ファチマの聖母マリア

高慢

神によって最も憎まれる罪

The Fatima Crusader, Isuue 77, Summer 2004, p.18

不幸なことに、誰でもおそらくこの論考のどこかに自分自身が記述されているのを見るであろう。なぜなら、すべての人間的な罪は高慢にその源があるからである。それは、罪人の特殊の気質に一部は依存しながら、その高慢が生じ得る十五の異なった形態を指摘している。
この短いエッセイおよびそれに似たものはわれわれの主たる人間的な弱さの本質、そしてどのようにすればわれわれはそれらに対する効果的な戦いをすることが出来るかをわれわれに理解させてくれる強力な道具である。
われわれの高慢の諸形態を理解することはことのほか重要である。なぜならそれは、われわれが皆生涯の残りのために従事すべき戦い、もしわれわれが神に仕え、われわれの霊魂を救おうとするならば、各人にとって必要である戦い、を細かく示す助けになるからである。

小冊子『七つの大罪』から引用

高慢は犯された最初の罪であった。それはルチフェルの罪であった。それはまたアダムとエヴァによって犯された原罪の根でもあった。

高慢は諸々の罪のうちで最大の罪である。なぜなら、それは自己愛の頂点であり、そして神に服従することに直接対立するからである。それゆえに、高慢は神によって最も憎まれる罪であり、神が最も厳しく罰し給う罪である。天使たち、アダムとエヴァ、そしてナブコドノゾル(ダニエル 4:27-30に関連する)の処罰はこのことを証言している。

高慢は同様にまた、そのうちに他のすべての罪が根を張る自己愛の源泉であるがゆえに最大の罪である:「高慢からすべての滅びが始まる」(トビア 4:14)。罪それ自身の個人的性質がどのようなものであれ、あらゆる罪には高慢の種がある。

高慢は諸々の罪のうちで最も危険なものである。なぜなら、それはわれわれの理解力を盲目にするからである。そして何かあるものが最終的にわれわれに真理を理解させることがないならば、われわれは、自分たちの行為が、ある種の習慣が実際には悪しきものであるときに、良いものであり、有徳的なものであると想像する霊的自己欺瞞に陥る恐れがあるからである。われわれが高慢によって盲目であるとき、われわれは、自分の才能や能力をわれわれに対する神の賜物として考えずに、われわれの良き資質を、われわれが適当と見るときにそれらを用いる権利を持った、自分たち自身に帰するのである。

誰もが高慢のヴィールスに汚染されている!しかし各々の個人にはある特定の種類の高慢がある。同じ性格のうちにそのヴィールスのいくつかがあるであろうが、少なくとも特定の種類が支配している。この高慢はわれわれの気質あるいはわれわれの性格の型を決定している、あるいは少なくともそれに密接に関連している。われわれの高慢の型を研究することはわれわれ自身についての真の知識を得るため、そしてわれわれの生活から罪と悪徳とを取り除くための実りある努力をするため、非常に重要である。

高慢とわれわれの気質

多血質:もしわれわれが多血質の気質であるならば、われわれの高慢は自己中心性の形を取る。われわれは「車のこしき」(中心)であることを欲する。われわれは他人がわれわれに注目することを欲する。われわれは怒りっぽくそして容易に不快になる。われわれの高慢はわれわれを刺激して名声、称賛、賛嘆を求めさせる。われわれは過度の虚栄心に落ち込む。

胆汁質:もしわれわれが胆汁質の気質を持っているならば、われわれの高慢は強い自己意志において明らかにされる。われわれは他人に服従すること、あるいは彼らの意見に屈することを困難だと感じる。われわれはしばしば横柄、批判的であり、議論するくせがあり、優越感で膨れあがり、他者の権利について考えない。

憂鬱質:もしわれわれが憂鬱質であるならば、われわれの高慢は自己憐憫と過度の敏感さの装いの下に自己を隠す。憤慨、隠された怨恨、疑いそして表明されない敵意がその中に含まれている。しばしばこの高慢はそうであるものとしては認識されない。なぜなら、それはそのものとして自らを隠すからである。それゆえ、われわれはそれを高慢として告白しないのである。

粘液質:もしわれわれが粘液質の性格を持っているならば、われわれの高慢はわれわれを自己満足と虚栄とに傾かせる。われわれは他者の欠点に容易にショックを受けるが、自分自身に対してはまったく満足している。

さまざまの種類の高慢

優越の高慢:優越の高慢はわれわれをして他人の生活を支配し、彼らにわれわれ自身を押しつけ、彼らを「支配する」ことを欲するようにさせる。それは、他人が権威を主張するとき、われわれの意志をかたくなにし、曲げないものにする。

自己愛:それは、われわれを神の御意志に反対するものとし、われわれの隣人に反対し、われわれを自分たち自身の自己愛の命令を遂行することにおいて頑固なものとする自己意志であり頑固さである。怒り、憤慨、尊大、矛盾した言動と傲慢の精神は自己愛の所産のうちのいくつかである。この高慢は普通理性のあるいは啓示された信仰の諸原理によって立証された真理を見ることをわれわれに拒否させる強い独断的な精神にその根を持っている。この不承不承は実際に無知を育むのである。それは多くの人々が教会に入ること、あるいは彼らが道を外れた時に信仰の実践へ立ち帰ることを妨げる高慢である。

独立の高慢:この種の高慢(自己愛)に--あるいはそのために他の名称を言うべきであろうが--密接に関連するのは独立の高慢である。これはわれわれを不従順反抗へ、軽蔑尊大な自己矛盾へ、忠告と援助の拒否へ、合法的な権威による叱責に対する憤慨へ、神に対する冒涜、ひどい呪い、誓い、そして言葉と行いにおける不敬へと導く。

知性の高慢:われわれ自身の諸欠点に関する思い違い、自己欺瞞、われわれの精神、人物あるいは幸運のよき資質を--神によりもむしろ--自分自身に帰することは知性の高慢を明らかにしている。信仰に対する罪はこの高慢から生ずる。

野心の高慢:野心の高慢はわれわれを、それらがどのように相応しいものであっても、それによってわれわれが他人よりも自分自身を優先する、名誉や威厳のある地位や役職を求めることへと導く。それはわれわれに案や企画を作り上げさせる。そして、われわれがそれらについてどのようにすればよいかを知らないときでさえ、見込みによって事柄に着手する。過度の信頼はわれわれに自分の能力を過大評価させる。節度を欠いた欲望、虚栄心、称賛を求める欲望、[富や知識の]見せびらかし、もっと高く評価されるために生活必需品を節度を欠いた仕方で用いることはこの高慢から生ずる。それはご機嫌取りと偽善的行為へと導く。

霊的虚栄心:われわれは、自分自身を完全である、そしてわれわれの行為が常に有徳的であると想像し、あるいはわれわれの諸々の落ち度の責任を、われわれがそれらを認めるときには、その重大性を小さくする千もの理由、あるいは口実を見つけながら、霊的虚栄心の高慢を持つであろう。

自然主義:われわれの高慢は自然主義の外観のもとに自らを装おうであろう。その場合にわれわれは自分の行動においていかなる抑制をも実行しないし、自分の言語におけるいかなる節度をも、自分の従順におけるいなかる尊敬をも実行しない。われわれはその謙遜において欺瞞的であり、われわれの会話において辛辣であり、われわれの憎しみにおいて根深く、従順への障碍、権力を切望し、他者に取って代わることを切望し、行動と働きにおいて怠惰である。われわれは他者の諸問題において衝動とお節介を通じて行動する。われわれは抑制のない好奇心によってあらゆることを知ろうと望む。われわれは、自分が理解しないことについてさえ常に話していることを好む。

犬儒主義:われわれはわれわれを冷笑的にする高慢を持つであろう。もしそうならば、われわれは皮肉たっぷりに語り、辛辣な言葉を用いる。われわれは他人を嘲笑し、彼らにがみがみ言い、そして彼らを誤って判断する。

ファリザイ的:この高慢はわれわれを自慢に満ちているあり方そして他者の批判へと導く。それはわれわれを極度のおしゃべりにする。それは嘘と矛盾へ、生まれや社会的地位を徳よりも高く評価することへと導く。われわれがより劣っていると信じる人々と関わることを沽券に関わると思う態度の傲慢さはそれから生ずる。それは、われわれの諸々の義務を精神なしに、偽善をもって、われわれに果たさせるようにしながらわれわれの行為における律法尊重主義によって自らを明らかにする。

自己憐憫:われわれの高慢は傷つき易さ、あるいは自己憐憫において自らを隠すであろう。この場合にはわれわれは他者がわれわれについて考えることについて過度に心配する。われわれは想像した悪しきことがらを考え込み、他者を容易に許さない。この形式の高慢に密接に関連しているのは臆病の高慢であって、それは不合理な恐れにその根がある。それは他者の意見をわれわれに恐れさせ、その結果われわれは人間的な顧慮に迎合する。その衝撃の下でわれわれはそうすべき時に行為しそこなう。なぜなら、根拠のない恐れがわれわれの努力を麻痺させ、われわれに決断を不可能にさせる霊的な怠惰の足かせのうちにわれわれを拘束し、そしてその結果われわれは諸々の機会を用いられないままに過ぎ去らせてしまうからである。

几帳面さ几帳面さの高慢はわれわれの注意を悪しき事柄に固定させ、その結果われわれはそのような注意に値しないことに専ら注意を払い、一方われわれにとって重要であるべき事柄において無節操であるということになる。

金銭上の成功の高慢:われわれの高慢はわれわれの富や金銭上の成功、生活におけるわれわれの地位、われわれの美しい衣装、われわれの頭の回転、美しさ、あるいは強さを中心にするであろう。それは上述の部類分けのいくつかによて示されるように、われわれの敬虔や良い素行からさえ成長する。

高慢な人間は大きな危険にある

高慢はすべての徳を破滅させ、われわれをあらゆる種類の無秩序へと引っ張り込むことができる。高慢な人間はどんな罪をも犯し得る。「うぬぼれは滅びの序曲であり、高慢は滅亡に至る」(格言 16:18)。それゆえに、霊的生活においてはそれがどのような装いにおいて自らを表そうと、この悪徳と戦うことが最も必要である。もしわれわれが高慢をわれわれの心の中に入ることを許すならば、あらゆる悪徳の胚種がそれと共に入り込み、そしてわれわれは間もなくサタンの奴隷である自分自身を見出すのである。われわれはそれによって罠にかけられないように用心しなければならない。なぜなら、高慢な、悔い改めない罪人の最後は、神によって啓示されているように、悪霊たちと一緒に永遠の地獄の火だからである。

高慢に対する救済策

高慢を負かす唯一の方法は謙遜を実行することである。それは矛盾であるように聞こえるかもしれない。しかし謙遜な人間は彼が高慢であることを理解している。そして彼の生活の中で高慢の出現を真剣に克服しようと努力する。

謙遜へ向かって努力することにおいて、われわれは常にわれらの主の模範を眼前に持っていなければならない。われわれは謙遜な人の利益になるわれらの主の御約束、そして主が高慢な人のために備えておられる復讐を心に留めなければならない。

われわれは神にしがみつき、全霊をもって神の御意志を行わなければならない。われわれはこの徳を繰り返し求めながら、祈りを頼りにしなければならない。われわれは神の現前のうちに生活し、自己否定と他のキリスト教的徳、特に忍耐、寛容、愛、柔和、従順、神への委託と神の御意志への一致、共感、神への信頼、罪に対する悔恨、節度を実践しなければならない。われわれは名誉を求めてはならず、われわれの無であること、そして徳の欠如を認めなければならない。

われわれは屈辱を喜んで受け容れ、すべての事柄のうちに神を探し求める努力をしなければならない。

聖人たちによって予告された今日の罪

砂漠の聖アントニオ(4世紀)[探求CXIV]
「人々は時代の精神に屈服するであろう。彼らは、もし彼らがわれわれの時代に生きていたならば、信仰は単純で容易であったであろうと言うだろう。しかし、彼らの時代には、彼らは、事柄は複雑なのだと言うであろう。教会は現代風にされなければならず、今日の諸問題にとって意味あるものとされなければならない。教会と世界が一つであるとき、そのときにはそれらの日々は近い。なぜなら神なる師が御自分の事柄と世の事柄との間に一つの防壁を置かれたからである。」(ファチマの声,1968年1月23日から引用)。

スウェーデンの聖ブリジェット(1303-1373) 「2000年の40年前[1960年]悪魔がしばらくの期間人々を誘惑するために解き放たれるでしょう。すべてが失われたかに見えるであろうとき、神御自身が突然すべての悪を終わらせられるでしょう。これらの出来事がいつ起こるかのしるしは、司祭たちが彼らの聖なる衣服を放棄して俗人の衣服を纏い、女性が男性のように、また男性が女性のように衣服をつける時であるでしょう。」

2004/09/19 三上 茂 試訳

作成日:2004/09/19

最終更新日:2004/12/29

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