の普遍主義的場所であることに対して開かれている。」

Noticias de Fatimaおよび英語版の雑誌Portugal Newsにおいて報じられたこの発言は国際的な抗議の嵐を巻き起こした。それに答えてゲッラ主任司祭は一連の曖昧な声明を出したが、彼に帰せられた発言のどれ一つをも否定しなかった。

実際の否定なし

まったく反対に、コヴァ・ダ・イリアに建設されることになっている非常に醜い「現代的な」デザインの新しいバジリカについての話の中で、ファチマ聖堂のウェッブ・サイトにおけるゲッラ主任司祭の「公式の」答えはこう宣言した:

「そして、多くの他の聖なる場所においてすでに起こっていることの後に、われわれにとって都合がよいと思われるとき、この新しいバジリカがわれわれがどのように祈っているかを兄弟的な仕方で知りたいと望んでいるであろう他の諸信仰からの兄弟たちを受け入れることができるであろう。」

ゲッラ主任司祭は、カトリック教徒がファチマで神をどのように礼拝しているかを見るために新しいバジリカを訪問する他の諸宗教のメンバーたちよりも多くの何かあるものを確かに目論んでいる。

もし、それがゲッラ主任司祭が「異なった諸宗教がそこで混じり合うことができる一つの聖堂の創造」という文言によって意味したすべてであったのならば、そのような訪問を許すことが「われわれにとって都合がよいと思われる」瞬間を待つ必要はないであろう。なぜなら、それらの訪問はすでに今存在しているバジリカで毎日起こっているからである。また--もしそれがゲッラ主任司祭が意味したすべてであるならば--彼はその計画を「多くの他の聖なる場所においてすでに起こっていること」に結びつけたであろう。

なぜなら、「多くの他の聖なる場所においてすでに起こっていること」はまさに多くのカトリック教徒がファチマで間もなく起こるであろうと恐れていること:カトリックの聖なる場所を「諸宗教間の祈りの集い」やそこで、魔術師たちやアニミストたちを含むさまざまのセクトや非キリスト教諸宗教のメンバーたちが「彼ら自身の伝統に従って祈る」他のイベントのために用いること、であるからである。

神聖冒涜が拍手喝采される

実際、10月の会議のゲッラ主任司祭の来賓はインド、ヴァイランカンニにあるカトリックマリア聖堂のバジリカの主任司祭アルル・イルダヤム神父であった。その聖堂は1年にヒンドゥー教徒を含む数百万人の巡礼者を迎えている。そしてイルダヤム神父は聴衆に、「諸宗教間対話」のさらなる発展として、ヒンドゥー教徒たちが今やヴァイランカンニの聖堂の中で彼らの宗教的儀式を執り行っていると知らせることを喜んだ。ゲッラ主任司祭を含む聴衆はこの神聖冒涜に拍手喝采をした。

これらの人々は天主の第一戒:汝らわが前に異教の神々を持つなかれ、のような基礎的な何かあるものを忘れたのであろうか? 聖書は「異教徒たちの神々は悪魔である」(詩編 95:5)と教えている。ヒンドゥー教の多くの「神々」が悪魔であるということはすべての時代の最も偉大な宣教師たちの一人、聖フランシスコ・ザビエルによって実証された。

聖フランシスコは彼の若い生徒たちが「異教徒たちの偶像崇拝の実践」を完全に拒絶したことを見て大いに喜んだ。彼らはそのようにヒンドゥー教の悪魔の神々を忌み嫌ったので彼ら自身の両親が異教の儀式に参加すると両親を非難するのであった。そしてそのことを聖フランシスコに告げに来るのであった。

聖フランシスコが「村の外で誰かが偶像崇拝を執り行った」ということを聞いたとき、「彼はすべての少年たちを集めた...そして彼らと一緒に偶像が立てられた場所に行った。彼の生徒たちは粘土製の悪魔の像を粉々にうち砕き、唾を吐きかけ、踏みにじった。」聖フランシスコの伝記作者はこれらの子どもたちが「このようにして、彼らの両親が悪魔に栄誉を示した以上に多くの侮辱を加えた」と説明している。

異教の神々歓迎!

しかし、今状況は逆さまになっている:ヒンドゥー教の悪魔的な「神々」や他の異教的な諸々のセクトが、彼らの救いの唯一の箱船である一つの真の教会へ立ち帰ることを断固として拒否する異端者たちや離教者たちと並んで、カトリックの諸々の聖域の中へと歓迎されている。このことがゲッラ主任司祭が「多くの他の聖なる場所においてすでに起こっていること」という文言によって意味したことである。そしてこれは、まったく明らかに、ゲッラ主任司祭がファチマにおいて起こることを望んでいることである。

この点に関して、彼の恥ずべき発言の日以来ゲッラ主任司祭が明白に否定した唯一のことが、他の諸宗教のメンバーたちが新しいバジリカにおいて「われわれが礼拝する仕方で」参加するということである。

しかしゲッラ主任司祭がカトリックの礼拝に非カトリック者を与らせることを許すことを計画していたということを誰も非難しなかった。本当の関心--ゲッラ主任司祭が決して表明しなかった関心--はファチマの聖なる場所が何らかの仕方で非カトリック宗教そして異教的諸宗教さえの儀式や礼拝のために利用可能なものとされるということである。

ゲッラ主任司祭そのことを認める

2004年1月9日、彼の発言のほぼ3ヶ月後に、ゲッラ主任司祭は最後に、英語雑誌Catholic Heraldからのリポーターに、彼は実際「ポルトガル、ファチマの新しい聖堂は『そこで異なった諸宗教が混じり合うことができる』一つの場所であろう」ということを述べた、しかし彼の陳述が「文脈からはずされた」のだということを認めた。

しかしながら、その「文脈」は、インドのカトリック・マリア聖堂におけるヒンドゥー教の礼拝を許した一人のインドの司祭によって話しかけられた仏教徒、イスラム教徒、正教会信徒、アングリカン信徒たちの集いの機会におけるものであった!

その「文脈」はファチマ聖堂が間もなく重大な変化を経験するであろうというゲッラ主任司祭の保証であった。すなわち、ファチマにおける神の礼拝は「そこで異なった諸宗教が混じり合うことができる一つの聖堂の創造を経験しなければならないということである。」

その「文脈」は、「ポルトガル、そしてカトリック教会における諸宗教間対話が今なお萌芽的な局面にある」一方で、ファチマ聖堂が、彼によれば、「その使命の一つの『普遍主義的な場所』であることへとすでに開かれている」というゲッラ主任司祭の発言である。

その「文脈」は、それゆえに、今日のファチマは明日のファチマではなく、明らかにゲッラ主任司祭が目論んでいるものの一つの予告編であった10月の会議までは、以前にには見られなかった新しい「諸宗教間」ファチマであった。

ファチマのための彼の未来の計画

否、ゲッラ神父の発言は「文脈から外された」のではない。それは、自分自身の言葉が公衆によってよく受け取られなかったときに、その言葉の単純な意味を曖昧にしようとするあらゆる政治家の言い訳である。

--ゲッラ主任司祭が言ったこと、そして彼が言わなかったことに基づいて--彼がファチマで、カトリック宗教の他の諸々の聖なる場所において「すでに起こっている」と彼自身が述べていることを許すあらゆる意図を持っていることは明らかである。ファチマ聖堂のまさに主任司祭であるゲッラ主任司祭が偽りの諸宗教の儀式や礼拝によって聖堂が神聖冒涜されることを許そうと意図しているのである。

ポルトガルの聖なる信託

コヴァ・ダ・イリアはそこで3人の羊飼いの子どもたちが神の御母の、カトリック信仰へのロシアの回心の呼びかけを聞いたまさにその場所である。そこはおとめが世界の至るところでの御自分の汚れなき御心の勝利を預言なさった場所である。そこは、3人の子どもたちが、ただカトリック教会のみが彼らに与えることができる援助の欠如のために行った可哀相な罪人たちで満たされた地獄の幻視を見たまさにその場所である。この聖なる土地で70,000人の人々は人間の歴史において以前には決して見なかった公的な奇跡--すべての疑いを超えてファチマのメッセージを本物であると権威づけた一つの奇跡--を目撃した。

ゲッラ主任司祭が、ファチマのメッセージが支持しているあらゆることを完全に裏切りながら、神聖冒涜しようと計画しているのはこの聖なる場所である。そして、--もし信徒が立ち上がって彼および彼と協力している人々とを止めないならば--彼は成功するであろう。ここに、ポルトガルの信徒は神とその祝せられた御母の前に一つの特別の義務を持っているのである。

87年前に、神は20世紀とそれ以後のための最も重要性を持ったメッセージを持ってコヴァ・ダ・イリアへ他ならぬご自分のまさに御母を遣わされたとき、ポルトガルの人々に対してその特別の愛をお示しになった。ポルトガルの人々はファチマのメッセージの内容をよく知っている。しかし、われわれの現在の状況においてはメッセージの一つのしばしば無視されている部分を思い起こす必要がある。

教義を保て

「ポルトガルにおいては信仰の教義は常に保たれるでしょう、云々」。ファチマ第三の秘密の始まりを特徴づけるこれらの言葉と共に、おとめマリアはシスター・ルチアに、全能の神が広範囲の背教の時代にカトリック信仰を保つために一つの生きている信仰告白として役立つようにおそれ多くもポルトガルの人々を、世界中の他のすべての民族を超えて高められたのですと打ち明けられた。「云々」というシスター・ルチアの証拠によって示されたおとめ[マリア]の言葉が信徒に明らかにされなければならない一方で、ファチマの預言のこの部分が教会の多くの部分に拡がり、そして教会の位階のメンバーたちをさえ要求する信仰の喪失に属しているということは明らかである。

ファチマはすべての人々によって守られなければならない

4世紀のアーリア派の危機の間、聖アタナシウスのような少数のよい司教たちを除いて実際上カトリック位階全体が、キリストは真にそして完全に神ではないという異端によって誘惑され、あるいは混乱させられていた(教皇はこの危機のほとんどの間流刑されており、異端の広がりを止めるために何もすることができなかった)ときに、信仰をを保ったのは単純な平信徒たちであった。

ファチマのメッセージはもう一つのそのような危機の時が教会を見舞うであろうという一つの警告である。われわれは目で見る人が誰でも見ることができるように、まさにこの瞬間にある危機の中を生きているのである。すなわち、スキャンダル、信仰の喪失そして徹底的な背教がすべての大陸において教会を苦しめている。そして今やまさにファチマ聖堂の主任司祭がその聖堂を偽りの諸宗教の礼拝へと開くことを計画しているのである。

現在の危険における重大な義務

にもかかわらず、ポルトガルの人々は神の御母であるおとめに、そしてこのようにしてファチマに聖母を遣わされた神に近い者としてとどまっている。毎年全ポルトガル人口の6分の1の人々がファチマに巡礼をしている。地球上で他のいかなる国も神に対するそのような献身を示していない。聖母は、信仰の教義がポルトガルにおいては常に保たれるでしょうと言われたとき、正しく預言なさったのである。

しかし信仰なき世界における信仰の一つのしるしとして神がポルトガルの人々を選ばれたことはそれと共に一つの重大な義務を負わせることになる。なぜなら、われらの主御自身が警告なさったように:「多く与えられた者は多く請求される」(ルカ 12:48)からである。まさにポルトガルの人々が神によってそのように大きな好意を受けてきたがゆえに、彼らは神の恐るべき審判に至るときにはより高い水準を要求されるであろう。また誰もポルトガル人であるということだけによって、人は信仰への最終的な堅忍不抜の保証を持っていると考えてはならない。誰もが恩寵の状態から落ち、神の審判によって断罪され得るのである。

もしポルトガルの人々が、偽りの神々の礼拝に利用可能とすることによってファチマ聖堂を神聖冒涜するこの悪しき計画に抵抗しないならば、誰がそうするであろうか? もしポルトガルの人々がファチマにおけるこの冒涜を起こらないようにすることに失敗するならば、誰が彼らよりももっと厳しく裁かれるであろうか?

まさにこの瞬間に神の聖なる御母は87年前に訪れられたこの場所を眺め下ろしておられる。聖母はファチマで聖なる場所の防衛に立ち上がるようポルトガルの人々を待っておられる。聖母は教会におけるこの大きな危機の真っ最中に、そこで信仰が常に保たれる場所としてのその運命を実現するようポルトガル国民を待っておられる。

そしてファチマのために計画されていることは教会における高い権威を持った人々の承認を得ているのだ、それはすべて第二ヴァチカン公会議によって始められた「諸宗教間対話」の部分なのだ、と言う人々によって思いとどまらせられてはならない。

あなたの教義を救え--あなたの霊魂を救え

ファチマのおとめ御自身の言葉がわれわれに教えているように、信仰の教義は保たれなければならない。教会の教導職によって3度不可謬的に定義されたそれらの教義の一つは、カトリック教会の外にはいかなる救いもないということである。そうでなければなぜファチマの聖母はロシアの回心と聖母の汚れなき御心の勝利(そしてこのようにしてカトリック信仰の勝利)を求めるために来られたであろうか? しかし今われわれは、ゲッラ主任司祭によってファチマ聖堂自身のウェッブサイト上で、ファチマのメッセージが単に「他の諸信仰との対話」への招きであったと告げられているのである。これはとてつもなく大きな一つの嘘--神の御母の言葉の完全な歪曲--である。

われわれの聖なる宗教はある日から次の日へと変わるものではない。教会が断罪してきたことを、今承認することはできない。彼らの信仰を知っているカトリック者は、それが司祭であれ、司教であれ、枢機卿であれ、あるいは教皇でさえあれ、誰かの悪い模範に従っているという言い訳をすることはできない。われわれはシスター・ルチアが現代における「教会の悪魔的な方向感覚喪失」と呼んだものに屈することを自らに許すことはできない。われわれは、われわれの信仰のまさに基礎をくつがえすために、「従順」という偽りの概念、権威への偽りの服従を許すことはできない。

この公開書簡に付属している請願は、世界でも最も聖なるカトリックの場所の一つにおける脅かされた忌むべきものに対するあなたの反対を表明するためにあなたにとっての一つの手段である。われわれは、あなたたち、ポルトガルの人々に、この請願のコピーであなたの小教区の司祭、あなたの司教、そしてファチマ聖堂の主任司祭を攻め立てるよう懇願する。そのことは、神にそのように愛されたこの偉大な国家における信仰のための闘いの始まりを特徴づけるであろう。

そしてその闘いがここ、ポルトガルにおいて勝利するとき、世界中の聖なる教会の回復はまもなくやって来るであろう。なぜなら、聖母は最後に聖母の汚れなき御心が勝利するでしょうと約束なさらなかったか? その勝利を確実なものとするために、ポルトガルの人々はわれわれの現在の暗闇から抜け出す道を導かなければならない。それは神と神の聖なる御母の前でのあなたの義務である。


教皇ヨハネ・パウロ2世およびポルトガル司教たちへの請願

教皇聖下、および司教閣下

私たちは、イスラム教徒、ユダヤ人、仏教徒、ヒンドゥー教徒、および非キリスト教諸宗教の他の信奉者たちを含む、すべての種類の非カトリック者たちによって、等しい立場で礼拝するために、このカトリックの聖なる場所を開いて、ファチマにおける聖母の聖堂を「諸信仰間の」施設に変える一つの計画についての最近の新聞報道によって深く不安にさせられ、心配させられています。私たちはまた、ゲッラ主任司祭の最近の「否定」がファチマにおける新しい諸信仰間計画をただ確証しているにすぎないということを心配しています。

忠実なカトリック者、そしてわれわれの祝せられた御母マリアに献身した子どもらとして私たちはこの誤り導かれたそして無法な計画に対する私たちの絶対的な反対を明確にそして率直に主張したいと思います。私たちはそれを聖書、伝統そしてファチマで世界にもたらされた神の御母の実際のメッセージに反するものとして非難します。私たちは、あなたたちに以下のことを懇願しかつ願いながら、あなたたち、教皇とポルトガルにおける教会指導者たちに向かいます:

  1. 聖母の聖堂をいわゆる「諸信仰間」施設に変えるいかなる計画および/あるいは努力に対して直ちに止めるよう宣言すること

  2. そのような施設のための計画、資金集めに従事しているすべての人々に、直ちに即刻、信徒たちの間にスキャンダルと不一致を巻き起さざるを得ないこの不敬虔な活動を止め、それから手を引くように命令すること

  3. 聖母の聖堂が常にそしてただ聖なるカトリックの場所であるということを主張し、非カトリック的な性質の礼拝儀式は聖堂敷地においては許されないし、また受け入れられないと宣言すること

  4. この無法な計画の背後の指導的な力として報道機関が同定した聖堂主任司祭、ルチアーノ・ゲッラ神父の側での誤った管理と異端の嫌疑についての報告を調査すること。

イエズス、マリア、ヨゼフの聖なる御名において尊敬を込めて、謙遜に提出します。

以下に署名した私はこの請願に同意します

氏名                              

住所                              

都市      州/県     郵便番号      

電話       Eメール         

この「諸信仰間」施設を止めるために約束したロザリオの数     

署名                              


2004/05/05 三上 茂 試訳

作成日:2004/05/05

最終更新日:2004/06/25

An Open Letter to the Faithful of Portugalへ

 マリア様のページ

 トップページ

inserted by FC2 system