ファチマの聖母マリア

東方政策とエキュメニズムの悪魔的方向感覚喪失

ヴァチカンは「あなたはカトリックになってはならない」と言う

The Fatima Crusader Issue 69, Winter 2002より

Padre Dr. Linus Dragu Popianの劇的な証言

ジョン・ヴェナリ著

リヌス・ドラグ・ポピアン神父はThe Fatima Crusaderによって後援された2001年11月10日のニューヨークにおけるテロリズム反対集会で彼の回心についての劇的な物語を伝えた。

われわれは、これもまたThe Fatima Crusaderによって組織されたこの10月のファチマ平和会議2001で初めてポピアン神父に会った。1ヶ月後、ニューヨーク集会でポピアン神父はその講演を非常に活気に富んだイタリア語で行った。そしてニコラス・グルーナー神父が英語訳を準備した。

以下に続くのはこの歴史的な講演の簡潔な要約である。講義の多くの鼓舞する詳細から利益を受けるために、読者の皆さんに講演のオーディオ・カセットを手に入れることをお勧めする。(詳しい情報については「ニューヨーク・シティ反テロ集会オーディオ・テープ」を見てください。)

共産主義ルーマニア

24年間、リヌス・ポピアンは共産主義の下でルーマニアに生活した。彼は真の反共産主義者として成長した。一人の子どもとして、彼はルーマニアの人々が合衆国の飛行機が来て彼らを救ってくれることを希望して空を見ていたのを覚えている。飛行機は決して来なかった。

彼はルーマニア正教会の宗教において育てられた。すなわち、彼はローマ・カトリック教会とは結びつけられてはいなかった。ポピアン神父は言う。「スターリンのように、私は神学校に行った。しかし、神学校にいる間に革命に回心したスターリンと違って、私の神学校生活は私をカトリック教会へ回心させた。」

彼がカトリックになる決心をした瞬間から、彼はルーマニアから逃げなければならないであろうということを理解した。政府はルーマニアに住んでいる13人のカトリック司教たちを死刑にした。そして一人のルーマニア人にとってカトリック信仰に回心することは法律に反することであった。ルーマニアにおいてカトリシズムに回心した者は誰でも正教会の信仰に対する裏切り者、彼の家族に対する裏切り者、彼の祖国に対する裏切り者と見なされた。そしてシベリアへ送られるであろう。

多くのルーマニア人はこの運命を苦しんだ。「しかし私のために」とポピアン神父は言う、「聖母が一つの奇跡を働かれました。」

逃亡

ポピアン神父と一人の仲間の神学生がルーマニアから逃亡したのは1975年の聖年の時であった。彼らは24時間走った。彼らの逃走経路はルーマニアからハンガリーを通り、ポーランドを通ってローマまでであった。道の途中で、彼らは後に教皇ヨハネ・パウロ2世となったポーランドのカロル・ウォイティラ枢機卿によって金、忠告、激励そして祝福を与えられた。

彼の逃亡の最も大きな奇跡の一つは共産党警察が彼の偽のパスポートを、彼らがそれを点検するのに2時間も費やしたけれども受け入れたということであった。実際、彼らはポピアン神父の乗った飛行機を--そして空港の全滑走路を--、彼らが偽のパスポートを点検している間止めていた。彼らは結局その偽のパスポートを受け入れたのだ。

ポピアン神父はイタリアに到着し、イタリア警察によって非常に親切に取り扱われた。彼と仲間の神学生は4日の間に政治的亡命を与えられた。それは、とポピアン神父は言う、それ自体一つの奇跡である。なぜなら、手続きは通常4ヶ月はかかるからである。

回心するな!

神学生たちはヴァチカンに出頭するように告げられた。そこで彼らは彼らの生涯のショックを受けた。

ここにその生命を賭けてカトリックになろうとした二人の神学生がいた。彼らは共産主義体制から自分たちの生命を賭けて逃げて来た。そして今カトリック教会のメンバーとして受け入れてくれるようにとヴァチカンに出頭してきた。

彼らが東方諸教会(東方典礼諸教会)省の長たちのところに出向いたとき、高位聖職者たちは極端に神経質になった。彼らは、問題をエキュメニズム省およびキリスト教一致促進省と話し合いをしなければならないだろうと言った。

2日後にこれらの省の長官たちは、当時の国務省長官であったヴィヨ(Villot)枢機卿と一緒に、神学生たちに、彼らはカトリックになってはならない、そして共産主義から逃亡してはならないと告げた。

そのとき、これらの省にとって最も重要なことは、今日もそうであるように、共産主義体制との友好的関係を促進する東方政策である。東方政策はメッツ協定(Metz Pact)としても知られているヴァチカン-モスクワ協定の上に建てられている。その協定においてヴァチカンは1960年代初期にロシア正教会オブザーバーが第2ヴァチカン公会議に出席することと引き替えに共産主義を断罪しないことに同意した。この政策は「共産主義は本質的に悪である。そしてキリスト教文明を救おうとする者は誰もどんなものであれそれと何らかの仕事において協同することは許されない」(Divini Redemptoris,1937)という教皇ピオ11世の厳しい警告を無視するものである。

悲劇的なことには、この政策は今もなお今日まで有効である。ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント博士(Dr. Dietrich von Hildebrand)は東方政策を現代教会において「働いているサタン」を証明する諸領域の一つとして記述した。彼はそれを「鉄のカーテンの背後のカトリック教徒たちに対する恐るべき裏切り」として非難したが、それは正当なことである。

また、これらの委員会にとって最も重要なことは東方正教会宗教のメンバーたちとのエキュメニカルな対話であった。もしヴァチカンがこれら二人の神学生たちをカトリック教徒として受け入れたならば、そして彼らをカトリック司祭として叙階したならば、それは東方政策とエキュメニズムの進歩主義的政策に損害を与えるであろう。

神学生たちは「内部から一致のために働く」ためにルーマニア正教会の内部で「秘密のカトリック教徒」として留まるように告げられた。神学生たちはこの提案を馬鹿げたこととして拒否したが、それは正当なことである。

その後間もなく、ポピアン神父と彼の神学校の友人はたまたま、彼らがヴァチカンで受けた奇怪な応対について何人かのイタリアのジャーナリストたちに告げた。翌日、神学生たちの悲しい物語が新聞に次のような表題で現れた。その表題は大まかに訳せば「ヴァチカンは『ある者にとってカトリックになることは何という誤りであることか』と言う」になる。

神学生たちはさらに彼らの問題をヴィヨ(Villot)枢機卿や他のヴァチカン諸省に訴えた。しかし彼らは何の解答も受け取らなかった。

そこで彼らは自分たちをその神学校に受け入れてくれる司教を捜して廻った。彼らはローマにあるさまざまのそれぞれの国の神学校:アメリカ、イギリス、フランス、スペイン、等々のカトリック諸大学を試みた。これらすべての施設は「われわれはあなたたちを受け入れることができない、われわれは国務省が言ったことをしなければならない」と言って拒否した。

ポピアン神父は共産主義諸国家における秘密の司祭たちからの多くの推薦状ならびに学問研究における最高点のいくつかを誇る推薦状を持っていた。最後に、あるドイツの名の知られない司教が神学生たちに、自分の司教区へ彼らを聖職者として受け入れるであろうと告げた。

東方政策の主要な企画者であり、また1979年にヴァチカン枢機卿国務長官となったヴァチカンのアゴスティノ・カザロリ(Agostino Cazaroli)大司教はそのドイツの司教と接触を取り、彼に警告した。「もしあなたが彼らを叙階するならば、あなたは禍あれ」。ポピアン神父はさらに、カザロリ大司教は共産主義からの亡命者たちに対して常に敵意を持っていたと説明した。カザロリ大司教が唯一友好的であった亡命者たちはチリからの亡命者であった。明らかに、それはサルヴァドル・アジェンデ(Salvador Allende)の下で共産党政府が1973年に倒れ、その結果チリからの亡命者たちは当時親共産主義的であったからである。

叙階が妨げられる

その司教は二人の神学生を4度叙階しようと試みた。そのたびにヴァチカンはその儀式を妨害する何らかの理由を見出した。

それから1977年の2月にポピアン神父と彼の友人が叙階されるためにすべては整った。彼らは白いアルバを着た。そこには20名の司祭、数千人の人々がその出来事のために到着した。そしてすべての人々が北イタリアのあるマリア聖堂で司教の到着を待って待っていた。

しかし司教は来なかった。なぜなら彼はカザロリ大司教から、司教に叙階を無期限に延期することを命じる個人的な電話の呼び出しを受けたからである。

カザロリはなぜこれら二人の人間が叙階されてはならないか、その二つの理由を挙げた:

  1. それはルーマニアの共産主義、社会主義政府とヴァチカンとの関係を損なうであろう。

  2. それはヴァチカンとルーマニア正教会との間に諸々の困難を引き起こすであろう。

司教は家にとどまった。司教は高熱を発したため来ることができなかったという説明で、聖堂主任司祭は叙階に集まった大群集を散らせた。

幻滅したポピアン神父は言った。「司祭が公に嘘をつくということを私が見たのはそれが初めてでした。」

アウグスブルクに来る

今や途方に暮れた二人の神学生は彼らの叙階の意図のために彼らの祈りと犠牲を増やした。しかしながら、ローマでは何の変化もなかった。神学生たちはなお妨害されていた。

その間中、ポピアン神父は彼の祈りと彼の闘いを続けるための天からのしるしと彼が見たものを受け取っていた。その詳細は彼の講義の中に用意されている。これらのしるしの一つを彼が受け取った翌日、一通の手紙がアウグスブルクの司教から届いた。それにはこう書いてあった。「アウグスブルクへ来なさい。私はヴァチカンの承認があってもなくてもあなたを助祭に叙階するつもりです。」

彼と友人とは直ちにアウグスブルクへ旅立った。その司教はその言葉通り彼らを助祭職に叙階した。

ヴァチカンは激怒した

二人の新しく叙階された助祭は職務停止をもって脅迫された。ヴァチカンは誓った。「あなたは永遠に助祭であろう!」言葉を換えて言えば、これら二人の人間は決して司祭には叙階されないであろう。

神学生たちがヴァチカンの最高の階層からこの苛酷な取り扱いを受けたのが、マルセル・ルフェーブル大司教が、伝統的なカトリック信仰に従った司祭養成を主張し、そしてもっぱら伝統的なミサだけを捧げる伝統的な典礼において司祭たちを叙階することを主張したために、ローマによって(1976年)「職務停止」を受けたときと同じ時期であるということは注目に値する。おそらく、今われわれはルフェーブル大司教[を断罪したそ]の「非難」の背後にいた真の悪意のある勢力をもっとよく理解することができる。

現在、進行中のニコラス・グルーナー神父の迫害の背後にいるのがヴァチカン国務省長官であるということもまた注目に値する。

何かすることができることは何もないのか?

それから暫く後に二人の助祭はある司教および平信徒の小さなグループと一緒に夕食の席についていた。ポピアン神父は、助祭たちが列席した人皆に彼らの苦境を説明していたとき、それを「悲しい夕食」として記述した。

食卓についていた一人の女性が司教に尋ねた。「この二人の青年たちに何かすることができることは何もないのですか?」

「何もない!」と司教は言った。

「何も?」彼女は強調した。

司教は半分冗談めかしてこう答えた。「これらの人々が叙階される唯一の方法があります。そしてそれは、教皇が死ななければならないということです!」

司教はその説明を与えた。ヴァチカン国務長官は今叙階を妨げている。しかし教皇が死ぬとき、ヴァチカン各省のすべての長官は、国務長官枢機卿も含めて、彼らの権力を失う。彼らはただ彼らの権威を彼らを指名する教皇からのみ得ている。そして教皇が死ぬとき、彼らは、次の教皇によって指名されない限りすべての権威を失う。次期教皇は他の誰かを選びさえするかも知れないから。(この法律は今日でもなお効力を持っている。)このように、教皇の死と後継者選出の間の時期に、ヴァチカン国務長官は叙階を妨害する権力を持たないであろう。ある友好的な司教がそのとき彼らを叙階することができるであろう。

教皇を深く愛することで知られているその敬虔な女性は声高にこう言った。「それでは、私は毎日教皇様の死のためにロザリオの祈りをしますわ!」

ファチマの大聖堂で祈る

直ぐその後、ポピアン神父は、常に彼の命、彼の甘美、そして彼の希望であることを御自身証明されてきた聖母の執り成しを求めるためにファチマへ旅行した。彼は自分の司祭職のジレンマについて祈りながら御聖体のチャペルで跪いていた。その日は1978年8月6日であった。

友人がポピアン神父の祈りを中断しながら、チャペルに急いで跳び込んで来た。友人は泣いていた。彼は言った。「リノ、私は悲しいニュースを聴いた。教皇様が亡くなられた!」

ポピアン神父は言った。「善き神学生として私は泣くべきであったろう。しかし私は喜びで叫んでいる自分を見出した。イル・パパ・エ・モルト!パパ様が亡くなられた!」

翌日、8月7日、神学生たちは今や叙階が許されると述べたヴァチカンからの手紙が届いた。

[叙階の]日付は10月12日に設定されていた。

助祭たちは、もし新しい教皇が選出されたならば、国務長官が再び介入してきて、儀式を妨害するであろうことを恐れた。それにもかかわらず、彼らは叙階の準備のために聖イグナチオの30日間の霊操に出発した。

そうこうする間に、コンクラーベ[教皇選出のための枢機卿会議]は教皇ヨハネ・パウロ1世を選出した。この教皇は33日で亡くなられた。

助祭たちは彼らの黙想を終えた。そして1978年10月12日、10月13日のファチマ記念日の前日にリヌス・ドラグ・ポピアンと彼の友人はカトリック司祭に叙階された。4日後、10月16日にコンクラーベはカロル・ウォイティラ(Karol Wojtyla)を教皇として選出した。

教皇ヨハネ・パウロ2世を最も尊敬しているポピアン神父はカトリック教会の最左翼の勢力がそれ以来今まで地歩を得て来たことを悲しんでいる。

「あなたは理屈抜きの反共産主義者である」

ポピアン神父の1975年西側への到着は彼にとって多くのショッキングな驚きの機会であった。彼は共産主義国の「監獄」の中で成長した。そして彼がイタリアに到着するまで西ヨーロッパの頽廃した状況を知らなかった。

彼は「西側におけるカトリック教徒の浅薄さと近代主義」にあきれた。彼はまた共産主義を信じるカトリック平信徒、修道者、司祭、司教そして枢機卿たちがいることを見出してショックを受けた。このことは彼をびっくり仰天させた。なぜなら、彼が説明したように、「共産主義諸国では実際にだれ一人共産主義を信じる者などいないからである。スターリンでさえ共主義を信じなかった。」共産主義体制はすべてが嘘である、とポピアン神父は言う。そしてそれに巻き込まれている誰もがそれが嘘であることを知っている。

彼の叙階の後でさえ、彼は親共産主義者である、あるいは少なくとも明らかに反共産主義者である、カトリック司祭や高位聖職者たちの数の多さに驚嘆した。

例えば、彼はNATOへの従軍司祭として志願した。政府は彼の指名を承認した。しかしイタリアの従軍司教は従軍司祭としての彼の指名を、「あなたは理屈抜きの反共産主義者である」ために拒否するという手紙をポピアン神父に送った。

ポピアン神父は言葉を失った。NATOは反共産主義軍隊であると考えられる。しかし、イタリア司教によれば、従軍司祭は反共産主義であることを許されていないのだ。

50年間で最初の非共産党員の市長

ポピアン神父が住んでいるイタリアの町では数十年にわたって共産党員の市長が存在してきた。今年の5月13日は町が新しい市長のために選挙をする投票日であった。ポピアン神父は自分の信徒たちに告げた。「もしあなたたちが共産党員に投票するならば、地獄の火はあなたたちにとって十分ではないでしょう!」

あるジャーナリストは彼に言った。「神父様、そういうことを言ってはいけません。」ポピアン神父は答えた。「私たちは真理を告げるべき司祭です。」

イタリアのジャーナリストたちはその話を取り上げた。そしてローマ郊外のある司祭が彼の教区民の会衆に、もし彼らが最左翼の候補者たちに投票するならば地獄行きだと脅迫したと新聞およびニュース通信で全ヨーロッパに発信した。ジャーナリストたちはこのことをポピアン神父を馬鹿にするためにやった。しかしそれは彼らが意図していたのとは反対の結果を持ったに違いない。ポピアン神父は、それが彼の説教のためかどうか知らないが、ポピアン神父が「善きキリスト教徒」として記述した一人の非共産党員を人々は50年間のうちで初めて選出したと言っている。

事実、今年の11月2日にその市長は花を持ち、死者を祝福するために墓地へ来るように司教区のすべての司祭たちを招待した。悲しいことに、その司教区の60人の司祭のうちからたった一人の司祭だけが墓地へ行った。ポピアン神父である。

聖母は泣かれる

ポピアン神父は次に1995年2月2日に血の涙を流して泣かれた祝せられたおとめマリアの小さな御像の話をした。その御像はそれ以来何度も血の涙を流して泣かれた。最後の時はその御像が司教によって抱かれている時であった。

その司教自身は泣かれる御像を信じなかった。しかし御像が、彼がそれを抱いているときに泣かれたとき、その司教は信じた。そして深く献身されるようになった。ポピアン神父は、ヴァチカンが司教に、あなたが御像の奇跡を信じることを認めたために「あなたはあなたの経歴を失った」と告げた、と言った。

ポピアン神父はそこで、なぜその御像は泣いておられるのか? という質問を出した。

彼は1953年イタリア、シラクサの聖母の泣かれる御像の物語をすることによってその問いに答えた。御像が本物の涙を流して泣かれたのは、イタリアの人々の間で共産党員たちが勢力を獲得していたその時の総選挙の少し前であった。

教皇ピオ12世はシラクサの泣かれる御像について公式に論評されながら、イタリアの人々にこう告げられた。「聖母はあなたたちがどのように投票すべきかを理解させるために泣かなければならなかったのです。」

結果として、1953年選挙では共産党員たちは勝利しなかった。

ポピアン神父は、1953年にはカトリックの教会人と司教たちは反共産主義的であったのに、今日ではもはやそうではないということを嘆いている。例えば、1990年代半ばのイタリア選挙において、イタリア司教団は司祭たちと修道者たちに左翼の候補者たちに投票するよう教えた。興味深いことに、彼らの聖職者たちに最左翼の候補者たちに投票するよう告げた司教たちに対してヴァチカンが非難したという報告はない。

それから1955年2月2日に勝利した最左翼の政治家たちは、カトリック聖職者に彼らの選挙におけるそのように有益な役割を感謝するために彼らを招待する祝宴を催した。ポピアン神父は行かなかった少数の司祭たちの一人であった。

しかし2月2日同じ日の午後4時に聖母の御像は血の涙を流して泣かれた。明らかに、聖母はカトリック司祭たちと司教たちによる裏切りについての神の不承認を示すために血の涙を流して泣かれた、とポピアン神父は述べている。ファチマのシスター・ルチアが「上層の位階の悪魔的な方向感覚喪失」について不満を述べたということは驚くに当たらない。

2001年11月10日、ニューヨーク・シティでの反テロリズム集会で話すグルーナー神父と一緒のポピアン神父

「ロシアは名を挙げて奉献されなければならない」

ポピアン神父はこれら多くの悪から逃れる唯一の道は教皇にとってマリアの汚れなき御心へロシアを名を挙げて奉献することであると説明することによって結論した。この奉献はロシアから悪魔たちを追い出すための一種の悪魔祓いであろう。彼は自分自身の回心をロシアの回心のミクロコスモス[小型化されたもの]として指摘している。神学校にいる間に彼はあっという間に回心した。一人の正教会信徒にとってカトリシズムへ回心することは非常に容易である。彼は言う。「正教会の神学は僅かの点を除けば、カトリック神学に非常に近い。」

彼はもし教皇が世界の司教たちと一致して、ロシアを名を挙げてマリアの汚れなき御心に奉献なさるならば、ロシアは翌日に回心するであろうと信じている。

それまではカトリック教徒に彼らの祈り、彼らの朝夕の祈りを増やし、多くのロザリオを祈り、そして絶え間なく祈るように、と彼は勧めている。彼はその劇的な報告を、憑かれた人から悪魔を追い出されたわれらの主のことを述べている聖書の引用をもって閉じている。「この種のものはただ祈りと断食によってのみ追い出される。」


注:ポピアン神父の講義のカセット・テープはニューヨーク集会の他の17巻のテープと共に、the ad in "New York City Rally Against Terrorism Audio Tapes"から入手可能である。


2004/03/29 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/29

最終更新日:2004/03/29

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