ファチマの聖母マリア

われわれの時代のための預言的な夢

The Fatima Crusader, Isuue 56: Winter 1998より

ジョルジュ・ド・ジェジュ神父

「邪悪が極点に達した:罪が終りに来た。そして花の月の2つの満月が過ぎる前に平和の虹が地球の上に現れるであろう。」

...聖ヨハネ・ボスコの預言

聖ヨハネ・ボスコは単に彼の個人的聖性のためばかりでなく、また天的な夢と預言のためにも知られている。そのような預言についての彼の著作は数冊の書物を満たしている。われわれはここに一人の学者、そしてこのことを多年にわたって研究した人、ジョルジュ・ド・ジェジュ神父によって説明された、彼の預言のうちのほんのいくつかのものを提供する。

彼の預言は特にこれからの2年にわたるわれわれの時代に関係すると思われるので、われわれはあなたがそれらについて注意し、それに応じてあなた自身で判断なさるとよいと思った。これらの預言のより十分な説明のためには悲劇と勝利の最後の章を読んでください。これはわれわれのブック・サービスで5$で入手可能である。

この論考におけるイタリック体太字は聖ヨハネ・ボスコ自身の言葉である。通常の印刷は注釈者の言葉である。

ファチマの聖母が人類に次のことを約束なさったということは確かである:「終りに」--これはある困難な闘いの後に--「私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇はロシアを私に奉献するでしょう。ロシアは回心し、平和のある時期が人類に与えられるでしょう。」

まさにいつ、そしてどのように教皇が最後に「マリアの汚れなき御心にロシアを奉献する」か、そしてそのことによって「平和のある時期」をもたらすかをわれわれは知らない。--しかしわれわれは未来を見ることを助けてくれる、われわれの時代のために聖ヨハネ・ボスコの預言を持っている。

われわれはこの研究からこれから先数年間の暗い時代においてわれわれがおそらく必要とするであろう大きな希望が溢れ出るのを感じる。この結末は暗闇のトンネルの終りに光を見ることをわれわれに可能にしてくれる。この恐るべき悲劇の最終章はまさにわれわれの上に落ちようとしている。この解釈によれば、それはA. D. 2000年の前に起こるであろう!

ドン・ボスコの夢においては、彼の旗は彼の驚くべき再出現のための神的な理由を現し、新しいアッティラの輝かしい生涯を告知する:主の抗い難い御手は彼の道具として彼を支配する...私はそれはわれわれの予想に一致するとさえ言うであろう。それはわれわれの地勢戦略的な予想について非常に明白な定式である。彼は、夢の残りが予告するように、われわれのために神秘的な計画を達成するために北から笛で合図をした侵入者である。

先へ進もう。そしてたとえわれわれの力量に及ばないととしても、われわれの解釈を誰かに押しつけようと要求することなく、理解するように努力しよう...しかしわれわれの偉大な神の御心そしてキリスト者の助けである聖母の御心の計画へと謙遜に入るために、われわれの神学的な信仰、希望、愛を倍加することによって先へ進もう。

「その瞬間にラティウムから尊敬すべき老人が燃える松明を振り回しながら彼に会うために来る。それから旗が揚がり、そしてそうであった黒色からそれは雪のように白くなるであろう。旗の中央には金の文字ですべてのことをすることができる御者の名が書かれている。」

これはキリスト教の聖なる歴史において古典的であり、そして驚嘆すべきものの両方である。この北からの偉大な戦士はその黒い旗が彼の軍隊の通り道においてその軍隊によって広まった死の荒廃を告知する一人の侵入者である。それは信仰のないヨーロッパの情け容赦のないそして抵抗できない侵略である!しかしながら、一つの神的な霊感によって、汚れなきマリアからの一つのメッセージによって突然捕らえられて、[誰が、マリアの軍隊のわれわれ、と言うことができるか? ]教皇が、大聖グレゴリウスのように、トロイエスの聖ルー(Saint Loup of Troyes)のように、立ち、そしてこの他のアッティラに会うために出て来る。彼はその手にファチマのメッセージを持っている。確かに、彼自身その瞬間の苦悶において、そして南から登ってくる地獄の敵の火箸とそれに出会うために前進してくる赤軍との間で捕らえられて、最終的にロシアを奉献する--特に自らを第三のローマと誇らしげに呼ぶその首都を、そしてその無敵の指導者をマリアの汚れなき御心に奉献する--...

この燃える松明は戦士と彼の首領たちの精神を照らす。戦争を行う命令は平和の提案へと変わる。「彼らの都市の防衛者」である威厳のある教皇によって敬虔に遇されることに喜んだアッティラのように、キリストの代理者によって彼らに約束された勝利の告知でキリストに回心したコンスタンティヌスやクローヴィスのように、ミハイル・ゴルバチョフはカロル・ウォイティラ、ヨハネ・パウロ2世の招きで回心するであろうか? 戦闘のために巻き上げられた、そして黒い旗、荒廃のしるし、そしてそれが突然広げられ、そして雪のように白くなって神の汚れなき御母の旗となった。そして金の文字で書かれた名前は、反対されずに全地球を支配しなければならないイエズスの聖心の名前である。なぜなら、「神にあっては何事も不可能ではない」からである。

「戦士と彼の男たちは老人の前に心から頭を下げ、そして彼と握手する。」

彼らが心から頭を下げるということ、そしてさらなる時、第三の時? 握手をするはこの外交的そして軍事的な人間対人間の協定がまだ、ローマの教会への十分なそして喜びに満ちた従属における唯一の真のカトリック信仰へのロシアの回心の完全な奇跡の同意ではないということを示している。しかしながら、それのための時は近い。そしてその実現は今や、われわれがドン・ボスコから間もなく学ばなければならないように、教会の純化と復活にかかっている。

「今や天からの声が牧者たちの牧者に向けて発せられる:『あなたはあなたの査定者たちとの大きな会議のうちにいる。しかし善人の敵はしばらくの間は休まない。彼はあなたに対するあらゆるからくりを研究し、それを配置している。彼は私の息子たちの間から敵を集めるであろう。この世の諸権力は火を吐き出し、私の法を守る者たちの言葉をもみ消すであろう。』」

私の粗末な意見では、天からのこの声は主御自身の声ではなく、また天使の声でもなくて、聖人たちの教えに従う人の声である。

実際この声は何を言っているのか? 教皇を取り巻いている、そして彼の権威の下で教会を支配している者たちによって知られていないものは何ごとも[言っていない]。この悪しき世のすべての風に開かれている民主的議会の形における公会議や集会を開催する代わりに、教皇は彼自身の家の中に、そして彼の最も近い協力者たちの間に、外部の迫害者たちとの同意のうちに密かに隠れている彼の敵に対して神の言葉の剣を打ち振るべきである。そしてこれらの敵とは誰か? 近代主義者たち、そして進歩主義者たち以外の誰であろう。彼らは蛇のように彼の秘密の公会議の中に入り込んだ。敵はそのオカルト的な力が今日すべてを支配しているフリーメーソンである。フリーメーソンは世俗主義と自由の悪魔的な理性をもって教会を窒息させている。近代主義者や進歩主義者たちはあらゆる教会のサークルや集会の中に毒麦と背教を蒔いている。

イタリアにおいては、敵意のあるイスラム勢力によって占領され、そしてイタリアを侵攻するロシア赤軍の脅威の下で、キリストへの忠誠なしには、そしてマリアへの呼びかけなしには、西側の多頭の悪しき吸血者となることからフリーメーソンを絞め殺し、止めることができる者は誰もいない。「19??年」という年、われわれが今やその中にいる数年、のこの苦しみを与える問題に対して1870年からの答がここにある:

「それは存在しないであろう。彼らは悪を働くであろう。しかし彼らはそれを彼ら自身に反して行うであろう。」

イエズスの言葉の中に[次の言葉がある]:「分かれ争う国は滅び」るであろう。(マテオ 12:25)

ドン・ボスコの預言からのこの一語においてフリーメーソンについての私の恐れとあなたの恐れとは溶け合わなければならない。反対に、われわれは王たるキリストの祝日に対してすべてのこの上ないそして容赦のない大きさの呪いをもってそれに侮蔑を注ぐ。

"Gens et regnum quod non servierit tibi, peribit: et gentes solitudine vastabuntur!"

それは次のように訳される:「あなたに仕えない民あるいは王国は滅びるであろう。それらの民はまったく衰えるであろう。」フリーメーソンに回心するようにとの警告である!そして彼らの廃止が近いのであるから、もはや彼らを恐れてはならないという教皇への警告である:

「急げ、急げ」、なぜなら時はその終わりに向かって動いているからだ!それは神によって送られたある人によって教皇に対して言われている。そしてそれは決定的な忠告の力を持っている。しかしこのメッセージの残りの部分はわれわれが聖ヨハネ・ボスコのうちに、彼の教皇ピオ9世のうちに見るように、あるいは聖ピオ10世のうちに見るように、見るものに相応しい実践的意味のものである。そしてそれは彼の訴えで全地球のいたるところで再び栄えるであろう不変の古い宗教である。

「あなたの諸々の困難は残るけれども、それらは解決されるであろう。たとえあなたが困難のうちにあっても、誤謬のヒュドラの頭が壊されるまで、止まらずに進みなさい。この打撃は地と地獄を震わせるであろう...」

この打撃で、すべての疑い、自由主義、躊躇、妥協そして臆病は終りとなるであろう。教皇は統治するであろう。地と地獄にとってそれは恐るべき時間となるであろう...

「しかし世界は再び安心させられるであろう。そして善人は喜ぶであろう。」

ああ!やって来るのは何と悲劇的な時であろう、何とすばらしい時であろう、何と説得力のある時であろう!すべての者は「ラティウムの老人」の生命を気遣うであろう--老人はフリアエ[ギリシャ神話の復讐の3女神]が彼を追跡しているので、追放され、一つの国から他の国へと追いつめられている。にもかかわらず、彼は恐れるべきものを何も持たない!

「あなたの側にただ二人の補佐役だけを置きなさい。しかしあなたがどこに行こうと[あなたの奉献の日に!]あなたに委ねられた仕事を続け完成しなさい。日々はすばやく過ぎ去る。あなたの年々はあらかじめ定められた時間へ向かって進む...」

これは何と劇的な未来の幻視であろうか!しかし何と解放的でまた何と意気揚々としていることか!そしてわれわれは、そのような寛大さをもってファチマの3人の子どもたちがそうであったように、どのように教皇のために祈るように招かれていることであろう。そしてそれは背教と迫害のこれらの時代のこの教皇のためであった。それはヨハネ・パウロ2世ではなかっただろうか? 私はそう想像し、そしてそうであることを希望している!死の敷居にいて「戻って来た」一人の老人としてのカロル・ウォイティラはイエズスの命令(ルカ22,32)に従い、そして「彼の兄弟たちを強める」ことに専念し、ローマから遠く離れて彷徨い、貧しい身なりで逃げそして隠れている。そこではつい最近彼は勝利のうちに受け取られるが、しかし今は彼の教会を英雄的に、また忠実に支配している...この神託の残りの部分は彼の兄弟たちを強める回心した教皇の十分な力をもたらす。このすばらしい約束はロザリオの聖母によってファチマのルチアに同じ言葉でなされた:

「...偉大な女王は常にあなたの助けであろう。そして過去の時においてそうであったように、未来においても彼女は常に"MAGNUM ET SINGULARE IN ECCLESIA PRAESIDIUM"、教会におけるあなたの偉大なそして唯一の保護である。」

至高の教皇がこのように、不可謬的に教会をその救いに導く、彼にとって奇跡的である、この慈悲深い一般的な助けを約束されている時に、なぜわれわれ、信仰のない人間たちは震えるべきであろうか!しかも、彼だけが遂行することができる仕事の達成のため:信仰の不可謬的な決定、異端者たちの破門、反キリストの途方もない誤謬の反駁できない断罪という仕事である。それらはまさに彼自身の仕事である。そしてそれを通じて健全な道徳が回復され、聖性が教会へ戻ってくる教会の規律と秘蹟の規律の再確立である。そのとき、教皇は全世界の回心へと導く福音化を取り上げることができる。キリスト者の助け手であるマリアを通して。

イタリアそして特にローマは悪しきカトリックであるために懲罰を受ける

イタリアに関する予言は明らかにフランスおよびパリに対する予言に似ている。しかしながら、それらは互いに取り替えができるものではない。フランスのための運命はその憲法上の世俗主義、神の侮辱、そして共和制的、フリーメーソン的な権力と制度を通じての宗教に対するその組織的な抑圧のためにもっと悪いものである。イタリアは不注意を通じて迷い出た伝統的なよい秩序へと厳しく連れ戻される。イタリアは端的に悪しきカトリックである。神託はここでは開かれた書物のように明白である。

祝福の地、イタリアよ、おまえに関して言えば、誰がおまえを荒廃へと投げ込んだのか? それはおまえの敵ではなく、おまえの友人たちだ。」

これは神託の鍵になる文言である...そして私はあなたが探求しなくてもよいようにすぐに言う:イタリアの友人たちはまったく単純に、この古いそしてそのようにすばらしいカトリックの国の内部を食い尽くす破壊的な潰瘍、キリスト教民主主義者たちである...神託はその傷を検査している:

「私はあなたの息子たちが信仰のパンを求めたが、しかしそれを彼らに与える者を誰も見出さないということを聴かなかったか? 私は何をしようか? 私はモーセの椅子に坐っている者たちがよい牧草地を探し、そして従順な群が聴き、そして養われるように 牧者たちを打ち、群を散らすであろう。」

そのようなものが、かつてはそのようにみごとに彼らの職務に献身していたが、しかし今はキリスト教民主党の政治との彼らの悪名高いそして否定すべくもない結びつきによって贅沢で堕落したイタリアの聖職者である...この雰囲気の中で、司教たち、司祭たちそしてただ外見でだけ聖職者である無数の寄生者たちが選挙の陰謀、議会の汚職そして金の魅力によって呑み込まれれることを自らに許している...あたかも牧者がいないかのように、霊魂たちが放棄される点にまで至っている。子どもたちはパンを求めている。そして誰一人彼らにパンを割き、配ろうと心配する者はいない。このように過去の時の祝福は呪いに変わるであろう。そしてその呪いは、もしこの民が心を動かされず、回心できないままにとどまるならば、恐るべき懲罰へと変わるであろう。

「しかし私の手は群と牧者たちを打つであろう。飢饉、疫病そして戦争が、敵の土地で死んだ彼らの息子たちや彼らの夫たちの血の上に母親たちの涙を注がせるであろう。」

この展望はイエズス・キリストの前と後に、数世紀にわたって繰り返されてきて、使い古されている。しかしわれわれは、1917年7月13日にファチマの聖母によってそれが思い起こされたということを見出す。そして今世紀の終りのために砂漠の監禁地帯における無数の死がその後に続くあるアフリカ大地におけるエイズと軍事的敗北は、悪いよりはむしろ不注意なこれらの人々を、彼らの永遠の救いは言うまでもなく、彼らの活力、幸福そして偉大さの神的源泉へと再び連れ戻すためには十分現実的なもの、そして十分に残酷なものではないであろう!

しかし今、かつて異教的であったがキリスト教に変わり、キリストの代理者がその座を持っている永遠の都ローマ、イタリアの世俗的共和国の首都に変わったローマ、そして今その古代の異教主義の恐怖、退廃の恐怖へと戻る途上にあるローマに関する神託にとってはどうか。ローマのためにはいかなる懲罰があるのか?

「そしておまえ、ローマよ、おまえはどうなるだろうか? 恩知らずのローマ、柔弱なローマ、傲慢なローマ、おまえは、その真の栄光とおまえの栄光がゴルゴタにあるということを忘れて、おまえの至高者[教皇]のうちに贅沢以外の何物をも賞讃しない地点にまで達した。」

「今や、おまえの至高者は年老い、よぼよぼになり、武装せず、そして裸足である。にもかかわらず、彼の言葉だけによって、彼は世界を震わせることができる。

神の、御自分の民、御自分の都、御自分の司祭たち、そして御自分の選ばれた者、群の牧者に対するこのみごとな御判断について注釈することが必要であるか? あらゆる起源の、そしてあらゆる[皮膚の]色の巡礼者たち、旅行者たち、そして外国人たちはローマにおいて、カトリックの制度がまだ生きていること、それが今なおこの都の不可欠の心臓の鼓動であることを見出して驚く。それにもかかわらず、新しいスキャンダルは、一種の嘲りと不信が、すべての人々から認められたこのカトリシズムをその本質的なもの--神託がゴルゴタ!と名づけているもの--から切り離しているということである。「イエズス・キリスト、そして十字架にかけられたイエズス・キリスト」(1コリ 2,2)そしてローマにおけるディレッタンティズムと軽薄さのこの愛好は神が罰せずに放っておかれない罪である...

聖ヨハネ・ボスコの預言は、1870年の夢においてと同様に、ここにおいて教皇と出会う--しかし、その教皇は年老い、哀れな教皇である...与えられている記述はメディアのイメージではない。安易な名声と大衆の熱狂の時代は過ぎ去った。そのような人間的弱さとは対照的に、彼の言葉の強さは世を地獄の深みにまで落として震えさせる。しかしこれは退廃と背教のまさに瞬間においてである。あるいはこれはむしろ彼が実行しなければならない一つの能力として希望的に表現されている--もし懲罰の前でなければ...ああ、その後か...

「ローマよ、私はおまえのところへ4度来るであろう!1度目、私は土地とその住民たちを打つであろう。2度目、私はあなたの壁に敗北と絶滅をもたらすであろう。それでも、おまえは目を開けないのか? 私は3度目には防衛と防衛者たちを打ちのめすために来るであろう。そして御父の命令で恐怖、悲惨そして荒廃が始まるであろう。」

そしてそのようにこの悲しみ--エルサレムを嘆き悲しむエレミアによって、あるいは再びエルサレムを嘆き悲しまれたイエズス御自身によって霊感を受け得たであろう悲しみ--が展開する。そして今回はメシアであるイエズスにおいても認められなかった、その決定的なそして全体的な破滅を予告している。3度の打撃の後に、ローマは人々がただそこから逃げることだけを考える地獄となるであろうか? 人々は痛悔し、ローマの第一の保護者、そして第一の愛である祝せられたおとめに憐れみを懇願するであろうか? ぜんぜんそうではない!なぜなら、夢は容赦なく、その曲折を展開するからであり、結果は神の正義の結果ではなくて、ローマの頑固さの結果だからである。

「しかしわがよき子らよ、逃げなさい、私の法が踏みつける。だから私はあなたたちを4度目に訪れたのだ。もし私の法があなたたちにとって今なお一つの無益な言葉であるならば、あなたたちはわざわいである!」

50年の間権力の座にあったキリスト教民主党と40年の間公会議の教会が両者とも自由の方を選んできたとき、それはどのようにして「無益な言葉」以外の何かであり得ただろうか? そうだ、すべての神の警告に悪魔の言葉で:Non serviam![私はあなたに仕えない!]、「いいえ、私は決して私の自由を放棄したくない」と答えながら、神の律法と神の礼拝の代わりにそしてその場所に自由と人権を置いたのだ。ローマの人々が断罪され、彼らの教会によって道をはずれて導かれているのはそのような愚かな言葉をもってなのだ。それから...

「無知な者の間でと同じように、学のある者の間でも二枚舌が生じるであろう。あなたの血とあなたの息子たちの血はそれでもってあなたがあなたの神の律法を汚す汚物を洗い流すであろう。」

われわれはカトリックにとどまっている一つのカトリック国にいる。しかし二枚舌の状態においてである。意識的で故意の、そしてそれゆえに致命的である大罪ではないような、そこで犯されたいかなる落ち度あるいは罪もない。罪を犯した者たちは死んで地獄に堕ちなければならないか、それとも盲目の愚かさや邪悪な者の憎しみによって打たれた罪のない者が彼らの兄弟たちのために償うために犠牲において彼らの生命を捧げなければならないかのいずれかである...

「戦争、疫病そして飢餓は人間の高慢と悪意がそれで打たれる鞭である。今、豊かな者よ、あなたの輝き、あなたの別荘そしてあなたの宮殿はどこにあるか? それらは地域や通りのゴミ箱となった。」

ローマの住民たちの耳の恐ろしい、1870年に書かれた、これらの燃えるような、復讐をする神の聖性の神託はある図書館の奥まった所に忘れられたまま放置されていた!

「しかし、あなたたち、司祭たちよ、あなたたちはなぜこれらの懲罰が差し控えられるように嘆願して玄関ホールと祭壇の間で嘆き悲しまないのか? [ヨエル 2:17を思い起こさせる]、「あなたはなぜ信仰の盾をとり、屋根の上に登らないのか?」[マテオ 10:27を思い起こさせる]、「なぜあなたは家に入り、私の言葉の種子を持って通りに沿ってまだ近づくことのできない場所へ行かないのか? あなたは私の言葉が私の敵を打ち破り、人間に対する神の怒りをなだめ」、最終的にイエズス・キリストの真理において彼らをキリスト御自身と和解させる「恐るべき両刃の剣であることを知らないのか?」

このことは、神がイタリアとローマに与え続けられ、しかし神を侮辱している彼らの世俗主義に凝り固まっているフランスとパリには与えられない「祝福」を示している。さらに、今や年を経たという以上のフランスの背教は、フランスが自らによって、あるいはフランスのひからびたそしてすでに死んでいる教会を通じては回心することができないようにした。

イタリアにおいては、ローマにおいては、教会は、怠慢ではあるけれども、それでもなお一つの活動的な力である。教会はそのような怒りで...そしてそのようなおとなしさで教会に宛てられたこの言葉を聴くであろうか? しかしながら、その神託が、フランスに関する神託がそうであるように、完成にまでもたらされるのはこの暗い展望においてである。この全般的な暗さにおいて救いは、これらの神託において示されているように、フランスとイタリアの両者に、ただ神からのみ来るであろう。両国において、その救いはそのように大きな暗闇の後の柔らかい光である!

「これらの出来事は次々に容赦なく起こるであろう。事柄は次々に余りにもゆっくりと続く。しかし威厳のある天の元后はそこにおられる。主の力が彼女の手にある。彼女はその敵を雲のように散らされる。」

これらの言葉はそのように威厳があり、美しくそして崇高なので、私にとってそれらはその神的霊感の十分な証拠である。それらは祝せられたおとめの強力な取り次ぎと救いをもたらす援助について告げている。おとめマリアは前世紀にそのように何度も御出現になり、そして今世紀には、世界の始まり以来並ぶもののない輝きと偉大さをもってファチマに御出現になった。マリアの完全なそして最終的な勝利がここで予告されている--それは神の御計画においてすでに決定されている、そしてそれゆえに人間どもの悪意あるいはルチフェルの策略よりも強力である一つの勝利である。

天の元后はその敵を散らされた。雲のように。彼らはその御子の敵であり、そして教会の敵である。1917年10月13日、ファチマでは重い雲と70,000人の巡礼者たちを骨の髄までびしょぬれにした美しい氷雨が止み、そして晴れた。一方太陽の暖かさと偉大な青空はそれらの人々と彼らの衣服を瞬時に乾かした。ドン・ボスコの「すべての人が信じるようにと」働かれたファチマの壮観との間には驚くべき類似性がある。

このように、救いの新しい時代が幕を開くであろう。雲のように、イスラム、ボルシェヴィズム、フリーメーソン、そしてエイズのセクトの恐ろしい力は天の元后の御出現で熔け、崩壊し、絶滅させられるであろう。

このことを聴けば人は感激する。そのように、それは古い宗教、そのすべての華麗さ、その聖なる諸々の儀式、三重冠、聖職者用マントそして司教杖を含むその古代の衣装、三重のペトロの統治の明白なしるしを伴って回復されるであろうすべての時代の宗教である。このことを聴けばただあるのは喜びの涙のみ。

世界中いたるところの平和

「最後に激しい嵐が来るであろう。」それから先、われわれは、歴史が神意による劇的な出来事によって、告知された栄光に満ちた公然の非難へ向かって進むという事実を受け入れる。もしこれが祝せられたおとめを攻撃するための悪魔による最後の試みであるならば、彼の最終的な失脚は近い。

「邪悪が極点に達した:罪が終りに来た。そして花の月の2つの満月が過ぎる前に平和の虹が地球の上に現れるであろう。」

そのような天文学的な同時発生は、一つの絶対的に固定された暦に一致してただまれにしか起こらない。同じ月における二つの満月は3年ごとに起こる出来事であるが、しかし花の月として預言によって告知されたある特定の月にそれが起こることは、もちろん遙かに稀である。ところで、要求されていることに相応する出来事はただ1999年3月にのみ起こり、それ以前には起こらない、1990年代の唯一のそして最後の月であると思われる...

注目すべきもう一つの事柄は、この預言とファチマでの1917年10月13日の最初の御出現と共にそれを描いた絵:聖家族の幻視の同時発生である。「聖母が天空の広大さの中へ消えて行かれたとき、幻視者たちの最年長であったルチアは、太陽の隣に私たちは御子イエズスを抱いた聖ヨゼフとブルーのマントと白い色の衣服を着た聖母を見ましたと話している。聖ヨゼフと御子イエズスは十字架の形で世界を祝福なさっているように見えた。」

「私はロザリオの聖母です。人々が常にロザリオを毎日唱え続けるように。戦争は終わるでしょう。そして兵士たちは間もなく帰宅するでしょう」と祝せられたおとめはその日言われた。しかし、7月13日には聖母はこう告知なさった。「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう[...]そして平和の一時期が世界に与えられるでしょう。」

このように、一つの啓示と他の啓示との間ですべてのことが一致している。キリスト者の助けであるマリアによってその御子から得られた祝福はこの御子によってその小さなバスケットの中に注意深く置かれたバラとして並べられる。それはわれわれに、聖テレジアが彼女の死後降らせることになったバラ、そして事実、彼女が「バラのシャワーのように」降らせることを決して止めないものを思い起こさせる。ここで御子[イエズス]はバラを優美に摘み、そしてそれを、まだ脅かすような黒雲で重苦しい空だったヴァルドッコの上に、トリノの上に、そして全教会の上に落とされるように求めながら、おだやかな顔で聖ヨゼフに手渡された。あなたはそれが落ちてくるのを見る!

天使たちによって捧げられている巻物は"Ite Ad Joseph"ヨゼフのところへ行きなさい、という言葉が書かれている。彼は普遍的教会の保護者、そしてすべての事柄において、イエズスとマリアによって配られる恵みにおける忠実な協力者ではないか?

1999年3月19日のこのバラのシャワーで新しい地平が出現する。虹が地上における平和を告知する。

「偉大な代理者は祭礼の衣装をまとったその王の花嫁を見るであろう。」

われわれの注釈の論理によって導かれて、われわれはこの「偉大な代理者」のうちにわれわれの偉大な聖ヨゼフをどのようにして見ないことができるだろうか? そして1999年3月19日のこの日のために、あらゆるものが栄光の冠へと築き上げるように、祭礼の衣装をまとった、教会である花嫁をその以前の衣服をまとったローマ教皇であるものとして見なさい。われわれは敵のヒュドラに対するキリストとその御母の至高の地上的勝利に達したのではないか? すべては栄光である。栄光によって外観を変えられた物質的宇宙それ自体。それはファチマにおける諸々の奇跡の最も異常なものによって予想されたすべての人間の目の前にヴェールを剥がれた黙示録である:

「全世界の上にここからは時の終わりまで決して見ることができないであろうような、セナクル[食堂]の炎のように明るい太陽が現れるであろう。」

2004/03/14 三上 茂 試訳

作成日:2004/03/14

最終更新日:2004/03/14

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