ファチマの聖母マリア

日常生活におけるファチマ

祈り、償いなさい

アモー・ドゥ・ラッスス

マリアの汚れなき御心が世界のために貯えているもの:

ファチマは単にポルトガルだけに話しかけているのではなく、全世界に話しかけている。われわれはファチマの御出現が新しい時代の始まり、マリアの汚れなき御心の時代の始まりであると信じる。

ポルトガルで起こったことは一つの奇蹟以外のものとして見ることはほとんどできない。そしてマリアの汚れなき御心が世界のために貯えているものの先触れである。

われわれはこの問題についてその詳細を述べるつもりはない。ただ主要な点を明らかにするシスター・ルチアのいくつかの特徴的なテキストを再現しようと思う。より詳細な議論のためにはこの論考の最後にある文献に挙げられた書物を参照されたい。

すべては霊魂の救いに焦点を合わせられている

「....世界がまず祈りそして償いをしないならば確実に起こる物質的な罰について世界に警告することが私の使命ではありません。そうではありません。私の使命はすべての人に、もし私たちが罪の中に頑固にとどまるならば、私たちの霊魂を永遠に失うことになる差し迫った危険を指摘することです。」

「神父様、私たちは教皇様の側でローマから世界に来る償いをしなさいという訴えを待つべきではありません。また私たちは私たちの司教区の司教様たちから、あるいは修道会から来る償いへの呼びかけを待つべきでもありません。そうではないのです!私たちの主はすでに非常にしばしばこれらの手段をお用いになりました。そして世界はそれに注意を払いませんでした。だからこそ今、私たち一人ひとりが霊的に自らを改革し始めることが必要なのです。各人は自分自身の霊魂を救わなければならないだけではなく、また神が私の道に置かれた霊魂をも救わなければなりません。」

「悪魔は私たちの注意を逸らせ、私たちから祈りへの愛を奪うために力の限りを尽くしています。私たちは共に救われるか、それとも共に地獄に堕ちるかのいずれかです。」....1957年12月26日、フエンテス神父とのシスター・ルチアの会話から。

私たちの状況の諸々の義務を果たすことによる償い

「神の御心は和らげられ得るでしょうし、また和らげられるでしょう。しかし、神は神の律法を遵守するように自己を放棄する用意のできた恩寵の状態にある霊魂の限られた数に痛くそしてひどく不満を持っておられます。」

「これは神が今日要求しておられる償いです。すなわち、神の律法を遵守して聖なる生活を送るように私たちが自分たち自身に課さなければならない犠牲です。」

「そして神はこの道を霊魂たちに明瞭に説明するように私たちに求めておられます。なぜなら、多くの人々は「償い」という言葉をただ劇的な禁欲生活の意味においてのみ理解しているからです。そして彼らが禁欲生活に対して充分に強いあるいは勇気があると感じないとき、かれらは意気を挫かれ、生ぬるい信仰と罪の生活へと舞い戻るようになるのです。」

「木曜日と金曜日の間の深夜に、上長の許しを得て礼拝堂にいましたとき、われらの主が私にこう言われました。『各人が自分自身の義務を遂行し、私の律法を遵守するように要求する犠牲、これが私が今求め、要求している償いである』と。」....1943年2月28日、A. M. Martins神父への手紙の中でシスター・ルチア。

二つの救済策:ロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心

マリアの汚れなき御心に対する信心が次のことを含んでいることを思い起こそう:

「いとも聖なるおとめは、私のいとこたちに、そして同様に私にも、神が世界に二つの最後の救済策をお与えになっていると言われました。すなわち、聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心です。そしてこれらは二つの最後の救済策です。そのことは他のどんな救済策もないということを意味しています(....)]

「いとも聖なるおとめは、私たちが生きているこれら最後の日々において、ロザリオを唱えることに一つの新しい効力をお与えになりました。ですから、私たちが聖なるロザリオの祈りを通じて解決できない問題は、どれほど困難な問題であろうと、何一つない、私たちの一人ひとりの個人的生活、私たちの家庭の、世界の家庭の、宗教的共同体の生活に、あるいは実際に人々と諸国家の生活に関係するどんな困難な、この世の問題も、あるいはとりわけ霊的な問題も何一つ、解決できないものはないのです。聖なるロザリオでもって私たちは自分たち自身を救い、自分たち自身を聖化するでしょう。私たちはわれらの救い主をお慰めするでしょう。そして多くの霊魂の救いを獲得するでしょう。」....1957年12月26日、フエンテス神父との会話におけるルチア[の言葉]。

私たちはカトリック位階が聖母の御要求に応じるように祈らなければならない:

教皇と位階のためのわれわれの祈りにおいて、われわれの特別の意向はファチマで彼らに対してなされた次のような要求に応じるように彼らのために祈ることである:彼らがロシアを奉献すること、そして彼らがマリアの汚れなき御心に対する償いの信心を支持し、奨励することである。

教皇のための祈りはファチマの3人の子どもたちの絶えず気にかかっていることであった:

「そのときから、教皇様のための祈りを含まないで私たちが神に捧げた祈りや犠牲はありませんでした。」....第2回想録におけるルチア[の言葉]。

われわれはこの子どもたちの例に従い、その意味を理解すべきであろう。

教会はその構造において位階的である。その中で教皇と司教たちは彼らの特殊の機能、特別の重要性を持っている。そして他の誰一人彼らに代わって遂行することができないものである。それゆえ、教皇と司教たちのために祈ることは、そして特に、適切な指導力を発揮することに彼らが失敗することがわれわれすべてに非常に大きな苦しみを与えるような時期の間に彼らのために祈ることは、われわれの義務である。

まさにその点に関して、おとめマリアはわれわれに一つのさらなる教訓を与えておられる。1929年6月13日に、トゥイにおける御出現において、聖母はこう宣言なさった:

「神が教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、この手段によってそれ(すなわち、ロシア)を救うことを約束なさりながら、私の汚れなき御心にロシアを奉献するように求められる時が来ました。」....ファチマについての全真理、II、p. 464

われわれは74年前にこれらの言葉で表明されたこの緊急の要求がまだ応じられていないということを知っている。そしてわれわれは、もし聖母の御要求が聞き届けられないならば、[起こるであろうと]おとめによって予告された悲惨な諸結果:世界的な戦争、大きな混乱、世界中に広まったロシアの諸々の誤謬、数百万のキリスト者の虐殺が今起こっているのを、見たのである。

これらの不幸に直面して、聖母は何をなさるのであろうか? 聖母は責任ある諸権威(教皇と司教たち)に求められていることを彼らが為すことを待っておられる、待っておられるのである。必要な行動が御子によって設立された教会の位階によって為されることが聖母の御意志である。合法的な位階の諸々の不適切さが何であれ、おとめは一つの並行的な位階によってそれが取って代わられることを求めてはおられない。ジョゼフ・ド・サント・マリー神父がそのファチマ:20世紀の預言という小冊子において説明しているように:

「マリアはいかなる仕方においても教皇、司教たち、位階の教会法上の仲介を抑圧なさらない(....)。また聖母は教会とその諸制度に取って代わろうと主張されることもない。」

その教訓はわれわれが心にとどめるべき教訓である。それは普遍的な妥当性を持つものである。

結びとして、ファチマはキリスト教世界の防波堤であり、救いである。われわれはキリスト教的な平和への帰還、真にキリスト教的な原理に基づいた社会へのわれわれの政治的な希望がファチマに、ファチマの要求の実現に基づいているということを見ることができる。

この希望は幻想的な希望ではない。聖母御自身がこう言われたのである:

「教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心するでしょう。そして世界は平和の一時期を与えられるでしょう。」

それゆえに、われわれはこのことが実際に来ることを確信している。われわれはその日付を知らない。しかしわれわれはキリスト者として、そして社会の一員としてのわれわれの責任によってその到来を早めることができる。これがファチマの主要な政治的意味である。その展望は大きなものである。われわれはそれをわれわれの周りの人々に知らせ、理解させるために最善を尽くすべきである。

文献:テキストで引用された著作

2004/05/20 三上 茂 試訳

作成日:2004/05/20

最終更新日:2004/06/25

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