ペスタロッチーにおける宗教と道徳

三上 茂

(Jan.1960)


目次

序論
第一章 ペスタロッチー教育学における宗教の位置
 第一節 教育の理想
 第二節 宗教と教育
第二章 ペスタロッチーの宗教観
 第一節 ペスタロッチーの神
 第二節 超越神と内在神
 第三節 原罪及び贖罪に対するペスタロッチーの態度
 第四節 ペスタロッチーのキリスト観
 第五節 愛--神の愛と人の愛
 第六節 宗教と道徳
第三章 ペスタロッチーの宗教教育論
 第一節 直観・感情の重視
 第二節 家庭教育の重視
 第三節 宗教教育における礼拝・祈祷
結論


序論

「八十年の生涯、一つの理念、即ち『基礎陶冶』による人民の再興という現代の最も稔り豊かな理念のために自らを捧げた人、この理念が、その心の中で凡ゆる普通の人間感情、凡ゆる利己的な感情に取って代っていたかに思われる如き唯一の感情となっていた人、常に貧民、弱者、無知者を、彼等の恐るべき悪徳にも拘わらず愛しつづけた人、人々が恐れられる前に人々を教育し、教化しょうと欲した人、燃えるが如き人類愛によって人類に奉仕する凡ゆる方法を試み、神学者になったり、法律家になったり、農民になったり、工業家になったり、作家になったり、文筆家になったり、学校教師になったりした人、或いは人民によって、或いは王侯によって崇拝されつつ、自尊心によっても、野心によっても、はた又家庭の利害によっても、その目的から逸脱したことのなかった人、その最後の日に至るまで最も稔り豊かな、最も奇矯な、最も独創的な天才に加えるに、幼児の如き心安さ、完全な信頼、無能なまでの純真さをもってした人」注1 この人こそ、ペスタロッチーであるとドゥ・ガンは述べている。

私はこの偉大な思想家かつ実践家であったペスタロッチーについて、彼の多くの面のうち、特に宗教道徳の面について考えてみたいと思う。現代では宗教というものを何か時代後れのもの、或いは有害無益のものと考えなければならないのだろうか。わが国において、このように断言する多くの人々がいるが、一方このような問題に対して、敢えて目を向けようとはせずに、そっとしておくという態度を取る、より多くの人々がいる。これらの人々にとって、道徳教育とはつまるところ他人のする通りに生活し、他人の迷惑になることをしないように教育することにはならないだろうか。教育と宗教との関係は現在のわが国においては、私立学校を除いて、分離政策が取られ、従って大部分の公立学校教師は、宗教が人間陶冶に不必要である、少なくとも不可欠のものではないと考えているように、私には思える。フランス、或いはアメリカの公教育における教育と宗教の分離政策を、ただ表面的にのみ解釈して、宗教は既に教育に対して何らの関連をも持たなくなっていると考えるのは、あまりにも皮相的なものの見方である。社会的な背景を考慮に入れることなく、宗教と教育の分離という言葉だけから、宗教と教育とがもはや関連をもたないものであると考えるのは、早計に失するものであろう。私は人間が人間として存在する限り、宗教--種々の宗教ではなく、真の宗教--は必要であり、教育はもちろんのこと、その他凡ゆる分野においても、宗教がそれらの根底に無ければならないと思う。

ペスタロッチーが彼の全教育学体系のうちで宗教に如何なる位置を与えているかということについて、多くの教育学者の見るところは一致しているように思われる。私はこの論文の第二章をとって彼の宗教観を稍々詳しく見てみたいと思う。このペスタロッチーの宗教観が如何なるものであるかという問題については、色々異なった見方が取られているようである。私は私の理解できる範囲で、彼の宗教観を跡づけてみようと思っている。

 第三章において、ペスタロッチーが如何に宗教教育を行い、また行われるべきであると考えていたかということについて考察してみたい。


第一章 ペスタロッチー教育学における宗教の位置

 第一節 教育の理想

 ペスタロッチーは教育の理想を人間諸力の調和という点においた。ペスタロッチーにとって、「人間は神の被造物であり、この地上に凡ゆる道徳的、身体的、知的な能力の萌芽をもって現われ来るものであり、この能力は若し世界が彼に提供する自然の方法により、且つ神の恩寵により活動せしめられ発達せしめられるなら、創造者の指し示す運命を人間にりっぱに完成せしめ得るもの」(注1)である。彼は基礎陶冶の理念をもって、自然の過程の再建と、人間の本性や諸力の発展・改良を企図した。人間の自然性はその根底において人間を動物から区別し、しかも動物と共有する性質を支配するところのものである。であるから、基礎陶冶は人間性が動物的なものを従属させるようなやり方で、心情と精神と身体とを発達させることを目標としなければならない。この発達は一定の過程を辿らなければならない。そしてその過程というのは自然の過程でなければならず、また不変の法則によって支配されなければならない。このような法則は人間の自然性に即応したものであり、人間の心情と精神と身体との間の調和を維持するものである。これら三つの側面のうち一つでも無視するような教育は偏した教育であり、自然に合致しない故に永続的な結果を期待できない。それは自然の調和的発達に致命的な影響を与える。教育の理想は人間諸力の均衡にあるが、人間諸力の均衡は諸力のそれぞれの自然的な発展による。諸力はその各々の独自な法則に従って発展する。そしてこの法則は心情、精神、身体に対してそれぞれ異なっている。ところがこの人間の諸力はただ使用することによってのみ最も簡単に発展せしめられ得る。つまり愛と信仰との道徳生活の基礎はこのような諸徳の実行によってのみ、思惟の知的生活の基礎は思考することによってのみ、産業生活の基礎は身体的諸力を使用することによってのみ、合自然的に基礎づけ得るというのである。人間は各自の持つ諸力の自然性に従ってそれらを使用し練習して、発達させ改善させる。これらの人間の諸力は初めは胚種として存在するのであるが、これを使用しょうとする意欲が達成されるごとに強くなって行く。教育の理想は、故に、「われわれの諸力の素質及び能力の発展する自然の進行に対して、われわれ人類の賢明な愛、洗練された悟性、及び明敏な技術心を付与することができるようにしようとする」(注2)ことである。言いかえれば、人間の相異なる諸力を使用して、それをりっぱに完成させるように規制して行くことこそ基礎陶冶の理念なのである。ペスタロッチーは「自然の方法」を本質においては聖なるもの、神的なるものと見る。しかし、もしそれが放置されるならば、動物的本能の優勢によって混乱させられ、逆行させられる。人類の発展の基礎をなす「自然の方法」は、この故に、神的な要素によって鼓舞されなければならないとする。

ペスタロッチーは人間の能力を、先にも述べたように、心情と精神と身体とに分け、それぞれに応ずる教育作用を、道徳的陶冶、知的陶冶、身体的陶冶と名づけたのであるが、以下簡単にそれらを眺めてみよう。

一 知的陶冶

ペスタロッチーはここでいくつかの原則をかかげている。彼は思惟の出発点を直観、即ち世界がわれわれの内官及び外官に対して生産した直接的な印象に置いている。「世界は雑然たる種々雑多の感覚的印象の大海」(注3)であり、教授の仕事はこれらの印象を除去し、一つの事物と他の事物とを判断し、互いに類似し関係あるものを想像の中で連合させ、この結果すべての感覚的印象をわれわれに明瞭にし、それによってわれわれの心野中に判然、明確なる観念を生ぜしめることにある。これは「直観から概念へ」という原則である。ペスタロッチーによれば、「直観から出発する精神の陶冶」は「合自然的な言語教授にその最初の技術的援助を求めなければならない」(注4)のである。しかし精神の陶冶は、その本性上、さらに重要な基礎的技術手段を要求する。それは語と数及び形の三つである。このように、ペスタロッチーは、思惟能力を発達せしめるのに役立つ基礎的な要素を語、数、形、いわゆる「直観のabc」に求め、これらを教授の三つの基本点とした。「これらの要素を最も単純な方法で、且つ心理学的に漸進的な秩序のもとで、子供の精神に与えることが教育の仕事である」としている。

次にペスタロッチーは「物的遠近の法則」を挙げている。これは教授材料の選択と配列に関して最も手近なもの、従って最も有力に作用するものから漸次遠いものに及ぼすということである。最後に彼は「反復の原理」を挙げている。彼はこの法則を特に言語の発展に適用している。

二 身体的陶冶

 ペスタロッチーはこの身体的陶冶を単なる身体の熟達に止めず、技術、実際的知識をもその目的とした。知的陶冶が主として外からの印象を精神的陶冶たらしめるのに対し、身体的陶冶は内なる状態の外への発動に関するものである。彼は「技術力の合自然的な形成に対する本質的な刺激は、身体の面から見れば、自ら自己を発展しようとするこの力の自我衝動のうちに存する」(注5)と言っている。われわれの感官や四肢を使用しょうという身体的本能は動物的に鼓舞されるものであるが、しかしこの本能は人間の自然性の優越性を示す道徳的な要素と知的な要素とに従属しなければならない。彼は、「直観のabc」が必要であると同様に、「技能のabc」も必要であることを指摘する。身体的素質を調和的に、人間において発展させることが要求されるが、しかもそれを陶冶された熟練にまで高めなければならないのである。身体的活動は知的道徳的内容の外的活動であると見ることもできるが、それは同時に内なる精神と心情に働き返して行くものである。労作主義と言われるのも、それは単に仕事をするというだけの意味を持つものではなく、精神的面を持ち、精神のこもった作業は人間の内面を教化するということを意味するのである。

三 道徳的陶冶

ペスタロッチーにおいては道徳的陶冶も直観の上に成立する。彼は『メトーデの本質と目的』において、「知識の陶冶及び身体の陶冶よりも一層重要でありながら、部分的には一層人に知られていないのは心情の基礎陶冶の原理と手段とである」(注6)ことを嘆き、「道徳の本質従ってまた道徳的発達のすべての手段の本質は、われわれの内部の直観力と純粋性との確保に基礎を置いている」ことを強調している。(注7)また「人類の道徳の感能の最初の萌芽がでてくる感情は、われわれの内部的直観の本質的基礎であり、従って愛に対する、感謝に対する、そして信頼に対する基礎陶冶は内部的直観に対する基礎陶冶であり、そして内部的直観に対する基礎陶冶は感覚的自然の法則の上に本質的に立っている道徳への基礎陶冶に外ならない」とも言っている。(注8)ここで注意しておかなければならないことは、ペスタロッチーが直観と言い感情と言って強調しているのは概念的なものを否定しているのではなくて、感情或いは直観が概念に先行すべきことを言っているということである。ペスタロッチーが「内部的直観」という言葉で言い表すとき、そこに意味されるのは感覚器官の前に立つものとしての直観、即ち外部直観に対するものとしてである。

さて、ペスタロッチーは道徳的陶冶においてこの内部的直観が人間的関係に根ざさなければならないことを指摘し、特に母と子との関係を重視している。母の本能の単なる感性的行為でさえも、それが過不足なく行われることによって、子供がそれに満足するとき、ここに愛、信頼、感謝などの道徳的感情が生まれる。道徳的発達にとって欠くべからざるものは、このような要求の満足からでてくる魂の平和である。われわれは、このような魂の平和によってこそ、家庭におけるよき親子関係、共同生活の秩序などが体認される基礎を培うことができると期待し得るのである。

次に、ペスタロッチーは道徳的陶冶において言葉のみによる教授を排した。道徳は単なる知識ではない。道徳的陶冶の源泉は、一切が生活であり行為であるところの過程である。道徳に対する唯一の道は生活である、従って、「生活は陶冶する」ということは道徳的陶冶の大前提であるということは正しい。しかしながら、またペスタロッチーが次のように述べていることも忘れられてはならない。「知識の基礎陶冶においては、ある対象の感覚的印象はこの対象を表す言葉が児童に教えられるより前に児童の精神のうちに存せねばならないように、児童の精神のうちにある道徳的概念の基礎をなす感情はその道徳的概念を表す言葉が児童に教えられるより前に児童の精神のうちになくてはならない。」(注9)

ペスタロッチーの初等教育の理想は、以上述べたように心情、精神、身体の諸力を自然の法則に従って、その完全な調和にまで発展させることである。これら三つの側面の底に流れているものは、「合自然の原理」であり、「直観の原理」であり、また「生活は陶冶する」という原理である。そしてその最も根本に、これら心情、精神、身体の諸力の調和発展という「調和の原理」が支配しているということができる。

「合自然」という言葉は、最初コメニウスによって言われ、後ルソーによって深い意義を与えられたが、ペスタロッチーにおいては更に深化され高揚されている。彼は人間の発達をしばしば植物の生長にたとえ、「人間の天性の真のオルガニスムス」に立ち返るべきことを強調している。植物がその種子のうちに発展への契機を持っているように、人間固有の本性も内から発動しようとする傾向を持つ。この発動を呼び醒まし、伸張させるためにこそ合自然の教育が要請される。人間の諸能力の発達の因果的必然の法則に合した教育でなければならないのである。彼はまた、人間の本質が「動物から区別されるところのもの」即ち道徳的宗教的側面にあるから、「合自然の教育」は従ってまた、道徳的宗教的発展への意味を持つ、と言う。

 「直観の原理」もまた、彼の全思想を貫いているところの原理である。一般に直観は概念と対立するものであり、概念が自発的なら、直観は受動的であると言われるが、ペスタロッチーにおいてはそうではない。すべての教授は感覚的直観から明瞭なる概念に高まるという永遠の法則に従うとして、直観と概念とを同一線上の両極端と見ている。直観がすべての認識の基礎であるのは、すべての認識が、その一本の線を基盤にすることなしには起こり得ないからである。直観から概念へと、つまり思考が潜在的なものから顕在的なものへと発展していくことが認識の基礎であるというのである。子供が学ぶのは自分自身の印象によってであって、言葉によってではない。単語は観念に続いて観念を確立せしむべきものであって、観念を与えるものではないからである。一切の理念はただ行動を通してのみ実現されるのである。ペスタロッチーは、彼の時代の多くの人たちが貧しい形式教授へと沈淪し、空言贅語を弄するのを苦々しく思ったのである。「到る処で肉が霊を支配し、利己心と情欲とが行為の動機となり、機械的な習慣が知的な自発性に取って代わってい」(注10)るのを見たのである。

 人間を人間とすることこそ教育のなすべきことである。人が人に対してなし得る最良のものは自らなすことを助けるにあるとして、自助への補助を強調したペスタロッチーは、その最深の動機を「愛」に求めた。諸能力の調和的発展は愛において呼び醒まされた精神的活動によってのみ可能である。道徳的、知的、産業的側面の何れにおいても、「生活が陶冶する」という原理が支配する。愛と信仰、言いかえれば道徳と宗教との永遠の出発点として人類の中に神が植えつけ給うた本能的な感情は最も純粋に家庭の中に見出される。この家庭において内面的な教育的影響は最も自然に、最も有力に発動する。児童の活動はここにおいて最初の最初から促進される。かくして基礎陶冶の手段は「生活が陶冶する」という高尚な原理と固く結びつかなければならないのである。

 以上簡単ながら、ペスタロッチーの言う教育の理想を、主にその形式的或いは方法論的な面から見てきた。教育の理想は人間諸力の調和的発展である。このことは言いかえれば、人間を完全に近づけること、また「自立的にその人間目的に到達し、人間的完全へ到達し得る人間」(注11)を作ることであるということができると思う。ここで人間の本質、つまり人間とは何か、人間の目的は何であるかということが問題になる。ペスタロッチーはその著『隠者の夕暮』の冒頭で、人間の本質について次のように問うている。「玉座の上にあっても、木の葉の屋根の蔭に住まっても同じ人間、その本質からみた人間、一体彼は何であるか。」

 私はこの問いに対して、ハンス・ヘルヴェク師の『教育の根本問題』の中から教育の目的について述べられた章を手がかりに、人間の本質について考えてみたい。(注12)

 人間の本質、従ってまた人間の目的は次の三つの問いによって規定できる。(一)人間は一人の神によって創られたかどうか。もしそうでなければ、人間は根本において、自己の上に自己を制約する権威を持たないし、それ故にまた、絶対的な義務を負わせる目的を持たないことになる。人間は個人的に、或いは集団的に、「自由に」、或いは「恣意的に」自分の目的を定めることができる。(二)人間は精神的な霊魂(ということはそれを機能或いは作用としてではなく、また物質的なものとしてではない、実在として)を持つかどうか。人間は精神によって、物質及び動物以上のものであるかどうか。もしそうでないなら、人間の責任も、自由も、道徳も地に落ちる。(三)人間の個人的精神は不滅であるかどうか。個人の霊魂は死後においても不滅であるのか。もしそうでないなら、人間の目的は現世的なものに限られる。

 人生は一つの道である。それは踏まれるべき道である。しかし、この道が踏まるべき道であることを人間自身は規定しないし、その方向をも規定し得ない。それは私たちが神と呼ぶところの絶対的実在によってのみ規定される。そしてこの存在は必然的に知恵と自由意志を具えた霊的な存在でなければならない。この神こそ人間を創造して、人間をその行くべき道に置くものである。

人間を本質的に物質や動物と区別するところの、霊的実体が、人間には存在する。人間が霊的な存在であるが故に、私たちの間に責任とか道徳的制約がある。何となれば、これらのものは一つの霊的なるものの中にあって、霊的なるものの間の関係としてのみ可能であるから。

この道の概念と現実性及びその道への義務が一つの事実的で絶対的な要素を含むならば、それは当然に一つの事実的、絶対的な目的を指示する。その目的は現世的存在の時間性と相対性の中には発見できないところの、一つの永遠的にして時間的に無限定なものを目指している。道とは、本質的には、一つの事実的な目的への指導である。もしも人間の死後、なんら事実的な存在がないとすればこの道は行きつくところを失い、従ってもはや道たることをやめてしまうのである。

 「人間とはそれ故に、一つの霊的にして智恵と自由意志を備えた創造主によって存在するに至った存在、即ち神の一被造物なのである。人間は、精神的霊魂による霊的な存在である。その霊的実在という意味において不滅なのである。」(注13)

以上の人間の本質から人間の目的が導かれる。「人間の目的とは、神より受けた芽と素質を、自己の中に能う限り発展させ、神の完全性を能う限り豊かに充分に受けてそれを永遠の所有とするように、しっかり準備を整えることである。」(注14)

教育の目的は人間の目的から直接に導きだされるものである。教育の目的には普遍妥当の、永遠にして絶対的なものがあることを私たちは認めなければならない。しかしながらこう言ったからといって、教育の目的がこのことのみから規定されるべきであるというのではない。教育目的の歴史的或いは社会的な変遷があるということ、言いかえれば、人類の発展段階がその過程において、また各民族の文化がその多様性において、一定の変化或いは一定のニュアンスを持つことを否定するものではない。ただそうした変化或いはニュアンスの底に、その本質においては同一であるべき永遠の目的というものがなければならないのである。

人間の本質及び目的解明のために、以上挙げた三つの質問は、凡ゆる人間に問わるべきものであると信ずる。その答は各自の世界観、人間観によって異なるであろうが、しかしだからといって、さまざまに異なった答がすべて正しいとは言い得ない。そのうちのどれが真理であるか、妥当なものであるか、従ってそれを認めなければならない義務を与えるのかということが問題である。

 ペスタロッチー自身の人間本質観及び目的観は以下節を追って明らかにして行きたいと思うが、私は先に挙げた答に、彼の答も一致するか、或いは少なくともそれに近いものであると言えるのではないかと思う。ペスタロッチーにおいて彼の思想は体系的であるとは言えない。しかしながら、私は敢えて彼の信ずるところをたずねて行きたいと思う。

(1)ドゥ・ガン、ペスタロッチ伝、494p.4-6

(2)ペスタロッチー全集 第12巻、p.15, 4-6.

(3)ゲルトルートは如何にその子を教うるか(春秋社世界大思想全集第49巻)

(4)ペスタロッチー全集

(5)同上,第12巻、p.27, 12-13.

(6)H.モルフ、ペスタロッチー伝、第2巻、p.253.

(7)同上。

(8)同上。

(9)同上、第2巻、

(10)同上、第4巻

(11)ハンス・ヘルヴェク、教育の根本問題、p.31, 10-11.

(12)同上、p.27-41参照。

(13)同上、p.37, 2-4.

(14)同上、p.37.10-12.

第二節 宗教と教育

ペスタロッチーは1811年1月1日の新年講演の中で、次のように述べて、人間の究極目的について貴重な示唆を与えている。「人生は一年のように過ぎ、一年は一時間の如く過ぎる。すべては変化し、すべては亡びる。神のみが、また神の姿に似せて作られた人間のみが、永遠に存する。人間は彼がその中にもっている神性、即ち神の愛と人の愛によってのみ人間であり、不死である。人間がこの自己の中にある神的なるもののために生きる時、凡ゆる彼の能力、凡ゆる彼の感情が神への愛によって生命を与えられる時、その時にこそ彼は時と年とが永遠の一部として過ぎ行くと観ずる。」(注1)彼はすべての人が神への愛と人への愛との中で、現世とともに過ぎ行くもののためではなく、われわれの中にある神的な、不変なもののために、永遠の存在するもののために努力するように奨めるのである。「自己の中にある神的なるもの」とは、彼がそれによって人間を物質や動物から区別するところのもの、つまり精神的な霊魂である。人間の究極的な目的は、変化し亡びゆくこの世界にはなく、永遠の世界、彼の世界にあると、ペスタロッチーは言っているのではないだろうか。

彼が彼の教育学体系の中で宗教の占めるべき位置を明らかにしている次の講演は引用に値する。これは1818年1月12日、彼の七十二歳の誕生日になされたものの一部である。

「予め建てられた確実な神の調和の中に活動する木の基本的な部分がすべて協力して、その力の最後の産物、果実を形作るために働くと同様、人間にあっても明白ではあるが、人間の有機体の見えざる精神によって結合され、信と愛との神的調和の中に活動する知識、能力、意欲の全機能がすべて協力して、肉と血から区別される内的存在、正義と神聖の永遠の存在、天なる父が完全なる如くに完全になるために、神の姿に似せて創られたる人間を形作ろうとして働くのである。

生命を作るは精神であり、肉は何の役にも立たぬ。人間の精神は特別なある力に存するのではない。それは人の手の中に存するのではなく、脳の中に存するのでもない。その凡ゆる力、現実の有能な力の結合する点は、人の信と愛との中にある。...心のこの力、信と愛とは、不死の人間を作り上げるために、根が木を作り上げるためになすことをなすのである。」(注2)

ペスタロッチーが「愛と信仰」という言葉で表現しているところのもの、それは感性的なものから人間的なものへ、そして更に真にキリスト教的なものへと発展して行くところの宗教的なものである。「愛と信仰とを外にしては、およそ人間性への真の発展がそこから起こり、進展し、完結するための糸口はない。約言すれば、愛と信仰とは人間性への合自然的な、従って基礎的な陶冶のアルファーでありオメガである。」(注3)彼はこのように述べて、宗教が教育において、中心的な、支配的な位置を占むべきことを示している。彼はこのことを更にはっきりと、その著『白鳥の歌』の中で言っている。即ち、「もし宗教的要素が全教育に透徹していなければ、教育は人生に殆ど影響を及ぼさない。それは孤立するか形式的であるかに止まる」(注4)と。

 ペスタロッチーが宗教を教育に対して支配的、中心的位置においていることは、以上の引用から明らかであるが、しかし彼は何故にこのような優位性を宗教に与えているのであろうか。ペスタロッチーが宗教を如何なるものと考えていたかということが、この問いに対する答となるであろう。

(1) ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.360, 1-4.

(2) 同上、p.403, 11-p.404, 1

(3) ペスタロッチー全集、第12巻、p.135. 15-17.

(4) ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.465, 7-8.


第二章 ペスタロッチーの宗教観

 ペスタロッチーの宗教は彼の教育思想のうちでも最も重要な役割を果たしている。しかしながらまた、彼の宗教がどのような性質のものであるかということは、彼の全思想のうちで最も把握しにくいものの一つであると言われる。彼は教義的な一切のものから遠ざかっていたし、また宗教的組織を持っていなかったと言われている。彼はその著作の何処にも完全な信仰告白を与えていない。それはただ断片的な章句の中にしか見出されず、しかもその章句も常に一致しているとは限っていない。

彼の崇高な教育事業は最初は宗教的なものがその動因ではなかったと言われる。しかしながら、家庭において幼時に蒔かれた彼の宗教の種子は、愛と献身、融和と平和、崇高な寛容の雰囲気の中に、ペスタロッチーに真の宗教的な信頼、自己自身の忘却、魂の平安、美しく真摯な、そして活動的な敬虔となって開花したのである。これらのものは彼の子供、ヤーコプの誕生以来ますます確固たるものとなり、彼の全生涯を通じて貫き通されるものとなったのである。

彼の宗教が体系的でなかったのは、それが彼の幼時における母親、或いは家庭の影響によって生まれたからであり、また当時の啓蒙的な哲学の風潮の影響を受けたからであると言えるのではないかと思う。

 以上のことを念頭に置きながら、彼の宗教観について調べて行きたいと思う。

第一節 ペスタロッチーの神

ペスタロッチーの優れた伝記作者ドゥ・ガンも言っているように、ペスタロッチーは「何処にもその完全な信仰告白を与えていない」(注1)のであって、神という言葉は彼の著作の至る処に見られるが、その意味するところは一様であるとは決して言い得ない。

 彼の著『隠者の夕暮』は彼の思想の出発点であり、また帰着点であると言われる。彼はその中で、神について、また神に対する信仰について述べている。(注2)

「神は人類に最も近い関係である。神こそ、汝の家の父でもあれば、汝の浄福の源泉でもある。神こそ汝の父であるとこう信じるなら、汝はどのような暴力にも、どのような墓穴にも揺り動かされない安らぎと力と智慧とを見つけられるのだ。神は人類の父であり、神の子たちは不死である。」

また神に対する信仰は「人間の本性の最も高い関係における人間感情の情調であり、神の親心に対する人類の信頼する子心。生命の安らぎの源泉。すべての智慧とすべての浄福との源泉であり、また人類の純粋の陶冶に到る自然の道。人類の本質のうちに秘められているもの。国民の分け前、人類の力、人類の強み。陶冶された智慧の結果や結論ではなく、単純性の純粋な感じ、神という自然の呼び声に耳傾ける無邪気な耳。永遠の生命の希望。人類を神の子と現世の子とに分けるもの。義務に対する私の信仰の保証。希望の力。君主とその国民とを結ぶ紐帯であり、人類の浄福関係の内的融合の紐帯。正義の源泉」であると言っている。

 ペスタロッチーがここで述べていることは、私には漠然としているように見える。彼は神そのものについては多くを語っていない。神については既に読者との間において、暗黙の了解があるように思われる。もっと詳しく言えば、神はこうこういうものであるというような書き方ではなくて、当時の人々の大部分が信じていたところのキリスト教で言う神は、ペスタロッチーにとっても、また読者にとっても、明白なものであったのではないだろうか。彼の語調は説明的ではない。彼にとっては、神は厳然たる事実であり、存在そのものであり、説明の必要を超越したものであったのである。

しかしながら私たちは、ここにおいて、「神は人類に最も近い関係にある」こと、「神は人類の父である」こと、もし神がないとすれば人間の目的もなく、義務も責任もないだろうこと、また人間の永遠の生命、不死の希望は空しいものに終わるだろうということなどを、ペスタロッチーが示していることから読みとることができる。

 ペスタロッチーは青年時代の神学研究によって「彼の宗教を強化されるよりはむしろ危くされ」(注3)たのであり、また「ルソーや十八世紀の哲学者の教えによって動揺させられた」(注4)のである。彼の宗教は「凡ゆる教義理論から独立しており、ある教義の中に約言されるものではなかった。」(注5)ペスタロッチーは「子供にキリスト教問答書を染めつけさえすれば万事足れりと思ったいわゆる正教の旧套主義、そして正教とはいいながら正しい信仰もまた特には正しい愛をも忘却した、いわゆる正教の旧套主義に反対したこと、並びに腐敗した記憶キリスト教、型にはまったキリスト教、ないしは彼が適切にも名付けたような紙学問に反対した」(注6)のである。かかる理神論的信仰に対するペスタロッチーの反対は正当なものあると思われる。しかしながら、彼のこの反対に拍手を送る余り、その反対に、彼が宗教からその認識論的部分と言われるものまですべて捨ててしまったのであると結論付けてはならない。

ペスタロッチーの著書のある一節から、彼がキリスト教的見地からは不都合に、従って内在論的、或いは汎神論的立場からは有利に、見えることを主張している部分を抜き出してくることはできるだろう。しかし私たちは彼の全体を見なければならない。

 『ゲルトルートは如何にしてその子を教えるか』という著書の十四信において、ペスタロッチーは次のように言っている。

 「何故に義務は汝の最高善なるか。何故に汝は神を信ずるかと、善人に問え。もし彼が幾多の証明を与えるならば、それはただ幾多の学派が彼の口をかりて物を言っているにすぎない。それ以上の巧妙なる智力をもってすれば、かかる証明などは一切打ち破られるであろう。...しかし彼の情はとうてい神を否むことができまい。彼はその母親の懐に帰るが如くに、歓びかつ愛しつつ、神の許に帰るであろう。」(注7)また、「私の頭や理智の神は一の怪物であり、一の偶像である。私の情の神こそ、私の神である。」(注8)「単なる知識からは神の観念は生まれない。真の神は、ただ信仰にとって、子供のような信仰にとってのみ生くるものである。」(注9)

 このような言葉を読むとき、私たちはペスタロッチーが宗教において、理性的なものを全く否定しているかのように感じる。しかし果たしてそうだろうか。人も知る通り、ペスタロッチーは人間諸力の調和的発展を強調する。即ち心情と精神と身体とを。このことは形式的ないしは方法的においてのみならず実質ないしは内容においても言われ得る。そのペスタロッチーが、宗教の領域において感情のみを重んじ、理性的あるいは身体的なものを許容し得ないものであるとしたのであろうか。彼は事実、他の多くの著書の中でも、宗教において他の領域においてと同様、感情或いは直観を強調している。しかしそのことは彼が理性とか悟性とか言われるものを否定していることにはならないと思う。ある一面を強調するとき他の面が否定されると考えるのは早計ではあるまいか。宗教を人間の純粋主観の中に閉じ込めてしまうことは、ペスタロッチーの調和観からも矛盾したことになるのではないかと思う。

教育の目的に関して、これをもう少し詳しく見て行くと、形式的な面と実質的な面に分けることができる。形式的教育の目的は、人間の諸能力を調和的に発展させ、人間を陶冶して人間に成熟した価値開明と価値受容能力を持たせることである。これに対して実質的教育の目的はこの形式を価値で満たし、この形式に内容を与えることである。もちろんこれは便宜的な分け方であって両者は相即不離のものである。このこととは少し意味が異なるけれども、宗教に関して以上のことをあてはめてみるとどうなるだろうか。

 ペスタロッチーは形式的な面、言いかえれば、「どのようにして」の面を強調して、実質的な面、つまり、「何を」の面をあまり問題にしていないのではないかと思う。蓋し、彼の時代にあって、宗教はその内容においてよりも、その方法的なものに大きな欠陥を有していたからではないだろうか。彼が神を(全知全能にして天地の創造主なる唯一の神であるとまでは言わないとしても)認めていることには間違いはない。従ってまた教育において宗教をその中心点に置いていることにも疑いはない。彼は、人間が如何にして神を信ずるかということを問題にするのであって、如何なる神を信ずるか、言いかえれば、その神は人類の創造主、主宰者、救世主であるのか、またはそういう人格的の神ではなくて、(ペルソナを持つ、言いかえれば智慧と自由意志を有する)、人類の最内部の本質とか、或いは聖なるもの一般といったようなものであるのか、ということについては、あまり詳しく触れていない。

 しかし、ペスタロッチーがこのことについて体系的には表明していないにせよ、私たちは彼の信ずるところを問わなければならない。何故ならこの問題こそ、教育はもちろんのこと、その他あらゆる分野に対するキーポイントとなるものだからである。

 ドゥ・ガンはペスタロッチーの宗教観について次のように言っている。私たちは「ペスタロッチーの中に不都合な句を見出すであろうが啓示された真理に対する攻撃は決して見出さないであろう。ところでもし彼が啓示された真理を信じていなかったとすれば、彼はそう宣言していたであろう。何となれば彼は自分が正しいと信じた以外のことを細工するような人間ではなかったからである。」(注10)私はこのドゥ・ガンの言葉を信用して、ここで少しその「啓示された真理」について見ておこうと思う。

キリスト教は典型的な啓示宗教である。啓示とは神自らの示現で、人間の眼から神を隠している幕が取り除かれることである。言いかえれば、一定の場所で、一定の時に、これを受ける者自身とは別に、はっきりと離れた、独自的存在を有する人格的神から、人に対してなされる真理の述べ伝えである。このことからも分かるように、キリスト教の言う神は内在的ではあり得ない。(内在的ということについて、その意義が一様ではないので、このことは次節において詳しく見るつもりである。)神を哲学的思弁的に追求して行っても、人間にはある程度まで、その姿を認め得ることを否定できないが、キリスト教は、神自身が自らを人間に示されたことを強調する。神は三位一体にて在す、即ち同一の神性のうちに聖父と聖子と聖霊の区別された三つのペルソナが一体として一つなる神に在すということを啓示された。これを三位一体の玄義というが、玄義というのは理性に反するものではなく、理性を超越した真理のことである。それは、人間の理性が全然知り得ない真理を言うのではなく、他の援助なしに単独ではとうてい発見できない真理を言うのである。私たちが理解できないものを矛盾であると決めつけることはできないのである。

 キリスト教が神を創造主と呼び救世主と呼ぶとき、神は一体に在すのであるが、そのペルソナを特有の働きとみなして、聖父を創造主と言い、聖子即ちキリストを救世主と言う。智慧と自由意志とを具えた位格的な神が存在し、その神が天地万物、そして人間を創造された。人間は創造されたとき、善にして幸福な状態にあったが、神の命に逆らって罪を犯した。人祖のこの罪はそれ以後すべての人間に罪の傾きを与えた。原罪と言われるものがこれである。神に対する人間のこの罪は無限であり、有限である人間にはこの罪を贖うことはできない。神の第二のペルソナたる聖子、即ち真の神であると同時に真の人間であるキリストこそが、この人間の、神に対する無限の罪をふさわしく贖うことができる。何となれば、キリストは神であるからして、その罪の贖いは無限である。キリストは真の人間であるから、犯された人間の罪を、人間として神に贖うことができる。贖世或いは救世と言われるものがこれである。キリストがこの世に来る前に人々に映っていたところの神は畏怖の神であった。キリストは神が父であること、キリストの父であり、また全人類の父であることを知らせた。恐れられる神ではなくて愛される神であることを知らせたのである。

 キリストが歴史的に存在したことは何人も否定し得ないところである。ただ問題は、キリストの人格の崇高さと、彼の説く人生終局の目的の啓示と、そしてキリスト自身の神性の宣言とを、如何に受け取るかの問題である。これら三つのものは、三つを共に受け取るか、さもなければ三つを共に否定するかの何れかの立場に立つことを私たちに迫るのである。ここには中立などというものはないのである。何故ならこれら三つのものを分けることは矛盾に陥ることになるからである。

私は以上問題になると思われる点を二三指摘したのであるが、以下の節においてやや詳しくそれらを調べて行こうと思う。

(1)ドゥ・ガン、ペスタロッチ伝、p.149 1-2.

(2)ペスタロッチ全集、第四巻、p.379, 9-p.392, 13

(3)ドゥ・ガン、ペスタロッチ伝、p.149 4.

(4)同上、p.149 4-5.

(5)同上、p.149 6.

(6)H.モルフ、ペスタロッチー伝、第四巻、p.402 7-9.

(7)ゲルトルート、(前掲書)、p.216 17-20.

(8)同上、p.214 17-18.

(9)同上、p.216 8-9.

(10)ドゥ・ガン、ペスタロッチ伝、p.150 10-12.

第二節 超越神と内在神

 宗教は神に対する人の道であると言われる。宗教はまず神の認識から出発する。神は出発点であると同時に目的である。神に対して行動の主体である人間がある。この神と人間とを結ぶ道が宗教である。

神と人との関係はどのようなものであるのか。シュプランガーはその著『文化と教育』の中で、「そもそも神とは人間精神の内奥に啓示されるものである。...人間本性の中にある神的な火花という原初的な神秘主義的な考え方をペスタロッチーもまた信じていた」(注1)と言い、「それは生活領域の最も狭い、究極の、最も単純なものを通じての神との最も深い結合である。私たちの内奥に住まっているその神がペスタロッチーの神であった」と言って、はっきりとペスタロッチーの神がいわゆる内在的なものであることを言明している。ペスタロッチー自身、神は、「私の本質の奥底における神」と言っている。「神と我との関係は我と我との関係であり、詳しく言えば我と最内部の我との関係である」と、長田新先生はその著『宗教と教育』の中で述べられている。前にも述べたように、ペスタロッチーはその著『ゲルトルートはその子を如何に教うるか』の中でも、以上の引用を裏づけ得るようなことを言っている。ペスタロッチー伝を書いたモルフもドゥ・ガンも、私の見た範囲では、この点に関して、つまりペスタロッチーの神が内在的なものであるかどうかということに関して、沈黙を守っている。

ここで「内在的」、「超越的」ということについて調べてみよう。

 内在的な神と言うときに意味されることは、世界に現存する神ということと、真に別の秩序に属するのではない神、即ち被造物と同じ段階に位置する神ということである。このように、内在的という言葉はいつも同じ意味では用いられていないのである。「内在している」ということは、「に現前している」という意味にもなる。この意味でなら、神は世界に内在していると言える。この言葉はまた、「同じ平面にある」こと、「同じ存在論的水準にある」ことの意味にもなり得る。それなら、神は「内在する」とは言えず、「超越している」と言うべきである。神はたしかにわれわれのうちにあり、その行いと、その認識と、その存在によって、世界のいたるところに現前している。

 内在論によれば、神とは世界中に到る処にまかれた神聖なものである。神は世界のうちに、世界を通じて、自らを表現し、自らを外面化し、この自己表現によってのみ存在する。神は、到る処にあり、その「神現」において一であると同時に多岐である。内在論は更に、神はわれわれ自身の根底にあり、ただ現前するばかりでなく、われわれの存在と実体的に同一であり、神はいわばわれわれの存在の最も繊細な、最も内的な部分を成している、と主張する。神と世界、従って神と人間との間には、根本的な存在論的断絶はないと言うのである。この考え方から行けば、即ち神が超越的なものでないならば、結局のところ、神は純粋単純にこの世の現実のうちに解消されてしまい、もはや何ものでもなくなってしまうだろう。

 「内在的」という言葉と対立して「超越的」という言葉が言われる。神の超越性を誇張して、神は万物に超越しており、すべての存在の、善悪の彼方にある、神は人間の概念や範疇や区別を絶対的に超越している、そしてこれらのこと故に、結局神は不可知であると結論する人々がいる。神の不可知を強調する結果、私たちは神について何も知ることができないし、世界や私たちの存在や出来事についても、まったく神には影響しないのだから、そういう無限に遠い絶対の存在に関わらずに、現世にのみ関心を向ければよいという結論になるだろう。このことも結局のところ、私たちは神が存在しないかのように振る舞うということになるのである。真理と価値の創造者は人間であり、人間は万物の中心であるという思想はこれら二つの対立的に見える考え方から抽出される共通点であると言うことができる。これら二つの極端な考え方は何れも神を問題としていながら、つまるところその神を無限の彼方に押しやるか、世界或いは人間の内部に解消してしまい、人間にとっては無縁のものとしてしまう危険を持っている。かかる人間中心観に立つとき、一切のものは人間に依存し、人間から生ずるということになる。神の存在は私の要求、私の感情、私の必要に依存する。神とは結局、私が実現を欲する人間の理想の別名に過ぎない。

これら二つの極端な考え方の間に、第三の中間的な考え方がある。それは単なる混合型ではない。神の存在は人間という主体によって条件づけられることはない。私が存在するから、私が要求するから神が存在するのではなく、神が存在するからこそ、私が、そして世界が存在するのである。神は私が、そして世界が依存するということにおいて超越的である。創造という点から、神と世界は超越的である。人間の分有的存在と神の絶対他者の超越性との間には断絶があるのである。しかしながら、神はその智慧とその善とその力とによって世界に遍在するという意味において内在的である。

 私たちが哲学的、形而上学的にのみ神を追求するとき、私たちは極端に走らざるを得ない。この問題の鍵こそキリストの啓示である。

以上簡単に見たように、「神は内在する」という立場によれば、神は人間の心のうちにあるものであって、人間の外にあって、外から人間に働きかける存在ではあり得ない。神と人とはその根底において別物ではない。「人間性の限界内の宗教」こそ内在観の表明するものである。これに反して、キリスト教的見地に立てば、神ははっきりと人間とは離れた存在である。内在観が言う「人間の奥底にある神性」は神に似たものであっても神そのものではない。「神は己の姿に似せて人間を創り給うた」と旧約聖書において言われるとき、それは人間が理性と自由意志とを持つという点において、神に似たものであるということを意味するのである。神と人間との間には無限の隔たりがある。神は本質的有であり、必然的有である。人間は偶性的有であり、神に従属するものである。宗教と文化ということに関して、神が内在的なものでないならば、人間の文化は否定されると言う人がある。しかし、そう言ってしまうことは正しくない。人間はこの世に生まれて来、この世界の中で、この世界を通じて、自己の使命を果たし、自己の道を歩んで行く。この歩むということはまた本質的には、文化の芽を能う限り発展させることを意味する。この考え方によれば、人間の文化は、特に物質的な文化は第二義的価値しか持たない。しかしながら、そう言ったからといって、それら文化の価値を低めることにはならない。それらよりなお価値あるもの、より高きものが存在すると言うのである。一つの財の客観的な価値の高さは、それより高い財の真理が承認されることによって失われはしない。しかもそういう価値の高さは、より高きものの否定によっては獲得されない。「この世界」の文化価値は永遠で無限で神的な価値があることによって高められこそすれ、その手段であることの性質が強められることによって、低められることはないのである。

さて、ペスタロッチーが神を如何なるものと考えていたかという問題を考察すべきときである。私はこの問題を「創造」という点から見て行こうと思う。

「人間は神の姿によって創造されているから、神の子として生き且つ死なねばならないという神の言葉を単に暗記してべらべら喋ることを学ぶのではなく、その真理を...彼を本質的に高めるという仕方で自らのうちに体験するようにさせることは、如何に高くまた測り得ないほど重要な人間の義務ではないか。」(注3)ペスタロッチーはここで人間が神によって創造されたという真理を認めている。「人間のすべての知識、すべての行為、すべての知的作用、能力及び意欲というもろもろの根本力は、人間的機構の目に見えざる精神、人間のもつ神的な心の力、そして信仰と愛との力によって、神が基礎づけ、神が保証した調和を保ちつつ結合されて、調和状態にある人間本性のすべての力の永久に効果ある陶冶、人間性の陶冶、そしてまた肉と血とから独立している内的本質が神から創造されているところの人間の、完全なる正義と神聖とにおける完成、その父が天において完全なるが如く完全になるように神の似姿に造られた人間それ自身の完成を達成せんと努力している。」(注4)ここに言われている「神の創造」をペスタロッチーは単に慣用句として、或いは比喩的に用いたのであろうか。「その父が天において完全なるが如く完全になるように神の似姿に造られた人間」と彼が言っているのは、キリストが「汝らの天父の完全に在すが如く、汝らも完全なれ。」(注5)と言ったことから引いているのであるが、もし彼が人間は神の被造物であるということを信じないのならば、何故に彼はこのような句を他の個所でも使うのだろうか。ペスタロッチーが神を創造主であると認めていたことは疑いないと思わざるを得ない。何故なら、彼は自分の信じていないことを、誤解されるようには書かなかったであろうし、かえってそのことに対して反対さえしたであろうからである。

 ところで、神が創造主であるとすれば、神と人間とは区別されなければならない。造物主と被造物とが、たとえ本質においてであれ、内奥においてであれ同一であることはできない。またその神は漠然とした理念とか、聖一般といったものではあり得ず、智慧と自由意志を具えた存在でなければならない。人間は完全ではない。しかし完全に向かって無限に近づくことができる。その向かって行く目的こそ完全そのものである神である。このように考えてくるとき、神は必然的に人間を超越した存在である。人間が神の被造物であるなら、その「神は人類の父であり、神の子たちは不死である。」(注6)何となれば、神が人間を創造しながら、神と人間との関係が絶対者と「ほろぶべきもの」という冷たい関係であるならば、その神は愛そのものたる神ではあり得ない。神が父であることは、つまり私たち人間が神に対して個人的な関係にあるということである。このことはまた、神の摂理と愛とを示している。「親の如き神の愛に対する信仰、不死不滅の信仰、人類の父たる神、神の子たる人間、これが信仰の純なる心である。」(注7)

 内在観によれば、神と人とは「同一の根底を有し」(注8)、また「人間の最内部の本質が神であり、また人間の精神が神の部分的精神である」(注9)という。では、人間の個人としての義務や責任というものはどうなるのであろうか。また、彼の心のうちに善を望みながら、悪をなす自分を発見するのは何故だろうか。この立場からはこれらのことについて満足な答を得ることができるだろうか。

私は、ペスタロッチーが「人間の最内部に神的なものを見る」と言うときの真意は、神の至上命令としてすべての人の心に刻み込まれている自然法、つまり良心を言っているにすぎないと思う。ペスタロッチーの神は、文字の上からは、内在的な神であると取れることはあるにもせよ、彼が信じ、愛し、助力を求め、恩寵を希求し、罪に対する赦しを求め、永遠の生命を希求したのは、彼自身とははっきり区別されたところの神に対してであったのである。

(1)シュプランガー、文化と教育、p.153.

(2)同上、p.154.

(3)ドゥ・ガン、ペスタロッチ伝、p.64 1-5.

(4)モルフ、ペスタロッチー伝、p.246 1-6.

(5)マテオ聖福音書、第5章、第48節。

(6)ペスタロッチー全集、第4巻、p.382 14

(7)同上、p.388 8-9.

(8)長田新、宗教と教育、p.97 3

(9)同上、p.97

第三節 原罪及び贖罪に対するペスタロッチーの態度

 人間の心が生来悪であるか、善であるか、或いは善でも悪でもない「白紙」のようなものであるか、私たちは歴史の上に多くの人々がこの問題について論じて来たことを知っている。この問題の解答如何によって教育は左右されると言っても過言ではない。

原罪に関して私は既に簡単に述べておいた。ここでもう少し詳しく見ておこう。

原罪の理論は前にも述べたように、神の超自然的啓示であって、人間の理性によって考え出されたものではない。しかしながら、このことによってその理論が私たちに理解できないということはない。かえって私たちはそこに人間の真の姿を見得ることを知るのである。キリスト教は「その原罪の理論によって、人間の本性を理想化することを免れている。人間の本性は毀損されているのである。」(注1)「人間はなるほど善悪の知や、合理的行動への傾きなどを伴った理性的本性をもつものであるが、しかもあやまりなく、もろもろの善を複雑な利害関係のうちにあって認識したり、もろもろの善に応じて行動へと自発的に傾いてゆくことが確実であったりするのではない。」(注2)人間の本性はそのうちにもつ倫理的意識や良心の働きによって有効に作用してはいるが、しかも知性の暗さや誤りやすい感情と闘ってのみ、善への道を歩まねばならないのである。人間の本性はそのうちに悪への傾きをもち、弱さ、欠陥をもっている。しかし他方倫理的意識や自己決定性をもっているのである。この原罪の理論は、人間の本性に関して最も妥当な解釈を与えるものではないかと思う。

ルソーが信じたように、人間本性が先天的に善であるとする合理主義的楽観論に立つとき、人間の倫理的努力は無用のものとはならないだろうか。またその反対に、ルターのように、人間が原罪によって完全に堕落しており、人間本性は罪や悪に完全に落ちこんでそこから抜け出すことができないという者もいる。彼によれば人間は自己の力によって倫理的道徳的であることはできず、それは神の恩寵のみによって可能なのである。このようなルター的悲観主義は人間の倫理的努力を無意味なものとする危険がある。

 これら二つの人間本性観には何れも行き過ぎがあり、欠陥があると思われる。真の原罪の理論を認めないとき、私たちはこの世に充満する悪と、人間が心から欲する善との矛盾相克を解決することはできないであろう。「人間の偉大と悲惨は同じ段階ではない。両者は同じ価値と威厳をもつものではない。一方は根本的なものであり、他方は偶然的なものである。人間の構造においては、偉大が先に来て、悲惨はそのあとである。偉大は人間の第一の起源によって、また人間の本質によって生じたものであり、悲惨は人間の意志の弱さによって、またその罪によって生じたものである。」(注3)

ペスタロッチーは原罪に対してどのような態度を取っているであろうか。この点について、長田新先生は次のように言っておられる。

 「思えば、彼(ペスタロッチー)の宗教思想の一特色は、多くの人々の指摘するように、原罪を信じていない点にある。彼はルソーと共に人間の心情に何の邪悪の先天的存在をも信じなかった。これ児童の無邪気と天真とを信じ、教育の力によってすべて善きものを目覚まして生長させることを本領とする教育者としての彼に相応しきことではないか。惟うに地上に文化の王国を建設する教育の立場は、人間を本来邪悪なものないし罪業に満ちたものとする立場とは両立することができない。教育の立場は自己を先ず罪深きものとして、ひたすら天に向かって救助を叫ぶ立場ではなくて、むしろ文化の創造者としての自我を信じて立つ立場である。原罪を信ぜず、従って贖罪の必要を認めなかったペスタロッチーこそ文化と教育とを正しく解し得たものといっていい。」(注4)

 一方、ドゥ・ガンは『ペスタロッチー伝』の中で、この長田先生の見解とは異なるところを述べている。長くなるが、煩を厭わずここに引用してみよう。

 「ペスタロッチーはしばしば原罪、即ち人間の心に先天的に悪が存在することを信じないと非難される。(私はこの「非難」という言葉のうちに、日本と西欧との相違を見るような気がする。)そしてこの非難は、作者が子供の無邪気を賞揚し、その心に存する徳と善との感情の萌芽を養い、働かせ、発達せしめるようなことはすべてを教育に期待している無数の章句によって支援されるのである。しかも、一方、他の個所において、彼は人間性に悪の存在することを、同一の確信をもって示している。感動的にこの事実を宣言しようとする目的によってのみ作られた彼の『寓話』の一つをここに挙げよう。」(注5)と述べて、次の『丘の中』という寓話を引用している。

 「ある丘がりっぱな草で蔽われているのを見て、ある愚かな者が丘は底までりっぱな土地であるに違いないと考えた。その場所をよく知った男が、彼を丘の中が見える場所につれて行った。それは岩と礫とばかりであった。大地の丘は、如何に緑で肥えていても、殆ど常にかたい不毛の地盤を有している。同様に人間の性質は、如何に心と精神とがそれを高めようとも、肉と血の中には岩と礫とに比せられる悪の層を有している。最も美しく、最も力と名誉と高位とに富んでいる外観でさえ、常にその下には我々の天性の悪がひそんでいる。それ故如何に高い位にあろうとも、人は次の掟に従わねばならぬ。誘惑に陥らぬように目を覚まし、かつ祈れ。実に心は熟すれども、肉体は弱きなり。[マテオ26-41]。」ドゥ・ガンは同じ個所で「ペスタロッチーはあらゆる機会に、彼の心と想像力との霊感に身を委ね、また彼自身の思想を誇張し、気づかずしてしばしば彼自身と矛盾させた出来心に身を委ねたのである。」(注6)と述べて、ペスタロッチーがキリスト教的見地からは欠陥と思われることをしたことの理由としている。ペスタロッチーが、ある時期においては原罪や贖罪を無視したり、キリストの名を口にしなかったことは、多くの人々の証するところである。しかしながら、彼が最後までそうであったというのは事実に反する。ドゥ・ガンの挙げている『寓話』の例のうちに、或いは彼の晩年に行われた『新年講演』のうちに、彼が原罪及びキリストの贖罪を信じたことを、私たちは見得るであろう。

 ペスタロッチーは『ゲルトルートは如何にしてその子を教うるか』の中で言っている。「汝はここにおいて初めて自然というものを信頼せず、子供の指導を盲目な自然の手から奪うために全力を尽くさねばならない。子供の眼前に今現れる世界は神の第一の創造ではない。その世界は子供の感性的快楽の無邪気さにとっても、また彼の内部の自然の感情にとってもひとしく腐乱した世界であり、利己的手段に対する戦に満ちた矛盾に満ち、暴力に満ち、驕傲と詐偽とそして偽妄とに満ちた世界である。その深淵に何らの愛なく、ただ道徳的死滅の住まう渦巻く奈落の乱舞に汝の子供を誘うものは、神の最初の創造ではなくて実にこの世界である。」(注7)彼がここで言う世界こそ、人間の原罪の結果である。文字の上からは、私たちはペスタロッチーがここで人間本性のうちに悪の存在することを認めていたということはできないかもしれない。人間に対している自然が神の最初の創造のままの姿ではなくて堕落した世界である。しかし彼の言う自然、この世界は人間自身をも含めていないだろうか。

ペスタロッチーはまた他の個所で、「愚と罪との精神はわれわれの肉のうちにも、また血のうちにも存していて、あらゆる誘惑をもってわれわれの諸力が智慧と徳、愛と信仰とに発展するのを妨げる。」と言って、私たち人間の心が決して先天的に善ではないことを示し、それ故にこそ「基礎陶冶の理念はその全範囲にわたってわれわれの動物的本性の要求が内的の神的本質の高き要求に従属し、肉と血とが清新に従属することを要求する。」(注9)と述べて、教育が決して道徳的陶冶を無用とはしないことを教えるのである。

以上原罪に対するペスタロッチーの態度について見て来たが、彼は原罪の理論を認めていたと結論づけることができるのではないかと思う。それ故にまた彼はキリストの贖罪に対する信仰を持っていたということができるのであるが、この点についても少しく調べてみよう。

 「贖世というキリスト教の玄義は事実優れたキリスト教的な愛と悔いの感情が満ちた彼(ペスタロッチー)の魂に全く欠けているように思われる。」(注10)ドゥ・ガンはペスタロッチーの結婚当時の日記を評してこのように言っている。しかしながら、ペスタロッチーは「この欠陥をまもなく充そうと努めたのである。」(注11)「彼がなすすべてのことにおいて彼は、不徹底なこともしばしばあったにせよ、神の摂理とイエス・キリストの贖罪にたよるのである。それ故彼は少なくとも自分が呼びかけた一部の人類にとって、これら二つの点、[神の摂理とイエス・キリストの贖罪]は『異論を超越したもの』と信じたのである。」(注12)

 また、モルフは『ゲルトルートは如何にしてその子を教うるか』の第13,14信を評して次のように言っている。

 「読者は私の詳細な説明がなくとも、道徳宗教の陶冶に関するペスタロッチーの見解における根本誤謬を、彼が人間関係よりも高い宗教源泉を一つも挙げず、また救済、贖罪、解放ないし生命に関するキリストの言葉と行為とが--文字の上からはこの原理のどこにも見出せないという点に認識するであろう。(われわれは明瞭に「文字の上からは」という。何故かと言えば母はキリスト教を信ずる母であり、彼女のキリスト教を自分自身のうちから汲み出すことができたではないか。)しかしこれは彼の悟性の誤謬であって、彼の心情の誤謬ではない。そしてそれは一般に基礎をただ『感覚、精神的』法則にのみ求める方法(メトーデ)を、ここでも目的への安全なる指導者として示そうとする努力に由来する。彼の心情はより高い要求とより高い手段とを知っておればまた持っておった。」(注13)

 贖罪に対するペスタロッチーの考えについて、二人の伝記作者はこのように述べている。私は今、ペスタロッチー自身から聴こう。「到る処で失われている神に対する子心の感情を、苦しみと死とをもって人類のために回復した神人はこの世の救済者だ。彼は主の犠牲となった牧師だ。彼は神と神を忘れた人類との間の仲保者だ。彼の教えは正義を陶冶する国民哲学などではなくて、失われてゆく神の子の種属に対する父なる神の啓示だ。」(注14)彼が神人と言うのはキリストのことである。聖父なる神が人類の罪を贖うためにその御独子をこの世に遣わされた、これこそ人となり給うた神・キリストである。彼はこのことをもっとはっきりと、1810年のクリスマス講演で述べている。「われわれを贖うために人となったイエス・キリスト、更に許され、浄められ、愛によって結ばれ、永遠に神と主と交通するわれわれ、ここにこそ凡ゆる地上の喜びを越え、凡ゆる人間、凡ゆる時に開かれた大きな喜び、天上の神聖な喜びがある。」(注15)「人となったキリスト」と彼が言うとき、彼はキリストの神性を表明している。キリストが真の神であると同時に真の人間であることを、世の人々は信じない。キリストはその言葉とその行いとの間に少しの矛盾もなかった。そのキリストは断固として自己が神であることを主張した。もし彼が神でないとすれば、彼は大嘘つきであり、詐欺師であり、狂人であろう。彼の人格は偉大であったという人も、彼は神であると表明することを躊躇する。

 ペスタロッチーはベルンの教育局長イートに宛てて、彼が四福音書からイエズス・キリストの言葉と行為との本質的なものを抜粋させて、イエズス・キリストの教えの精神を子供たちに理解させようとしているということを知らせて次のように続けている。「私は人類が神と信仰とを必要とすることを知っています。そして妄想と罪悪とに深く屈した人類の、偉大な救済者、即ちイエス・キリストにおいて、神を外ならぬ精神において、また真理において崇拝することをわれわれに教えた唯一の崇高な牧師を認識します。...ただわれわれの救済者の崇拝においてのみわれわれの和合の目的が達せられます。」(注16)私たちはこれらの言葉と共に、なお多くのものをこれにつけ加えることができる。つまり、彼が晩年において行ったクリスマスの講演及び新年の講演のうちに、これに類する多くの章句を見出し得るのである。

 以上のことから、ドゥ・ガンの言っているように、「彼の宗教上の表現がキリスト教的見地から見て重大な欠陥を示していた」(注17)時期もあったが、しかし「この欠陥を彼はまもなく充たそうと努めた」(注18)し、また実際にそれを果たし得たと言っていいのではないかと思う。

(1)メスナー、自然法(上)、p.90上 6

(2)同上、p.90上, 7-10

(3)J.ギットン、新しい思考術、p.182 2-6.

(4)長田新、宗教と教育、p.127 11-p.128.8.

(5)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.149 15-p.150 1.

(6)同上、p.149 13-14.

(7)ゲルトルート、p.206 8-12.

(8)モルフ、ペスタロッチー伝、第4巻、p.379 6-17.

(9)

(10)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.46 15-16.

(11)同上、p.150 15.

(12)同上、p.291 1-3.

(13)モルフ、ペスタロッチー伝、第4巻、p.401 3-10.

(14)ペスタロッチー全集、第4巻、p.392 11-13.

(15)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.358 6-8.

(16)モルフ、ペスタロッチー伝、第4巻、p.401 15-p.402 2.

(17)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.150 14-15.

(18)同上、p.150 15.

第四節 キリスト観

 前節で見たように、ペスタロッチーが生涯キリストの名を口にしなかったと言うのは正しくない。彼はその著『シュタンツ便り』の中で孤児を指導する方法を述べた後、次のように続けている。「私は是非ともまず第一に彼らの内的なものそのものと正しい道徳的の情調とを彼らの心のうちに目覚まし、鼓舞し、それによって外的なものに対して彼らを活発ならしめ、注意深からしめ、愛情あらしめ、従順ならしめざると得なかった。私はそうする外はなかった。私は『まず内を清めよ、然らば外もまた清まるべし』というイエス・キリストの崇高な原理に信頼せざるを得なかった。」(注1)ペスタロッチーの教育説は福音書の教えるところと多く一致するところを持っている。「イエスが望み給いしこと、それは精神と真理における内的発達であり、心から生まれるものである。イエスがわれわれにイエスと一緒になっているように要求するのは、葡萄の枝がそのれがでている幹の液で養われている如く、われわれがイエスの愛、信、慈悲で養われようとするためである。常にイエスは行為を生んだ感情によってその行為を判断し、かくて人間の魂の底にかくされている動機と外的生活にそれが現れたことの実際の価値との間に存する関係の一致を肯定する。...到るところでイエスは人間の心の発達を植物の有機的な発達と比較することによってわれわれに教えているのである。」(注2)先に引用した1818年1月12日のペスタロッチー72歳の時の誕生日の講演においても、彼は福音書とそっくりのことを言っている。

 ペスタロッチーは「言葉の固有の意味において自由思想家であり、同時に自由な語り手」(注3)であるが、しかし「彼の自由思想は決してキリスト教の真理を疑うには至らしめなかった」(注4)のである。彼が『隠者の夕暮』の最後のところで、「神人」について語っていることについては前に触れたが、そこで彼が意味するところの「神人」は、人類の贖いのために聖父なる神から遣わされて人となり、苦しみを受け、十字架につけられて死し、死者のうちより復活し給うたキリストである。彼は世の聖賢、君子或いは単なる人類の教師とは根本的に異なっている。

 彼は実に「神人」である。この意味を比喩的に取ることは許されない。キリストははっきりと自己の神性を言明する。ペスタロッチーがある冬の日の朝の祈祷において述べている言葉は、彼のキリストに対する考えを明らかにするであろう。

「一週の中で今日、即ちキリストの受難と死の日ほど大切な日はありません。...大地がよく耕されていなければ、雪も冬も、夏を手助けするができません。それでは冬のあらゆる休息にも拘わらず、種子は窒息してしまいます。人間だって同じです。彼の生命の種子がよく耕されていない限り、臨終の床の休らいと至幸な復活とを彼は迎えることができません。...もし私たちがこのことを眼に止めるならば、キリストが死へと歩んだ仕方が正しい仕方であるということが解ります。彼の最後の言葉は、事畢りぬ(ヨハ19:30)というのでありました。しかし彼は彼の生活が完了したのを知っていたので安らかに死を迎えたのです。もし彼が悩みかつ死ななかったら、彼の畢生の事業も完成しなかったでしょう。彼は死ぬまで天に在す彼の父のために、人類のために生きていました。だから彼の休らいがあったのです。...完成されない人間は休らいを見出しません。しかし完成することはどんなに難しいことでしょうか。...イエス・キリストはそれを完成したのです。私たちは完成しません。すべて人間のすることは貧弱で、未完成の断片です。...私たちは完成しません。...私たちは欠点と散乱と断片の中に生活しています。しかし完成への努力、それこそ私たちにも休らいを与えることのできるものです。」(注5)私たちは、ここでペスタロッチーがイエズス・キリストと私たち人間とを対比させていることに注意する必要がある。キリストを人類の偉大な教師として、彼が認めていることは明らかなところであるが、彼はそこに止まらず、キリスト教徒としてキリストの神性に対する信仰を告白している。キリストの神性に対する彼の信仰は、また彼のクリスマス講演の中からも確かめられるであろう。「もし私たちがこのクリスマスの日を私たちの心の祭日としょうと欲するなら、私たちの間に愛を共有財産としましょう!そして愛はイエス・キリストの力と聖霊とがない所には存し得ないのです。...人々がイエス・キリストの力と霊とによって結ばれていないときには、人々が相交わることは彼らを高めないで低くするだけであります。...兄弟及び友人たちよ、イエス・キリストの徳を享けましょう。...私たちの喜びがイエス・キリストに対する私たちの信仰と愛との純粋なる結果であることを。」(注6)

 ペスタロッチーが彼の「学説系統全体の肝腎なる要石」であるとした宗教は、以上見たように、ルソーに見られるような合理主義的なものから遙かに遠いものである。それは人間を決して軽んずるものではないが、また決して人間を絶対化するものでもない。ペスタロッチーが言っているように、人間の目的は完全になることである。しかしながら、人間にはこの世において決して完全の域には達し得ない限界がある。私たちが完全へと近づいて行く努力こそ尊いものであるとしても、遂に人間は完全の中に入り得ないとすれば、その努力も所詮無駄ではないだろうか。それは結局のところ五十歩百歩である。臨終のペスタロッチーは、「私はやがて真理の書物を読もうとしている」と叫んだ。地上ですべてを知ることは人間にはできないということを、彼は十分に信じていたのである。人間がそこから出て来たところの神に帰ることこそ、彼の完成が全うされることではないだろうか。

神と人との関係ということについて、問題の鍵となるもの、それはキリストである。ペスタロッチーが、「神は人類の父であり、神の子は不死である」と述べていることについて長田先生は次のように言われる。「神と人との関係を父と子との関係と同一視することはペスタロッチーの宗教思想における根本基調であ」(注7)る、と。「このように神を父と見るから神人同根となる」(注8)と。そして、「神と人とが同一根底に立たないなら、人はどうして神を愛し敬することができるだろうか。...神が人から独立して外にある超越実在であるなら、このような神は徒にわれわれの畏怖の対象もしくは阿諛の対象たる外はない。」(注9)つまり言いかえれば、「神と人とがその根底において同根でなく、従って両者の間に連続性がないなら、人は決して神に対して愛と敬との態度に出ることはできない。」(注10)と。

 創造という点から神が人間と同根ではあり得ないことは先に見て来たが、しからば、神と人との連続性ということはどうなるのであろうか。神は超越的な存在であり、神と人との間には無限の距たりがある。そこには明らかに「断絶」がある。しかしながら、神はその愛の故に人間を創り、これに自由意志を与え給うたのであって、神の最初の創造の時の人間は神の愛子たるの資格において神と連続性があった。言いかえれば、神と人とは超自然的な連続性によって結ばれていたのである。この連続性を破壊したものは、人間の自由意志の乱用の結果である原罪である。世界は一変したのである。神と人との間の超自然的なかけ橋は爆破されたのである。しかしながら、ここにこそキリストが登場するのである。キリストが人類の救世主であるのは、彼が「神人」として神と人との間の関係を正常なもの、連続性のあるものへと回復したからである。

 ペスタロッチーが「イエス・キリストに対する信仰」という言葉を使うとき、彼はイエズス・キリストの教えに対してのみではなく、イエズス・キリスト自身に対してこう述べるのである。キリストは「われは道なり、真理なり、生命なり」と言ったのであって、私は道を知っている、真理を持っている、生命に導くとは言わなかった。

私たちはペスタロッチーの何処にも、キリストの教えに対する攻撃を見出さない。ましてキリスト自身に対する攻撃を見出さない。彼がキリスト教の真理について明確に、また体系的には述べなかったにせよ、それについて多くの個所で述べており、かつそれに対する攻撃或いは反対を見出せないということは、彼がキリスト教の真理を信じていたということの有力な根拠となるものではないだろうか。

(1)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.195 8-12.

(2)同上、p.491, 16-p.492 2.

(3)同上、p.150 13.

(4)同上、p.150 13-14.

(5)同上、p.328 14- p.329 18.

(6)同上、p.358 12-p.359 5.

(7)長田新、宗教と教育、p.96 1-2.

(8)同上、p.96 10.

(9)同上、p.97 6-8.

(10)同上、p.97 10-12.

第五節 愛--神の愛と人の愛

 「愛は人間にとって神に捧ぐべき唯一の真なる礼拝であり、真なる信仰の唯一の源泉である。これのみが人間を生命に導く。愛なくしては地上に死と破滅あるのみである。愛なき人間は希望なき人間である。嫉妬と憎悪と 怒とに身を委せる不幸な人間は絶望につながっている。人間の最上の力も、彼がその同胞を愛さないときには彼を破滅させ、彼が神を崇ばないときにはその彼はその同胞を愛さない。かくて神の忘却は人間にとって弱さと死の原因である。」(注1)ペスタロッチーのこの言葉を読むとき、私は聖福音書の中でのイエズスの言葉、「汝心を尽くし、霊を尽くし、意を尽くして主たる汝の神を愛すべし、これ最も大いなる第一の掟なり。第二の掟もまたこれに似たり、汝の近き者を己の如く愛すべし。」(マテオ22:37-39)を思い浮かべずにはいられない。神を愛することがキリスト教の第一の掟であり、人を愛することはその第二の掟である。ペスタロッチーはこの順序を間違えてはいないと思う。いわゆるヒューマニズムはこの第一の掟を捨てて第二の掟だけを採る。或いは少なくともこの二つを逆にする。人類愛を説くヒューマニズムは神の教えに従うことである。しかしながら、この第一の掟が忘れられて第二の掟だけが孤立して残されたとき、それが生命あるものとして、人間を動かして行く力を持つかどうかということは大きな問題であろう。私たちはヒューマニズムが神の掟であるということを知らなければならない。しかもその上には第一の掟が厳としてあることを忘れてはならないのである。

キリスト教のすべての教義、すべての掟はこの愛のうちにおいてのみ生命を持ち、愛においてのみ完成される。愛とは二つのものの魂の底の最も奥深いものの交流である。愛は二つの人格が合体して一つになることである。私たち人間のこの世における愛は、愛し合う二つのものの間に均等性或いは連続性がなければならないように思われる。神が超越的であり、人間との間には、「存在論的断絶」があるのならば、両者の間に愛の交流が行われ得るか、内在論の立場に立つ人はこのように問う。人間の理性によって、ある程度までは、神の存在、神の特性、神の摂理をうかがい知ることはできるであろう。神の愛は、しかしながら、人間の理性にとって一つの神秘である。神御自身の啓示がなかったとするならば、私たちには決して神の愛を知るというようなことはなかったであろう。宗教が、神が、人間本性の要求であるからと言って、宗教が、神が人間性の理想化されたもの以外の何物でもないと考えるのは誤りではないかと思う。神はキリスト教において天啓を通じて私たちに神の愛を教えた。私たちはそれを旧約聖書を通して、或いはイエズス・キリスト御自身から聴くことができるのである。ペスタロッチーは『隠者の夕暮』において、「神は父である」と言って、「神は愛である」とは言っていない。しかしながらこの二つの言葉は同じことである。神と私たち人間との関係は父とその子供との関係である。父なる神は私たち人間について配慮なさる。神の人間に対する配慮は摂理と言われる。神の摂理は冷酷な運命ではなくて、愛の摂理である。従って愛と父性と摂理とは互いに合致する。「神は愛である」。しかしながら、愛は愛することによってその愛を証明する。愛は単なる感情のみではない。私たち人間に対する神の愛がどのように発露したのかを聖書の言うところから見てみよう。聖三位一体の神の愛は、天地の創造、人間の創造、超自然的生命の賦与、その他数知れない恩恵の贈与として発露した。このような神の愛に対して人祖は罪を犯すことによって、言いかえれば神の命に背くことによって神の愛に報いたのである。原罪によって神と人間との間の平和は絶たれた。そこには理性の暗さ、精神と肉体との葛藤、或いは苦難が生じ、神の直観という永遠の至福の喪失が残されたのである。神は愛であると同時に正義である。神の正義は人間の償いを要求した。しかし人間は有限であり、無限なる神に対する無限なる償いができるはずがない。この唯一の解決は神であると同時に人であるものによって償いが果たされること以外にはない。けだし礼拝するものとされるものとが同等であることはできない。ここにおいて神の愛は、神のひとり子、第二のペルソナが「己を無きものとして奴隷の形をとり」(フィリッピ2:7)、人となることによって、父なる神より一段低いものとなることによって、正義と愛とを矛盾することなく解決し給うたのである。神のひとり子、神のロゴスは人となることによって、私たち人類の長兄として、父なる神の前に贖罪の犠牲を捧げ給うた。キリストは人類のすべての罪、過去の、現在の、未来のすべての罪を自己の一身に引き受けて、限りなき贖罪を父なる神に捧げ給うたのである。これより大いなる愛はないのである。このような神の限りなき愛は一つの神秘であって、私たちはこのことをただ神の啓示によってのみ知り得るのである。このように短い文章においてこのように大きな問題を適当に語ることはできない。

私たち人間に対する神の愛がこのようであれば、私たちもまた私たちの愛をもって神を愛さなければならない。私たちに対する神の愛は私たちに神と私たちの兄弟とを愛することを要求する。神に対する信仰は神に対する愛なくしてはあり得ない。信じるためには愛さなければならない。愛に対する期待はすでに愛であると言われる。そのためには、私たちの心は、「開かれて」いなければならないのである。ペスタロッチーが、「道徳生活の基礎である信仰と愛」が合自然的に「母の手に助けられて、感性的な信頼及び感性的愛から人間的な愛及び人間的な信頼へ、そしてさらにそこから真のキリスト教的な信仰及びキリスト教的な愛の純粋」(注2)さへと発展して行かなければならないと言うのは、このような「開かれた心」を私たちに持たせようとするからである。

 神を愛するとはどういうことなのであろうか。「汝らもしもわれを愛せば、わが言葉を守れ。」(ヨハ14:15)「わが命令を有してこれを守る者は、これわれを愛するものなり。」(ヨハ14:21)神の掟に背くこと、それは罪である。罪は「神に対する汝の信仰の喪失」(注3)であり、神への愛の喪失である。神に対する私たちの愛の証拠は「掟を守る」ことの他に、「神を愛するが故に他人を己の如く愛する」ことである。「人ありて、われ、神を愛し奉ると言いて己が兄弟を憎まば、これ虚言者なり。けだし目に見ゆる兄弟を愛せざるもの、いかで目に見え給わざる神を愛し奉ることを得べき。かつ神を愛し奉る人は己が兄弟を愛すべしとは、われらが神より賜りたる掟なり。」(1ヨハ4:21-22)ペスタロッチーは『ゲルトルートは如何にしてその子を教うるか』の第13信で、ちょうどこれと同じことを言っている。「私が神を愛し、神に感謝し、神を信じ、神に従うの心を起こす以前において、予め、人々を愛し、人々を信じ、人々に感謝し、人々に従わなければならない。いやしくも己に見えるところの己の同胞を愛せざる人は、どうして見えざる神を愛することができようか。」(注4)ペスタロッチーにおいては神を愛することと人を愛することとは切り離されてはいない。彼はこの真理を福音書のうちから汲み取っているのである。世界と神とを同じ愛をもって、それ自身のために愛すべきことを、福音書は教える。「神を愛するが故に他人を愛する」ということは、神に対すると同じ愛をもって、自己のためにではなく、他人のために、愛することである。愛することの喜びだけではなく、愛することの苦しみをも愛するものこそ、真に同胞を愛するものである。「我が汝らを愛せし如くに、汝らも互いに相愛すべし。」(ヨハ23:34)とキリストは命令される。ペスタロッチーはそれにこう答えるのである。「友よ、兄弟よ!もしわれわれが同様になるなら、もしわれわれがイエス・キリストがわれわれを愛せし如く互いに愛し合うなら、その時こそわれわれは、われわれの生涯の目的から離れしめている凡ゆる障碍に打ち克ち、われわれの学校の幸福を、神自らがイエス・キリストにより人類の幸福をその上に打ち立てられた永遠の岩の上に打ち立てることができるであろう。」(注5)と。彼はこの同じ講演の中で、聖パウロの有名な愛についての言葉を引用している。「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を念わず、不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐えるなり。」(1コリ13:4-)彼はさらに、キリストの言葉をそのまま用いる。「友よ、兄弟よ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」と。

 ペスタロッチーは教育が愛によってのみ生命を保ち得るということを、1809年の新年講演の中で次のように述べている。「私たちは諸能力の発達の方法を単純化し、この発達を愛という聖なる力によってのみ促すのです。私の子供たちよ!この愛が諸君の中に成長し、強固になろうことを!私たちが求めるのはそれだけです。教授それ自体は憎悪を生み出さぬと同様に愛をも生み出しません。教授が教育の根本的原理でないのはそのためです。かかる原理となるのは愛であります。愛のみが私たちの中にある神性の永遠の発露であります。愛こそは教育の中心点であります。」(注6)教育の中心となるものが愛である。彼の言う愛は、私たちの愛と神の愛に対する信仰とによって私たちが真に神の子となるように、神が私たちに命じた義務を行うことのうちに存する。彼は決して神に対する愛と人に対する愛とを分離しない。彼にとって両者は不可分のものである。ペスタロッチーがこれらの言葉を心の底から語っているとしても、もしも彼がその行いによって彼の言うところの愛を証明しなかったとすれば、彼の言葉は誰をも動かさなかったであろう。それは死せる言葉である。彼が最も嫌ったものこそこの死せる言葉、生命のない形式ではなかったか。私たちは彼の生涯が神に対する愛と同胞に対する愛とによって貫かれていたことを、彼の伝記のうちに見ることができる。その愛は聖パウロが叫んだところの愛、貧しい者に対する慈悲の愛であり、自己のいたらなさを知る誇らない、驕らない愛であり、自己のためには何もせず、すべてを同胞のためにする、己の利を求めない愛であり、自己の敵に対してすべてを赦すところの愛であることを私たちは見るのである。そしてペスタロッチーのこの愛はその最も奥深い根底に、彼の創造主、保蔵主、救世主である神に対する深い愛を持っていることを、私たちは見るのである。

(1)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.112 9-14.

(2)ペスタロッチー全集、第12巻、p.20, 14-16.

(3)ペスタロッチー全集、第1巻、p.387, 2.

(4)ゲルトルート、p.200 19-p.201 2.

(5)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.414 10-13.

(6)同上、p.355 5-9.

第六節 宗教と道徳

 ペスタロッチーが道徳について語るとき、それはいつでも道徳的宗教的意味を持っており、宗教から切り離された道徳というものは、彼にとって考えられないものであった。『隠者の夕暮』において彼は、「神に対する信仰は人類のすべて純粋な親心と同胞心との源泉であり--すべての正義の源泉である。」(注1)と述べて、正義の基礎は神に対する信仰にあることを明言している。親心と同胞心、それは人間が神の被造物であるという事実から導きだされてくるものであり、私たちがその事実を事実として認めないとき、言いかえれば、神という一の理念を、ただ人格的に人間の父であると仮定していると言うのであるならば、その親心と同胞心は、生命のない単なる詭弁に過ぎないのである。ペスタロッチーにあっては、正義のみならず、国民の徳性、国民の浄福、国民の道徳も、すべて神に対する信仰にその基礎を置いている。「正義とすべてのこの世の浄福との源泉、人類の愛と同胞心との源泉、これらはわれわれが神の子であり、そしてこうした真理に対する信仰がすべてのこの世の浄福の確かな基礎であるという偉大な宗教思想に基づいている。この偉大な宗教思想のうちに、国民の純粋の浄福を求めるすべての真の国家的智慧の内的精神が存在している。そこで人倫と啓蒙とそして現世的の智慧との一切の内面力は、神に対する人類の信仰というこの基礎の上に建っている。」(注2)私はすでにペスタロッチーの言う神が、人間の創造主、保蔵主、救世主であることを見てきた。「神は父である」というのは、そう考えるだけのこと、或いはそういう関係にあると見なすことではなくて、実際にそうであるということである。であるから、「神を忘却したり、神に対する人類の子としての関係を誤認したりすることは、全人類における人倫と啓蒙とそして智慧との一切の浄福力を破壊する源泉」(注3)なのである。「従って人類が神に対してこのように子心を失うことは、世界の最も大きな不幸」(注4)である。人間はこの神に対する子心を罪によって失った。「この失われた子心を回復することは、地上において失われた神の子たちを救済すること」(注5)なのである。ここにおいてペスタロッチーはキリストの神性に対する信仰を宣言する。「到るところで失われている神に対する子心の感情を、苦しみと死とをもって人類のために回復した神人はこの世の救済者である。...彼は神を忘れた人類との間の仲介者である。」(注6)ペスタロッチーはこのように、すべての問題は神に対する信仰なくしては、その充全を期することができないということを強調している。ペスタロッチーが宗教と道徳との関係をどのようなものと見たかという問題は、今までみ見て来た彼の宗教観からも、およそうかがい知ることができる。

 ここで、宗教と道徳との関係について三つの考え方があるが、それについて少し調べてみたい。三つの考え方というのは、(1)宗教と道徳との間には何の関係もないという観点、(2)宗教は道徳に基づくという立場、(3)宗教と道徳は深い内面的必然的関係があり、、道徳は宗教に基づくという見方である。ここで言う宗教は神と人間との関係にかかわるものであり、道徳は人間が善い生活を送るために何をなすべきかを教えるものである。

(1)宗教と道徳とは無関係である。これは無神論的道徳と言われるものである。この道徳によれば、それに従う人々に善行が賞されるか悪行が罰せられるかということにかかわりなく、善を行わしめ、悪を避けしめるから、利己主義から自由にされていると言うのである。この点は私たちにとって大きな魅力となるものである。しかしながら、この道徳は、道徳の主要な問題であるところの義務ということについて、それに関する命令の真の起源は何処にあるかという問題を避ける。また最も主要な問題である神は存在するか否かということについて決定できない不可知論的無神論においては、明白な悪に対して明白な善価値が存在するか否かということについても決定することができない。その道徳はそれ故、表面的、形式的なものになってしまうという多大の危険を持っている。それは常に皆がすること、なすべきことの限界にとどまろうとして、どうして、どのような根拠でそういう限界が守られなければならないかということについて何も示すことはできないのである。人間の心の中には、秩序の背後にある究極的、合理的、善意的な一つの存在を信じるという傾向がある。無神論は人間のこの信仰への希求を抑圧して、人間を不均衡な状態にさせる。この不均衡が生むものは、人間自身が神たらんとすることか、或いは人間の奴隷化かの何れかである。私たちは前者の例をニーチェやサルトルのうちに見出すであろうし、後者の例を全体主義体制の無神論的国家至上主義のうちに見出すことができるのではないかと思う。

(2)宗教は道徳に基づくという立場。この立場は端的に言って、「神あるが故に人は道徳的でなければならないと説くのではなくて、むしろ道徳あるが故に神がなくてはならない」(注7)と言うのである。カントはこのことについてよく引き合いに出されるが、彼がその哲学説の中で宗教に与えた役割は、道徳のための宗教ということであったと言われる。カントは、宗教は人間の義務を神の命令と認めること以外の何ものでもないと考える。この考えから言うと、人間の義務は神の意志であり、道徳は神の与えた実定法であるということになる。このように言われると、義務は神の意志以外にその基礎を持たないし、また道徳は神の与えた実定法であって、他の方法でも与えられるものであるという印象を受ける。このように押し詰めて行ったものが倫理学的相対主義であると言われる。カントはこの相対主義への道を開いた最初の人の一人であると言われている。またカントは宗教は論理的思弁に基づかず、倫理的意識の事実に基づくということを言っている。この言葉は多くの人々によって、カントの最初に意味したところから離れて、宗教的プラグマティズムの意味に取られて、宗教は人間にとって、人間を改善する限りにおいてのみ善いもので、宗教それ自体には価値がないと信じられている。もちろん、宗教は人間の改善に大きな力となるものである。しかしながら、だからと言って宗教がただそのためのものでしかないとするのは行き過ぎであろう。

(3)道徳は宗教に基づくという立場。人間が善い生活をするために何をなすべきかということが道徳の問題である。道徳が宗教的要素を持っているのと同じように、宗教は道徳的要素を持っている。この宗教と道徳との密接な関係は、人間の道徳的義務がその基礎を宗教的信仰のうちに持っていることを示している。道徳について考えるときに私たちは義務という基礎的な経験を無視することができない。私たちが善をなし悪を避けなければならないということを否定するものはいない。この当為は、現実の拘束力を持たない単なる勧告や忠告から区別される。私たちはこの当為を私たちのうちに感じるのであるが、それは内的にも外的にも、どんな強制をも用いずに私たちを拘束するものである。義務概念と義務の日常経験とがどのように説明されるのかという問題は宗教と道徳との関係を明らかにするであろう。

 私たちが内心に感じる義務は、私たちの人間性自身から来たもの、或いは教育の産物であると言うことができるかもしれない。義務を私たちに課するのは、私たち自身の人間性である。言いかえれば、人間は自分自身を義務づけるのであり、倫理的に自立するものである、とカントは主張する。人間は道徳的義務の終局原因であると言うのである。義務が人間性から来るというのは、人間が自分のうちに義務を感じるということであれば正しいが、しかしそれはその義務が人間によって生み出されるということではない。道徳的義務は一つの命令であり、私たちはその命令を自分自身のうちに感じる。その命令は例外を許さないし、時間的にも空間的にも限定されないものである。人間の経験は道徳的自律の説に欠陥のあることを教えるのである。重大な道徳的過誤がその人間に与える苦痛の大きさは、人間が内心において道徳法の立法或いは廃止をなし得ないということを示すものである。道徳的良心が私たちを義務づけることは神によってしか究極的には説明され得ない。このように言うとき、人はそれ故に道徳が神を要請するのであって、私たちが道徳的であるためには、神は存在しないのに、あたかも存在するかの如くに考えなければ説明できないから、神の存在を主張するのであると誤解する。原因と結果とを逆にして、神が存在するから道徳法が存在するのではなく、道徳法があるから神を要請しなければならないと考えるのである。

習慣、その他教育による社会の努力の結果、私たちの道徳的良心が作り出されたのであるという主張がある。もちろん教育によって、私たちの道徳的判断の形成、発達が大きな影響を受けることは確かなことである。広い意味の教育的感化と生来の道徳法の影響との間をはっきり分けることは難しい。しかしながら、善を行い悪を避けねばならないという根本的な、基礎的な判断はすべての健全な人間に与えられているものであって、社会によって、或いは教育によって生み出されるものではない。教育は最も基礎的な事実を生み出すのではなく、そういう事実を明らかにして、具体的、個人的場合に適用するのである。この適用の際の道徳的知識に必要な命令の性質は人間を越えた権威を示している。宗教的な信仰は、私たち自身と私たちが所有するすべてのものが、物質的なものも、精神的なものも、究極的には神に負うものであることを教える。人間がいったんその創造主として神を認めると、その主に対して人間は当然の礼拝と感謝との義務を感じる。宗教に基づく道徳という場合、宗教と道徳との関係は非常に密接なものであることはもちろんであるが、道徳的完成の理想は非常に高く、人間の弱さの妨害は打ち勝てないほどだから、人間がこの理想に到達することは殆ど不可能であるという事実を忘れてはならない。この人間の努力のみによっては達し得ない終局の道徳的完成に到達するためには神の恩寵を求める祈りが必要なのである。祈りは、それ故に、宗教が道徳的義務の遂行に与える最後のそして究極の助けである。宗教と道徳とが密接な関係にあることは以上の通りであるが、この結果として言えることを要約すれば、道徳的義務の遂行が宗教的な意味を持つこと、言いかえれば、すべての真実の義務には賞罰があるということ、宗教にはその信仰がなければ存在しないところの義務があるということ、宗教は私たちのあらゆる義務の遂行に大きな助けとなるということである。

以上簡単に宗教と道徳との関係についてについて見て来たが、ペスタロッチーが以上挙げた三つの立場、と言っても後者二つの何れの立場にあったかということについて吟味しなければならない。ペスタロッチーは『白鳥の歌』の中で次のように述べている。「われわれの諸力の真に完成しようとする完全性への純粋な誠実な努力は、ただただ神的な愛、神的な信仰からのみ生じてくるのに、この種の一般力はこのような神的な愛と神的な信仰との特質を自己自身のうちにもっていない。反対にそれはその本性と本質とに従い、われわれのもろもろの力及び素質の不調和に対する感性的に活気づけられた萌芽を内に深く蔵している。完全性と完成とへの努力のみがよくわれわれ自身のうちなる不調和の萌芽が成長するのを真に弱め根絶することができるが、この完全性と完成とへの努力はただ神の助力、神の恩寵を真剣に求める所からのみ生じてくる。この真実の希求はまちがいなく信心と祈りとに導くものである。だが真実の信心と真実の祈りとは真実の神への信仰と神への愛との存しないところにはあり得ない。」(注8)私たちは、ペスタロッチーのこの言葉から、彼が道徳的完成への努力を合理化し、正当づけるために神がなければならないと主張しているのだと言うことができるだろうか。その反対こそ真ではないだろうか。

 道徳が宗教の基礎であるということは、道徳以外には、言いかえれば善い生活以外には、人間が神の前に容れられ得るものとなる方法はないということであり、結局のところ、礼拝の真実の価値を否定することに外ならない。人間の感性への努力がないならば、礼拝は外形的、形式的なものに堕してしまう恐れがあることはもちろんであるが、しかしだからと言って、礼拝をしないことが正しいとは言い得ない。形式主義とは生命のない機械的な行いであって、良い意味での習慣とは異なるものである。生命のある形式もあり得るのである。礼拝、祈祷の問題については後に触れるつもりである。私は、ペスタロッチーが彼の無力さを自覚し、自己の罪を悔いて、絶対者たる神に礼拝、祈祷を捧げていることを彼の伝記のうちに見る。その祈りは彼自身以外のあるものに、彼の本質以外のあるものに向けられていることは明らかである。ペスタロッチーは、決して宗教をもって単に道徳生活への奉仕者としての役割だけに限定しなかったのである。

(1)ペスタロッチー全集、第1巻、p.386, 4.

(2)同上、p.392, 2-6.

(3)同上、p.392, 7-8.

(4)同上、p.392 8.

(5)同上、p.392 9-10.

(6)同上、p.392 11-12.

(7)長田新、宗教と教育、p.114 10-11.

(8)ペスタロッチー全集、第12巻、p.165, 9-16.

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 以上見て来たように、ペスタロッチー教育学の中心である宗教、道徳は、その基礎をキリスト教のうちに持っている。彼のキリスト教が直ちに伝統的なそれであると言うことはできないが、それにも拘わらず、彼の宗教道徳観がキリスト教的真理に支えられていることは疑いのない事実である。それは彼が育った環境が、広い意味でのキリスト教的な雰囲気であり、彼が知らず知らずのうちに呼吸していた空気は、たとえキリスト教の真理に対する反抗の空気であったとしても、常にキリスト自身を中心として動いていた空気であったからである。各人がキリストを如何に考えるかという問題は、ペスタロッチーの時代にも、いやキリストがこの地上に出現して以来、現在もそして未来にも問題にされないという時はないのである。この問題は単に欧米においてのみならず、全世界のすべての人々の問題である。私は、人間が、その文化やその気候風土その他いろいろな条件によってどのように異なったものであれ、その本質において時間、空間を超えて同一のものを持っていることを信じる。そして人間の条件の如何にかかわらない、人間に依存しないところの価値の世界があることを信じる。キリスト教がその種子を蒔かれたのは、東洋と西洋との中間においてである。キリスト教が芽を出し、成長し、そして大木になったのは西洋においてであり、従ってその文化、或いは表現形式は西欧的であるが、その精神は全世界のすべての人々に通用するものである。何故なら、キリスト教の精神は人間の本質に一致しているからである。

ペスタロッチーの思想から彼の神に対する信仰と愛とを切り離すことはできない。神に対する信仰と愛とを未開人の遺習、或いは中世の残滓であるとして捨て去ることは容易であるかもしれない。しかしながら、その結果は私たち人間自身をも放棄することになってしまうのである。それは人間を神に祭り上げるか、または人間を動物にまで引き落としてしまう結果になるのである。ペスタロッチーが彼の全教育学体系のうちで宗教道徳を中心的、支配的位置に置いていることは既に見て来たが、彼は人間を人間たらしめることこそ、言いかえれば、人間がその本性に従って人間の究極の目的のために自己を完成せしめていくことこそ、教育のすべてでなければならないと信じたのである。そして彼は人間が自己の力のみによって完成し得ないという真理を十分に認識していたのである。ペスタロッチーが、「人間的の愛や人間的の信仰の発達と完成とは、宗教的信仰を通じて得られるべきわれわれの本性の救済のうちに求めらるべきものであり、恩寵の手段のうちに求めらるべきものである。」(注1)と言うとき、彼が意味しているのは、結局人間が人間として完成するために、宗教によって、言いかえれば、超自然的な力によって、人間の本性が救済されること、より高い次元に引き上げられることが必要であるということである。彼が宗教陶冶の必要について述べている次の文章は、彼の宗教が啓蒙思想からどれ位遠いかを示しているのではないだろうか。「国民の純化は神に対する真の生き生きした信仰へ彼を導くことによってのみ得られる。尊大な啓蒙は寺院と神殿とを軽蔑し、そして国民から彼らがそれによって静かに、敬虔に、永遠へと歩む杖を奪う。それはまた今までの善良な心、家庭の幸福、生活のすべての喜びと臨終の床のすべての希望とが基礎を置いていた原理を奪う。--しかもその代わりに尊大な啓蒙は何を国民に与えるか。軽率と不安と硬化した感覚以外には何ものも与えはしない。宗教のみ人類に真の自由を与える。」(注2)

 宗教が人間性の限界に止まるとき、その宗教は宗教的なものではあるかもしれないが、宗教ではあり得ないと言うことができるのではないだろうか。それはまた宗教が人間の道徳的、知的、身体的な発達にとって、広い意味で手段となり得ることを否定するものではないが、しかし宗教がそれらのことにもまして、それ自身の目的を持つこと、言いかえれば、人間の超自然的生命への参与を可能にするという目的を持つということを意味する。

最後に、ペスタロッチーが、宗教が教育を、そして人間生活のすべての領域を統一しなければならないということを述べている次の引用でこの章を終わりたいと思う。

「宗教的な道徳性は宗教がわれわれの全境遇の範囲内において、従って家庭的な市民的な点でわれわれに人間の義務として命ずる一切のことを習慣化させるように、嬰児の時代から人間的に援助すべきことを要求する。この点で宗教そのものは高次の立場から現れてくるが、その宗教はそれがわれわれに避くべからざる義務として命ずる道徳的の習慣を確立するために、人間の技術のあらゆる成果を利用し、完成し、神聖なものたらしめるということは否定すべくもない。...宗教は宗教が与えるものではないものを完成し、宗教が創造するものではないものを神聖化し、宗教が教えるものではないものに幸福を与える。」(注3)

(1)ペスタロッチー全集、第12巻、p.121, 16-p.122 1.

(2)モルフ、ペスタロッチー伝、第4巻、p.436, 7-11.

(3)ペスタロッチー全集、第12巻、p.162, 9-p.163 1.


第三章 ペスタロッチーの宗教教育論

 ペスタロッチーの宗教観のところでも、私は既に彼の宗教教育が如何なるものであるかについて少しばかり見て来たのであるが、彼がその宗教教育において、児童の直観、感情を重視し、合自然的発達を強調したところに、私は彼の特色を見ることができると思う。

ペスタロッチーは児童の宗教感情を発達せしめる方法としての問答示教書の研究や説教一般をそれほど重要だとは思わなかった。児童を道徳的にするために、「ペスタロッチーはキリスト教的諸徳、信、愛、救い、赦しなどの実行に比して講演や説明には非常な重きを置かなかったのであり、彼は児童が揺籃の時から、しかも最初はわれわれに重要でないと思われても、敬虔、道徳、智慧の萌芽であるような極めて些細なことから、これらの徳の実行の習慣がつけられることを、彼は望んでいるのである。」(注1)

 ペスタロッチーは1818年1月12日の講演において、スイスの宗教復興の運動を喜んで迎えたとき、次のように述べている。「わが家庭に祝福を与える宗教的精神が未だわれわれの中に存続している。しかしそこには内的生命がない。何が神聖か、何が神的かということについて論議するばかりの理性的精神に至らしめられている。...しかし、キリストの真の教えの祝福の精神は人類の腐敗の真っ只中に新たなる深い根を下ろし、何千という魂に内的な浄い生命を保存しているかに見える。事実、われわれが人民頽廃の原因と考えざるを得ない今世紀の思想、感情、希望、習慣と相戦うために必要な原理と力とを期待し得るのは、キリスト教のみなのである。」(注2)ペスタロッチーが理神論を是認しなかったことは確かである。何故なら理神論は人間の霊魂の知、情、意の一致を無視して知性のみに頼るからである。しかし、理神論に反対して逆の極端に走ってはならない。ここにおいて真理は常に反対説の統一のうちにあるということに留意すべきである。知性のみを強調することは行き過ぎであり、と言って知性を否定して感情のみを強調することも同様に行き過ぎである。このことを念頭に置いて、私は彼の言う宗教教育が如何なる方法によって、また何故に行われたのかということを調べて行きたいと思う。

第一節 直観、感情の重視

 1802年12月中旬、ペスタロッチーは『方法(メトーデ)の本質と目的』という論文の中で次のように述べた。「もしわれわれが外部的直観に関してわれわれの気晴らしや空虚な言葉の魂なき使用によってその外部的直観の本質の殆ど全力を失い、そしてわれわれが外部的直観によってはもはや殆ど全く判明な概念ないし真理に達しないほど沈りんしてしまっているならば、われわれはわれわれの内部的直観に関してわれわれの気晴らしや空虚な言葉の絶望的なかつまた魂なき使用によって、その内部的直観の本質の全力をわれわれ自身のうちに失うに至るほど沈りんしてしまっているのである。しかしわれわれの道徳の本質従ってまた道徳発達のすべての手段の本質はわれわれの内部の直感力と純粋性との確保に基礎を置いている。」(注3)彼はここで明らかに外部的直観と内部的直観とを区別している。外部的直観は「感覚器官の前に立つもの」としての直観であり、単なる印象としてではなく、「発動的な思考を含むもの」としての直観である。彼が言語力の陶冶について述べたことは直観についてある示唆を与えるであろう。即ち、言語力は直感力と思考力との中間に位置すべきものであると言うのである。彼は次に、内部的直観の本質的基礎は愛、信頼、感謝であると言う。しかしながら、内部的直観は単に感性的なものではない。「道徳の感覚的基礎の外延は愛と感謝と信頼との感情の領域を越えて行く」(注4)のである。また「秩序と調和と美と平和とに対する感情は道徳の感覚的基礎である。そしてこの感情は道徳の基礎陶冶において正にすべての感覚的印象が従属しなければならない法則に従属しなければならない。」(注5)のである。

 ペスタロッチーがこのように直観、感情の道徳的宗教的陶冶における重要性を強調しているのは何故であるか。道徳、宗教の陶冶において彼が言語のみによる教育を排したのは、彼が児童の心理的発達に対して大きな理解を持っていたからである。人間の諸力、それは本質的にはただその能力を使用することによってのみ合自然的に発展させられるのである。「人間は自己の道徳的生命の基礎、即ち愛及び信仰をば、ただ愛し信仰する事実によってのみ合自然的に発展させられる。」(注6)のである。児童のうちに感情が芽生えていないときに概念的なものを与えることは意味をなさないからである。「道徳的陶冶はただ心理学的の方法の上に建てられている限りにおいてのみ善い。その心理学的方法は人間の素質をその素質そのものの利用にまで、特に心情の素質をよい基礎陶冶によって目ざまされ刺激されている博愛と好意とにまで強化し拡張する。」(注7)ペスタロッチーはこのように児童の心理的発達、また心理学的方法ということを強調するのである。このことについては、彼の弟子、ニーデラーがペスタロッチーの依頼によって書いたベルンの宗務会宛ての報告に要領よく述べられている。「...宗教に対して熱烈な尊敬の念を懐いていたからこそ、ペスタロッチー先生は先生が行ったように次のことを語ることができたのです。即ちすべての宗教教授の下にはこの心理学的基礎が置かれなければならないし、またその真理に対する力ないしその神聖とその祝福とに対する感受性がまず人間心情のうちに発展されて始めてそれらが心情のうちで真に、純粋に、神聖にかつまた力強くなることができるのであると。...先生は今この要求を満足させるために働いています。先生はその要求を満足させるために児童の心情を純潔に保持し、そしてその素質を宗教と道徳とに対するように素質の全範囲にわたって活動させる心理学的に考慮された手段を完成しょうとしています。その手段というのは真なるもの、純粋なるもの及び善なるものの感情を発展させることによって、すべての純粋なるもの、善なるもの及び真なるものを完成して自己において統一するところの無限なる本質を求めようとする要求を目覚まし、そしてかかる本質を予想し、信じ、包括することを教え、この本質とそしてこの本質から生ずる一切のものを希望する手段です。この感情を彼は児童の心のうちに非常に生き生きさせ、またこの感情を児童が自己の内外に知覚するすべてのものに非常に密接に結合しようとするので、内からは如何なる世の欲望もまた外からは如何なる世の誘惑もこの感情を絶滅することができないくらいです。そしてこの感情によって彼はこの信仰と希望とそして愛との宗教であるキリスト教のために、自己以外の神聖なものはすべて排斥するような堕落からも、また最も神聖なものを低級な目的のために濫用することや偽善という堕落からも共に児童を保護してくれる一つの支柱を児童の心のうちに与えようとするのであります。」(注8)ニーデラーはこのように続けて次のように結んでいる。「私は特に尊敬すべき宗務会に対してペスタロッチー先生がこの思想を実行するために寡言なしかし偉大な活動をしていることを保証致します。このことが学園に住んでいる者の外には殆ど誰の注意をも惹かないのは自然であります。といいますのはペスタロッチー先生は宗教の精神と本質とを余りにもよく知っているので、それを見せびらかすことなどは先生の念頭に浮かぶ筈がなかったからです。」(注9)

 ペスタロッチーが宗教道徳教育においてこのように心情の陶冶を心理学的基礎の上に打ち立てたことは彼の偉大さである。彼は宗教への指導を悟性陶冶に付属的に結合しているもの、ないしは悟性陶冶の結果として生ずるものとは見ないで、その萌芽と本質とにおいて心情の発展ならびに人間本性の最も純粋な最も精神的な、かつまた、最も神聖な素質の発展に独立的に基づく事柄であると見るのである。宗教への指導が悟性陶冶の結果ではないからといって、児童がその信仰箇条なしに宗教を持つということはできない。宗教は漠然とした聖なる者に対する単なる感情だけではなく、信ずべき真理、守るべき掟をも持つ具体的なものである。そして人間が理性的動物であるなら、彼は自己の信ずべきことが少なくとも理性に反するものでないことの保証を持たずに、信仰することができるであろうか。悟性と心情とはお互いに対立するものではなくて、教育という立場からは必然的に心情が先行しなければならず、その後には悟性が続かなければならないのではないだろうか。それは宗教意識の発展が、他のすべての意識の発展と同様に、悟性的なものよりも心情的なものの方が先であるという事実に基づくからである。「かくわれわれが何よりもまず生徒の心に道徳の精神を発展せしめようと努めたのと同様に、今やわれわれは言葉を用いて彼の心のうちに生きているものの概念を彼に与える。...生徒を宗教にまで高めるには、また現実に真実に子供の心情に存在しているもの--これが超感覚的なものへの憧憬を呼び起こすのであるが--としての愛と感謝とそして信頼との感情の基礎が必要である。...宗教的直観の上にはなお、われわれが一定の宗教教師によって生徒に授けるキリスト教の教義における正式の教授がその基礎をおいている。」(注10)

ペスタロッチーが当時の理神論的啓蒙的宗教に対して、宗教の情感的な面を強調したことはうなづける。しかしながら、彼が「宗教は整えるべき内的な傾向であり、感情である」という一面の真理のみを取って、それを宗教の全本質であるとしたと考えるのは行き過ぎではないだろうか。宗教を全体において考察すること、特に宗教の認識的部分と言われるものを無視することはできないのである。私はドゥ・ガンの口振りを借りて次のように言えるのではないかと思う。

 ペスタロッチーはたしかに宗教に認識的部分が存在することを十分認めていた。しかし彼は自己の学説を述べるとき、この真理を余りにしばしば前面に押し出さないままにしておくという誤りを犯した。それは彼が当時の生命のない形式的な宗教教育が陥った知識だけの教授に対して生ぬるさを感じたためであり、児童の心理学的発達を無視する教授について、世の人々にその欠陥、その誤りを示さなければならなかったからである、と。

(1)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.507 3-6.

(2)同上、p.486, 15.

(3)モルフ、ペスタロッチー伝、第2巻、p.254 3-7.

(4)同上、p.255 5.

(5)同上、p.255 6- 7.

(6)ペスタロッチー全集、第12巻、p.13 11-12.

(7)モルフ、ペスタロッチー伝、第2巻、p.200 5-7.

(8)同上、p.443 6-p.444 5.

(9)同上、p.444 6-9.

(10)同上、第3巻、p.228 14-p.230 11.

第二節 家庭教育の重視

 ペスタロッチーが彼の教育体系の要石であるとした宗教教育はどのような基礎の上に行われるのだろうか。私は前節において、彼が直観、感情を重視したことについて見て来たが、この節ではその当然の帰結である母親による教育、もっと一般的に言えば家庭教育の重視ということについて見て行きたい。ペスタロッチーが宗教的態度について語るとき、その核心となるものは愛と信頼と感謝と従順とである。これらの諸感情、諸活動は私たちがそれらを神に捧げ得る前に私たちの心の中になければならない。神を愛し、神を信じ、神に感謝し、神の命に従順である前に、私たちは人間を愛し、人間を信じ、人間に感謝し、人間に従順でなければならない。私たちに見える人間をさえ愛し得ないものが隠れ給う神を愛することはとてもできないからである。神は人間に二つの掟とも見える一つの掟を与え給うた。そのことについては「愛」の節で述べたが、二つに見えて実は一つなのである。神を愛することと人を愛することとが切り離されるならば、その何れもが真の基礎を失ってしまうのである。ところで、どうして私たちは人間を愛し、人間を信じ、人間に感謝し、人間に従順になるのであろうか。ペスタロッチーは次のように答える。愛と信頼と感謝と従順とは「嬰児とその母親との間に存するいろいろの関係中に、その主要な根源を有するもの」(注1)である、と。ペスタロッチーは、まず嬰児がこれらの諸感情、諸活動を合自然的に発展させられるのは、嬰児が彼の肉体的要求を確実に、平静に満足させられることによるということを指摘する。嬰児は自分の要求を満たしてくれる母親の配慮に対して、最初は感性的な信頼、感性的な愛の感情を抱く。この感性的な愛、信頼、感謝の萌芽が合自然的に発展させられて行くのはただ母親によてのみ可能である。従順の心も同様に母親の膝下において発展する。しかし従順に先立って忍耐が発展する。言いかえれば、児童は忍耐によってのみ従順というものを学ぶのである。このような感性的な愛、信頼、感謝、従順は次第にその対象界を拡充して、人間的な愛、信頼、感謝、従順へと発展する。「母に対する愛から出発しつつ、幼児の人間的な愛と信仰とは、父に対する愛ならびに彼の兄弟姉妹に対する愛、兄弟姉妹に対する信頼として顕現する。」(注2)「母の愛する者は幼児もまたこれを愛する」(注3)ようになる。このようにして人間的な愛、信頼、感謝が発展して行く。母子間に存する自然的関係のうちには、しかし造物主としての神に対する信仰への自然的萌芽の本質が宿っている。言いかえれば、信仰によって神に全く信頼帰依する感情の萌芽は、その本質において、幼児の母親に対する信頼帰依の感情の萌芽と同一のものである。「母が幼児に向かって、『私には天に父があります。そして私と坊やとの持っているよいものがみんな、この天にまします父から来るのです』と言うと、幼児は天にある彼らの父についての母の言葉を信ずる。そして母がキリスト教徒として天にある父に祈り、聖書を読み、その言葉のなかに支配している愛の精神を信じ、その精神によって鼓舞されているときには、幼児は母とともに喜んで天にある彼らの父に祈り、父の愛の言葉を信ずる。」(注4)のである。ペスタロッチーは以上のことを次にように要約し結論づけている。「かくして人の子は彼の母の手に助けられて、合自然的に感性的な信頼および感性的な愛から人間的な愛および人間的な信頼へ、そしてそこから真のキリスト教的な信仰およびキリスト教的な愛の純粋な心へと自己を高める。」(注5)と。

 ペスタロッチーがこのように母親による教育を強調したことは以上の通りであるが、それでは彼は何故にそうしなければならなかったのだろうか。彼はその理由の一つとして次のことを挙げる。即ち、「現世紀の大きな悪、これを再生せしめるあらゆる手段にとって殆ど打ち克ち難い障碍、それは現代の父母たちが殆どすべて、わが子の教育に対し何かなし得る、すべてをなし得るという意識を失ってしまっていることである。自分自身に対する信頼を失った両親たちのかかる大きな過失が自然の基礎をわれわれから奪っているのであるが、この基礎にこそわれわれのあらゆる教育改革の方法は基づかねばならぬであろう。」(注6)基礎陶冶においてペスタロッチーが「生活が陶冶する」という原理を常に用いたことは周知の通りである。彼は道徳的側面においても基礎陶冶が家庭と結合することを指摘する。何となれば、その主要な方法は家庭の愛情--愛と信仰、言いかえれば、道徳と宗教との永遠の出発点として人類の中に神が植えつけ給うた本能的、自然的な感情--の中に見出さるべきであるからである。そしてペスタロッチーはこの基礎陶冶がキリスト教精神と一致するものであるということを指摘する。即ち、「基礎陶冶は人間の中にあるすべての自然力を発展せしめることによって、まず最初にその真の自然性に従って宗教的要素を発展せしめる。基礎陶冶がキリスト教精神と完全に一致するのはこの故である。」(注7)と。

 彼がその著『シュタンツ便り』の中で、「私は子供に口で説明してやることはめったになかった。私は道徳も宗教も彼らに教えはしなかった。」(注8)と言ったからといって、彼が「宗教なき宗教教育」を意図したのであるとは言い得ない。児童の心に宗教が入って行くのは、最初から説教や講演などによるのではなく、母親の、或いは教師の愛情と配慮とによる自然的、感性的なものからである。しかしながら、それはそこに止まっているのではなく、ペスタロッチーも言っているように、児童の心理的発達に従って、自然的、感性的なものから人間的なものへ、そしてさらにキリスト教的なものへと発展して行くべきものである。

教皇ピウス十一世は回勅『青少年のキリスト教教育について』の中で、伝統的キリスト教における家庭の教育的意義について次のように述べている。「家庭は、創造主から直接に、その子孫を教育すべき命令を、従ってまた権利を受けている。これは厳重な義務と不可分に結びつけられているが故に、譲渡することのできない権利で、民族共同体および国家のあらゆる権利に先行するもの、それ故に、すべての現世的権力に対して侵害を受けぬ権利なのである。...最初の、自然的にして必然的な教育の環境は家庭であって、わざわざ創造主によって教育のために定められたものである。それ故、秩序としつけのあるキリスト教の家庭で子供の受ける教育は、通常、最も有効で最も永続的である。そして、とりわけ両親の示す模範と、兄弟などの家族の者の模範が、その家庭内にあってたえず明らかに子供を照らすことが多ければ多いほど、その効果は一層著しいものである。」(注9)

 ペスタロッチーが家庭教育の意義を強調する精神はこの考え方と一致するものではないだろうか。彼が実際に幼時において受けた教育は、彼の偉大な母親と忠実な女中バーベリーとによるキリスト教的な愛と信頼と感謝の教育であった。彼はキリスト教によってのみ「神が家庭に授け給い、創世の時以来父と母との愛という無限の宝によって維持された民衆的国民的教育の真にして唯一の方策を、神に祝福されつつ取り戻し採用することができる」(注10)と考えるのである。彼は『ゲルトルートは如何にしてその子を教うるか』の中で母親による教育について詳しく述べている。彼の方法の精神は「ただ単に母と子との関係をば、その身体的原因が消滅すると同時に、これを新たに復興せしむるのみならず、更にまた手段の方法的序列をば、母親の手におき、母親をして、それによって、自己の心情とその子の心情とのこの関係に永久不動性を与えることを得させ、そして、知識獲得の感覚的方法と関連して、道徳を容易に行わしむるための感覚的方法が、練習によって正義と義務とに関するすべての事柄における児童の独立の考えを、円満に完成することを得しむるもの」(注11)なのである。ペスタロッチーは、幼児が母親に対して信頼帰依の感情を感じなくなるときが来、遂には神に対する信頼帰依の感情も消えてしまおうとするときに、母親自身の限られた知識によってではなしに、ペスタロッチーの方法によってのみ、その母親に幼児を神の世界に連れ戻すことを可能ならしめると言う。ペスタロッチーの方法を自己の方法となし得る母親は、その子が母親を通して見るすべてのものに対して、その子に神を示す。彼女は、「登る朝日において、小波立つ小川において、木々の枝において、花の光彩において、露の滴りにおいて、この万物を愛する神を、その子に示すのである。彼女は、その子の身体において、彼のすずしく光る眼において、屈伸自在なる彼の関節において、彼の言葉の調子において、万物に遍在する神を示し、事々物々において、彼女は神をその子に示すのである。」(注12)幼児は神と世界と母親とを同一の情緒中に包んでしまう。ペスタロッチーの方法は、一つ一つの事物の完成に対する不断の努力という人間の内的完成の法則、人間は自己の同胞の完成を通して、初めて自己を完成しうるものであるという、この二つの法則の上に成り立っている。個性の原理と社会の原理が調和されていることを、私たちは見ることができるのである。彼はその方法によって、母親の心をいつもその子のために結びつけておき、そして母親の情の感化に対して、永久不変性を与え、また神の崇拝を人間の本性に結びつけ、私たちの心情に信仰の衝動を発せしめるいろいろな情緒を刺激することによって、その永久不変性を確立させようと欲したのである。母親と従順、神と義務、これはペスタロッチーにとって同一のものである。それは切り離し得ないものである。

 ペスタロッチーの宗教教育は以上のように、その家庭において最も大きな役割を持つものであるが、学校においてもまたこの精神は受け継がれなければならないものである。即ち、学校においても家庭におけると同様、教師の児童に接する態度は母親のそれと少しも異なるものであってはならないのである。1804年、ミュンヒェンブーフゼー城でペスタロッチーの第一流の最も重要な生徒ないし門弟がペスタロッチーの絶えざる助言の下に互いに共同して生んだ『綱要』は、道徳宗教の陶冶についてペスタロッチーの思想をよく伝えていると言える。それは、児童の宗教陶冶が次の三つの点を前提すると言っている。即ち

(1)道徳及び宗教の基礎としての愛、感謝及び信頼の感情の鼓舞とそれの永続的の保持。

(2)生徒のあらゆる種類の生活と活動とに結びついている--それらによって喚起された意向と原理との--連絡ある練習。

(3)道徳及び宗教の教授。

 これら三点について、『綱要』の述べるところを簡単に見てみよう。(注13)

(1)ここで三つのことが言われる。まず教師の第一の務めは、児童に愛と感謝と信頼との感情を植えつける好意を与え、児童の心に自分たちが世話されているという感情を喚起させることである。第二の任務としては、児童の愛と信頼と感謝との感情を道徳に変化させることによって保持することが要求される。愛は従順ないしは克己的の行為力に、感謝は帰依に、信頼は尊敬にならなければならない。しかし児童は未だ概念的なものを理解する段階ではなく、従って言葉によってこれらのことを教えることはできない。教師はこの神聖な義務の法則を人格化する、言いかえれば、児童が教師の人格のうちにそれを直観するのでなければならない。従って教師の特殊の配慮は、その模範によって必須の尊敬の念を児童に注入し、児童が自分たちの幸福のためにしなければならないことと、彼の境遇が彼に命ずることとを無条件的に児童に要求し、また児童に努力と克己とを体認させるのである。教師の第三の任務は、児童をして彼の道徳的行為の範囲を彼の仲間との交際の場合にまで拡大させることである。愛は同情して苦楽を共にすることに、感謝は報恩に、信頼は喜んで相互の長所を承認することに代わらなければならないのである。児童は次第に、「己の欲せざることを他人に施さず、己の欲するところを人にも施す」という原理を自分のものとしなければならない。児童が既に両親と教師との関係において意識した権利と義務は、ここにおいてはもはや児童の本性の明らかな法則として各自の心の中に生きているのであり、良心は喚起されて活動的になっているのである。

(2)教師は次に、児童の心のうちに生き生きとしているものを、つまり善なるものへの意向とその原理とを、言葉を用いて概念として児童に与える。教師は道徳の目的の観念が熱烈に児童を捕え、かつ鼓舞して、彼をしてすべての力とすべての瞬間とをその目的を達成するために緊張させるように努力しなければならない。このようにしてこそ児童は合自然的に義務と良心との法則に対する尊敬と従順とに達するのである。児童がここで最後に仕上げなければならないことは、彼の心の中に生きている善に対する意向を人類の上に拡大することである。愛は献身的な忘我と慈悲に、感謝は他人の神聖な権利の承認に、信頼は真理と権利と徳とそして神聖とに対する不動の信仰に、それぞれ高められなければならない。ここで『綱要』は次のように言う。「もちろん、これはただ宗教によってのみ出来ることである。何故かと言えば宗教においてのみまた宗教によってのみ人間は人類を完全なものとも確固たるものとも見、そうすることによって人類に対する尊敬の念を神聖なものにするからであり、宗教によってのみ人間は自己のうちにも仲間のうちにも神の御姿を見、かつ真理と権利とそして義務とを、彼が余すところなく一切のものを捧げもし従属させもしなければならない神的なもの永遠なものと認めるからである。」(注14)と。

(3)道徳及び宗教の教授。児童を宗教にまで高めるために教師のなすべき第一の努力は、児童の心情のうちにある愛と信頼と感謝との感情と要求とを、彼のうちに目覚まし、そうすることによって彼を宗教的情操の中に移し入れることである。第二に教師のなすべきことは、児童の感情を神に向けることである。「神は父である」という最も単純でかつ児童の心情を高揚させる概念が、この場合にも児童にとって最も大切である。第三に教師は児童に、神に対する子供の如き信仰を永続的かつ習慣的なものにさせるように努力しなければならない。教師が児童に対して取る態度や語る仕方は理解ある敬虔な母がその子に対して取る態度、話し方と異なるものであってはならない。

結局、ペスタロッチーは学校においても家庭におけると同様に、児童に対して宗教道徳の陶冶が行われ得ること、また行われなければならないことを指摘しているのである。ここで私たちは家庭と学校との教育上の権利が同一である、或いは学校のみに教育の責任があるというふうに考えてはいけないのではないだろうか。家庭における教育の義務と権利とは第一義的、根本的なものであり、学校におけるそれは第二義的な、委託された権利と義務である。家庭、もっと詳しく言えば、両親がその子女に対して持つところの権利と義務とは限界のない絶対的なものではないが、しかし最初にして最も広汎なものである。このことについてはここで多くを述べるわけには行かないが、ペスタロッチーが両親、特に母親を子供の教育における最も根本的、本質的な力と見ているのは、このような教育の権利と義務が創造主から人間に与えられたものと見るからではないかと思われる。ペスタロッチーは子供に対して畏敬の念を持ち、子供の中にある文化と道徳の最高価値に対する萌芽を認めたが、それは子供の真の価値を認めることであり、そしてそれはまた両親の権威に対しても畏敬の念を持つことであった。両親は自分自身の使命と自分自らの権威に対する畏敬の念を持たなければならないのである。ペスタロッチーは当時の父母が自分自身の使命に対する確固たる自覚を欠き、わが子の教育に対して何かをなし得るという意識を失っていたことを嘆き、彼らに、特に世の母親たちに、自覚を促し、彼らが児童の教育に対して最も大きな力とならなければならないということを強調したのである。

(1)ゲルトルート、p.201 5-6.

(2)ペスタロッチー全集、第12巻、p.20 1-2.

(3)同上、p.20 3-4.

(4)同上、p.20 9-13.

(5)同上、p.20 14-16.

(6)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.405 14-17.

(7)同上、p.465 10-11.

(8)同上、p.196 11.

(9)H.ヘルヴェク、教育の根本問題、p.88 3-10.

(10)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.405 11-13.

(11)ゲルトルート、p.211 9-13.

(12)同上、p.212 3-6.

(13)モルフ、ペスタロッチー伝、第3巻、p.227-p230参照。

(14)同上、p.229 9-12.

第三節 宗教教育における礼拝、祈祷

 ペスタロッチーは人間の「完全性と完成への努力はただ神の助力、神の恩寵を真剣に求めるところからのみ生じてくる。この真実の希求はまちがいなく信心と祈りとに導くものである」(注1)と、その著『白鳥の歌』の中で述べている。私は第二章第六節の宗教と道徳の項でこのことについて少し述べたが、ここでもう少し詳しく見て行きたいと思う。

ペスタロッチーは幼時の頃より敬虔な母親や祖父の下で常に神に対して礼拝、祈祷を捧げ、婚約時代も、父となったときも、彼の愛する孤児や生徒たちの間にあるときも、いつも祈ることをやめなかった。その彼が上の引用に見られるように言ったのであるから、彼の礼拝、祈祷に対する考え方も大体うかがえるものと思う。

 礼拝、祈祷をただ聖なるものに対する感情を起こさせるための手段としてしか考えないときには、神の恩寵は何ら現実性を有さないものとなってしまうであろう。恩寵、或いは聖寵とは、キリスト教の信仰によればすべての人に与えられる神の力であり、神が自由に人間に与える贈り物である。それ故に、祈りによって神に乞い求める外に人間が恩寵を得る道はないのである。ドゥ・ガンは『ペスタロッチー伝』の中で次のように言っている。「ペスタロッチーは彼の著書の多くの中で神の恩寵の必然性を形式的に認めている。しかし彼はまた、よし人間がそれなくしては何事もなし得ないからとてそれを求めねばならぬとしても、人間はあたかもすべてをなし得るが如くに働き、その全力を神が彼に開き給うた活動分野に注ぎ込まねばならないということを知っている。」(注2)と。彼は人間が神の助力なしに何事をもなし得ないということを知り、かつ信じていた。しかしながら、彼は当時の人たちが神の恩寵を口実として自ら何の努力もせず、また人間の発達の自然の法則に従わない教育を行っていることに対して、その誤りを指摘しなければならなかったのである。

 さて、礼拝とは何であるか。それは宗教的儀式や祈祷において普通に行われる神への尊敬の表現であると言うことができる。私たち自身のすべてと私たちが所有するすべてのものが、物質的であれ、精神的であれ、究極的には神に負うものであるのなら、私たちが神に対して当然の尊敬を示し、感謝を表すことは人間の最も貴い崇高な義務であろう。神と人との間に存在する創造主と被造物との関係を認めること、神の優越と人間の神への依存を認めること、これが礼拝の本質である。神の内的な認識、言いかえれば、直観による認識を否定することは誤りであるが、しかしまた、それだけに限定してしまうことも同様に誤りである。礼拝は、それ故に、内心のものであると同時に表現されるべきものである。

 宗教が人間性の限界に止まるとき、言いかえれば、神が人間とは区別される絶対者でないとするなら、礼拝、祈祷の真の意味は失われてしまう。礼拝、祈祷が宗教的な敬虔の念を養うこと以外にその目的を持たないとするのは正しくない。私たちの日常生活は「かたち」と「しるし」に結びついていて、もしそれがなかったなら正常な生活ができなくなるくらいである。お礼のしるし、友情のしるしは言うまでもなく、芸術も、私たちの言葉の一つ一つでさえが、秘められた心情を表すばかりでなく、それぞれに独特の感情を受け、伝える「しるし」なのである。「しるし」という外形と内面とのつながりこそキリスト教を解く大切な鍵の一つである。「しるし」は心理的な効果、或いは教育的な意味をも持つものであるが、そればかりではなく、それらは人間の知覚を超えた恩寵を実現するのである。見えない恩恵が見える形と人とを通じて授けられるということは、キリスト教における礼拝と祈りとにとって本質的なことである。

 祈りは神に心を揚げること、言いかえれば、神に思いを潜めること、神と共に語り合うことであると言うことができる。この祈りには四つの相があると言われる。少し重複するかもしれないが、ここで簡単に見てみよう。祈りとはまず「礼拝」である。神の偉大さと人間の小ささを自覚するときに私たちは神の尊厳を讃美せずにはいられないのである。人間は跪くべき時とその理由とを知っている唯一の動物であると言われるのは、このような自己認識があるからである。祈りとは第二に「感謝」である。神の偉大性に圧倒されてしまう私たち人間ではあるが、しかし「神は父であり、私たち人間は父に愛せられる子ども」である。神が父であるということは、人間をよきように取り計らう摂理の神、愛の神であるということであり、私たちは神の恩恵に対して子としての愛情を「感謝」として表さずにはいられないのである。神の摂理に対して私たちが信頼の念を持つのも、神は父であるからである。しかしながら、神の恩恵に対して私たち人間が落ち込んでいる罪と不徳とを考えるとき、私たちは愛する父の心を悲しませた子の嘆きをもって、自己の罪を悔い、罪の赦しを願うのである。それ故、祈りとはまた「赦罪の懇願」でもあるのである。私たち人間は、このように神の愛、神の恩恵を受けるに値しない自分自身を発見する。それは人間を徒にへりくだらせることではなくて、自己の真実の姿を見極めることである。だからといって、人間は神の恩恵を拒むことはできない。神の恩恵によって充たされながらもかくも惨めであるのに、神の恩恵を拒むならば、人間はその上どうなってしまうのだろうか。私たちは更により多くの恵みを必要とするのである。かくて祈りとは第四に「恩恵を求めること」である。祈りはこの四つの神との語らいにおいて完成するのである。

 教育の立場からこの祈りを眺めるとき、私たちが児童にこのような心構えを最初から要求することは困難であろう。ペスタロッチーはこのことを痛切に感じていた。彼が愛と信頼と感謝の情は母親とその子供との間の関係にその基礎を持たなければならないと言うとき、彼は児童が神に対して信、望、愛を持つ前提として母親に対する、ひいては人類に対する信頼、愛、感謝を育む必要性を強調するのである。母親に対する信頼、愛、感謝は神に対する信頼、愛、感謝の必要条件ではあっても十分条件ではないと言うことができる。それ故、ペスタロッチーが大いに強調することは、児童の心理的発達に対する理解ということである。児童の心のうちに神に対する愛、信頼、感謝の念を生ぜしめるためには母親の配慮が児童に感得されることが必要である。母親が、或いは教師が神に祈るとき、児童も同じように祈る。彼はその意義を理解しないかもしれないが、母親に、或いは教師に信頼を置いているのである。彼の心理的発達に従って彼は次第にその意義を理解するようになって行くのである。よい意味での習慣の形成が最も効果的な働きをなすことは経験の教えるところである。ペスタロッチーは、それ故、次のように言うのである。「幼い時から祈ったり、考えたり、働いたりすることを学んでいる子供はすでに半ば教育を終えている。そしてごく幼い時代から日々心から敬虔に祈ったり、一日中自分の行ったり言ったりすることをよく考え、熱心に努力して実行することに慣れている子供は、およそ彼が世の中でなるべきもの、ならねばならないものに対してよく準備されており、従ってその限りにおいてよく教育されているに違いない。」(注3)と。

(1)ペスタロッチー全集、第12巻、p.165 13-15.

(2)ドゥ・ガン、ペスタロッチー伝、p.494 7-9.

(3)ペスタロッチー全集、第12巻、p.102 4-8.


結論

 私はこの論文とは言えないかもしれないささやかな卒業論文で、ペスタロッチーの宗教道徳について見て来た。私の研究不足のせいでもあるが、わが国において従来紹介されているペスタロッチーに関して、キリスト教との関連を取り扱ったものは余り見られないように思う。ペスタロッチーがキリスト教徒であったかどうかということについて、以前には論争されたこともあったが、現在では彼がキリスト教徒であったということを疑う人はいない。しかしそのキリスト教が如何なるキリスト教であるかということになると問題が少し複雑になる。私はこの点に関しては、私なりの見方をした。従ってそれは或いは独断的なものであるかもしれない。しかしながら、キリスト教と言われる限りにおいて、その最大公約数的なものが存在するのであるから、私は特にそれらについて触れたつもりである。

ペスタロッチーにおいて、宗教道徳とは直接関係のないように思われる技術的、方法的な面があるが、それらのものも、その根底に宗教道徳、つまりキリスト教的なものが存在することを見逃してはならないと思う。或る人は次にように言うかもしれない。「ペスタロッチーの時代ならいざ知らず、現在の宇宙時代にはそのようなことは通用しない」と。そしてまた、人は過去の宗教の汚点を指摘し、宗教に結びつけられた数々の迷信を宗教そのものと見なすのである。私たちは過去の歴史の汚点を率直に認めなければならないが、それを本質と混同してはならないし、また、迷信を宗教そのものから分離しなければならない。私たちは「浴湯と共に子供まで流して」しまう愚をおかしてはならないと思う。私は、日本の知識人と言われる人の多くが、宗教に対して無関心、或いは軽蔑の態度を取ることを悲しく思う。これらの人々は宗教的なものを中世的という一語によって片づけてしまう。語られるにしても、それは付随的、従属的にのみ語られる。宗教は単なる文化の一形態としてのみ取り扱われている。

真の宗教は人間の現世だけが人間の全てではないことを教える。人間の自然的欲求をそのままの次元で肯定はしない。しかしながら、そうだからといって、現世をないがしろにすると決めてしまってはならない。かえってその故にこそ、言いかえれば人間に究極の目的があるからこそ、私たちは現世において自己のうちにあるすべての能力を発揮しなければならず、完全へと向かって進まなければならないのである。真の宗教によってのみ私たちの生活理想はその正しき基礎を得ることができる。即ち「無にも等しい我が、神の救いに与り、仏の慈悲の光に輝され、新たな生活力を得て力強い精進の生活をこの世においてくりひろげるわけである。こうした場合、彼等の生活を律する、香り高き生活の規範乃至理想は、罪ある者が、価なきものが、罪のゆるしにあい、尊きものとされることに対する喜悦、感謝、感恩であり、神の愛、仏の慈悲にめざめさせられた隣人、否諸物までに及ぶべき愛、慈悲心であり、奉仕、犠牲であり、神の全く潔きが如く清潔、清貧たらんとすることである。更にそれは畏敬、謙譲、誠実を以て貫かれ、現在のあらゆる困難を乗り越えて永遠に向かっての希望を失わず、忍耐し、精進し、克己する生活であり、正しさを求め、悪に対する闘いの生活を期すると共にその根本において常に平和、その手段において暴力を否定しようとする。」(注1)のである。

 ペスタロッチーは以上のような生活理想を教育理想としたのである。これこそが人間にとって最も根本的、最高の陶冶理想である。ペスタロッチーが教育において宗教をその最も中心的な位置に置き、かつ彼の宗教がいわゆる合理主義的、啓蒙主義的なものから遙かに距たっていたということは、現在の私たちの社会にとっても、否、現在のように絶対的な真理に対する確信が欠けている時代にこそ、最も大きな意義を持つと言わなければならない。ペスタロッチーの教育学において、その方法論的なものがよく理解されることは喜ばしいことである。しかし私たちは彼の精神を更によく理解しなければならない。

私はこの論文において、この「精神」を追求して来た。ペスタロッチーの教育学の底に流れているこの「精神」は、彼の時代においてのみ生命を持ち、その時代にのみ制約されていたものではなく、現在においても大きな力を持つものである。この「精神」は歴史の彼方に置き去られた過去の遺物ではなく、人類がこの地上に生命の営みを続けて行く限り、すべての人々の喜び、慰め、希望となるものである。この「精神」はまた、ペスタロッチーがその身を置いた西洋においてのみ通用するものではなく、全世界のあらゆる人々に力と勇気と愛とをもたらすものである。この「精神」は一部の人々にのみ必要であって、大多数の人々にとっては「どうでもよい」ものではない。私たちは、十八世紀的合理主義、理性万能観を超克しなければならない。それは時代の流れに棹さすことではなく、現実を直視することである。この「精神」は伝統的であるが故に古臭いものではなく、「古くして常に新しきもの」である。そしてそれは、上からの権威によって個人の自由を束縛するものではなく、「真理は汝を自由にする」という真理である。

 私たちは、皮相的なものの見方にとらわれることなく、また著名なる人の言説というだけで、その説を鵜呑みにすることなく、私たち個人個人の魂の内奥において、この「精神」と対決するだけの勇気を持たなければならない。私たちは児童を教育するために彼らを「何処かへ」連れて行かなければならず、また「何故に」そうするのかという理由を知らなければならない。真の宗教はこの点に関して最も根底的な解答を与えるものであると思う。

私はこの論文で、ペスタロッチー自身の著作からよりも多く、ドゥ・ガンとハインリッヒ・モルフの『ペスタロッチー伝』から引用した。ペスタロッチー自身の著作も、ドゥ・ガン及びモルフの著作に引用してある部分から引用した個所が少なくない。それは一つは私自身の努力の足らなかった故であり、また平凡社からの『ペスタロッチー全集』の刊行が遅かったこともある。

また、ペスタロッチーに関する他の多くの文献、特に洋書に関しては全然触れ得なかったことは、私の努力の不足を大いに反省しなければならないところである。

ペスタロッチーの宗教観に関して、当時の歴史的、社会的情勢との関連ということ、また彼の思想的、また信仰の発展、深化との関連ということについて触れ得なかったが、これは今後の課題として考えて行きたいと思っている。

この論文作成に当たって、少なからず示唆を与えて下さった西南学院大学の村上寅次先生に感謝しなければならない。

(1)平塚益徳、教育哲学の課題:教育と宗教、p.296 14-p.297 5.


その他の参考文献

(1)H.エルリンハーゲン著、現代の実践倫理、春秋社

(2)G.K.ピオヴェザーナ編、人間と宗教--宗教学概論--、エンデルレ書店

(3)レイモン・ヴァンクール著、渡辺秀訳、近代思想とキリスト教哲学、ドン・ボスコ社

  

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