ファチマの聖母マリア

ファチマに関連する「党の路線(当局の方針)」

The Fatima Crusader Issue 69, Winter 2002より

ポール・クレイマー神父 B. Ph., S.T.B., M. Div., S.T.L.(Cand.)

編集者注:以下の論考は2001年10月ローマでのファチマ・平和会議でなされた講演の編集された写しです。

ファチマの聖母はロシアがその誤謬を世界中に広めるでしょうと言われました。ロシアの誤謬とは何でしょうか? マンフレート・アドラー神父によってその著『フリーメーソンの反キリスト教的革命』(Die Antichristliche Revolution der Freimaurerei、英訳はThe Anti-Christian Revolution of Freemasonry)において証明されているように、もしわれわれがそのことを考察するならば、二十世紀初期のすべての共産主義革命の偉大な指導者たちはフリーメーソン・セクトのメンバーでした。彼らはロッジにおける彼らの兄弟たちからそういう人々として認められ、賞讃されていました。

ヴァチカンのフリーメーソン潜入

ロシアの誤謬はフリーメーソンの誤謬です。故マラキ・マルタンはその著書の一つの中で--彼はそれは皮肉なことだと言っていますが--世界のすべての政府の中で、ヴァチカンは、フリーメーソンが最も身を隠している、世界の世俗的な政府においてよりも多く身を隠している場所であると思われるという事実に言及しました。

聖マキシミリアノ・コルベが1917年に最初にローマに来たとき、フリーメーソンの公的な示威行動である一つのパレードを見ました。彼らはプラカードを担いでいましたが、それらのプラカードにはこう書かれていました。「サタンがヴァチカンから支配するであろう。教皇はサタンの奴隷となるであろう。」彼らはそのことをどのようにして実現しようとしたのでしょうか。彼らの計画は何だったのでしょうか。最高の横柄さでもって「われわれは聖なる従順によって教会を破壊しようとしている」と宣言したのはフリーメーソン自身でした。

このことは、--彼らは非常に明瞭に表明したのですが--、権威の地位を獲得するように位階の中の高位へと潜入し、フリーメーソンの計画と政策を促進し、また神から与えられた教会の権威の役職を乱用することによってそれを強化するというかれらの意図を意味しています。神の法に従って支配し、地上に神の王国を促進するための権威は変形され、誤用されるでしょう。その役職は--と彼らは告知しました--彼ら自身が「反教会」counterchuch、antichurch と呼ぶものを普及させるために用いられるであろう、と。

ファチマの聖母がロシアの誤謬が世界中に拡がるでしょうと言われたとき、そのことは当時それほどよく理解されることはできなかったでしょう。当時、三人の子どもたちは確かに何がロシアの誤謬であるかを知りませんでした。シスター・ルチアは、覚え書きを書いたときもちろんロシアの主たる誤謬が何であるかをはっきりと理解していました。

第三の秘密の中にあることはなおそれ以上のことを明らかにしています。ホアキン・アロンゾ神父は第三の秘密について教会における上位位階の諸々の失敗、欠陥の見地から語りました。

シスター・ルチアは誰かが誤りである第三の秘密にについて公式の発言をしたときには常にそれを正す用意ができていました。彼女の沈黙は人目につくものです。彼女はアロンゾ神父の第三の秘密についての発言についてはどんな訂正もしたことがありません。神父はファチマの聖母の御出現に関する諸文献を蒐集するために任命された公式の専門家peritusでした。アロンゾ神父は、第三の秘密は伝統主義者として言及されている教会内の人々の嫌疑を晴らすであろうと言いました。シスター・ルチアはその言明について何か訂正をしたことはありませんでした。

私の一友人であるイタリアの司祭は、数年前にイタリアの外ではよく知られていないが、イタリアの聖職者にはよく知られているある雑誌の大部の号を持っていました。その雑誌は『生ける教会』Chieza Vivaという名前です。友人はその雑誌の中から、フリーメーソンが彼ら自身の文書において、彼らがどのような変化を聖なる典礼の中に起こるようにけしかけているかを、どのように語っているか1920年代に遡って、読んでくれました。

第二ヴァチカン公会議以後、聖なる典礼においてなされた諸変化は、まさに事細かな点にいたるまで、1920年代にフリーメーソンによって告知された計画の実現、遂行、実行でした。

ローマ式典礼においてなされた諸変化はフリーメーソンのロッジの扉の背後で処方された諸変化でした。マラキ・マルタンが言ったように、フリーメーソンはヴァチカンに潜入したのです。

ロシアの誤謬はフリーメーソンの誤謬です。しかしロシアの誤謬を広める道具が聖座における権威の最高の地位を不相応にも占める近代主義聖職者たちであろうなどと誰が考えることができたでしょう。

私は明らかにいかなる名前をも上げることはできません。私の一つの情報源、ヴァチカン内部の一人の高い地位にある聖職者が数年前に私にこう語りました。「私たちの手は縛られている。私たちは何もすることができない。枢要な地位にいるのはフリーメーソンだ。」

党の路線(当局の方針)

 ウラディーミル・イリッチ・レーニンはかつてこう言いました。「嘘は神聖であり、欺瞞はわれわれの主要な武器となろう。」それゆえ、私たちがプラウダ--それがソビエト共産党の公式機関であったとき、ロシアが当時ソビエト連邦として知られていたとき--のすべてのバックナンバーを見るとき、そのことは何も驚くことはないのです。私たちはプラウダが嘘で満ちていたことを見るのです。

ところで、プラウダという名前の意味は何でしょうか? 真理です!ここに「真理」という名の新聞があり、そしてどのページも常に嘘で満たされていました。これは驚くべきことではないのです。レーニンは「嘘は神聖であり、欺瞞はわれわれの主要な武器となろう」と言ったのです。

ところで、もし私が「嘘つき!」と書いてある大きな貼り紙を胸につけたシャツを着ているならば、あなたに私が真理を告げていると確信させることはできないでしょう。もし私が「私は嘘つきです。そして嘘つきとして今どうか私を信じてください。これから私があなたに告げようとしていることは真理です」とあなたに言うならばどうでしょう。私は、馬鹿でさえ、私を信じないと思います。なぜなら、これは明らかに馬鹿げたことだからです。

ですから、嘘が神聖である人にとって、彼の聴衆に彼が真理を語っているということを確信させるためには、彼は最初に真理を再定義しなければなりません。聖書は、イザヤ書の中で呪いを宣告しながらこう言っています。「悪を善と呼び、善を悪と呼ぶ人に禍あれ。 暗闇を光りとし、光を暗闇とする人に禍あれ。」(イザヤ5:20)虚偽の暗闇は真理、真理の光の見せかけを与えられています。これがロシアの主要な誤謬の一つです。

それはロシアから始まったのではありません。それは共産主義から始まったのではありません。それは悪魔から始まったのです。聖パウロは光の天使に扮する悪魔について語っています。もっと具体的に言えば、聖パウロはわれらの主イエズス・キリストの福音に言及しているのです。「たとえわたしたち自身であれ、天からの使いであれ、わたしたちが宣べ伝えたものと違ったことをを福音として宣べ伝えるなら、その者にのろいがあるように。」(ガラ1:8)それは、嘘によって欺くために真理の外見を与えて、光の天使に扮して現れる悪魔です。これは「嘘は神聖である」そして「偽りは真理である」という誤謬がその起源をもつ場所です。

私は合衆国軍隊の将軍であるダニエル・グレアム将軍と話したことを思い起こします。彼はあるソビエト将校と共にかつてロシアにいたことがあり、そしてそのソビエトの将校が彼にこう言ったことがあると言いました。「あなたは平和を欲しないのか?」そして彼は答えました。「いいえ、欲しません。なぜなら、私はあなたが平和をどのように定義するか知っているからです。」彼らがちょうど話しているとき、ライフルを担いだ兵士たちを示した巨大な掲示板の側を車で通りました。そしてそこには大きな見出しがありました。"Pobieda kommunista eta mir"これは英語では"Communist Victory is Peace"(共産主義の勝利が平和である)です。

さて、共産主義の教説(マルキシズムの教え)に従えば、全世界を服従させ、全世界を征服し、全世界を共産主義者にするために、あなたは戦争を遂行し、革命を起こし、欺瞞のあらゆる可能な手段を用いる--全面戦争--。そしてひとたび戦争が行われ、共産主義が地球全体において勝利するとき、あなたは「平和」と呼ばれるものを手にするのです。ですから、レーニンはこう言ったのです。「たとえあなたが世界の四分の三を破壊しなければならないとしても、それは問題ではない。世界の四分の一の生き残りが共産主義者である限りは」と。これが平和についての共産主義者の定義です。実際には平和とは何でしょうか? それは聖アウグスティヌスによってもっともよく定義されています。「平和とは秩序の静けさである」と。

どちらの定義が正しいでしょうか? それは主観的な評価の問題ではありません。聖トマス・アクィナスは"ens et verum convertuntur"と説明しています。これは真理は存在と言い換えられ得るということのスコラ哲学的な言い方です。客観的に実在的であるものは客観的に真なのです。

私たち皆が白い色を見ています。しかしもし共産主義革命を促進するために私にとって白は黒であると言うべきであるならば、共産主義者の教説に従えば、白は黒なのです。真理とは何であるか? マルキストの教説に従えば、真理とは共産主義革命を促進するところのものであるのです。それは真理です。共産主義革命を促進するものとは何であるか? 党の路線であると決定されたものです。党が真であると指定したもの、それが真です。もし党があなたに黒は白であると告げるならば、そのときそれがあなたが信じなければならないことです。なぜなら、それは党によって決定されたからです。

今や、私たちはロシアの誤謬がヴァチカンの国務省の力を通じてどのように世界中に広められているかを見始めることができます。

不実な高位聖職者たちの政治的計画

クリストファー・フェララ氏はすでにあなたたちにファチマのメッセージ、ファチマの聖母によって要求された奉献、そして第三の秘密の開示に関する適切な引用を指摘しました。それらの詳細を繰り返すつもりはありません。むしろ、動機の問題を述べようと思います。教会--聖書に従えば、「真理の柱」(1テモ 3:15)である教会--における権威の地位にあるある人はなぜ、嘘を広めるためにその教会の役職を用いようとするのでしょうか? ある人はなぜこのことをなそうと望むのでしょうか?

その答えはもちろん、嘘が彼らのアジェンダ(政治的行動予定)を促進するということです。このことはファチマのメッセージとどのように関係しているのでしょうか? 権威の地位にある人々が、事実は第三の秘密が抑えられたときにその全体が開示されたと私たちに告げることにおいて詐欺行為を犯したのはなぜか、その理由にすべて関わっているのです。権威の地位にあるこれらの人々が、ファチマの聖母によって要求されたロシアの奉献は、事実はなされなかったときに、なされたと主張するのはなぜか、その理由が明らかになります。

あなたたちは皆「ファチマの『秘密』の第三部を公開することが権力と悪に対する悲劇的な人間的欲望によって特徴づけられた歴史の一時期を終わらせる」という(2000年6月26日の文書『ファチマのメッセージ』という文書においてベルトーネ大司教によってなされた)まったく滑稽な陳述が(フェララ氏によって読まれて)再び引用されたのを聴きました。ロシアの奉献は、その主張によれば、果たされ、なされました。ファチマの聖母は神が、この奉献の結果として世界のための平和とロシアの回心とを約束なさっておられると言われました。そして今ヴァチカンはその奉献はすでになされていると言っています。そして、今は教皇が第三の秘密のこの幻視を明らかにされたので、あなたたちが権力と悪に対する欲望を持っている歴史の時期の終りなのです。今や私たちはマリアの汚れなき御心の勝利のうちに生きているのです。

この会議は昨日、2001年10月7日に始まりました。昨日起こった諸事件は今日すべての新聞に載っています。私はローマの日刊紙イル・メッサジェロの第一面を見、"E Scoppiata la Guerra"という見出しを見ます。それは「戦争が勃発した」という意味です。

戦争が勃発した

しかしラッツィンガー枢機卿とモンシニョール・ベルトーネによれば、ソダノ枢機卿に従えば、わたしたちは平和が勃発したと信じなければならないのです。そのことをニューヨークの人々に告げてください。そのことをアフガニスタンの人々に告げてください--平和が勃発したと-- なぜ馬鹿げたことなのでしょうか? なぜなら、これはヴァチカン国務省、ソダノ枢機卿の党路線(当局の方針)であるからです。

ソダノ枢機卿の展望に従えば、ファチマのメッセージは除かれなければならないのです。そしてそれゆえにファチマのメッセージを促進する人々は、必要であるどんな手段によってでも沈黙させられなければならないのです。そして、そのことを実現するために--ファチマのメッセージを促進する人々が沈黙させられ、軽蔑され、世間の眼に信用を傷つけられるように--、策略と欺瞞のあらゆる手段が用いられるでしょう。

それが彼らの計画です。しかし彼らは勝利しないでしょう。聖母が勝利なさるでしょう。聖母の汚れなき御心が勝利し、ファチマのメッセージは沈黙させられないでしょう。

グルーナー神父は詐欺的な党路線と戦っている

このことは、なぜヴァチカン当局が、グルーナー神父は職務停止処分を受けていないのに、受けているという宣言をするのかという問題に私たちを導きます。教会法典の条項(第221条第3項)は、教会法上の処罰は教会法の規範に従ってのみ課せられ得ると非常に明瞭に述べています。これは、もしあなたが教会法に反する命令、市民法に反する命令を与えられるならば、教会法第22条に従って、その命令あるいは要求は無効であるということを意味します。それに従う必要はないのです。

さらに、教会法の条項は、もし誰かが一つの合法的な命令を与えられ、しかし、従うことが物理的あるいは道徳的に不可能である、あるいは従うことが非常に都合が悪くさえあるならば、そのときその法自体は、その人間は義務を免除される(教会法第1321条第1項および第1323条第4項を見よ)と宣言しています。彼は従順を免除され、そしてそれゆえにいかなる教会法上の処罰も課すことはできないのです。

教会法典の諸条項において白黒の決着をつける教会法の諸規範に従えば、グルーナー神父は職務停止の状態にあると考えることはできません。また職務停止処分判定の宣言もアヴェリーノ司教区へ帰るようにという命令に従うことを拒否しているという申し立てられた違反についてもグルーナー神父に課すことはできません。なぜなら、その命令は、法に従えば、無効だからです。

たとえそれが合法的な命令であったとしても、諸状況の下ではグルーナー神父にとって従うことは不可能です。なぜなら、それはイタリア市民法に反しているからです。そしてそのほかに、たとえ彼らが彼にアヴェリーノに帰るために必要なあらゆる書類を与えるとしても、彼はなお職務停止処分を受けることはできないでしょう。なぜなら、彼はこのことが彼にとって乗り越えることができない諸困難を生み出すであろうという非常に重大な困難を指摘したからです。

Apostolic Signaturaの返答は何だったでしょうか? 彼らはこれらの問題に関するいかなる議論にも参加することを拒否しました。彼らは単純にそれらを拒否すると述べています。いかなる説明もなしに、彼らは非常によくまとめられたグルーナー神父が作成したすべての反論を拒否しています。グルーナー神父の答弁における議論がどれほど論理的かつ首尾一貫したものであっても、法廷は彼の反論に答える努力を何らせず、単にそれ以上の何の説明もなしにそれらを拒否するだけです。

このことに対する理由は何でしょうか? もし私たちが過去の歴史を見るならば、マルセル・ルフェーブル大司教によってなされた教会法上の訴えの例があります。私たちは聖ピオ十世会(すなわち、その会の抑圧)およびよく知られているように、エコーヌにあるその神学校からの教会法の認知の取り消しに対する反応において、大司教が、教会法のあらゆる専門的手続きを満たし、手続き的な理由で命令は無効であるとその命令に訴えながら、どのように一つの教会法上の訴えをなしたかを思い起こすことができます。それは黒と白のように明白なものでした。1917年教会法典のカノン493は、三つ以上の司教区においてすでに存在している聖ピオ十世会のような教会法上の自主独立体は一地方司教によって抑圧することはできないと明白に述べました。それはただ聖座の正当な権限を持つ諸権威によってのみ有効に、合法的に抑圧され得るのです。

しかしながら、ヴァチカンの誰も聖座の権威を行使する責任を引き受けることを欲しませんでした。彼らは地方司教に責任転嫁することを望みました。そしてそれゆえにヴァチカン当局者たちはスイスの地方司教にこう告げました。「あなたがそれを閉鎖するよう命令を下しなさい。」この命令は明らかに、いかなる合法的な議論も越えて、無効です。それは非常に明白に無効です。法は非常に明瞭に、ただふさわしいヴァチカンの権威だけがそれを閉鎖するよう命令を与えることができると明示しています。それなのに、事実はその神学校を閉鎖する命令は地方司教によって与えられたのです。

それゆえに、ルフェーブル大司教はApostolic Signaturaの最高裁判所に訴えを起こしました。彼ははっきりした、明白な権威の乱用、無効である法律上の行為--そして明らかにそうですが--に対して訴えたのです。それゆえ、もしルフェーブル大司教の事例が法廷において聴かれていたならば、彼は勝訴し、そしてエコーヌにおける彼の神学校は開いたままになっていなければならなかったでしょう。

当時のApostolic Signaturaの長官はサバッティーニ枢機卿でしたが、彼は、サバッティーニ枢機卿にその訴訟を聴かないように命令したほかならぬ国務省長官ジャン・ヴィヨ枢機卿からの電話をどのように受けたかを語りました。そしてそれゆえに法廷はその訴訟は聴かれ得ないと言いました--彼が「より高い権威」と呼んだものによって与えられた秘密の命令のゆえに--それは国務省の枢機卿にほかならなかったのです。この「より高い権威」という用語は教皇を意味しません。

それは教皇ではありません。なぜなら、教皇庁文書における標準的な用語法は通常「教皇の命令によって」あるいはそれは教皇である、そしてただ教皇のみであるということを明瞭に指示する同様な用語を用いるからです。「より高い権威」という用語は教皇を示すためには用いられたことはありません。

1967年のヴァチカン内部での再構築(それについて後に説明しますが)以来、聖座のさまざまの部局dicasteriesの内部的な働きのための特別の法令の中には、国務省が最も合法的な訴えを阻止するこの種の秘密の裁定を発することができるという条項があります。

それゆえ、不正がどのように大きいものであろうと、法律違反がどのように明白であろうと、問題ではないのです。法廷は、国務省の枢機卿からの秘密の囁きによって、その訴訟は聴かれてはならない、あるいはそれは正反対の裁定をしなければならないという命令を与えられるのです。それから、もしSignaturaにいる人々が彼らの命令に従おうとするならば、彼らは反対の裁定を与えるでしょう。そして彼らは黒は白であると言うでしょう。

これは、事実、グルーナー神父の訴訟において起こったことです。グルーナー神父は彼の弁護、彼の訴え、そしてApostolic Signaturaの最高裁判所まで行った彼の依頼において、アヴェリーノに戻れという彼に対する命令が無効であるということを、いかなる疑いの影をも越えて、非常に単純明快なものとしました。それは教会法上不法であり、それは乱用でした。諸状況の下で、司教はアヴェリーノに戻ることを彼に命ずることはできませんでした。司教はイタリア共和国の諸法律を侵害するよう彼に命ずることはできませんでした。教会法第22条は、司教がイタリア共和国の移民法を破るように一司祭にそのような命令を与えることを禁じています。

それゆえに、そもそもの始めから、ab initio、その命令は教会法上無効だったのです。そしてそれゆえに、グルーナー神父はいかなる教会法上の処罰でもっても処罰を与えられることはできないのです。彼は不法な命令に従うことができないがゆえに神法によってa divinis 職務停止を受けることはできないのです。

裁判所によって与えられた評決は何だったでしょうか? 彼らは単純にグルーナー神父の議論はいかなる基礎をも完全に欠いていると主張しました。そしてそれゆえに、彼は職務停止を受けていると考えるべきである、と。法廷はなぜそのように明らかな、目に余る嘘である裁定をすることができるのでしょうか? その答えは、彼らが国務省、ソダノ枢機卿によって彼らに命じられた党の路線(当局の方針)に従っているからです。

このことはどのようにして起こったのでしょうか? 教会法と道徳神学には"Nemo tenetur ad impossibile"--「誰も不可能なことをする必要はない」--という表現があります。グルーナー神父は不可能なことをするように命じられました。彼はアヴェリーノに行き、不法外国人としての永住をするよう--教会法典、特に教会法第22条の侵犯において--命じられました。

服従が罪であるとき

あまりにもしばしば私たちは人々が「あなたは従わなければならない。あなたの司教はあなたの長上であり、あなたは彼に従わなければならない」と言うのを聞きます。

もしあなたが承認を受けた道徳神学の提要のどれかを見るならば、Plummer、Merkelbach、他のすべての人々の中に、「無分別な従順の罪」と呼ばれるものを見出すでしょう。ときには従順は徳ではありません。これはカトリックの道徳的教説です。ときには、従うことは一つの罪です。例えば、もしある貧しい家庭において、父親が娘に売春で体を売るように命令するならば、彼女は神の法によって、彼女の合法的な上長である父親に抵抗し、従わないことを義務づけられています。

そしてもし司教が司祭に、市民法と教会法を破るように命令するならば、彼にとって従うことは不可能です。なぜなら、もし彼が従うならば、彼は罪を犯すからです。それがカトリックの道徳の教えです。私たちは従順についてのカトリック的な理解を持たなければなりません。ルフェーブル大司教が彼の司教によって彼の神学校を閉じるように命じられたとき、彼の反対はこうでした:その命令は不法に、教会法上から無効である。そのことは日の光のように明白である。そして彼はカノン、彼の施設のようなそのような施設にとって、ただローマだけ、ただヴァチカンだけ--すなわち、ローマにおける管轄権を有している権威--が神学校を抑圧する布告を発する権力を持っていると言っている教会の法を引用しました。

しかしヴァチカンはそうすることに難色を示しました。彼らはその命令を発することを拒否しました。彼らは権威を委任しました。しかし彼らはその権威を委任する力をもっていませんでした。なぜなら、法それ自体によって、より高いローマの権威はこの命令を与えることができる唯一の権威であるということが明示されていたからです。それゆえ、その命令は不法なものであり、無効なものでした。ルフェーブル大司教は神と人の前に、従わないあらゆる権利を持っていました。なぜなら、それは不法な命令だったからです。

地方司教の答えは何だったでしょうか? それは私が決して忘れないであろう答えです。ルフェーブル大司教はそれを引用しました。彼は地方司教が彼に言ったことを説明しました。「従順、従順、従順!公会議、公会議、公会議!」これは思慮のないことです。

それゆえ、ある司祭がある上長の権力の乱用に抵抗するときにはしばしば、理解力を欠いている人々はこう言うでしょう。「しかし神父様、教会は民主主義ではありません。あなたはあなたの上長に従わなければなりません。なぜなら、教会は一つの位階だからです。あなたは目下であり、あなたの司教はあなたの上長です。あなたは従わなければなりません。」

これらの人々が理解していないことは、不法な命令に抵抗する人々は教会が民主主義であるということについてどんな幻想も持っていないということです。それは民主主義的な原理ではありません。それは法の一点です。教会が民主主義ではないことは確かに真です。しかし、同時に教会は専制主義でもありません。教会は実際一つの位階で、それゆえに、教会は従属性の原理に従った法によって支配されているということです。

ある適切に秩序づけられた位階においてあなたは至高の権威を持っています。そしてローマカトリック教会においては教皇、ローマ教皇がplenitudo potestatis 権力の十分性を持っています。彼は絶対的な権力は持っていませんが、しかし地上における最高の権力、全教会に対する、またあらゆる個人の霊魂に対する普遍的な裁判権を持っています。彼は彼の下にある人々に権威を委任します。彼が司教の地位に上げる人々、彼らに教皇は彼らの固有の裁判権を割り当てます。そして司教の下に、司祭たちは彼らの教会法上の使命を割り当てられます。そして彼らは彼らの固有の裁判権を与えられます。そして法に従って、権力、責任、権利そして最高の権威あるいは最低の助任司祭、小教区助手、平信徒の特権に関する法から、すべての者は法によって決定され確立された諸権利を持つのです。

各人は権威と責任の彼自身の固有の領域を持っています。そして教会の法とわれらの主イエズス・キリストの道徳的教えと一致して彼の責任と権威を行使しなければなりません。もし彼らがこれらのいずれかの境界線を踏み越えるならば、彼らはその権威を乱用するのです。彼らはその権威を越え出るのです。そして彼らは彼らの権威の限界を超えることを命令する権力は持っていません。聖トマス・アクィナスは、もし人が法に従属していないならば、従う義務はない、そしてその立法者の裁判権の下にいないならば、あるいは法あるいは規定がその立法者の権威を越えているならば、人はその立法者の裁判権の下にはいないと説明しています。

例えば、もしグルーナー神父が、彼はハイデラバードの大司教区においてinncardinateされているので、彼の司教ではないアヴェリーノの司教によって職務停止を宣告されているならば、--グルーナー神父はアヴェリーノ司教の部下ではない--彼はその法に従うように従属させられていないのです。なぜなら、アヴェリーノの司教はグルーナー神父に対するいかなる裁判権をも持っていないからです。

もしニューヨーク・シティの枢機卿大司教がニューヨークの街--そこでは彼はその裁判権を持っています--に住居を持つようにグルーナー神父に命令したとするならば、グルーナー神父の答えはこうでしょう:「しかし閣下、あなたは私に対する裁判権をお持ちではありません。私はあなたの司教区には属していません。私はあなたに従う必要はありません。私は私の司教に従います。」

聖トマス・アクィナスはあなたが従属していない命令や人に従う必要はないと説明しています。従順には限界があります。それらはあの従属性の原理に一致した権威の限界と限定によって制約されています。ローマ教皇の教会法上の統治の下にある人々は彼らの制約された権威の領域に割り当てられています。そしてそれらの下に、さらに制限された権威を持つ人々がいます。しかし各人は彼らに与えられている権力の程度に応じて統治しなければなりません。それはキリスト御自身によっって与えられた権力のうちに根づいています。

ここに私たちは従順についてのカトリックの教えを持っています。それは何か制約されたものです。専制主義はまったく異なった何かです。教会は完全な社会として構成された一つの神的な制度です。それゆえに、教会は専制主義ではなくて、カトリックの道徳的教説と教会法に従って適切に統治されています。教会法と道徳神学に従って、グルーナー神父は従う義務を負わされることはできませんし、また彼は不法な命令に応じないことのために法的に有効に処罰されることもできません。彼が処罰され得ないのは、教会法典カノン221、第3部において、「キリスト信者は法に一致して以外には、いかなる教会法上の処罰も彼らに対して課されることはないという権利を持っている」と非常に明瞭に表現されているからです。

そのことはまた、私たちがカノン22--教会は適切な市民法の義務を引き受けると言っている--と呼んでいる教会の普遍的な法規をも含んでいます。イタリア共和国の市民法は適切な書類と永住のためのヴィザの発行を要求しています。もしそれが与えられないならば、そのときグルーナー神父は教会法を破ることなしに、そしてそれゆえに、神の法を破ることなしに従うことはできません。彼にとって従うことは一つの罪であるでしょう。しかし彼はローマ・クリアの要人たちによって教会の法を破り、神の法を無視し、そして彼らがかれにするように告げていることをするように命令されてきたのです。これは私たちが専制主義と呼んでいるものです。

構造改革されたローマ・クリアが乱用を招いている

教会は専制主義ではありません。専制主義は一つの野蛮な制度です。エウリピデスが「野蛮人たちの間では一人を除いてすべては奴隷である」と言っているように、われらの主は「異邦人の頭たちはその人民を支配する」(マテオ20:25)と言われました。イエズスは弟子たちに「あなたたちの間では、そうあってはならない」と言われました。しかし、私たちは今日の教会において、現在の教会の現実がローマ・クリアの要人たちが東洋的な専制政治をもって彼らの臣下を支配しているということを見ます。不幸にも、1967年頃の教皇パウロ六世の命令によるローマ・クリアの構造改革(それは実際はジャン・ヴィヨ枢機卿によって立案され遂行されました)以来、さまざまのローマ・ディカステリーの長たちは専制君主のように振る舞うことができたのです。

第二ヴァチカン公会議以前には、ローマ・クリアは独裁制としての構造を持っていました。教皇は聖座の長でした。一方聖座の日々の事務を預かった枢機卿は支配権において第二位でした。他の諸ディカステリーは低次の地位のものでした。そしてそれら自身の権威と裁判権を持つ一方で、再び従属性の原理に一致してそれらは聖座に従属していました。そして聖座は直接的に教皇の下にありました。

この配置は教会の神的な憲法に完全に一致していました。教皇、地上におけるイエズス・キリストの代理は命令の鎖の頭でした。第二ヴァチカン公会議の後、ヴィヨ枢機卿はローマ・クリアの構造改革を企みました。ゴルバチョフがソビエト連邦において彼のペレストロイカの計画を告知するずっと以前に、教会はローマ・クリアにおけるそれ自身のペレストロイカを経験したのです。聖座は改名されました--しかし、もっと重大なことは--聖座はクリアにおけるその最高の立場を失いました。クリアは国務省長官が、かつての聖座を含む他のすべてのディカステリーの上に位置づけられるという仕方で構造改革されたということです。改名され構造改革されて、それは今や信仰教義聖省と呼ばれました。そして教皇はもはや長ではありません。長であるのは枢機卿でした。

教皇と彼の聖座の下での以前の配置に従えば、信仰と道徳はクリアの諸政策を決定する抜群の要素でした。国務省の枢機卿と彼のディカステリーの下での公会議後の配置においては国務省-それは党の路線(当局の方針)です--国務省の政策--それが諸政策の定式化における決定的な要素です。

聖座は国務省に従属するものであり、そしてそれゆえ教皇の役割は、彼に「決定事項」fait accompliとして提示される諸々の裁定に対するひとつのゴム印として、承認を与えるひとつの表看板の機能へと引き下げられています。教皇は国務省の独裁権に奉仕する表看板たることに引き下げられました。

フリーメーソンの登録の中にジャン・ヴィヨの名前が見出されました。ヴィヨ枢機卿の死後、彼の私的な図書室の中に、フリーメーソンの伝統を維持したことに対して彼を賞讃するグランド・マスターからの手書きのメッセージが見つかりました。司祭である一友人が私に言ったように、「少なくとも一つの領域において彼は伝統的でした。」この講話の最初に、1917年ローマにおいて聖マキシミリアノが見たことに関して私が言ったことを思い起こしてください。彼は、サタンがヴァチカンから支配し、そして教皇が彼の奴隷となるように、そして彼らが聖なる従順によって教会を滅ぼすように、ヴァチカンに侵入するという彼らの意図を告知するプラカードを掲げるフリーメーソンを見ました。今私たちはその理由を理解し始めることができます。嘘が神聖なものとなりました。世界のマルキストたちとレーニン主義者たちの間では何らの驚きでもありませんでした。しかし、イエズス・キリストとその福音の真理の名において今独裁している人々が、聖書の呪いをものともせずに、黒は白であるとすることは実際非常に奇妙なこととして見られるべきことです。そして、聖書はこのことをなす人を呪っています。なぜならそれは倒錯しているからです。

再び、真理とは何でしょうか? ロシアの誤謬に従えば、真理とは革命を促進するものです。ロシアの誤謬は、私が指摘したように、フリーメーソンの誤謬です。「真理」はフリーメーソンの行動予定表、新しい世界秩序を促進するものです。

マンフレート・アドラー神父は私が以前に引用した彼の著作『フリーメーソンの反キリスト教的革命』の中に、彼らの計画が教会を教義のないキリスト教に変えることであるということが説明されているフリーメーソンの信頼できる情報源を引用しています。カトリック信仰の諸々の決定された教義に反対するすべての他の宗教や諸教派との統一と一致のうちにカトリック信者がいることができるエキュメニズムの精神における教義から自由な教会。これは教会を滅ぼし、そしてそれを一つのフリーメーソン的実体へと変えるフリーメーソンの道理に反した計画です。

このことが遂行されるとき、一つの変形が起こるでしょう。かつてローマ・カトリック教会であると考えられていたものは実際にはローマ・プロテスタント公会議的エキュメニカル教会となるでしょう。ファチマの聖母のメッセージにおいて、明らかにされなかった第三の秘密において、シスター・ルチアはそのことについて語りました。彼女の多くの手紙の中で私たちの時代について、彼女は教会の中に起こった「悪魔的な方向逸脱」に言及しています。

ラッツィンガー枢機卿は数年前信仰とキリスト信者の生活に対する危険について語りました。レイリア-ファチマの司教は全大陸における背教、信仰の喪失について語りました。ラッツィンガー枢機卿はファチマの第三の秘密について、他の多くのマリアの御出現において明らかにされてきたことに一致するものとして語りました。それらの御出現は大きな懲罰に言及しています。好結果の聖母の御出現は20世紀の末に起こるすさまじく破壊的な戦争について語っています。20世紀は最近終わったばかりです。そしてすべての徴候に従えば、いま、世界はすさまじい世界大戦へ向かって急速に動きつつあります。

ちょうど1年前、党の路線(当局の方針)の指令、聖なる嘘に従えば、私たちはラッツィンガー枢機卿とベルトーネ大司教によって権力と悪によって特徴づけられた歴史の時期が今や終わったと告げられました。しかし、私たちがこの会議を始めたその日に合衆国とアフガニスタンとの間に戦争が始まりました。そして地方的な戦争そしておそらく世界大戦になる恐れがあります。

ファチマ対党路線

ファチマのメッセージはソダノ枢機卿、国務省の党路線とは全く対立するものです。ソダノ枢機卿の党路線に一致して、ヴァチカンの東方政策の誤った道徳、エキュメニズムの誤った教義--それは信仰の教義を破壊するフリーメーソンの政策です--は偽りのキリスト教--フリーメーソンが「教義のないキリスト教」と呼ぶもの--を創り出すために、信仰の教義を覆い隠そうとして用いられています。その結果、私たちは「一人の主、一つの信仰、一つの洗礼」(エフェ4:5)のカトリック的統一を持たなくなるでしょう。そうではなくて、むしろ私たちはバベルの塔のような統一、一つの大きな議会、諸教会の世界会議のようなすべての宗教と教会諸制度の統一を持つでしょう。

教会の統一のような重要な教義上の諸問題に対するソダノ枢機卿の立場は何でしょうか? それはカトリック的な統一--一人の主、一つの信仰、一つの洗礼の統一--でしょうか? それとも、それはプロテスタント的エキュメニカルな統一--私たちは異なった諸教会における異なった諸宗教ではなくて、私たちは皆キリスト信者であると主張する異端的な見解--でしょうか? この異端的な見解に従えば、私たちは皆キリスト教会に属するが、しかし私たちはその教会のさまざまの諸教派なのです。

ソダノ枢機卿が地上における最も悪名高い異端者の一人、ハンス・キュング神父--彼はイエズス・キリストの神性を否定していてさえ職務停止処分を受けなかった人です--を公式に賞讃したということを指摘するだけで十分だと私は思います。彼は一冊の書物を書きましたが、それは教皇の不可謬性という決定された教義に反論しています。真のカトリック者、そのカトリック信仰において正統である者は誰一人ハンス・キュングのような異端者を敢えて賞讃しないでしょう。ただネオ・カトリック、近代主義者だけがそのようなことを敢えてするのです。

ファチマのシスター・ルチアは教会の新しい方向について、教会における悪魔的な方向逸脱として語りました。1960年代に遡って、その新しい品種が無毒のラベルという偽りの外観の下に彼らの毒を注意して売り歩きました。戦略は大成功でしたので、多くの人々は今でもなお、そのことを理解していません。「刷新」、「展望の変化」「新しい態度」「新しい接近の仕方」はカトリック信仰からの教義上の変更を明瞭に、器用に、そして誤った仕方でカモフラージュしてきた用語です。トリエント信仰告白の荘厳な宣言によって明瞭に教えられているように、カトリック信仰の外では救われることは不可能なのです。カトリック信仰の外では救われることはできません。人は信仰のすべての箇条、信仰のあらゆる決定された教義を告白しなければなりません。そうでなければ人は信仰の徳を持たないのです。

ですから、私は20世紀の最大の歴史家の一人、ヒューバート・ジェディン神父の引用でもって[話を]閉じようと思います。教会における悪魔的方向逸脱について語っているのは、単にファチマの第三の秘密に言及しているシスター・ルチアだけではありません。この悪魔的方向逸脱が達成しつつあることの本性を理解するために、近代の一等の歴史家の一人である偉大なヒューバート・ジェディン神父はすでに1968年にドイツ司教たちに宛てた手紙の中で、一つの新しいプロテスタント革命が教会の中に起こりつつあると指摘しました。

以下は彼が言っていることです:

「私たちは、今日教会分裂の内的プロセス、一つの宗派(すなわち、一つの教派)の形成が数年ではなくて数十年続いたということを知っています。メランヒトンとカルヴィンは、古い信仰の支持者たちが教皇制主唱者たちと中傷されていた間に、彼らの生涯の終りまで自分たちはカトリックであると主張していました。その信徒は長い間ミサや彼らの聖人たちにすがりついていました。そしてルターの教導権によって導入された教会規制は多くのカトリック的な慣行を、行列や巡礼をさえ、引き継ぎました。単純な信徒の大部分は宗教改革が教会の改革ではなくて、異なった基礎の上に建てられた一つの新しい教会の建設であるということを決して理解しませんでした。振り返ってみると、人はそれゆえに、教会の分裂はそれが存在しないという幻想によってさえ成功すると主張しなければならないのです。その幻想はローマの中に、ドイツ司教団の中に、多くの神学者の間に、大多数の聖職者の間に、そして人々の間に広く拡がっていました。現在と当時との間の平行関係は明らかです。その最も内的本質における教会の現在の危機は16世紀における危機と同じように、信仰における不確実性と方向逸脱の問題です。」

終わり

04/01/05 三上 茂試訳

作成日:2004/01/05

最終更新日:2004/03/19

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