ファチマの聖母マリア

「預言を軽んじてはいけない」

The Fatima Crusader Issue 54, Winter 1997より

ニコラウス・グルーナー神父 B.Comm., S.T.L.,S.T.D.(Cand.)

この論考はFatima 2000でグルーナー神父によって行われた講演に基づくものです。

ファチマ2000会議へのグルーナー神父の開会講演は私たちすべてが実行しなければならない重大な責任に関して私たちに一つの洞察を与えてくれます。教皇ヨハネ・パウロ二世が言っておられるように、「ファチマのメッセージは教会に一つの義務を課している」のです。この義務はすべての者、教皇、枢機卿たち、司教たち、司祭たち、修道者そして平信徒を含んでいます。


完全なファチマ・メッセージを信じ、それに従う重大な義務があるということを理解することは非常に重要です。この義務は単に私たち一人ひとりに対してばかりでなく、教会に対しての義務です。これは単に敬虔な信心のためばかりではない、一つの義務です。確かに聖母に対する私たちの愛は私たちに義務を感じさせます。そして聖母が私たちの御母であるという事実は私たちに義務づけられているということを感じさせるでしょう。しかし、私は単に信心に関わる理由を詳しく述べたいのではなくて、正義と賢明さにおいて厳格に私たちを義務づける理由を述べたいと思います。私たちは自然法と神的啓示の光の両者のうちにそれらの理由を見出します。

間違った帰依者たちの反対

ファチマのメッセージを奨励すると言う人々によってさえ提出される反対があります。彼らはこう言います。

「あなたたちはファチマを信じなくてもよい。あなたたちはファチマに従わなくてもよい。もちろん、私たち聖母への帰依者はそうしますが、しかし私たちはそうする義務はありません。」

私はこの反対そしてその陳述を訂正したいと思います。聖母が一つの特別の役割を持っておられると信じる人々にだけでなく、すべての人に、特に教会に一つの厳格な義務があります。

教皇様は1982年5月13日のファチマでのスピーチにおいて、ファチマのメッセージは教会に対して一つの義務を課していると言われました。それは私たちにとって十分にしかるべき理由でしょうけれども、それは単に教皇様の陳述に基づいているだけではありません。

聖書はファチマに従う義務を課している

ファチマのメッセージが一つの義務を課していると言うことの根拠は聖書それ自身に基づいています。私たちは「テサロニケの信徒への手紙 一」5:19-22において聖パウロがこう言っているのを見出します。「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」言葉を換えて言えば、預言を軽んじることは霊の火を消すことと同じです。

私たちはすべての人の言葉を、彼らが「神が私に語り給うた」と言うたびに、彼らが言うようによい意図を持っているものと取ることはできません。それは真であるかもしれません。しかし、聖パウロは続けてこう言います。「すべてを吟味しなさい。」ですから、まず何よりも先に、神が預言の声を通じて語られることがあり得るという開かれた心を持つことは義務です。

しかし、そのとき私たちは、特に聖職者は、そのメッセージが本当に神から来ているかどうかを吟味する義務を持っています。

これが私がファチマのメッセージを促進する理由です。というのは、教会はファチマを吟味し、最近より多くなってきた他の御出現と違って、信じるに値するものであることを見出したからです。ファチマ以来教会の位階によって承認されていると私が気づいているのは非常にわずかです。

ファチマのメッセージは教会 - それは確かに真理の柱であり基礎です - によって認められたばかりでなく、また大きな奇跡によって、特に7万人の人々によって証言された太陽の奇跡によっても認められました。

聖パウロは言っています。「よいものを大事にしなさい。」ですから、私たちはファチマを大事にする義務があります。それはよいものであることが見出されました。聖パウロがこのことについて言っているのは単に「テサロニケの信徒への手紙」においてだけではなく、あなたたちもまた聖パウロが教会について語るときにそれを見出します。

私たちがファチマの聖母を信じ、従わなければならないかどうかを問うある人々はまたこう問います。「あなたは教皇様よりもシスター・ルシアの方がもっと大切だと言うのですか?」これは私たちの反対者たちが言う言い方です。

ここローマのテレジアーヌムの教授であるジョセフ・ド・サント・マリー神父はその問いに非常に興味ある答えを与えました。彼は「エフェソの信徒への手紙」2:20において、教会は使徒たちの基礎の上に建てられているということを指摘します。そして彼はそれはまた預言者たちの上にも建てられているということを指摘します。

預言者たちに聴き、従いなさい

ジョセフ神父はこう指摘します。預言者たちは新約聖書の預言者たちです。もしあなたが使徒行伝全体を読むならば、あなたは使徒たちのカリスマと共に新約聖書の預言者たちのカリスマがあるということを見ます。教会は単に使徒たちのカリスマの上に建てられているだけではありません。確かに、それはまた神的起源のものです。すなわち、使徒たちと彼らの後継者たちである司教たちはイエズス・キリスト御自身によって教会に本質的なものとして確立されました。このことは特に教皇制について真です。教皇制の聖書的設立についてはゲリー・マタティックによって後に話があるでしょう。私たちはこの話の中では問いを提出することさえしません。私たちは預言の真正の声に耳を傾け、従う義務について話しています。

三種類の啓示

あるメッセージが神から来ているかどうかを吟味し、見出し、決定するのは教会位階の役割です。事実、1515年頃に開催された第五回ラテラン公会議は預言の最終的解釈はローマの教皇に残されると言うカトリック教会の荘厳な定義を決定しました。教会によって認められる三種類の真正の啓示があります。それらは聖書と聖伝に含まれている神の啓示の公的な遺産、私的啓示、そして公的な預言的啓示です。神の啓示の公的な遺産を信じないことは信仰の神学的徳に反する罪です。

次に私たちが私的啓示と呼ぶものがあります。すなわち、もし私が聖母の幻視を持ったとするならば- 私は確かにそれを持ったことはなく、確かに私はそれに値いしませんが - しかし、もし私がそれを持ち、そして聖母が私にロザリオ15連を私自身のために祈るように言われたとするならば、それは私にとって私的啓示であるでしょう。

確かに、私自身以外の誰一人この私的啓示を信じるように期待されるべきではありません。しかし、ドイツ、レーゲンスブルクのグレイバー司教がずっと以前に指摘されたように、第三の種類の啓示があります。そしてそれが彼が「公的な預言的啓示」と呼んだものです。そしてそれは私的啓示とは異なり、また信仰の遺産とも異なります。

それが聖パウロが「テサロニケの信徒への手紙」および「エフェソの信徒への手紙」の中で語っているものです。聖トマス・アクィナスが『神学大全』第二部の第二、174問題、第6項(特にad 3 に注意してください)において指摘しているように、「神は新しい教義を与えるためではなく、信徒たちに彼らの霊魂を救うために彼らがしなければならないことを思い起こさせるためにあらゆる世代に預言者たちを送られる」のです。

知的、専門的な流行

確かに神は私たちに近づくために多くの方法を用いられましたし、また用い続けておられます。しかし時には神は私たちに近づくためにある障碍を打ち破られなければなりません。神学において、あるいは教会においてだけでなく、人間性の共通の経験である事柄の一つは流行、知的な流行です。

私の祖父は医者、ガンの研究者でした。そして医学的専門が流行に走るというのが彼の見解でした。私は同じことを疑いなく法律家についても言いたいと思います。そして同じことは計理士についても言えます。しかし私は、人間的活動におけるある種の理論あるいはある種の救済策が時に唯一の真の方法であると考えられますが、しかし後になって、私たちの一般的な理解が深まるとき、新しい救済策が適用されるという事実について、そこには何か人間的なものがある、ということを指摘しているのです。

医療の実践からいくつかの例を取ることによってこのことを例証してみましょう。

しばらくの間、外科はあらゆる問題への答えでした。「それを切り落とせ、それを切除せよ」が多くの問題に与えられた共通の解決でした。そして次にしばらく後にはそれはピルでした。このピル、あるいはあのピルを飲め。

これらの処置のすべてはそれらのうちに真理の一要素を持っています。医学を打ち倒すためではありません。しかし時に彼らは他の真理を犠牲にして一つの真理を過度に強調しました。そしてこのことは法律においても起こり得ます。ときどき私たちは犯罪者の権利について語ります。そしてしばらく後に犯罪者は被害者が持っているよりも多くの権利を持ちます。そして私たちは、確かにアメリカ社会において、被害者が権利を持っており、そして彼らは守られるべきであるということを今や指摘する世論の変動があるのを見ています。

しかし、私がこれらの例を持ち出しているのは、これらの他の職業について話すためではなく、教会の中にはときどき真である司牧的実践において強調されますが、しかし他のいくつかの真理を除外する点まで過度に強調されるある事柄があるという事実について話すためです。

預言者たちは反対に出会う

それが神があらゆる世代に預言者たちを送られる理由です。それは、こう言えばよいでしょうか、その時には通俗的でない事柄を信徒たちに思い起こさせるためです。そしてそれが預言者たちが歴史的に反対に出会う理由です。というのは、彼らは現代の傾向に反していることをしばしば言うからです。もし彼らが言ってみれば時流に反しなかったとしたら、神は第一に預言者を送られる必要はないことになるでしょう。

それが聖パウロの忠告「預言を軽んじてはいけません。霊の火を消してはいけません」を思い起こすことが私たちにとって重要である理由です。というのは、それがここにいる私たちであれ、あるいは教会における他の何らかのグループであれ、私たちは私たちの周りを見、そして「1千万人のフランス人が間違っていることはありえない」と言うことによって、私たちの主張について自信過剰に感じさせられることがあり得るからです。流行の先端を行く人々は、他のすべての人がそれを行い、それを信じてもいるから自分たちは正しいのだと考えることへと誘惑され得ます。

ラッツィンガー枢機卿が指摘されているように、真理はある問題を民主的な投票にゆだねることによって達せられるのではありません。むしろ、真理は真理であり、真理を認めることが精神のためです。それが神が預言者たちを送られる理由です。

逆に、もし私たちが議論を別の仕方で提出するとすればどうでしょうか。すなわち、もし神が一人の預言者を送り、そして一つの大きな奇跡を働くことがお出来になるとしたら、そして私たちが全くの善意で、「なるほど、それはよい。しかし、それは私的啓示にしかすぎない。私たちは注意を払う必要はない。私たちには福音書がある。私たちは聖書と伝統を持っている。そしてそれは私たちが必要とするすべてだ」と自らに言うことができるとしたら、どうでしょうか。ですから、私たちは神は私たちに一つのメッセージを送ることはおできにならないと言っているのです。私たちは、私たちすべてが自分たちの間で聞くことを同意していること以外には、神が私たちに言われることを何も聴く義務はない、と。

明らかにそれは霊の火を消し、預言を軽んじることでしょう。そしてそのことに対する一つの重大な忠告があるのです。

よい人々でさえ聖母を無視している

彼女が公式に話すことができた最後の時期の一つである1957年12月26日にシスター・ルシアはこう言いました。「聖母は非常に悲しんでおられます。聖母はよい人も悪い人も彼女のメッセージに何の注意も払わないので、非常に悲しんでおられます。」

ところで、聖母が悪い人について言われていることは理解できます。彼らは自分たちの上に落ちかかる神の罰を見ませんでした。彼らは聖母の言葉のうちに何の緊急性あるいは重要性をも見ませんから彼らの楽しい道をただ進んでいるだけです。そして彼らはもちろん何の注意も払いません。私は「もちろん」と言います。というのは、もし彼らがよい人であったならば、あなたは彼らが注意を払うと期待するでしょう。しかし、もし彼らが悪い人であったならば、よろしい、それは彼らがあるところのものであり、そしてそれゆえに聖母を無視することは彼らの選んだ道から多少とも論理的なことです。

しかし、なぜ聖母が悲しんでおられるかを説明するシスター・ルシアの陳述において私が驚くべきことだと思うことは、よい人が聖母のメッセージを無視するということです。それにもかかわらず、彼女はよい人がそうしていると言っているのです。

私が思うに、それはまさによい人がだまされたからです。彼らは一つの嘘を告げられました。彼らは注意を払う必要はないと告げられたのです。彼らは耳を傾ける必要はない、信じる必要はない、従う必要はないと告げられたのです。そしてそれは最も重大な誤りです。

「彼女だけがあなたたちを救うことができる」

それは私たちの救いを犠牲にし得る誤りです。それは確かに私たちの自由、そして私たち皆が大切であると考えている多くの事柄を犠牲にするでしょう。聖母は私たちが拒否することができない一つの申し出を私たちになさいました。すなわち、それは「あなたは私の言うことをするか、それとも死ぬかのどちらかです」ということです。

ところで、聖母は私たちを殺そうとしておられるのではありません。しかし、彼女は、人類の罪のために、現在までのところ、私たちは前代未聞の割合の危機に陥っており、その結果としてそこから「ただ彼女だけがあなたを救うことができる」と言っておられるのです。ただ彼女だけが、であって、他の誰かではありません。ある仕方では、おそらくこのことについてはショッキングでさえあるでしょうが、神でさえ、できません。というのは、神はこの恵みを聖母の取り次ぎに取って置かれたからです。

聖アウグスティヌスが指摘しているように、神は私たちをそのように非常に愛しておられますから、神は非常に善ですから、私たちにある種の大きな好意、大きな恵みを与えたいと望んでおられます。しかし、神は私たちがこれらの恵みに値する者ではないということをご存じです。それでもなお神はそれらの恵みを私たちに与えたいと望んでおられます。しかし、神は諸聖人の功績と取り次ぎを通じて以外にはそれらの恵みをお与えにはなりません。それは神が二つの事柄をご存じであるからです。すなわち、一つは、神は私たちがそれらに値しないということをご存じです。第二に、神はまた、もし神がそれらを直接に私たちにお与えになったならば、私たちが高慢になるであろうということをご存じです。私たちは「そうだ、私はそれをした。私はその恵みに値する」とともかくも考えるであろうということです。

平和と繁栄がただ聖母にだけ委ねられた理由

これらの恵みは非常に例外的でまた非常に驚くべきものであるので、神はこれらの恵みが私たちにとって高慢の機会となることをお望みになりません。神はまたそれが諸聖人の功績と取り次ぎを通じてであるということを私たちが認めることを望んでおられます。神は結局のところ、彼らの祈りと功績によって私たちのためにこれらの事柄を得ることができた神の友人たちに私たちが感謝することを望んでおられるのです。

それが私たちがファチマで、世界の平和はマリアの汚れなき御心に委ねられたと告げられた理由です。それが聖母がそのすべての文字どおりの真理において、「私だけがあなたたちを救うことができます」と言うことがお出来になる理由です。

それは私たちが、私たちに約束されたこの恵み、世界平和の恵み、ロシア回心の恵み、そしてロシアの回心を通じてカトリック信仰への全世界の回心の恵みに値しないからです。しかし、神はそれを私たちに与えることをお望みになり、そして神はそれを私たちの時代に私たちに与えることを望んでおられます。神はまた、私たちがこれらの恵みを得るのはただ聖母の功績と取り次ぎを通じてだけであるということが理解され、認められることを望んでおられます。

ほとんど偽りにも見えるほどに単純なこと

ですから、私たちが最後にロシアの奉献と世界平和を手に入れるとき、私たちはそれは私を通じて来たのではないということを覚えておかなければなりません。それはあなたたちのうちの誰か、あるいは私たちのすべてを通じてではありません。それは教皇の功績を通じてでさえありません。それは聖母の功績です。

同時に神はまた全世界が教皇の、そしてカトリックの司教たちの、また事実カトリック教会の重要性、そして独自の地位を見ることをも望んでおられます。そしてそれが、神が、回心させられるロシアとマリアの汚れなき御心に奉献のこの行為をした教皇および司教たちとの間の直接的な関係を見るように、それは単に教皇であるのではなくて、教皇と共にカトリックの司教たちであるということを強調された理由です。

人々は多くのことをするでしょう。彼らは、私たちが世界平和のこの恵みを受けたことで神と聖母に感謝がありますように、と言うでしょう。人となられ、その一つの真の教会、カトリック教会を建て、支えておられることに対して子である神に感謝がありますように、と。

彼らはまたこう言うでしょう。カトリックの位階の力、威信、重要性を、そして特に教皇が教会の司教たちに対して持っている首位性を明らかに示していることに対して感謝がありますように。というのは、この奉献は司教たちに命令する教皇の直接の命令によって起こるでしょうから、人々はそのとき教皇は司教たちの中で同等の者ではなくて、司教たちよりも上位におられる方であるということを見るでしょう。奉献のこの行為は最も奇跡的な仕方で全世界に、教皇制が神によって設立され、そして教皇は単に名誉の首位性だけでなく、また他のすべての司教たちに対する権限の首位性をも持っているという神の意志を明瞭に、公的に、そして決定的に明らかにするでしょう。

結局、神は教皇とカトリック司教たちが行う聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献によってだけ世界平和を手にするという御自分のこの変えられない御計画を教会と世界にお与えになったのです。全能の神は単に聖母への信心の必要性と重要性を教会と世界に示す示すようにお定めになっただけではなく、ロシアのこの奉献とその結果としての世界平和を通じて、神が唯一の教会、カトリック教会を設立されたということ、そして神がその中にカトリック教会の位階を確立され、そして神が教会における権威の首位性を教皇にお与えになったということをも示すようにお定めになりました。

その要求は非常に単純なので、それはほとんど偽りにも見えるほど単純でした。あなたが止まってそれについてしばらくの間考えないならば、それはほとんどあなたの側を通り過ぎてしまうことができます。その結果、あなたはこう考えるように誘惑されるかも知れません。「そこには他に何があるのか? もっと重要なことが何かあるに違いない。」

そしてそれがファチマの聖母が、トゥイに来られ、ロシアを奉献するというこの最も重要な命令を与えられたとき、至聖三位一体の現前において来られた理由です。聖母がファチマにおいて子どもたちに御出現になったとき、彼女は御自分でお話しになりました。しかし、彼女が至聖三位一体の現前において話されたとき、彼女は神の名において話されたのです。聖母が言われるすべてのことは神が聖母に言わせたいと望んでおられることです。しかし、彼女がロシアの奉献に対する彼女の要求をなさったとき、彼女はこう言われました。「神が教皇に、この手段によってロシアを救うことを約束なさりながら、世界の全司教たちと一緒に、ロシアの奉献を私の汚れなき御心に対して為すように求められる時が来ました。」

危機に瀕している家庭、自由、生命

そしてそれゆえに、あなたたちは、私たちが聖母の要求を満たすことによってすべてを得、彼女の要求を満たさないことによってすべてを失わなければならないということを見ることができます。それが単にあなたが自分の国を愛するから、あるいはあなたが自分の家庭を愛するから、あるいはあなたが自分の自由を愛するから、あるいはあなたがただ生きていることを愛するから、これらの理由のどれ一つのためであれ、それらの理由の全部のためであれ、彼女の要求を満たすことは賢明なことでしょう。単に自然的なレベルにおいてもそうすることは賢明なことであることは明らかです。

さし当たり数百万の霊魂を救うことの大きな善 - それは確かに私がさっき言及したこれらすべての善よりこはるかにもっと重要なのですが - の問題を扱うことをしなくてさえ、ただ自然的なレベルにおいてさえ、私は無神論者でさえ、彼はロシアの奉献を促進することによって何かを手に入れるであろうということを見ることができると、言うでしょう。

無神論者でさえ理解する

私は1984年のある時、一人の無神論者にこのことを説明したのを覚えています。彼は神を信じていませんでした。しかし、彼はそれにもかかわらずこの奉献の行為をすることの賢明さを理解することができました。彼は世界に対して彼が何らかの希望を見たのはこれが初めてであると言いました。無神論者でさえ、彼らの生命、彼らの人格、彼らが借金を20年間支払った彼らの家庭にただ注意するために、あるいは何であれ彼らが大切であると考えているものを守るために、他に何もないとしても、ただ生きている、そして彼らの自由を楽しむために適切に為されたロシアの奉献を持つことは最も賢明なことであると理解します。これらすべてのことはファチマの聖母のメッセージが聴かれ、従われることなしには危険にさらされるのです。

そしてそのように、無神論者の見地からでさえこの奉献の行為を前に進めることは完全に賢明なことです。他に何もないならば、そうすることによって何が失われるのでしょうか? 絶対に何も失われません。起こるであろう最悪のことは奉献の行為をするために教皇と司教たち一緒の祈りが30分かかるということでしょう。そしてより大きな儀式になれば一時間半かかるということでしょう。そしてそれで終わりです。実際の祈りは宣言するために5分以上はかからないでしょう。そしてそのように賢明な見地からはそういうことです。それをすることによって得られるすべてのことがあります。そしてそうしないことによって失われるすべてのことがあります。

聖書は私たちに奇跡について教えている

しかし、この人間的な賢明さから離れて、私は私たちが聖書のうちに見出すいくつかの他の理由を述べたいと思います。私たちの主はファリサイ派の人々によって一つの奇跡を行なうように求められました。彼らはこう言いました。「私たちのために天に一つのしるしを行なってください。そうすれば私たちはあなたを信じましょう。私たちはあなたに従うでしょう。」私たちの主は言われました。「私はそれを行なわない。あなたたちが持つ唯一のしるしはヨナのしるしである。それは地中深くに三日いた後に再び命へと上げられる人の子である。」

しかし、これらのファリサイ派の人々は、主が天にしるしを行なってくれたなら信じるであろうと言いました。ところでファリサイ派の人々に拒否されたまさにこのしるしは聖母が、このメッセージが本当に神から来ているということを世に証明するために彼女の御子から得られたしるしでした。

「地獄のように低い」

私たちが神から一つのしるしを得るとき一つの義務があります。この義務はまた私たちの主によっても言及されています。彼は聖書の中でこう言っておられます。「おまえカファルナウムよ、おまえベトサイダよ、おまえは天にまで上げられると思っているのか?」私たちの主はこれらの二つの町、ベトサイダとカファルナウムについて、御自分の問いにこう答えられます。「いや、おまえはよみにまで落とされるであろう。」[訳者注:マタイ 11:23、ルカ 10:15]非常に強い言葉です。

主がよみにまで落とされるであろうと言われている二つの町がここにあります。なぜ主はそう言われるのでしょうか? 主は御自身で説明なさいます。主はこう言われます。「もし、おまえたちの間で行なわれたあの奇跡が、おまえたちの間で行なわれたしるしが、ソドムとゴモラで行なわれていたならば、これらの町は悔い改めて、きょうまで残ったにちがいない。」

ソドムとゴモラは、あなたたちが知っているように、同性愛のために天から彼らの上に火を降らせられました。そしてにもかかわらず、私たちの主は、もし彼らが奇跡を見ていたならば、彼らが、私たちの主がカファルナウムとベトサイダで行なわれたしるしを見ていたならば、アブラハムがその中に五人の義人を見出すことができなかったあのソドムとゴモラの町、あれらの町は悔い改めていたであろう、と言われます。

そしてそのように、聴かず、従わないことによって私たちの主がカファルナウムとベトサイダにおいて行なわれたようなそのようなしるしを認めることを拒否することはよみにまで落とされることの理由です。これらは主御自身の言葉です。

神は私たちに何を言われるでしょうか?

それでは私たちの主は二十世紀について何を言われるでしょうか? 神は御自分がカファルナウムとベトサイダで行なわれたよりも大きな一つの奇跡を行なわれました。神はファリサイ派の人々が彼らを回心させるために求めた奇跡を行なわれました。神はその奇跡をファチマで行なわれました。一つの奇跡が三ヶ月も前に予告されたのは人類の歴史において始めてのことです。

巡礼者たちがひとつのしるしを彼女に求めたので、ルシアが一つのしるしを求めたのは1917年6月13日のことでした。彼女はその日に、このメッセージが本当に神から来ているということを証明し、実証し、示すために、神が10月13日に一つの奇跡を行なわれるであろうと予言しました。

ひとたび神がそのようなしるしを与えられたからには、メッセージを無視すること、聴かないこと、それに従わないことに対しては支払うべき値があります。

そしてそれゆえに、私たちはファチマの聖母を信じなくてもよいと言うことは、たとえ私が「異端的」という言葉を使うことができないとしても、私は「ばかげた」、「危険な」ことであると言うでしょう。それはファチマ自体が信仰の遺産の部分であるからではなく、信仰の遺産が、私たちはファチマのメッセージのような預言的メッセージを信じ、それに従う厳格な義務を持っていると私たちに告げるからです。

一つの重要な神学的脱線

さて一つの議論、あるいは推理の線があります。私はあなたたちにそれを与えたいと思います。しかし、私は私の話の論点を確立するためにこの議論に頼るのではありません。ファチマの聖母に耳を傾け、それを信じ、それに従う私たちの義務はこの推理の線には依存していません。ファチマの全メッセージに従う私たちの義務、教会の義務を主張するためには私は上述の他の証明を挙げました。

しかし、それにもかかわらずこの次のような思考の線を省察することは私たちにとって有益です。1967年にこの御像をファチマで祝福なさった教皇パウロ六世はファチマに行かれる前の日に、"Signum Magnum" - それは「大きなしるし」を意味しますが - と題する非常に短い回勅を書かれました。教皇パウロ六世はこの回勅を黙示録の第12章を引用することによって始めておられます。それはこうです。「私は天に一つの大きなしるしが現れるのを見た。一人の女が太陽をまとっていた。」

教皇パウロ六世はその回勅の最初のパラグラフにおいて、太陽をまとった一人の女が単に、聖書学者たちが何度もあなたたちに証明することができる聖母であるばかりでなく、黙示録の第12章において予言されているのはファチマの聖母であるということを主張はしておられませんが、しかしそのことを非常に強く示唆されています。太陽をまとった女はファチマの聖母に他なりません。

もしそうであるならば、そしてパウロ六世が確かにそれを信じるように私たちに望んでおられるならば、そのときファチマのメッセージは実際神の啓示の一部分であるでしょう。

ところでファリサイ派の人々は旧約聖書について、彼らはアブラハムを彼らの父として持っている、彼らはモーセを彼らの教師として持っている、そしてナザレト出身のこの青年は誰なのか? と主張しました。彼らは律法を知っていました。そして彼は学んだことさえない単なる一人の「無知な人間」でしかありませんでした。それでも神の啓示を支持している、そして神のために存在しているというまさに彼らの主張において、彼らは神御自身を否定しました。そして彼らは旧約聖書におけるキリストに関するすべての予言を事実上否定しました。私たちの主は、もしあなたたちが真に神をあなたの父として持っているならば、そのときあなたたちは私を認めるであろう、というのは私は私の父の似姿であるから、と彼らに言われました。

同じようにして、私たちは私たちの時代に、過去30年間以上にわたって、「あなたたちはファチマを必要としない。あなたたちは聖書を持っている。」と私たちに告げてきた人々を持っています。そして彼らが聖書を持っているというまさに彼らの主張において、彼らは明らかに、ファチマは重要ではないということを意味しているのです。

私はここローマにおいて、マリアーヌムで、「あなたはファチマを信じなくてもよい」と言った一人の教授に会いました。

私は彼を止めてこう言いました。「あなたはどうして知っているのですか? ファチマの聖母が聖書に預言された太陽をまとった女でないということをあなたはどのようにして無条件的に主張することができるのですか?」彼は私に答えることができませんでした。私は言いました。「ではよろしい。もし彼女がそうであるならば、そのとき彼女は聖書の中にいます。彼女はその預言において神の啓示の部分です。そしてあなたはファチマの聖母に私たちは聴かなくてもよい、と言うことはできません。」彼は答えられませんでした。

その議論には最終的にいかなる答えもありません。ファチマの聖母が太陽をまとった女であるということを、教導職からの不可謬の宣言なしには、私が論証することができないとしても、です。そして教皇パウロ六世はそれ以上先へは進まれませんでした。しかし彼は彼女がそうであったと明らかに示唆しておられます。

他方において、誰も、彼女は黙示録の第12章において予言された女ではないということをあなたに告げることはできません。そしてもしファチマが真に聖書の預言の成就であるならば、そのとき彼女は啓示の部分です。

聖トマスは、私が信じなければならないことは神が啓示なさったすべてのことである、と指摘しています。信仰の行為は啓示の遺産において神が啓示なさったすべてに及びます。そしてそのように、聖トマスはまさにこの例を用います。すなわち、もしあなたが、聖書はあなたにダビデが70人の息子を持っていた、69人でも71人でもなくて、ダビデは70人の息子を持っていた、と告げるということを知るならば、そのとき、あなたはそのことを神的な信仰をもって信じなければなりません。

ところで、平信徒は司祭、あるいは司教、あるいは神学者と同じように、神学や啓示に関するすべての書物を知ることを期待されていません。しかし、もしあなたがこれらの事実を知っているならば、そのときあなたはそれらを信じなければなりません。この歴史的事実に対するあなたの信仰はあなたが歴史書一般において持っているのと同じ種類の信念ではありません。あなたはこの歴史的事実を神学的な信仰の徳の行為をもって信じるでしょう。それはその書物が歴史的書物であるからではなく、それが神の言葉であるから、神御自身がそれを啓示なさったからです。確かにその書物は歴史的なものです。しかし、私はそれを確実性をもって信じなければなりません。恐らく私はそれを信じるでしょうと言ってはいけません。神がこれを啓示なさったということをひとたび私たちが知るならば、私たちはそれを神の権威において信じなければなりません。

もし私たちが神学的信仰をもって、神がそれを私たちに啓示なさったから、ダビデ王が70人の息子を持っていたという事実を信じなければならないならば、そのとき私たちはまた、同じ種類の信仰をもって、聖書のうちに含まれていると私たちが知っている他のすべての事実をも信じなければなりません。ダビデの70人の息子たちという事実は聖書における他の多くの事実と同じように論理的に重要ではありませんが、しかし私たちはそれを神学的信仰をもって信じなければなりません。

このように、私たちにとってはるかに重要であることについて聖書の中に受け継がれている事実を私たちが信じることはもっと重要なことです。ですから、もし私たちがまた、未来に神は太陽をまとった神の御母を送られるであろうということを神が啓示なさったということ、そしてその預言の成就はファチマの聖母であるということを知るならば、そのとき私たちはそれは信仰の神的な啓示の一部である、それは神的啓示のうちにあるということを信じなければなりません。

さて、私はこれによってあなたたちが今日それを信じなければならないと言っているのではありません。というのはそのことに関して教導職の公式宣言を持っていないからです。しかし、私たちはまた私たちの反対者たちに対して、あなたたちはその反対のことを主張することはできない、と言うことができます。このように私をへこましたかったあの教授は答えることができなかったのです。というのは、私はそれに対してはいかなる答えもないということを知っているからです。そして私は教皇パウロ六世が事実、ファチマの聖母は黙示録の第12章における太陽をまとった女に他ならないということを非常に強く示唆なさったということを知っています。

結論

私たちの主要な論点、すなわち、ファチマの啓示は聖書に書かれた預言のうちに含まれているか否か、という点に戻るならば、問題の事実は私たちはファチマの聖母を信じ、それに従わ<なければならない>ということです。私たちの義務はなお存在します。というのは私たちは「テサロニケの信徒への手紙」において「預言を軽んじてはいけない。霊の火を消してはいけない」と告げられているからです。

私たちは、教会は新約聖書の使徒たちと預言者たちの基礎の上に建てられている、と告げられています。シスター・ルシアはその謙遜において、自分自身を一人の預言者として語ってはいません。しかし、厳密に言うならば、言葉の定義によって彼女は一人の預言者です。彼女は教会全体に伝えるために神からメッセージを受けました。そして神は一つの公的な奇跡でもってこのことを証明なさいました。それは世界と教会が御復活以来見たことがない重要性をもった一つの公的な奇跡です。

私たちは、カファルナウムとベトサイダの人々が、神がひとたび大きな公的奇跡をもってそれを証明されたからには、神のメッセージを信じ、それに従うことを拒否したことに対してよみにまで落とされるということを私たちに告げておられる私たちの主御自身の言葉を持っています。そして私たちは、カトリック信仰はすべての学問とは独立した二つの事柄によって知られることができる民に対する一つの光であるということを私たちに告げる第一ヴァチカン公会議の決定を持っています。

私は学問をこきおろしているのではありません。そして学問は確かに私たちを助けます。しかし、学問とは独立に、最も教育を受けていない人でさえ、最も教育を受けた人とまったく同じように、カトリック教会は真の教会であるということ、カトリック信仰は二つの事柄によって真の信仰であるということを知ることができます。これは第一ヴァチカン公会議によって決定されています。私たちはこれらの真理を公的な奇跡と実現された公的な預言によって知ることができます。あなたたちはそれらを二つともファチマのメッセージのうちに見出すでしょう。ですから、真の奇跡と真の預言がカトリック信仰を信じる義務を課すとするならば、それらはまた神がお送りになった預言者たちを信じる義務をも課すのです。

私たちの時代はより重大な危険のうちにある

ですから、その義務は重大であり、非常に重要です。私たちは、シスター・ルシアが1957年12月26日のフエンテス神父との話の中で、知られた真理に抵抗することは聖霊に対する罪であると指摘したということを忘れてはなりません。

彼女はまた同じときに’人間的な仕方で語るならば’、私たちの主は、教会と人類の注意と従順を得る他のすべての手段を使い尽くされたことをご覧になって、”ある種のおののき”をもって、この最後の手段 - それは彼の御母ですが - を用いておられる、と言いました。私たちの主は最後にもう一度私たちの注意と私たちの従順を得ようと試みておられるのです。しかし、彼は御母に来るように頼むことを「恐れて」おられます。というのは、もし私たちが彼女に注意を払うことを拒絶するならば、もし私たちが彼女にしかるべき尊敬と、彼女がそれに値する栄誉を払うことを拒否するならば、そのとき、主は最初に彼女を送られなかった場合よりももっと厳しく私たちを罰しなければならないからです。

事実は、主がその御母をファチマに六回送られたということです。それは五回の初土曜日、ロシアの奉献を求めるトゥイとポンテヴェドラでの御要求と一緒になっています。そしてもし私たちが聖母のこれらの仲裁を拒絶したならば、私たちの主であり、祝せられた三位一体の第二のペルソナ、御子なる神、彼がそうであるその御母のよき息子である神はその御母の栄誉を要求なさるでしょう。主の言葉と奇跡を私たちが拒絶することは、聖母にしかるべき栄誉を払うことの拒否と共に、私たちがファチマのメッセージを一度も受けなかった場合よりも、私たちをもっと罪深い者とするでしょう。

それは一つの恵みであることが意図されています。それは私たちにとって憐れみの一つの手段であることが意図されています。しかし、もし私たちが拒絶するならば、そしてもし私たちが、私たちは信じ、従う義務を持っていないと言う人々を信じるならば、そのとき私たちは、私たちにとってのまさに恵みの手段、私たちのためのまさに憐れみの手段を私たちの罰のためのもっと大きな理由へと変えるのです。

自明的な諸々の理由は私たちがファチマに従わなければならないことを示している

ファチマの聖母に従うべき教会の義務を論証している聖書から取られた上述の理由から離れて、私は今自然的理性の光に基づいた自明的であるはずの諸々の理由を述べたいと思います。

あなたの隣の扉の隣人があなたのところに来て、あなたの家が火事である、消防を呼びなさい、そしてあなたの子どもたちを救い出しなさいと言った、そしてあなたが次のように言ったとしたら、それは非常に思慮分別に欠けたことでしょう。「よろしい、私は私の家が火事であるという公式宣言、教皇からの決定を持っていない。ある人が私に、あなたは信用できないと言いました。私はあなたに聴かないことにします。私は外に出て、見、この人物が正しいかどうかを調べるつもりはありません。私は見るつもりはありません。結局、どこかのある新聞で、あなたは信用できないと私に言われたことがあったからです。」

私はここで子ども、家あるいは彼らが価値あるものと考えている何かあるものを持っている人は誰でも、もしあなたが泥棒あるいは火事があった、あるいは彼らを危険に陥れる何かあることがあったと告げられたら、少なくとも言われていることが何であったかを検証する用心をするだろう、と考えます。少なくともそれだけはするでしょう。私たちは皆アダムとエヴァの子どもたちです。そして私たちは、彼が真理を告げていないということを信じるための妥当な諸根拠がないかぎり、私たちの仲間の人間を少なくとも信じる義務を持っています。

私たちが7万人の目撃者を信じなければならない理由

嘘を言う人々がいます。しかし、神は私たちの心の中に、人間本性の中へ人々が嘘を言うときでさえ、彼らはともかくも彼らが真理を告げているのではないということを示すということを定められました。彼らはその声を変え、神経質になります。彼らはあらゆる種類のことをします。人々は非常に熟練した嘘つきを除いて、彼らがある仕方で嘘をついているという事実を示すことなしに嘘をつくことはできません。人々が嘘つきであるときでさえ、真理を語るという強い衝動はこれらの人々でさえいつも嘘をつくことができないほどのものです。それは不可能です。道徳的に不可能です。

それが、多くの目撃者の声の中から、あなたが真理の知識に達することができる理由です。それが、私たちが、一つの奇跡が起こったということを私たちに告げている7万人の目撃者を持っているとき、子どもたちを笑いものにし、ファチマに行ったすべての巡礼者たちを笑いものにしている一人の無神論者が翌日彼の新聞の第一面に、彼はこの奇跡を見たということを印刷せざるを得なかったとき、彼が言っていることを無視することは、控え目に言って、愚かであろう理由です。

これらの人々のすべて、彼らのうちの7万人が私たちに嘘をついたと言うことは賢明に反する一つの罪でありましょう。非常に単純な人々がそこにはいました。そしてそこには非常に学識のある人々がいました。そこには非常にカトリック的な人々がいました。そしてそこには非常に反カトリック的な人々がいました。彼らはすべて同じことを証言しました。自分たち自身を反対の者にしなければならないことによっておおっぴらに困惑させられたであろう人々でさえ、この奇跡が起こったという真理に対して証言しました。それがカファルナウムとベトサイダの人々が、たとえ彼らのうちの全部が私たちの主が働かれたしるしを見なかったとしても、信じないことのために罪とされた理由です。しかし、全市がそれが起こったということを知るに十分な目撃者がそこにはいたのです。

私たちが医者あるいは他の誰かのところに行く場合、彼があなたに何かあることを告げ、あなたが彼の証言に反対する、あるいはそれを疑問視する何らの理由も持たないときには、この人間を信じる、ということを私たちは知っています。そしてファチマのしるし、そして私たちの主のしるしがたとえ反対を受けるとしても、私たちはこれが真理であるということを知るに十分な証拠を持っています。知られた真理に抵抗することは聖霊に反する一つの罪です。もし私たちが真理の知識へのこの抵抗を続け、固執するならば、そのときその罪の赦しは存在しません。そして最終的な固執はもちろん私たちの死に到るまでの固執です。

重大な義務

それは一つの非常に重大な義務です。それは良心において拘束します。そして彼がファチマのメッセージは教会に一つの義務を課していると言われたとき、軽々しくその陳述をされたのではありません。それは聖書に基づいています。それは理性にも基づいています。それは、起こったということを私たちが知っており、神から来たものと確証されたことを私たちが知っている奇跡と預言に基づいています。

神がそのようなメッセージをお送りになるとき、もし私たちが神を無視することができるならば、そのとき私たちは預言を軽んじているのです。私たちは聖霊の火を消しているのです。私たちは聖霊に抵抗しているのです。私たちは聖霊に対して罪を犯しているのです。そしてもしこのことを続けるならば、そして私が私たちと言うとき、 - 私はここにいる私たちのうちの誰一人その態度を持っていないと思いますが - しかし、支払うべき値があるということ、そしてそれは地獄の火であるということを記録にとどめておくことは重要です。

聖霊に対して罪を犯すことはそれを犯す人を地獄に送ることによって終わります。それは一つの非常に重大な義務です。それは軽い義務ではありません。それは単に私にだけ課されているのではありません。それは単にあなたにだけ課されているのではありません。この義務は全教会に課されています。ファチマに従う義務は教会における私たちの場に従って異なった仕方で果たされます。しかしわたしたちのすべてが、彼女のメッセージが私たちの具体的な状況に適用されるように、ファチマの聖母に従わなければなりません。

この話の中で要点を述べた立場は8年間問題にされていない

私はスペイン語、ポルトガル語、フランス語そして英語に翻訳された私の書物の中で信じそして従うこの義務について書きました。私はそれについて私の書物の約75ページを費やしました。

私はその書物を世界中のすべての司教とブラジルのすべての司祭に送りました。私はそれを読むと約束するどの神学者にもそれを喜んで送ります。彼らのうちの誰かがその中に一つの実質的な誤りでも見つけてくれますように。それは今8年以上にわたって出版されてきました。そして今までにファチマの聖母を信じ、それに従う私たちの義務について私が言ったことに反対する一つの意味ある議論はありませんでした。

私がこれまでに聞いた唯一の議論は、あなたは私的啓示を信じなくてもよい、ということです。しかし、グレーバー司教はファチマは私的啓示ではないと指摘されました。それは一つの公的な預言的啓示です。そしてファチマを信じなくてもよいということについてあなたたちが聞くすべての議論はファチマは単に一つの私的な啓示であるという誤った主張に基づいています。

ファチマは一つの私的啓示ではありません。7万人の人々は私的である何かあるものを構成していません。3ヶ月も前に告知された一つの奇跡に対する7万人の目撃者は教会のための一つの公的な奇跡です。それは一つの公的な預言的メッセージであり、そしてそれは教会に対して一つの義務を課します。そしてわたしたちは皆聖母の主張を促進し、彼女に従うために私たちができることを、まず私たち自身がする義務、そして次ぎに他の人々にファチマの聖母とそのメッセージを知り、評価し、愛し、従うようにさせるために私たちができることをする義務があります。

私たちの主は「それを私の僕たちに知らせなさい」と言っておられます。今話しておられるのは聖母ではありません。「それが知られるようにしなさい」と言われているのは私たちの主御自身です。それはまた私たちがファチマのメッセージを通じて持っている義務です。

1998/06/13 三上 茂訳

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作成日:1998/06/13

最終更新日:1998/06/18

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